「ソウルの練習問題」 と 「海峡を越えたホームラン」 をもういちど読んでみようなどと書きながら階段室の本の集積を掘り返してもそれらは見あたらず、ようやくこの2冊が今は甘木庵にあることを思い出す。「だったら次は何を読もう」 と考え立ちつくして目についたのは関川夏央と山口文憲の対談 「東京的日常」 で、しかしこれにはいまだもったいなくて手が出せない。
おととい事務室の本棚3つの中身を空にした。必要としている部署が社内にあれば、ただちにこれらをそちらへ運ぶ準備はできているが、しかしどこからもくれとは言ってこない。今朝は大工さん3人が来て、本棚を撤去すると支えを失う神棚について、これを懸崖のように壁から吊る造作をしてくれる。
午後、不要の本棚すべてを外の通路へ出してしまうと、僕の定位置の背後には、これまでめくらにされていた窓が床から天井までの高さであらわれた。余勢を駆って、オヤジが使っていた事務机を空にする。これを片付ければ、あたりは更にすっきりするだろう。
箪笥を数える数助詞は棹だが本棚のそれはなんだろう。とにかく事務室にある本棚のうち3つ、前面投影面積にして畳4枚分の本や書類を他の場所へ移したり、あるいは捨てたりする。これら空にした本棚を明朝に撤去すると、そこにはに本来あった壁や窓があらわれることになっている。モノはできるだけすくない方が気持ちが良い。
この思い切った整理にともない自分の事務机には行き先を失った書類が多く重なり、これの処理は今日中には終わりそうもないからコンピュータを別の場所へ移してきのうの日記を書く。
「これとこれ、混ぜると美味しいです」 「重くて持てないよ」 「お客様、重くないです」 「持って帰るのはオレなんだぜ」 というやりとりをしながら 「これほど高くちゃノ・ムヒョンでも手は出しづれぇだろう」 と逡巡し、しかし結局は買わされることとなった2種の味噌で味を調えたキムチチゲを初更に食べる。「美味いなぁ、やっぱり買って良かったなぁ」 と考えながら味噌売場のオバサンの顔を思い出そうとして、しかしあれほどくっきりとした化粧の顔を、僕はもう思い出すことができない。
着信音の鳴る携帯電話のディスプレイを見ると、そこにはユザワクニヒロ青年会長の名前がある。受信ボタンを押して 「ウワサワです」 と答えると先方は開口一番 「アンニョンハセヨー」 と切り出すから 「アハハ、馬鹿なことを」 を思わず笑う。青年会長はその5分後に来社して町内役員へのお土産のうち僕が配る分を置き、「カムサハムニダー」 の言葉と共に去っていった。
名古屋か大阪か福岡へ行ったとおなじほど街の見た目は日本に近く、ホテルの宿泊客は9割以上が日本人、街にも日本の観光客があふれてそこここから日本語が聞こえてくるため、その上っ面のみを眺めて短期間を過ごす限り、ソウルを訪ねても外国に来たという感じはあまりしない。
ところが肝をもうすこし低い位置まで落とし込んでいくと、日本のどこかとしか思えない町並みに、しかし目につく文字はハングルのみだから、これを歩くうち人はいわば 「ハングル酔い」 とでも呼ぶべき渦に巻き込まれていくと書いたのは、1983年に出た 「ソウルの練習問題」 における関川夏央だった。
関川の次作 「海峡を越えたホームラン」 に在日のプロ野球選手としてもっとも多く登場する投手チャン・ミョンブが誰にも看取られず和歌山の雀荘のソファで死んでいたのは2005年のことで、このニュースはすくなからず僕に衝撃を与えた。関川夏央が世に出るきっかけとなったこれら2冊を、僕はもういちど読んでみようと思う。
金浦空港からソウルの街へ入ろうとするとき、右手にはその幅が隅田川の数十倍はあろうかと思われる漢江が流れている。ワゴン車に添乗してくれたイ・ミョンスクさんによれば、いつもは結氷するこの川も見ての通り今年は凍らず、遊覧船の営業期間もずいぶん長かったという。ソウルの気温は日本よりも相当に低いと知らされ気合いを入れてきたが、歩くだけで耳や手がかじかんだのは初日の晩のみにて、2日目からはずいぶんと過ごしやすくなった。
きのう遅くまでの酒盛りにより今朝はいまだ目覚めようとしない他の参加者を置いてホテルを出る。トライXを仕込んだ "Leica Ic" の露出がシャッタースピード200、絞り8ほどの光の中を歩いてフィルム1本を取り終え、南大門市場では社員へのお土産をあれこれと買う。
こちらへ来て感心したもののひとつにロッテ百貨店の地下食料品売場がある。それは僕が知るどのデパ地下よりも高級感にあふれ、かつ売場にもトイレにも掃除が行き届いている。むやみに明るくなく、むしろ人を落ち着かせるたぐいの薄暗さを持ち、しかし買物をするには必要にして充分な光量を確保した照明の仕組みについては到底、僕の理解できるものではない。
ざっと見た限り、このフロアには日本食専門コーナーを除いても3個所の味噌売場がある。それぞれをまわり、単位重量あたりの価格を調べ、計4人のオバサンと話をする。オバサンのうちひとりは片言、ふたりはかなりの日本語を話し、英語も日本語も通じないオバサンはひとりきりだった。一体全体日本のデパ地下において、外国語を解する店員がどれだけいるか。
