"MG"つまりマネジメントゲームは5、6名がひとつの卓を囲み、これをひとつの市場とみなす。参加者が34名であれば卓は6つ。これは"MG"の開発者である西順一郎言うところの「理想の卓数」になる。
"MG"は期ごとの売上金額を以て卓を移動する。売上金額の多寡により、卓を頂点とする、より競争の激烈な卓へ上がったり、あるいは地味な会社の競合する卓へ下がったりする。
きのうの第2期、僕はそこそこの売上金額を達成しながら、初心者が行き詰ったときの介助役として、下方の卓に移って第3期のゲームをした。そのような環境であれば、いくらゲームの下手な僕でも低い損益分岐点比率は確保できる。「それでもオレは今回は、このまま下の卓でお目付役かな」と、なかば楽な気持ちでいたところ、その直後に張り出された第4期の僕の位置はA卓だった。
今朝の夢は、この「日光MG」も終盤に近づき、西先生のまとめの講義を聴いている、というものだった。フロイトの分厚い本を読むまでもなく、この夢の意味は理解できる。
日本のMG界に名人上手鬼巨匠の四天王がいるとすれば、その一角に必ず名の上がるであろうバンドーシューコーさんが、第4期のA卓にはいる。「バンドーさんと勝負かよー」という重圧が、第4期などとうに済んでしまった近未来の夢を僕に見させたのだ。
「日光MG」の2日目午前。問題の第4期の開始が伝えられる。バンドーさんは今回、僕であれば決して採らない戦術を選び、その結果、おなじ市場にあっても僕と直接に競合をすることはなかった。しかし僕はこの期において痛恨の一手損を犯した。坂田三吉の端歩突き、である。
C卓に落ちた第5期の期初にやらかしたミスは、とにかく現金残高は高かったから、乞われるまま人に100円を貸した。また僕のアタッチメント付き小型機械を、先ほどとは別の人に、これまた乞われるままに売った。いくら金があっても人に金を貸し、大型機械に200円を使えば資金繰りは楽でなくなる。
第5期の収穫といえば、所用にて席を外した家内の代わりに、西先生が僕と同じC卓でゲームをしてくださったことだ。それにしても、子とはいえ研究開発チップ4枚を持って26円の札を出し18円の入札とは、先生、いささかプライシングが安すぎはしないか。
2日間の激戦、これは本当に激戦と呼んでも良いもので、第5期A卓の全体売り上げは12,000円を超えた。そしてその激戦を制した者には表彰状が与えられる。
来期への備えなど、種々の条件を満たした上で参加者中最高の自己資本を達成した最優秀経営者賞は、堺市のモリモトシゲオさんが自己資本753で、また優秀経営者賞は、長岡市のバンドーシューコーさんが自己資本693で、また伊豆市のタケシトーセーさんが同646で、これを得た。
原稿用紙2枚ほどの感想文を書きながら、締めの挨拶をする。その内容はほとんど、先生と外部から参加の方々に対する御礼である。そして「第22回日光MG」は無事に完了した。
このあたりに特有の夕立は僕の想像どおり15分ほどで止んだ。東北新幹線で東京に向かう方々は、地元から参加のカタヤマタカユキさんが宇都宮まで送って下さるという。東武日光線を利用する先生や一部の参加者は、ウチのクルマにお乗せする。日光宇都宮道路の緑はいまだ目にまぶしく、秋の気配は感じない。
会社ちかくのファミリーレストランで、7名による打ち上げをする。そして東武日光線下今市駅に、その打ち上げの面々をお送りする。そしてプラットフォームで安堵のひと息をつく。
空は高く、僕は日光近郷の農家からしその実を買い入れている、そういう夢を見て目を覚ます。フロイトの分厚い本を読むまでもなく、この夢の意味は理解できる。本日から行われる「日光MG」を無事に完了させなくてはならないという重圧が、「日光MG」などとうに済んでしまった近未来の夢を見させたのだ。
指折り数えれば22回目になる「日光MG」は、上澤梅太郎商店の社員研修として始まった。外部から参加をされる例も徐々に増え、今回は全参加者34名中の半数が、遠くは九州や関西、中部、関東甲信越からいらっしゃる一般の方々だ。これらの皆さんには、その長い移動距離や出張旅費に見合うだけの良いこと、良いもの、良いひらめきを持って帰っていただけるよう、僕は心を砕く必要がある。
"MG"つまりマネジメントゲームは、2日間で5期分の経営を盤上に展開する。「こうすれば、結果はこうなる」という、いわゆる"How to"を教える研修とは、"MG"はもっとも遠いところにある。そして34名が一丸となって第1期、第2期、第3期と、ぶつかり稽古ようなゲームを展開する。
"MG"の2日間でもっとも大切なのは初日の夜。そしてその初日の夜の、西先生による"strategy account"の講義が終われば、後に控えているのは交流会だけとなる。そしてその交流会は大いに盛り上がり、僕が部屋に引き取った23時30分以降も数時間は続いたという。
「次男の宿題の終わるころ」と考え、夏休みの旅行は8月の下旬に設定した。このスケデュールはまた、会社の繁忙具合に沿ったものでもあった。しかしその割を食い、今月末から来月頭にかけての僕の予定は、1年を通しても例を見ないほどの過密さになっている。
午前10時40分に、西順一郎先生を下今市駅のプラットフォームにお迎えする。国道121号線から店の駐車場に8人乗りのレンタカーを乗り入れようとすると、神奈川の自宅から自家用車で着いたばかりの、イチカワアイさんの姿が見える。
事務室で小休止の後、西先生、イチカワさんに次男を加えた計4人でクルマに乗る。日光市街からいろは坂、中禅寺湖畔、竜頭の滝と過ぎて赤沼茶屋までは40分ほどの行程だ。そしてここにクルマを停め、戦場ヶ原の木道に足を踏み入れる。アドレナリンでも湧き出しているのか、あるいはタイの山歩きで筋肉がほぐれたか、疲れは感じていない。とにかく現在の自分の肉体の強さには、大いに助けられている。
西へ2キロほど進んで橋を渡ったところで、次男の背負ってきた弁当を昼食とする。夏の終わりの晴れた空には雲が広がりつつあるが、雨の来る気配はいまだない。湯滝の滝壺から階段を登って湯の湖畔に出る。ちょうど良い具合に来たバスに乗り、赤沼茶屋で下車する。
