隣のバンガローの白人の声を聞いて「朝が来た」と喜んだ。椰子の葉葺きの天井も、なぜか明るく感じられる。勢い込んで引き戸を開けると、しかしそこには庭の闇にポツリポツリとともる灯りが見えるばかりだった。潮騒が間近に聞こえる。時刻は0時20分だった。
蚊帳の吊られたベッドの上で何度か眠り、何度か目覚める。気温は意外にも低い。5時を過ぎたことを知って安心し、籐の小机にコンピュータを起動する。そしてディスプレイ左上に設けられた、キーボードを照らす小さな灯りを点け、あれやこれやする。
6時を過ぎるころに、ようやく空が白み始める。次男は明け方にトイレへ行ってから、また深く眠ってしまったらしい。僕の目の前の窓からは屋根だけの、壁のない食堂がよく見える。そして7時を回っても、朝食を摂りに来る宿泊客はいない。
8時もちかくなったため、流石に次男を起こす。若いということはよく眠るということで、放っておけば次男は1日に18時間でも眠れるのではないか。バンガローのあいだの、見慣れない花の咲く斜面を下ってすぐのレストランで、数種類のバゲットサンド、数種類の飲物から好きなもの1品ずつを選ぶ式の朝食を摂る。
我々が、と言って良いかどうかは知らない、少なくとも僕がこの島を訪ねた唯一の目的は魚醤の蔵"HUNG THANH"を見に行くことだ。つては何も無い。
昼休みにかからないよう、いまだ午前の早いうちに"MOON RESORT"からロングビーチ沿いの道路に出る。オートバイの後席に客を乗せるセオムは危険だからタクシーを拾おうとするが、今日に限っては1台も通りかからない。"HUNG THANH"のあるユーンドンの街までは、歩くには遠すぎる。
いよいよ日差しの強くなり始める頃のアスファルトの道路を北へ向かって歩く。竹の柱にトタン屋根をかぶせただけの雑貨屋がところどころにあり、そういう店はまた、セオムの運転手のたまり場になっている。2度3度と声をかけられて断り続けたが、遂にひとりの熱心な運転手のオートバイに乗る気になる。目的地までの値段はちと高いがひとり2万ドンで手を打った。
僕と次男とを乗せたオートバイは、ガソリンを節約するためか、あるいは安全のためか時速20キロほどの速度で街を目指す。その間も運転手は「なにもヌオックマムの工場なんかに行かなくても、この島には他に楽しいところ、綺麗なところ、静かなところがたくさんある。遊びに行こう」というようなことを僕に吹き込み続ける。しかし当方の目的は、魚醤の蔵以外には無いのだ。
海の手前で大きく湾曲するユーンドン川は幅広く、天然の港になっている。その橋のたもとらしいところにオートバイや人が集まっている。運転手は「20分、待って」と言い、更に「なにもヌオックマムの工場なんかに行かなくても… 遊びに行こう」と、先ほどと同じことを繰り返した。何度言っても無駄である。
事前にガイドブックの地図を見て、鉄かコンクリートの堅固な橋とばかり考えていたそれは、可動式の浮き橋だった。漁船の出入りに合わせて1日に何度か開閉をするらしい。そして十数分が過ぎるころ、いまだ動き出す前の橋に気の早い歩行者が乗り移る。オートバイはいよいよ密集する。やがて橋は両岸を繋ぎ、高度成長期以前の日本に見られたような、無数のゴミの浮かぶ川面を眺めながら橋を渡る。
対岸に着くと同時に赤土の細い道を左に折れる。僕と次男を乗せた2台のオートバイは、そのまま市場の喧噪の中へと突き進んでいく。そしてこの市場を抜けるころ、どこからともなくヌオックマムの香りが漂い始めた。オートバイは左の路地へ、そして更に左へ。そこは日本の酒屋、醤油屋、お酢屋を思わせる壁と壁のあいだの狭い通路だった。やがて左手に、紺地に白文字の"HUNG THANH"の看板が現れる。我々は遂に来たのだ。
"HUNG THANH"は有名な魚醤工場だけに、白いシャツの袖に黒い手っ甲をはめたような事務員が出てくると思いきや、そこには薄暗く涼しげな空間がぽっかりと口を開けているばかりだった。「日本人が見学に来たよ」というような意味のことだろうか、セオムの運転手が奧に向かって声をかけると、若い男の人が顔を出した。そしてどこからか姿を見せた職人らしい人に、蔵を案内するよう言ってくれた。
事務棟のすぐ隣にある蔵に漂う香りには、昨年後半に仕込んだ醤油の熟成が進んだためか、生臭さは一切なかった。ふたりの職人のうち親方らしい人は、昔の日本の味噌や醤油のそれと同じほどの、ヌオックマムであれば10トンちかく造れそうな大きな桶を、階段を上って上から観察するよう、親切に奨めてくれる。醤油の表面には、その醤油の種類により、異なる量の酸膜酵母があった。
桶の底にある醤油の取り出し口の、その下に溜まった色の黒いヌオックマムに僕が指を突っ込んで味見をすると、親方らしい人は別の桶へと我々を導き「これぞ」というロットなのだろう、透明度の高いものを味見させてくれた。別途、これは等級の落ちるものだが、再仕込み中の桶も見せてくれた。僕はもう、これで満足だ。
フーコック島では生憎と、ヌオックマムの飛行機への持ち込みは禁じられている。よってこれまたセオムの運転手に通訳を頼み、ホーチミンシティにある直売所の名刺をもらう。運転手は更に我々をどこかへ連れて行きたそうだったが断った。そしてふたり分の4万ドンにティップを含めた5万ドンを手渡し、蔵と蔵に挟まれた狭い通路でサヨナラをする。
先ほどはオートバイで突き抜けた市場を、今度は徒歩で戻っていく。魚また魚、野菜また野菜、フルーツまたフルーツ、花、米、麺、線香。甘味、乾物、鶏やアヒル。あるいは飲食店に氷を売る店。南国の豊穣をたっぷりと目に焼き付け、先ほどの浮き橋を渡る。
それにしても、タクシーを拾わずセオムを使ったのは正解だった。時間にもよるだろうがタクシーでは市場を通ることはできず、"HUNG THANH"への路地を入ることは更にできない。セオムの、怪しげではあるけれど人なつこい運転手がいたからこそ、工場への話は簡単に通った。「安全策を採るばかりでは収穫は得られない」ということを実感した、今日の午前だった。
市場の喧噪とは裏腹に、物憂く眠っているようなユーンドンの街で次男はアイスクリームを、そして僕はマンゴーシントーを飲む。そして先ほどから目を着けておいた"BUN BO HUE"の看板のある、粗末と言って悪ければ庶民的な店まで戻って声をかけると「まだ商売は始まらない」というようなことを言われた。時刻はいまだ11時30分である。
そのままあてなく歩き始めると、なかなか賑わいのある大皿料理の大衆食堂コムビンザンに首尾良く行き当たった。早速その店に入り、3種のおかずとスープを注文する。我々が席に着いていくらもしないうちに、その店には更に客が詰めかけ、満員の盛況になった。
フーコック島はダイヴィング、トレッキング、フィッシングと、遊びには事欠かないところだ。しかし"HUNG THANH"の見学を果たした今、この島における僕の目的は達せられてしまった。あとはゆるゆると過ごすのみだ。街の辻で2台のセオムを雇う。運転手の言い値は先ほどと同じひとり2万ドンだった。そして"MOON RESORT"への帰り道は意外と近かった。
日本のホテルで"Wi-Fi"を備えているところがどれほどあるだろうか。タイのホテルは、現地の物価からすれば随分と高い"Wi-Fi"使用料を取る。しかしヴェトナムにはタダの電波があふれている。この"MOON RESORT"も例外ではない。茅葺き小屋にいても、僕は取引先とメイルのやりとりが何不自由なくできる。そして次男は"iPhone"でツイートをしながら昼寝に入ってしまった。