ある売場で、味噌汁にするにはどの味噌を買うべきか訊いたところ、ひとりのオバサンは 「これが最高です」 と言い、もうひとりのオバサンは 「こちらが一番です」 と主張をする。紅の筆あとも鮮やかな唇が右から左から盛んに開閉する真ん中に立たされた当方は曖昧な笑顔を浮かべたまま困惑するのみで、味噌は結局、最も高い価格帯のものを置く別の売場で求めた。
ほかに気づいたこととして、日本とは異なりこの地には四民のうち商人を最下部に置く考えが無く、そのため客と同じエレヴェイターに乗り合わせた店員が、目的の階では客を差し置き靴音も高く真っ先に降りていくとか、あるいは同じく店員が客の歩く直前を平気で横切る姿がまま見られた。まぁ、風俗習慣もいろいろである。
「お客様、重くないです」 「持って帰るのはオレなんだぜ」 というやりとりの末に買うこととなった1.6キロの味噌を提げホテルへ帰る。11時30分にロビーへ集合してふたたび百貨店のあった明洞へ戻り、昼飯場所の 「ナドヒャン」 に入る。「最後にまた食べたいでしょ、骨付きカルビ」 「そういえばまだ食ってなかったよ、ブデチゲ」 とあれこれ注文し、僕はやはりマッコリを飲む。
マッコリとは不思議な酒で、飲んでも飲んでも酔わない。しかし酒を飲んだという満足感は得られる。初日の晩にはひとりでこれを1.5リットルはこなしただろうが、翌朝の気分はすっきりしたものだった。
「ナドヒャン」 の日吉ミミに似たオカミが客に気を利かせてテレビをつけてくれる。大きなプラズマの画面を一見して、それが韓国版のど自慢であることを知る。出演者は衣装、振り付け、マイクのあしらいなどすべてプロになりきっている。客席に横断幕を掲げた縁者友人たちは手にポンポンを持って踊っている。韓国版宮田輝の濃厚さに至っては何と形容すべきだろうか。「これは凄いよ、このDVDがあったら買って帰るんだけどなぁ」 と思いつつ周囲をうかがえば、地元の人たちのほとんどはこの番組を無視して食事に余念のないようだった。
大韓航空6709便はほぼ定刻に羽田空港へ着陸したものの、ベルトコンベアに我々の荷物が見え始めるまでには相当の時間がかかった。帰路の確保を危惧するひとときもあったが、浅草には首尾良く8時30分に着いた。浅草駅21:00発の下り最終スペーシアに乗り、11時ちかくに帰宅する。
韓国と日本のあいだに時差はなく、しかし韓国は日本よりも西にある。このことを実感したのは朝のことで、午前6時のソウルの空は深夜と同じく真っ暗だった。きのうの日記を書くうちようやく日が昇り始める。
今回の旅行にはオヤジが遺した326,000ウォン、現在のレイトで43,500円分の韓国紙幣を持参した。ところがきのうの晩、コンビニエンスストアで支払いをしようとすると、1,000ウォン札数枚の中から店員は使えないものを返してよこした。そこで今朝、現在のものより大振りの紙幣だけを抜き出しホテルのフロントに並べると、30代と思しきその男の人は 「生まれてこのかた見たこともない」 と言う。
いちいち詳しく書いていくと2002年11月の 「星島日記」 のように長くなってしまうから割愛するが、「死蔵するしかない」 と諦めた61,500ウォンはその数時間後、明洞と会賢をつなぐ地下街の古銭屋が、何と70,000ウォンで引き取ってくれた。
この旅行は朝昼晩の食事時のみに参加者が顔を合わせ、他の時間はすべて自由行動となる。
夜の明洞はまるで100年前の浅草といった人の群れだが、昼は閑散と乾いて寂しい。そういう道を歩いて全州ビビンバの 「古宮」 へ行く。あまり詰め込みすぎて晩飯が入らなくなってもいけないと、僕だけはチジミを食べることとし、ビビンバは注文しなかった。
午後は南大門市場のかなり奥まで入り、そこから出て南大門の衛兵交代式のようなものを見る。トライXを仕込んだ "Leica Ic" の露出がシャッタースピード200、絞り5.6になったところでホテルへ戻り、全員で梨泰院の 「クラウンホテル」 地下にある汗蒸幕サウナへ行く。男に垢すりをされるのは1983年の台北で生殖器を撫でられて以来避けてきたが、これもコースに含まれると支配人に言われては仕方がない。
ひと皮剥けて2時間後、サウナのクルマで明洞まで送ってもらう。夕刻から予約しておいた 「群山」 にてうごめき回りながら口の中に吸い付く生き蛸や、イヤイヤをするように暴れて止まない同じくタコを投入する海鮮鍋を食べ、ここでもまたマッコリを飲む。今夜のメシもとても美味く、腹のふくれた一同はしばし椅子に座ったきりボンヤリとしてしまった。
ホテルへ帰り、今度は部屋で飲み会をしようとする他の人たちに先だって10時30分に就寝する。
羽田空港の搭乗ゲートを離れた大韓航空6708便は2時間後、ソウル上空の不安定な大気に上下動を繰り返しながら徐々に高度を落とし、やがて金浦空港へと着陸した。
ネパール語で 「写真、撮ってもいいですか」 は 「ポトキチェパニフンチャ」 で、これは1980年、カトマンドゥ郊外に住むビモラ・ピャクルエルさんからの口伝えにより一発で覚えた。ところが齢50ともなると記憶力はずいぶんと衰えているから、空港からのワゴン車に添乗したイ・ミョンスクさんに同じ質問をし、返ってきた 「サジンチゴドデカヨ」 をどうしても脳に刻むことができない。仕方なくメモに残す。
