新しいウェブショップのために日光連山の画像が欲しいと、デザイナーに言われている。しかし今年は梅雨が長引いたため、まともなそれはいまだ得られていない。
「山は冬こそ綺麗だ」という人がいる。冬は空気も澄んでいるから、直線距離にして20キロちかく離れたウチからでも、山肌の細かいところまで窺うことができる。
しかし僕からすれば、日光の山の様子は夏が一番である。湿り気を帯びた樹林が朝日を受けて、得も言われない緑色に染まるのだ。問題は、そういう朝、そういう瞬間には、ひと夏に1度か2度しか出会えない、ということだ。ウェブショップが公開されるまでに、その、無数の緑色が響き合うような山の画像が撮れるかどうかは運まかせである。そして今日のところは屋上に上がっても、ツバメばかりを追いかける。
事務室から製造現場へ向かう途中の棚に「風鈴」と書いた箱がある。それを目にするたび「まだ梅雨は上がっていないからな」と、通り過ぎていた。
梅雨が明けたと実感をしたのはきのうのことだ。しかし風鈴のことはすっかり忘れていた。だから今朝、通路で風鈴の箱を見かけて「おっといけない」と、すこし反省をした。そしてその箱を外へ持ち出し、脚立を立てて、犬走りの梁の5個所にそれぞれひとつずつ風鈴を提げる。
そうして脚立を降りて「さて」と、その涼しげな音色を待ち構えても、そういうとき限って風は吹かない。
関東地方の梅雨明けはおととい28日と報じられた。しかしきのうの朝の空には、梅雨明けのくっきりとした鮮やかさは感じられなかった。事実上の梅雨明けは今日ではないかと、今朝の空の青さを見て思う。
夕刻より家内といろは坂を上がり、中禅寺湖畔の高台にある駐車場にホンダフィットを駐める。臨時の停留所は、階段を降りた目の前に設けられていた。そして間もなく来たピストンバスにより、中禅寺とは目と鼻の先の駐車場まで運ばれる。
寺の門前には近隣のレストランや物産店などが屋台を出し、鮎の塩焼きやビールを売って賑わっていた。参道の門をくぐり右手の鐘楼に上ると、開山から1,250年目にして初めて開帳される吉祥天を見ようとする行列の、予想外に長いことがうかがわれた。しかし我々の目的は、そこにはない。
境内からふたたび湖畔の道に出て歩き、歌ヶ浜第1駐車場に設けられた会場の、17列6番の席に着く。並べられたパイプ椅子は、およそ1,000客ほどはあっただろうか。
左手には中禅寺湖と男体山、右手には中禅寺の背負う鬱蒼とした森。太陽は山の端に沈んでも、あたりはなかなか暗くならない。それでも関係者の挨拶、あちらこちらのお寺から参集した僧たちの声明、そして解説の高野和憲が去るころには、かがり火は赤々と燃え、また舞台後方の巨大な楠は照明を受けて、萌え緑に闇から浮かび上がっていた。
野村万作、萬斎、裕基による狂言は、二人袴と六地蔵のふたつが演じられた。狂言を観るのはおよそ45年ぶりのことだったけれど、相変わらず面白い。狂言という喜劇は、悲劇的要素や感傷ををみじんも含まないところが好きだ。
そしてまたいろは坂を下り、下界へと戻る。
スタジオジブリに雇われたアメリカ人が日本に来てみたら、仕事場には電話はかかり放題、人は訪ねて来放題だったから「一体全体、日本人はいつ、どこで仕事をしているのか」と驚き恐れ、早速、アメリカ式のオフィスを用意してもらったという。
僕の仕事の環境も上記に違わず、電話、電話、また電話。アポ無し訪問、アポ営業、「たまたま近くに参りましたのでお寄りしました」の連続である。「事前に連絡の無い人とは決して会わない」という知り合いもいるけれど、それをすると、場合によっては角が立つ。
そういう次第にて、今朝も2時台に目が覚めてしまったことを逆手に取り、取引先から求められていた宿題をこなす。そしてそれを3通のメールにして送る。
激しい咳はいまだ治まらない。よって3日ぶりにセキネ耳鼻科を訪ねて「悪化しました」と告げると先生は苦笑いをしながら診察をし、今度は漢方薬ではなく、抗生物質、咳止め、去痰剤、そして気管支拡張のための貼り薬を処方してくれた。
帰社してすぐにそれらを飲み、あるいは貼り、しばらくすると、咳は嘘のように去った。ちっとも効かなかった漢方薬は、食堂の薬専用の引き出しに、取りあえずは収めた。次回、おなじような、しかしもっと軽い症状の出たときに使ってみようと思う。
今秋の、羽田とチェンライを往復する航空券を3月21日に購入する際、来年1月に失効するパスポートを更新するよう、旅行社には求められた。しかし6月のミャンマー行きとタイ行きには、いまだ現在のパスポートを用いた方が期限を有効に使える。そういう考えからつい先日まで、役所を訪ねることはしなかった。
パスポートの更新手続きをしたのは今月19日のことだった。そして本日、新しいパスポートを無事、スーパーマーケット「かましん」1階の市民サービスセンターで受け取る。
帰社して即、そのパスポートのコピーを旅行社にファクシミリで送る。すると間もなく担当者がメールで返事をくれて、そこにはeチケットの控えは可及的すみやかに届けること、また往復の座席は僕の希望どおり、機体の最後尾ちかく、飛行機の胴体が狭まって、窓際の3席が2席に減ったところに取れたことが書かれてあった。
往路に乗るタイ航空機のシートマップを念のため調べてみると、"Boeing747"の、壁際の3席が2席に減っているのは最後尾の左右計12席。そして僕以外の11席は既にして埋まっていた。
