7月下旬に行った、5年ぶりとなるウェブショップの大きなリニューアルに伴う調整がいまだに続いている。9時すこし前に"Computer Lib"へ達し、この1ヶ月間に電話やメイルで打ち合わせてきたこと、また新たに発生した問題の解決につき、作業を行う。
昼に至ってメシはどうしようかということになり、「雀荘のカレー」と言うとヒラダテマサヤさんとマハルジャン・プラニッシュさんは揃って「えっ、いやぁ」と困惑の色を浮かべる。「きのう食べちゃったとか」と訊くと「そうではなくて、ウワサワさんの行くような店ではないかと」と更に言葉を濁すので「オレ、なんでもヘーキですから」と、むしろ興味が湧いてくる。
とある路地から古い雑居ビルに入り地下へ降りていく。無造作に積まれた段ボール箱やぽつねんと置かれた観葉植物を避けながら薄暗い通路を歩いていくと、その先に「麻雀つかさ」の赤い電飾看板はあった。雀卓にビニールシートを敷いた急ごしらえのテイブルで食べるカレーライスは恐らく、カレー屋が密集する神保町で最も印象深いものだろう。価格は麦茶とコーヒーが付いて400円だった。
午後より"Computer Lib"に取材が入るというので、その前にとり急ぎ仕事を完了させようとすると、取材は社内で行っているマネジメントゲームに対するものだから、これに参加をしていってくれとナカジママヒマヒ社長に頼まれる。4日後に日光でマネジメントゲームを主催する当方としては格好の準備運動にて快諾し、脳の酸素欠乏に備えて「鶴八」側の窓を開け放つ。
時間の関係から2期のみのゲイムと伝えられ、「だったらエキシビジョンマッチだ」とばかりに、中間決算以降は自分流ではなく、本日は採点者側に回ったマヒマヒ社長の指示に従いゲイムを運んでみる。競合他社の資金繰り表が残り5行になったところから研究開発チップを3枚買いに行くとか、製造能力が3個であるにもかかわらず材料を7個という半端な数で買うなどの意志決定は、僕の定石には決して無いものだ。
「いや、その手はねぇだろう」「いいのいいの、ここは強行に」などとやりとりを続けているうち、期末にはバランスシートに優れた会社ができあがり、自己資本も2期には珍しい302となった。マヒマヒ恐るべし、である。
取材クルーが機材を撤収して軽い打ち上げをすると、時刻は6時30分になっていた。"Computer Lib"の面々と共にちかくの「多幸八」へ移動し、二日酔いにもかかわらずまたまた焼酎を飲む。
本日ははからずもマネジメントゲームができたり、またその決算を早くに終わらせひとり買い物に出た際、"Computer Lib"の大家にして自由学園男子部1回生のヤノさんと数年ぶりに話す機会を得たりと、意義深い1日となった。
北千住発20:12発の下り特急スペーシアに乗り、10時前に帰宅する。
次男のし残した夏休み最後の宿題が禁煙推進ポスターで、これを描く材料として午前、日光街道を隔てて向かいのハガさんで煙草6箱を買う。代金は締めて1,790円だった。
煙草の箱には「妊娠中の喫煙は胎児の発育に悪影響を及ぼします」だの「煙草は喫煙者の肺ガンの危険性を高めます」だのの否定的能書きがあり、これを画用紙に連ねたあげく「それでも吸う馬鹿」と大書するのが今回の趣向である。
昨年の夏休みには同じ課題に対してヤニで汚れた肺を描き、ここに「煙草を吸うと死にますよ」の赤文字を入れたところ、「ポスターに死ぬの文句はいかがなものか」との批判を次男は級友から受けたという。
「だったら今回の馬鹿もまずかろう」と、初案をより穏当な「それでもあなたは吸いますか」に替え、次男は最後の行程に入った。
午後、所用にて宇都宮へおもむく。帰り際に器屋の「たまき」に立ち寄り、一部商品の容器となる益子焼き黒釉五寸片口の納期について確認をする。
おとといまではクルマに冷房を入れる暑さだったが、本日は日中においても既にして充分に涼しい。
夜半、とぎれとぎれに目を覚ます。そのつど枕頭の灯りを点け、床から「墨汁一滴」を拾い上げてこれを開く。
子規は余人のうかがい知れない痛苦を伴い病床に苦吟している。肉体や精神への重圧に絶えずさいなまれる生活からか、あるいは生来の気質からか、友人、知人、未知の人の俳句短歌ほかに対して執拗な酷評を浴びせ続け、碧梧桐さえその矛先から逃れ得ることはできなかった。
その「墨汁一滴」においてただひとり激賞されているのが中村不折にて、自分の記憶を辿ってみれば、根岸の子規庵はす向かいにある書道博物館は、あれは中村不折の旧宅ではなかったか。
起床して事務室へ降り、コンピュータを起動して検索エンジンに照らしてみれば、不折がこの家で生活したのは大正2年から死去する昭和18年までのことだそうだから、明治35年に他界した子規と隣組の付き合いをしたわけではない。
「墨汁一滴」は、明日には読み終えるだろう。
今初夏、5年ぶりとなる大きなリニューアルをウェブショップに施すべく案をまとめていく過程において、念頭に置いたことのひとつは販売に特化したペイジにしようというものだった。旧ペイジにあったコンテンツのうち、アクセスログなどを見ながら不必要と思われるものについては大胆にこれを切り捨てたり、あるいは目立たない場所へ移したりした。
上澤梅太郎商店への地図もそのひとつで、そうしたところ「夏休み、クルマでお宅へ行こうにも、以前あった案内が トップに見えず、ようやく別のペイジに見つけたけれど、これは利用者にとって不便だろう」とのご意見を今朝、お客様からメイルで戴いた。
