むかしウェブログなど存在しないころ、この日記について、地元紙の取材を受けたことがある。「日記、15分くらいで書いちゃうんですか」と記者に訊かれて「そうですね」と答えたけれど、実際のところ15分ではちと無理だ。
「2日前つまりおとといの日記が書けていないと少しく焦燥する」とは、ここにたびたびつぶやくことだ。今朝も同様だったけれど、今朝に限っては2日分をそれぞれ15分ほどで書き、取りあえずはおとといの分のみサーバに転送する。
やりとりの時期は2003年の春と明瞭に覚えている、場所は御徒町の焼鳥屋だった。とにかく「日記を書くための資料はその日に撮った写真」と言った人がいる。そのとき僕は「自分の場合には文字による覚え書きですね」と答えた。今はそれに、人に書き送ったメールやfacebookにアップした数行が加わることもある。
日記の文字数は多くならないことを旨としている。400から600字くらいが適当かも知れない。
それはさておき今日の売上金額は、昨年のおなじ曜日にくらべて3倍ちかくもあった。解析は不能である。
どれほどむかしのことかは覚えていない。「上質のオリーブオイルで焼き、上質の塩とバルサミコ酢をかければ、とにかく何でも美味くなる」とこの日記に書いたところ「そのオリーブオイルとバルサミコ酢の銘柄を教えてくれ」と、アメリカのどこかに住む日本人からメールで訊かれた。仕様にこだわる真面目な人だったのだろう。そして僕は万事、いい加減な性格である。
今月23日の肉団子白菜鍋は、きのうの日記に書いたような変転を経て、いまだなくならない。それを今夜は、目玉焼きのソースとロールキャベツのふたつの方向に振り分けることとした。
目玉焼きについては、耐熱ガラスの皿にオリーブオイルを広げ、そこに生玉子を落としてオーブンに入れる。それが「そろそろ」という感じになったところで鍋の中のピーマンとスープを投入する。そしてオーブンの火を消える寸前のところまで弱めてしばらく置く。
今夜はチューハイが飲みたい気分だったけれど、そして小川軒のビーフシチューを前にしてチューハイを注文したくなったと山口瞳はどこかに書いていたけれど、僕はチューハイからウォッカソーダに方向を転換し、それを晩飯のあいだに2杯ほども飲む。
午前の、いまだ朝といっても過言ではない時間に小包が届く。「ことによると」と考えつつ封を切るとやはり、それはきのうの21時10分に、"amazon"に注文したCDだった。
昨年の師走、そのとき自分がどのような操作をしたかは覚えていないけれど、うっかり加入してしまったプライム会員ゆえの、これほどの早い配達なのか否かについては分からない。そして夜はそのCDを聴きつつ、ひとり晩飯を整える。
今月23日の夜の肉団子白菜鍋を、翌24日の昼はにゅうめんにして、次の25日の朝はそのスープの部分のみを飲み、1日おいて27日の夜はその鍋でキャベツ巻きを煮た。今夜はそこに更にマカロニを投入する。
そうしてそれを肴にきのう抜いたシャブリとおととい抜いたシャンベルタンを飲む。「オマエ、ロールキャベツにシャンベルタンは合わねぇだろ」と問われれば、キャベツの内側の肉には特殊な工夫が凝らしてあり、またシャンベルタンは年を経て柔らかくなっているから、それほど悪いものでもないのだ。
おとといからきのうにかけての雨が、日光の北部では雪になった、そのことを今朝、北西に面した窓を開けて初めて知る。きのうそれに気づかなかったのは、山が雲に覆われていたことと、忙しくしていたことの、ふたつによる。
10月にタイから戻ると、店の前の季節の書は「鬼灯」から「秋惜」に替わっていた。その「秋惜」を、きのうは「冬耕」に掛けかえた。稲畑汀子の「ホトトギス季寄せ」によれば「冬耕」は秋11月の季語だから、正確を期するなら、これはほんの数日しか出しておけないことになる。
ところでさきおとといの日記"I insist."について、言いっぱなし、書きっぱなしは褒められたことではないから、今朝は自分の味噌汁の塩分濃度を測ってみた。
検索エンジンに「味噌汁、塩分濃度 平均」と入れると「1パーセント」という数字が出てくる。おなじく「味噌汁、塩分濃度 適正」と入れると「0.8~1パーセント」とか「0.9パーセント」と記したページがヒットする。
今朝のウチの味噌汁の塩分濃度は0.74パーセントだった。これよりなお薄くしても、その風味に対する僕の満足度は落ちないはずだ。明日の朝は、味噌を更に減らして官能検査をしてみよう。
美味い味噌は少量であっても、物足りなさを感じさせることはない。塩分を気にする人は、塩分濃度の低い味噌よりも、美味い味噌を選ぶべきだ。この場合の「美味い味噌」にはもちろん、ダシ入り味噌は含まれない。ダシ入り味噌は、量を減らすに従って、うま味も減るからだ。こんなことさえ、わざわざ説明をしなければならない時世である。
「気温は現在がもっとも高く、これから日中かけては下がる一方です。厚手の上着、そして折りたたみの傘を持ってお出かけください」と、きのうの朝は天気予報のアナウンサーが言っていた。
