ジョン・ヒューストンの自伝で定価3,360円の 「王になろうとした男」 について、"amazon" に 「1,000円なら買うよ」 と登録をしておいたところ、出品者から 「本に若干の歪みあり、途中約70ページにわたって閉じたときに分かる汚れあり、その他キズ、スレなどの使用感あり、それでもよろしければ送付する」 旨のメイルが届いたため 「問題ありません、活字は読めれば良いんです」 との返信を送る。
1990年のことだから検索エンジンで探したわけではない、どこかからの情報により、1975年製のあるワインが山梨県の酒屋に1本だけあることを知り、電話をしたところ、エチケットにシミがあると念を押されたが、「どうせ飲んじゃうんですから」 と、すぐに送金をした覚えがある。
本にしろワインにしろ、見た目の悪さからのみ安くなっている品はすべて、僕にとっては 「買い」 である。
目覚ましを朝4時に設定しておいたが、それよりも早く目を覚ます。事務室へ降り、途中で操作を誤ると振り出しに戻ってし直さなければならないたぐいの、コンピュータを使った仕事をする。大した用事でもない電話が毎日毎日たくさんかかる。大した用事でもない来客もある。自分の許容度が世間相場のそれよりも低いのかも知れないが、そういうことに煩わされる日中に精密な仕事はしたくない。
作業は1時間ほどで終わったから、
今月20日、自由学園明日館の講堂入り口で後輩が売っていたため求めた
目覚めて枕頭の携帯電話を手探りし、ディスプレイを見ると0時をすこし過ぎたばかりだった。部屋にはほかに6名が寝ていて勝手はできない。「こんなことならこの前、銀座の文房具屋で見かけた折りたたみ式の読書灯を買ってくれば良かった」 と、つくづく後悔する。
そのまま4時間が経ったところですこしウトウトし、気づいて 「もうすぐ朝だろうか」 と時刻を確かめると、先ほどから20分も過ぎていない。廊下へ出て風呂場の張り紙を見ると 「朝は6時から」 とある。その6時を待ちわび、温泉に入りたいわけではない、暇つぶしのために昨夕と変わらないちょうど良い温度のお湯に浸かる。
本日は事務室の人員が手薄のため早く帰りたいのは山々だが、泊まりがけの新年総会を無事に終えた 「栃木県味噌工業協同組合」 の一行は出発後にお土産を買うこととし、お魚センターのようなところへ立ち寄った。僕は何を買うつもりもなかったが、結局キンキ5尾とアンコウのぶつ切りを氷詰めにしてもらう。
茨城県の北部から栃木県の北部へ移動する途中には長い峠がある。弱い雨の断続するその山道を抜け、大田原で三菱シャリオに乗り換える。東北道、日光宇都宮道路を飛ばして12時ちょうどに帰社する。
夕刻にオフクロから電話があり、浅草駅18:00発の下り特急スペーシアに乗るから迎えに来てくれと頼まれる。そのため飲酒は為さず、晩飯の途中で上今市駅まで行く。下今市駅で乗り換えた日光行きの車両から、オフクロは段ボールの箱を引きずって降りてきた。箱の一部を取っ手のように引いて歩けるようにしたその応急のキャリーは全日本空輸の職員が作ってくれたのだという。シャルルドゴール空港の "ANA" なのか、成田空港の "ANA" なのかは訊かなかった。
3時30分に 「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 を開き、5時30分にこれを読み終える。大量の睡眠薬を飲み、バスタブで両手首を切ったダイアン・アーバスを発見したのはマーヴィン・イズラエルだった。
葬儀の最中に、アヴェドンがこうつぶやいた。「わたしもダイアンのような芸術家になりたいものだ」
するとフレデリック・エバースタットが小声で囁きかえした。「いや、なれやしないよ」
この、最後のペイジは印象的だ。
午前、丸山公園のテニスコートに次男を送り、2時間ばかり球拾いをして帰社する。午後、三菱シャリオに乗り、大田原経由で茨城県の平潟漁港を目指す。夕刻4時50分、料理民宿とでも呼ぶべき 「やまに郷作」 に着く。
檜が石を縁取った清潔な浴槽で温泉に浸かる。そこから出て、こんどは味噌とアン肝を合わせた 「どぶ汁」 と呼ばれる濃いスープのアンコウ鍋を食べ、燗酒を飲む。
9時すぎに就寝する。
