「日光の美味七選」の荷造りと出荷が無い分、大晦日は12月30日よりも気が楽だ。きのう出荷した「日光の美味七選」がお客様のお手元に届くまでウェブ上で追跡することが今日の僕の主な仕事とすれば、神経はともかくとして肉体への負担はどこにもない。
社内のどの部署が忙しくなるかは、その年によってすこしずつ違う。今年は地方発送の注文数が年末まで落ちず、よって例年であれば事務係が準備する、初売りの際にお客様にお手渡しするお年賀を、ことしは販売係が整えた。
製造現場では福袋の、1月2日の販売分ができあがった。年が明けたら店舗まで素早く運べるよう、これらを大型の台車に載せる。
大晦日の夕食は、まぁ、この日記をどこまでも遡上する気はないが、ここしばらくは鴨鍋と蕎麦に決まっている。そうして食後はテレビのリモートコントロールを握って複数のチャンネルを渡り歩き、21時に就寝する。
12月30日は何かと忙しい。最大の山は「日光の美味七選」の荷造りと出荷である。
昨年は午後一番からこの荷造りに、製造部長のフクダナオブミさんと共に取りかかった。細かく説明すれば長くなるから省くけれども、これがなかなか手間のかかる仕事にて、17時になっても終わらない。よってヤマトのドライバーには荷造りのできているもののみトラックに載せてもらい、残りは18時ちかくに僕と次男がヤマトの日光営業所まで届けた経緯があった。
そういう次第にて「日光の美味七選」の荷造りについては昨年のうちに業務改善計画のようなものを箇条書きし、コンピュータの奥底に記録した。
餡も含めて栗のみを用いた「純栗きんとん」の「久埜」から届くのが出荷日の午前。蕎麦が「三たてそば長畑庵」から届くのも出荷日の昼ちかく。よって「午後一番から」という荷造りの開始時間は変えられない。
そして昨年とおなじ13時より、しかし今年は長男とふたりで「日光の美味七選」の荷造りを開始する。「日光の美味七選」のみのご注文もあれば、ここにたまり漬やら日光味噌を同梱せよとのご注文もある。そのたまり漬や日光味噌の準備については日曜出勤をしたフクダナオブミさんに頼んだ。
その結果、昨年は18時ちかくまでかかった「日光の美味七選」の荷造りを、今年は15時30分に完了する。日光市内からこの商品を注文してくださったお得意様にはヤマトで送ることはしない。小雨模様の中をビニールにくるみ、午後のうちに僕みずからが配達をする。
12月30日にはまた、社内各所に鏡餅や正月飾りを置く。神棚やお稲荷さんの掃除は既に、長男と次男が済ませている。昨年までは僕のしていた仕事の大分部を今年は長男と次男がしてくれているから、僕は楽で楽で仕方がない。
そうして夜は冷たい日本酒を飲み、早々に寝る。
朝食の始まる7時を待って、ホテルのレストランに入る。大きなガラス窓の外には昨夜の小雨模様から一転して、青い空と太陽が見え始めている。
丘の上にあるホテルを8時に出て坂を下り、パドックへと向かう。8時30分からのドライバーズミーティングでは「阪納誠一メモリアル走行会」の成り立ちと意義について、ホンダの元社長カワモトノブヒコさんから改めて説明があった。
ウチの"BUGATTI 35T"は、あくまでも僕の記憶によるものだが、鈴鹿サーキットの25周年に呼ばれて以降は2005年まで全速で走ることはなかったはずだ。2006年12月にサーキットへ戻ってからは「EBエンヂニアリング」のタシロジュンイチさんが修復を続け、4年後の2010年あたりから本来の調子を取り戻した。
昨年は、春にはこれまで鉄製だったガソリンタンクをステンレス製の新造品に載せ替えた。秋にはインテイク側2個、エキゾースト側1個、よって8気筒であれば計24個のタペットのクリアランスを調整した。このことにより、エンジンは4,500回転まで不安なく回るようになった。そして9時10分からコースへ出て行く。
空は快晴でもコースはいまだ濡れている。エンジンの回転を3,000に抑え、我々のために用意された西コースをゆっくりと周回する。"BUGATTI 35T"はタイヤに泥よけを備えない。よって特にコーナーでは、操縦者は常に顔に水を浴び続ける。それでもエンジンの快調さを感じながらスロットルを踏み込めば、不快を感じないどころかむしろ嬉しい。
我々「Vintageクラス」に与えられた走行の機会は、助手席に人を乗せることのできる「同乗走行」も入れて2時間50分。その時間を最大限に使い、また昨年の記録も振り返りながら"BUGATTI 35T"と自分の限界を徐々に高めていく。
レーサーだったツツミトモヒコさんでさえ「ここは難しいんですけどね」とドライバーズミーティングで説明する、逆バンクを含む最終コーナーの最後のところを3速3,000回転で抜ければ、そこからストレートに駆け上がって間もなくエンジンは4,000回転を超える。
1980年代の"FISCO"にあったような路面の荒れは「ツインリンクもてぎ」には皆無だから、ギアを4速に上げて徐々に速度を高めていくときの不安は特にない。ただしコントロールタワー前を過ぎてエンジンが3,700回転を超えようとすると、前輪の周辺から強い振動が発生し、僕は松本零士の「ザ・コックピット」を思い出して思わずスロットルから右足を離す。
第1コーナーでは、3速2500回転を保つ限り何のドラマも起きない。路面がドライなら、ここは徹頭徹尾、3速3000回転を保ったままバックストレッチへ抜けたい。「あー、回りきれない」と怯えて心と体が萎縮しては却って危ない。気力を振り絞ってスロットルを踏めばテールが外に流れるから、そうしたら小まめにカウンターを当てる。慎重さと大胆さがスピンとコースアウトを遠ざけるのだ。