しかし外へ出てみれば、東京から100キロも北の日光でさえ、それほど寒いわけではない。よって取り出しかけたツイードのジャケットはクローゼットに戻し、代わりにアンコンジャケットといえば聞こえは良いけれど、素肌に着たシャツの上にはユニクロの一重のブレザーを重ねた。そして傘も持たなかった。
「厚手の上着」は着なくて正解だった。傘を持たなかったことについては不正解だったけれど、活動の範囲は駅のちかくだったり、地上での移動は都バスを使ったりだったから、痛痒はまったく感じなかった。
雨は今朝も降り続いている。甘木庵の玄関にある何本かのうち、もっとも頼りなさそうな、つまりもっとも嵩張らないだろう300円のビニール傘を差して次男と朝飯を食べに行く。そしてその足で、僕だけは日本橋へと向かう。
用を済ませて浅草に着いたのは11時50分だった。数秒のあいだ迷って昼飯は抜くこととした。いずれ栄養は摂り過ぎているのだ、一食くらい抜いても、どうということはない。そしてその敵を討つようにして、夜はステーキを肴に赤ワインを飲む。
バターをたっぷりと染み込ませたトーストが食べたいと、からだが訴えている。トーストではなくても、とにかく炙ったパンを舌が欲しがっている。新御茶ノ水駅の目に付くところにドトールは無かったから、エクセルシオールカフェに入り、棚のバゲットサンド風のものカウンターに置く。
そのまま食べるものとばかり考えていたそれを、店の人はオーブンで温めてくれたから、思いがけず嬉しかった。それにしても、パンを積極的に求めている自分には驚いた。僕は生まれてこの方、パンよりもごはんや麺の方を圧倒的に好んできたからだ。
スーパーマーケット、百貨店、専門店の別なく、パンを買う老人の姿を多く目にする。それは米のメシより調理が楽、という理由だけによるものでもないような気がしてきた。僕もいよいよ老人の仲間入りだろうか。
午後の入りばなから暗くなるまでは、聖橋のたもとのビルにいる。途中で止んだかに思われた雨が、ふたたび降り始めている。新御茶ノ水から地下鉄でひと駅、移動して湯島に至る。
赤ん坊を抱いた母親が、交差点で信号待ちをしている。その赤ん坊が僕を見てニコニコッと笑う。「オッ」という感じで僕もその赤ん坊に笑顔を向ける。するとそれに気づいた母親は"Say Hallo"と声をかけつつ赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「中国から観光に来た家族だろうか」と考えつつ、青に変わった信号に気づいて"bye-bye"と手を振り歩き始めた僕の耳の後ろから聞こえてきた彼らの会話は、しかし中国語ではなく日本語によるものだった。一体全体、僕はどこの人間に見られたのだろう。
天神下の「シンスケ」では、紅葉が散るころから桜が満開になるころまで「タルヒヤ」が飲める。来年の桜の季節までに、あと数回は来たいと思う。
家内は何か忙しいらしく、朝飯のうち味噌汁だけは作ってくれと言う。よって冷蔵庫の中から目についたもの3つを取り出す。
白菜は芯のところばかりを細く刻む。油揚げも、おなじく細く刻んだものが好みだ。そしてピーマンもまた、細長く刻む。ピーマンを味噌汁の吸い口にする人はあまりいないと思うけれど、大いに悪くない。
女の人にスリーサイズを訊くオヤヂが嫌いだ。そんなものを訊いて何になるというのか。味噌の塩分濃度を訊く人についても「なんだかなぁ」と感じる。そんなものを訊いて何になるというのか。もちろん、塩分の摂取量を医師から制限されている人は例外である。
濃く仕立てるか薄く仕立てるかによって、味噌汁の塩分濃度は変わる。味噌汁を180cc飲むか、90ccしか飲まないかによって、からだが摂取する塩分には倍の開きが出てくる。味噌の塩分濃度とからだが摂取する塩分の量には、実は何の関係も無い。
僕は味噌汁を、薄く薄く仕立てる。ウチの味噌のうち「梅太郎」は特に美味いから、薄く仕立てても充分な満足が得られるのだ。塩分を気にする人は、塩分濃度の低い味噌よりも、美味い味噌を選ぶべきと思う。
日光だいや川公園では「日光そばまつり」、JR今市駅前通りでは「日光"焼き"そばまつり」、そして道の駅「日光街道ニコニコ本陣」では「日光博2015」が開かれているにもかかわらず、冷たい雨が降っている。
おとといの日記にも書いたように、その「日光博2015」でウチは2種のフリーズドライ味噌汁を土曜日から販売している。しかしその呼び水として用意した、鍋で普通に作った味噌汁が、この悪天候による人出の少なさでは売れそうもないと長男は判断をしたらしい。よって追加用として準備しておいた別鍋の味噌汁は、嫁のモモ君のみ会場から戻り、ウチの店で売り始める。
その様子をfacebookに上げようとして写真を撮ったところ、公開することが憚られるほどお客様の様子が上手に、つまり鮮明に撮れすぎたため、結局のところその画像は没にする。