つい先日、ウェブ上で目にした情報に、エコノミー席の中でも特に安く売られた航空券ほど後席に固められる、というものがあった。嘘かまことかは不明ながら、とすれば半年も前から最後尾の席を希望する僕などはとんだ珍種、ということになる。
壁際の3席が2席に減る最後尾ちかくには「機内という社会」から隔絶された、まるで繭の中にでも閉じ込められたような雰囲気があり、それが僕の隠遁願望に合致するのかも知れない。
激しい咳に目を覚ましたのは昨晩23時30分のころだ。気管の炎症を弱めるための漢方薬をきのうセキネ耳鼻科に処方され、飲みはじめてはいたけれど、この手のものに即効性は期待できない。
それにしても咳は治まりそうにない。しかたなく起きて食堂へ行く。そして薬ばかりを収めた引き出しから龍角散を取り出し、ひとさじ飲むと、咳はピタリと止んだ。龍角散がこれほど効く薬とは知らなかった。
龍角散のいちばん小さな缶を、1ヶ月のあいだに使い果たしたことがある。1980年、インドでのことだ。
昨秋、タイ北部の乗り合いバスの中にひどく咳をする男がいた。この男にうつされたらしく、旅の後半は咳と微熱に悩まされた。ことし2月のタイ行きの際には、その昨秋のこと、また遠い昔のインドでのことを思い出し、龍角散のいちばん小さな缶を旅の荷物に加えた。
この龍角散は、いまだシュリンクフィルムで包まれた新品のままだから、できれば次の旅まで仕舞っておきたい。よって今朝は、きのうの夜から使っているもっとも大きな缶のそれをショルダーバッグに入れ、下今市07:45発の上り特急スペーシアに乗る。
あくまでも予定ではあるけれど、ウェブショップを9月1日に一新する。それにともないこの日記も"Word Press"によるそれに変わる。デザインは現在のものが引き継がれる。しかしページの横幅が増すところから、ヘッダの帯は入れ替えなくてはならない。
そのための画像を先日、デザイナーから求められた。それらは徐々に集めてはいたけれど、すべてが揃っていたわけではない。その足りない分を今朝は"NIKON D610"および"RICOH GRD"で撮った。
いまひとつ満足のいかないそれらをひとつのフォルダにまとめ、4階の自宅から事務室に降りたところで先日、購入してから6回目の故障を起こして修理に出していた"RICOH CX6"が浮間舟渡のサービスセンターから戻ってきた。
よってこれを持ち、4階へときびすを返す。そうして朝に撮ったとおなじものを撮りなおす。僕の手持ちのカメラの中では、こと近接撮影に限っては、この"CX6"が一番なのだ。
そうしてまたまた事務室に降り、ひとつひとつの画像についての説明文を、デザイナーに宛てて書く。
旅の本は読みすぎているから今となってはどこに書かれていたかの記憶は無い、とにかくその人は旅の荷物に爪切りは欠かせないとし、更には旅先ではなぜか爪の早く伸びるような気がすると加えていた。
旅先では爪は通常よりも早く伸びる、そんなことはないだろうけれど、この人の文章を読む前から僕は旅行には欠かさず爪切りを持参してきた。
その"JA.HENCKELS"の爪切りは、折りたたんであるときには長さ60mm、幅11mmの小ささながら切れ味は舌を巻くほどのもので、僕はこれを20年ちかくも使い続けている。
それほど優れた爪切りでも、いかんせんその小ささから、足の爪には歯が立たない。足の爪は旅に出る前に切りそろえておくことが肝要である。
青森には"KEEN"のゴム草履を履いていった。そこではじめて足の爪の伸びすぎていることに気づいた。そして本日、家の木の床に座り込んでそれを切りつつ「一体全体、足の爪を切る頻度はどれほどのものだろうか」と疑問に感じ、爪を切り終えると同時に今日の日付をコンピュータに記録した。
足の爪がどれほど伸びているかは、爪先を一瞥すれば分かることだ。それでも気になり始めるとどうにもならない。そういえば先月24日にバンコクの美容院で胴回り1メートルほどのオネーサンに刈ってもらった髪の毛も、そろそろ整えなくてはならないほど見苦しくなっている。
目を覚ますと、その気配に気づいたらしいマルヤマタロー君が「いま何時」と訊く。枕の下のiPhoneを確かめると時刻は1時30分だった。喉の調子が悪いため洗面所に立ってうがいをする。
二度寝をしてふたたび目を覚ますと4時30分になっていた。外に面した障子が明るさを帯びている。よって起きてタオルを持ち、大浴場へと向かう。
ここの露天風呂からは、左に津軽半島、右に夏泊半島、そして遠く下北半島が一望できる。ただし津軽湾と津軽海峡をつなぐ平舘海峡は、多分、目の前にある湯の島の真向こうに位置するのだろう、窺うことはできない。
朝食は7時からとのことだったけれど、ゴルフ組のため幹事のセキグチヒロし君がホテルに交渉し、6時45分から摂れることになった。それに僕のようなゴルフをしない者も便乗して早くから食事にありつく。
ゴルフ組は7時30分にホテルを去った。同室のマルヤマ君とシゲマツ君は、八戸の羽仁もと子記念館を見学するため9時に引き払った。以降は僕ひとり部屋に残り、安息をする。
09:50 ホテルのバスにより浅虫温泉駅に送られ、青森駅までの切符を買う。
10:04 浅虫温泉駅発
10:28 青森駅着
10:45 新青森駅着
その新青森駅のコンコースに棟方志功の「二菩薩釈迦十大弟子」の複製が飾ってあるのを目にして「しまったー、記念館、観る時間、取っておくんだった」と後悔しても遅い。早々に上がったプラットフォームに「はやぶさ18号」が入ってくる。