先生とイチカワさんにはしばし事務室にてお休みいただき、僕は下今市駅へ行く。浅草駅16:00発、下今市駅17:40着の下り特急スペーシアからは、ウチが主催する「第22回日光MG」に、九州、関西、中部、関東甲信越から参加して下さる方々が、続々と降りていらっしゃった。
この、列車で到着をされた方々のうち、モリモトシゲオさんと、モリモトさんの研究会"OSMC"に連なる方々は今夜、日光の研究会"web日光"と共に勉強を行うため、その会場へと向かった。僕は古くからの知り合いタケシトーセーさん、ナラリョウーさん、それから岐阜からお見えの若いキタガワシンジさん、ヨネヤマタカアキさんをクルマに乗せ、みたび会社に戻る。
閉店後は計9名にて夕食を摂り、「日光MG」の会場「日光ろまんちっく村」に移動をする。そして部屋で0時直前まで交流会を行い、入浴ののち0時30分に就寝する。
豪雨の隙を突くように離陸した"TG640"の中で、僕はタイ時間の2時15分まで日記を書き続けた。そして「もうこんな時間か」と、椅子の背もたれを倒し、脚を前席の下に長く突き込んで寝る姿勢を作った。タイ航空の機材に備え付けの毛布はフリース製でとても暖かい。そして物音に目覚めると、朝食が配られ始めていた。時刻はタイ時間の3時15分。睡眠時間は1時間弱である。
朝食は、そのほとんどを残した。そして機はタイ時間で04:35、日本時間で06:35に成田空港に着陸をした。朝一番のモーニングライナーに乗り、北千住からは09:41発の下り特急スペーシアに乗る。そして午前のうちに帰社して仕事に復帰する。
8月は家内の伯母が亡くなり、家内が喪主を務めた関係で、僕もそれなりに忙しかった。日常とは環境をがらりと変えてのトレッキングの後には、また忙しい日々が続く。
明日29日はマネジメントゲームの西先生たちと戦場ヶ原の縦断、30日と31日は上澤梅太郎商店が主催する研修「日光MG」、9月3日土曜日は製造係タカハシアキヒコ君と事務係タカハシカナエさんの結婚式、そして5日からは契約農家からの、しその実の買い入れが始まる。
目の回るような忙しさ、かも知れないが、僕などはまだまだ甘い。忙あれば閑あり、閑あれば忙あり。タイに引き続いて急がず休まず、この繁忙を乗り越えていきたい。
朝4時50分に目を覚ます。雨が降っている。きのうは次男は宿題、僕は自転車を借りて市内を探索と決めていたが、次男の宿題はともかくとして、僕の計画は強雨により実行できなかった。二度寝をして7時50分に起床する。
きのうと変わらず、ロビー兼食堂のコンピュータコーナーで日記を書く。芥子粒のような小さな蚊が多いため、足下には蚊取り線香が欠かせない。9時に次男を起こし、外へ出る。今朝方の雨は早くも上がっている。バスターミナルからパフォンヨーティン通りに出る。そしてきのうに引き続き「ナコンパトム」で朝食を摂る。
本日の15時過ぎにはチェンライを去らなくてはならない。ホテルのロビー兼食堂で次男が最後の宿題「数学関係の本を読み、その本の紹介を書いてくる」に取りかかっているあいだに、僕は部屋で荷造りをする。
今回の旅行には山地民族の家での2泊が含まれていた。出発前の情報によれば貸しシュラフの用意ありとのことだったから「人の使い回したシュラフなどで寝られるか」と、自前のものを持参した。ところがカレン族シームンの家のマットは意外や心地よく、シュラフなどは必要でなかった。
山中の寒さを予想して用意した長袖シャツも不要だった。更に次男の登山用雨具と僕のレインコートは「傘があれば充分だろう」と、チェンライのホテルに残置した。そしてその肝心の傘は、トレッキング中はシームンのトラックの中に置き放しにした。これら使わないまま持って帰るものを、苦労してトランクに収める。
2009年の初回以来、今回でようやくチェンライになじみとなった僕の経験からすると、この街で美味い飯屋は、バンパプラカンロードを、時計塔に背を向けて西に歩いた右の歩道沿いにある、牛汁麺の「ロットイアム」とおかず飯屋の「シークラン」だ。そのシークランに、チェンライ最後の昼飯を食べに行く。そして「シークラン、やっぱり良いよなぁ」と感心を新たにする。
「シークラン」は、僕の知るすべてのガイドブックに載っていない。興味のある人は、バンパプラカン通りと、イスラム寺院へと延びる"Isaraparb Rd."との交差点を目指して欲しい。なお「シークラン」と、カタカナをそのまま読んでも現地では通じない。「シー」と、唇の両端を左右に引きつつ口の中では「スリ」と、舌を素早く巻きながら発音すれば何とかなるだろう。
僕は、山小屋の、200円と表示のあるミネラルウォーターを指して「コンビニエンスストアの倍の値段じゃねぇか」などと文句をつけるような者ではない。しかし海外において、外国人として法外な値段を提示されたとき、それを唯々諾々と支払う気もない。
23日にこの街に入ったとき「バスターミナルから空港までソンテウはあるか、なければ、トゥクトゥクで空港までの料金はおおむね幾らか」と、この街に暮らす人に訊いてみた。答えは「通常は200バーツ。でもふたりなら300バーツと言われるかも知れない」とのことだった。また今朝、ホテルのフロントに同じことを訊くと、こちらは即座に「空港までのトゥクトゥク代は200バーツ」と答えた。
昼飯の後はホテルに戻り、次男はフェイスブック活動、僕は日記を書いたりしてすこし休む。そして13時30分にホテルを出て、次男にトランクを押させて目と鼻の先のバスターミナルへ行く。我々の姿を認め手招きをするトゥクトゥクのオジサンに「パイ、サナビーン、タオライ」と、空港までの値段をタイ語で訊くと、意外や150バーツだという。20キロ以上はあるトランクを、オジサンは客席の足下に載せてくれた。
過去の経験から、海外での非公共交通機関には、僕はあまり良い思いを持っていない。よって今日の運転手も、旧空港に連れて行って「え、ここじゃない?」などととぼけたり、あるいは空港に着いてから「150バーツがふたり分で300バーツね」などと言い出すのではないか、と疑いつつ客になった。
とはいえトゥクトゥクは、アジア南部の一部でしか利用することのできない楽しい乗り物だ。風を切る爽快さは、空が晴れていれば更に増す。それにしても、空港への道が、僕の知るそれとはずいぶん違う気がする。目的地までの距離を示す道路標示はタイ語のみだから僕には読めない。トゥクトゥクは緑の中の一本道を、エンジンの焼ける匂いを車体の下から吹き上げつつひたすら直進する。