「日光街道ニコニコ本陣」の野外とは異なり、ウチにはたくさんのお客様が出たり入ったりされている。気温も低いとなれば味噌汁は人気を呼び、60杯分のそれは幸いなことに数時間で完売した。
11月の下旬としては例外的な暖かさが続いていた。それも今日の雨を境として、いよいよ冬に変わっていくのかも知れない。
「湯波料理、食べようとして出てきたんだけど、日光までたどり着かなかったよ」と、地方発送の伝票にお送り先などを記入されながら、おっしゃるお客様がいらっしゃった。「この連休に湯波料理は無理ですよー」と僕はお答えをし、湯波料理屋の資料を「次回のために」とことばを添えて、お渡しした。
ウチから日光街道を5キロほども遡れば、日光の旧市街に出る。お客様は、その半分も進まないところで渋滞に阻まれ、引き返されたという。
昨年のこの連休には北九州から友人一家が遊びに来て、ウチから中善寺湖畔のホテルまで6時間をかけて辿り着いた。普段ならせいぜい45分の距離を、である。
ゴールデンウィークや紅葉時期における日光のひどい渋滞を、"Theory of Constraints"を使って緩和しようと考える人がいる。この学問を現実に反映させるには「水泳選手の正確な息継ぎ」のようなことを、その地域にクルマを走らせるすべてのドライバーにしてもらう必要がある。
これが実現できれば最高だ。しかしそれより遥かに簡単な方法がある。行楽地には混み合う日、混み合う時期を外して行くことだ。
連休より日曜日、日曜日より土曜日、土曜日より平日。新緑や紅葉にさほどの興味が無いのであれば真夏や真冬。そして宿や料理屋はかならず予約する。そうすれば湯波料理はおろか、道路も宿泊も温泉も自由自在ではないか。
せっかくいらっしゃるなら日光を自由自在に楽しんでいただきたい。そう思うがゆえの提言である。聴く耳を持つ人は、1万人にひとりくらいのものだろうけれど。
日光市今市地区旧市街の中心部にある道の駅「日光街道ニコニコ本陣」では、本日から来週の月曜日まで、日光の産物を即売する「日光博2015」が開かれる。ウチは今回ここで2種のフリーズドライ味噌汁を売ることとし、長男と嫁が準備を進めてきた。
長男が修行を終え家に戻ってきた2013年1月以降、長男には多くの仕事を、徐々に任せてきている。対外的なことについては特に、である。今回も僕は現場へは、ただの野次馬としておもむいた。
「とちぎテレビ」による生放送は正午から始まった。ウチのブースは女性アナウンサーと、僕は今日まで知らずにきたお笑いトリオ「インスタントジョンソン」の取材を受ける。そしてそれが関係各位の実力により首尾良く完了したことを確認して、大急ぎで会社へ戻る。秋の行楽シーズンは毎年、この連休まで続く。店も急がしいのだ。
夜には録画しておいた昼の番組を、特にウチが取材されている場面は2度、繰り返して観る。
連休が過ぎれば数日を置かないまま年末の繁忙が始まる。これから正月の賑わいが収まるまでの7週間は、特に健康に留意をして、日々を送りたい。
本物のワインを使った本物のワインらっきょう"Rubis d'or"について、僕がタイへ行っているあいだにこれを一度に大量に注文されたお客様があり、これはいわゆる「嬉しい悲鳴」に類することだけれど、生産計画に狂いが生じた。
漬物というものは、材料を塩や味噌や麹や酒粕、あるいは「たまり」などの調味液に漬けたまま放っておけば完成するというものではない。要所要所で適切な手入れを行うことが必須である。
タイから帰ってすぐに漬け始めた"Rubis d'or"の最新ロットに、今日の午後は何度目かの手入れを施す。これが販売に適する状態に育つためには、これから更に6週間ほどは必要と思われる。
"Rubis d'or"の仕事を終えて事務机に戻り、左の壁に提げられたカレンダーに目を遣れば、今日から6週間後はちょうど元旦だった。そのころにはまた、少なくない需要が発生していることだろう。
日本酒に特化した飲み会「本酒会」に参加をするため、初更「魚登久」へ出かける。帰宅して後は食器棚から3本の「サントリー角」を取り出しテーブルに並べ、その色合いの違いを眺める。そして3本のうちもっとも色の薄いものを開栓し、生で1杯のみ飲む。
気づくと素っ裸で寝ている。ちかくにバスタオルのあるところからすれば、風呂には入ったらしい。
起きて食堂、これは今の日本の最大公約数的言語表現を用いればダイニングキッチンということになるのだろうけれど、そこに来てレンジを見れば、味噌汁用の鍋に煮干しが浮き沈みしていた。パジャマも着ずに寝てしまうほど大酔いをしていても、翌朝の味噌汁の準備は怠らなかった、ということだ。
食器棚の、きのう焼肉屋から持ち帰った眞露のボトルを確かめると、その液面は割と低いところにあった。ビールの大ジョッキをこなして後に焼酎をこれほど飲めば、酔うのも当たり前である。それでいて二日酔いになっていないのは、店のメニュにあった「リアルウコン炭酸」を、酒と同時に摂取していたお陰かも知れない。