夕刻、参加者全員がホテルのロビーに集合する。南大門市場を経由して明洞まで歩き、地下鉄にひと駅だけ乗って乙支路3街へ行く。小腸焼きが名物の 「良味屋」 は超満員だったから予約をしておいて正解だった。1升はありそうな壺入りのマッコリをタシロマナブ君とふたりですべて飲む。
ふたたび地下鉄に乗り今度は東大門市場へ行く。数十分の散策をしてから1軒のポジャンマチャに入り、マッコリ 「長寿」 の750CCビンをほとんどひとりで飲んでしまう。上出来の焼き肉を食べ、地元の人に交じってポジャンマチャで飲酒を為し、だから 「ソウルに思い残すことは何ひとつないよ」 と言って 「まだ1日目ですよ」 とユザワクニヒロ青年会長に返される。
ホテルに戻ったのは11時30分のころで、普段の生活時間からすればこれはずいぶんと遅い。外のコンビニエンスストアで求めたあれこれを持ち寄ってひとつの部屋に集まり、ここでも宴会となるが、僕だけは途中で起こされひとり自室へ戻る。焼酎とは異なりマッコリはストンと意識を失うこともないから、ソウルではこれで通すこととする。
先月21日に会計監査のハンコをもらった 「平成18年度瀧尾神社祭典収支決算書」 を40枚コピーし、ネクタイを締めりジャケットを着て1時30分に瀧尾神社へ行く。2時より始まった神社の初会議にてこれを報告し、春日町1丁目の当番町会計としての仕事を完了する。
終業後、町内の人たちと明日から2泊3日の予定で行く韓国旅行の荷物を準備する。
先月28日に泊まった茨城県の料理民宿では深夜0時すぎに目を覚まし、しかし同じ和室には8人ほどが眠っているから灯りは点けられない。本も読めず、朝まで輾転反側して退屈な時間を過ごしたことから先日、"assist on" にて携帯用の読書灯を手に入れた。
この読書灯はじめ "ThinkPad X60"、デジタルカメラ、モトローラ社製の持ち重りする携帯電話、およびそれらすべての電源、古いライカ、鉛の袋に入れた銀塩フィルム、2日分の着替え、洗面道具などを納めるのはキャスター付きのいわゆる 「お引きずり」 ではない。「入るかよ」 と案じたがグレゴリー社製ミッションパックの容量は想像以上に大きく、結果はなおいくらかの余裕さえあった。
「ケータイストラップ20本なんて土産なら帰りの荷物もこれひとつで済むだろうが、そういうわけにはいかねぇだろうなぁ」 というようなことを考えつつ自宅へ戻る。
夕食後、"Jose Cuervo Especial" を包み込んだメキシコ製のチョコレートを食べる。「目には目を、テキーラにはテキーラを」 という格言もあるくらいだから同時に "Jose Cuervo Clasico" を生で1杯だけ飲む。
今週月曜日に商談した相手にメイルを送ろうと思い、もらった名刺のメイルアドレスを見る。すると "info" の後にアットマークがあり、会社のドメインが続いている。個人名の印刷された名刺はその個人を表すもので、しかしてそこにあるメイルアドレスが "info" であればこれは個人のものではなく、僕の認識としては、その個人は少なくとも "intelligence technology" の分野においては "Citizen" でない。
僕は個人に対してメイルを送りたいわけで、インフォアットマークなにがしではその向こうに誰がいるやら知れず、よって連絡は電話で行うこととする。
下今市駅9:35発の上り特急スペーシアに乗る。高島屋東京店での「老舗・名店の味特選会」 に出張していた家内、後半組のサイトーシンイチ君、キクチユキさんと日本橋で落ち合う。関係各位に挨拶をしたのち買物と昼食を済ませ、僕はサイトー君が運転する三菱デリカの助手席に収まって午後3時30分に帰社する。
一週間という短期決戦におけるアイテム別販売数量予測システムというものを僕は何年か前に作り、今年もこれに従って商品を出荷したが、前半の盛り上がりが東京マラソンのあった日曜日に一気に冷め、その後にまた持ち直すという急展開が、ディスプレイの数字を読み取る僕の勘に若干の狂いを生じさせた。
最終日の夕刻にお見えになったお客様には一部商品の売り切れによりご迷惑をおかけすることになり、これは来年に向けての反省材料である。
瀧尾神社の禰宜と事務室で話しているところに花屋さんが来る。オヤジの一周忌までは月命日に花を届けると言ってくれた人があり、これはその人からのものだろう。しかし一周忌は3ヶ月前に過ぎている。「有り難いよなぁ、メシくらいご馳走しなくちゃ」 と思うが、それを提案すると先方は多忙を理由に断るのだ。
この花を仏壇に飾ろうと、禰宜の用事が済んで後に4階へ上がる。台所のシンクで包装を解くと花は一対あり、「だったらむしろお墓に供えた方が良いわなぁ」 と考え、1階へ降り駐車場へ出てホンダフィットに乗る。
如来寺の墓地に入っていくと、ここを掃除しているおばあさんふたりが遠くで落ち葉を焚いている。その煙のたなびくのを見てやおらタバコが吸いたくなるのだから、ニコチンの習慣性とは恐ろしいものである。僕はタバコは1年に3本を吸うことにしているが昨年は多分、6月13日と10月23日に1本ずつの計2本しかこれを嗜んでいない。春夏秋冬というくらいだから今年はそれぞれの季節に各1本ずつのタバコを吸おうと思う。