やがて行く手に見慣れた空港が近づいてきた。空港の建物の脇にトゥクトゥクを停めるとオジサンはエンジンを切り、我々のトランクを降ろす。約束の150バーツを渡すと「コップンカッ」とオジサンは笑った。
これまでは、チェンライからチェンマイまで陸路で移動することが常だった。チェンライ空港から飛行機に乗るのは今回が初めてだ。いつもは夜に着いてそそくさとクルマに乗ってしまうから、この空港の様子を詳しく見ることはなかった。そしてここにある店は、チェンマイ空港のそれよりもよほど充実していることを知る。書店"BOOKAZINE"の、建築美術関係本の品揃えは特に興味深かった。
"TG135"は晴れたチェンライ空港を15時31分に離陸し、定刻より早い16時34分に、雨のスワンナプーム空港に着陸した。バンコクの企業で働く同級生コモトリケー君に電話を入れ、到着ロビーを出たところで無事に合流をする。
週末と大雨が重なって発生した道路の渋滞により、晩飯の場所は二転三転した。そして結局はシーロム通りの"BANANA CLUB"に落ち着き、ビールを飲む。次男は小さなころから香り野菜と香辛料と酸味を好んできた。つまりタイの料理ほど次男の味覚に合うものはない。初めて食べたパッタイについても「衝撃的な美味さ」などと喜んでいる。「タイはやっぱり良いよなぁ」と、僕はひと息をつく。
コモトリ君にはマッカサンの駅の改札口まで送ってもらった。ここから20:25発のエアポートエクスプレス各駅停車に乗り、およそ25分でスワンナプーム空港に着く。
"TG640"は豪雨をやり過ごすための待機により、定刻に45分遅れて22時55分に離陸をした。機内では日本の新聞をすこし読み、次いで本日の日記を書き始める。
きのう遅寝をしたお陰、というのも何だが、今朝は4時50分まで眠ることができた。ロビーに降りると、フロントのカウンターの中と、コンピュータ2台を置いたインターネットコーナーのみが明るい。この場合には不寝番とは呼ばないだろう、深夜担当の従業員は、玄関すぐ内側の蓮台に毛布をかぶって眠っている。
「これは最高の環境だわ」と、部屋へコンピュータを取りに戻る。そしてインターネットコーナーで、いまや既に一昨日となってしまった24日の日記を書く。夜半に降り出したと思われる雨は、朝を迎えて強まるばかりだ。
8時10分に起こして欲しいと言っていた次男に、8時30分まで待って声をかける。雨が小降りになったところで傘を差し、外へ出る。パフォンヨーティン通りの水は嘘のように消えていた。
向かい側の歩道に渡って「ナコンパトム」に入る。次男はバミーナムを頼み、僕はカオカームーを注文する。そのバミーナムをひと口するるなり「美味い」と次男が目を見開く。「だからオレは、ホテルの朝飯は食いたくねぇんだよ」と言うと「なるほど、こういうことだったのか」と、何事かが腑に落ちたように次男はつぶやいた。
朝食の後はホテルのロビー兼食堂にて昼過ぎまで、次男は「夏休み報告書」の清書に、そして僕は取引先とのメイルのやりとり、そして今日の昼までの日記を書くことに費やす。
西の方から空が明るくなり始める。雨はほとんど上がった。傘を持って、しかしそれを差さないままを手に持って大通りへの道を歩く。そしてきのうの洪水騒ぎのときに店員と顔見知りになった、"iPhone"や"iPod"、それにスマートフォンのケースばかり数百種もそろえた店で、次男の"iPod"のケースを買う。
「ロットイアム」の牛汁センレックは、パクチーを長葱に替えるだけで日本の牛肉うどんになってしまうほど違和感がない。その「ロットイアム」から「ワットムーンムアン」までの道は、市場に紛れ込めば自然に辿れてしまう。はじめのうちは衣類ばかりだった両脇の店が乾物に変わりはじめたあたりで次男が異臭を訴える。乾物の中に沢蟹の塩辛などが混じり始めると次男が指で鼻を塞いだから「そういうことはするんじゃねぇ」と注意をする。
それでも次男が吐瀉でもすればとんだ営業妨害になるため、早々に市場を抜ける。古いグレッジングがへし曲がり、コンクリートの崩れたくぼみに魚の洗い水が流れているような市場は僕も好きではないが「こういうところにも来なきゃいけねぇんだよ」という気持ちがあるから、つい市場には足を踏み入れることになる。
「ワットムーンムアン」の本堂の階段を上がり、靴を脱ぐ。金色の大きな仏像の前に並ぶロウソクのうちの1本に火を点ける。そして日本から持参した線香にその火を移す。「ワットムーンムアン」の線香立ては、我々の上げた線香だけで一杯になった。威勢良く上がる煙に満足をし、手を合わせる。仏像に手を合わたのではない、その先にあるものに手を合わせたのだ。ワットムーンムアンには、意外や賽銭箱は見当たらなかった。
ホテルへの帰りにセブンイレブンに寄る。次男の選んだタイ製インスタントラーメンやレッドブルと共に、冷蔵庫から出した"Smirnoff"の小瓶をかごに入れる。それをレジに持って行くと、女の子はラーメンとレッドブルの料金のみを計算し、ウォッカの瓶は自分の背後の棚へ置いてしまった。そして黙って壁の紙を指す。
張り紙には「14:00から17:00の酒類の販売はできません」というような意味の英文があった。「今の時間はアルコールが買えないんですか」と念のため訊いても、レジにいた3人の女の人は曖昧な顔をするだけだ。タイは大方のところで緩いと感じるが、酒とタバコについては日本より厳しいところがあるようだ。
パフォンヨーティン通りからホテルへの道の右側にある、きのう洗濯物を託した洗濯屋に、洗い上がったものを受け取るために寄る。オバチャンはニコニコしながら「いきなり洗濯機に入れるわけにいかないものもあって、最初に水でゆすいだのよー」というようなことを言っているらしい。僕は「汚かったでしょ、トレッキングに行ってたの。ごめんねー」というようなことを、恐縮している様を顔に出して謝る。
タイの街場の洗濯屋は、洗濯物の重さによって料金を決める。僕が頼んだ店は1キロで35バーツ。きのうの計量では2.8キロで、これは3キロの範疇に入るらしい。そしてタオルやシャツにアイロンを当てたオプションも含めて請求は150バーツだった。コツコツと細かい仕事をし、金を貯め、あるいはローンで新しい洗濯機や乾燥機を買い増し、少しでも多くの需要に応えようとする。僕が尊敬すべき人は、市井のそこここに、いくらでもいるのだ。