「総合会館で歌謡ショーを観るついでに様子を見に来た」と、毎年9月にミョウガを納入してくれているフクダニイチさんが午後、店に寄ってくれる。昨年の不作により7月から売り切れていた「みょうがのたまり漬」は奇しくも、本年産の材料によるものが今朝から蔵出しされたところだった。
ニイチさんは「らっきょうのたまり漬」と「みょうがのたまり漬」を買ってくれようとしたけれど、後者については試食用として進呈する。
「みょうがのたまり漬」は、売り切れて初めて知ったことだけれど、これを愛好されるお客様は意外や多かった。ニイチさんには来年も、たくさんの茗荷を納めていただきたい。
朝日を受けてうす赤く染まる鱗雲と青い空の対称はとても綺麗だけれど、今日から明朝にかけて天気は悪い方へと進み、11月としては記録的な大雨が日本の広い範囲で降ると、テレビの天気予報は伝えている。
きのうの夜のキムチ鍋は美味かった。先日のモツ鍋と同じく、この残りを捨てるには忍びない。よって朝はここに豆腐を投入したスンドゥプチゲのようなものをおかずにする。昼は鍋から牛肉を拾い上げ、それをまたおかずにする。
店舗のカウンターを冷蔵ショーケースに替えたのは、この日記によれば2004年3月2日のことだ。そのショーケースの配置が、お客様とのより密な接触を考えれば少しく不合理との意見が先週、販売に携わる若い人たちの中から上がった。
2005年以前または2010年以前にくらべ、社内における意思決定の速度は、そのころには予想できなかったほど高くなっている。ショーケースの移動については即、その実行日を1週間後の11月18日と決めた。
終業後は販売係に製造係の一部も加わり、店舗にある4台のうち3台のショーケースを適切と思われる位置まで動かす。作業は僕の予測より10分短い50分で完了した。
さてこの冷蔵ショーケースの移動が、特に繁忙な時間帯にはどのように作用するか。明日からの販売活動が、大いに楽しみである。
データベースソフト"My Tool"の"BT"(Blank Title)というコマンドが好きだ。ポケットコンピュータの"NEW"に似て、これまで蓄積されたあれこれを、どれほど膨大なものでも一瞬あるいは数秒にして消し去るためのものだから、危険といえば危険な嗜好である。
あと9ヶ月で僕は還暦を迎える。そうしたら身の回りを簡素にするためのひとつとして、ふたつの団体から退こうと考えている。いずれも会費のみ払って、しかしその活動には、ほぼ関わっていない団体である。
「世の中には、人に悪く言われないためにする付き合いってのも、あるんだぜ」と言われれば、それは理解できるけれど、まぁ、そのふたつの団体に限っては、辞めても僕を悪く言う人はいないだろうし、社会への貢献度が落ちる、というものでもないだろう。
気になるのは、退会により浮いた会費の行方である。そういうものは、どこかに溶けて無くなってしまうのが相場、ということになっている。付き合いを減らしたからといって、貯金は増えないのだ、残念ながら。
予定より早く甘木庵を出たため、恵比寿には約束した時間より1時間ほども前に着いてしまった。覚えのある場所にあった喫茶店は、廃業あるいは移転でもしたのか見あたらない。よって遠回りをしながら丘の上まで歩き、ガーデンプレイスのベンチで本を読む。
ウェブショップの、自分の手に負えないところを頼んでいる"Vector H"で、先ずは限定40セットを大晦日にお届けする「日光の美味七選」のページを整える。続いて先週の月曜日に完成した「日光味噌梅太郎(赤味噌)」と「日光HIMITSU豚」によるフリーズドライ豚汁のページを新しく作る。
夕刻から日本橋に出る。そこから新橋へ移動する。そして夕食を摂る。
新橋から銀座線で浅草に着き、20:00発の下りには間に合わないことを再認識する。そして最終21:00発の切符を買い、改札口へと向かう。酒のせいなのか、大階段の下に座り込む人がいる。これまた酒のせいなのか、ダウンベストを裏がえしに着て歩く人がいる。
プラットフォームのベンチで本を読む。11月も後半とはいえ、半袖Tシャツに木綿のセーターのみで、寒さは一向に感じない。そのうち眠り込み、20時55分に危ういところで目を覚ます。
23時前に帰宅をすると、玄関の避難誘導灯が点いたり消えたりしている。この状態の蛍光灯は熱を帯びて危険なため、脚立を持ち出し、それに上って蛍光管を交換する。そんなことができたのだから、初更の酒は覚めつつあったのかも知れない。
朝から降り続いた雨が午後に上がったその夜は、空気がしっとりと湿り、暖かく、景色がキラキラと輝いて見える。その「キラキラと輝いて見える」とは、いまだ濡れているアスファルトに街の灯りが反射する物理的なことと共に、こちらの気持ちが安らけく浮き立っている、そのようなことも手伝っているのではないか、という気がする。