コンピュータのスケデュール管理に注意をしていないと、いま何をすべきか、明日は何をすべきかを知らないままに過ごしてしまう。あるいはこれこれの仕事については昨年はいつから取りかかったのか、というようなことを社員に訊いたりもする。そして事務机の右に立てかけたカレンダーに目を遣り、明日は茨城県の知らない町の民宿に泊まる予定のあったことを知る。
電話の通じない顧客にメイルを書いたりする。同じく電話の通じない町内の人にメイルを書いたりする。
夕刻、この1月に "RICOH GR DIGITAL" で撮った写真から選んだものを、小倉町の 「かみじょうカメラ」 で紙焼きにしてもらう。仕事が忙しいわけでもないのに何とはなしに気ぜわしいのは、ひとつひとつの仕事を完結させないまま引きずっているせいだろう。
目を覚まして 「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 が枕頭にないため、5時前から起きて事務室へ降りる。
どこかへ泊まりがけで行く際にコンピュータを持参することは "RICOH-LXN20" を購入した1992年からたびたびあり、1995年に "ThinkPad" に替えて以降は常にこれを携帯した。しかし電子会議室やメイリングリストから遠ざかり、"mixi" は誘われて登録したのみで活動はせず、日記は1日や2日ためてもすぐに追いつけるよう短くし、第一生来の荷物嫌いだからこのところの外出にコンピュータは持たない。
そして空が明るくなる前におとといときのうの日記を作成し、とりあえずおとといの分のみをサーヴァーへ転送する。
僕の事務机の背後には坪庭に接した窓がある。ところがこの窓は床から天井まで達する本棚によってつぶされていて、つまり室内からこの庭を望むことはまったくできない。本棚の撤去は何十日も前に決めたことだが、つい億劫がって光陰矢のごとし。そして遂に本日、販売係のサイトーシンイチ君、事務係のコマバカナエさんの協力を仰ぎ、片づけを始める。
踏み台に乗り、先ず最上段にある諸橋轍次の 「大漢和辞典」 をサイトー君に手渡しながら 「これは袋に入れて2階の倉庫へ」 と言う。知り合いの宗教学者に頼まれるまま、オヤジが1部あたり3冊ずつ買った全集についても 「袋に入れて2階の倉庫へ」 と指示する。書物を梱包して倉庫へ納めてしまえばこれは事実上の遺棄だが、思い切りが悪いから実際に捨てることはできない。
ただし古い法令書などは躊躇うことなく捨てることとし、またこの数年のあいだに買って読むうち重さ数十キロにもなった写真関係の本は、社員休憩所前の本棚へそのまま運んで貸し出し可能とする。
この本棚と直角に交わる別の本棚も、このところ数年も使っていないものは捨て、保存した方が良さそうなものは倉庫へ移して、数時間後には事務室の一部がずいぶんとすっきりする。ここで安心することなく、これからも本の整理は続けて努めたい。
「第164回本酒会」 が開かれるちかくの蕎麦屋 「やぶ定」 へ7時すぎに行く。6升の酒を15人で干せないのは、「本酒会」 が飲み会ではなく利き酒会のためだろう。そして 「喜久水酒造」 の 「一時」 は今回も美味かった。
長男が米をとぎ、海老芋の皮を剥いて味噌汁の用意をしている。しかしその
本郷三丁目では計画した丸の内線に乗れず1本遅れとなり、しかし東京駅では首尾良く予定した横須賀線に乗る。横浜で所用を済ませ、東京に戻ってもうひとつの用を足す。ビルも道路も午後の日を横から強く浴びて、まるでモノクロで撮った大判写真のように見える。
昨年に冬季オリンピックの開かれたトリノの気温が今年1月は25度まで上がり、半袖半ズボンで街を歩く人もいると、北千住のキヨスクで買った夕刊紙が伝えている。日本ではそこまでの異常気象はないようだが、しかしいずれにしても雪の少ない暖冬である。これから春、夏、そして秋にかけての気候が平穏に移りゆくことを望んでいるが、どうなることか。
朝から会社で健康診断がある。なにより怖いのは血管注射だ。なぜ血管への注射が怖いのかを自分なりに考えてみる。痛みではない、血管に針を刺すという行為の不気味さが僕を怯えさす。その不気味さがどのようなものかといえば、食卓に仰向けで運ばれたカエルの腹をメートルドーテルが鋭利なナイフで割き、こぼれ出た腸を割き、そこにうごめくギョウ虫を、天下の美味だから食えと言われる悪夢、そういう悪夢を見ているような不気味さが、血管注射にはある。