部屋でひと休みしたらまたロビー兼食堂に降りて、僕と次男それぞれの作業を、また始める。僕と次男がタイでいちばん長く見続けた風景は、あるいはホテルの前の、ありきたりな裏通りかも知れない。
夕刻になって、いまだコンピュータのエディタと原稿用紙のあいだで格闘している次男を残し、カメラを持って街の写真を撮りに出る。今朝方の大雨は夢の中の出来事だったように空は晴れ上がり、気温は30度ちかくまで上がっている。タイの空と雲を、眼とカメラに記憶させる。
18時を大きくまわったころ、次男はようやく原稿用紙7枚の「夏休み報告書」を書き上げた。即、ゴム草履をブーツに履き替え外に出る。
鍋好きの次男はタイスキを食べたがったが、パフォンヨーティン通りからワンカムホテルへ抜ける道の右側にある鍋屋は、それほどそそる店でもなかった。次男が次に食べたがったものは豚三枚肉の唐揚げである。よっておかず飯屋のあるバンパプラカン通りを目指す。
チェットヨット通りからバンパプラカン通りに出ると、外国人観光客ではない、タイ人が歩道に集まって、この街のほぼ中心に位置する時計塔にカメラを向けている。時刻はちょうど19時。するとタイ寺院の屋根飾りによく見られる炎か水煙のようなデザイン、そして金色に塗られた大きな時計塔は鐘を打ち、様々な色でライトアップをされ始めた。
「へぇ、この時計塔、地元の人にも人気なのかな、それともここにいる人たちは、タイ人にしても、どこかからチェンライに来た人たちなのかな」と言うと「こんなものにお金をかけるなら、街にもうちょっと信号機を増やして欲しいよ」と次男があきれた顔をする。僕もまぁ、同感である。
空港の方角つまり北から降りてきたパフォンヨーティン通りがあるところで西に折れ、次は南に折れる、つまりクランク状になっていることが「地球の歩き方」などでは地図の見にくさにつながっている。とにかくパフォンヨーティン通りと混同されやすいバンパプラカン通りを、時計塔を背にして西に歩くと、右側の歩道沿いに「ラチャブリー」「ペチャブリー」「シークラン」と、3軒のおかず飯屋が連なっている。
この時間になると、これらのおかず飯屋のバットに盛られた総菜の数は徐々に減り、残りのものも早いうちに売り切ってしまおうという空気が店員のあいだに濃くなる。それら3軒のショーケースを歩道から見ていくと「ペチャブリー」に、次男の目指す豚三枚肉の唐揚げはあった。よって他にも2品ほどを選び、席に着く。
「ペチャブリー」では野菜による総菜が売り切れていたところが残念だった。まぁ良い、僕は来月もこの街に来ることができるのだ。そのときにはまた「シークラン」でキャベツと豚皮の煮込みを愉しむことにしよう。
今年の春のヴェトナム旅行では「ホビロンを食べる」という課題が次男にはあった。アヒルの、ヒヨコになりかけの有精卵を茹でたホビロンは、ライム汁と塩と唐辛子粉を振りかけて中々の美味だった。我々はホーチミンシティの貝屋台で、これをバクバクと食べた。チェンライでは虫、である。
今や通い慣れた、ナイトバザール横のフードコートは、夕刻から大雨のあったきのうとは異なり、大勢の客で賑わっていた。広場を取り囲むようにしてあるブースに、もっとも美味そうな虫を売る店を探す。初日の夜はそれを見るなり「ウー、ダメダメダメ」と顔を背けた次男にも、いくらかは耐性がついてきたらしい。
日本では竹虫とでもいうのだろうか、こちらではロットドゥアンと呼ばれる芋虫が、今年はなぜかどこにもない。よって日本のものよりは小さなイナゴを1皿、そしてこちらは日本のそれよりもずいぶんと大きなコオロギ1皿を買う。そして別のブースでシンハビールの大瓶1本も買う。
イナゴは何しろ小さいから、いくらつまんでも食べきれない。コオロギの方は1匹を残してすべて僕が平らげてしまった。次男はようようイナゴとコオロギを1匹ずつこなす。
酒類販売禁止時間を外して買い直したスミノフのソーダ割り、そして先ほどのビールが効いたか、ホテルに戻るころには既にして眠気に襲われていた。よってこれからフェイスブック活動をしようとする次男をロビーに残し、部屋に戻って即、就寝する。
闇の中に目を覚まし、枕頭にヘッドランプを手探る。時計を見るときのうの目覚めよりも早い、午前1時20分だった。トイレに起きた次男とふたことみことを交わす。すると階下から懐中電灯を持ったシームンが上がってきて「腹でもこわしましたか」と訊く。「いえ、小便をしたたけです」と答えると、シームンは頷いてテラスの階段を降りていった。
きのうの夕刻に点けた蚊取り線香の火が消えている。箱から新しいものを取り出し、火を点ける。蚊がひどい、ということもないが、ここへ来てからは、まるでチェーンスモーカーのように蚊取り線香を焚き続けている。1982年にスリランカ最南端ウナワトゥーナの民宿でも経験をしたことだが、現地の人は蚊に刺されない。刺されるのは僕ばかりである。
足にキンカンを塗り、闇の中でじっとしている。4時50分に一番鶏が啼く。腹ばいで本を読むには限界がある。きのうとおなじく6時に起床し、蚊取り線香をテラスに移して本を読む。山の、低いところまで霧が降りている。
シームンの奥さんと長女が、北部タイ式のちゃぶ台で朝食を摂っている。我々は同じテラスでもすこし離れたところにある机でカオトムを食べる。今朝のカオトムには干しエビが加えられている。その干しエビは日本の桜エビとは異なり、すこし発酵をしている。その発酵臭が、このお粥に独特の風味を加えている。
台所と、食事をするテラスを隔てる竹の壁に、今月のカレンダーが竹の棒で留めてある。家内の、8月のはじめより「この2、3日以内に、ということも充分にある」と診断されていた伯母は、迎え盆の13日に亡くなった。伯母の亡くなる日によっては、6月から計画していたこの旅行も中止せざるを得なかった。
お盆には斎場も休みになるらしく、伯母のお通夜は19日に、告別式は20日に行われた。そして僕と次男は22日に日本を発ち、今はタイ北部の小村にいる。タイに来られたことを感謝して、チェンライではお寺参りをしようとは、日本を出る以前から考えていたことだ。