終業後に外へ出ると、正に今夜も、そのような景色が見えた。それほどの灯りは無いにもかかわらず、だ。そんな街へ出ていって、ドライマーティニを飲む。そして駅へと向かう。
下今市19:53発の上り最終スペーシアの切符は、何日も前から駅の自動販売機で買ってあった。東武の自動発券システムで不思議なのは、車両の前から3列目あたりから席が決められていく仕組みについてだ。「真ん中あたりから売り始めてくれれば見通しも良いのになぁ」と感じるのは僕だけだろうか。
車内清掃のオジサンに声をかけられ目を覚ます。降りるはずの北千住を乗り過ごし、スペーシアは終点の浅草に着いていた。家に帰るときの日光、鬼怒川までの乗り過ごしではないから、どうということもない。
東京の夜気は、日光のそれほどには湿っていなかった。その空気の中を、今夜のねぐらを目指して歩いて行く。
「図書館が新刊書を大量に購入し、大量に貸し出すから、本が売れずに書店や出版社が困っている。図書館には出版から1年のあいだ、貸し出しを猶予してほしい」と、新潮社の社長が図書館側に要請した、ということを朝のテレビニュースが伝えている。
図書館は利用者の利便性を図るのが仕事である。だからそんなことを要請されても、坊ちゃん育ちの図書館長は、困惑をするだけだろう。元不良の図書館長なら、鼻で嗤っておしまいだろう。もっとも「元不良の図書館長」などというものが日本のどこかに存在するかどうかは知らない。
今週から店に出し始めた「日光のHIMITSU豚」を使ったフリーズドライ味噌汁については、お陰様で、お客様から様々な反響をいただいている。そのうちのひとつに「豚汁は、先行商品である湯波の味噌汁にくらべて塩気が薄いのではないか」というものがあった。
双方の塩度はおなじく仕上げているはずだけれど、念のため長男が塩度を調べてみる。その結果、湯波の味噌汁の塩度は1.18、豚汁のそれは1.07と計測をされた。その差は0.11パーセントだから、人の舌にはほとんど影響しない数値である。そして念のため、昼食を兼ねてその官能検査をしてみる。塩気の差については、僕には判別が付かなかった。
ひとつ考えられるのは、湯波の味噌汁が白味噌を使っているのに対して、豚汁は赤味噌を使っている。白味噌に慣れた目で赤味噌による豚汁にお湯を注ぐうち、ついその量が過ぎてしまったのではないか、ということだ。
カップ麺のように、お湯の適量を示す線を内側に入れた器をお付けすれば、この問題は解決できるかも知れない。しかしまた、凝りに凝ったお椀などを僕が大量に発注した結果、それが不良在庫になってしまう、というような危険性も、ないわけではない。なかなか悩ましいことである。
旅先で「これこれ、こういうところを見たい」と言って「大して面白いものでもないですよ」と、現地の人から否定的な意見を受けることがある。「どこそこで、これこれのものを食べたい」と希望して、おなじく「なにも好き好んであんなものを食べなくても、もっと美味しいものがありますよ」などと、望まない方向への転進を余儀なくされそうになることもしばしばだ。
場所やものについては別段、名所や名物が見たいわけではないのだ。自分の見たいものが見たいのだ。食べ物であれば別段、美味いものが食べたいわけではないのだ。かねてより行ってみたかった場所で、かねてより食べてみたかったものが食べたいのだ。
ところが今度は自分が現地の人間になって、旅行に来た人から「これこれ、こういうところを見たい」とか「どこそこで、これこれのものを食べたい」と言われると「わざわざ宇都宮で行列などしなくても、餃子なら、ウチのちかくの『ふじや』というラーメン屋さんの方がよほど美味いですよ」などと答えている。
そうして夜はその「ふじや」に自転車を走らせ、焼き餃子を買う。それを家に持ち帰り、それを肴に焼酎のお湯割りを飲む。
地球上に存在するすべてのスープの調理の過程を見たわけではないから「味噌汁は世界中でもっとも簡単にできるスープ」と断言することはできない。しかしダシを引き、それに味噌と具を合わせて美味い味噌汁を作ることは僕にも容易にできることだ。
だからウチで即席味噌汁を食べることは、試食や宣伝のためにはしても、それを食生活の中に採り入れることはしない。しかしこれを作って売ることはしている。
僕は油や脂が好きだから無論、豚汁も好きだ。好きなものならこれを商品に結実させたいと考えるのが人情だ。
以前は純血種イベリコ豚ベジョータのロース脂"Lomo de tocino"を用いた豚汁をフリーズドライにした。今回はその肉の部分を日光のブランド豚「HIMITSU豚」のバラ肉に替えた。完成したのは月曜日のことだ。
それをようやく本日、朝食のお膳に載せるべく、用意をする。
いつものお椀に、味噌は「日光味噌梅太郎赤味噌」だから深い褐色のフリーズドライ味噌汁を置く。そしてそこに熱湯を注ぎ入れると豚の、驚くほど豊かな香りが立ち上る。すこし間を置いて小松菜の緑が、そしてニンジンの朱色がほどけていく。ゴボウは味噌と同系色だから、それほど目立つわけではない。