今年もまた僕は39名の参加者中、もっとも長くコース上にいたのではないか。僕が"BUGATTI 35T"を操縦する機会はいまのところこの「阪納誠一メモリアル走行会」のみであり、それを考えれば貪欲にならざるを得ない。
日の傾くころ「あー、今回も、何ごともなく終わって良かった」と、タシロジュンイチさんが深く息をつく。4速3,700回転を超えようとするときに発生する振動については、スロットルから足を放してもしばらく続くところから、フリクションダンパーの不調が疑われる。タシロさんの来年初の仕事は、先ずはこのあたりから始められるに違いない。
帰路の日光宇都宮道路には、昨夜から今朝にかけて降ったと思われる雪が路肩に寄せられていた。そして18時10分に家に戻る。
日光に住む者として、僕が普段から「美味いよなぁ」と感心しつつ味わっている品々に「たまり漬」を添えて大晦日に必着させる「日光の美味七選」のうちの、日光市桜木町にある"Chez Akabane"の生チョコレートが今朝は配達された。
「洋食金長」のステーキソースと「片山酒造」の「原酒」は、既にして製造現場の寒いところに保管してある。そして"Chez Akabane"の生チョコレートも早々に、ステーキソースや「原酒」の隣へと運ぶ。
これまた「日光の美味七選」の一角を担う生わさびについては「晃麓わさび園」に電話を入れ、12月30日の段取りについて打ち合わせをする。「純栗きんとん」の「久埜」にも"confirm"の電話をしなければ落ち着かない。
15時ちょうどに"EBエンヂニアリング"へ行く。そして三菱デリカの助手席に次男を乗せ、曇り空の下を東へと出発する。"EBエンヂニアリング"のタシロジュンイチさんが運転するトランスポーターの助手席には長男が乗っている。
70数キロを100分でこなして「ツインリンクもてぎ」に着いたときには、空は群青色から紺色へと変わりつつあった。
18時30分より4人で夕食を摂り、部屋に戻って歓談ののち21時すぎに就寝する。
次男が起きて居間へ入ってきた瞬間「誕生日おめでとう」と口を開いた家内を見て「そういえば…」と、今日が次男の誕生日だったことを知る。次男は今日から17歳になるのだという。
その次男は学校の寮から帰宅するなり、店と事務室の窓ふきやら、来春の初売りの準備に駆り出されるなど、宿題どころの騒ぎではない。
しかし宿題も無論おろそかにはできないから、その内容について問えば「天声人語5日分を書き写し、感想を添える」というものだった。よって僕は驚き「そりゃ簡単じゃねぇぞ、感想だって『面白かったです』だけじゃ済まねぇだろう」と、家の仕事と宿題への、労力の配分に気を配るよう言う。
次男の誕生日には毎年、次男の同級生タカマツヨッチの家に行く。フグはあちらこちらで食べたけれど、海の無い栃木県日光市の、如来寺はす向かいにあるタカマツヨッチの家のフグが、僕には一番、美味い。
そうして鰭酒4杯を飲み、帰宅して早々に寝る。
街は晴れているけれど、山は雪雲に覆われている。四半世紀ほど前の年末には、その山で寝ることを繰り返していた。
錆び付いてボディのそこここに穴の空いた四輪駆動車に乗り、圧雪の国道から白樺の林が左右に続く林道に入る。その道を右へ左へとハンドルを切りながら行けるところまで行く。小さな吊り橋に行き当たって道が途絶えると、そこからは深雪を踏みしめ、更に奥へ進んで適当な場所を探す。
テントを張るころには日の落ちることが分かっているから、バラクラバで覆った顔の上には、既にしてヘッドランプが光っている。あたりの空気は冷たく張りつめ、沢は凍りついて水音は聞こえない。
欧米の山遊びに詳しい文筆家が山の月刊誌に紹介するような洒落た食事よりも、冬山では水餃子や湯豆腐を肴に燗酒を飲む方が圧倒的に美味く、また体温の保存にも優れている。
毛の分厚い靴下に羽毛のオーバーシューズを重ね履きしていても、ストーブの火を落とせばテント内の気温は氷点下まで落ちる。足が冷えると寝付けなくなるため、羽毛による二重構造の寝袋に早々に潜り込み、顔のまわりの紐を絞り込んで、鼻と口以外のすべてを寝袋の中に封じ込める。
そうして眠りに就けば、理由はまったく不明ながら、眠りの質は自宅の寝室におけるそれなど比べものにならないほど高く、ふと気づけば夜明けが近くなっている。
そういうことをまたしてみたいものだと思うが、一緒に行ってくれる人がいまだいるかどうかは分からない。
「寒くなりましたねー」などと街で挨拶をされても、自分ではそれほどとも思わず「まだまだ、これからですよ」などと返事をしていた。しかし今朝は、5時ごろ起きて居間でコンピュータをいじっていると、ホットカーペットやオイルヒーターが働いているにもかかわらず、明け方の青い障子を通して外の凍てついた景色が想像できた。
仕事に忙殺されていると、なぜかネット上で買い物をしてひと息つきたくなる。しかし例えばそれが冬用の上着だったりすると「お前それを買って本当に着ると思うか?」と、もうひとりの僕が訊く。そして現実の僕は「多分、着ない」と答える。
僕の冬用の上着はシェラデザインのマウンテンパーカが唯一無二のものにて、これ以外のなにがしかを買ってもほとんど、あるいは1度も着ない。というわけで師走におけるネット上の買い物は、こと服については小遣いの赤字額を増やさなくても済みそうだ。
"amazon"での支出は、今月はいまだ1,140円に過ぎない。買ったのは石原裕次郎主演のDVD「太陽への脱出」である。
きのうに続いての晴天にて、地上に姿を現してからいくらも経っていない朝日が開店準備中のショーケースに差している。