「それほど利用されないペイジであれば、これを捨てて、より簡素な構造にすべし」とは当方の意図にて、しかしお客様の要求は様々だ。
「だったら地図のペイジをまた復活させよう、地図への入口にはクルマのアイコンを置くべきだ。そのクルマはウチの営業車にするか、しかしあれは色が白だから目立たない、だったらどうしよう」
と考えた結果、午後"Lancia Fulvia Rallye HF"の赤いミニカーを紺色のフェルトの上に置き、これを様々な角度から撮影する。公のペイジに個人の趣味を持ち込むのは野暮な行いだが、アイコンは車種まで特定できないほど縮小されるから、どうということもない。
「公のペイジに個人の趣味を持ち込むのは野暮というなら、日記だって同じことだろう」と言われれば、日記についてはウェブショップとは別のペイジとの認識である。
朝いちばんで加藤床屋へ行き、帰りに少々の遠回りをして写真など撮り歩いていると、顔見知りに声をかけられることが2度あり、その挨拶は等しく「いつまでも暑いですね」というものだった。当方も子供ではないから「そうですね、いつまでもね」などと答えたが、 現在の気温は、僕にとっては寂しいほどに涼しい。
午後1時すぎに驟雨があり、通りかかったオートバイの一行が店舗の大屋根下に避難してくる。「中にお茶もあるので休んでいってください、雨はこのあたりの名物で、15分後には止みますから」と言うと、雨具を脱ぎつつ若い人たちは「ホントですか」などと返事をし、ずいぶんと「結庵」のおむすびを食べていった。
「店舗と住宅の電源はすべて落ちます」という電気工事に閉店の5時30分からほぼ1時間立ち会い、書類に署名してからシャワーを浴びる。着替えてホンダフィットに乗り、松原公園前の「いちもとサイクル」へ行く。次男はここで、イチモトさんが監督を務める今市第二小学校自転車部の子供たちと、夕刻からの鉄板焼きに参加をしていた。
鉄板焼きとはいえ子供向けのものだから、酒の肴になるようなものはない。「ホットケーキの素だけ」とか「たこ焼きの素だけ」という「素だけ焼き」に続いて目玉焼きを添えた焼そば、ソーセージとスパゲティの一緒炒め、各自が差し入れた果物やドーナツなどを食べつつ冷たいお茶を飲む。
輪行バッグに満杯の賞品を用意したくじ引きの後、イチモトさんは子供達を引きつれ、ちかくの空き地に花火をしに行った。僕は留守番として残り、「いちもとサイクル修理部」にて本を読む。
迎えの親と共にすべての子供が去ってから軽く片づけを手伝い、次男と10時すぎに帰宅する。幾年月を経てなお記憶に残るのは、大きな出来事よりもむしろ、このような鄙びたひとときだったりすることを、僕は良く知っているつもりだ。
次男とホンダフィットに乗って家を6時45分に出ると、宇都宮総合運動公園には7時20分に着いた。集合は7時45分だったが、今市ソフトテニスクラブの面々は、その8割ほどが早くも集まっていた。
9時より始まった「第6回県小学生ソフトテニス選手権大会」では、次男は2試合とも落としたが、しかしその双方ともに良い試合だった。
炎天に、桜の梢では蝉が最後の声を振り絞り、松の枝にとまったクルマトンボは羽をすこし下げた状態で動かない。本日、親子で補給した水分は合計で3リットルに達した。
営業時間を1時間延長する夏時間の最終日は本日にて、その閉店のすこし前に帰宅する。製造現場でしばしの仕事をしてから自宅へ戻り、シャワーを浴びる。Tシャツとテニスパンツはそれぞれポロシャツと半ズボンに着替えた。そうして晩飯を食べるため外へ出る。初更の空気に、夏の暑さは既にしてない。
小学校の5年生か6年生のとき、新聞配達をしている友達にラーメンをおごってもらったことがある。むかしは小学生でも新聞配達のアルバイトをすることができた。ラーメン屋は今市病院入口の「はたや」で、しかし以降、この店ののれんをくぐることは久しくなかった。
長じて40代も半ばに達するころ、手塚工房のテヅカナオちゃんが「タンメンは、はたやだ」と熱く語るのを聞いた。「はたやとは、あの店のことだろうか」と数十年前のことを思い出し、以降は数ヶ月に一度、ここを訪れるようになった。
今月21日は、自分の体感からすれば日光は今夏いちばんの暑さにて、「はたや」の冷やし中華を昼飯とした。目に美しい冷やし中華を食べ終えての帰り際にふと壁に目を遣ると、営業許可証の期限が切れる来月30日を区切りとして店を閉める旨の張り紙があったから大いに驚き、このことは最新の本酒会報にも書いた。
本日、ひとりで昼のひとときを過ごす機会を得たため4日ぶりに「はたや」へ行き、先日と同じく冷やし中華を注文する。絶妙のつゆと麺、綺麗に切り整えられた錦糸卵、胡瓜、ハム、ナルト、海苔を上手く配分しながら口へ運んでいると、それらが皿の上から消えゆくころに背後の戸がガラリと開き、入ってきたのは本酒会のオチアイマナブ会員だった。
「いたずらにトッピングを増やさない、あの懐かしいラーメンが食べられなくなるのは寂しいですけどね」と言ったのは「魚登久」の店主アイガテルジ君だ。
9月の30日までに、僕はいったいあと幾度「はたや」のラーメンを食べることができるだろうか。そして「これは次男にもいちど、食べさせておかなくちゃいけねぇ」と、小学校が夏休みのあいだにもういちど、ここへ来ることを決める。
涼しさよりもむしろ寒さを感じさせる風に目を覚まし、洗面所に行くと小さな時計は4時と5時の真ん中を指していた。外では虫が盛んに鳴いている。「やだなぁ、もう秋かよ」と腹の中で溜息のようなものをひとつつく。たとえそこがシンガポールの裏町にある定食屋階上の木賃宿であっても、僕は常夏が好きである。