僕はひとり砂浜のバーへ行く。そこでサイゴンビアを飲みながら「サイゴンのいちばん長い日」を読む。「このたびの日本は災難でしたね、一体どれほどの人が亡くなったんですか」とバーテンダーが気の毒そうな顔をする。同じようなやりとりは、ヴェトナムに来てから何度となくあった。有り難いことと思う。
日も暮れるころ、洗濯物を頼んであったこともあってレセプションを訪ねるが「20分以内に戻ります」という英語の張り紙を残して人はいない。「20分だけ」と言いながら1時間くらいは平気で消えてしまう。「あしたの朝は早いしなぁ、不安だよなぁ」などと次男と言い交わしながら外へ出る。
夕食はきのうとおなじ店で食べた。お運びの若い女の人は僕の好みを忘れず、ビールには背の高いグラスではなくオールドファッションドグラスを添えてくれた。きのうの海鮮鍋では野菜と麺をお代わりしたが、今日は本体の方をお代わりする。
夕食を済ませれば、もうすることはない。携帯電話に明朝6時のアラームをセットすると「アラームまで9時間6分」と表示された。この歳で9時間も連続して眠れるわけはないが、とにかく就寝をする。
眼を覚まして枕頭の携帯電話のディスプレイを見ると6時を過ぎていた。「ホーチミンの朝は暗いな」と意外に思って直ぐに、この携帯電話の時間表示が、いまだ日本にいるときのままだったことに気づく。そしてそれから2時間を経てようやく、空が白み始める。今のこのあたりは朝夕には涼しくなるらしく、冷房など使わなくても熟睡することができた。
部屋から数メートルのところにある、尻のこそばゆくなりそうな非常階段に出て、ブイヴィエン通りから南東方面に広がる景色を撮る。オートバイの排気音や人の話し声が、うかがい知れない路地の奧から聞こえてくる。
"Duc Vuon Hotel"の501号室はダブルベッドとシングルベッドの3人部屋ということになってはいるが、ソファを片付けなければトランクを開くこともできないほどに狭い。しかし次男は「なかなか良いね」と満足げである。
10時にホテルをチェックアウトし、ドアマンの停めておいてくれたタクシーに乗る。「タンソンニャット空港の国内線」と告げると運転手は「ドメッティッ」と僕に確認をした。そして空港までのタクシー代はティップも含めて12万ドンだった。
タンソンニャット空港の国内線ロビーには、まるで昔の日本の鉄道駅か、あるいは工場のような雰囲気がある。「懐かしー」と思わず口に出してから「そんなことを言っても、次男は昔の鉄道駅なんか知らないわな」と気づく。
フーコック島へ飛ぶ飛行機は、僕の好きな"ATR 72"だった。定刻の12:10に離陸した機は、早くもその40分後には降下を始めた。島の海岸線には、漁船がおびただしく浮かんでいる。そして"VF1817"は定刻より13分早い12:57に着陸をした。
島の西側ロングビーチ沿いにあって今日から2泊する"MOON RESORT"には、そのウェブペイジから、本日の到着時間の告知と送迎の有無を訊ねるメイルを送っておいたが返事は無かった。案の定、迎えに来ている気配もなかたっため、空港前に客待ちをしていた"MAI LIN"と"SASCO"のうち後者のタクシーに乗る。この島のタクシー代はホーチミンのそれよりも高いような気もしたが、あるいは道が空いていることにより、メーターの進みがより早く感じられたのかも知れない。宿までの料金はティップ込みで7万2千ドンだった。
"MOON RESORT"のレセプションにはあまり英語の話せないオニーチャンがいて、トランクを運びながら、我々をレセプションちかくのバンガローに案内した。その椰子の葉葺きの小屋の引き戸を開けると、中にはベッドがひとつしか無い。「ベッドはふたつ欲しい」と言うとオニーチャンは何か説明しようとするが言葉が出てこない。そして「ちょっとまってください」と言ってどこかへ去った。
良く言えばバンガロー、悪く言えばさっかけ小屋といった風情のそこには、自家発電機を回しているらしい建物からの、気になる音も響いている。やがてまたオニーチャンが顔を出して「レセプションに来てください」というようなことを言う。
レセプションにはオーナーあるいは責任者らしい白く太った30代の男の人がいて「予約はバンガローでお受けしてありますが、バンガローはすべてワンベッドルームなんです」と説明をする。とすれば僕は、母屋のツーベッドルームの写真をウェブ上に見て、なにか勘違いをしてしまったのだろうか。
「ベッドについては了承した。ただし部屋はビーチのちかくへ移して欲しい」と要求し、打ち寄せる波の望める場所へと移動を果たす。ただし小屋の造りは先ほどとおなじだから、ヴェランダの机と椅子を部屋の中へ運び、臨時の仕事場あるいは書斎とする。
ここで時刻は14時になっていた。次男はタンソンニャット空港でフォーを食べたが、僕はいまだ昼飯にありついていない。よってビーチを見下ろす四阿のような食堂へ行く。ヴェトナムの麺は生憎とメニュには無かった。マカロニを注文してひと息を着く。
すこし落ち着いて庭を散策していると、洗濯用の桶はどこかにないかと、白人のオバサンに声をかけられる。「いやぁ、桶は分かりませんねぇ、僕たちはさっきレセプションにランドリーを頼んじゃいました」と答える。オバサンはドイツ人とのことだった。この"MOON RESORT"には、ほとんど白人しか逗留していない。やがて夕暮れが訪れる。
リゾート内にたった1軒の食堂で三食のメシを食べるのは芸がない。ユーンドンの街までは数キロの距離がある。"MOON RESORT"からロングビーチ沿いの通りに出ると、そこには偶然、我々を空港から運んだ運転手がタクシーを休ませていた。相談すると「ダウンタウンの美味い料理屋はどんどんこちらに移ってきてますよ」と商売っ気のないことを言う。よってそのまま歩き、良さそうな店の屋外の席に座る。
"Fresh Seafood Hotpot"は烏賊と海老とハマチのような魚の切り身、野菜の盛り合わせ、中華麺がひと組になっていた。この国に入ってから、次男はなにか食べるたび「美味い」を連発する。今夜のメシも野菜と麺をお代わりし、店の女の人はその都度ニコニコと愛想が良い。
「あんなひでぇとこで寝なくちゃなんねぇんだからさ、せめてメシくれぇは美味めぇもん食いてぇよな」と言うと「いや、むしろ、オレはああいうところに憧れていたからね」と次男は淡々としている。要求度の低い子供を持つと、親は楽である。晩飯の代金はお茶やビールも含めて18万7千ドンだった。
ゴム草履ではなく、用心のために履いたブーツで荒れた石畳を踏みしめバンガローへ戻る。そして冷水のシャワーを浴びて21時前に就寝する。
5時に起床して顧客にメイルを送る。"amazon"に本を注文する。そんなことをしているうち"iPhone"、"iPod"、ホテルの時計に仕掛けたアラームが一斉に鳴り始めて次男が眼を覚ます。
7時39分に成田空港の第2ターミナルビルへ来てみれば、ベトナム航空951便のチェックインはいまだ行われていない雰囲気だった。よって「ちょっと奧でゆっくりしようぜ」と提案すると「お父さん、あっちだよ」と次男の指し示す方向には、既に荷物を預けたりしている人の姿があった。今回の旅においては初っぱなから、次男の方がよほど頼りになるのではないか。