そしてこれをおもむろにひと口ふくめば、今度は鼻からだけではない、舌の上、口の中にも味噌と脂の滋味が拡がっていく。製造においては成功をした。しかし販売においても成功するかどうかは分からない。今後の諸々に期待したい。
午後は長男と会社を離れ、自宅の食堂で、これは何と呼ぶべきか、勉強というか、確認と整理とでもいうか、そのようなことを行う。
昼飯がスパゲティと知ると、嬉しい気持ちと残念な気持ちが入り交じる。小麦粉による麺はおしなべて好きだから嬉しい。しかし昼のスパゲティは、これと共にワインを飲むことができないから残念な気持ちが発生する。
「よく、昼飯のときにビール一本だけとか飲む奴いるじゃない。あれだったら水の方がいいね。---中略--- 酒に対して失礼だよ、酔わないような酒というのは」
とは「辺境中毒!」の中で高野秀行と対談をしている船戸与一の言ったことだ。
僕が昼に酒を飲まないのは「酔わないような酒を飲むことは酒に対して失礼」と考えているからではない。昼に酒を飲むと晩飯が不味くなり、その晩飯と共に飲む酒も不味くなるから、たとえ旅行中であっても、付き合いで断りづらいときを除いては、昼酒は飲まない。
旅行中といえば、バス、列車、船、飛行機に乗っているときも酒は飲まない。たとえそれが夕刻や夜の移動であっても、だ。現地に着いた時に酔っている、ということがイヤなのだ。
そして今日も夜に至ってようようワインの栓を抜く。
このところでは珍しく、今朝は2時台に目が覚めた。それを奇貨としてすぐに起床し、食堂に出て先週土曜日からきのうまでの3日分の日記を書く。更には今日の日記の出だしの部分も書く。そうして日曜日から今日までの分はコメントアウトタグで見えなくしてから、つまり土曜日の分だけ更新されたようにしてサーバに転送する。
何日も前からの日記が滞っていると、借金に追われているような焦燥を、大げさに言えば覚える。今朝のように3日以上の日記が一気に書けると、本国に充分の現金を持ちつつ南洋の漁師小屋で寛いでいるような気分になる。
粗末なメシが好き、ということはない。しかし「◎◎のみ」というメシは嫌いでない。9月27日の晩飯として、僕はカレン人のシームンにカオマンガイを所望した。目で見た限りでは寂しいメシだが、ナムチムも含めて味は最高である。それを肴にラオカーオを飲むのだ。
今夜の「モツ鍋のみ」というメシも大いに僕の好みだ。そして今夜はこれを肴に四国の栗焼酎をお湯割りにして飲む。
前の晩から鍋の水にひたしておけば、翌朝には味が調っているのだから、煮干しとは極めて簡単、便利なダシである。
普段、お粥や雑炊に汁物は添えない。しかし今朝ばかりはいつもに反して味噌汁をあつらえた。僕の料理はいい加減なもので、なにかいじくりたい気持ちがある。今朝のお粥には酒とオリーブオイルを加えた。
掃除は面倒だ。しかし汚れた台所は嫌いだ。だから調理に際してはあたりにあれこれを飛び散らせないよう工夫をする。きのう長葱を炒める際には鍋にフタをかぶせた。その鍋で今朝はお粥を煮た。米の粒が鍋から何の苦労もなく飯茶碗に滑り落ちたのは、オリーブオイルで潤滑性が高くなっていたせいだろう。大いに"stress free"である。
日光市塩野室地区の、タシロさんの大豆タチナガハとサイトーさんのお米コシヒカリ、そして純国産塩を原材料とした日光味噌梅太郎赤味噌に「日光のHIMITSU豚」を合わせたフリーズドライ味噌汁が完成して午後に届いた。よって早速にこれを神棚と仏壇に供える。そして夕刻には社員ひとりあたりこれをひとつずつ配る。
「日光のHIMITSU豚汁」は、店では明日から販売をする。ウェブショップには来週の頭にも載るだろう。
このところ早朝の仕事が続いている。きのうは朝こそ暖かく思われた。しかし日中はどんよりと曇って寒かった。今朝も寒さは感じない。あるいはそれは、夜半から降り出した雨によるものかも知れない。
秋には秋の、冬には冬の寂しさがある。秋の寂しさは好きではないけれど、冬の寂しさには何ものにも代えがたい良さがある。そしてそれをことばで言いあらわすことは難しい。
そんなことを書いているうち、高等学校のときの、ヤマグチヒカル先生の授業を思い出した。国語の時間になぜそのような質問が出たかは覚えていない、好きな季節とその理由について述べよと、先生は我々に問うた。
「はい」と勢いよく手を挙げたのは誰だっただろう。とにかくその同級生は好きな季節は「夏」と答え、「海で泳げるから」と理由を添えた。すると「そういうことではなくて」と先生は歯切れ良く、異なる答えを求めた。
先生の意を汲んだらしい同級生は「草がボーボー生えて、むせかえるような…」と、自分の脳の内を探り始めた。すると先生は「そうそう」と更にその先をうながした。
夏と共に僕が冬を好む理由は何だろう。
