「知能指数の高い人ほど夜更かしをしている」という統計の結果をインターネット上に見たのは、数ヶ月前のことだ。その、嘘かまことか確かめようのない記事に従えば、僕の知能指数は、そうは高くない可能性が高い。
「今って、5時台から明るいんですね」とfacebookにコメントを上げた友人がいたので驚いて「5時台どころか3時台から明るいですよ」と返信をしたことがあった。その友人は夜更かしの朝寝坊を常としているから、知能指数は高い可能性が高い。
きのうは20時台に就寝して、今朝は3時台に起床した。仏壇に花とお茶と水と線香を供えてのち、本棚の端に置いた防湿庫から"NIKON D610"を取り出す。そしてすぐそばの窓を開け、北東の空へ向けてシャッターを切る。その画像をコンピュータに取り込みプロパティを確かめると、撮影時刻は03:57と記録されていた。
飲酒活動を完了して「ユタの店」を出ながら何気なく目を遣った北西の空には、いまだそう深くもない暮色があって、山々をくっきりと切り取っている。今年の夏至は6月の何日になるのだろう。
下今市19:53発の上り特急スペーシアの席に収まり、今朝の新聞を開くも、間もなく睡魔に襲われ、気がつくと北千住が近くなっていた。その北千住で半覚半睡といえば大げさだけれど、とにかくボンヤリした頭のまま日比谷線に乗り換える。そして22時すぎに恵比寿に着く。
ふと思い至って本棚の、写真についてのものばかり集めているところから阿部ヨシ見の写真集「極光」を引き出す。阿部ヨシ見さんは日光市春日町にあるミヤギ写真の先々代。ヨシ見の「ヨシ」は「賢」に似た字ではあるけれど、僕の持つ文字変換ソフトには存在しない。
とにかくその「極光」を食堂のテーブルに広げ、ページを繰るうち「昭和9年 夏 鬼怒川」と題された風景を見つける。それは鬼怒川の下流から上流を撮したもので、正面にくろがね橋、左に一心舘、右に水明館が見える。
水明館は僕の祖母方のひいおじいちゃんが経営をしていた。ひいおじいちゃんの子どもは女ばかり3人で、そのうちの誰も跡は継がなかった。そして代替わりを繰り返して現在は姿かたちも無い。
一方、一心舘はマリコさんという立派な後継者を得て今も続いている。更には1980年代のバブル期より現在の方がよほど盛っている印象を受ける。
ところで僕のiPhoneのメモを見ると、そのマリコさんにあることを教えるよう示唆した覚え書きが、今年3月31日の日付と共に残っている。何やら意味不明のメモではあるけれど、こんどマリコさんに会ったら忘れず伝えようと思う。
「牛の生レヴァを客に提供することが3年前に禁止されて以降、豚の生レヴァを代替とする店が現れ、規制が検討されていた。そしてこのたび、食品衛生法の基準が改定され、豚の生食は6月中旬から完全に禁止される」
それを報じるテレビのニュースを撮った画像が"RICOH CX6"の内蔵メモリに残っていた。数日前のものだ。
「レヴァは嫌い」という人に生レヴァを食べさせると「これなら食べられる」と、世のレヴァ好きがひとり増える、そういうことを僕は何度も経験をしている。レヴァが嫌いという人の多くは、その内側まで熱を通しきったレヴァの、あのポクポクした食感、そして噛めばペースト状になって舌や歯茎にまとわりつく、あの感じが嫌なのだ。新鮮な生レヴァはサクサクと歯切れ良く血の臭いもなく、しごく美味い。
そういう僕も2009年のいまだ寒いころ、精肉業に携わる人と親しく会話を交わして以降は肉の生食を止めた。
ところで、どうしても生レヴァが食べたいという人のために生レヴァ版の"Speak Easy"ができたら面白いと思う。ゴッホの「馬鈴薯を食べる人々」のような雰囲気で生レヴァを食べるのだ。僕は行かないけれど。
"RICOH CX6"がマクロでしか合焦しなくなっていることに気づいたのは今月17日のことだ。このカメラは多く、家や出先で料理を撮ることに使われる。つまりマクロでしか合焦しなくても、それほど痛痒を感じることは無い。しかし「だからこのまま修理をしなくても良い」ということにはならない。
このカメラを買ったのは昨年の7月1日だから、保証期間は充分に残っている。とはいえ今回、修理に出して実機が戻って、その後またどこかが壊れる可能性もある。おっとり構えている場合ではない。よって検索エンジンに「リコー カメラ 修理 ヤマト」と入れ、リコーの「ピックアップリペアサービス(修理のお申し込み)」のページにアクセスをする。
故障した"RICOH CX6"は明日、ヤマトが専用の箱を持って受け取りに来る。それに先立ちこのカメラの、今年2月9日に新宿へ持ち込みレンズの合焦不良を修理したときの記録、また3月25日に浮間舟渡へ持ち込み、やはりレンズの動作不良を修理したときの記録を複写する。
そして「リコーのデジタルカメラはGRDの初期型から使っているけれど、とにかく故障が多い。保証期間内の修理は無償とはいえ、サービスセンターに実機を持ち込む際の交通費や、今回の送料は客の負担である。そろそろどうにか完璧に治して欲しい」旨の手紙を添え、ヤマトの集荷に備える。
きのうはオフクロが甘木庵に遺したものの処分につき片づけ屋に見積もりをさせた他、南青山まで出向き、ちょっとした作業をし、来た道を戻り、更にはあちらこちらへと、なかなか忙しかった。
勉強仲間のヤナギダヤンヤン氏に長男を加え、夕刻より湯島で情報の交換を行うことに先立ち僕は、牛乳500ccと「ウコンの力 SUPER」を、不忍池畔にて胃の腑に納めた。空は晴れ、気温は高く、しかして湿度は低い、とても気持ちの良い午後である。