「航空会社はやはり日本のものでないと」と言う人の気持ちがまったく分からない。義理が絡んで果たせないことも多いが、僕は旅においてはできるだけ、これから行く国の航空会社を使いたい。そのベトナム航空のカウンターでは「空いておりますので、お好きな席を」と言われて一も二もなく「後ろの方の、窓際にシートがふたつ並んでいるところ」と指定をした。
10:00発の"VN951"は首尾良く10:09に離陸をした。機材は"AIRBUS A330-200"だったから、なにも後ろの方でなくても窓際のシートはふたつのみだった。埋まっている客席は2割程度しかなく、人ごとながら心配になる。
11:05に昼食が配られ始める。乗客が少ないから食事の時間もすぐに終わる。11:30には早くも客室乗務員が各席をまわり、窓の遮光板を降ろすよう言う。スッチーも含めての、シエスタの時間である。機は九州上空に達したばかりだ。
一昨年から続けて東南アジアへ出かける機会があり、そのときには欠かさず近藤紘一の「目撃者」を持参してきた。しかし今回はやはり「サイゴンのいちばん長い日」だろうと、この文庫本のはじめから89ページまでを機内で読む。
行き先がバンコクであれば飛行機はダナン上空からインドシナに入る。しかしホーチミンを目指す"VN951"はほとんど最後まで海上を飛ぶ。そして機が徐々に高度を下げ雲を抜けると、眼下には山野が、次いで湖のような広い水域が、そして何本もの屈曲した川のあいだに家々が見えてくる。日本時間16:30、ベトナム時間14:30にタンソンニャット国際空港に着陸。ホーチミンの天気は曇り、気温は32℃。ベトナムで最初に使った便器は"TOTO"製だった。
この空港の税関は、X線の検査機器へ通じるベルトコンベアに乗客がみずから荷物を載せる式のものに過ぎなかった。トランクを運ぶ次男を振り返って「そのウェストポーチは通す必要、ねぇんじゃねぇか」と助言すると、何を勘違いしたか次男はウェストポーチのみをX線にかけ、トランクは床を転がしたまま素通りした。
そんなトンチンカンなことをしても、職員たちは低い椅子に深く腰かけおしゃべりをしているだけだから気づかない。そのまま到着ロビーへと抜ける。
両替は、2軒並んだうちの客引きに熱心な方ではなく、レートの良い方を選んで次男にさせた。2万円が507万ドン。1万ドンが40円の計算である。
国際線到着ロビーから外へ出たら右へ進み、横断歩道を渡る。152番のバスはすぐに見つかった。バスには前と後ろにドアがあり、我々は後ろのドアから車内に乗り込んだ。休憩中の運転手は新聞を読むことに余念が無く、我々のトランクやザックは見ていない。
僕の下調べによれば、乗車賃は大きな荷物を持っていれば1万ドン、中くらいの荷物でも7千ドンとのことだった。ハンドルに足を上げたままの運転手に「ふたり分」と告げると"12 thousand"と、彼はちらりと僕の顔を見ながら答えた。我々は少しトクをしたのかも知れない。
さてここからは、空港からバスでデタム通りちかくの安宿街へ行くための案内だ。
152番のバスは、空港を出て数分もするとナムキーコイギア通りを南下し始める。そして右折と左折を繰り返しながら8月革命通りへと入る。左側に深い緑を湛えているのは文化公園だ。ロータリーを過ぎると間もなくベンタインのバスターミナルに着く。しかしここは終点ではない。バスは雲霞のように密集して右に左に動くオートバイをかき分けつつ数分後にはチャンフンダオ大通りに東側から入っていく。
自分を指して"De Tham Street"などと運転手や周囲の人たちに伝えておけば、このあたりで彼らは「オーイオイ」と当該の場所に着いたことを教えてくれる。
チャンフンダオ大通りの、西へ向かって右の歩道に降ろされたら、数十メートル先の交差点がすなわちチャンフンダオ大通りと交差するデタム通りで、これを右折して北へ進めばすぐにブイヴィエン通りとの交差点。更に直進すればファングラーオ通りに突き当たる。
と、ここまでが、我々が迷走の末に発見した貴重なデータである。
僕の誤りは、チャンフンダオ大通りをファングラーオ通りと勘違いしてしまったことによる。我々はチャンフンダオ大通りと交差するデタム通りを、北上ではなく南下し、やがて対岸に4区を臨む運河の見えるところまで来てしまった。そしてもと来た道を戻り、親切なオジサンに道を教えてもらってようやく、ブイヴィエン通りにある今夜の宿"Duc Vuon Hotel"の看板を見つけることができた。やれやれである。
その非道ぶりを飽きるほど読んだホーチミンのタクシーは、できるだけ使いたくない。だから今夜のメシはホテルちかくの牛鍋屋"Lau Bo Quang Khai"にしようと決めてきた。ホテルのフロントにその住所を見せると「すぐちかくだ」と、ボールペンで地図を指してくれる。しかしそれはあくまでも住所の番地を地図上に追っただけで、フロントのオニーサンがその店を知っている、ということではないらしい。そして"Lau Bo Quang Khai"は、路上で地元の人に訊ねても見つからなかった。廃業したのかも知れない。
元々次男の興味は牛鍋屋ではなくヤギ鍋屋にあった。よって遂にタクシーを停め、自筆の地図を見せて、グエンコンチュー通りとホードゥックチン通りが交差するあたりまで行く。タクシーの運転手は紳士的で、料金はティップも含めて2万5千ドンしかかからなかった。そして我々は"Lau De 218"の、舗道上に広げられた席のひとつに着いた。本日2度目のやれやれである。
ヤギ鍋の前には先ずヤギの焼肉を食べるべしと、おっぱい肉と腎臓を注文する。氷を入れたビアサイゴンのジョッキと、次男の氷入りのお茶チャーダーのジョッキで乾杯を交わす。我々の直ぐ横を、オートバイやコンクリートミキサー車やアイスクリームの屋台が通り過ぎていく。流しのギター弾きや様々な行商が近づいては離れていく。「いや、最高だな」と、思わず声に出る。「うん」と次男も答える。
ヤギのおっぱいの焼肉をひとくち食べるなり「なにこれ、すっげぇ美味い」と次男が感嘆の声を上げる。腎臓も、オクラもタデも玉葱もトマトも美味い。
氷入りのビアサイゴンはノドにしみ通ったが小瓶2本に留め、ルアモイはないかと店の人に訊く。これがまったく通じず、ようやく「ウォッカか」ということになって了承をする。そしてこちらの人はウォッカを「ウォツカ」と発音することを知る。
夢中で焼き肉を食べるうち「これだけ腹が満ちれば、もう鍋は食えねぇんじゃねぇか」ということになり、次男は羊のカレー炒め"De Xao Lan"を選んだ。「炒め」とはいえこれが運ばれれば羊のカレー煮というべきもので、ルーにひたして食べるフランスパンも同時に届いたが、こちらは腹の具合もあって断った。代金は締めて31万3千ドンだった。
帰りのタクシー代は、ブイヴィエン通りの東の端に着けてもらったこともあって往きの半分で済んだ。部屋へ戻り、次男の設定してくれたコンピュータでほんの少しのツイッター活動を行う。そして21時50分に就寝する。
13:33 三菱シャリオの助手席に次男を乗せて家から出発
14:11 宇都宮の柳田車庫着
15:05 マロニエ号/柳田車庫発
15:52 マロニエ号/鹿沼インター前停留所着
16:52 マロニエ号/東北道浦和料金所通過
17:31 右手に見える東京ディズニーランドは休業中。
17:42 マロニエ号/東関東道習志野料金所通過
18:05 マロニエ号/新空港道成田出口通過
18:09 マロニエ号/成田空港第2ゲート通過
18:12 マロニエ号/成田空港第2ビル着
18:40 1階25番の停留所からホテルのシャトルバスに乗る。