シームンの運転するトラックに乗り、2泊した高床式の家を後にする。家の数はせいぜい十数軒と思われるこの村の名前は「パコラ」と聞こえた。人間所詮、立って半畳、寝て一畳。持ちきれないほどの物を所有維持し、背負いきれないほどのあれこれを保つために神経と肉体をすり減らしている日本人も、このようなところに納得して暮らすことができれば、気はかなり楽になるのではないか。
その周辺が観光地のように整備されている"Phaseot Hot Spa"で、ちょうど良い湯加減のプールにつかる。この時期はヒマとみえて、温泉のオネーサンも温泉を楽しんでいる。あるいはこれは、温泉旅館の板長が、客よりも先に一番風呂に入るようなものかも知れない。
来た道をすこし戻り、赤土にステップの切られた斜面を下る。その斜面の下からコック川を舟で渡り、エレファントキャンプに上陸をする。エレファントライドはまぁ、話の種、くらいのところのものだった。山中での泥との格闘や天上のテラスの涼しさにくらべれば、すべての色は薄れてしまうようにさえ感じる。
午前のうちにチェンライの"The North Hotel"に帰着する。初日は3階のダブルベッドひとつの部屋だった。今日からは2階のツインである。
昼前にホテルを出て、時計塔からすこし西、バンパプラカンロードからイスラム寺院に入る角のおかず飯屋「シークラン」へ行く。この店の、キャベツと豚の皮の煮物はやはり美味い。それにしても、昨年と同じテーブルで、今年は次男とふたりで飯を食うなどは、思いもよらないことだった。
午後の5時間はホテルのロビー兼食堂にて、次男は「夏休み報告書」の作成に、僕は23日に送った仕事関係のメイルの確認、洗濯物を洗濯屋に運ぶこと、溜まった日記を書くことに費やした。
夕刻より、かなり強い雨が降り始める。19時までに止まなければ、いくら雨がひどくても傘を差して外へ出ようと、次男と決める。そして雨はいつまでも止まない。
僕は飯時の酒は、ビールだけでは収まらない。セブンイレブンでウォッカを買おうと、ホテルのある裏道からパフォンヨーティン通りの見えるところまで来て、次男と一緒に大驚きをする。白いパッツンパッツンのスーツを着たオネーサンを多数待機させているエスティックサロンの角から、タイ航空の前を通り越してバスターミナルの入り口まで、つまりチェンライの目抜き通りに水があふれ、まるで川のようになっている。
その、パフォンヨーティン通りの横断を諦めたということは、つまりウォッカの購入を諦めた、ということだ。押し寄せる泥水を土嚢で防ごうとしている商店の前を、まるで飛び石を伝うようにして歩き、ようやく、観光客を相手にしている、チークの建物を持つフードコートまでたどり着く。しかし我々の目指す、黄色いペコペコの机と椅子の並べられた地元民用のフードコートへ行くには、またまた別の、膝下まで冠水した道を渡らなければならない。
「きのうに引き続いて今夜もムーカタだ」と勢いづいていた次男は道の様子を見て「お父さん、もう良いよ、ここで食べよう」と、早くも転進を示唆する。このような非常時には次男の判断の方が正しい。しかしチェンライまで来てファラン相手の店でサンドイッチを買うなどは、僕の意地が許さないのだ。
そして別の道を探し、ようよう「黄色いペコペコの机と椅子」のフードコートにたどり着く。ムーカタを売る店は、ステージに向かって右側奥から5軒目の店だ。さなぎの素揚げなど売っているから目立ちづらいが、皿に盛った、豚の三枚肉が目印である。
客のほとんどいないフードコートでムーカタを食べていると、いささか薹は立っているものの、恥ずかしそうに、控えめな態度で、そして可愛らしい英語で「そのお料理、どこで売ってるんですか」と訊く女の人がいる。よって当該の店を指し「奥から5番目、ランプの傘が赤と青のお店、ムーカタは99バーツ」と教える。そして「オレたちもタイ人にムーカタの店、訊かれるようになっちゃぁ本物だな」と、本日最初の与太を飛ばす。
しばらくして後ろを振り返ると、遠いところでその女の人と男友達が、ふたりでムーカタを食べていた。女の人は僕の視線に気づき、照れて笑っている。そして「今日のチェンライで可愛かったのは、あのネーチャンと、それから昼間の洗濯屋のオバチャンだな」と、本日2度目の与太を飛ばす。
雨は弱まったが、ナイトバザール周辺の水はいまだ引かない。そしてホテルに戻り、ツイッター活動やらフェイスブック活動やらをして23時すぎに就寝する。
午前1時30分に目を覚ます。外の田んぼに聞こえる虫の声は穏やかだ。蛍の飛ぶ川の水音も耳に届いてくる。そうしてしばらく闇の中に横たわり、2時30分よりヘッドランプを点けて本を読み始める。胸の下に枕を入れて1時間ほども腹ばいでいると、腰が痛くなる。二度寝をして浅い夢を見る。
5時45分になると、ヘッドランプが無くても時計の文字盤が読めるほどにあたりが明るくなってくる。夜中に火を点けた蚊取り線香を持ってテラスに移る。
近藤紘一の「目撃者」は重いから、ザックには文庫本1冊を入れてきた。明日の目覚めも早いだろう。この文庫本を読み終えてしまえば明日の明け方に焦燥すること間違いない。靴が濡れたら丸めて中に詰めようと、日本から持参した朝日の"GLOVE"、それにタイ航空の機内から持ち出した日本経済新聞の22日の朝刊を、文庫本の未読活字を温存するために読む。
伊集院静による、ほとんど競輪のことしか書いていない、締め切りに追われ、時には酒や寝不足により朦朧とした頭で書かれ、推敲などほとんどしなかったに違いないと思わせる荒さも所々には目立つ随筆を温存するため、その代替品として新聞を読む。一流紙の記者には聞かせられない話である。
きのうの山中での悪戦苦闘により汗に濡れ、泥に汚れた服は、ここに着くなりテラスに差し渡された竹竿や手すりに干した。それらの衣類やタオルは12時間を経て、乾くどころか更に湿り気を増していた。雨期タイの湿度恐るべし。あるいは夜半に霧でも降ったのだろうか。
11時間も眠った次男は母親に連絡をしたいと、成田で借りた携帯電話をポケットに入れ、シームンの運転するオートバイの後席に乗る。すこし先の峠まで出れば"You can get signal"なのだという。そして次男は間もなく「お店にかけたらハセガワさんが出てさ、お母さんはお寺にお金を払いに行ったんだって」と言いながら戻ってきた。