「シンスケ」から流れた"EST!"で、長男は東武日光線の下り最終に乗るため途中退席をした。そしてその小一時間後にヤンヤン氏を湯島の駅に送ると時刻は21時37分。天神下の交差点は若い人であふれていた。
「赤瀬川源平が生きていれば『消える歩道』などと区分されて超芸術トマソンに加えられていただろうか」というようなことを考えつつ今朝は、文京区青少年プラザの裏に延びている不思議な歩道を辿り、切り通し坂を下って帰宅の途に就く。
19時15分に外へ出て、春日町の交差点から国道121号線の坂を自転車で下る。大谷川に架かるからすなわち大谷橋を、その南詰めから北詰へ向けて渡っていく。左手の日光連山は、いまだ闇に閉ざされてはいない。
日本酒に特化した飲み会「本酒会」の会員のひとりに如来寺のクワカドシューコーさんがいる。「四十九日が過ぎるまでは、故人が心配をするからその私物には手を付けるな」という、きのうの日記に書いたことを話すと、クワカドさんは軽く笑った。そのようなことについては、本職ほど気にしないのだ、多分。
そして21時すぎに帰宅して即、風呂桶に湯を溜め始める。
「四十九日が過ぎるまでは、故人が心配をするからその私物には手を付けるな」という教えだか風説があるらしい。昨年10月、僕はそれに逆らい、オフクロが亡くなって10日の後に、甘木庵にあるオフクロの衣類を、70リットルのゴミ袋で10個ほど捨てた。
ゴミ袋で10個といえば大層な量に思われるけれど、それはオフクロの、6畳ほどの部屋のタンスに隙間なく詰め込まれた衣類のほんの一部に過ぎない。そして僕は、そのほんの一部の不要品を処理しただけで腰を痛めた。それはすなわち、その仕事が素人の手に余ることを意味している。
それから7ヶ月を経て本日ようやく、プロの片づけ屋が甘木庵に来る。「この部屋の中身すべて」とか「このタンス丸ごと」などと捨てたいものを指定すると「2トントラックのロングボディ1台に軽トラック1台、人員4名、所要時間4時間」という見積もりを、驚くほど折り目正しいオニーチャンは出してくれた。
「タンス買う、その決断が命取り」とは鈴木信弘による「片づけの解剖図鑑」にある言葉だ。オフクロはタンスが好きだった。買う以外に「勿体ない」と粗大ゴミ置き場から拾ってくることもあった。タンスを手に入れれば次はその中を満たすことに熱中する。その結果がトラック2台分のあれこれである。
「あんた、捨てるなんてバチ当たりだよ、これだけのものを買うのに一体全体、どれだけのお金がかかってると思うんだい」と、生きていればオフクロは言っただろう。「使いもしない、部屋を狭くするだけのものに無駄金を遣ったのはどこの誰だい」と、僕としては訊いてみたい。片づけ屋への支払いは、僕の懐から出て行くのだ。
オフクロの遺品は、いわゆる3LDKの甘木庵に限ってもトラック2台分である。日光の自宅においては、一体全体どれほどの量になるだろう。その中には、四半世紀ほど前に百貨店から届いたまま、いまだ荷を解いていない桐のタンスも含まれるのだ。頭の痛いことである。
夜は鳥の鳴き声と共に明ける。あるいは夜は、鳥の啼く声に一歩おくれて明ける。それから数十分ほども経ってようやく日が昇る。"NIKKOR AF-S 24-85mm f/3.5-4.5G ED VR"の最短部分つまり24ミリで撮る風景は、コンパクトカメラによるそれとは次元の異なるものだ。
午前より家内と歌舞伎座におもむく。そうして「團菊祭五月大歌舞伎」の昼の部「摂州合邦辻」(合邦庵室の場)および「天一坊大岡政談」(序幕紀州平野村お三住居の場)から(大詰め大岡役宅奥殿の場)までを観る。
ある人の「忠臣蔵」についての論考を読んで驚倒した作家がいる。「自分などはただ面白く観ているだけの芝居について、これだけの評論が書けるとは」というのが、その驚きの内容である。
僕にも批評、評論の才は皆無にて、芝居については「面白かったです」、食べ物については「美味しかったです」くらいのことしか言えない。それを曲げて今日の芝居についてただひとつを記すとすれば「大岡邸奥の間の場」における菊五郎と松緑の見栄は、ある意味においてすごい。大笑い、あるいは大喝采である。
家内とは尾張町の交差点で別れた。三愛の丸いビルを見上げて「それにしてもリコーのサービスセンター、浮間舟渡からここに戻ってくれくれねぇかな」と考える。そこから有楽町のガードをくぐってビックカメラへ行く。"DOMKE F-3X"の型番が"70030"になっていて大いに戸惑う。写真の本職が使う"F-3X"はひどく格好良いけれど、自分には大きすぎることを確認して地下2階から昇りのエスカレーターに乗る。
旧電通通りを南西に下って「イワキメガネ」で"LINDBERG"の耳当てを交換してもらう。今度は北東に上がって中央通りを渡り、ライオン裏のニコンプラザに寄る。
西五番街の8丁目を歩いて行くと家内の姿が見えて、共に夕食を摂る。その夕食を済ませて後も、空はいまだ明るさを残している。
甘木庵の最寄り駅は本郷三丁目だけれど、新橋から乗った銀座線を銀座で乗り換えることはせず、上野広小路でひとり下車する。湯島の盛り場を脇目もふらず突き抜ける。甘木庵に戻ってシャワーを浴び、和室の布団に腹ばいになりつつiPhoneに目を遣ると時刻は19時57分だった。そのままの姿勢で本を読み、30分後に就寝する。
総鎮守・瀧尾神社の宮司、責任役員、そして当番町の役員が社有林の視察をすることを「山見」という。山見は日光の和泉と小来川にある山を一年おきに登る。昨年は和泉だったから今年は小来川の番だ。