運動のし過ぎという勇ましい診断を下された次男を伴い、本日も横田道場へ行く。待合室にいると診察室からここの先生ヨコタジュードーの大きな声が間断なく聞こえてきて、共に山遊びをしていた10年ほど前までのことを思い出す。
ヨコタジュードーの講釈はメモでも取りたくなるくらい面白いが、その逐一をここに取り上げているとキーボードを打つ手が疲れてしまうので割愛をする。
初更にオールドファッションドグラスを手に握りつつ「ある水準よりも上にある芋焼酎をソーダで割ると、ホントに美味めぇな」と、しみじみ思う。残暑を懐かしむ風鈴の音が、どこからか風に乗って晩飯の席まで届く。寝室の扇風機はこの夏、ひと晩のみの稼働にて片付けられてしまった。カレンダーの書き込みには、既にして秋の催しが目白押しである。
短く控えめなサイレンの音と共に「そこのワゴン車、停まりなさい」という拡声器の声が聞こえて目を覚まし、窓辺へと寄る。薄明の県道が常になく涼やかに見えるのは、きのうの夕刻に降った大雨によるものだろう。警察官らしい黒い影が赤色灯を点けたパトロールカーから降り、停止したワゴン車に近づいていくところまでを確認して寝室に戻る。
「本酒会」は月にいちど開かれる。会報を作成するのは僕の役目だが、その送付についてはここ数ヶ月、常に遅れがちだった。
ところが書けるときには書けるものにて、今回は例会の翌日すなわち本日にこれを軽く仕上げ、先ずこのメイルマガジン版を発行、次にウェブペイジ版をサーヴァーへ転送して、早くも余裕綽々の状況にする。
「あなたを忙しくしているのは実務ではなく雑務です」とは、本日どこかのメイリングリストで目にした箴言である。
夕刻、追分地蔵尊奥の例弊使街道で開かれている二十三夜祭の会場へ、イワモトミツトシ春日町1丁目区長の名代として行き、主催者である小倉町1、2丁目の本部に、言付かったお祝いを届ける。お返しに生ビールの引換券などをいただいたが、本日は断酒日にてその券は即、ちかくにいた顔見知りに進呈した。
初更、このお祭りから次男が買って帰ったあれこれをおかずにしてメシ1杯を食べる。焼き鳥やオデンはずいぶんと余ったから、明日の晩はこれらを酒肴として飲酒を為すことになるだろう。
20日に続いて午後、かなり激しい雨が降る。横風が雨滴を伴って犬走りの奥まで吹き込むため、店舗軒先の麻のれんを事務室内へ格納する。
「出るも入るもできない」という、夕立の激しさを形容する当方の言葉は、全国的に使われるものなのだろうか。ご自分のクルマに戻れなくなってしまったお客様には「夏の雷雨はこのあたりの名物で、15分くらいで止みますのでお茶でもお飲みになっていてください」と、お伝えをする。
書記を務めている利き酒会「本酒会」の会合に、先月は仕事のため出ることができなかった。出品された「山本合名」の新商品「summerど」は飲む機会を逸したが、秋田県能代市にある「天洋酒店」の親切な計らいにて後日、この貴重品をもう1本、手に入れることができた。
本酒会の出品酒は届いてから例会の当日までウチの冷蔵庫に保管し、イチモトケンイチ会長が日中に会場へ運ぶ。ただし今回の「summerど」だけはときおり様子を見ながら夜まで冷凍庫に入れておいた。
7時20分、この「summerど」を携えて鰻の「魚登久」へ行く。イチモト会長がその上澄みと沈殿分を入念に攪拌した「ど」は糖分をアルコールに変えたか強く鋭く爽やかだった。去りゆく夏を惜しみつつこれを吟醸グラスに1杯半ほども飲み、次のお酒へと進む。
鰻重で締め、9時前に帰宅して即、就寝する。
数日前より朝の運動中に次男が膝とふくらはぎの痛みを訴え、あまり早く走れなくなった。そのためきのう午前に接骨院の横田道場へ連れて行くと、痛みの原因は運動のしすぎとのことだったからひと安心をした。それはさておき帰り際に「朝は5時からやってっから明日はそのころに来てもいいよ」と言われ、しかし当方も「だったら」と、その時間に行くほど酔狂ではない。
ところが前日の記憶があったか今朝は次男がめずらしく6時すぎに起き出してきた。よって「それじゃぁ」と朝飯前に日光街道を徒歩で下って横田道場へ裏を返し、治療を受けて7時に帰宅する。
初更、こんどは自転車で日光街道を下る。飲み屋の「和光」へ入り、カウンターに「墨汁一滴」を開くと、そこに「多くの人の俳句を見るに自己の頭脳をしぼりてしぼり出したるは誠に少なく、新聞雑誌に出たる他人の句を五文字ばかり置きかへて何知らぬ顔にてまた新聞雑誌へ投書するなり」と、明治34年当時の俳句ブームと、それが生んだ弊害についての記述が見える。
創作を楽しむべき俳句に剽窃を持ち込んでも面白いわけはないではないかと思うのは早とちりにて、目立つところに自分の句を載せようとするあまり、先人の入選作を真似てしまう愛好家は今も少なくないらしい。
優れた作品をなぞるのは勉強の一方法だが、これをまったくせずに自分の感受性のみを恃むのが僕の悪癖にて、いつかサイパンで詠んだ3句を、宇都宮の器屋にして秀陶の俳号を持つタマキヒデキさんに見せたところ、タマキさんはしばしの沈黙の後「面白いですね」と言った。
「面白い」とは"eccentric"とか"individual"と同じく、どうにも褒めようのないものを無理に褒めることばと知っていたから僕は瞬時に「あぁ、オレに俳句の才能はないんだな」と理解をした。
しかしそれにしても「読書灯ふいに消えたる熱帯夜」「南国の肌に憶えし火照りかな」「壊れたる蛇口の音に目を凝らし」 の3句はそれほどの駄作だろうか、と未練がましく言う。