シームンが"rice soup"と説明した朝食は卵の入ったカオトムだった。ボウル1杯のそれを食べ尽くすと、食後のコーヒーも飲めないほどの満腹になった。そして次男は「9時20分まで」と、ふたたびマット型の寝床に横になる。
「2日目のコースは楽なものにしよう」とは、きのうの夕食時にシームンに伝えたことだ。すると彼は「だったら滝とお茶の畑を見に行きましょう」と提案をした。ところが今朝は食事の後から雨が降り始め、なかなか止まない。そして「滝と茶畑は午後からでも良いんじゃないかなぁ」ということになる。
次男に残された夏休みの宿題は、数学に関する本を読んでの感想文と、もうひとつは夏休み報告書だ。そのうちの夏休み報告書のための下書きを、次男は朝寝から覚めてより数時間、台所のある棟の机で書き続けた。
昼が近づくころ、シームンは自分の家の畑から、ワラビに似た野菜、それにかなりしっかりした節を持つ野菜の2種をボウルに収穫してきた。そして奥さんに頼むでもなくみずからこれらを調理し、台所とは竹の壁1枚で隔てられた食事場所に運んできた。摘んで20分もしないうちに火にかけられた野菜である。不味かろうはずがない。
「滝と茶畑は、無理して行くこともないんじゃないかなぁ」と、当方は段々と怠惰になる。シームンは"Up to you"と笑った。次男は午後のほとんどを昼寝に充てた。一体全体どれほど眠れば次男の脳と肉体は充足するのだろうか。
夕刻に、目の前の舗装された農道を、きのう山から降りてきた場所を目指して上ってみる。茶の間兼応接間としてのテラスを持つデザインは共通であっても、その面積、高床を支える柱の太さと高さ、屋根や壁の材料の違いにより、家々には貧富の差が如実に表れる。中には中世の日本にあっても不思議ではないような、草葺きの小さな家もある。そういう景色を眺めながら散歩をし、ふたたび道を下る。
夕食はムーカタだった。ムーカタとは兜を伏せたようなジンギスカン鍋の縁の部分を広く深くし、上の部分では焼き肉を、縁の部分では水炊きをする、タイ人が韓国の焼き肉をヒントに編み出した、いまだ歴史の浅い食べ物だ。
「これ、食べたかったんだよー」と僕は思わず口に出し、肉好きの次男は「おぉ、肉」と目を輝かせる。そしてそのムーカタはやはり美味かった。我々が肉を1片でも口に入れると「はやく次の肉」「はい、裏返して」と、シームンはかなりの鍋奉行である。よって我々の腹は瞬く間に満ちていく。
シームンの家の敷地には彼の父母の家、台所と食事場所としてのテラスを持つ棟、そしてシームンの家族や我々の寝る、伝統的な設計ながら堅固な棟、そしてやはり高床式の納屋がある。きのう知ったことだがシームンは1964年の生まれ。そして新しい棟の建造年を訊くと1998年だという。「34歳でこんなに大きな家を建てたって、凄いよねぇ」と、本心から彼を褒める。
「蛍を見たのはきのうが生まれて初めて」と言った次男をオートバイの後席に乗せ、シームンはどこかに去った。僕はビールと焼酎に酔って、シャワーを浴びたか浴びないかも定かでないまま、きのうとおなじ7時30分に寝床に倒れ込む。
午前3時55分に目を覚ます。ひとりであればさっさと部屋の明かりを点けて本を読むなりコンピュータに向かうなりするところだが、同行者がいては、そうもいかない。
6時すこし前からあたりが明るくなり始める。最上階の5階まで上がると"Wiang Inn Hotel"が間近に見える。チェンライの街の中心にあって、ふたりで泊まっても価格は1泊400バーツ台。それが、我々の泊まっている"The North Hotel"である。
ゴム草履を突っかけて外に出る。すぐちかくに40メートル×60メートルの面積の市場を見つける。そのような場所につきものの屋台では、早くもおじさんたちが油條を食べながら何かを飲んでいる。
チェンライに残置するすべての荷物をトランクに入れ、鍵をかけたところで家内から着信がある。「メールを読んでいただけましたでしょうか」という電話が取引先からあったという。今しがた仕舞ったコンピュータをトランクから出しフロントのwifiに繋ぎ、必要なことはgmailのアドレスに再送してくれるよう頼む。
我々は本日より2泊3日の予定で山に入る。カレン族のガイドは約束の9時30分より早くホテルへ迎えに来てくれたが、仕事のメイル騒ぎで待たせることになってしまった。9時38分に、ホテル前から4人乗りのピックアップトラックで出発をする。
ガイドによれば、途中で1日コースの客を拾う、その客は先ず舟でコック川を遡上する、舟は我々のコースと一部重複する、だからあなた方もはじめの1時間は舟に乗ってはどうかと提案され、一も二も無く同意する。
雨期の茶色い水を満々と湛えた船着き場より、9時50分に舟に乗る。数日前の日本の川下りの事故に鑑み、こちらから要求をして救命胴衣を身につける。9時57分、舟は僕の普段の定宿である"Dusit Island Resort"に横付けをされ、ふたりの客を迎える。
タイの舟は舷側から水面までが極端に近い。ベンチ脇に置いたミネラルウォーターの瓶に泥水のしぶきがかかる。右も左も熱帯雨林の緑また緑。空は青く、雲は白い。大昔の火山活動ででもできたのだろうか、地面からいきなり釣り鐘型に盛り上がった山が散見される。
10時42分、とある船着き場で我々ふたりのみが舟を降ろされる。先ほどのカレン族ガイドがトラックを停めて我々を待っている。そのトラックに乗り込み付近の地名を訊けば「ポンナーカム。ポンは温泉、ナーは田んぼ、カムは金の意」と説明をされる。付け加えれば、我々の意思の疎通は英語による。
ガイドの通称シームンが、山道に入りかけたところでトラックを停める。「ザックはトラックに残置し、舗装道路を1キロばかり歩いてくれ、その地点に自分はオートバイで送ってもらう」と言う。貴重品の扱いについて訊ねると「トラックに残して問題はない」と答える。よって僕と次男はタオルとお金とカメラ、それに水くらいを持って、これまで走ってきた道から左にそれた舗装道路を歩き始める。
クルマに踏みつぶされたらしく道路に長々と横たわるブラックキングコブラを「ちゃんと死んでるんだろうな」などと注意深く迂回しながら10分ほど道を上がっていくと、なるほどシームンは程なくして、長女という女の子の運転するオートバイの後席に乗って我々に追いついてきた。