午後にふと思いついて、日光カントリークラブちかくの、イシヅカミドリさんの店までホンダフットを走らせる。そしてあれこれのパンを買う。イシヅカさんちのパンはなにか不思議な性質を持っている。これが籠などに盛ってあると、僕は飢えた猟犬のようにむさぼり食べ尽くしてしまうのだ。
「ベーコンという双六があったとしたら、その上がりがこれだ」と長男の言う「新得農場」のベーコンでダシを取ったポトフの鍋で「ソーセージという双六があったとしたら、その上がりがこれだ」と、これまた長男の言う「ノイフランク」のソーセージを煮て、クリスマスの夕食とする。
「進々堂」のシュトーレンを肴にコニャックを飲みつつ「シュトーレンという双六があったとしたら、という話を社長のツヅキ君にしてぇなぁ」などと考えるうちすっかり酔いがまわり、その後のことはよく覚えていない。
春休み、夏休み、冬休み。学校の寮から帰宅した次男に「昼飯、何、食いたい?」と訊くと、季節を問わず「大貫屋のキムチタンメン」と答える。よって今市高等学校裏手の「大貫屋」を昼すぎに訪ね、オバサンを忙しくさせると申し訳ないため、僕も次男に合わせてキムチタンメンを食べる。
ウチの会社は年末が忙しく、忘年会はしていられない。そのかわり新年会はする。男子社員に偏食家はいない。しかし女子社員はあれがダメだのこれがダメだのと難しい。そんなことからここ数年は、新年会は焼肉と決めている。
新年会の日取りは早くから新春1月8日と決まっていた。予約は僕の役目らしいが、理由は不明ながら、僕はホテルや料理屋を電話で予約することが苦手である。1週間ほどグズグズとした挙げ句、本日の終業後に至ってようやく「大昌園」に予約の電話を入れる。
ウチはいまや若い社員が多く、そして若い人は「酒よりメシ」だから、宴会の費用はむかしほどはかからない。焼肉屋で焼酎などを飲むのは、今となっては僕を含むジジー数人くらいのものである。
毎年の統計によれば、年末の商品出荷は、クリスマスを過ぎるころから収束に向かう。それではそのあたりから仕事がヒマになるかといえば、普段よりも念の入った掃除や初売りの準備のため、気が落ち着くということはない。
きのうは冬至にて、風呂場の脱衣所には柚が準備されていた。しかし酔って帰った僕はそれに気づかなかった。柚子湯は逃したが、カボチャについては朝からしっかり食べさせられた。
「イモタコナンキン」を「とかく女の好むもの」と書いたのは西鶴だという。芋は甘くないものなら好きだ。蛸は子供のころから一貫して好きだ。カボチャは、ポタージュやケーキの材料として用いたもの以外、これを美味いと感じたことがない。
そのカボチャをきのうの朝はベーコンとのソテーで食わされ、今朝は味噌汁の具として食わされた。いくら冬至とはいえ、僕はカボチャは要らない。
あたりが暗くなって2時間ほどしたところで次男が学校の寮から帰宅をする。そういう次第にて夜は次男の好きなタイ風の鍋を親子4人で囲む。
待ち望んでいた冬至が来た。「これから夜は短くなる一方だ」と考えながら「いや、そういえば誰かが『日の出と日の入りの関係から、夜にくらべて昼が長くなりだすのは、冬至から3週間ほども経て以降のことだ』とか何とか言ってたな」と、つい最近どこかで読んだことを思い出す。
"UNIQLO"のヒートテックに、これまた"UNIQLO"のフリースを重ね着し、しかしその2枚のみで早朝の製造現場に降りても特段の寒さは感じない。本当の寒さはこれからやって来るのだろう。
僕の手指やかかとにアカギレが無いのは、1年のうち6、7、8、9月の4ヶ月ほどでしかない。ややもすれば9月の下旬にはかかとにアカギレができたりする。アカギレには中国地方にある小さな薬屋の軟膏を埋め込み、バンドエイドを巻く。バンドエイドはこれまで色々と試したが、今のところ"Jonson & Jonson"の「素肌フィット」が僕の用向きには最も合っている。
ところがこれが、個人チェーンを問わず、街の薬局にはほとんど置かれていない。よって在庫が切れそうになると、ひと冬分あるいは半年分をウェブ上の薬局に注文することが常になっている。そして本日午前、今から来初夏までのそれが届く。
僕は世の忘年会とはほとんど縁がない。しかしごく小さな集まりには顔を出す。夜は個室のある店で静かに過ごす。
日光市森友地区の農家ユミテマサミさんがきのう、店の犬走りに鉢を届けてくれた。今回のそれは万両である。朝日町の同級生タカハシカズヒト君は同じきのう、門松を置きに来てくれた。「だいぶ早いんじゃないの」と訊くと「今日は良い日だし、それに早く持ってくれば、それだけ長く飾っておける」とタカハシ君は説明した。6鉢の万両と一対の門松が揃い、店の前は一気に正月の表情を帯びた。
四半世紀以上も前に買って以降ずっと、本棚やロッカーの片隅に置き放ち、その間、その近辺に大規模なリフォームを加えたけれども不思議なことに決して紛失されなかった丸いクローム製のサイドミラーを"EB-Engineering"のタシロジュンイチさんに手渡したのは、数週間前のことだった。
このサイドミラーは、1983年だったかに手に入れた"FIAT 500L"のサイドミラーが、いかにも「日本の法律に合わせるため止むなく取り付けられた」という風情の、黒くて四角いプラスティック製だったことを厭って取り寄せたものだったが、結局はそのまま放置されることになった。
今秋その"FIAT 500L"を長男に譲ることとし「だったらこの機会に」と"EB-Engineering"に持参した古いデザインのサイドミラーをボディに付けて、昼前その様子をタシロさんが店まで見せに来てくれる。僕はそのフロントの三角窓のあたりを一瞥するなり事務室に戻り、机の引き出しからカメラを取り出す。