大きな針葉樹に阻まれ空の見えない、昼にもかかわらず暗い道を、雪を踏んで歩いて行く。目に映る色は極端に少なく、聞こえる音は靴の底が雪を押しつぶすそれのみだ。ふと立ち止まってあたりを見まわしても、人の姿はどこにもない。
「そのようなことができるから冬が好き」と答えれば「海で泳げるから」と大して変わらず、だから先生には「そういうことではなくて」と言われてしまうかも知れない。
仕事を終えてのち、誰に急かされることもなく、自分ひとりのための酒を整えるときの気分には、静かに枯れた、いまの季節にも通じるものがある。
そう書けば今夜の酒肴はシメジと若布の酢の物、鮪のぬた、ほうれん草の胡麻和え、というようなものが想像されるかも知れないけれど、先ずは戸棚から耐熱ガラスの皿を取り出す。
流しの下の、調味料の入った引き出しを開けると、製造部長フクダナオちゃんがくれた、プラスティックのカプセルに入った使い切りのオリーブオイルが見えた。よってその封を切り、先ほどの皿に注ぎ広げる。
そこにヘタを落としたトマト、日光市沢又地区のサイトートシコさんにもらった長葱のぶつ切り、そして"neu frank"の焼きソーセージを置く。そしてオーブンに入れる。
僕はパンはそれほど食べないけれど、今日は久しぶりに日光カンツリー倶楽部ちかくのパン屋「いしづか」を訪ねて3種のパンを買った。そのパンの先ずはひとつ目を切って、先ほどとは異なるオーブンに入れる。
安いワインは値段相応の味ではあるけれど、美味いまずいは物理的な味のみに左右されるものではない。そうしてふたつのオーブンから取り出したそれぞれを肴に、その白ワインを静かに飲む。
ことしのタイ行きは楽だった。目の前の扉が次々と開いていくように、行く先々で何の苦労もなかった。これほど簡単にことが進むと、却ってもの足りなさを感じるものだ。
旅の快適さと楽しさは、正比例をするものでもない。アムンゼンや植村直己のような旅がしたいわけではないけれど、そしてできるわけもないけれど、旅が安楽にすぎると、なにやら自分に対して格好が付かない、という気分になってくる。
タイが楽すぎるならとなりのビルマはどうかと、先日、日本製のガイドブックを取り寄せた。ところが日本のガイドブックというものは、前から分かっていたことだけれど、都市や観光地から離れるほど役に立たない。だったらはじめから海外で作られたものを選べば良かったのだ。
ということでまたまたamazonに出ている古書店で"lonely Planet"のビルマ版を買った。そしてこちらを紐解けば、まぁ、日本製のものよりも幾分かは詳しいけれど、案内をされている街はやはり極端に少ない。
ビルマには深山幽谷に阻まれた秘境のほか、その政治体制が創り出した人為的なそれも多く存在する。僕の行きたいところは広い川と大きな木のある北部の街で、しかしそんな場所についての言及は"lonely Planet"にも見つからない。
出発する前から大いに、ある種の匂いのする国、である。
「好きな野菜は」と問われれば「何が何でもピーマン」と答えるような気がする。そこには万願寺のような、大きな唐辛子も含まれる。遮光カーテンを透かして朝日の強く差す台所で、そのピーマンと、これまた好きなトマトを刻む。
ピーマンもトマトも胡瓜も茄子もオクラも、僕が子供のころには夏しか食べることはできなかった。つまり昭和40年代前半くらいまでの平均的な日本人は、季節の野菜しか食べていなかった、ということだ。そして春や秋にはどのような野菜を食べていたのか、それについてはよく覚えていない。
よく覚えていないといえば、僕は物忘れの激しいたちにより、タイマーが手放せない。炊きたてのごはんを仏壇に供え、そのことを夕刻まで忘れていると、ごはんは固く乾いて雑炊くらいにしか使えなくなる。ここで先ずタイマーが必要になってくる。
タイマーは11分11秒とか22分22秒とか33分33秒とかに設定をする。指をあちらこちらに動かさずに済むからだ。そしてたとえば33分33秒が経ってタイマーが電子音を発したとき「はて、このタイマーは何のためにセットしたのだったか」と不審に思う、そこまでは僕の物忘れもひどくなってはいない。
次は現在の時刻から7時15分まで何分あるかを計算し、その数字をタイマーに設定する。7時15分が来て電子音が鳴れば食堂から出て事務室へ行き、出勤する社員のためにシャッターを開ける。
食堂のタイマーを持ち歩くことはしない。持ち歩けばどこかに置き忘れること必定だからだ。事務机のそばにはおなじタイマーがあって、以降は終業までこれを使う。ちなみにタイマーを首から提げることまではしない。
およそ夜遊びというものをしない。夜に外へ出たときには、ひとりのときには無論のこと、集団の中にいて他の面々が二次会に流れようとしているときにも、よほどのことがないかぎり、ひとりで帰って来てしまう。理由はひとえに「眠いから」である。
そのような早寝早起きの身についている僕が、きのうは子供でもあるまいに、9時間ちかくも眠り続けてしまった。どういうことなのだろう。