やがて我々は舗装路から左に逸れて、乗用車にはきついが地上高の高い四輪駆動車であればまだ走ることができそうな赤土の道に入る。
しばらく進むと、普段はせせらぎほどの流れが雨期のため増水し、川のようになった場所に行き当たる。シームンは慌てず騒がず近くの竹を山刀で伐り、それを一本橋にして先ず自分が、次に我々を渡らせる。丸い竹の上で足を滑らせれば、面倒になることは必定である。
トウモロコシを収穫する農家の人々が、大盛りのぶっかけ飯を昼食としている横を通り過ぎる。しばらく進むとシームンが我々を振り返り"The big problem,strong rain is coming"と、珍しく真剣な顔をする。そしてその雨は間もなくやってきた。我々はシームンの持参した雨具を着用し、バナナの葉の下でしばし雨の通り過ぎるのを待つ。
雨の弱まった頃合いを見計らって、また赤い土の道を進み始める。その道の先は、このところの強い雨によるものか、土砂崩れにより土に埋まり、その土を大型のトラクターが崖下に落としている。シームンは道をはずれて棚田の畦道に足を踏み入れる。そして農民が休憩をするための、屋根を草で葺かれた高床式のテラスで昼の休憩となる。
シームンがリュックサックから取り出した、油紙の包みは不気味に見えたが、それを開いてみれば中身は鶏飯カオマンガイで、それはパクチーの軽く香る塩味のスープ共々、至極美味かった。そして我々の行程が楽だったのは、実はここまでのことだった。
シームンの先導により我々は棚田を離れ、その上に広がる、バナナと陸稲の植えられた斜面の直登に入った。空は既に晴れている。雨具は先ほどのテラスで脱いだ。山道ではない、踏み跡もない、畑の中をあえぎあえぎ登るうち、先ほどトラクターの動いていた道がみるみる眼下に遠くなる。
バナナと陸稲の畑の尽きるまで登ると、今度はその斜面を右に折れて、まるで獣の足跡をたどるような細道に入る。菖蒲に似て、しかし笹のような鋭さを持つ葉が半袖シャツを着た両腕を傷付けようとする。シダよりも葉の規則正しく並んだ、しかし茎に細かい棘を密集させた草が、ズボンの裾をとらえて行く手を阻む。
右にも左にも外れることのできない細い道に、大きな糞が落ちている。それは牛の糞だとシームンが言う。雨上がりの泥の道に牛の糞は半ば溶けかかり、僕と次男のズボンの裾は、泥とも牛の糞とも分からないものでたちまち汚れる。時折は広くなる、しかし大方は細い鞍のような狭い場所で牛を放牧させているのは、どこの誰なのか。
細道に設けられた、牛を逃がさないための柵を乗り越え遂に疲れ、しばし休ませてくれとシームンに頼む。数分の休憩の後、ふたたび森の中の細道を登る。シームンは時おり腰から山刀を抜き、行く手を阻む草を薙ぎ、枯れて頭上に倒れかかった何本もの竹を伐り避けながら進む。これはトレッキングではなく、実はジャングルウォークとでも呼ぶべきものなのではないか。
梢の上に、更に上の梢の緑ではなく、空の青い色が見えるたび「あぁ、これで登りは終わりか」と安堵をする。しかしそのたびシームンは右や左に方向を転じ、するとその先にはまた上り坂が続いている。濡れた赤土に靴は滑り、この半日で腹の脂肪が削げてしまったか、やたらとズボンが下がる。そしてその下がったズボンの裾をブーツの底が踏み、ますます僕を疲弊させる。
ようやく尾根に出ると、目の前に小さな集落が現れた。ラフ族の部落だという。「ここで30分くらい休めねぇかな」と思わず口走ると「1時間でも大丈夫」とシームンが太鼓判を押す。我々は高床式の1軒のテラスに倒れ込み、そして犬や猫と共に涼しい風に吹かれる。
雨、泥、その泥に滑る靴底、肌を傷付けズボンの裾にまとわりつく草、頭上に倒れかかる竹、その竹を屈んで通り抜けようとして更に悲鳴を上げる太ももとふくらはぎ。それらのことを考えれば、犬や猫が我が物顔に跋扈しても、そこはまさに天上のテラスと呼ぶべき空間だった。我々はここで1時間ほども昼寝をし、そして元気を取り戻した。脱いだブーツをふたたび履き、強く靴紐を結ぶ。
このあたりの山道は、傾斜を緩くするためつづら折りにすることをせず、工事の手間を惜しんだか、直登直降の急坂が続く。そんな坂を「タイの演歌といえば、やっぱりイサーンが本場なんですか」「そりゃぁ、もう」などという会話を交わしながら下っているうちは楽だった。午前の疲労も昼寝ですっかり回復したと考えていた。しかしそれは甘かった。
ひとつの尾根がすべて陸稲に覆われている。その隣の尾根にはトウモロコシ。我々があえぎつつ登り降りしている山を、農民たちは耕し、種を蒔き、草取りをし、そして収穫をし、その収穫したものを袋に詰めて担いで家まで持ち帰る。その肉体と精神の強さを僕は畏敬する。
1本の陸稲も踏みつぶさないよう、その斜面を下る。すると今度は目の前に、この数日以内に土砂崩れを起こしたらしい、赤土の、登山用語で言えばルンゼ状にえぐり取られた渓が現れる。雨水をたっぷり含んだ、非常に滑るその渓を越えれば今度はまた増水によって幅を増した川を、石を飛んで渡る。そしてまた、山刀で草を払わなければ進めないようなケモノ道の上り下り。
午前中は僕の息が上がったが、日が傾くに従って次男が疲労の色を濃くする。「この春の遠足の、八ヶ岳の縦走の方がよほどハードじゃねぇか」と不審に思えば「行程とすればそうかもしれないけれど、この暑さが何とも」と、次男は顔をゆがめる。
熱帯雨林の湿熱、恐るべし。湿度が高ければ汗は発散されず、体温は上がったまま下がらない。わざわざ選んだ、汗を良く蒸発させるというメッシュ状のシャツも、ここでは通用しない。そして我々はようやく山を下り、棚田の中の草葺きテラスで本日何度目かの休憩に入った。
僕と次男を疲れさせている原因のひとつは「先が見えない」ということだ。これから待ち構えているのは登りなのか下りなのか、密林なのか尾根なのか、テラテラと光る湿った赤土の道なのか、それともバランスを崩したら谷に落ちてしまいそうな細道なのか。
しかしこの、日の陰りゆく中での一服は、幸いにも本日最後の休憩だった。棚田の、幅20センチほどの細い畦道を進んでいくと、やがてその先に電信柱が、そして舗装された農道が見えてきた。人里、である。
「こういう道に出てホッとしている自分が情けねぇよ」「でも、オレもホッとしてるよ」などと話しながら更に道を下っていくと「アレ、マゴ」と、少ない日本語の語彙を尽くしてシームンが、いまだ2歳にならないほどの女の子を指す。そこがシームンの家だった。