古いイタリア車の造形は、たとえこんな大衆車のものであっても美しい。
社員が忙しくしているかたわらで"facebook"の更新などをしていると、それがたとえ会社の"facebook"だとしても、何やら浮き世ばなれした行いをしているように思われてくる。本日の投稿は「クリスマスソングのCDがあります。ご入り用であれば実費でお分けいたします」というものだった。
「クリスマスはいつも家で過ごす派、のための佳選七品」という、僕の好きなあれこれを詰め合わせたセットを数年前に企画したことがある。ここにはクリスマスソングのCDも含まれていた。そのCDを選ぶため僕はかなりの数の、クリスマスソングのCDを買って聴いた。結局のところ残ったのは以下の3枚である。
「クリスマスはいつも家で過ごす派、のための佳選七品」では「これら3枚のうち、ご希望のものを1枚あるいは2枚あるいは3枚、同じ種類を複数枚でも構わないので選んでください」ということにした。
3枚のうちどれがどれだけ売れるかは分からないから3枚とも同じ数を揃え、しかし売れる数量には当然バラツキがある。その結果として、これら3枚が異なる数で在庫されることとなった。
CDの需要と供給の関係は、年により、また季節により激しく変わる。現在の"amazon"では、"Someday at Christmas"と"Merry Christmas"は新品で買えない。そして"Soulful Christmas"だけは僕の希望する頒布価格より"amazon"の方が安い。
そういう事々をfacebookには正直に載せた。ご希望の方は商品と同時にお申し込みください。実費でお分けいたします。
夜の明ける前から霧の深いことは分かっていた。そうして仏壇に花や水やお茶を供えるなどのことをしながら日の出を迎える。冬至を間近に控えた今日このごろになれば、太陽は東から随分と南に寄ったところから上がる。
薄墨を流したような空が朝日を含んで淡く桃色を帯びている。日光宇都宮道路の上あたりは特に、その塩梅が濃い。鶏鳴山の山際は、いにしえの禅僧の筆の遊びにも似た線を雲の中に見え隠れさせている。
霧といえば「マッチ擦る、つかの間、海に霧深し」の短歌が頭には浮かぶ。しかし今朝の日光の景色は、寺山修司が作り出す、暗く湿って呪術的なそれとは違う。何やら明るくて軽く、気持ちの良いものだ。
そういう静かな朝から始まって、仕事をしているあいだは年末の忙しさに巻き込まれ、夜に至ってふたたびあたりは静かになる。
美味そうな店が雑誌やテレビで紹介されても、それが訪ねるに難しい場所にあれば、僕の興味は半減どころか四半分まで下落する。しかし今夜ビデオで観た「吉田類の酒場放浪記」の店は、本州の最北端にありながら、行ってみたくなるようなところだった。そうして17日ぶりの「家焼酎」を飲む。
「ふたつの二等辺三角形を描きなさい」という問題に対して、ひとつは東京タワーのように頂角の狭い、そしてもうひとつは陣笠を伏せたよりも頂角の広い三角形ふたつを描いた。子供のころ、個人的に勉強をおしえていただいていたナガシマ先生の家でのことだ。
僕の描いたふたつの三角形を観て「極端なら良い、というものでもない」と先生はおっしゃった。そのことばの意味するところは訊かなかった。「正三角形みてぇのふたつ描いてもつまんねーじゃん」と、僕は腹の中で考えていた。
前回の衆議院総選挙に臨んで「50年以上ものあいだ王座にあった自由民主党は、今や日本のどの選挙区においても勝ち目は薄い」と僕はこの日記に書いた。そして今回の選挙の結果は前回とは逆の方向へ、しかし前回とおなじく極端に走った。
その結果をテレビや新聞の第1面に見ながら「極端なら良い、というものでもない」というナガシマ先生のことばを僕は思い出していた。先生は今もサヨクなのだろうか。
土曜日は平日よりもよほど、そして日曜日はその土曜日よりもよほど忙しい。よって第46回衆議院総選挙に臨んでは、有権者の姿もまばらな朝のうちに投票を済ませる。今日は早朝から暖かい。その気温の高さにより投票率が上向く、かどうかは知らない。
ウチでは社員が結婚をするときには、家に呼ぶとか、あるいはどこか料理屋へ招待して当該の社員と、そしてその相手となる人と食事をする。今回は事務係のテヅカサヤカさんの名字がマスブチに変わり、終業の30分後にフランス料理の"Finbec Naoto"で待ち合わす。
今回は僕と家内のほかに長男も加わったから、食事の席では話題の幅も広がり、大いに楽しく過ごす。それにしても、サヤカさんも夫のマスブチさんも立派な若者にて、僕などは放埒を抑え、なるべく静かにしていた。
そういう次第にて、帰宅して後はチーズケーキを肴に生のウイスキーを飲む。
先日、古新聞の束から適当なところを抜き出して、どこの店だったか忘れたが昼飯を食べに行き、ラーメンを注文しながら開いたところ、それは先月の日本経済新聞だった。新聞などは届くばかりで読まない記事がほとんどだから、たとえ古新聞でもメシの友くらいにはなる。
「売れる液晶こそ良い液晶とサムスン考えている。それに対して、良い液晶さえ作れば必ず売れると考えていたのがシャープだ」という記事が、その昨月の新聞の中ではもっとも僕の目を引いた。
僕が企画する商品は大抵、売れない。「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうrubis d'or」などは、その代表である。
この"rubis d'or"を中心としながらウチがテレビで紹介されたのは10月末のことだった。その番組が数日前に再放送されると、電話による問い合わせがまたまた増えたけれど、"rubis d'or"は前回の放送日に数時間で売り切れ今は無い。