深夜と早朝のあいだのころに「七滝の小さな男」を読み終える。数日前の日記に「読書とは、活字を無為に費消してこそ楽しい」と書いたが、この本に限っては、そのようなたぐいのものではない。引き続き
を読む。齢も51に達すれば、本は分厚くなっても構わないから活字は大きくあって欲しい。僕は多く横になって本を読むので、老眼鏡は使えないのだ。なお、ハードカヴァーは活字は大きくてもモーバイルに適さないため、あまり好きではない。
午後、驟雨と呼ぶほど風情のあるものではなく、夕立でもなく、強いて言えば暴風雨といったような雨が降る。今夏は日照りの日が多く、農家では作物の出来を心配している。実際、いくら激しい雨でもたかだか30分ほどで止んでしまうのだから、畑はたちまちのうちに乾いてしまうだろう。
初更、種々のおかずにてメシ1杯を食べ、今月5度目の断酒を達成する。
隠居にある百日紅の紅く咲いた花が、おばあちゃんの居間から良く見える。あのサルスベリの木の下には、僕が子供のころには池があって、だからこれに登るときには特に緊張を要した。
その百日紅に比すると女郎花は得てして庭の隅にまるで雑草のように咲き、さして見栄えのしない花だが、幾分かの「枯れ」を感じさせるその黄色は以前から好きだった。
夕刻にひと息をついて事務机に置いた「仰臥漫録」を開く。すると明治34年9月つまり子規が死ぬおよそ1年前のところに「女郎花真盛鶏頭尺より尺四、五寸のもの二十本許」の書き付けがある。このことにより、オミナエシは初秋のいまだ暑いころに咲くことをはじめて知る。
余勢を駆ってこの女郎花を検索エンジンに入れると、あろうことかあるペイジに、これが8月16日の誕生日花とあった。つまらないものだが、また捨てがたいところもあると感じていたものが自分の生まれた日の花とは、なにやら不思議の念に打たれ、そのことを記したディスプレイにしばし見入る。
ことし、女郎花の花はもう隠居の庭に咲いただろうか、それを明朝は確かめようと今は思うが、明日になっても覚えているかどうかはおぼつかない。
7時を回ったころ、きのうから蕎麦とお囃子の催しが行われている市縁ひろばに次男を連れて出かけると、ちょうど大谷向町のお囃子が佳境を迎えるところだった。顔見知りの多い客席を縫い、屋台で帆立貝のバター焼きと生ビールを買う。
8時から始まった、我が春日町1丁目のお囃子は先月の日記にも書いた通り、そのメンバーは子供が過半を占めているから大いに頼もしい。次男は盛り蕎麦の大盛りに普通盛りを追加し、僕はなめこおろし蕎麦を食べて9時前に帰宅する。
次男は夏休みの宿題のうち、学校から支給されるドリルのようなものは7月中に仕上げた。しかし教科書のある一部分の筆写、読書感想文、習字、禁煙推進ポスターという大物にはいまだ手を着けていない。
先日はソファに寝転がってベソをかいていたので訳を訊ねると、読書感想文を書くため芥川龍之介の「鼻」を読んだところで長男に「どんな話だったか」と訊かれ、「内供の鼻が短くなって良かったねという話」と答えたところ「もういちど読め」と命ぜられた、しかしそうは言われてもこの物語の意味はまったく理解できず、だから泣いているとのことだった。
次男の気持ちは痛いほどよく分かって、僕も読書感想文を書くなどは子供のころから大嫌いだった。本というものは、なにも考えず気ままに読んで、つまり活字を無為に費消してこそ楽しいもので、リポートを仕上げようとか金を儲けようとか自分を利口にしようとか、そういう目的のために本を読むのは苦痛以外のなにものでもない。
しかし宿題とあれば仕方がないので「鼻は大人が読んでも難しいよ、他のにしたらいいんじゃねぇか」と薦めたところ、今朝はその方向を「杜子春」に転じ、感想文の下書きもずいぶんと進んだし、教科書の筆写に至ってはこれを完了させてしまったという。
それに対する褒美ということでもないが、昼は焼肉屋の「大昌園」へ行き、次男が希望した「豚カルビランチ」を食べる。
安くてずいぶんと美味いこのランチを食べながら何気なくはす向かいに目を遣ると、小上がりにヌマジュンの姿が見える。ヌマジュンとは小学校のときに2年間、中学校のときに2年間、それぞれ同じクラスになったことがある。ヌマジュンに名状しがたい粋っぽさの漂っているのは、適度に力が抜けているからだということに本日はじめて気づく。なぎら健壱とレレレのおじさんを足して二で割ると、それがもっともヌマジュンのイメイジに近い。誤解があってはいけないから断っておくが、これは褒め言葉である。
ヌマジュンには帰り際に「こんど飲みたいね」と声をかけて同意を得た。ただしそのような機会が巡り来るかどうかは不明だ。第一僕は、ヌマジュンの連絡先を知らない。
おとといの晩、僕は焼酎をソーダ割りにしたが、一日だけ帰宅した長男はこれをオンザロックスで飲んだ。日暮れどきの蒸し暑さから 「今夜も焼酎はソーダ割りにしよう」と考え、夕食時に芋焼酎「明月黒麹」の瓶を確かめると、残は底から5ミリほどしかない。
氷とソーダで満たしたオールドファッションドグラスにはじめは「明月黒麹」を入れ、攪拌せずにその上澄みの濃いところをのみを飲む。氷とソーダはそのままに、次はウォッカを注いで同じようにし、その次にはジンを同じ要領で飲む。最後はバキュバンで栓をしておいたワインを飲んで、これにて本日の飲酒を完了する。
虫も鳴かず鳥も騒がず、夜は静かだ。