5月の乾いた空気に肌をさらしながら新緑の山に分け入り、せせらぎの音や鳥の声に触れることのできる「山見」は、神社との関わり合いの中でも、僕の最も好むところのものだ。
09:02 バスにて瀧尾神社を出発
09:23 小来川の「大橋材木店」着
09:29 笹目倉山の林道入り口を通過
09:35 雪により倒れた木の枝を払いつつ道を詰める。
09:40 「ここから先は、もうよろしいでしょうか」と、先頭の宮司が歩を緩める。
09:45 今年の最終到達地点にて記念撮影
10:10 バスに戻る。
10:26 大芦川を左手にして北へ進む。
10:37 古峯神社を参拝
名園佳庭は数かず見てきたけれど、僕は古峯神社の庭が最も好きだ。あるいはそれは、爽やかな季節にのみここを訪れているからかも知れない。池畔にしゃがみこみ、鯉に餌をやるのも面白い。そして門前の「巴屋」にて11時20分より直会が開始される。
その直会は12時30分すぎにはお開きになった。そこから瀧尾神社までは44分の行程だった。そして帰社して1時間後に仕事に復帰する。
夏の山の澄み方は、冬のそれとはまた違う。冬の山は冷たく澄んでいる。それに対して夏の山は温かく乾きながら、しかも涼しく澄んでいる。「温かく乾きながら、しかも涼しく」とはいかにも曖昧な説明である。空気の感じを伝えることは難しい。
きのう新しい一眼レフのことを"facebook"に載せたところ「24-85ミリのズームレンズが不要になったので譲る」とメッセージをくださった方がいる。「そうですか、だったらください」と軽々に言えるようなことではない。即、遠慮する旨の返信を送った。しかし実は欲しい。なぜ欲しいか。
中学高校のころニコンF、同フォトミック、後にニコマートFT一辺倒になったけれど、それらに付けていたのはいわゆる「ヨンサンハチロク」と呼ばれた43-86ミリのズームレンズだった。遠くのものを長いレンズで狙うことをしない僕には、ズームならこのあたりがもっとも使い勝手が良いのだ。
もし今ニコンのズームレンズを手に入れようとすれば、僕は間違いなく"NIKKOR AF-S 24-85mm f/3.5-4.5G ED VR"を選ぶ。その、正にそのものズバリが、ニコンの一眼レフを使い始めた翌日に、こともあろうにタダで手に入ろうとしているのだ。
「本当に欲しかったのはもっと長いズームだったけれど、予算の都合で諦め24-85ミリにした。その後24-120ミリのズームを手に入れ、すると24-85ミリは防湿庫に眠ることになった。自分にこのレンズは不要なのだ」と先方は重ねてメッセージを寄こし、更には「これから持って行っても良い」とまで、今度は電話をかけてきてくれた。まさかそのようなことはしていただけない。
「これから即、伺います」と返事をして、先ずはワイン蔵へ向かう。レンズの値段に見合うものではまったくないけれど、2本だけ残っていたシャンペンを棚から抜き出し、緩衝材に手早く包む。そして日光街道にホンダフィットを乗り出す。
店の閉まった後は、きのうとおなじことだ。食堂のテーブルをアルコールで拭き、石鹸と流水で手を洗い、帽子をかぶり、マスクをする。そしてきのう届いたばかりの"NIKKOR AF-S 50mm F1.8/G"を外し、戴いたばかりの"NIKKOR AF-S 24-85mm f/3.5-4.5G ED VR"を取り付ける。
「デジタル一眼は現代のfoolproofだ」などとうそぶいていたけれど、実際は存外に手強い。できるだけ早く、良い教室を見つけたい。
今月16日に注文したカメラおよびその周辺機器は次々と配達をされたけれど、レンズのみ「メーカー欠品中にて出荷は2週間後」との報告が販売店よりあった。
「問い合わせた日から2週間なら到着は6月はじめ、ということは、らっきょうの収穫には間に合わないかも知れない」と考えていたところ、意外やきのう出荷の案内がメールで舞い込み、そして現物は本日、僕が所用で宇都宮へ行っているあいだに届いていた。
夕刻そのレンズを自宅に運ぶ。食堂のテーブルにアルコールを噴霧し、ティッシュペーパーで拭く。石鹸と流水で手を洗い、帽子をかぶり、マスクをする。そして先ずは"NIKON D610"のボディに"NIKKOR AF-S 50mm F1.8/G"を付ける。そのレンズにプロテクトフィルター"NIKON NC 58mm"をねじ込む。
そこまでを無事に済ませると、僕はマスクをしたまま深く息をついた。開高健の短編「ロマネコンティ・一九三五年」に登場する「重役」の「大したご精進ですな」ということばをなぜか思い出す。
夕刻に組み上げた一眼レフで、晩飯のお膳を撮してみる。酢の物の胡瓜のごく一部にのみピントが合って、他はすべてボケている。食後の羊羹とウイスキーも撮ってみる。ウイスキーのグラスのごく一部にのみピントが合って、他はすべてボケている。
「50ミリの単焦点なら当たり前じゃんか」と言われれば返す言葉も無いけれど「美味しい一眼レフ教室」というようなものがあれば、ぜひ参加をしたい。
むかし仕事を頼んで、その後は長く音信が不通になり、しかし新しい需要が発生したからコンピュータの住所録に検索をかけ、連絡をすると、先方は当方のことをよく覚えていて「是非また、お願いします」と言われると、とても嬉しい。
その嬉しさとは3つの嬉しさの集まったものだ。すなわち、電話番号やメールアドレスとなどの糸が途切れていなかったこと、先方が当方を記憶してくれていたこと、注文以上の仕事をふたたび得ることができること、である。