問い合わせをいただいても、その対象の商品が品切れを起こしているとは申し訳ない限りだ。そして僕は毎日、研究開発室の冷蔵庫のガラスに顔を近づけ、瓶の中で熟成中の"rubis d'or"の具合を観察している。いずれにしても、次の蔵出しは年明けになるだろう。
忘年会かどうか判別のつけづらい集まりながら、3年ほども続けて参加をしてる会に18時前より顔を出し、2時間ほどを楽しく歓談して過ごす。
ネパールは何度か足を踏み入れた国だったが、1991年春がいまのところの最後になっている。帰りはバンコクで3泊をした。泊まったのはオリエンタルホテルである。当時はインターネットなど無く、東京の小さな代理店を通じて予約をした。
カトマンドゥからバンコクのドンムアン空港に着き、入国審査を済ませてガラス扉の外へ出ると、ホテルの運転手が僕の名を書いた紙を胸のところにかざして立っていた。
バンコクのダウンタウンを目指して一路南南西へ向かうメルセデスの中では、話し好きの運転手からあれこれの情報を得た。そのうちのひとつが「オリエンタルホテルにおけるティップの額」だった。
「ベルボーイとメイドには、それぞれ200バーツを渡してやってください」と聞いて僕は耳を疑った。200バーツは当時のレートで邦貨1,000円。屋台のバミーナムが数十円の物価からすれば、いかにも法外に思えたからだ。
「じゃぁ、バトラーには」と、恐る恐る訊くと「彼らは高給取りですからティップは要りません」と言う。「だったら君には」と続けると「私にもやはり200バーツ」と、ルームミラー越しに僕と目を合わせながら運転手は笑った。
「何となくブルーカラー共同体みてぇだな」と感じながらも結局のところ僕は運転手の助言に従って、部屋まで荷物を運んでくれたベルボーイには200バーツを手渡し、そして枕の下には毎朝200バーツを収め続けた。
本日、思うところあって「バンコク オリエンタルホテル チップ」と検索エンジンに入れてみると、ある"Q&A"のページに行き着いた。そこには「普通のホテルと同じく20バーツで良いと思います」という答えがベストアンサーに選ばれていたから「それは違う」と腹の中でつぶやいた。
「初代トヨタカローラとフェラーリ330P3の1966年物は製造年が等しいため、中古車価格も同じ5,000円で良いと思います」という見解に同意をする人がいるだろうか。ベルやメイドへの200バーツのティップは、ちと高い気もするが。
「本酒会」は僕が書記を務める日本酒に特化した飲み会だ。この12月の例会費はちと変わっている。1月から11月まで休まず出席した会員は無料だが、欠席のあった会員はその回数により会費が漸増する。そして最も高い会費は1万円である。
12月の例会はお酒にも料理にも普段の倍の予算が確保してあり、だから1万円の会費を払っても酒の強い会員は必ず金銭的な元は取れる。また酒に強くない会員も、銘酒居酒屋で飲むことを考えれば、これまた元は取れる。
その、12月例会のためのお酒が秋田県能代市の優れた酒屋「天洋酒店」から届く。「天洋酒店」はウェブショップは持っていないが、店主の浅野さんはインターネットでお酒を売っている。ウェブショップを欠きながらインターネットで酒を売るとは、どのようなことか。浅野さんはメールマガジンでお酒を売っているのだ。
メールマガジンで商売をしたいと考えている人は浅野さんにメールでお酒の1本も注文し「メールマガジン希望」と書き添えれば即、メールマガジンが配信されはじめる。
そうして浅野さんの真似をすれば自社の商品も「天洋酒店」と同じように売れ始めるかといえば、それは無理だ。浅野さんのメールマガジンは浅野さんにしか書けないものであり、しかしてまた「天洋酒店」は「浅野ファンクラブ」の色合いが強いからだ。
戦術だけを真似ても、モノはほとんど、売れない。
ウェブショップから届く受注確認書の文字数は大抵、多い。いきおい縦に長くなり、僕はほとんど読まない。
ここ数年のあいだ、欲しくても見つけられずいたワインが楽天のスーパーセールで安くなっているところに一昨日たまたま行き当たり、在庫カウンタがゼロになるまで買った。そのワイン屋からの受注確認書についてもまた"Subject"をチラリと見たのみだった。
本日、虫の知らせでもあったか、それをあらためて読んでみると、その最下部に至って「ウェブ上では在庫切れになっているけれど、実は更に手配することもできる。当該のシャブリが欲しければ12月11日までに知らせてくれ」という意味のことが書かれてあった。
「なんだよ、だったらそのメールの頭に『※このメールは最後までお読みください』とでも書いてくれたら良かったのにー」と、自らの粗忽さは棚に上げて焦燥し、更には「遅くなってゴメン、貴店からの知らせについては12日の今日になって気づいた。今からでも間に合うならもっと買いたい」という文意の返信をした。
そして更に「急ぎのときには先ず電話だわな」と、その店のウェブ担当者を電話で呼び出し、自分の希望を伝えると、荷造りの現場にでもいるのか、ザワザワとした騒音の中で「大丈夫」と請け合ってくれた。よって思わず嬉しくなって「僕も商売やってるから忙しいのは分かるんですよ、荷造りは急がなくてもいいですからね」と言い添える。
そして今日のところは長男の誕生日ということもあり、シャブリではなくシャンペンを飲む。
日光の山々の景色が完全に、冬のそれになった。冬の朝の澄んだ空気には格別のものがある。「冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず」の「つとめて」とは何時ごろを指すことばなのか。まぁ、日の出より前ということはないだろう。