「今日は川のところで焼いて良いとしちゃうの」とは8月16日が来るたびに聞いたおばあちゃんの言葉で、これは、先祖の霊を家へお迎えするにあたってはお墓まで参上するが、復路は略式にてご勘弁を願うということだ。
その送り火を、午前の日がじりじりと照りつける中、玄関前を流れる川の上で長男と次男が行う。
毎日の売上高を1年分まとめてソートすると、僕の誕生日である8月16日がその筆頭に来ることが過去に幾度かあった。今年のお盆は14日がUターンラッシュのピークという報道については疑問だが、本日の店舗はきのうよりも静かで、売上高もそれに比例して漸減した。
夕刻になっても客足の途切れない店舗を手伝い、その合間を縫って製造現場へも行く。予約した時間に5分おくれて汗だらけのまま「魚登久」の麻のれんをくぐり、肝焼きと鰻丼を酒肴としてカストリ焼酎を生で牛乳瓶1本分ほども飲む。
帰宅してテレビのスイッチを入れると、京都は五山送り火の最中だった。これを見ればいつも、1974年の8月16日には京都にいて、三条と四条のあいだ、河原町と高瀬川のあいだの中華料理屋でタンメンを肴に白乾児を飲んだことを思い出す。
あの晩、一緒に遊んだ面々が今もすべて生きている、それを有り難く感じられるような齢に僕もなった、そういうことを考えつつ窓からの涼風に当たる。
自分はきわめて物忘れの激しいタチだから「そういえば、そんなこともあったな」と、よほど後になってから思い出すことが多い。梅雨が明ける前さかんに言われていた「今年は冷夏」という天気予報もそのひとつだ。一体全体ことしの夏のどこが冷夏なのか。
僕が子供のころには気温が30度を超えれば「いよいよ夏が来た」と気分の高揚したものだが現在では35度はざら、ときには40度さえ超えてしまう。来年以降、夏に向けての長期予報はすべて「酷暑」と言っておけば無難なのではないか、しかし長雨による冷夏の可能性は常にあるから気象庁も辛いところだろう。
数十年の経験を持つ本職にも一歩先が読めないとは、どの世界にもあることだ。
帰宅の途中、上野の商店街に置いてある小冊子「うえの」を持ち帰った長男に教えられて、僕と同い年の従兄弟ヒラカタマサアキ君がここに「トプカプ宮殿の至宝展」という文章を寄せていることを知る。
これを夕食後に読み、ひと眠りし、起きてシャワーを浴びて午前1時に就寝する。
無名によるもっとも好きな俳句が「校庭に白球追うや炎天下」ならば、有名による最も好きなそれは「鶏頭の十四五本もありぬべし」で、これのどこが好きかと訊かれても、当方は批評家ではないから理屈は言えない。「仙崖の丸と三角と四角のどこが良いのか」と問われて答えられないのと同じである。
この「批評家ではないから理屈は言えない」という物言いは一見すると何とはなしに格好が良いように思われるが、これを多用すると馬鹿になる。小学生が「蜘蛛の糸を読んで」という読書感想文を求められて「批評家ではないから理屈は言えない」などと書いたら、それこそ脳みその成長はそこから先へ進まない。
ことし新盆を迎えたお宅を午前、オフクロとふたりで回る。その最中に家内から電話が入り、おととし亡くなったオヤジに取引先様などが線香を上げに来てくださっていると教えてくれるが、当方はすぐには帰れない。お盆には店も忙しいから家内を家の中に常駐させるわけにもいかず、気持ちだけが右往左往する。
夕刻、如来寺のクワカドシューコー住職が中学生の息子さんを連れてお経を上げに来てくださり、仏間に扇風機を回す。ヒグラシの声は既にして遠のいた。今はツクツクボウシの独擅場らしい。
夏時間により普段よりも1時間長く営業し、閉店後は製造現場へ行く。僕の白衣は異物の混入を恐れて袖先も胸元も絞ってあるため空気の通りが悪い。全身に汗をかいて居間へ戻り、ビールは飲まずにビール用のグラスで冷たい麦茶を飲む。
夜、本日の朝日新聞朝刊19面の「私の祖国は世界です」を読む。文化部記者による署名記事だからそれなりに力の入ったものなのだろうが、これに朱を入れる上役はいなかったのだろうか。タコ八郎の芝居なら意味の曖昧さや不明も却って味わいとなるが、新聞に載せる文章がこれではまずかろうと思う。
今どきの光は4時30分ころのものがもっとも美しい。夜の藍色でもなく朝の空色でもなく街は群青色の湿り気を帯び、まるでこれから花を開かせようとしているリンドウのようだ。
きのうの午後、気づくとサーヴァーが落ちていた。盆前の駆け込み需要に対応できないのはお客様にとっても迷惑と気を揉んでいたが、"Computer Lib"の社員が盆休み返上の深夜労働に身を挺した結果、とにかくメイルサーヴァーだけは復旧した。
メイラーを回すと「酷暑により家の中、あるいはクルマの中という人工的な空間から外へ出ることができない、今週末に日光へ避難するからそのときはどうぞよろしく」というようなメイルが東京のお客様より入ってきた。
早速「こちらは日中こそ暑いが、夜に窓を開け放って眠ると、部屋を通り過ぎる風の冷たさに風邪をひいてしまうほどに涼しい。どうぞ気をつけてお出かけください」という旨の返信を送る。
夕刻、次男に提灯を持たせて如来寺まで歩く。墓前の蝋燭に火を点け、そこから提灯の蝋燭に火を移して帰宅する。今度は提灯の火を仏壇の蝋燭に移し、これで迎え盆は完了したのだろうか。
7時すぎに「とんかつあづま」へ行って「芋焼酎、普通の量の倍をグラスに入れてください」と頼む。自分の座ったところからは見えない店のテレビが、高校野球の実況を甲子園から伝えている。一方的な試合のようだが、どうやら負けている側の生徒が最後の声援を送っているらしい。