「先週、普通の封筒で1万円を送って何の沙汰もないのできのうオタクに電話をしたら 『届いていません』 とのことだったけど、そんなことはないでしょう、自分は社会的地位もそれなりに高い人間で、送ってない金を送ったなどとは決して言う者ではありませんよ、調べ直してください」
と、これもクレームのうちだろうか、そういう電話をいただいたから、個人のことになるが、自分は1991年と1992年の2年間に2度、投函した郵便物の先方に届かなかったことがある、普通の封筒に5,000円札1枚を入れて子供へ送ったところ、これが行方不明となった弊社社員もいる、送金は書留あるいは金融機関を経由してのものになさるか、商品の取り寄せはより簡便な代引き着払いとしていただければ安全と、そのお客様には手紙を書き、名刺を添えてお送りした。
この数日前の出来事はさておき今月初め、甘木庵の土地と建物の評価証明書を取り寄せるため、必要な書類を整え文京都税事務所にこれを送付した。ところが今日まで返事がないので電話で問い合わせると、証明書は今月8日、確かにそちらへ向けて投函したと、係の人は言う。
「これもやはり途中でどこかへ消えてしまったか」 と、「じゃぁもう1回、申請し直します」 と言ってはみたものの、一から申請書を書き直し、またまた市役所で書類を揃え、手数料の小為替を郵便局で買い直すのも面倒との思いから、ただでさえ調子の良くない胃が痛み出す。
ところがその後、僕を気の毒に思ったか都税事務所から電話が入り、「謄本類は既にもらっているから」 と、初回よりも簡便な形で再申請を受け付けてもらえることになった。これにより元気を取り戻して再度、書類の準備にかかる。返信用の封筒には前回よりも210円多い切手を貼って速達とした。そしてこれらを送付する郵便物はもちろん書留とした。
郵便も宅急便も人のかかわることだから未着事故を免れない。否、周到に組み上げられたデジタルのシステムにもバグや故障はつきものだ。都税事務所からの封書が今度も届かなければ、次は自分の足で文京区のシビックセンターまで行くのみである。
瀧尾神社の1年間の行事に責任を持つ当番町の任務も、本日の春日町二丁目への引継ぎ式を以て完了する。これへの出席のため、2時30分に社務所へ行く。江戸時代から現在までの文書が並ぶ奥の座敷にて二丁目の区長ナカジマナカオさんが和綴じの帳面に当番町を引き受ける旨の文言を墨書捺印する。それを我が一丁目のイワモトミツトシ区長が確認する。
式は意外と早く終わった。僕は新しい携帯電話 "FOMA M1000" の電話帳に手こずりながら直会の行われる 「ブライダルパレスあさの」 へ電話をし、迎えのバスを直ぐに寄越すよう頼む。
「あさの」 では隣席の婦人会長タケダミッちゃんと、「どうしたら町内にもっと子供が生まれるか」 というような話をする。次々にお酌をされるビールを飲み燗酒を飲み、その合間を縫って焼酎のお湯割りを飲む。5時30分、ユザワクニヒロ青年会長の挨拶に続いてオノグチショウイチ頭の三本締めがあり、会は無事お開きとなった。
「次の当番町は12年後だな、それまで生きてっかな」 「なーに、まだまだ」 などと言い合いながら、ずいぶんと日の延びた夕刻の道を歩いて帰宅する。
「今市ジュニアソフトテニスクラブ」 の、今日は 「6年生を送る会」 が催される。運営を任されるのは5年生の親で、僕もそのひとりとして9時すぎに 「栃木県立今市少年自然の家」 へ次男と共に行く。
軟式テニスアジア大会のビデオの鑑賞、木製キーホルダーの作成、からだを使ったゲーム、昼食、会長挨拶、この1年間のスライドショー上映、寄せ書きと花束の贈呈、6年生からのお礼の言葉、コーチからの激励の言葉、下級生たちからのビデオレターの上映、6年生父母挨拶などあって、会は3時30分に無事終了した。なお次男はビデオレター上映前のひとこと、僕は開会の言葉と閉会の言葉および雑務を担当した。
当番町をつつがなく務め終えた記念というか慰労というか、そのような目的により行われる韓国旅行は安いツアーにつき、出発の7日前になってようやくホテルが特定された。ソウルナビによれば悪評紛々の宿泊施設だが、マドラスからヴァラナシまでの数十時間を南インド鉄道2等車の荷物棚で過ごしたこともある僕にとっては、特にどうということもない。
その旅行の事前打ち合わせのため中華料理屋 「恒香園」 へ6時30分に行く。ユザワクニヒロ青年会長の準備はまるで親切な添乗員並みで、詳細な資料一式を受けとる。そのうちのスケデュール表に、集合は今月23日の朝7時10分、上澤梅太郎商店前とあるから、下今市駅までトランクを引きずって歩けばそのキャスターが壊れるのではないかと懸念を示す。
すると 「なにそんなに荷物もってくの 」 カミムラヒロシさんが訊く。歯ブラシの柄を切ってまで荷物を軽量化し、デイパックひとつで数十日の旅行をかつての僕はしたものだが、いまやコンピュータがあり、銀塩カメラがあり、デジタルカメラもあり、きのう手に入れた携帯電話の充電器は馬鹿みたいに大きいときている。
「持ってくのは着替えだけ、下着と靴下はむこうで捨てちゃうの。土産はむこうで買った袋に入れて来りゃいいんだよ」 というカミムラさんの往路の荷物は多分、小さなトートバッグひとつくらいのものではないか。「だったらオレはせめて "Gregory" のミッションパックにしようか」 と考えて結論は出ず、他に用事もあるところからメシの途中で帰宅する。