18:55 成田東武ホテルエアポート着
計画停電に運行の左右される列車を避け、バスで成田へ移動する。紛失することを恐れるあまりパスポートは施錠したトランクに収め、マロニエ号の胴内に格納した。ところが空港の第2ゲートで身分証明書を見せろと言われ、大慌てで運転手さんに頼みトランクを地面に降ろし、パスポートを取り出す。
空港第2ビルの中は節電により薄暗い。ホテルへのシャトルバスの車内には、ディナーバイキングは都合により中止するとの、支配人名による張り紙がある。小さくもないホテルで営業中のレストランは1店のみだ。「戦時中」「終戦直後」「外食券食堂」というような言葉が頭に浮かぶ。
「あんた、戦時中はそんなもんじゃなかったよ」と言われれば、それはそうだろう。しかし先の大戦から66年を経た、栄耀栄華を極めて後の姿がこれかと思えば何やら不気味な気もする。明朝のベトナム航空951便は飛んでくれるだろうか。
今は国道121号線になっている土地にむかしはウチの煙突があり、この尖端まで昇ったところで、当時おなじ町内にあった警察署の誰かに見とがめられ、その誰かが駆けつける前に僕は煙突から降りてどこかへ逃げた。春日町1丁目の消防詰所裏につい先日まであった火の見櫓へ昇ったときも、やはり僕の姿を見つけた大人が飛んでくる前に逃げた。
そういう次第にて僕は子供のころから高いところが好きだから、今回の大地震で壊れた、工場の屋根に上がってみる。むかしの、直径10センチほどの丸太を組み合わせたものとは異なり、今の足場は鉄パイプとユニット式の階段と踏み板、それらを覆うネットで組まれている。よって転落事故はほとんど起きそうにない。
瓦屋根のもっとも大きな面積を占めるのが桟瓦だ。その桟瓦を上へ上へと辿って行った最上部に何枚も積み重ねられているのが熨斗瓦で、その更に上に冠瓦が乗っている。冠瓦には穴があり、この穴を用いて針金が熨斗瓦と冠瓦とを結びつけている。
今般の地震では、ウチの瓦屋根も、また他所様の屋根瓦も、大抵は、この熨斗瓦と冠瓦の部分から崩落が始まっている。それはまた、工場と道一本を隔てた味噌蔵の屋根についても同じである。
「熨斗瓦を多く積み重ねれば見栄えは良いが地震には弱い。今回の修理に当たっては、熨斗瓦は廃止したいがどうだろう」と、先日は瓦屋さんから提案を受け、僕は二つ返事で了承をした。ひとつの瓦屋さんがいくつもの現場を同時進行させなくてはならない今日この頃である。ウチの瓦屋根も、足場が外されるまでには、いまだ数ヶ月はかかかるものと思われる。
夜にとんかつの「あづま」へ行く。僕はこの店では冬は牡蠣フライ、その他の季節には串かつを食べる。3月27日ならいまだ充分に牡蠣フライの時期と思われたが、今日は材料が切れているとのことだった。ことによると、宮城県からの入荷が途絶えているのかも知れない。
このところ、きのう撮ったはずの朝飯の画像が翌日に見当たらないということが続けてあった。ふと思いついて"RICOH CX4"を調べたら案の定「カード連続NO.」が"OFF"になっていた。この設定だとカードを初期化するたび画像のファイル名は0001.jpgから始まり、それが前日コンピュータに取り込んだデータに上書きされていた、というわけだ。
きのうちょっとした用事があって町内のタケダさんの家を訪ねた。タケダさんの家は3間半の間口に対して奥行きは数十メートルという、日光の典型的な町屋である。
初めて聞いたところによれば、タケダさんの家は明治8年に建ったものだという。明治8年は西暦1875年。以来およそ136年のあいだ、この木造家屋は健在だったことになる。今般の地震の際にも、まるで組子細工のように揺れただけで、壊れたところはなかったという。木造の建物は鉄筋コンクリートのそれよりも、条件さえ整えばよほど保つという、これはひとつの証例である。
というわけでウチの工場の、一部が崩落した瓦屋根の修理は、来週の月曜日から本格的に開始される。
昨年4月から今年3月まで次男のクラスの担任をしてくださったサラシナコーイチ先生が、NHKの「あさイチ」という番組にお出になると、きのう父母の連絡網で回ってきた。今朝刊によれば、その番組は本日の朝8時15分に始まるという。よって就業時間中にもかかわらず、家内と次男との3人でテレビの前へ行く。
新聞のテレビ欄には「被災地の健康トラブル解消法」との文字があり、先生はタッピングタッチの専門家としてNHKに呼ばれたらしい。先生は普段と変わりなく、適切に過不足なく、この簡素で、しかし高い効果を持つ健康法につき説明をされた。
終業後はしばらく事務室にいて、コンピュータの電源を落とす間際に
今夜は日光の「グルマンズ和牛」がお総菜として売っているメンチカツでご飯を食べて、お酒は抜きます。と、ここで宣言しておこう。#nikko #dinner
とツイートをする。メンチカツは惣菜としては厄介な食べ物で、これに最も似合うのはパンでも米飯でもなくビールではないか。しかし僕はビールは殆ど飲まないから、僕にしてみればそう厄介な代物ではないとも言える。
そして初更のツイートの通り飲酒はせず、明瞭な頭のままあれやこれやする。
1980年のインドネパール行きには20リットルのデイパックひとつを持参した。そしてここまで持ち物を削ったバックパッキングはなかなか辛いことを知った。期間を倍にした1982年の旅行では装備をすこし充実させ、容れ物は30リットルのサブアタックザックにした。それでも荷物は可能な限り軽くしようと、歯ブラシの柄を短く切ったりした。
旅行案内書では、特に奥地辺境の説明においては"Lonely Planet"が一番だ。しかし近視乱視遠視の入り交じった僕の眼に、あの白黒の地図は瞭然さを欠く。情報量と地図の見やすさを考えれば「地球の歩き方」に手が伸びる。そして今般の旅行においても荷物の重さを減らすべく、この「ベトナム '10~'11」を本日、カッターナイフでばらす。
こうして必要な部分だけを取り出し、背の部分を透明の粘着テープで固定する。資料は他にも持つ。その各々を1冊ずつ持参することは、僕の趣味に合わない。
1980年代の旅行にくらべて確実に荷物を増やすのがコンピュータと携帯電話だ。電源部分も含めれば、その総重量は2キロを超える。南の国では、服は薄いもので済んでも蚊取り線香とゴム草履と海用のパンツが増える。あちらを減らし、こちらを増やす。とにかく旅行の準備は楽しい。
成田とホーチミンの往復航空券は昨年12月12日に買った。現地への到着時刻の関係から、航空会社にはヴェトナムエアラインを選んだ。航空券を買った旅行社からはその後、出発時間が変更された旨の知らせを2度、メイルで受け取った。これが最終のスケデュールになるかどうかは不明だが、成田10:00発が、今のところの確定時刻である。不満は無い。
ホーチミンとフーコック島の往復航空券は、ホーチミンの旅行社にメイルで頼んだ。航空会社はやはりヴェトナムエアラインだが、こちらも購入後2ヶ月を経たあたりで、ホーチミン10:00発は12:20発に変更されたとのメイルが届いた。とすればこの日の昼飯はどこで何を食べるべきか。できれば空港のメシは避けたい。
「こういうときでなければ」の「こういうとき」とはすなわち「ヒマなとき」ということで、11日の大地震翌日から商売はまったくヒマになってしまった。そういうわけで日光市長畑地区の「三たてそば」へ行く。「三たて」とは「挽きたて」「打ちたて」「茹でたて」を意味する。