「校庭に白球追うや炎天下」という好きな俳句を思い出しながら、生の芋焼酎すこしずつ飲む。
ヤマトのメイル便で届けられた透明の封筒を目にして一瞬、食器の製造会社から届けられた商品見本かと思った。しかし手にとってよく見ると、それは宇都宮の器屋「たまき」が「山猫軒」という仮想の料理屋を始めるにあたり、宮沢賢治にまつわる小さな美術展を開くという案内だった。
紙皿に貼り付けられた版画はもちろん「たまき」のタマキヒデキさんによるもの、その紙皿に差し込まれたナイフとフォークは木製で金色に塗られ、料理屋と展覧会の案内を仕込んだ豆本「店理料い多の文注」は奥付もある本格的なもので、「こういう偏執狂的な仕事は好きだなぁ」 と嬉しくなる。
今週はお盆で忙しいし、これを過ぎても目先のことに追われてしばらくは動きがとりづらい。「山猫軒」のメシは当面、おあずけである。
先月末のウェブショップの新装開店から、ほとんどすべてのペイジはPHPによるものに変わりつつある。この日記は2000年9月以来ずっと、それまでウェブペイジを作ってきたと同じく、秀丸にソースを打ち込む形で書いてきた。PHPのペイジを旧来の方法で維持していくことは可能だが、これを契機にいっそ新たな技術を導入しようと、今月10日の日記からは"Adobe Dreamweaver CS3"で書いている。
「自分のブラウザでの見やすさのみを考え、インターネットの定法に逆らってあれこれいじくるのがウワサワさんの悪い癖」とは以前の外注SEマエザワマコトさんに言われたことだが、この"Dreamweaver"のデザインモードでその悪癖を駆使し、後にソースを見ると、これがウンザリするほど汚い。
この日記を読む人は通常、ソースまで目を通すことはしないだろう、しかし自分の気が済まない。というわけで今後はできるだけデフォールトの美学を念頭にペイジを作っていこうと思う。
朝7時の日差しは既にして強い。ここ数日間の疲れがあるのか長男も次男も目を覚まさない。朝のうちからTシャツを汗まみれにしたくないのできのう着ていた紺地に極楽鳥花のアロハを引っかけ、"KEEN"のサンダルを履いて外へ出る。
24時間営業の 「オリジン弁当」 で朝飯のおかずを見つくろい、コンビニエンスストアでは日焼け止めクリームなどを買って甘木庵に戻る。長男がメシを炊き味噌汁を作って朝飯を済ませると、時刻は9時を回った。
地下鉄丸の内線と西武池袋線を乗り継ぎ、次男と 「としまえん」 へ行く。ここで泳いだりなにやかやしているうち、いつの間にか5時間30分が経ち、これは大変だと帰り支度を始める。
浅草で19:00発の切符を確保した後は、鮨屋に入って生ビール2杯を立て続けに飲む。僕はビールは年に数度しか口にしないが、今夏最高と思われる本日の暑さは尋常でない。
9時前に帰宅し、大きなグラスで今度はアイスコーヒーを飲む。入浴して更にもう1杯のアイスコーヒーを飲み、10時に就寝する。
今日は長男と次男が三浦海岸から帰ってくる。東京から次男をひとりで帰宅させるのはいまだ危険なため、僕が連れて帰ることとして、これとからめて神保町の"Computer Lib"へ朝一番に行く。
新しいウェブショップについては有り難いことに複数のお客様から、主に文言の誤字脱字、またリンク先の誤りなどについてご指摘をいただいた。別途、こちらも新しくした決済方法の、運営を開始してはじめて気づいた問題点などもあり、9時すぎから午後5時までかけてこれらを修正をする。
昼飯は先日に続いて"SHANTI CLUB INDIA"へ行く。ここのカレーは本当に美味い。食べ物というものは通常、口へ入れ咀嚼を始めてから数秒あるいは10秒くらいのあいだが一番美味く感じる。後は限界効用逓減の法則に従って徐々に感激も薄れていくが、"SHANTI"のカレーは4分の3ほどまで食べ進んだところで毎度 「いやぁ、つくづく美味いよなぁ」 と感じるのはなぜだろう。
ネパール出身のマハルジャンさんに問えば、カレー屋の多い神保町界隈においても、インド風のカレーならここのものがもっとも好きだという。ちなみに彼のレア情報によれば、日本風のカレーに限れば雀荘 「つかさ」 のそれがピカイチとのことだが、こちらについては僕は未経験である。
いったん湯島の甘木庵へ帰り、からだを休めていた長男と次男を伴ってふたたび神保町へ戻る。小学館地下の 「七條」 へは6時の開店と同時に入った。「圧巻」 という言葉しか浮かばない羊のローストなどを酒肴としてシャンペンを飲み、2時間と少々をすごす。
すっかり暗くなったすずらん通りを歩き、駿河台下からタクシーに乗って甘木庵へ帰着する。
ウチのYahoo!ショッピング店 「たまり漬」 で、ジャパンネット銀行へ振り込みをしようとするとエラーが出てしまう、という指摘が過日お客様よりあった。同銀行に口座を持っていさえすればこと足りると考えていたが、調べていくうち、Yahoo!でこの口座を使えるようにするには更にもう一段の手続きが必要なことを知った。
よってジャパンネット銀行より書類を取り寄せ、記入捺印をして返送したところ、記載に不備があると差し戻された。銀行、保険、証券などの各社におけるこのような書類の作成は僕が大の苦手としていることのひとつで、オヤジが亡くなったときには口座の抹消や名義書き換えなどで何通この手の書類を作成し、何度記載不備により差し戻されたか数え切れない。