11:52 新青森駅「はやぶさ18号」発車
12:45 盛岡駅着
13:29 仙台駅着
今回の小旅行には、岡潔の読むに骨の折れる本、および野地秩嘉による楽な本の2冊を持参した。骨が折れるにもかかわらず、ザックから取り出すのが岡潔ばかりとは、どのような理由によるものか。
13:44 仙台駅「やまびこ142号」発車
13:57 白石蔵王駅着
14:29 郡山駅着
14:57 宇都宮駅着
15:05 宇都宮駅発
15:39 今市駅着
仕事らしいことをすこしばかりするうち閉店の時間になる。夜はそれほど食べずに胃を軽くしておく。そしてきのうとおなじく20時30分に就寝する。
東北新幹線の「はやぶさ5号」に乗るべく東京駅の21番プラットフォームに上がったところで同級生のアケミツシ君に声をかけられる。それからしばらくして、今度はシゲマツアキラ君の姿を認める。自由学園男子部35回生は同窓会のため、青森県の浅虫温泉へ向かおうとしている。この列車には、他にも何人かが、いくつかの駅から乗ってくるらしい。
08:20 東京駅「はやぶさ5号」発車。
09:40 きのうの日記を書き終える。
09:50 仙台駅着と同時に乗客が急に少なくなる。
10:31 盛岡駅着
11:15 車窓の萬緑が、トンネルにより頻繁に寸断される。
11:35 新青森駅着。北国の空気の爽やかさに驚く。
11:41 JR奥羽本線に乗り換えて青森駅着。
12:04 青い森鉄道に乗り換えて青森駅発。
12:24 浅虫温泉駅着。
青い森鉄道の客車は2両編成の小さなものながら、これが怖いほどの速度で飛ばす。人家が途切れ、青森駅から望めた海がふたたび現れると、そこが浅虫温泉だった。同級生の数は8名ほどに増えている。
駅前の道の駅などをしばし散策してから、浅虫温泉の駅に着く直前に見えた、同級生イシキモトオ君が経営する石木医院に徒歩で向かう。
13:25 石木医院に併設された「浅めし食堂」着。
食の片寄りがちな高齢者が、たとえ1日に1食でも、栄養に優れた温かい食事を、ひとりでなく大勢で食べられるように、との思いから、イシキモトオ君と奥さんが中心になって作られた食堂で昼食をいただく。大豆、人参、こんにゃく、長芋、椎茸などを具にしたカレーライスが驚くほど美味い。
15:15 イシキ君の奥さんのお墓に参る。
15:29 イシキ君の生家の前を歩きつつ来た道を戻る。
15:45 駅前から送迎バスに乗って「浅虫さくら観光ホテル」着。
ホテルを隔てて海の反対側に見えている水族館へ出かける者も少なくないなか、僕はひとり大浴場に向かう。露天風呂の、ひとり用の浴槽につかって眺める陸奥湾と、手の届きそうなところにある湯の島の姿に心が癒える。
18:00 宴会開始
20:20 宴会終了
20:30 就寝
総合デザイナー、デザイナー、カメラマンの3人組による商品撮影に、南青山のスタジオで立ち会う。昨年の経験に照らして、このメンバーとの仕事においては、乞われたときのみ意見を述べ、あとはそばでその様子を見ている、あるいは見ることすらせず勝手にしていることが最上と知った。よって今日もそのようにしている。
長男はここに10時から詰めた。僕はらっきょうのたまり漬が蔵出しされるのを待ってそれを持参したため、着いたのは正午の直前だった。
撮影は17時には終わると告げられていたけれど、僕はハナから信じていなかった。そして僕の予想した通り、19時を前にしてようやく完了した。
今日の画像は、9月1日に開かれる予定のウェブショップのためのものだ。開店までに残された日数は5週間。正に、尻に火の着いた状態である。来月は関係の各方面に、繁く足を運ぶことになるだろう。
そうして夜はスタジオちかくの居酒屋に移り、軽く打ち上げをする。
「すべてのものは」と断定してしまっても良いものかどうかは分からない。しかし大体において、すべてのものはすり減っていく。僕はすり減らないものが好きだ。次に好きなのは、すり減りづらいものだ。
風呂から上がると2枚のバスタオルを使う。このところすり減って穴の開いた2枚を捨てた。いまだ4枚は残っているけれど、そのうちの2枚は外へ出るとき首に巻いて汗拭き代わりにするためのものだから風呂では使えない。
小遣い帳に検索をかけると、前回の購入は2011年5月25日と知れた。先日捨てた2枚は、その前年の7月22日に買ったものだろう。
きのう注文した2枚のバスタオルは、本日の午後、佐川急便のオニーサンにより届けられた。その箱を開けてみれば、漂白をしていないらしい茶色の、分厚くどっしりとした麻の布が几帳面に折りたたんで入れられていた。
新しいうちは固く、それほど水を吸うでもないこのタオルはしかし、使い続けるうち徐々に柔らかくなり、馴染んでくる。そして僕の使い方なら6年は保つ。
分厚くフワフワのバスタオルの方が肌には気持ちが良い。しかしそのような巨大な容量を持つものは、それだけで洗濯機の大部分を占領し、洗うたび水も洗剤も大量に使う。肌には心地よいけれど、心にはしっくりこないのだ。
2枚の無骨な布を箱から取り出し、部屋のチェストへと収める。これでしばらくは安心である。
5月の連休や紅葉の季節の週末、つまり大混雑の日光にフラリと来て「どこか泊まるとこ、ありませんかね」と訊く人がいる。行き当たりばったりの旅を否定するつもりはない。ただしホテルの空き部屋について僕に訊くことは止めて欲しい。