夜半に目覚めて 「二葉亭四迷の明治四十一年」 を読む。1908年、東京朝日新聞の特派員としてロシアへ渡ろうとする四迷の送別会が挙行された上野精養軒の場面、関川夏央の筆はまるで、台に杓を打ち付ける講釈師の口跡のように鮮やかだ。上野の山の夏緑、不忍池の輝き、五重塔の朱赤。宴会場の広い窓からそれらを眺める逍遙、魯庵、花袋、泡鳴、眉山の姿がありありと目に浮かぶ。1日に2錠を超えて服用するなと説明書にあるすこし強い薬をきのうの午後に飲んでから胃の痛みは漸減した。しかしその名残はいまだ消えない。
5時に起きてもあたりは暗い。熱いお茶が飲みたいから勝手に淹れる、というわけにはいかない。仏壇の花と水とお茶を整え線香を上げて後、自分の湯飲みに急須を傾ける。やがて夜が明ける。日光の山には相変わらず雪雲があるが、終日晴天が続くだろう。
10時に外注SEのシバタサトシさんが来て一緒にdocomoショップへ行く。オーディオ好きのカメラ好き、落語好きのジャズ好きと同じく、コンピュータの中身をいじくり回すことの好きな人はおおむね電話機も好きだ。いま使っている "N503i" はもう1、2年は保つだろうが、"ThinkPad "に繋げて使うにはいささか古びた。
後継機種としてシバタさんが挙げたのはモトローラ社製の "FOMA M1000" で、しかしこれはいわゆる "PDA" オタクが使うようなマシンではないのか。携帯端末あるいはそれに類するものを疎んじ、あれだけ流行ったザウルスも買わず、モバイル機器としてはこれまでコンピュータ一本で通してきた。
そういう歴史をへし曲げ、3,780円の機種変更料を支払ってこの "FOMA M1000" を自分のものとする。電子機器の初期設定は幼児の教育と等しく大切である。その作業にシバタさんは "Computer Lib" のマハルジャンさんと電話を往復させることおよそ10回、時間にして6時間を要してようやく完了したから、すくなくともこの部分においては僕の手に負えるものではない。
"FOMA M1000" は、電話をかけるにも附属のスタイラスペンでタッチパネルに触れる必要がある。「メールを書くにしても何にしても、慣れればプッシュボタンより速いですよ」 と言われてもなお 「こんなの買ってどうするの」 という声が身中にはある。しかし初めて経験する "Bluetooth" は確かに強力だった。
夜9時に寝てしまうから2時間後の11時に目覚めるようなことになる。きのうの朝以来の胃痛はいまだ治まらない。
生まれてこの方これほどの胃痛は初めてという経験をしたのは、日光の久次良町北側にある遮断機の下からオートバイを引き入れ、林道のみを走って男体山裏に達した20年ほど前のことだった。ちょうど鹿が繁殖期を迎えたころで、相手を求めるその鳴き声が谷にこだましていた。帰路はいろは坂から一般道を下ったが、日光の旧市街を過ぎるあたりからその激しい胃痛は暴れだし、僕は左手で胃をさすりながら、うめき声を発しながら帰宅した。
今回の痛みはそれほどのものではない。背中の下に差し込む式の指圧器を当ててしばらく仰向けになると楽になったから、それを外して横向きになり
を読む。「昭和時代回想」 はきのうの下り特急スペーシアの中で読み終え、しかし関川夏央の、ところどころ衒学的な熟語の混じる文章を読むことに慣性がついている。
しばらくすると先ほどの痛みがぶりかえして活字を追う気もしなくなる。よって灯りを落とし仰臥し、背中に指圧器を当てる。そのうちに眠り、また目覚めて本を読み、またまた痛みを感じて休むことを2時、4時と繰り返して6時に起床する。
3時に目を覚まして4時まで 「昭和時代回想」 を読む。二度寝をして6時前に目を覚ます。
明日からの6日間、高島屋東京店での「老舗・名店の味特選会」 に出品をする。そのための用度品などを満載した三菱デリカに乗り、10時に販売係のハセガワタツヤ君と共に会社を出る。首都高速道路の渋滞などあり、甘木庵を経由して日本橋へ達したのは1時すぎのことだった。
満車による列に並んで屋上駐車場にクルマを停めたのが1時30分。「コジャレていないところ」 とのハセガワ君の要望に応え、丸善裏の 「いし井」 へ行く。そこでハセガワ君は 「鰤の照り焼き定食」、僕は 「鰈の煮付け定食」 を注文する。
電車で来る組と合流するため、その後ハセガワ君は甘木庵にとって返した。僕は浅草発15:00発の下り特急スペーシアに乗り、5時前に帰社する。
旅行へ出る際には持参しようとする物に 「無ければ命にかかわる物」 「日用品」 「あれば便利な物」 と順位をつけ、最後の 「あれば便利な物」 は先ず念頭から捨て去り、更に 「日用品」 に厳しい取捨選択を加えると身軽になる。
そうとはいえ物欲はあり、先日あるウェブショップに "PORTER" のパスポートケースを注文した。しかしこれが届いて、否、届く前より分かっていたことだが、パスポートケースつまり貴重品入れを首から下げているということは、そのときその人間が貴重品を持っているということを周囲に宣伝して歩いているわけで、これは危ない。