高根沢町にある宮内庁御料牧場ちかくの畑で、近々らっきょうの収穫をする。その収穫は農家の人のみによるものでなく、上澤梅太郎商店からも4人が出向いて労働力を提供する。収穫したらっきょうの一部はその日のうちに当方の研究開発室に持ち込み、試験的な漬け込みを行う。
その一部始終を動画に納め、後の役に立てようというのが、今回、僕の思いついたことだ。
「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょう"rubis d'or"」についての動画を7年前に撮ってくれた人の携帯電話番号は、今も変わっていなかった。先方は当日の朝7時には畑に行って、段取りを始めるという。相変わらずの仕事ぶりで、とても嬉しい。
きのう今日と、ミョウガタケを味噌汁の具にしている。ミョウガタケは茗荷の新芽であるにも拘わらず、漢字にすると「茗荷茸」と、キノコでもないのに「茸」の着くところが不思議である。
昨年の日光近辺では茗荷が不作だった。おととし以前は大玉のものの育った場所においても、昨年は粒が太らなかった。初夏のミョウガタケの出来を以て初秋の茗荷の作柄を予測することができるか否かについては知らない。
昼前より秋葉原に出る。大勢で行われる研修に参加をするにもかかわらず、名刺は会社に置き忘れてきた。僕は気質としてはブルーカラーに近く、また営業めいたことはほとんどしないため、名刺を持ち歩く習慣が無いのだ。
当方が名刺を持ち合わせず、しかし先方からは名刺をもらう。すると場合によっては後日こちらの名刺を郵送するなどして非常な手間がかかる。そういうことをいくら経験しても名刺を持たない癖が治らない。困ったものである。
北千住21:13発の下り最終スペーシアに乗り、22時41分に下今市に着くと、夜の雨が上がったばかりらしく、工事中の駅前広場はしっとりと湿っていた。そうして埃で靴を汚すことなく23時前に帰宅する。
自分では義経の八艘飛びのような忙しさと感じているけれど、世間に照らしてみれば、決してそのようなことはない。
首都圏に住む友人知人でこの日記を読んでいる人に会うと「田舎は大変だな、神社の役員とか町内の役員とか」と言われるけれど、それほどのことはない。
第一自分は「〇〇会議所」とか「◎◎クラブ」とか「口口協会」とか「△△組合」のような組織には参加をしていないか、または名ばかりの会員で顔は出さない。総会の案内には返信用のハガキの「欠席」を丸で囲んで委任状に判を押すのみである。
いわゆる「集まり」についての好みは、自分の中では明確に二分をされている。勧められるまま会員になってから自分に合わないことが分かり、退会して以降は「OB会の報せも不要」と事務局に伝えるほど避けたい集団もあれば、いそいそと出かけて行く会もある。
僕はものごとを深く考えない性格ではあるけれど、いちどそのあたりについて黙考したことがある。そして気づいたのは「高邁な理念を掲げた団体は、自分にはそぐわない」ということだ。そもそも僕という人間が高邁ではないのだから、それは自明のことだったのだ。
それとは逆に、いそいそと出かけて行く方の集まりが今週の後半にはふたつある。「この集団には高邁な理念なんて爪の先ほども無いから好きなんですよ」とは僕も大人だから無論、そこで発言をすることはしない。
おととい土曜日の早朝、"NIKON D610"のボディに最も安い値を付けていたのは台東区竜泉の「ウインク」という会社だった。「買い物カゴに入れる」ボタンをクリックすると当該の商品は「価格.com」から消えたから、在庫は1台限りだったのだろう。商品は翌日曜日に配達された。
"D610"の箱には本体や付属品と共に様々な書類が入っていた。本日、そのうちのひとつに記されていたユーザー登録のページを長男が開くとフォームが表れ、そこには所有しているすべてのニコン製品の製造番号を3日以内に入れるよう指示があったという。
そうは言われてもレンズはいまだ届いていない。よって、やはり「価格.com」で最も安値を付けていた、こちらは杉並区永福の"EC-JOY!"に問い合わせたところ「メーカー欠品中にて配達まで2週間」との返事が80分後に戻った。つまりこちらは在庫を持たない会社だったのだ。
そういうことなら仕方が無い、ユーザー登録は新たなページから後日、行うことになるだろう。
それはさておき一眼レフともなれば、置き場所にも気を遣わなくてはいけない。実は一昨年の秋に行った自宅のリフォームでは、30年ほど使い続けた防湿庫の置き場所を本棚の隅に確保した。しかし2階の倉庫に置いたその防湿庫を4階に運ぶことをつい面倒がり、折角の場所にはこの1年半のあいだずっと、段ボール箱だの使いもしない紙の束などが重ねられていた。
今夜は飲酒活動から帰宅したところでなぜか、自分の無精さを深く反省した。そして先ずは、何が入っているやも知れない段ボール箱や紙の束を本棚の端から撤去した。それから2階の倉庫へ降り、古いカメラの収まった防湿庫を台車に載せ、それをエレベータで4階まで上げて、本棚の前まで運んだ。
防湿庫の外側および防湿庫のための場所はいずれも、アルコールを噴霧したティッシュペーパーで入念に拭った。そして遂に、1年半も前から用意されていた場所に、防湿庫は計算どおり収まった。酔った勢いによる行いにも、たまにはまともなことが含まれる、それを知った今夜の大整理だった。
"NIKKOR AF-S 50mm F1.8/G"の到着を、今は待つばかりである。
きのうの天気ははっきりせず、気温も低かった。今日は一転して晴れ上がり、生前オフクロが店の駐車場に植えたバラも大きく開いた。