今秋の、羽田とチェンライを往復する航空券は3月21日に購入した。帰路に1泊するバンコクの宿は5月30日に予約した。しかしタイ最北部での7日間の予定は定まらず、よって宿を決めることもできなかった。
その、現地での行動がきのう、ようやく確定した。そして今日はそのあいだの7泊分のホテルを予約した。
「行動が確定した」などと書けばなにやら格好が良いけれど、その内容はといえば、明け方は窓からその景色を眺め、朝は粥を食べ、昼は散歩、そしてプールサイドで本を読む。午後はまた部屋から景色を眺め、夜は街のメシ屋で酒を飲む、その繰り返しである。
ほとんど何をしないにしても、計画と準備は欠かせない。あるいはほとんど何もしないために、僕は計画と準備をするのかも知れない。
自分はケチなのか、はたまた鷹揚なのか、ということがよくわからない。ひとつだけ薄ぼんやりと見えているのは、何年も保つものについてはケチで、一瞬にして消えるものについてはそれほど惜しまない、ということだ。
人にメシや酒をおごる、団体や個人に寄付をしたり祝儀を手渡したりする、そういうことに対しては僕の財布の紐は緩い。「だったらオレにメシをおごれ」、「だったらウチに寄付をくれ」という人がいれば、しかし「オレにも相手を選ばせろ」と返したい。
ケチなのは耐久消費財や服について、である。
昨夏、そろそろ処分するよう家内に言われた2着のポロシャツを今夏も着ている。白かった生地は灰色ばみ、袖口などは擦り切れ加減ではあるけれど、いまだ襤褸の範疇には入らず踏みとどまっている。多分、来夏も着られるのではないか。
先日"KEEN"の、大きく亀裂の入ったサンダルを履いて製造現場におもむいたときには、その割れ目から床の水が浸み上がり、靴下を濡らした。とはいえ地面の乾いたところではいまだ充分に使えるため、これも惜しくて捨てられない。
そんな僕でも近未来への備えはしている。今日は送料無料のキャンペーンに乗じて税込1,609円のポロシャツ4着を京都の"easy"に注文した。使い初めは再来年になるだろう。
1992.0414 RICOH LXN20
1994.0805 RICOH α?NOTE
1995.1016 ThinkPad 530
1997.0305 ThinkPad 535
1999.0524 ThinkPad 535X
2000.0816 ThinkPad 240X
2001.0927 ThinkPad s30
2002.0820 ThinkPad s30
2003.1017 ThinkPad X31
2004.1227 ThinkPad X31
2006.0823 ThinkPad X60
2008.0325 ThinkPad X61
2011.0804 Let's Note N10
1980年代の、いわゆる"9801"を除けば、僕は上記のようにコンピュータを換えてきた。最上部のリコーの2台はデータベースソフト"My Tool"の専用機。以降はこのソフトがウインドウズに対応するようになったため、仲間内に持つ者の多かった"ThinkPad"にこれをインストールして世界は一気に広がった。
"ThinkPad"の、キーボード中央に設けられたトラックポイントの使い勝手は素晴らしく、これがある限り"ThinkPad"からは離れられないとする僕の考えを変えたのは、その製造が"IBM"から"Lenovo"に移ったことによる質の低下に我慢できなくなったからだ。
上記に明らかなとおり、"ThinkPad"を最も長く使った期間は"X61"の3年4ヶ月。それに比して初めての"Let's Note"は、購入から4年11ヶ月を経ようとしている今も、新しい機種に換える必要はまったく感じていない。
"ThinkPad"から"Let's Note"に移る際には、ポインタを動かす手段がトラックポイントからパッドに変わることに不安があった。しかしこれにはほんの3、4日で慣れて、自分でも驚いた。
"Panasonic"は秋葉原にサービスセンターを持っている。インターネットで予約をすれば、係はこちらの到着を待ち構えていてくれる。朝一番に行けば大抵の修理は同じ日の午後には完了する。問題のあった個所以外のところも「ついでに交換しておきました」などというオマケがたまにはあって、有り難いことこの上ない。
製品の堅牢さが維持され、このサービスセンターが存在する限り、僕が"Let's note"から離れることはないだろう。それらの利点からすれば、筐体の格好の悪さなどはほとんど無視できるのだ。
買って1年以内に5回も合焦関係の故障を起こした"RICOH CX6"が、最後の修理から10ヶ月を経た今年5月、またまたマクロでしか合焦しなくなった。しばらくはマクロモードでのみ使っていたこれを、先日遂に修理に出した。以降はおなじリコーの"GR DIGITAL"を使っている。しかしマクロならやはり「CXシリーズ」である。
先端にLEDを仕込んだ新しいマクロレンズをキャノンが出したことを今朝、facebook上の宣伝で知った。リンクを辿ってみれば、それはキャノンのミラーレス機のためのものだった。単体で売られるレンズなら、そのほとんどすべては一眼レフに装着して使うことを目的とする。そのことに改めて気づいて「だったらオレには向かない」と一気に興味を失った。
必要に迫られニコンの"D610"は持ってるけれど、本来僕は、一眼レフは好まない。カメラの内側が簡単に口を開いてしまう構造が好きになれないのだ。