この繁盛店もまた現在はヒマなようで、入店するなり「30分ほどお待ち戴いてよろしいでしょうか」と女の人に訊かれ、了承をする。30分後に出てきた盛り蕎麦は美味かった。濃厚な蕎麦湯は3杯も飲んでしまった。そして「ガソリンが市中に行き渡り、人々の不安が解消されるまでには、一体全体どれほどの時間がかかるだろうか」と考える。
朝7時ころより、それまでの雨がみぞれに変わった。ホンダフィットのタイヤは数日前にノーマルに履き替えている。幸いなことにそのみぞれは数十分後には雨になり、やがてその雨も上がった。
価格ドットコムで"RICOH CX4"の最も安かった「ECカレント」からは、注文の翌日に現物が届いた。僕の手先は極端に不器用なため、デジタルカメラを買うたび、液晶プロテクターは「手塚工房」のテヅカナオちゃんに貼ってもらっている。そして本日午前、仕事の話をしがてら工房に出かけ、従前同様"CX4"の液晶にプロテクターを貼ってもらう。
2008年3月7日に発売された"R8"と 、その2年半後の2010年9月3日に発売された"CX4"を並べてみれば、大きさも外観も、そして操作系もほとんど変わっていない。僕がリコーのカメラを好む、これは最大の理由である。
丁寧に扱おうとするあまり腫れ物に触るように軽く触れ、すると脂っ気のない手指も手伝って床や地面に落としてしまう、これが僕の、届いたばかりの精密機械に対してよくやらかす失敗である。それを知っているから今回は事務机に紙を敷き、その上で初期設定を行う。
"GR"とは異なり"CX4"にはゴム製のグリップが無い。その心許なさに緊張しながら晩飯の写真を撮る。
長男が大学院に合格した暁には、そのお祝いにメシくらい食べさせてやろうと思った。お祝いのメシとはどのような店で食うべきか、ムッシュビバンダムの料理屋評価本からいくつもの星をもらうような店だろうか、しかしそのような店には金さえあれば行ける。金さえあれば行けるような店が、お祝いのメシを食べるにふさわしい場所だろうか、とここまで考えて「やっぱり宇ち多だな」と僕は決めた。
しかしこの2年のあいだに長男と「宇ち多」へ行く機会は得られず、そして大学院の卒業式は明後日に迫った。僕はその式に出るべく"UNICLO"でウールの黒いジャケットを買った。値段は990円だった。そして結局のところ卒業式は中止になった。聞くところによれば三社祭も神田祭も中止されるという。
卒業式が中止される主な理由は、交通や電力供給の不確実性によるものだろう。そしてお祭りが中止される主な理由は、交通整理をすべき警察官の、いつ地震の被災地へ出向することになるか分からない、人員確保における不確実性にあると僕は思う。
「下手な自粛はするな」「こういうときこそお祭りだろう」とは僕も感じる。しかしそうもいかない事情もある。社会基盤の、できるだけ早い復旧を祈るばかりだ。
2008年3月16日に買った"RICOH R8"が壊れたのは1月19日のことだった。電源を入れてもディスプレイが真っ黒なままにになった。その状態でシャッターを切り、データをコンピュータに移して確認すると、撮れた画像も真っ黒だった。撮影素子が死んだのかも知れない。
初代の"GR DIGITAL"は、メモに残さなければ一体全体どれだけ壊れたか覚えていられなほど頻繁に壊れた。それにくらべて"RICOH R8"は2年10ヶ月のあいだ何ごともなく動き続けたのだから大したものだ。
僕は物を使い捨てることは好まない。できれば直しつつ永く使いたい。そこでリコーのサイトに設けられた、故障の個所や種類をクリックしていく式の見積もりをすると、今回の故障については「概算で19,500円」と表示された。39,370円で買った3年落ちのカメラに19,500円の修理費を出す気はしない。
「次に買うならまたリコー」と考えてたところに飛び込んできたのが田中希美男による"Olympus XZ-1"への激賞で、これを読んだらついフラフラと、気持ちがオリンパスに向いた。以来ずっとこのカメラを調べ続けてきた。そして値段の推移も見つづけてきた。
そして本日遂に、しかしやはり"RICOH CX4"を20,076円で買う。"XZ-1"にしなかったのは、オリンパスのカメラのデザインには何十年も前から一貫してなじめないということがひとつ、もうひとつは「リコーでも別にいいやな、マニアでもねぇんだから」という理由による。出たばかりの"CX5"を選ばなかったのは「いまだ高いから」である。
福島県相馬市による、日光市への物的支援の要請が入ったとの報せが昼ごろ、市役所よりファクシミリで届く。電話で問い合わせると、食料品であれば要冷蔵ではなく、且つ調理を必要としないものが有り難いという。
当方は「スワッ」と製造現場へ走り、ビン入りのたまり漬350本、1リットルの醤油80本を用意するよう言う。別途タオル1箱、マスク1,000枚、米30キロも事務室に持ち込まれた。
夕刻にこれらを三菱デリカへ積み、販売係ハセガワタツヤ君と市役所の集荷場へ行く。荷下ろしは市役所職員の助けにより素早く完了した。この時間に集められた物資は明日の第1便に載るという。
本日の計画停電は回避された。よって家族4人で洋食の「コスモス」へ行く。そしてこの晩飯の最中にも、平時であれば肝を潰すほどの、大きな余震に見舞われる。
卒業式は更に簡素化し、奏楽のためのブラスバンドも不要になったとの連絡を、長男はきのうの夜に受け取った。そうであればもう一つの仕事をこなすのみだ。
長男は朝から自分の荷物をまとめ始める。僕は本郷三丁目の駅ちかくまで歩き、おむすび、カップの豚汁、そして"STARBUCKS COFFEE"でアメリカーノの小さいサイズをそれぞれ2組ずつ買う。
長男の身の回りのものや布団、本などをホンダフィットに格納する。春日通りに出ながら時計を見ると午前11時だった。湯島の天神下から不忍池畔を過ぎて上野の山の下まで来ると突然、桜の花が視界に入って虚を突かれる。そして「そうか、東京はもう桜の季節か」と気づく。
埼玉県道49号足立越谷線はすなわち旧日光街道で、草加付近では綾瀬川に沿って、人工的とはいえ江戸の情緒を感じさせるところがある。更に北上して新4号線に入り、この渋滞がきつくなれば"iPhone"を頼りに農村や工場地帯の細道を辿る。
幸手のセブンイレブンでパンを買うついでに空いた道を訊くと「今はどこも混んでるでるでしょー、おとなしく新4号線をずーっと走った方が間違いないよー」とオバサンは言う。そして当方はオバサンの忠告を無視してふたたび"iPhone"に抜け道を探す。
「こんなに空いてる道があるのに、どうしてみんな、あんな新4号線にずっといるんだろう」と、うららかな青空の下、権現堂川の広い川面を眺めながら長男が言う。そして利根川の土手には菜の花が風に揺れていた。
旧4号線を北上して小山に至る。今日は壬生から鹿沼を抜け、夕刻前に日光に達する。復路はきのうの往路よりも8キロ短縮されて134キロだった。燃料計を信じるならば、フィットの燃料タンクには、いまだ3分の2ほどのガソリンが残っている。
自由学園の卒業式は例年と同じく3月21日に予定をされていた。しかし今年は大震災による諸般の事情から、明日18日に行われることが決まった。
会場に新卒業生が入場するときの音楽はアイーダの凱旋行進曲で、35回生の僕より34歳年長の1回生カキザキヘーシローさんによれば、これは当時からの伝統だという。ところが今年は3学期を短縮し春休みを早めたため、ブラスバンドの人員が足りない。そこで「手伝えるOBはいないか」との連絡が長男にも入った。長男のパートはトランペットで、金管を欠いた凱旋行進曲はあり得ないと、長男は言う。