そのバラの写真を撮りながら、普段使いの"RICOH CX6"がマクロでしか合焦しなくなっていることに気づく。東照宮の四百年式年大祭を伝える下野新聞の見開きをきのう撮ったときから「どうもおかしい」と感じていたれど、どうやらまた故障らしい。
この"CX6"は昨年の7月1日に買った。以降の修理履歴は以下の通りである。
2014.1024 無限遠のピントが甘いため工場での調査を依頼 RIS新宿
2014.0209 マクロ以外で合焦せず RIS新宿
2015.0325 レンズ動作不良 東京SS舟渡
今回の不具合が本当のものならば、4度目の修理になる。保証期間内の修理費用は無料でも、新宿や浮間舟渡までの交通費は自分持ちである。集荷と配達をヤマト運輸が担うサービスを使っても、これまた運賃は自分持ちである。
リコーが銀座のサービスセンターを撤退させたことは、僕には本当に痛い。新宿や、まして浮間舟渡へ行くなどは、僕の日常においては皆無なのだ。
本日分の商品を納めるため、製造係のタカハシアキヒコ君を伴い、9時20分に道の駅「日光ニコニコ本陣」へ行く。「らっきょうのたまり漬」を冷蔵ショーケースに並べるタカハシ君を、持参した"RICOH CX6"で撮ってみる。ボケボケである。
今年の3月にニコンの一眼レフを買う気になった。それが4月の末には「やっぱり、オレの買うべきはソニーの"RX1"しかねぇじゃんか」と思うに至った。ところが今月8日には銀座のニコンサロンを訪ね、自分の用途を相談員に伝えた上で、どのレンズが最適かの示唆を得た。
ニコンとソニーのあいだで行ったり来たりしたのは気の迷いによるものではない、純粋に論理的理由によるものだけれど、長くなるので詳述は避ける。
今朝は3時台のなかごろに目を覚まし、すぐに起床した。そして5時台よりコンピュータに向かい、以下のカメラと周辺機器を購入した。
NIKON D610(ボディ) 137,999円 ウィングデジタル
NIKKOR AF-S 50mm F1.8/G 21,380円 ECジョイ
プロテクトフィルター 1,810円 ヨドバシカメラ
SANDISK EXTREME PRO SDHCカード 16GB(2枚) 6,222円 amazon
OP/TECH 2点吊りネオプレーンストラップ 3,122円 amazon
これらの買い物のうち、プロテクトフィルターが午後の中ごろに郵便局員により届けられ、それは予期していなかったことだから大いに驚いた。
amazonの「当日配達」が当日に届いたためしは、こと僕に限っては皆無だ。しかしヨドバシカメラと郵便局の連携は、それをやすやすとやってのけた。もっとも僕は「当日配達」は望まない。流通に関わる人が気の毒である。また僕にとって「当日配達」は無駄な速さである。
D610とレンズが揃ったら、はじめは手術用のゴム手袋でもしてそれらを扱うつもりだ。乾燥しきった僕の指から皮膚の一部がボディの中にこぼれ落ちでもしたら、それこそ一大事である。
今月7日に高根沢町の宮内庁御料牧場ちかくで試験的に収穫したらっきょうは、その半分を翌日のテレビ取材のために長男が浅漬けにし、また残りの半分はやはり取材に供するため、そのままの姿で取り置いた。
その、緑の長い葉と白い髭根を付けたままの泥付きのらっきょうを、僕は10日の朝に下処理した。下処理は丁寧にしたけれど、以降はいわゆる「僕流」である。間髪を入れず4階の食堂に運んだらっきょうは、先ずは目分量の塩、そしてやはり目分量の酢によって手早く浅漬けにした。
仕事で味噌や醤油や漬物に関わるときには、その作業はもちろん精密に行う。しかし家では「男の料理」などとうそぶいて、すべて大ざっぱにこなしているのだ。
そのらっきょうの浅漬けを今朝、冷蔵庫から取り出し味見をしてみると、これがとても美味い。美味いけれども大ざっぱに作ったものだから、次も同じ物を作れと言われれば、それはできない。
その浅漬けのうち5粒を、製造部長のフクダナオちゃんに試食してもらうため小さな器に移す。残りの30数粒は自分用として大切に食べていこう。
御料牧場ちかくの畑で6月はじめに収穫する早採りのらっきょうは、同月の下旬には夏限定の「夏太郎」として販売を始める予定である。
日記は、書けるときには一度に3日分でも書ける。しかしあれこれの都合にて間の開くこともある。おとといの日記が書けていないと少しく焦燥する。そしてここから更に遅れることを避けようとして、身近なところに「覚え」を残そうとしたりする。
ところでこの、日記を書くための「覚え」の種類については「そりゃぁ、その日に撮った画像ですよ」と言う人がいる。僕は画像ではなく「覚え書き」つまりメモに頼る。メモも文章のうちであれば、そのまま日記に貼りつけ流用できる点で楽である。
そんな僕が5月16日の朝にこの日記を書こうとして当日の画像を見ると、晩飯の盆にCDのケースが添えられていた。画像に頼らない僕にしては珍しく、よっておとといの日記はこの1枚の画像から紡ぎ出すと書けば綺麗に過ぎる、有り体に言えばでっち上げることとした。
そのCDとは映画「リストランテの夜」の劇中曲で、いま検索エンジンで調べてみると、日本での公開は1997年4月12日となっている。僕はこれを恵比寿のガーデンシネマで観てから権之助坂下の「仁平」で鮨を食べた。いまだ日の高かったことを思えば、あれは昼飯だったのだろう。カウンターには偶然、顔見知りのアキモトさんと顔見知りでないふたりのオバサンがいた。