「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうrubis d'or」が10月の末にテレビで紹介されたところ、元々たくさん作れるものではなかったため数時間で売り切れた。そのことにより店舗ではショーケースの一部がぽっかり空いた。"rubis d'or"の次の蔵出しは新春を待たねばならない。
そういう次第にて、そこに「日光の大豆と日光のお米で作った最上級味噌梅太郎」を原材料としたフリーズドライ味噌汁2種を置いたところ、これが店内では目立つ場所であるらしく、これまでとは比べものにならないくらい売れ始めた。
11月に入ったところで在庫の払底を恐れ、フリーズドライ味噌汁の製造工場に連絡をすると「現在はフル操業中のため原材料を受け入れられるのは12月のなかばから」と伝えられた。
ウチのフリーズドライ味噌汁は「日光味噌梅太郎」の白味噌と日光市春日町にある「松葉屋」さんの湯波それに国産ほうれん草で作る"with LOVE"、それと「日光味噌梅太郎」の赤味噌と、これまた日光にある「グルメミート」さんのイベリコ豚に複数種の国産野菜を具にした"!Gracias pata negra!"の2種であり、しかし「松葉屋」さんも「グルメミート」さんも12月は繁忙の上にも繁忙にて、味噌汁の材料などは作っていられない。
そういう次第にて、先ずイベリコ豚汁が11月23日に売り切れた。湯波の方については年明けまで保つと思われたが、これも数日前に大人買いが入ったところで一気に少なくなり、よってこちらもYahoo!ショッピング、amazon、 そして自社ショップは品切れにした。両者がふたたび店に揃うのは来年2月もなかばになる。今からお求めのお客様には深くお詫びをしたい。
お正月を迎えるにあたり、暮れのうちに社内に飾る幣束を、きのうの雪のいまだ残る道を自転車に乗って、「瀧尾神社」の使者ヤギサワミツグさんが届けてくれる。そこにはまた初詣の際の「特別昇殿祈祷之証」も添えられていた。今年も残すところ3週間、である。
きのうの夜のテレビが日本各地に大雪の降ることを伝えていた。画面に映し出された地図では、列島がおよそ4つに分けられ、地域ごとに積雪の量が示されていた。僕は当然のことながら地図上の栃木県に目を凝らし、しかしそこには降雪の印がなかったから安心して就寝した。
今朝起きて6時前に居間の障子を開けた途端、目に飛び込んできたのは白い屋根だった。しかしその雪の厚さはシュークリームの上のパウダーシュガーほどのもので、だから「まぁ、これくれぇなら予報が外れた、というほどのもんでもねぇわな」と平静だった。
そうして障子を閉め、お茶を飲み、朝飯を食べてふたたび障子を開けると、ほんの1時間ほどのあいだだったにもかかわらず、風景は一転して厚さ数センチの雪に覆われていた。大きな牡丹雪がボソボソと降っている。
昨年3月11日の大地震以来、朝、事務室に降りてから開店までは節電を心がけ、必要最小限の照明しか点けなくなった。しかし雪の降った日だけは以前とおなじく、店舗内外を早々と明るくしてしまう。それは暗い朝に出勤する社員のための、灯台のようなものに会社をしようという、僕の意識化の欲求によるものかも知れない。
ヨーロッパや中国大陸であれこれしていた長男が、今日は2ヶ月ぶりに帰国をする。帰宅は明日のことだがそれに先だって、長男の使う部屋を暖めるためのオイルヒーターを、コジマの楽天店に発注する。そのとき、注文ボタンをクリックすると「最近、見た商品」とかいう文字とワインの画像がディスプレイの左下に現れた。
「あぁ、これなぁ、10年くらい前まではけっこう出回ってたけど、今じゃどこの酒屋にもなくて、検索エンジンにもひっかからなくて、やっと見つけたと思ったら、随分と高くなっちゃったもんなぁ」と考えながらそのワインの画像をクリックしする。行き着いたウェブショップでは未練たらしく更にそのワイン名を店内内検索していると、図らずもそのシャブリが数十分前より始まったらしい楽天スーパーセールの目玉商品として極端に安くなっていた。
念のためメイラーの「通信販売」のフォルダから、大昔に買ったおなじワインの価格をつきとめ、次は複数の酒屋のメールマガジン数千通を収めたフォルダから当該のワインの過去の価格を調べて「いま買うしかない」と決める。そうしてその店の、そのシャブリを1本残らず買ってしまう。
かくして12月の小遣い帳を早くも赤字に転落させる。
僕は携帯電話を携帯しない。きのう店で忙しく立ち働いて事務室へ戻り、何気なく机の上を見ると、僕の携帯電話に不在着信の記録がある。よって発信元の同級生セトグチタカシ君に折り返し電話をし、同級生ヤギサワエーイチ君のお母さんの亡くなったことを知る。
閉店時間前に黒いスーツを着てホンダフィットに乗る。そして大谷川の橋を渡る。瀬尾の直線路から小百へ向かう峠を上り始めた途端、大きな雪が横殴りに飛び始める。街灯などない山道にて当方はヘッドランプを上向きにしている。その光線の向こうから無数の雪の粒が急速に近づき、遂にはフロントウインドウに衝突してフツフツと音を立てる。
ヤギサワエーイチ君のお母さんのお通夜が終わって外へ出ると、あたり一面は真っ白になっていた。もと来た峠を戻り、最後の右カーブから瀬尾の直線路に出たところで、しかし雪は、まるで線でも引いたようにふっつりと止んだ。
帰宅してスーツを脱ぎ普段着を着る。そして自転車に乗って夜の街へ出て行く。
小倉町の居酒屋「和光」でカウンター活動をしながら数学者エルデシュについての本を読む。それほど酔ってもいないのに、生牡蠣の殻の塩気のある汁とレモンの絞り汁の混じり合った、つまり上出来の「お澄まし」を何度も本にダラダラと垂らす。僕が"Kindle"などを使ったら、すぐに壊れてしまうに違いない。