そして我が社には僕と同じく血管注射を怖がる者がほかに3名ほどもいて、採血の後5分ほどはその場にへたり込んでしまったりする。
夕刻5時前に湯島へ達する。「シンスケ」 でしめ鯖を肴に 「樽の燗」 を飲んでいるところに長男が来る。ふたりで5合か6合の 「両関」 を飲み、6品か7品の料理を食べる。この時期の 「シンスケ」 がお土産に酒粕をくれることは、僕が学生のころから変わらない。あるいは何十年も前から変わらないのかも知れない。
天神下の交差点を2度渡り、"EST!" へ行く。長男と話すうち、隣の人が 「失礼ですが、自由学園の方でいらっしゃいますか」 と声をかけてくる。訊けば男子部41回生とのことだから僕より6歳年少で、つまり東天寮では1年の差ですれ違っている。奇遇を祝してこの下級生の分も支払おうとしたが、彼は素早く自分の勘定を済ますと帰宅の途に着いた。
当方が何時に甘木庵へ帰着したかは、特に記憶していない。
暗いうちに目を覚まして 「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 を読む。ザロモンがキャンディッド・フォトの創始者たりえたのはライカのお陰との記述が414ペイジにあるが、これは間違いだ。後にナチスのガス室で死ぬことになるこの写真家が愛用したのはエルマノックスである。
2週間ほど前のテレビで、1パックの納豆を50回以上攪拌して20分以上放置し、これを朝晩に1度ずつ食べると、2週間で2キロから3キロも体重が落ちるという番組を流していた。「そんなに上手い話は無いよね」 と疑いつつ翌日からこれを試していたが数日前、この番組の大部分に捏造のあったことが判明した。
「捏造だ、捏造だ」 と、自分も同じようなことをしないでもないテレビ局や新聞社が騒いでいる。しかし当方の納豆食いには慣性がついているから、直ぐに止めるわけにはいかない。そして今夜は卓上の鍋で煮たうどんを納豆の器に投入し、これを食べる。
"MG"(マネジメントゲーム)では、5期を経ての自己資本が参加者中1番、2番、次点の者のみ表彰状を受けられる。自己資本を積み上げた、つまり経常利益を稼いだ者が偉いとの定めは、この研修においては決してないが、ゲイムである以上は表彰があった方が面白いからそうしている、とは開発者の言だ。
それに対して第5期の決算速度が最も高かった 「計数力第1位」 は名前こそ成績表に明記されるが、何かがもらえるということはない。しかしながら僕自身はこの計数力に強い思い入れがあり、だからウチが主催する 「日光MG」 ではこの第1位に 「日光杯」 とでもいうような意味を持たせ、それを獲得した者には賞品を出す。
"MG" をしたことのない人には分かりづらいが 「計数力第1位」 を獲得する者は、その他大勢が資金繰り表の入金と出金を合わせているころには既にして決算書を完成させつつあるという、初心者から見れば神業のようなことをしている。そして今回の計数力第1位は販売係のサイトーシンイチ君が獲得し、打ち上げ場所の飲み屋 「和光」 にて "Gregory" のショルダーバッグが与えられた。
次の 「日光MG」 は9月に行われる。
払暁、というとなにやら 「加藤隼戦闘隊」 のようだが5時に起床して6時に次男を起こす。ホンダフィットにて日光宇都宮道路を南進すると、東の空はようやく紅い。数十分を経て 「宇都宮総合運動公園」 へ達し、ここで全国小学生ソフトテニス大会の県予選会に出場する。
夕刻に帰宅して入浴し、白いシャツの上にジャケットを着用する。平成18年の当番町会計として作成した決算書に次年度当番町、次々年度当番町のふたりの自治会長のハンコをもらうという重要な任務を今夕は帯びている。終業前の時間から宴会場の 「あさの」 へおもむき、めでたく監査印がふたつ並んだところで酒宴となる。
かなり燗酒を飲んだが場が場だけにさして酩酊もせず、9時に帰宅する。もういちど入浴をし、「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 を読んで10時30分に就寝する。