今朝はまた通常に戻り、暗いうちに目を覚まして製造現場に降りたり、あるいは食堂の丸テーブルであれやこれやする。時刻が適当なところまできたら遮光カーテンを開け、東の空の、夜から朝に変わっていく様をときおり眺める。
今月は2日を除いてはすべて晴れている。その、朝の紺色から紅色までが濃く薄く、薄く濃く層になった東の空を写真に撮ろうとしてなかなか腰が上がらないのは、応接間の奥の本棚の、更に奥にある乾燥庫からニコンの"D610"を取り出してくるのが面倒だからだ。すぐちかくにはリコーの"CX6"があるけれど、こちらは光量の少ないときの、特に遠いところの合焦が不得手なため、あまり使う気にはならない。
そうするうち、いつのまにか背中の方で、電気炊飯器のメシを炊く音が聞こえ始める。時刻は5時35分。いまだ夜は明けない。
2時台、3時台、4時台には自然に目が覚める。だから「万が一にも寝過ごすわけにはいかない」というとき以外は目覚ましのアラームは設定しない。
今朝、気づくと遮光カーテンに朝日が差している。その朝日も払暁の紅いものではなく、黄色みを帯びた日中のそれに近かったから「ギョッ」とした。枕の下からiPhoneを取り出し見ると時刻は6時33分だった。滅多にあることではない。
すぐに起きて湯を沸かし、仏壇に供えるお茶の用意を始める。それと平行して朝めしの準備も始める。
朝めしと弁当は7時11分に整った。9分後の7時20分には社員の来る可能性がある。窓から見える社員用の駐車場に注意しつつ朝めしを摂る。販売係ハセガワタツヤ君の黒い四輪駆動車が、その駐車場に入って行く。7時21分になっている。メシはいまだ食べ終えていない。
お膳をそのままにして4階から1階に降り、鍵のかかった扉やシャッターを次々と開けつつ事務室に達する。そして外に面したドアの鍵を外し、ふたたび4階に戻って朝めしを完了させる。
「そういうときはメシを抜けばいいじゃねぇか」と言われても、そうはいかないのだ。「沽券にかかわる」と書けば大げさになるけれど、僕にとって朝めしは、そんな感じに近い。
大村益次郎はまことに愛想の無い人で、村医の時代には患者から時候の挨拶をされるたび「夏は暑くて当たり前ぢゃ」「冬は寒くて当たり前ぢゃ」と、素っ気なかったという。
街や、あるいは入った店で「急に寒くなりましたね」とか「寒くていやンなっちゃいますね」などと言われることが、このところ多くなった。そのたび僕は「いやぁ、むしろこれからでしょう、だってまだ、ポロシャツとTシャツで自転車に乗れるんですよ」などと答えている。
夏の上半身は半袖のポロシャツ1枚だ。秋のなかばからは、そこに長袖のTシャツを重ねる。秋が深まると、半袖のポロシャツを長袖のヒートテックに換える。冬はTシャツがフリースのセーターになる。厳冬期には、その上に"montbell"のダウンベストを着る。
おとといはイヤに寒かった。今日は朝から雨が降って、やはり肌寒い。しかし半袖のポロシャツを長袖のヒートテックに替えるには早すぎる。いまだ日中は半袖のポロシャツ1枚になることがしばしばあるのだ。
「急に寒くなりましたね」など、とんでもないことである。もう2ヶ月もすれば、雪や霜や氷に閉じ込められた数週間が、かならずやって来る。「寒くていやンなっちゃいますね」という挨拶は、そのときまで取り置いた方が良いと思うのだ。
朝、起きて食堂に行くと、イヤに寒い。よって寝室にとって返し、衣替えはいまだしていないからチェストではない、押し入れの冬物の箱から晩秋と晩冬にのみかぶる毛糸の帽子を取り出す。
この帽子は、いまだ10年は経ていないだろうけれど、以前、蔵の脇の歩道を掃除しているときに拾ったものだ。僕がこれをかぶって歩いているところを見て「あれは自分のものだ。でも今さら返せとは言えない」と、惜しんでいる人がいるやも知れない。
朝食を済ませて会社に出る前に、いわゆるジャンパーをクローゼットのハンガーから外す。これは小倉町の「かましん」がいまだ長崎屋だった時代に、2階の服売り場で2,000円で買った中国製である。
かれこれ20年ちかく着続けているこのジャケットの肩口が切れてきたため、イオンにある服のリフォーム屋「マジックミシン」で修理をしてもらった。それは一昨年か昨年のことだったけれど、これでまたこの先10年は着られるのではないか。
ことほど左様に僕は服については購買活動に熱心でない。一方、寄付、祝儀、博打、供応などに消えてしまうお金については、それほど頓着しない。
いま試みに、今秋のタイ旅行の小遣い帳に"TIP"で検索をかけてみれば、9泊10日のあいだに使った11,298バーツのうちのそれは1,460バーツだった。つまり現金による全支出のうちの13パーセントは祝儀、ということだ。
祝儀は人を喜ばす。僕へのサービスとして還元もされる。あるいはまた、空中に消えてしまうお金はモノに置換されないだけに、身辺を散らかすこともない。なかなか悪くない使い道だと思う。