貴重品を盗まれないためには貴重品を持ち歩かないのが一番で、ここで 「むかしのお前は海外の路上を歩くとき、貴重品など一切、持たなかったではないか」 と、もうひとりの自分が言う。
まぁ、このパスポートケースについては良いとしよう。実はこれを買うとき 「お買い上げ10,000円以上は送料無料」 の文字がチラリと見え、貧乏性の当方はついつい "LUGGAGE LABEL" のサイフも発注してしまった。ところがいざこれに触れてみると、頑丈な造りにより小銭入れとしては大きくても、実際の容量はいま使っている "GOLD-PFEIL" のキーケースと変わらず、更にはジッパーが硬くて開閉に大層時間がかかる。
一瞬、返品しようかとの思いも頭をよぎったが、送料当方負担でこれを送り返し、そうするとパスポートケースだけの買物では送料無料の特典が消えてしまうから、これらが先方から送られてきたときのそれを、あらためて支払う義務が発生する。
というわけで、このサイフは社員用通路の掲示板に 「使ってくれる人に差し上げます。欲しい人が複数いるときにはジャンケンで決めてください」 とのメモと共につり下げられることとなった。
「お買い上げ○円以上は送料無料」 の文言により僕がこれまで飲まされてきた煮え湯が何リットルになるかは知らない。
日本人が飲む酒の中で日本酒の割合が減り、逆に焼酎が伸びてきたのは、日本人が食生活においてより多くの脂分を欲するようになってきたからに他ならない、日本人は魚や根菜など旧来の食べ物をもういちど振り返る必要がある、というような主旨のことを、小泉武夫が最近の新聞に書いていた。
日本人がなぜ日常の食において伝統に立ち返らなければいけないかといえば、それはそのような食事の方がからだに良いからだと、そのコラムは結論づけていたように記憶する。しかし考えてみれば、美味い日本酒を産する、だからその消費量も多いだろう北陸や東北よりも、焼酎を多く造り、これを多く飲む九州や沖縄の方が平均寿命は長い。
とはいえ 「ふんじゃぁ今夜は日本酒、飲むかぁ」 と考え、「仙禽酒造」 の醸造品とのみ分かってはいるがレッテルも無し、キャップにも何の表示もないお酒を飲む。これは同酒造の親戚にてオヤジの友人ウスイベンゾーさんにいただいたものだが静かに鋭く、しかし美しく丸くあるばかりでこれ見よがしの吟醸香など持たない、まことに僕好みのお酒だった。
金曜日の夜、丸の内から二重橋前まで濡れて歩いたときには 「連休が雪や雨になったらまずいな」 と考えたが、それは杞憂だった。日光の山に雪雲は見えるものの、きのうも今日も天気は良い。
店舗とは国道121号線を隔てた駐車場に夕方までトラックを停めさせてくれと、開店直後に言ってきた露天商のお兄さんが1,000円札を差し出したから、とにかくその謝礼だけは断ったと、家内が言う。本日は旧市街を貫く日光街道の、春日町から追分地蔵尊までを通行止めにして 「花市」 というお祭が開かれている。
昨年の2月にはいまだオヤジの喪が明けていず、この 「花市」 で縁起物のお飾りは買わなかった。当たり前のことだが買わなければ買わないでどうということもなく、だからおととしまで何十年も買い続けた縁起物は、今年も買わないことにする。
闇に目を覚まし、4時は過ぎただろうかと携帯電話のディスプレイを開くと、時刻はいまだ夜半の1時30分だった。枕頭の灯りを点けて
を開く。横になったまま本を読むとき、活字は薄くぼやけているが、頭の片側は枕に押しつけられているから老眼鏡はかけられない。文字の見づらさはとりあえず脇へ置き、2時間ほどもペイジを繰る。
およそ10年ちかく前のことだったと思うが浅草であるラーメン屋に入ると、カウンターの隣にいたのはちかくで鮨屋を営む顔見知りだった。「40を過ぎるとガタッと体力が落ちますね」 と話しかけると 「50を過ぎますとね、そこからまた一段、ガタッと来るんですよ」 とのことだった。
本屋で書架に並んだ背表紙の文字を見ようとすると、あるいは画材屋で絵の具のチューブの欧文を確認しようとすると、それらがやけにうるさく感じられるようになってから数年が経つ。ところがきのうあたりは百貨店の壁に飾られた数十本のネクタイを見ても、おなじ違和感を持つことに気づいた。これはもっぱら近視と乱視のゆえである。
かくのごとく近視と遠視と乱視は仲良く同居する。「年はとりたくねぇな」 と思うが、60歳を過ぎた町内の人によれば 「50代のころは元気だったなぁと、今となればしみじみ感慨深い」 とのことだから、僕の不便のなお増し続けていくことは既定の路線である。
1986年に購入したエムロクに光線漏れを見つけたのはおととしのことだった。以来2年を経過して本日遂に日暮里の 「フォトメンテナンスヤスダ」 を訪ない、これの修理およびズミクロンのグリス交換を頼む。ヤスダさんはコワモテの人だが今日は優しかった。この店についての詳細かつ抱腹絶倒のリポートは、赤瀬川原平の 「ライカ同盟」 で読むことができる。
日暮里から銀座、そして日本橋へと移動して夕刻に至る。仲間うちのちょっとした打ち上げが八重洲の中華料理屋 「博雅」 であって、これに参加をする。ただし今夜の僕はオヤジよりもひとつ年長の、つまり大先輩から晩飯の招待を受けているから、大皿料理の各々はそれぞれスプーン1杯ほどの量のみを食べ、すこしだけ紹興酒を飲む。