JR池袋駅の地下中央コンコースから北口へ向かう。通路の壁を刳り抜いたほどの小さな、しかし好きな本屋を左手に見て地上へ出る。午後外には傘の必要があるような無いような、そのくらいの雨が降り始めていた。"RICOH GR DIGITAL" のフォーカスを "SNAP" にし、写真を撮りながら南南西へと歩く。
自由学園明日館にて数時間の会議をこなして後、同学会の新年総会が行われる講堂へと移動する。還暦を迎えた25回生には、本年度本部委員の36回生から赤い制帽と赤いマフラーがプレゼントされた。35回生の僕に還暦のお祝いをしてくれるのは46回生ということになり、ふと後ろを振り返るとその46回生の名札を付けた未知の下級生がいたので 「オレんときにも赤い帽子くれよ、ネクタイピンなんかいらねぇから」 と言っておく。
午後8時に設定しておいた携帯電話のアラームが鳴ったため、ひと足早くこの場を去る。北千住21:11発の下り特急スペーシアに乗り、11時前に帰宅する。
コンピュータに取り込んだ画像のうちの何枚かは、きのうの朝 「メルモンテ日光」 の部屋で見た下界の風景だった。アルハンブラ宮殿のヴェランダに立ち、「この眺望を失った者の悲しさよ」 と詠嘆したのは、イスラムの王を放逐したキリスト教徒だっただろうか。晴れた日には筑波山までも望むことのできる、ロバート・ベンチューリ設計のこの壮大な建造物が、築後わずか10年を経たのみににて閉鎖されようとしている。
「誰かが買って、代わりに運営してくれないか」 と思うが現在の赤字は年間7億円で、それを埋め合わせてなお利益を出そうとすれば、そう多くの方策は望めないのかも知れない。
午前、瀧尾神社の禰宜に出張してもらい、蔵の水神祭を行う。醸造を生業とする氏子の中で、このお祭を行う家はいまやウチだけだという。仕事はそう忙しくもないが気持ちばかりが急いて、午後にかかろうとしていた床屋へは遂に行けなかった。
6時に起床してきのうの日記を書く。三菱シャリオを飛ばして、と書きたいところだがシュークリームの上のパウダーシュガーほどの雪が路上にはあるから慎重に山を下る。帰社して日記をサーヴァーへ転送し、ウェブショップにご注文をくださった顧客に簡易版の受注確認書を送付する。
「メルモンテ日光」 へ戻り、屋上の露天風呂で体重を量ると62.1キロで、これは24時間前よりも400グラム大きな数字である。「きのうの晩も炭水化物、ずいぶん食っちゃったからなぁ」 と考えつつ
9時15分に 日光MGの2日目が始まる。第4期のゲイムを終えたところで疲れ果て、しばらく椅子に座り込む社員がいる。ゲイムが白熱すれば僕の頭もフラフラし、水分と糖分とを補給する。今春に入社予定のサカヌシノリアキ君に 「脳みそ、酸欠おこしてねぇか」 と訊くと 「はぁ、なんだか難しくて疲れますね」 と苦笑いをする。「MGは、いつまでやっても難しいですよ」 とは言わなかった。
第5期を経て自己資本が453と最も高かった包装係ツカグチミツエさんには 「最優秀経営者賞」 が、同380の販売係ハセガワタツヤ君には 「優秀経営者賞」 が、同366の販売係ヤマダカオリさんには次点の表彰状が与えられた。西順一郎先生の講義があり、400字から800字ほどの感想文を提出して第13回目の日光MGが終了する。
針葉樹林に闇が訪れはじめるころ、参加者はバスで、あるいは自家用車で三々五々帰路についた。
目を覚まし、きのう交流会を行ったメゾネットのソファに、毛布をかけられ丸くなって眠っていたことを知る。「小次郎、敗れたり」 ではないが 「清閑、衰えたり」 という気分だった。闇に手探りで携帯電話を探し、ディスクプレイを見ると4時がちかい。自室へ戻り二度寝をして次に気づくと2時間が経っている。
きのうの日記を書き、セーターは社員のメゾネットに置き忘れたからシャツの上にダウンベストを羽織る。三菱シャリオを飛ばして山を下り、十数分で帰社する。ウェブショップにご注文を下さっている顧客へ向け、正式な受注確認書は金曜日に送付し、荷物も同日に出荷する旨のメイルを送る。
「メルモンテ日光」 へ戻ろうとしてふとファクシミリを見ると、明日必着の注文が入っている。「その納期は無理」 と注文主に電話をしようとするが思い直して製造現場へ行き、とり急ぎ荷造りをする。その荷物を三菱シャリオに載せ、ヤマト運輸の日光営業所へ届けながら、ふたたび山へ戻る。