ちょうど他の用事もあったため、長男とホンダフィットに乗り、15時15分に家を出る。タンクに燃料を満たしたハイブリッドのフィットは、条件さえ良ければ無給油で700キロを走ることができるから、東京往復くらいはどうということもない。
50キロ規制の敷かれている日光宇都宮道路で宇都宮へ。旧4号線を南下し、小山から始まった渋滞を避けて50号線から新4号線に入る。夜のとばりの降りはじめた埼玉県の五霞町で大渋滞に巻き込まれ、江戸川沿いの268号線に逃げるも通行止めに阻まれて再び新4号線に戻る。
埼玉県の北部においては、新4号線は広漠な土地に一直線に延びている。そういうところから南進するにつれ工場やビルが増えてくると、何とはなしに安心するのはなぜだろう。
越谷の左車線のみの大渋滞は、シェルのスタンドに並ぶ給油待ちのクルマだった。電力の供給網が入り組んでいるのか、点灯している信号と消えている信号が交互に続くような地域が一部にあり、交通整理の警察官はいるものの、運転からはまったく気が抜けない。
足立区竹の塚あたりの風景は、これまで見たこともないものだった。主要街道沿いにも関わらず、目に入る灯りはクルマのライトと交差点の信号、それにマンションの廊下の常夜灯のみ。商業施設の電飾看板はすべて消え、ファミリーレストランやファストフードのほんどは休業しているから、あたりは異様に暗い。照明のすべて落とされた千住新橋の上を黒い人影がぞろぞろ歩いている様は、まるで小村雪岱の絵を見るようだ。
一体全体どれほど続くのだろうと思われるほど長い左車線の渋滞がふたたび現れる。その右の車線をしばらく疾走すると、渋滞の先頭はまたまたシェルのガソリンスタンドだった。
家を出てちょうど5時間後に上野駅前に達する。不忍池畔から無縁坂を駆け上がって甘木庵に着く。クルマを置き、今度は徒歩で切通し坂を下れば大鳥居はす向かいのピザ屋"Arrangiarsi"は大忙しの盛況だった。よって天神下から湯島まで足を運び、焼肉の「俵屋」でようやくメシにありつく。
長男はきのうの昼過ぎに帰国した。成田空港から甘木庵までは、それほどの不自由もなく移動できたらしい。
予定を1週間早めて春休みを迎える自由学園に本日、長男は次男を迎えに行った。長男と次男はそのまま上野駅へ向かい、中央改札口で僕のオフクロと落ち合った。そして3人はJRを乗り継いで夕刻に帰宅した。
一方の僕は、未曾有の災害に見舞われて間もない春の例大祭をどう行うべきか話し合うため、15時より瀧尾神社へ行く。そして夕刻に帰宅する。
本日の計画停電は18:20~22:00とのことにて、キャンプ用のランタンを卓上へ置き、これを頼りにおむすびを食べ、豚汁を飲む。
先週末以来、保護者に付き添われ次々と生徒の去った寮にきのうまで残った中等科3年生は次男とワラヤ君のふたりだけで、その場で修了式の、修了証を代表で受け取る係にはワラヤ君が、そして高等科へ進むに当たっての抱負を述べる係には次男がそれぞれタカダ先生に任命され、本日これを実行したという。貴重な体験をさせていただき、有り難い限りである。
計画停電の、日光市今市地区は第3グループに属する。その第3グループの本日の停電は06:20から10:00と決められている。よって5時30分に起床し、社内の、本日必要とされるすべての電動シャッターを開いて回る。
6時に事務室にいると、これから信号機の消えるであろう春日町交差点に配備された警察官2名が来て、自分たちの車両をウチの駐車場に駐めさせてくれと言う。もちろん快諾をする。そして結局、本日の日光市今市地区の停電は回避された。
きのう"JUSCO"に行ってみた限りでは、棚からすべての商品が消えているという、買い占めに遭ったような状況は見られなかった。しかしウチのはす向かいにあるオーハシタダオ君ちのガソリンスタンドには、今朝は鬼怒川方面からの長い上り坂の下から給油待ちのクルマが行列をしている。
今月11日の地震の当日からすれば余震は随分と減った。しかしすこしでも揺れを感じれば、思わず身構えたり怯えたりする。そして本日の朝飯と昼飯には、むかしの山小屋のメニュのようなものを食べる。
あちらこちらで発電所が機能不全に陥っている関係から、広く節電が呼びかけられている。それに呼応して社内でも、人の働いていない場所の灯りをすべからく消したところ、社内はまるで経済統制下のどこかの国のような風景になった。そして「電力が復旧しても、社内の照明はこのままで良いんじゃねぇの、不自由は何にもねぇし」と思う。
地震による交通の混乱などにより、当面の措置として月曜日と火曜日の休校を決めた自由学園は、親が迎えに来られる生徒に限り、きのうから帰宅をさせ始めた。「終業式は水曜日なんだから、子供はそれまで寮にいれば良いわな」と、帰宅の段取りについては速達の葉書でのみ次男に伝えていた僕のところに午後、ミノダ先生から電話が入る。次男の帰宅に際しては長男が学校まで迎えに行く旨を、先生にはお伝えした。
その後、学校からファクシミリにて届いた案内によれば、現在、男子部の「東天寮」」に残っているのは31人のみと知る。そして「旅順港閉塞作戦の杉野孫七みてぇだな」と笑いながら家内に言う。オフクロが知れば「杉野はいずこなんて、冗談じゃないよ」と顔をしかめるだろうが。
おとといの地震発生時に、オフクロはたまたま本郷三丁目の駅前で買い物中だった。突然の大地震に、道行く人たちは知らない同士が手を繋ぎ、あるいは肩を組み、小さなかたまりを作って不安そうに周囲を見まわしていたという。長男はたまたまビショップ博物館に用事があり、現在もホノルルにいる。
次男が寮生をしている自由学園からは、地震への取り組みが毎日のようにファクシミリで届くから心配はない。当方は教師の仕事を増やしてはいけないと、またいたずらに学校や寮の電話回線を使ってはいけないと、次男には速達の葉書で意思を伝えている。
自由学園は大地震に伴う社会の混乱に鑑み、3学期の終業式を早める決断をした。長男は15日に帰国をする。長男には16日に次男を寮へ迎えに行き、そのまま日光へ帰宅する段取りを僕は伝えた。こちらの伝達手段はtwitterのDMである。
未曾有の大地震から数時間が経ち、余震もそれほど頻繁には感じられなくなったきのうの夕刻に「そろそろ大丈夫なんじゃねぇか」と、自宅のエレベータに家内と乗って4階のボタンを押した。架室ははじめ問題なく昇っていくかと思われたが数秒後にカチャカチャと異音を発し、その直後、更に大きな、そして不気味なグギギーッというきしみを発して停まった。
「このまま墜ちるのだろうか」と恐怖に立ちすくむ。と、架室は次の瞬間から下降を始め、あらかじめプログラミングされていたらしい「段差にお気を付けください」といいう女声のアナウンスと共に扉を開いた。そこには先ほどの1階のフロアがあったから当方は「助かったー」と胸をなで下ろしつつ外へ転げ出た。
「土曜日だから無理だろう」と考えつつ9時を過ぎると同時に「日立ビルシステム」へ連絡をすると、案に相違して事務員らしき人が電話に出る。そして「何時になるかは分かりませんが、メインテナンスの者を向かわせます」と約束してくれた。
そのメインテナンスの人は早くも昼前に来て昼食も摂らず、数時間のうちにエレベータを復旧させてくれた。きのうの大揺れのときから、架室は既にレールから外れていたという。