「夜の集まりが得意ではない。なぜ得意でないかといえば先ず、家族とメシを食えないところがイヤだ。家族が留守のときのそれなら我慢できるかといえば、ひとりで気楽にメシを食えない点において、またまた気が進まない」
とは先月9日の日記に書いたことだ。しかし夜の集まりでも、いそいそと出かけていくものも中にはある。春日町1丁目の役員による忘年会もそのひとつだ。
この忘年会は経費を節減するため町内の公民館で開かれる。材料の買い出しと調理はカミムラヒロシさんがしてくれる。座敷の真ん中に置くガス台はシバザキトシカズさんが持って来てくれる。季節柄、料理は鍋になる。その鍋は、料理屋や家庭の主婦なら決して選ばないような素材の組み合わせから成り、それがまた参加者を喜ばせる。
今夜の鍋は、ひとつは牡蠣やら鮟鱇に餃子を加えたもの、もうひとつは上から見れば鶏手羽やら豚の脂の多いところの肉鍋だが、底には豚足が隠されている。そういう目にも舌にも楽しいものを肴に、いつのお祭りに上がったものかは知らないがとにかく押し入れに保管されていた御神酒を、ヤカンで直に燗をつけて飲む。
そうして大鍋ふたつをほとんど食べ尽くした20時に至ると、今日が練習日だったらしいお囃子の人たちが集まってきた。よって座敷は手際よく片付け、食器も有志が率先して洗い、今回も上出来だった忘年会を締める。
「ギュイッギュイッギュイッ」と、家内の携帯電話が日本のどこかで地震の起きたことを伝える。この音を戸外で耳にしても、僕はそれほどの恐怖は覚えない。しかし建物の中にいるときは怖い。床が崩れ、あるいは屋根が崩れ落ち、自分が生き埋めになることを考えるからだ。
「ギュイッギュイッギュイッ」の音に気づいて事務室の壁の電子時計に目を遣ると17時18分。その数秒後、事務室と店舗を隔てる格子窓がユラユラと揺れはじめ、それが徐々に大きくなる。地震の怖さは、現在の揺れが一瞬後にはどれほど強くなるのか想像がつかない、というところに多くあるように思う。
事務室と店舗は鉄筋コンクリートによる同じ建物の1階にあり、普通の地震であればほとんど揺れない。ところが昨年3月11日には、これが崩壊してそのがれきに自分は埋もれてしまうのではないかと肝を潰すほどに揺れた。外では道路標識の、直径25センチほどの鉄柱がまるで釣り竿のようにしなっていたのだ。
以降、地震のあるたび2011年3月11日の経験がよみがえり「あれの再来か」と縮み上がる。1000年に1度の大地震が2年のあいだに2度起きる可能性を否定できる人は、どこにもいないだろう。
今日の地震は幸いにも短く終わった。インターネットの速報を見ると震源地は三陸沖。日光は震度3と出ていたから「ウソだー、あれが3ってことはねぇよ」と、今しがたの揺れを振り返りながら決めつける。
ところで今日の地震の震源地が三陸沖と知って、数日前に観た「吉田類の酒場放浪記」で、吉田の訪ねた八戸の酒場を思い出す。そして「あの飲み屋も随分と揺れたのだろうか」というようなことを想像する。更には今夜もその続編の、これまた八戸の飲み屋シリーズをビデオで再生する。
その中で、すっかりロレツの回らなくなった吉田の姿を見て「この人は焼酎よりも日本酒を飲んだときの方が、ずっと酔うね」と、なかなか鋭いことを家内が言う。そして僕も今夜は日本酒の量が進み、4合瓶の4分の3ほどを干す。
「飲んじゃ日本酒がいちばん美味いわなー」とは税理士のスズキトール先生の言ったことだ。僕は、飲めば日本酒とワインが一番うまい。それを知りながら普段はなぜか芋焼酎のお湯割りばかりを飲む。その理由が自分でも分からない。
日本酒に特化した飲み会「本酒会」で僕は書記を務めている。日本酒を飲むのは「本酒会」の例会日のみ、という月が僕には多くある。
どこで誰と交わした会話か覚えていないが「焼酎より日本酒をよほど美味いと感じながら、なぜか焼酎を飲んでしまう」と言うと「自分もそうだ」と首肯した人がいた。不思議なことである。
そういう僕もここしばらくは日本酒を飲んでいる。前述のとおり飲めば日本酒は美味い。冬という季節にも日本酒は良く似合う。そして今夜は「ししゃもじゃなくてスミマセンねー」と日本酒に謝りながらカペリンの塩焼きを肴に日本酒を飲む。
1980年の夏も終わりかけるころカリフォルニアに行った。そしてラグナセカのサーキットやペブルビーチのゴルフ場で古いクルマを観ていた。初秋にもかかわらずペブルビーチの生牡蠣は美味かった。
飛行場のように広いクルマと飛行機の博物館では、クルマよりもむしろ飛行機の星形エンジンを熱心に観察した。運良く大金を掴んだ事業家の私設美術館では、天井画の天使の顔が事業家当人の顔になっていた。古いクルマの修復工場でロールスロイスのメーターパネルを磨いていた職人はスペイン語しか話さなかった。ディズニーランドにも立ち寄った。
夜のディズニーランドの、豆電球を満艦飾にしたパレードと観客のあいだには危険を防止するための柵があった。パレードが去り、見物の集団がまばらになってようやく、つい先ほどまであったはずの柵が消え失せていることに気づいた。宙へ去ったのか、あるいは地中に格納されたのか。とにかくあの鮮やかさはいつまでも忘れることができない。
隅田川沿いに仮設された芝居小屋で「平成中村座大歌舞伎」を観たのは、この日記を遡ると昨年11月24日のこととある。