10時、第13回目の日光MGが始まる。2日間で5期の経営を各々の盤上に展開するMGは社外からの参加者も迎えて1期、2期、3期と進み、夜は交流会を行う。この会の途中から記憶が途切れているのはきのうに引き続き、である。
2時に目を覚まして 「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 を読んだり、また眠ったりを繰り返していくつもの夢を見る。恐水症とはどのような病気なのだろう、僕は3歳のころ庭の池で溺れたことがあり、そのせいか水が怖い。洗面器やコップの水は怖くないが、山の中で予期せず遭遇した小さな発電所の、紺色の水を深くたたえたダムや、ドウドウと音を立てて水路を流れる大量の水は正視に耐えない。今朝の夢にはそのような恐ろしい水が幾度となくあらわれた。
終業間際に東武日光線下今市駅へ行く。プラットフォームに 「西研究所」 の西順一郎先生をお迎えし、クルマで15分ほどの 「メルモンテ日光」 に入る。夕食の後、社員が泊まるうちもっとも大きな部屋に集まり交流会を行う。
2時に目を覚まして 「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 を読んだり、灯りを落として闇の中で静かにしていたりを繰り返しつつ 「そういえば漫才のザ・たっちは、牛腸茂雄よりもダイアン・アーバスに撮られる系の人たちだなぁ」 と思う。
"RICOH GR DIGITAL" のピントが合ったり合わなかったりする。郵便で届いた書類の一部をファイルにまとめる。今週末のあれこれにつき製造現場へ準備を頼む。そろそろ返事が欲しい人に電話をして、しかし呼び出し音が鳴るばかりで応答がない。あした訪問して良いかという取引先からの連絡に、3時ごろまでなら在社していると答えたりする。
年末の繁忙を抜け出して2週間以上も経つが、なぜか気ぜわしくて落ち着かない。
次男を丸山公園のテニスコートへ送り、帰社して本日、公民館活動にて餅つきを行う町内のイケダマナブさんに 「しその実のたまり漬」 を届ける。その足でテニスコートへ戻り、11時まで球拾いを行う。
午後、町内のシバザキトシカズさんが届けてくれた、しその実のたまり漬をまぶした餅を持って4階へ上がると良い匂いがし、その元は牛肉のかたまりと野菜を煮ている鍋だった。バキュバンで栓をしたチリの赤ワインがビンに半分だけ残っていたので、手加減を知らない僕はこれのすべてを鍋に注ぎ入れ、しかし誰にも言わないでおく。ことによるとこのワインにより、せっかくの下ごしらえがメチャクチャになってしまうかも知れないのだ。
そして結局のところ、スープは晩方にはメチャクチャ美味くなっていた。
3時に目を覚まして4時30分まで 「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 を読む。ベッドへ横向きになっているから老眼鏡がかけられない。よって活字はぼやけているが、見えないということはない。持ち前の遅読癖にて、1時間30分を要してもペイジはあまり進まない。
2月14日までに提出せよと、官だか民だか知らない組織から要請された書類を早々に仕上げ、封筒に収める。人力によるよりもかかる時間を短くするため人はいろいろなものを発明する。そのような発明品により仕事の時間は確かに短縮されたが、空いた時間には他の仕事が割り込んでくるから結局は同じことだとは、山本夏彦が繰り返し書いたことだ。
夕刻6時30分、次男がお世話になっているテニスクラブの、コーチや父母の新年会が開かれる 「こいと」 あらため 「分まるじ」 へ行き、2時間ほどを楽しく過ごす。
「分まるじ」 のちかくで "Candle" という店を営む同級生ヨシハラノリコさんには昨夏からちと借りがあり、これを返していない。よってテニスクラブの二次会には参加をせず、真っ暗な道を当てずっぽうに歩いて "Candle" の扉を開く。カウンターで "I.W. HARPER" 1本を注文し、これをショットグラスに3杯飲んだところで外へ出る。
2キロ弱は普通の人ならタクシーを呼ぶ距離かも知れないが、僕にとってはどうということもない。ただし歩道も街灯もない、杉の巨木により月明かりも届かない例弊使街道を歩きながらクルマにはねられる危険はある。そういう道を日光方面へ遡上して10時30分に帰宅する。