遂には 「まったく理解できません、書類を持ってそちらへ出向きます」 ということが何度かあった。中には担当者自身が 「うーん、この場合にはどう書くべきでしょうねぇ」 と、社内の専門家に館内電話で相談するようなこともあったから、僕の頭が特にパー、ということでもないらしい。
というわけできのう差し戻されたジャパンネット銀行の書類については、担当者に電話でしつこく確認しながら訂正を加え、指定の封筒に入れて夕刻、再度の投函をする。これでまた戻ってきたら、書類を持ってカスタマーセンターのある埼玉県まで出向くつもりである。
長男の部屋の床に、大げさに言えば1冊が百科事典ほどもあろうかという鴎外全集全38巻が置いてある。「金はどうした?」 と訊くと 「全部で15,000円だったから別に」 と言うので出物だったのだろう。タクシーのトランクにでも載せたかと思ったが長男によれば3回に分けて自分で運んだという。神保町と甘木庵との距離は2キロはあるから、長男はこの重荷を背負って往復3回計12キロを歩いたことになる。若さとは、それだけでひとつの価値である。
長男がメシを炊き味噌汁を作る。僕は本郷三丁目の 「オリジン弁当」 へおかずを買いに行く。長男は別途、次男に乞われて水餃子を作った。
北千住発9:10発の下り特急スペーシアに乗り、11時前に帰社する。西研究所がリゾートホテルで行う子供のためのマネジメントゲームに出席するため、次男は本日午前中に三浦海岸へ行く。長男は次男に同行し、2泊3日にわたる研修の手伝いをする。立秋は明日に迫っているが、夏は正にこれからではないか。
下今市駅9:35発の上り特急スペーシアに次男と乗る。北千住で日比谷線に乗り換え、三ノ輪駅の、進行方向最後尾の改札口から外へ出る。都電荒川線の三ノ輪橋駅へ向かって炎天下を歩いていくと右手に浄閑寺の塀が見えたから 「へぇ、これがあの、、、」 と思う間もなく、まったく予期しなかったことだが荒木経惟の生家跡を発見した。
「いちばん好きな写真集は荒木経惟の『東京は、秋』」 という僕としては、ここでカメラを取り出さないわけにはいかない。時代や季節を変えて長く荒木の撮り続けた公衆便所をファインダーの左へ置き、かつては 「にんべんや履物店」 のあった空き地へ向けてシャッターを押す。
荒川線の東の起点 「三ノ輪橋」 に車両がゆっくりと入ってくる。これに乗って飛鳥山の坂を上がり、意外や緑の濃い大塚を過ぎ、学習院下への坂を下るなどして西の起点 「早稲田」 に至る。全行程の所要時間は50分と少々だったろうか。
昼飯は飯田橋か神保町と考え、タクシーをつかまえるべく新目白通を東へ歩くとすぐにバス停があり、「春日経由上野公園行き」 の文字が見えたからしばらく待って、久方ぶりの都バスに乗る。鶴巻町、白鳥橋、神田川を渡って安藤坂。伝通院前まで来れば本郷の丘は指呼の先にある。
湯島四丁目でバスを降りたときの時刻は12時57分だった。「神勢。」 で遅い昼飯を食べ、甘木庵に入ってしばし休む。
「日劇PLEX」 で 「トランスフォーマー」 を観たのは次男の希望による。日本原産の合体ロボット戦隊物をハリウッド流に仕立て直したこの手の映画は僕の好みでないが、物語の運びに目をつぶりさえすれば、まったく面白くないということもない。
6時45分に数寄屋橋で長男が合流し、三原橋で晩飯を食べる。韓国では飲んでも飲んでも酔わなかったマッコリに今夜はいささか酩酊する。一向に涼しくならない晴海通りを歩いて数寄屋橋で地下へ潜り、丸の内線に乗って9時に甘木庵へ帰着する。
入浴して即、就寝する。
次男を丸山公園のテニスコートへ送り、帰社して少々の仕事の後、町内の納涼祭が行われる春日公園に、ウチの冷凍庫で凍らせた氷などを運ぶ。仕事上の電話を受けてふたたび帰社したり、また納涼祭の会場へ行ってあれこれ手伝ったりする。そのうち、旧市街よりも決まって先に雨の降り始める丸山公園から、 コーチの携帯電話を借りた次男が迎えに来てくれるよう言ってきたのでホンダフィットで駆けつけたりする。
にわか雨が止み、納涼祭が再開される。地球にとって最も大切な次期繰り越しが健全な自然環境とすれば、地域にとってもっとも大切な次期繰り越しは子供ではないか。僕が小学生のころにくらべて春日町1丁目の子供はどれほど減っただろうか。それでも我が町内ではお囃子の、5台の太鼓のすべてが子供だけでまかなえるのだから頼もしい。
4時をすぎて、またまた空からビー玉ほどもあろうかという雨粒が勢いよく落ちてくる。そのようななかで会場の後片付けを行い、5時から公民館で直会が開かれる。スーパーマーケット 「かましん」 の刺身、「やぶ定」 のざる蕎麦にて生ビールは飲んだが、ビールサーヴァーの氷で冷やした冷酒については遠慮をした。
夏時間の閉店6時30分の直前に帰社し、1時間ほど仕事をして居間へ戻る。
「よくそんな状況で帰ってこられたわね」 というほど昨晩の僕は酔っぱらっていたらしい。しかし八重洲で飲酒を為して後、浅草では電車の時間まで写真を撮り歩いていたりした。時の経つに連れて酔いが昂進したのだろうか。そして今朝は二日酔いである。
子供のころ、トマトジュースが飲めなかった。ある日テレビのコマーシャルで、トマトの缶ジュースにはトマトが5個入っていると聞いて 「これは飲まなきゃいけねぇ」 と思い、嫌いなトマトジュースを無理に飲んで好きにした。同じく子供のころ、風邪で高熱を発するとメシが食べづらくなった。しかしからだの弱っているときこそ栄養を摂取すべきと考え直し、以降はそういうときも努めてメシを口へ入れるようにした。