CDに戻れば1曲目の"Stornelli Amorosi"はイタリア半島とアフリカ大陸の近さを思わせて興味深い。そしてジャケットのイザベラ・ロッセリーニは母親のイングリット・バーグマンよりも、僕の目からすればよほど魅力的である。
夜の飲み会が「餃子の王将」、翌日の昼食が「餃子の王将」の餃子弁当、その夜の飲み会がやはり「餃子の王将」、そういう「王将、王将、また王将」という人がいて、その人のことを僕は、これはあくまでも比喩ではあるけれど、斜め後ろから眺めていた。
ところで僕のおとといの昼飯は「小諸そば」のたぬき蕎麦とライス、そしてきのうの朝飯も「小諸そば」のたぬき蕎麦とライスだった。
湯島から千代田線で北千住に達し、07:42発の下り特急スペーシアの特急券を買う。隣のプラットフォームには「小諸そば」がある。しかし今朝も「小諸そば」のたぬき蕎麦とライスでは「王将、王将、また王将」の人ど同類になってしまう。
そういう次第にて駅を出て西口の「富士そば」へ行く。そして蕎麦ではなくカレーライスの、きのう大いに飲み食いした身にはちと辛く感じる大盛りを本日の朝飯とする。
おととい出がけに大捜索をして見つからなかった"LINDBERG"のメガネは、きのうザックの底から出てきた。そのメガネをかけ、あれやこれやしながら関東平野を北上していく。
日光が近づくにつれ、窓外の緑が眩しさを増す。田には黒々と水が満ち、それらのすべてが青空を映している。そしてiPhoneのアプリケーションは、明日の東京が真夏日になることを伝えている。
1990年代のことと記憶するけれど、自由学園の大先輩にある日、niftermによるパソコン通信の方法をお教えして1万円をいただいたことがある。その先輩には後日、今度はMyToolというデータベースソフトの簡単な使い方をご指導して、やはり1万円をいただいた。
各々の1万円はいずれも、その日の夕刻に銀座で使った。僕にはいわゆる「コミュ障」の気味があるから横に女の侍る店は好まない。銀座とはいえ1万円もあれば近藤書店で文庫本を買い、バーでカクテル数杯を飲み、その後に焼鳥屋へ回っても充分にお釣りが来るのだ。
立場が変わって僕が人から何かを教わるときには、授業料を払う代わりに座敷を用意する。「座敷」とはいえ待合に芸者を呼ぶわけではない。銀座に席を予約するのだ。
2001年2月22日、サイパン行きを前にして僕は、GRICを使ったパソコン通信について、年長の友人クスヤマシゲカズさんにあれこれ教えていただいた。当時サイパンからの、電話回線を介しての海外アクセスはとても難しく、「モーバイルダイバー」として世界各地から情報を発信していた林ケイジュも、サイパンからの通信だけは成功していなかったように思う。
当時は東京の東の方にあったクスヤマさんの自宅であれこれ知識を授けていただいた日の午後、クスヤマさんと僕は銀座に出て鰻屋「ひょうたん」で燗酒を飲み、二次会はバー"GOOD TIMES"に回った。2月とはいえそれほど寒くない晩で、僕は大いにくつろいだ。
2週間後、僕はサイパンにいて、ホテルの開け放った窓から晴れたフィリピン海を眺めつつ、Beckey!によるメールの送受信、NifTermによるPATIOの巡回、ウェブ日記の更新、ウェブショップの受注作業をこなすことができた。すべてクスヤマさんのお陰である。
クスヤマさんとはその後、虫の音のかまびすしい季節にやはり銀座でご一緒し、別の機会にはローストビーフの「ST.SAWAIオリオンズ」で大量のご馳走にあずかったこともある。
そして今夜は何を教えた、何を教わったということもないのだけれど、そのクスヤマさんや若い方々にご足労をいただき、またまた銀座で一夕を過ごす。
「晴れていさえすれば」という条件付きながら、このところ朝が日を追うごとに気持ち良くなっている。「夏は夜がよろしい」と書いた人が1,000年ほど前にいたけれど、僕にとって夏は24時間、いつでもよろしい季節である。
昼すぎ駅へ向かおうとして会社の敷地を離れ、目の前の国道を渡りきったところで「メガネは持っただろうか」と、ふと気になった。その場でザックを開け中の小物入れを開け、メガネの入っていないことを確認する。即、会社に戻り更には自宅に戻ってメガネを探すも、メガネはどこにも見あたらない。
ふたつあるメガネの、気に入らないからほとんど使わない方を仕方なく持ち、ふたたび自転車で日光街道に出る。途中で買おうとしていたおむすびを買う時間は既に無く、お茶のみ下今市駅のプラットフォームで求めた。
先ずは渋谷の少し先まで行き、そこから南青山に移動する。そこでニシジュンイチロー先生、続いてモリモトシゲオさんの話を聴く。その勉強会が完了して後は、僕としては珍しいことながら、会の参加者による交流会までお付き合いをする。
荷物の大きく重くなることを僕は嫌うから、このところはよほどのことでもない限りカメラは持たない。そうして交流会の様子をiPhoneで撮ったら、これがひどくアレてブレてボケていた。それを見ながら「誰もが中平卓馬になれるわけじゃねぇわな」と、当たり前のことを考える。
脳と筋肉と内臓を普段より少し余計に使って疲れたのかも知れない。夏でも暗いうちに目を覚ます僕が、今朝はiPhoneに設定した目覚ましが鳴るまで眠っていた。そして即、着替えて製造現場へ降り、早朝の仕事に臨む。
今月7日に高根沢の御料牧場ちかくで採ってきたらっきょうは、半分はその日のうちに長男が浅漬けにし、残りの半分は9日のテレビ取材のために取り置いた。その、緑の長い葉と白い髭根を付けたままの泥付きのらっきょうを外の水場へ持ち出し、開店までの時間に下処理をする。取材が終わったからといって捨てるのは忍びない。綺麗になったそれは今夜の酒の肴にでもしようと思う。