「有り難い」と感謝しつつも、先週システムを一新したばかりのエレベータに、またまた大規模な経費が発生したらどうしようと危惧してみれば「まぁ、メインテナンスの範囲ということで」という返事をもらえたので、またまた胸をなで下ろす。
夕刻にはそのエレベータで4階へ上がり、簡単なメシをそそくさと食べる。そして町内の役員会へ出るため、これまたそそくさと席を立つ。
あまり邪険にしても差し障りがあろうかと、14時30分から証券会社支店長の訪問を受ける。中国のある施設への投資の案件で、年に8~9パーセントの成長が見込めるとその支店長は身を乗り出す。僕は「一寸先は闇ですからねぇ」とのみ答えて更に、自分はとにかく仕事がしたい、しかし15時からはまた別の来客があるから、またまた仕事は進捗しないと加えた。
その支店長が5分の交渉で席を立ち、それから10分後に強い地震に見舞われる。事務室に閉じ込められではいけないと、外への扉を開く。頭上から落下物があれば危険につき、店内に留まるようお客様には助言をする。
揺れは驚くほどの速さで激しさを増し、地鳴りのような音、建築物の揺れる音、何やら風を切るような音が恐怖心を煽る。火事なら消防車が来てくれる、しかし地震だけはどうしようもない。「外へ出ないように」とはいえ今いる建物が崩壊したら、それはそれでお終いである。
揺れの収まったところで製造現場へ走ると、製造係のフクダナオブミさんはボイラーの火を落として戸外へ逃げようとしていた。その戸外には、工場の大屋根から落ちた瓦が散乱していた。とにかく歩行者を怪我させるようなことがなくて良かった。この大屋根の隣の鉄屋根を折しも塗装中だったイナバ父子は、地面へ墜落しないよう、鉄板の上に平目のように這いつくばっていたという。
歩道に落ちた瓦は社員、仕事に来ていた職人、折良く通りかかった日光土木の人たちにより、たちどころに片付けられた。社内に戻り、社員全員、しっかりした靴を履いて待機するよう館内放送で伝える。
エレベータではなく階段で自宅3階に上がると、棚の本、棚の食器の多くが落ちて足の踏み場もなかった。4階もおなじような状況である。とにかく仏壇を優先して中のあれこれすべてを窓際のテーブルに出し、花瓶の水により濡れたそれらを丁寧に拭く。
そうこうするうち、税理士のスズキトール先生が様子を見に来てくれたとの電話を受けて事務室に戻る。昔から出入りのシバタ鉄工のオヤジさんが来てくれる。サーヴァが故障してはいまいかと外注SEのシバタさんが来てくれる。有り難いことだと思う。
社員全員を17時に帰宅させる。家内はそのまま店舗にいて定時の18時まで販売に当たる。
とにかく足の踏み場もない4階の廊下のゴミを複数の袋に分別し、次は居間の本棚から飛び出した本その他の整理をする。アドレナリンが盛んに放出されているのか、空腹は一向に覚えない。
東北地方の太平洋岸では、家もクルマも巨大コンテナもオモチャのように、巨大な津波に流されている。住宅地も几帳面に並んだビニールハウスも、これまた燎原の火よりも速い津波に呑み込まれている。気仙沼は市内のかなりの地域が燃えている。ひとつの村、ひとつの町のほとんどが失われてしまった地域もあるらしい。まるで小松左京原作の映画「日本沈没」を観ているようだ。
深夜2時に至って甘いコーヒー2杯を飲み、部屋の明かりを落とす。しかしテレビは付けたまま、とりあえず布団に横になる。
うららかな日が続いている。店舗正面の破風と壁の塗装はきのう完了し、足場も外された。今朝は見違えるように綺麗になった白壁が朝日を照り返して、しごく気持ちが良い。"patagonia"のベストはクリーニングに出してしまった。それなしでも痛痒のない今朝の暖かさである。
新しい包装資材、新しいパンフレットの文案などを考えながら夕刻に至る。
僕は会合のメシや酒は嫌うが例外もある。春日町1丁目青年会のそれは、僕にとっての数少ない例外だ。本日はその青年会の遅い新年会にて、19時に洋食の「金長」へ行く。そして到着の遅れている人たちへ携帯電話で連絡をする。
「5時に仕事の終わらねぇ人は可哀想だなぁ」と、電話を切ったところでつぶやくと「おたくだってそうだんべ」と指摘をされて「そういえば」と我が身を振り返る。
「何時ごろ来られますか」と電話を入れた面々が続々と集まってくる。そしてひと切れで満足してしまえそうな分厚い豚カツや大盛りのスパゲティを肴に焼酎のお湯割りを飲む。
一流の作家による通俗小説が好きだ。吉行淳之介の「すれすれ」はどのような内容のものだっただろうか。細かいことはおろか物語のすべてを忘れてしまっても「あれは面白かった」ということだけは覚えている。
スレスレ、ギリギリのきわどさを僕は好むところがある。しかしこと財布の中身に限っては、30年ほど前に青山のフランス料理屋で持ち金の3倍の請求をされたことがあり、以降は使うと予想される3倍の現金を持ち歩く習慣がついた。
ところが使うと予想される3倍の現金を財布に入れると、結局はスッカラカンになるまでそれを使ってしまう悪癖が自分にはあることに気づいた。気づいてから30年。村上龍ではないが「あの金で何が買えたか」である。
「しかし、今さら遅いと諦めるのは良くない」と、一昨日の月曜日には、この3日間で使うと予想されるギリギリの金額のみを財布に入れた。そして今朝"Computer Lib"の若い人たちに真っ先に訊いたのは「神保町で安く飲もうとしたら、どこへ行くか」ということだった。
夕刻にヒラダテマサヤさん、ヤモリ君との3人でイタリア料理の"PiaNta"へ行く。そして量り売りの白ワインを飲む。安い店と聞いているので、出だしの数品を頼むときから、節約しようとする気持ちは既に失せている。90分ほど飲み食いしての勘定は10,060円だった。
僕は財布にあったすべてのお札つまり千円札4枚を供出しつつ「ジャラ銭は温存させてください」とふたりに頼む。そして北千住へ移動し、スペーシアの特急券を"PASMO"で買う。財布には硬貨4枚が残った。
朝、甘木庵のダイニングキッチンで冷たい牛乳を飲んでいると、長男が起きてきて「この数日以内にソウルと青森に行ったけど、きのうの東京がいちばん寒かったよ」と言う。それはまぁ、気分も関係してのものだろう。
良く晴れた空の下を歩いて行くと、東大病院からの戻りと思われるタクシーが龍岡門から出てきた。普段であれば見送るところ、その車種がプリウスだったことから「へぇ、珍しい」と手を挙げてみた。そして運転手は、僕の姿には気づかなかったらしい。
甘木庵から神保町までは、僕にしてみればタクシーに乗るほどの距離でもない。本郷消防署を背にして南へ進み、お茶の水橋を渡る。デジタルハリウッドの通りから山の上ホテルの裏に抜け、錦華坂を下る。この道筋の要所要所でツイートを飛ばしながら「まるで落語の黄金餅だ」と思う。
二玄社の裏に達したところで「神保町、なう。」とツイートし、"Computer Lib"に入る。
他所へ出かけるときには、着ていく服を決める必要がある。この場合の服とは、行く場所や会う相手を考えてのものではなく、暑さ寒さへの対策である。
きのうの夜の天気予報は、東京に雪が降ると伝えていた。今朝のテレビのアナウンサーは「充分に着込んでお出かけください」と、六本木ヒルズの下で寒そうにしている。そして僕は「寒いのは東京の人だけだろう」と考える。
東京で地下鉄に乗ると、むんむんとする熱気の中で、男の人はツイードのジャケットを着たり、女の人はダウンの長いコートを着たりしている。1982年2月のヴァラナシで感じた「暑くても、インド人だけ冬支度」に似ている。