2011年12月3日に発売された"CX6"を最後として、リコーはその後継機を出してこない。いくら性能が良くても大きなカメラは持つ気がしない。「マクロに優れたコンデジは他にもあるではないか」と言われても、僕は"RICOH"のカメラの簡素さが好きなのだ。
5回の修理記録を同梱してセンターへ送ったカメラにリコーはいくらの費用を請求してくるか。高く感じられるものであれば、修理は諦めざるを得ない。
「ウチは課長から上は、大抵、夜10時ちかくまでは会社にいます」と自慢げに語った社長がいる。僕の口から反射的に出た言葉は「腹、減りませんかね」というものだった。「課長から上」なら残業手当も支払われないに違いない。
「夕方はさっさと上がって酒を飲むなり家族とメシを食うなりすべき」というのが僕の考えであり、自分もそうしたい。ただし月曜日から日曜日まで休みなく働くについては、僕はまったく平気である。精神も肉体も、そのような環境に順応してしまっているのだろう。
夕刻、店に立っていると、僕の目からすれば日本人ばなれした格好の良い女の人に連れられて、中国人らしい方々が入っていらっしゃった。しばらくしてその店内で、お選びになった品を包装するよう、僕にお手渡しになったお客様がいらっしゃった。
よって「ご自宅へのお戻りはいつでしょう」と英語で問いかけると、そのお客様に限っては日本人でいらっしゃった。なかなかややこしい、そして楽しい時代になったものである。
10日ほども前のことだっただろうか、ホンダフィットの運転席に着き、音楽を聴こうと左手のグローブボックスを開くと、そこにあるはずのCDが1枚残らず消えていた。
指折り数えてみれば、何百枚あるか知れない手持ちのCDの中でもっとも好きな3枚を含めた計6枚を、ここしばらくはクルマに常在させていた。掃除や修理のためそれらをどこかに移した記憶はない。施錠することなくクルマを離れることはままあるけれど、CD専門の車上荒らしなどは考えづらい。
6枚のCDは一体全体、どこに行ってしまったのだろう。1枚また1枚と、これからまたamazonで買い集めなくてはならない。
日本でも海外でもビールを飲むことはほとんどしない。アルコール度数の低さが口腔や脳にもどかしさを感じさせるからだ。もうひとつ、ビールによる酔いは、これは僕に限ったことかも知れないけれど、舌を鈍くさせるからだ。蒸留酒のチェイサーとしてならたしなまないこともないけれど、それも希だ。
そして終業後はいそいそと台所に立ち、焼酎のソーダ割りのための肴をこしらえる。
きのうの夕刻、二の腕に鳥肌が立って寒気を覚えたので「これはまずい」と感じた。風邪の予兆である。よって閉店を待って即、イソジンでうがいをした。
喉の痛みにより目を覚まして洗面所へ行く。時刻は午前2時だった。「こんなこともあるだろう」と、寝る前から食堂の机に用意しておいた、今年の正月にセキネ耳鼻科で処方された抗生剤と消炎剤の残りを飲む。
5時すぎにふたたび目を覚ますと、喉の具合は幾分、良くなっていた。朝食の後はおなじ薬を飲んで、開店の準備におもむく。
今日は八坂祭の最終日にて、渡御の行列を会所で迎えたり、あるいは町内の注連縄、また子供みこしの片づけなどがある。残念ながらこれらには参加のできないことを、朝のうちに公民館へ出かけ、ウカジシンイチ自治会長に伝える。
多分、頭やからだを過重に使って疲れが出たのだ。そう考えて、15時までは寝たり起きたり、あるいは食堂のテーブルで仕事をしたりする。
夕刻の早い時間に激しく雨が降る。雨滴が強風により容赦なく庇の下まで吹き込むため、お祭の提灯やノレンを大急ぎで事務室に取りむ。しばらくすると雨はウソのように上がり、日さえ差しはじめた。即、ノレンのみ元の場所に戻す。
今回の症状に対して薬は充分に強かったのだろう、、また休息も効いたのだろう、店を閉めるころには体調はほぼ旧に復していた。よって目と鼻の先の紅葉屋酒店に出向き、蒸留酒を割るためのソーダを買う。
亡くなった順からすれば、妹、おじいちゃん、オヤジ、おばあちゃん、オフクロとなる。とにかくすべて覚えている各々の祥月命日のうち、忘れようもないのは妹のそれだ。今朝はそそくさと食事を済ませ、霧雨の降る中、如来寺のお墓に家内と参る。
つい先日まで、テレビのニュースは関東地方に水を供給するダムの水量不足を伝えていた。しかし現在の列島には、特に九州を中心として、大雨による水害に気をつけるよう、注意が呼びかけられている。ダムの水は、いくらかは増えているのだろうか。
顔は日本人だけれど、その姿はまるで"patagonia"のカタログから抜け出てきたような均整のとれた長身で、こんがり焼けた肌のカップルが夕刻、いらっしゃった。
女の人はいくつかの品をお選びになってから、香港に持ち帰るまでは、やはり冷蔵庫に入れる必要があるだろうかとお訊きになった。ホテルの部屋に冷蔵庫があるならば、そこに出発まで保管をして、そこから香港まではウチで用意した保冷パックに入れて欲しい旨をご説明した。すると彼らは、そういうことなら日光にはいまだ数日は滞在するのでまた来るとおっしゃってホテルに向かわれた。
それからいくらも経たないうちに、またまた中国語を話す集団が見えて、あれこれと買い物をしてくださった。帰国日を問えば来週の月曜日とのことだったから、先ほどの、香港からいらっしゃったカップルにしたとおなじ説明を繰り返す。