新緑、萬緑の季節を迎え、鶏鳴山を含む景色が良い塩梅になってきた。青い空を背にした夏の山が好きだ。その様子をあらわす、おなじ漢字がふたつ続く言葉は何かないか。あればその言葉を頭に浮かべながら、僕は夏の山を愛でたいのだ。
その夏の山には常夏の国の山も含まれる。タイとビルマとラオスの国境が交わるあたりの山は特に好きだ。その姿は「アジアパー伝」で西原理恵子の描くそれに驚くほど似ている。
北千住08:12発の下り特急スペーシアに乗り、1時間28分後に下今市に着く。そして小倉町東部から東郷町へと抜ける二宮神社前の道を上がっていくと、道の駅「日光ニコニコ本陣」の業者用駐車場にウチのホンダフィットが駐まっていた。よって通用口の入店表に自分の名を書き、施設内へと入っていく。
今日の納品係はマキシマトモカズ君とカワタユリエさんだった。そして彼らと共に売り場を整え、彼らの乗ってきたホンダフィットに同乗して帰社する。
「鉄道・絶景の旅3時間スペシャル奥の細道絶景列車紀行」(BS朝日 6月11日 19:00~21:55放送)のための取材の依頼があったのは、数週間前のことと記憶する。おとといになって、撮影隊の到着は13時と知らされた。そして本日正午前には「思いのほか移動が上手くいって、15分後には着く」との電話がディレクターから入った。
準備はできているから慌てることはない。ゲストは俳優の渡辺徹さんだった。取材は訓練の行き届いた集団により、混乱もなく、ごく短時間で完了した。彼らは撮影を続けつつ今日は福島県を北上して宮城県まで行くという。きっと良い番組になるだろう。
そして夜は早々に寝る。
先月の晦日に「オレの買うべきはソニーの"RX1"しかねぇじゃんか」と書いた、その舌の根も、否、書きはしたけれど音声として口から発したわけではないから「舌の根も乾かないうちに」はおかしい、とにかく夕刻から銀座に出て7丁目のニコンサロンを訪ねる。
こういうところには得てして、自社の商品につき話したくて話したくて仕方のない偏執狂がいる。何かに関わってメシを食べている人はすべらかく偏執狂であるべきと考えている僕は本日、そういう"professional"に自分のカメラの使い道を述べ、それに適したレンズを教えてもらうべくここの扉を押したのだ。
そして15分か20分のあいだに「あー、ここに来て良かった」と何度もつぶやきつつ、その係員にいとまを告げる。
いわゆる「爆買い」の中国人旅行客をかき分けるようにして8丁目までの短い距離を歩く。そして鮨を肴に少なくない量の日本酒を飲み、更にはやはり日本酒による食後酒にて仕上げをする。
デジタルカメラの中に残っていた画像によれば、僕はねぐらまでタクシーを使ったらしい。そのタクシーにどこから乗ったかの記憶は無い。
黄金週間が過ぎれば気温はいきなり、夏のそれに近づいていく。日光には田植えを終えた田んぼが目立ってきた。葉物の顔ぶれもどんどん変わる。根菜類は土に隠れて見えないけれど、地上の葉の具合から大体の見当はつく。
高根沢町の、宮内庁御用牧場ちかくに広がるらっきょうの畑に午後から出かける。空き地にホンダフィットを駐め、それまでの革靴をゴム長靴に替える。そして森を背負った、水はけのいかにも良さそうな畑に入って行く。
試しに引き抜いたらっきょうの、茎の太さ、分結の数、根の育ち具合を子細に観察する。らっきょうの収穫は初夏とされているけれど、この畑の収穫は、今年は7月の上旬になるだろう。
もっともそれにひと月ほど先だって、いかにも若いものも一部は収穫する。それは手早く処理調製されて、季節限定の浅漬け「夏太郎」になるのだ。
夜は食事を早々に済ませて、街のカフェに有志が集まり制約理論について学ぶ「TOCバル」に参加をする。
早朝の仕事のあるときにはiPhoneに目覚ましを設定する。それをきのうはし忘れた。いずれ設定した時間より早くに目覚めてしまうのだから、特に問題は無い。天文に詳しい人には「〇度ずれてる」などと言われるかも知れないけれど、僕の感じからすると、今朝の太陽は東70度のあたりから昇ってきた。
日光の地野菜を朝のうちに「日光味噌のたまり」で浅漬けにする「たまり浅漬け」は、いちいち記録しているわけではないけれど、毎年、来足の繁くなるゴールデンウィークの直前に始め、紅葉見物の人波が落ち着くまで続けているような気がする。そして今年は先月29日つまり昭和天皇の誕生日から始めた。
この「たまり浅漬け」には、夏には胡瓜を、そして晩秋には大根を用いることを常としている。胡瓜や大根の、農協の直売所に盛んに出る時期の品選びはいわゆる"default"で済むけれど、それらの端境期には何かと苦労が多い。
先月29日から今日までの「たまり浅漬け」は、サツマ菜により調製されている。これらの葉物がいつ胡瓜に変わるかについては「お天気と相談」ということになるだろう。
夜明け前の国道121号線が黒く濡れている。水銀灯の光の及ぶ範囲に目を凝らすと、しかし雨の糸を引いて落ちる様子は見えない。まばらに走りすぎるクルマのワイパーは、おしなべて動いていない。雨は夜中から降り始め、明け方の近づくころに上がったらしい。今年の連休は本当に、天気に恵まれている。
ウチは繁忙期に臨んでも商品を作り置きすることはしない。お客様にはできる限り新鮮な品物を提供できるよう、過去の実績から直近の天気予報まで、いろいろなことを調べつつ考えつつ生産計画を立てている。