限りなく明るい色彩の下で阿国と猿若その多大勢の女形が踊る「猿若江戸の初櫓」の最中にいきなり、向こう正面に現在の向島の風景が映し出された。「良くできた映像だな、まるで本物みたいだ」と感心していたら、それは舞台奥の扉を解放したことによる本当に本当の風景で、晩秋の澄んだ空気の向こうに東京スカイツリーがドーンと見えたときには二の腕から首のあたりに鳥肌が立った。
本日未明に勘三郎が57歳で死んだ。「あー、こんなことになるなら、もっと早くに観ておけば良かった」と悔やんでいる人が大勢いることだろう。それでも「平成中村座」は続くのだ、多分。
僕が子供のころの大きな楽しみのひとつは、ウチの事務長だったコイズミヨシオさんの、日光市朝日町の家に泊まりに行くことだった。コイズミさんの家には僕よりすこし年長の男児3人がいて、彼らの持つ技術や能力や文化に触れることが、言葉では言い表すことのできないほど僕には嬉しかった。
コイズミさんの家ではまた、食べるものもウチとは随分と異なっていた。そしてどれもこれもみな僕の目には珍しく、美味かった。
コイズミさんの家の味噌汁では、菜っ葉のそれがとても印象に残っている。これを家でも飲んでみたいものだと、ある日、僕はコイズミさんの家から帰宅するなり「菜っ葉の味噌汁、作って」と頼んだ。しかしオフクロだかおばあちゃんには「菜っ葉にも色々あるでしょう」と言われ、家では遂に「菜っ葉の味噌汁」は再現してもらえなかった。
この齢になって振り返ってみれば、その「菜っ葉」とは現在は「白菜」とか「雪菜」と呼ばれているものではなかったか。そしてこの味噌汁が食卓に出てくると、今でも僕はコイズミさんの家の、美味かったあれこれを思い出す。
ところで社内における家内の仕事が忙しくなると晩飯の品数も漸減し、おかずがひと品のみの、いわゆる「のみメシ」が目立ってくる。しかし僕はこの「のみメシ」が実は嫌いでない。今夜のおかずはキンキの煮つけのみにて、先ずは昆布とキノコの佃煮で、次はキンキで冷酒を飲み、締めとして、キンキと共に煮られた長葱をメシに載せたところ、これが存外に美味かった。
そして「12月一杯、のみメシでも良いわなぁ」と考える。
週に何度かは、朝の暗いうちから製造現場に降りて、何やかやの仕事をしている。仕事場から居間へ戻り、夜が明けると、きのうの深夜に降ったらしい雪が味噌蔵の屋根を白くしていた。
日光に住む者として僕が普段から「美味いよなぁ」と感心しつつ味わっている品々に、ウチの商品もすこし添えた「日光の美味七選」の予約受付を、本日午前9時発行のメールマガジンにより開始する。
この「日光の美味七選」を始めたのは2007年の12月で、ということは今年で6回目ということになる。「友達の店だから」とか「むかしからの顔なじみだから」とか、そういう村社会の義理がらみで選んだ品々ではないため、この企画を各々のお店に持っていくときには少なからず緊張をした。その気持ちは、いつまでも忘れないようにしたい。
「日光の美味七選」は送料込み1万円で限定40セット。年越し蕎麦も含む、大晦日必着の商品だ。自社ショップのシステム上、売れるたびカウンタが40からひとつずつ減算されていく、といった便利さは望めない。
終業後に事務室から居間へ上がったら即、コンピュータを開く。音量を「屋外モード」に変更した携帯電話が、注文が入るたび鋭い音を発する。18時56分50秒に最後の1個が売れると、僕は大急ぎで購入ページを非表示にし、ウェブショップから購入ページへ至るリンクを外す。
そうして冷蔵庫から日本酒の四合瓶を抜き取り、茶箪笥から取り出した湯飲みにその中身をトクトクと注ぐ。
きのうのいきなりの初雪には少なからず驚かされた。「鉛色の」と書けば僕の好まない慣用的表現になるけれど、雪を降らせた暗い空はその後すぐに晴れ、陽の光さえ差しはじめた。何とも忙しい天気の変わりようである。
その好天は夜が明けても続き、駐車場の一角に植えられた紅葉の根元には、風に吹き寄せられたあれこれの葉が、朝日を浴びて暖かそうにしている。
朝の風景こそ長閑だったが、12月の第1日曜ともなれば店は忙しい。師走の月は製造も事務も仕事が多い。仕事が多ければ残業が発生する。残業をすると晩飯を作る時間が失われ、外食が増える。
昨年12月の日記を調べてみれば、まぁ、中には忘年会なども含まれるけれども、31日のうち18日は夜に外食をしていた。そのすべてに数千円を投じていては懐の中身が枯渇する。
そういう次第にて今夜は小倉町の「ユタの店」へ行き、雲呑などを肴に焼酎のお湯割りを飲む。
現在、僕が焼酎を預けている店は指折り数えて4軒ある。しばらく行かないと「あれ、あのボトル、まだあったかな」ということになる。よってこれからは各々の店を訪ねるたび、そのボトルの画像を残しておくこととする。「オレ、忙しいからさ、君、代わりに飲んどいてくれ」というようなことは、僕は言わない。
「そろそろスタッドレスに換えますか」と先週「EBエンジニアリング」のタシロジュンイチさんに訊かれたときには「いやぁ、クリスマスのころまで大丈夫じゃないですか」と答えた。それから数日すると販売係のハセガワタツヤ君が「いま北海道にいる大寒波が、もうすぐ関東まで降りてくるらしいですよ」と言ってきたので「えー、ほんとー」などと生返事をした。
午前に用度品の専用倉庫であれこれの在庫を調べていると、内張などしていない鉄の屋根に、何かの降り落ちる音がし始めた。その音は、聞き慣れた雨のものではない。
これまた鉄製の階段を駆け下り事務室から店舗駐車場に出てみると、そこには盛んに雪の降る景色があった。子供のころは雪が積もると嬉しかった。今でこそ積雪は好まないが、しかし降るそばから融けてしまう雪であれば、この齢になっても歓迎する気分がある。
そして取り急ぎタシロジュンイチさんに電話を入れ、ホンダフィットへの、スタッドレスタイヤの取り付けを頼む。