八重洲側から丸の内側へ移動するとき、東京駅のコンコースを突っ切れば最短距離だがそれには入場券が要る。プラットフォームに人を出迎えるときなどには心理的痛痒を伴わずに買うことのできる入場券も、線路の下をかいくぐる、あるいは跨線橋を渡るだけのためには買いたくない。唯一これをしたのは台北駅でのことで、彼の地では入場券のことを月台票と呼ぶ。
北口をまわって丸の内側へ出ると、レンガの東京駅はライトアップされて、僕は大日本帝国の旧植民地に瞬間移動したような気分になった。丸の内郵便局から道一本を隔てたところにあるフランス料理屋では、 まさか2まわり以上も年長の人を前に酩酊するわけにもいかない。黒オリーヴ入りの小さなパンからチーズに至るメシを白ワイン2杯と共にご馳走になる。
自分より何十歳も年上の人と話すことが僕は好きだ。あるいは子供と話すことも好きだ。子供の脳はいまだアイドリングの状態にあり、しかし感受性や好奇心は大人のそれをはるかに凌ぐ。そういう優秀な、しかし回転のあまり高くない脳から紡ぎ出される言葉はほとんど詩のようなものだ。
老人の脳は無意識のうちに疲労を避けて回転を落としているが、しかし彼の目、彼の鼻、彼の口、彼の肌が長いあいだに蒐集してきたあれこれは鬱蒼とした森のごとくで、そういう人の問わず語りを聞くうち、当方は山中の目立たないところに野生の蘭を見たような、つまり酔ったような心地になって、これも悪くはない。
食後、 雨の中を二重橋前まで歩く。
1パックの納豆を50回以上攪拌して20分以上放置し、これを朝晩に1度ずつ食べると、2週間で2キロから3キロも体重が落ちるとしたテレビ番組の大部分に捏造が発覚し、このことがひとしきり話題になった。「そんなに上手い話は無いよね」 と疑いつつこれを試した僕は、一連の騒動の後もしばらく、この方式による納豆を食べ続けた。
1月の社内検診における血液検査の結果はいまだ届いていないが、今週月曜日に 「オカムラ外科」 で採った血の 「総合検査報告書」 の方は早くも上がり、本日その数値を見て主治医のテラモト先生が 「良いですね」 と言う。「良いですね」 の因みが納豆にあるのかどうかは知らない。
夕刻、いまだ居間にあったきのうの朝日新聞35面を見ていて 「都知事の交際資料」 と説明された写真の、ある料理屋の明細書に 「石田屋 30,000」 とあることに気づく。「黒龍酒造」 の純米大吟醸 「石田屋」 は4合瓶で10,500円の酒だが、皇太子がこれを好むとのウワサの流れた1995年以降、市場から姿を消した。
いつか見たテレビでは、都知事の弟が右手の人差し指と中指に火の付いたタバコを挟み、同じ右手に持ったグラスでこの 「石田屋」 を飲んでいた。「石田屋」 も、あるところにはあるのである。
3時30分に目を覚まして 「自由学人 羽仁吉一」 を開き、5時30分にこれを読み終える。435ペイジを1週間で読み切るとは、遅読の僕には大変に珍しいことだ。この本は羽仁吉一の謦咳に接した人たちによる貴重な記録と、みずからについては多く語ることのなかった同人の前半生を、膨大な資料や関係者にあたってまとめ上げた伝記とを1冊にまとめたもので、読む人を問わず、その価値は非常に高い。
日中に少々の調べごとがあり、イチモトケンイチ本酒会長と車庫へ行く。
夜の入りばな、「渡邊佐平商店」 の酒粕による粕汁を食べる。「粕汁」 は冬12月の季語だが、師走に酒を絞る蔵はむしろ例外ではないか。そして今夜の粕汁はとても美味かった。
前に会ってから長く年月の経っている人、むかしの知り合い、こういう人が向こうから僕を見つけていきなり 「ご無沙汰してます、分かりますか」 と訊くことがある。「分かりますか」 と問われて 「分かりません」 というのも愛嬌のない話だから、たとえ相手が誰やら分からなくても 「はい、分かります」 と答えてしまうのが僕の常だ。
午前、販売係のトチギチカさんが事務室の扉を開けて 「お客様です」 と言うので店舗へ移動すると、自動車関係とのみ記憶している人が買物をしてくださっている。てっきり 「ツインリンクもてぎ」 でお会いした方と思って 「昨年の暮にはお世話になりました」 と話しかけると先方は怪訝な顔をしながら、しかし子供ではないから僕にあわせて 「どうも」 と返事をする。
その後の会話で判明したが、この人は僕に "Alfa Romeo Giulia Sprint GT" を売った自動車屋さんで、「あ、あ、あの、ホ、ホ、ホイールキャップ、こんどかならず持ってきますんで」 と言うので 「そんなこともあったなぁ」 と思い出す。しかしあのクルマを買ったのは消費税法が施行されて間もなくのころだったから、以来かれこれ17年は経つのではないか。本来あるべきホイールキャップを欠いて納車をしたまま重ねた星霜が17年というのも、なにやら愉快な話である。
それはさておき長く会っていない人にばったり出くわしたときには、僕はかならず 「こんにちは、ウワサワです」 と名乗ることにしている。