きのうはその計画により作られた商品が予想を上回る売れ行きにより、特に「らっきょうのたまり漬」は品切れの直前まで行ってしまった。その、きのうの状況を引き継いだ今朝は「残り7袋」のところに本日の包装分がようよう製造現場から届いてひと息をつく。
列島の気温が上がっている。3日連続の夏日というところもあるらしい。日光では湿度は低く風もあるから、半袖のシャツで日陰に入るとすこし寒い。
夜は洋食の「コスモス」に駆けつけ、気付け薬のようにしてドライマーティニを飲む。
「あれこれが上手くいかないことを外的要因のせいにするな」とは脳力開発という学問でよく言われることだ。冷夏のビヤホール、暖冬のスキー場などがその代表である。とはいえ運が良ければ、それはそれで有り難い。
ことしのゴールデンウィークは晴天に助けられている。天気予報によれば連休中の雨は火曜日のみとされていた。しかしその雨は予報より早く来て早く去りそうな今日の雲行きである。
外的要因ではないけれど、きのうの朝、店内の手洗い場を掃除しながら僕は水を溢れさせた。その水はすぐ脇にある漏水センサーを作動させて自動給茶器が緊急停止した。復旧方法は以前は知っていたけれど今は忘れている。そういう次第にて故障センターに電話をした。電話をしても係がすぐに来るわけではない。
そうしたところ店内での味噌汁の提供を長男が思いつき、すぐ実行してくれたので大いに助かった。今日は今日で「鬼おろしにんにく」を牛肉に和えて焼く試食販売を家内がしてくれている。たまり漬のにんにくと鉄板の上で混じり合い、赤身を残しつつ見る間に焼けていく牛肉には僕も手を伸ばしたいところだけれど、当然のことながら我慢をする。
連休は6日まで続く。そして7日も8日も9日も、僕には予定があって忙しい。有り難いことだと思う。
夏のダイレクトメールの封筒詰めが完了間近と、きのう事務係のマスブチサヤカさんから聞いた。それを受けて今朝は開店1時間後の9時に自宅に戻り、その送り先を顧客名簿から選ぶ作業に従う。
この仕事は途中でつまづくと最初に戻ってし直さなければならない性質のものだ。よって人と頻繁に接することの強いられる事務室にいてはできない。自宅に戻る際には、よほどのことでもない限り電話も繋がないようにと、事務係には伝えた。
手順を細密に追う必要のあるこの仕事については以前、マクロを組んで自動化したこともあった。しかしそれでは抜けや齟齬がどうしても生じる。よってそのオートメーションは試用をしたのみで、実際に使うことはなかった。
昨年秋の記録を見ると、僕はこの仕事を長男に伝えながら行っている。またそこには「教える手間が無ければ30分で完了するはず」と添えられていた。そしてその覚え書きのとおり今日の作業は30分で終わった。
次はこの結果を事務係3名のコンピュータに複写する。3名はそれぞれ分担して目視による「しらみつぶし」をする。その「しらみつぶし」により濾過された送り先は、数日後にはタックシールに出力をされる。投函は予定より1週間ちかく早い、11日からの週になるだろう。
翌朝に着るべき服は、前夜のうちにベッドの脇に置いておく。よって闇の中で目を覚ましても不自由はない。たまには服の用意をし忘れることもあるけれど、タンスの中は整頓されているから手探りでも着替えはできる。
そうして午前3時に食堂に出てコンピュータを起動し、facebookを立ち上げると、きのうの19時36分に取引先から連絡が入っている。それに対して応答すると「遅くまでお疲れ様です」との返信が間髪を入れずに届いた。
先方は多分、遅寝型の昼夜逆転なのだろう。当方は早寝型の昼夜逆転である。ちぐはぐな双方ではあるけれど、午前3時から4時のあたりでは、いわゆるベン図の重なり合うふたつの円の中央付近とおなじく、同時性を保つことができるのだ。
と、ふとここでベン図の「ベン」をワードプロセッサが変換しないのは、これが当用漢字に含まれない文字だからに違いないと考え検索エンジンを回してはじめて「ベン」とは、この図を考案したイギリスの数学者John Vennの名であることを知る。
「遅くまでお疲れ様です」と書き送ってくれた取引先には「自分は21時から寝ています。あなたこそ遅くまでお疲れ様です」と、またまた返す。
「週末の午前にベッドで寝ているなど勿体ないではないか」と当方は考えている。しかし先方は「週末の夜にベッドで寝ているなど勿体ないではないか」と考えているかも知れない。
所用により隣町の鹿沼市へ朝から出かける。目的地への行き方がうろ覚えだったため、例幣使街道の杉並木を抜けて以降はiPhoneをカーナビゲーションの代わりにする。その音声による案内が、僕が記憶している経路とまったく違っている。
良くあることだけれど、大変な遠回りである。それが分かっていながら、何しろ細かい道筋は覚えていないから仕方なく、羊飼いに追われる羊のように唯々諾々と農地や森林、あるいはそれらを切り拓いて造成した新興住宅地の中を、風を切って走っていく。
間抜けなことながら、ふと気づくとあたり一面が新緑である。会社にいて、動く範囲はせいぜいその半径1キロ以内ということを、ここ1週間ほど繰り返していた。季節はその7日のおいだに大きく進んでいたらしい。
店に向かって右側の季節の書は、きのう幸いにも「春燐」から「萬緑」へと掛けかえていた。季寄せによれば5月はもはや夏である。これから梅雨までのしばらくを「1年でもっとも良い季節」と考える日本人は少なくないだろう。
午前のうちに帰社して即、銀行へ行く。そして紙幣を硬貨に両替する。その硬貨を持ち帰って釣り銭専用の金庫に格納する。来週の火曜日を除けば、連休中の天気は上々らしい。