一時は製造現場にいる長男を呼びに行こうかとも考えたけれど、どうにか英語で乗り切った。今日のお客様がウチの味噌や漬物をご自宅でどのように調理されるかについては、大いに興味のそそられるところである。
冬は一度に着る服が増えるのでおしゃれができて嬉しいと書いている人がいた。僕はそれとは逆に、夏は一度に着る服が少なく済むから嬉しい。特に、きのうから今朝にかけて身にまとっているのは下着、ポロシャツ、タイパンツ、草履の4点のみで、しごく楽である。
荷物の多寡は季節にも左右されるけれど、またその時の仕事の内容にもよる。
タブレット型のコンピュータを持つと、それまでの、キーボードを装備したコンピュータは使う気がしなくなるというけれど、文字を速く正確に打つこと、またSNSへの発言を誤りなくアップすることなどを考えれば、僕はタブレット型は選びづらい。
おとといの日記は、きのうの朝には既にして書けていた。またきのうの夕刻から今朝にかけてはコンピュータの必要もなかった。よって今回の持ち物はサイフ、名刺、電車の切符、PASMO、文庫本、iPhone、常備薬、そして手拭いだけで済んだ。理想のかたち、である。
目を覚ましてしばらくしてから枕頭のiPhoneに触れると時刻は2時51分だった。眠気は感じなかったから直ぐに起床して食堂のテーブルに着く。
中学生のころ、勉強をしながら気分を入れ替えるため外に目を遣ると、東には朝の空があり、しかし西の空にはいまだ夜の空があった。今朝、そのことを思い出して、おなじように日の昇る方角を見る。そうして今度は北西に面した窓を開ける。するとそこには案に相違して、既に明けつつある空があった。
東と西にそれぞれ朝と夜の空を同時に望むことができるのは、あるいは冬に限ったことなのかも知れない。
小さなショルダーバッグに最小限のもののみを詰めて、下今市15:05発の特急スペーシアに乗る。
今月の23日から同窓会で、青森県の浅虫温泉へ行く。同級生の中には「切符はモバイルSuicaで買うと安いぞ」などと教えてくれる者もいるけれど、そのような難しいことは僕にはできない。
「えきねっと」ならどうにかなるだろうと会員登録をした。そして往路は東京から浅虫温泉、復路は浅虫温泉から日光の、新幹線を含む切符を買おうとして、しかし挫折した。
エアアジアの、ナラティワートからドンムアンまでの航空券はネットで簡単に買えた僕が、日本の電車の切符は難しくて、あるいは面倒で買えないのだ。どこかおかしくないか。会員になったばかりの「えきねっと」からは即、退会した。
北千住の「みどりの窓口」には長蛇の列が入口付近まで伸びて、開きっぱなしの自動扉からは外の熱気が容赦なく滲入をしていた。よって余計な交通費かけて新橋に転進する。
ここの「みどりの窓口」にも大勢の待ち客がいた。しかし自動扉が閉まらないほどではなかった。そして僕の必要とする切符は、そろばんを鳴らすトニー谷の右手のような軽やかさで発券機のディスプレイをタップし続けた、子供のころから鉄道ヲタクだったに違いない係員により無事、出力をされた。
そこから乃木坂へ移動して、仲間内の勉強会に出席する。その勉強会を終えて、ふたたび乃木坂に戻る。このあたりの景色は20代のはじめのころも、また還暦が間近に迫った今も好きだ。そして更に、この坂を下っていく。
おとといの8日は雲が厚く、さしもの3人組も、日光の山々の写真を撮ることはできなかった。映画の黒澤組ではないから居残って晴天を待つわけにはいかない。山の写真は僕に託された。
今日が晴れになることはきのうから分かっていた。よってiPhoneには午前4時のアラームを設定して寝たけれど、今朝はその時間より早くに目が覚めた。
3人組の下調べによれば、日光の山々は大谷川の、円山公園と瀬川のあいだに架けられた橋の上からの姿が最上とのことだったから、ニコンD610を紙の手提げ袋に入れ、4時30分に家を出る。
橋の上には数十分ほどもいて何枚かの写真を撮ってはみたものの、今の季節は太陽が北に寄ったところから上がるため、女峰山と赤薙山のあいだの谷が、かなり広く陰になってしまう。
よって太陽が完全に昇った時間にいまいちど撮影しようと帰宅し、朝食を摂る。そうするうち、今度は山が雲に覆われてしまった。明日以降も環境さえ整えば、最上の画像を得るべくカメラを持ち出すまでだ。
政治を語ることについては「政治を語ることを好む人」および「頭の良い人」の二者に任せ、自分は一切、それをしない。しかし選挙においては必ず投票はする。日曜日は平日の3倍は忙しいから、投票所の今市小学校には開店前の7時45分に出かけた。
夕刻、春日町1丁目のおみこしが近づいて来たらしい笛の音とかけ声が聞こえ始める。僕は接客もそこそこに外へ出て、その一行を迎える。店の駐車場で若い人たちがおみこしを揉んでくれるのはとても嬉しい。彼らは今夜、春日町1丁目の公民館で直会を楽しむのだろう。僕はその席には参加をせず、家で静かに焼酎を飲む。
夏のお祭は長く続くところが好きだ。提灯を提げるための赤柱を製造係のイトーカズナリ君が店の前に出してくれたのは、今月2日の土曜日だった。それから1週間を経ても、八坂祭はいまだ終わっていない。
08時30分、雨の中、町内の婦人会長ツカハラノリコさんがレインコートと雨傘の重装備で店の前を横切りつつあったから、僕は即、呼び止めた。お祭のためのおむすびに使うたまり漬は何時ごろ公民館に持参すべきか、それを訊くためだ。自分が持っていってもかまわないと、ツカハラさんは言ってくれた。よって前婦人会長のタケダミツコさんから今朝、教えてもらった数をツカハラさんに手渡す。