朝から腹を空かせているのが常だから、特に理由がないかぎり朝飯を抜くことはしない。本日は 「検査のための採血を控えている」 との理由にてその朝飯を抜く。数ヶ月に一度の血液検査において、ここ数回はせっかく事前に酒抜きをしたにもかかわらず、なぜか "γGTP" が検査の項目から落とされることが続いた。
9時に岡村外科へ行き、看護婦さんに 「あの、ガンマジーティーピーの数字も出して欲しいんですけど」 と頼むと、青い紙片を調べた看護婦さんが 「今回は入っていますね」 と答えて振り返り、注射器と試験管のようなものを携えて近づいてきたから 「毎度のことながら血管注射はイヤだよなぁ」 と思いつつ袖を上げる。
1月の下旬ころから感じてきた気ぜわしさが漸減してきたのは、昨年の夏以降、今年の正月にかけて思いついたあれこれに、ひとつひとつ道筋がつきつつあるからだろうか。
初午を迎えた本日の晩に早速、サイトートシコさんが持ってきてくれたしもつかりを食べる。「しもつかり」 を "google" に入れるとヒットするのは千数百件、対する 「しもつかれ」 は四万なにがしだから、ウチの 「しもつかり」 という呼び名は少数派なのだろう。「しもつかり」 にしても 「しもつかれ」 にしても、開高健の 「新しい天体」 に、この栃木県の郷土料理の名は見えない。
届いた新聞の折り目を開き、そこに挟み込まれてる広告や週末の特集版を事務室のカウンターに落とす。特集版は新聞と同じ紙、広告はそれとは異なる紙だから分別して所定の場所へ置く。これらはやがて収集されて古紙となる。広告はともかく朝日新聞でいえば "be" などは新聞代金のうちだから届いてすぐに捨てるには抵抗があるが、無人島でヒマをもてあましている身でもなし、そうは読めない。
「米の最大の欠点は美味すぎるところにある」 と言ったのはどこの学者だっただろうか。この場合の米とは、優れた田んぼで丹精されたジャポニカ米が丁寧に炊きあげられた場合に限られるのだろうが、米とは確かに美味すぎて困る。
午後7時より春日町1丁目の役員会が同公民館で行われるため、牡蠣のソース炒りと蒸し鶏のポン酢和えにて美味すぎる米を2杯食べる。上からかけ回した魚醤が皿の底に残り、パクチーが振りかけてあればすなわち南国風の蒸し鶏で、これも僕は好きだが、あれは湿熱の国で食べるに限る。そして 「行きてぇな、そういうところへ」 と思う。
3時30分に目を覚まして 「自由学人 羽仁吉一」 を開く。「雑司ヶ谷短信を読もうとする者には必須の副読本が、ようやく出てきたなぁ」 の感慨を、この本に触れて強く覚える。
節分の豆は、瀧尾神社の分はお使いの人が届けてくれた。二宮神社の分は昨年まで社員に取りに行ってもらっていたが、本日の社内ではどうやら僕がもっともヒマそうなため午後、ホンダフィットに乗っての用足しの途中で神社に寄る。
折しも二宮神社には、高いところからの豆まきを待つ人たちが集まっていたが、こちらは社務所で豆を受けとったら直ぐに帰社したい。それでもふだんは行く機会もない本殿裏へ回ってみれば、尊徳二宮金次郎の墓石には浄土宗の戒名があったから 「こんど如来寺のクワカドシューコーさんに、詳しいいきさつを訊いてみよう」 と思う。
終業まで残すところ90分という時刻に会社、隠居、続いて家の、それぞれの内外に次男とふたりで豆を撒く。そして、叔父が10代のころに書いた叙情的な随筆を思い出す。そこには節分の夜の風景が、まるで影絵のようにしてあったはずだ。
夕刻、家内の父より届いた牡蠣をフライにしてメシを食べる。カキフライがメシの美味さを倍加させて、酒など飲んでる場合ではない。そして明日も酒を避ければ今月は早くも4日までに、月の断酒ノルマの3割強を達成することになる。
先月26日に開かれた 「本酒会」 の会報の作成を、1週間以上も延ばし延ばしにしてきた。しかし朝5時30分からコンピュータに向かえばそれほど時間もかからず書き上がり、そのメイルマガジン版を会員各位に送付する。次にそのウェブペイジ版をサーヴァーへ転送する。
太くて短い葱に "neu frank" のコーンビーフをあわせたペンネを初更に食べながら 「こういうの出すバー、ねぇかなぁ」 と思う。無ければないで、ウチで 「こういうの」 を食べ、ワインを飲むだけのことである。と、ここまで書いたらなぜか急にオイルサーディンが食べたくなってきた。アンチョビで味つけをしたオイルサーディンを出すバーなんてのが、どこかにないか? 無ければないで、ウチで 「そういうの」 を食べながらジンのソーダ割りを飲むだけのことである。
きのうの日記をエディタに貼り付け半角70で自動改行してみると、その文字数は全角で356だった。他人の日記をサラリと読み流そうとするとき、一瞥して気持ちの負担にならないのはせいぜい400文字ではないか、と改めて感じる。
夕刻に食卓を見て 「今夜は酒は飲まない」 と決めると家内が 「えぇっ」 と驚き、そして 「飲んだらいいのに」 と続けるが、酒を飲まないということは特に、いちど決めたら撤回しない方がノルマの関係上、月の後半が楽になる。
「酒のないメシってのは、ありゃぁエサだね」 と言ったのは年長の友人マルトクさんで、この 「エサだね」 とは食の内容をおとしめたものではなく、「まるで犬が餌を平らげるほどの時間を以て食事が完了してしまう」 という意味である。
そして今夜の僕もまた犬と同じほどの時間にて晩飯を完了する。