結局のところ僕は、上半身には"SIERRA DESIGNS"のマウンテンパーカも含めて3枚の服を着た。家を出たときの天気はミゾレだった。そして東京は雪だった。午前に東へ進んで千葉県へ入り、午後は西へ進んで東京の中央部に戻る。"mont-bell"の薄いダウンベストがあっても良かったかな、という気温だが、まぁ、どうということもない。
夜になって銀座へ移動をする。上半身に3枚の服を着た僕は、霧雨よりも細かい雨の中を歩きつつ汗をかいている。そして「燗酒だよなぁ」という先ほどまでの考えを棄てて冷や酒を飲む。
「戦略とは期限を定めること」と言った人がいる。
「こういう仕事、僕、好きなんです。すぐにできると思います。でも期限を定めないと、甘えてズルズルべったりになるかも知れません、いつまでに上げましょうか」と訊くと「それでは11日までに」と、その取引先は言った。記憶を辿ってみれば、この会話は先月28日に交わされたものだ。
「すぐにできると思います」と答えた仕事についてはその後、横から闖入した別の仕事によって後回しにされたまま今日に至っている。残された日数は明日も含めて5日間。まぁ大丈夫だろう。
閉店後に宇都宮へ行く。所用を済ませて20時すぎに帰宅すると、具合の良いことにさほどの食欲はない。よってこれを、腹をへこませる好機と捉えて晩飯を抜く。
随分と朝が明るくなってきた。夜の終わりから朝の始まりの空を目のあたりにするといつも、というわけではないがスタインベックの「朝食」を思い出す。そして週末を好天に恵まれる。
春の日光の様子を教えてくれと、シンガポールに駐在している年少の友人テシマヨーちゃんから、きのうの晩飯どきに電話を受けた。よって本日は朝のうちに自分の昨年の日記を辿り、また他のあれこれについても調べて、僕の方からはメイルで返事をする。ヨーちゃんは会社の人たちと春の日本を訪れるかも知れないとのことだった。
「自分がシンガポール人だったら、日本ではどのようなところへ行きたいか? アルミのペコペコの灰皿のある大衆飲み屋とか?」と想像して「だったら日本人としてのオレと変わりねぇじゃねぇか」と思い直す。
夜、牡蠣フライを肴に芋焼酎のお湯割りを飲む。蛍烏賊まではあと1ヶ月、空豆まではあと2ヶ月くらいのところだろう。しかしまた、雪の降ることも、いまだあるやも知れない。
「お化けが出る」という言葉がある。この場合のお化けは「これまで気づかず今日に至ってしまった不具合」というような意味になる。
今月1日から社内外の検査点検補修清掃を行ってきた。そのうち店舗内外の床磨き、エレベータの大規模な部品交換、高圧変電室の検査、原材料搬入口の屋根の塗装はきのうまでに終わった。店舗正面の破風と白壁の塗装については、いまだ続いている。
それは良いとして、原材料搬入口の屋根を塗装するため業者がローリングタワーを組んだところ、屋根瓦の割れていることを発見した。瓦屋を呼んで瓦を交換しようとしたところ、瓦の下に敷かれているはずの防水シートがなく、その下の木部は雨漏りにより腐っていた。よってその部分を直すため、今度は大工が呼ばれた。
一方、当方も「大工が来たなら」と、何年も気にしてきた、工場入り口の天井板の垂れ下がりにつき、こちらもついでに直してもらおうと考えた。そして大工がその天井板を外すと、本来、コンクリートに埋め込まれたボルトから桟を吊るところ、桟はそのボルトと連結されず下に撓んでいた。
数年前には、大屋根からの雨水を逃がすための塩化ビニールのパイプが、地下に埋設されたところからいきなり細くなり、これが夏の夕立の際の溢流に繋がっていたことが分かった。一部上場の建設会社の現場監督が付いていながら、このていたらくである。
「お化けを追いかけていったらキリがない」と言う人がいる。良い塩梅のところで切り上げなくては、一体全体どれだけ経費がかかるか分かったものではない。切ない話である。
大規模な部品交換のため今月1日から停まっていたエレベータが、夕刻に動き出す。僕は今朝までの、真っ暗な階段室を手探りで上り下りする労働から解放され、指1本の働きにより4階の居間へ戻る。
夜のテレビはどのチャンネルに合わせても騒々しい。自動録画してあったあれこれを調べると、吉田類の「酒場放浪記」に、いまだ観ていないものがあった。よっておもむろに再生ボタンを押す。
「松山や、秋より高き、天守閣」は言うまでもなく子規の作品である。あるとき「秋より高し、の方が良いんじゃないの?」と、子規の俳句を手直しするという暴挙に出た僕を「アキヨリタカキテンシュカクの、キ、キ、カのか行三重なりが、そそり立つ城の力強さを現しているんですね」と諭した人がいた。まぁ、言われてみれば、そんな気もする。
「酒場放浪記」では、ひとつの酒場の紹介を終えるたび、去っていく吉田類の後ろ姿にかぶせて彼の俳句が詠まれる。そして今夜の録画の、文京区水道の「いずみ」という酒場のその場面には「主なき、館の薔薇に、深紅かな」の句があてられた。
焼酎に酔っているとはいえ、すこしは動く頭で「館の薔薇に、だって? 館の薔薇の、の方が良いんじゃないの?」と考えたが「アキヨリタカキ」の先例を思い出して、それ以上の思考を停める。
社内外の検査点検補修などに伴う3連休の2日目。朝から高圧変電室に検査が入る。店舗内外の床磨きをする清掃業者も、ほぼ同時に来る。昨年のことをうっかり失念していたが、この検査のときには1時間ほど停電をする。清掃業者は電動のポリッシャーを使う。清掃業者には謝って、他の現場を優先してくれるよう頼む。
事務室ではコンピュータのサーヴァーと電話回線の"net community system"が、停電と同時にバッテリーで動き始める。そのビープ音を聞きながら日なたに新聞を開く。
「都知事選 石原氏は4選不出馬」の見出しが下野新聞の第1面に目立つ。石原慎太郎の動きについて、昨夜のテレビニュースはどの局も共通して「今月11日に意思を表明」と報じていた。今朝の中央の大新聞に「石原不出馬」の文字はない。下野新聞が偉いのか、あるいは中央の大媒体には何か差し障りがあるのか、そこのところは分からない。
エレベータが工事中だから日中に自宅へ戻ることはしない。昼飯のカレーライスは事務室で温めた。店舗の床はその後、無事に磨き上げられた。すべての業者が社外に去って後も、しばらくは事務室にいる。そして18時30分に、真っ暗な階段室を手探りで辿って4階の居間へ達する。
ウチは会社の休日について、対外的には「ほぼ年中無休」としている。正確には年間にで元旦、初春の社員研修が2日間、社内外の検査点検補修などで3日間、初秋の社員研修が2日間の計8日間のみ休む。
今日から3日までは店舗正面の破風と白壁の清掃と塗装、店舗内外の床磨き、エレベータの大規模な部品交換、高圧変電室の検査、原材料搬入口の屋根の塗装、瓦屋根の修復が行われる。そして僕は事務室に詰める。
朝一番から、店舗正面に足場が組まれる。そして長年の風雪により色の褪せた破風や、燕の糞でよごれた壁が高圧洗浄機により洗われる。玄関からはエレヴェータの基盤などが運び込まれる。
午前中は電話が多い。急ぎのご来店客おふたりの相手をする。きのう思いついた、包装資材への案につき、これを担当する会社に電話を入れる。ウェブショップにご注文をくださった顧客には、商品の納期をお知らせするメイルをお送りする。
この「清閑PERSONAL」の、今月は"BANYAN BAR"を夕刻に更新する。そしてエレベータは動かないから、真っ暗な中を階段を使って4階の居間へ戻る。