午後、出来上がったパスポートを受けとるため、ホンダフィットで宇都宮へ行く。駅の近くまでくると、「古い商家らしいけれど、今は廃屋になっているのだろうか」 と以前から思っていた建物に門松が立ち、その横に 「旧篠原家住宅開館中」 の看板がある。こういうものを見るのは好きだから、駅ビルの駐車場に車を停め、徒歩でこの家へ近づく。
案内によれば、奥州街道に面する篠原家は江戸時代より醤油醸造と肥料商を営んだ豪商だという。現存する母屋は明治28年(1895年)の建築で、奥へ進んでみれば、いかにも商家らしく華美な装いは一切ないが、1階の土間から2階の座敷を突き抜け天井裏の棟木まで達する1尺2寸5分角のケヤキの柱など、その剛健さはただものではない。
庭へ出て嘉永4年(1851年)建築の文庫蔵なども見学し、またそこから母屋の裏面を眺めたりする。この庭から東北本線の線路際まであったという醤油蔵は第二次世界大戦の空襲で焼尽し、現在は駐車場やビルになっている。戦争さえなければ、この家はいまだ生業を続けていただろうか。
立て襟の白いシャツに 「ミヤギ写真館」 の背広を着た顔写真はパスポートのフィルムに密閉され、坊主頭と相まって、なにやら韓国の牧師のように見える。ICチップ付きのパスポートは 「曲げたり、ねじったり、重い物を載せたり、衝撃を与えたりしないでください」 とのことにて、尻のポケットに入れるなどはできなくなりそうだ。
朝、南西の空に旧暦11月23日の月が出ている。その月を見ながら仏壇にお茶を上げ線香を上げる。
居間へ戻り朝日新聞を開くと、その12面に 「第55回独立書道展」 の宣伝と共に14点の作品が並んでいて、そのうちの小木太法という人による 「フカクタカク」 という文字に目が吸い寄せられる。「いいじゃねぇか、若い人なんだろうか、オレでも買えるようなものなんだろうか」 と考えつつ熱いお茶を飲む。
事務室へ降りてコンピュータを起動し、検索エンジンに 「小木太法」 と入れてみると 「東京学芸大学名誉教授」 「元文部省視学官」 「毎日書道展審査会員」 という肩書きが次々と見つかり、だから 「ダメだ、オレには買えねぇじゃん」 と思う。
日本橋の裏道で骨董屋のショウウインドウに良い文字を見つけ、近寄ったら中川一政のものだった。別の日、銀座の裏道のなんだか分からない店の中に 「龍」 の一文字を見つけ、いまだ閉まったままのシャッターの奥に目をこらしたら熊谷守一のものだった。いつもいつも 「オレには買えねぇじゃん」 の連続である。
終業後、会社の新年会にて 「とんかつあづま」 へ行く。
きのう特急スペーシアの車内で年賀状を書き終え 「おかしいな、返信すべきはまだまだあったはずだが」 と、だれかれからの葉書の写真やコンピュータグラフィックスがいくつも頭に浮かんだ。今朝、宛先別に区分けされた年賀状の束を事務室で調べると、果たして 「まだまだあったはず」 の数十葉が見つかる。
「こちらはひとまず後回しにして」 と、直近に必要なマクロの書き換えを始める。コンピュータのマクロを書くことは僕が最も好む仕事のひとつで、夏に神楽坂の 「巴有吾有」 でこれをするときなどは最高の気分だった。そういえばあの喫茶店も、東京理科大の巨大化にともない無くなるらしい。とすれば神楽坂と理科大のあいだにある風呂屋、飲み屋、階段状の路地の中にも失われるところが出てくるのだろうか。
好きな仕事とはいえ夕刻には消耗し、自宅へ戻って花林糖の袋を開けたところがこれを食べ過ぎる。
本来のものあるいは日々のもの以外の仕事については、たとえば春日町1丁目の当番町会計のように身を入れて精密にできるものあれば、ノロノロと遅れてそのうち期限切れになってしまうものもあり、その代表が賀状書きである。一昨年の正月には、届いたものに対しての返信のみだが一夕酒を抜いて一気に数十葉を書き上げた。しかし今年はそのような機会も設けないまま、本日ははや1月9日である。
僕の場合、このような作業のはかどるのは乗物の中にて、朝、東京へ向かう特急スペーシアの中で、1枚あたり平均3分を要しつつ相手ごとに異なる文面の賀状を書く。なお、賀状書きはみずからを強いればできる仕事だが、自分の尻に鞭を当ててもできないのが選挙の応援、高邁な理念を掲げるクラブや会議、協議会や審議会への参加である。「高邁」 は子供のころより僕の生理に合致しない。