09時30分、坂本屋酒店から届いていた、熨斗に僕の名を墨書した御神酒を公民館へ持参する。大御輿の巡行を担う人たちに食べてもらうためのおむすびは、婦人会の面々により着々とその数を増やしつつあった。
12時05分、 雨は止んでいる。しかし空を見上げれば、強風に流される雲の様子にはただならないものがある。テレビの天気予報はきのうから列島各地に、水害や土砂崩れに備えるよう呼びかけ続けている。
15時55分、その重さ千貫ともいわれる、総鎮守瀧尾神社の大御輿が日光街道を下り来て、春日町1丁目の交差点を更に下っていく。雨のいきおいは隨分と弱まってはいるけれど、担ぎ手のシャツや半纏はすべて、濡れて肌に張りついている。
明日は春日町1丁目の御輿が町内をまわる。14日の木曜日には渡御の行列が旧市街を往く。夏のお祭は、長く続くところが好きだ。
3人組は昨夕の強烈な酒量をものともせず、今朝は6時前から仕事を始めた。そちらには長男が付き添い、僕は会社に残って開店の準備をする。
8時30分より、味噌蔵のある庭に建つ、むかしから「隠居」と呼び習わしてきた建物での、朝食の撮影が始まる。2012年6月、102歳で没したおばあちゃんが子供のころ暮らしていた家である。一体全体、何年前に建てられたものかはつまびらかでない。
写真のモデルは長男と嫁が務めた。3人組の腕の良さは昨年から知っている。コンピュータのディスプレイに次々と出力される写真の質の高さを見て、それらが現実と乖離することを長男は恐れた。
撮影は更に続く。「やぶ定」に電話を入れ、この場所をよく知るワガツマカズヨシさんに蕎麦の出前を頼む。温かい汁蕎麦を食べても汗をかかない涼しさである。
3人組は15時に東京へと去った。店と隠居とを何往復もした僕と家内は少なからず疲れた。夜は野菜とパンを肴に3種の酒を飲み、早々に寝る。
青空に真っ白な入道雲が立ち上っているわけでもなく、また気温がとても高いわけでもないにもかかわらず、空気が強烈に夏の香りを帯びている。
夏のらっきょう「夏太郎」が蔵出しされた今月2日、店舗入口の季節の書をこれまでの「萬緑」から「新らっきょう」に掛けかえた。普段の書は家内の筆による。しかしこの「新らっきょう」に限っては宇都宮の器屋「たまき」のあるじタマキヒデキさんに頼んだものだ。タマキさんの書く字が僕は大好きである。
今週の月曜日に引き続き、9月に新装するウェブショップに関わるうちの、今日は3人組が夕刻に来る。自分たちであちらこちらの下見を済ませてきた彼らとは、明日ための打合せを軽く行う。
所用で宇都宮に出かけていた長男が戻ると間もなく、閉店の時間になった。本日出勤の社員たちとのミーティング、このミーティングを日本語では何というのか、会議というほど大げさなものでもない、それを行って後、傘を差さなくても済むほどの雨の中に出ていく。
そうして3人組に僕と長男を含めた5名が小倉町の「和光」に集合し、飲酒活動を行う。
タイに行っているあいだに、甘木庵にかけた火災保険が満期を迎える旨のハガキが届いていた。3年一括払いの保険で、ハガキの宛名はオフクロになっていた。
甘木庵の火災保険の費用はオフクロの銀行口座から引き落とされていたから、これまで真剣に調べることはしなかった。今回その内容を見てみると、建物より補償額の低い家財に対する掛け金が、建物に対するそれの1.85倍になっている。そういう常識が、保険にはあるのだろうか。
甘木庵にあふれるオフクロの「モノ」については、オフクロの四十九日を待たずに家内とゴミ袋で十いくつも捨てたけれど、そこで我々は降参をした。素人が処理できる量ではないのだ。
そこで業者を頼み、オフクロの部屋を丸ごと空にしてもらった。他の部屋にはみ出したものも、ひとつ残らず持っていってもらった。現在の甘木庵に、いわゆる家財はほとんど無い。
それを思い出して本日、更新のため訪れた保険屋さんには、家財に対する保険は解約することを伝えた。気分は爽快である。
「モノを捨てると金が貯まりますよ」とある人に言ったところ「ホントですか」と、その人は懐疑の目を僕に向けた。ほんの一例ではあるけれど、モノを捨てれば上記のように出金は減るのだ。
既にして夏の繁忙期に突入している。今夜はその繁忙を乗り切るべく、店の駐車場で「ガンバロー会」を催す。
肴は家内や長男による手作りの品のほか、町内の肉屋「鳥秀」さんに頼んだ鶏の肉や内臓の串を長男が炭火で焼いた。タレは「日光味噌のたまり」である。サラダも焼き鳥も美味い。酒は、自分で濃さを調整したレモンハイにミントの葉を潰して入れてモヒート風だ。
僕は集団、つまり会合、パーティ、研修などに付随した酒は好まず、一刻も早くひとりになることばかりを考えている。しかし社員と飲む酒は好きだ。後片付けは社員たちが手分けをして素早く終わらせてくれた。心地よく酔いながら社員たちを見送り、4階の自宅へと戻る。
この日記はウェブログではなくウェブページだ。よって更新にはサーバへのファイルの転送が必要になる。海外へ出ると、それがほとんどできなくなる。「安全のためホテルがFTPポートを閉じているからではないか」とは、外注SEヒラダテマサヤさんの意見だ。今回バンコクで使った2軒のホテルでも、日記の更新はできなかった。