だからたとえ二日酔いでも朝飯はしっかりと食べ、次男とテニスコートへ行く。「テニスコートへ行く」 とはいえ、僕は練習する子供たちのそばについての球拾いである。
夜はさすがに酒を抜き、今月は4日にして早くも月8日の断酒ノルマのうちの4分の1を達成する。
日の差してきた気配に事務室から外へ出ると、通り雨の残した打ち水ほどの水気が地面にはあり、そこに店の看板のはね返した朝の光が映えている。「久しぶりに気持ちの良い朝だ、今日は暑くなるだろうか」 と考え、ふたたび屋内に戻る。
下今市駅10:35発の上り特急スペーシアに乗る。車中、ここ数日のあいだにいただいた暑中見舞いに返信を書く。「現在、列車の中にて文字が乱れています」 などと書いてみるが、考えてみれば字はもともと下手である。
日本橋から八重洲へ歩き、東京駅近くの古いビルの3階へ上がる。「第10回コンピュータリブ・ユーザーカンファレンス」 の開かれる部屋にはマイケル・フランクスの歌が流れていた。入口で受けとったレジュメの最初のペイジが 「歴代講師」 となっているので小さな文字に目を凝らすと僕の名前が第1回目のトップに出ていたから 「へぇ、そうだったかなぁ」 といにしえに思いを馳せて、しかし記憶は既にして定かでない。
カンファレンスは予定をずいぶんと過ぎた5時30分にようやく終了した。ちかくの中華料理屋 「博雅」 での打ち上げでは2時間ほども飲んでいただろうか。
日本橋から浅草へ移動し、すこし時間があったからあたりの写真を撮り歩いた後、21:00発の下り特急スペーシアに乗る。11時前に帰宅して入浴し、0時前に就寝する。
首尾良く4時に目が覚めたため起床して事務室に降りる。外が明るくなってきたところで店舗駐車場へ出て、きのうの花火の見物客が捨てていった発泡スチロール製のかき氷の器とか、これまた発泡スチロール製の焼そばの皿、またバナナチョコの中心に通っていたと思われる割り箸などを拾う。ゴミは意外や少なかった。
店舗正面には庇があって、この下の石畳を犬走りという。ここに、松の大木を縦割りにしたベンチが壁に接して2脚置いてある。1ヶ月ほど前より、ここでタバコを吸い、タバコの火はベンチの表面でもみ消し、吸い殻はご丁寧にもベンチと壁のあいだの5ミリほどの隙間にねじ込む、という人物が現れた。現れたといっても僕の知らないときにこれをやらかすから、その姿を見たわけではない。
吸い殻は日に2、3本の割であり、それは狭い隙間に強くねじ込まれているからピンセットなどでは歯が立たず、指でつまみ出すしかない。朝飯の前にこれをやらかすと決まって、いくら洗っても箸を持つ右手からヤニが匂う。
「見つけたらただじゃおかねぇ」 と考えていた2週間ほど前、次男と朝の運動に行こうとして玄関を出ると、若い男がベンチでタバコの火をもみ消していたからすかさず 「それ、止めてくんねぇかな」 と怒鳴りつけると男は背中をピンと立てて 「ハイッ」 と返事をした。「いつもオレが片付けてんだよ」 ともういちど怒鳴ると男ももういちど 「ハイッ」 と答えて僕の顔をまじまじと見た。
子供の前で大きな声を出すことはしたくないが、時宜を逸するわけにはいかない。以降、ベンチと壁とのあいだに吸い殻の挟まれることはなくなった。しかしそれでも国道にまで出て行って吸い殻を拾うのは僕の日課である。僕はここで 「タバコの後始末は大抵、タバコを吸わない者によって行われる」 という箴言を思い出さないわけにはいかない。そういえば先の若い男はゴヤの描いた誰かに似ていた。
入浴の後、冷たいお茶を飲みながら
を読む。7、8年ほども前のことになるが、長男の同級生タケダダイチ君がウチへ泊まって後日、タケダ君のお父さんが本を送ってきてくださった。本は読まれる時を待って熟成する。それがこの 「七滝の小さな男」 である。
10時に就寝する。
「あさみどり 澄みわたりたる大空の 廣きをおのが 心ともがな」 という短歌を思い出したのは朝、オヤジの弟つまり叔父と電話ですこし話したためだろう。僕が高等学校にいるとき、家のどこかで叔父の中学校時代の日記を見つけ、それをパラパラと開いたら冒頭の五七五七七があって、いまだ15歳かそこいらの僕はそれを一読したのみで覚えた。
この明治天皇の御製で分からないところは出だしの 「あさみどり」 が 「浅緑」 なのか、あるいは 「朝緑」 なのかという点にあるが、いずれにしても、あの時代を描いた自身の小説に 「坂の上の雲」 と名づけたとき、天皇についてはほとんど書くことのなかった司馬遼太郎の脳裏にも、あるいはこの歌のよぎった可能性はある。
ところでサイトの新装に伴い、7月26日から日記の段落に 「pタグ」 を使い始めた。しかし本日月初にあたり、途中から書き方の変わった7月の日記をひとつにまとめるには少しく苦労をした。いまだCSSの設定が流動的のため、8月の日記では段落に 「pタグ」 を使うことは見合わせ、担当者とは今月の9日に摺り合わせを行うこととする。
初更、花火を見物しに家族で大谷川の河畔へ行く。今年はいつもより熱心に見て歩いたが、500メートルも続く露店、大谷橋南詰めから旧日光市街へ向かう2車線の道をぎっしり埋め尽くす群衆など、このお祭りの成長ぶりに大いに驚く。およそ3キロほどを歩いて帰宅すると、ウチの駐車場には見物客のクルマ数十台が汗をかいた牛のように停まっていた。
あちらこちらで買ったものを食卓に広げ、これを晩飯とする。お祭りの食べ物には圧倒的に野菜が不足している。ちと冒険ではあるが来年はセブンイレブンの石塚さんが歩道に冷蔵ショウケイスを運び出し、サラダを山にして売ったらどうかと思う。