列車が利根川を超えたところでペンを置き
ほとんどとんぼ返りにて晴天下の隅田川を渡り、夕刻に帰社する。
朝、次男を丸山公園のテニスコートへ送った際、球拾いのヴォランティアを抜け出してこの公園を徒歩で一周してみる。所要時間は15分くらいのものだった。芝の、多く水を含んだところには薄氷が張り、大きな石の配された屈曲した水路にはいかにも冷たそうな水が流れている。すこし歩いたくらいでは、
きのうの夜のテレビで、1パックの納豆を50回以上攪拌して20分以上放置し、これを朝晩に1度ずつ食べると、2週間で2キロから3キロも体重が落ちるという実験をしていた。僕の体重が標準値を超えているわけではないが、この1日2パックの納豆は血中の悪玉コレステロールや血圧も低下させるというので、「そんなに上手い話は無いよね」 と疑いつつ今日から試すことにした。
「試すことにした」 とはいえウチの体重計はどこかにしまい忘れて見つからないから、痩せたかどうかは、穿くときつくてプリーツの広がってしまう礼服のズボンによって確認することになるだろう。
そのうち春分の日や秋分の日までもが 「○月の第○月曜日」 となってしまうのではないか。成人の日はいつの間にか 「1月の第2月曜日」 ということになり、しかし多くの自治体ではその前日に成人の日のお祝いを行うと聞く。ことし成人式を迎えた社員のアキザワアツシ君とキクチユキさんも、その次第でスーツあるいは晴れ着を着て会社に来てくれる。
ふたりを見て 「理屈もこねずに社会の慣習に従って、大したもんだなぁ」 と思う。僕は自分の成人の日には渋谷から新宿へとハシゴをして酒を飲んでいた。おととし20歳になった長男についても、お祝いは特にしていない。
終業後、町内役員と組長による新年会の行われる春日町1丁目公民館へ行く。タケダミツコ婦人会長の手作りによる黒豆、精進揚げ、漬物2種、松前漬け、スーパーマーケット 「かましん」 の鮪の刺身、出前の鮨を前にして 「これで酒を飲まない大人の男がいるだろうか」 という感じだが、実はその酒を飲まない大人の男が今夜の僕である。明日は少し飲もうと思う。
物忘れの激しいタチだから事務机の上には 「14:45」 とマジックインキで大書したオレンジ色の紙を置いた。しかし机を離れてその時間が来たら、目の前のことにのみ意識が集中して 「14:45」 のことは思い出せないだろう。よって 「14:30」 にセットしたタイマーを首から下げ、会社の中を歩く。
時が至っていよいよそのタイマーが音を立てる。製造現場から事務室へ戻り、普段着の上にダウンベストを着る。その上に綿入れのような、中国製の安いジャンパーを羽織って雨の中に出ていく。
次男がお世話になっているテニスクラブの新年総会が始まるのは午後3時だ。その15分前に 「今市コミュニティセンター」 へ行き、会場の準備をする。これから1時間と少々のうちに来年度の役員を決める総会の、僕は司会進行の役を割り振られているから責任は重大である。
総会を無事に終えて90分後に帰社する。終業後に自宅へ上がり、新春2度目の断酒をしようと考えていたところ、目の前にポテトサラダや焼き鳥が出てくる。「これでメシを食う大人の男がいるだろうか、まぁ、いないこともないだろうが」 と考えつつ断酒は撤回して焼酎の一升瓶に手を伸ばす。
低気圧をリング状に囲む等圧線が5本になれば秒速10メートルの風が吹く、いま中国大陸から接近しているふたつの低気圧は、明日までに大きく成長してこの等圧線を十数本に増やす、とすれば北日本を中心として荒れた天気が3日は続くと、テレビの気象予報士が伝えている。
アメリカ、オセアニア、ユーラシアと、こういう大きな大陸の、特に内陸部の天気予報は良く当たり、日本のような島国のそれは当たりづらいと誰かが書いていた。しかし明日からの天気の崩れについては、間違いのないところなのだろう。
夕刻6時30分の空にはいまだ雨の気配はない。きのうと同じく自転車で 「和光」 へ出かけ、きのうと同じくカウンターに 「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 を置く。きのうと異なり本日はその1ペイジも読むことができず、「和光で本を読もうというのが、そもそも了見違いだ」 との、春日町1丁目育成会長シバザキトシカズさんの言葉を思い出す。