日記を書くことは旅の最中にも続けている。だからコンピュータの記憶媒体には、この日記は遅滞なく蓄積をされている。日本に帰ったら、それらを一気にサーバに転送することも可能だけれど、そうはしない。時差を置いて徐々に更新をしていく。それがようやく実際の日にちに追いついてきた。
この旧態依然とした、いわゆる「ウェブログ」を使う人からすれば、特に月や年をまたぐときには複雑な手順を要する日記も、ウェブショップの新装に伴い、9月からは"Word Press"によるものに変わる。ところが当方はこれまでの方法に慣れている。電動工具などは見たことも聞いたこともない明治、大正の大工のようなものだ。
よって9月1日の日記はあらかじめ下書きをした上で"Word Press"に詳しい人を訪ね、そこで更新をする。日記の書き方をハイパーテキストの手打ちから"Dream weaver"に変えた2007年7月のように、今回もコトはすんなり運ぶだろうか。一抹の不安を抱えている。
目を覚まし、闇の中で着替えて洗面所へ行くと、そこに置かれた小さな時計は3時18分を指していた。
どこかに疲れが溜まっていたか、タイから戻ると早起きができず、6時まで眠ってしまうことがしばしばだった。夕食ののち、食堂のテーブルでうたた寝をして遅い時間に入浴し、すると寝台に横になっても眠気は訪れず、眠れても長い夢を見ながら覚めてはまた眠り、ということを繰り返した。
それがきのうは夜の酒に酔いすぎることもなく、早くから風呂に入って早くに寝た。その結果が3時18分の洗面である。ようやく本来の調子が戻ってきた。
朝からいろいろな専門の人が来て、9月に新装するウェブショップのための、先ずは写真を隠居で撮る。またおなじくウェブショップに活かすための長時間の質疑を、今度は自宅で家内、そして僕と長男の順に受ける。完了したのは19時30分だった。
次の撮影は今週の金曜日に行われる。新しいウェブショップの姿は、説明は受けているものの、おぼろげにしか見えてはいない。信用して任せているのだから、それで良いのだ。
総鎮守瀧尾神社の八坂祭に先立ち、町内の、日光街道に沿った部分のみにではあるけれど注連縄を張る、その仕事をするため、15時に町内の公民館へとおもむく。
折しも公民館では、ウカジシンイチ自治会長とツカハラノリコ婦人会長が、公民館を会所とすべく、祭壇の飾り付けをしているところだった。室内の気温は多分、30℃を超えているだろう。
注連縄を張っていちど会社に戻ると、僕への電話やお客様の対応などが複数発生して、16時からの、子供みこしの組み立てには遅れて駆けつける。
我が春日町1丁目は日光街道を挟んで東と西に、各1基ずつの子供みこしを持つ。そのうちの西のみこしの組み立てに、どうにも分からないところがあって、別の場所で青年みこしを組み立て中の、オノグチショーイチ頭を呼ぶ。問題は一瞬で解決した。
日曜日は平日のおよそ3倍は忙しい。その合間を縫ってお祭の用意をしたため、いささか疲れた。いまだ営業中にもかかわらず4階の食堂に戻り、冷たい水を飲んでしばし座ったままでいる。
きのうはワイン蔵で見慣れないワインを見つけた。46年前に収穫されたブドウによるものだ。自分で買った覚えは断じてない。どこから到来したかの記憶も無い。これだけ古ければ澱もひどかろうと、棚から降ろして床に立てておいた。それを今夜は食堂に運び、安い牛肉によるステーキを肴に飲んでみた。風味は意外や良かった。「普段のものと違ってこれは酔いが速い」と家内は言った。謎の1本である。
パンフレットの表紙に使われているらっきょうの水彩画を拡大して印刷したパネルが、国道121号線と芝崎新道との交差点にある横断歩道橋から店舗までの白壁に取り付けられたのは、僕がタイへ行っている最中のことだった。
おなじ絵を焼き付けたノレンが、今日は日光街道を挟んで向かいの岩本京染店から届いた。「いつから使おうかな」とつぶやくと、イワモトさんはすぐそばの壁に掛けられたカレンダーを見て「今日は友引だわ」と応じた。
結局のところそのノレンは即、店舗とおなじ屋根の下の、向かって左側にある事務室の前、つまりこれまでは「日光味噌、上一醤油、たまり漬」と白く染め抜かれた焦げ茶のノレンのあった場所に掛けられた。
横断歩道橋から全長およそ125メートルに亘って連続するイメージが、このノレンに収斂する、ということだ。はてさて効果の程はいかに、というところではあるけれど、とにかく一連の工事、製作が夏の繁忙期のごく初期に完了して良かった。
そうして夜は春日町1丁目の役員として、会議のため公民館におもむく。
先月3日の金曜日、製造係のマキシマトモカズ君、同タカハシアキヒコ君、販売係のハセガワタツヤ君に長男を加えた4名は早朝より益子町の畑に出かけ、らっきょうを収穫した。このらっきょうはただちに下ごしらえの後、塩と酢のみで漬け込まれ、それがようよう漬かり上がった。
今朝は製造部長のフクダナオブミさんに僕と長男を加えた3名にて、この新らっきょうの売り方について話し合いをした。そして夕刻、今度は包装係のヤマダカオリさんも入れて、最終の検品をした。
「蔵」と呼び習わされている製造現場では、実はこの、甘味を加えていない、生に近い爽やかならっきょうが大人気である。これが完成したと聞くや否や、他の部署からも人が集まってきて、つまみ食いをするのだ。
「旬しあげ生・夏太郎」は週末に限定して蔵出しをすることとして、明朝から店頭に並ぶ。なにより、たかだか4名が午前から午後にかけて手掘りした量しか作られていない商品である。お盆には売り切れる気配が濃厚である。