きのう今日の 「吉四六」 のお湯割りは美味く、ボトル1本をこの2日間で空にしてしまった。
「ロデオなんかやったって腹は引っ込まねぇよ、それより200メートル全力疾走してみろ」
「走れないからロデオやってんのよ」
「痩せるっつったらやっぱり全身運動かつ有酸素運動だんべ」
「だったらセックスか」
「でもあれは動くのは男ばっかしで、女は寝たっきりだから」
「そらカップルの好みによっぺ」
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ」
と、こういう常連客の話をニヤニヤ笑いながら聞き、ときおり僕も茶々を入れたりするから
1959年、日本の学生は何を食べるかとインドで訊かれ、日本の学生はカレーを食べると答えて質問者を大いに喜ばせたのが小田実だった。「おせちもいいけどカレーもね」 というコマーシャルがテレビの電波に乗ったのは、いつごろのことだっただろう。
木挽町の手前の 「ナイル」 に昼時に入り、ムルギーランチを手づかみで食べていたら、インドのウイスキーを飲めとボーイに勧められたことがある。そのころつまり25年前の僕はウイスキーなど滅多に飲まなかったし、第一ウイスキーという酒は昼という時間にも、またカレーライスという食べ物にも似合わないように感じられたから、ボーイの売り込みは失敗した。
明日から2日間は飲酒を為す予定にて、正月もこのあたりで一度、断酒をしておいた方がよい。カレーに合う酒が全くないということはないが、今夜はサラダとカレーライスのみを食べ、飲酒は避ける。
朝、何を見るというあてもないままテレビのチャンネルを変えていると、"TBS" が日光の足尾らしい景色を映しているから数秒そのままにしていると、やがて年長の友人ヨコタジュードーが画面に現れた。熊と人間との共生を様々な角度から考えるという番組らしい。家内を呼び長男を呼び次男を呼んでしばし見入るが、本日は初売りにてそうゆっくりもしていられない。
「見たいけど見てる場合じゃないよ」 と家内が言ったところで折良くコマーシャルが入り、話題は韓国に生息が確認されたツキノワグマに移ったから、テレビを消してお雑煮を食べる。
ヨコタジュードーは、ありふれた陳腐なことはなにひとつ言わない。スタンダードとして認められていないが実はこれこそが本質だということを見分ける反射神経を持っている。飲み屋ではカラオケよりも大きな声で議論し、しかも8時間ノンストップで話し続けるスタミナもある。テレビのコメンテイターになるべきはヨコタジュードーのような人だと僕は思うが、他者による制御が不能のこういう人間に、コメンテイターとしてはテレビ局は声をかけないだろう、実に惜しい。
起きて先ず仏壇の花と水とお茶を整え、線香を上げる。次に家族5人がホンダフィットに乗り如来寺へ行き、墓参りをする。帰宅して精進の雑煮を仏壇神棚その他の計5個所に供え、人間は9時を過ぎてようやく
11時前に瀧尾神社で初詣をし、次に追分地蔵尊へ回ってここでもお参りをする。その足で森病院にいるおばあちゃんに新年の挨拶をしてから帰宅する。昼になっても腹は空かず、1時を回ったところできのうのメシの残りによる焼きおにぎり、瀧尾神社の露店で買った焼そばにて焼酎を飲む。
元旦とはいえ顧客からのメイルはある。事務室にてそれに返信を書いたり、あるいは自分のウェブペイジで毎月1日に更新することにしている今月は "WORKS" を仕上げ、7時前に居間へ戻る。
"neu frank" のパンチェッタは皮の部分がナタデココのようにグニグニしていて、こういう食感に富んだ食べ物は大好きだ。同じく "neu frank" のコーンビーフと長葱によるマカロニは、食べ終えてしまうことが勿体ないほどに美味い。「進々堂」 のシュトーレンにマスカルポーネを塗ればお菓子などは要らず、スイートポテトはバターとミルクを大量に含んで舌に滑らかだ。
ワイン蔵に長く置いた白ワインは 「もうすこし早く飲めば良かった」 との後悔はあるが別段、腰が抜けているわけではない。そのボトルの裏側に 「ミツミ」 の文字を見て 「あのころはまだ銀座にこの会社があったんだな」 と感慨を深くする。