昼寝をしたラフ族のそれと同じ構造のテラスで冷えた水を飲ませてもらい、人心地がつく。その勢いはチョボチョボと心許ないながら、意外や温水の出るシャワーで汗を流し、汚れに汚れたズボンをテニスパンツに履き替える。日本でいえば茶の間兼応接間として使われるテラスで、いつの間にかシームンがオートバイを走らせ買ってきたビールをグゥーッと飲む。
「大豆を強く発酵させた調味料、使っても良いですか」「そんなのヘーキ、ヘーキ、オレたちは何でも食いますからー」
この旅行に出る前に「山地民族の家に泊まる? 自分にはぜっーったい無理」と言った人がふたりいた。しかし今日の山での悪戦苦闘を考えれば、竹を編んだ高床にあぐらをかいてビールが飲めるなど、贅沢中の贅沢である。 そして台所の囲炉裏で作られたおかずはすべて美味かった。
日のすっかり暮れたころ、シームンの家から百メートルも離れていない川沿いに「みつよつ、ふたつみつ」と清少納言のように蛍を愛で、戻って19時30分に就寝する。
これまでとは異なる路線に山本寛斎デザインの車両を走らせる新しいスカイライナーについては、あちらこちらで目にする宣伝に「日暮里から成田まで36分」とあるから、これは京成上野からは乗れないものとばかり思い込んでいた。ところが昨夜、あらためて京成電鉄のウェブペイジを訪ね、始発は京成上野であることを知る。
「日暮里から成田空港まで36分」の「成田空港」とは空港第2ビル駅のことで、しかし過半の航空会社は、終点の成田空港駅の真上にある第1ターミナルにカウンターを持つ。というわけで「日暮里から成田まで36分」のコピーは、僕の常識からすると、ちとあざとい。
「ABC空港宅配」のカウンターで、2日前に送ってあったゼロハリバートンのトランクを受け取る。ついでに次男用の携帯電話も借りる。ショルダーバッグからパスポートと搭乗券を出したり入れたりしながら43番ゲートまで移動をする。窓の外には"ANA"の飛行機が駐まっている。そして「あぁ、またスターアライアンスか」と、すこしばかり落胆をする。
しかしいよいよ搭乗口が開かれ、チューブ状の通路を歩いて行くと、小さな窓の先にはタイ航空の印を持つ尾翼が見えたから「あぁ、良かった」と、今度はすこしばかり嬉しくなる。
"TG643"は定刻より18分遅れて12:18に離陸をした。機は1分も経たないうちに低く垂れ込めた雨雲の中に紛れ込み、それから3分後には、その雲を突き抜けてまばゆいばかりの青空に浮かんだ。
本日のこの便は満席のため席を自分で選ぶことはできなかった。しかし機内に入ってみれば我々の席は最後尾ちかくの窓際に2席の並んだところで、ここは僕にとっては最上の位置である。"Boeing 777-200"は前席のバックレストにモニターを備えていないが、特段の不便もない。
離陸して30分。最後部のギャレーからココナツミルクと複数の香辛料、それにハーブが匂ってくる。「後ろに行ってきてみろよ」と次男に言う。「最高だね」と席に戻って次男が笑う。「あれがタイの匂いだよ」と、自分が機内食を作ったわけでもないくせに、僕は得意になる。
15時18分、左の眼下に小島が見える。17時02分、ダナンの海岸線からヴェトナム上空に入る。太平洋上は晴れていたが、インドシナ半島には雲が多い。僕はいつもの東南アジア行きと変わらず近藤紘一の「目撃者」を読む。
新宿区大久保二十騎町のように、極端に細長く区割りされた、しかし地平線まで続くかと思われる広大な農地が見えてくれば、バンコクはもう目と鼻の先だ。日本時間18:10、タイ時間16:10にスワンナプーム空港に着陸。バンコクの天気は曇り、気温は34℃。
国内線に乗り換える旅客のためのパスポートコントロールには、最大で6名の係官が待機できる。しかし今日のこの時間は2名のみ。我々の前にも後ろにも長蛇の列がある。
バンコク発チェンライ行きのボーディングカードは成田空港で発券されたが、ゲート番号は印刷されていなかった。フライト別のゲートを示す掲示板の前まで来て、しかし"TG140"の名はそこにはない。足で歩いたり、あるいは動く歩道に乗ったりして紫色の制服を着たタイ航空のオネーサンを探す。そして机上の端末を叩いてもらってようやく、我々の行くべきゲートは"A1D"ということを知る。
結論からいえば、18:20発のチェンライ行きの便を、次男はその掲示板に見ていた。しかしスターアライアンスの相互乗り入れにより"TG140"以外の便名が次々に表示されるため、僕はそれに幻惑されたのだ。
安心をしたところで小腹の空いたことに気づく。「外国のハンバーガーには興味があったんだよ」という次男に付き合ってゲートにほど近いフードコートへ行けば、いくらセットとはいえ、ハンバーガーに300バーツ台の価格が表示されている。「だめだ、あんなものに300バーツも出せねぇ」と、別の店で次男は100バーツのホットドッグ、僕はおなじく100バーツのエスプレッソを飲む。この価格でさえ泣く泣く、である。
機は夕日を右手ながら日本時間20:36、タイ時間18:36に離陸をした。夕日を右手に見ながらということは、機首は南に向いている。その機首を海上で右に旋回させた、なぜか外気温より機内温度の高い"Airbus A300-600"は日本時間21:39、タイ時間19:36にチェンライ国際空港に着陸した。
あらかじめ手配しておいた迎えの車に乗る。広い川を渡れば間もなく、メンライ王の像が見えてくる。四輪駆動車は花や果物の市場のあいだで速度を落とし、ナイトバザール至近の"The North Hotel"に着く。インターネットにより手配を依頼した旅行社からは「トランクも開けないほど小さな部屋」と聞いていたが、それほどの狭さでもない。何より子供と行く旅行であれば、質素を旨とする必要がある。
シャワーを浴び、ブーツをゴム草履に履き替えて部屋を出る。ナイトバザールを抜けると先ず、太いチークの柱に屋根を載せた、観光客向けのフードコートがある。僕の贔屓にしているのはこれに隣接した、黄色く塗られたペコペコの机と椅子の並べられた、現地人用のそれである。
タイ東北部の鍋チムジュムに肉を追加して注文する。別の店では豚の子袋を指さし、適当に料理するよう言う。僕は普段はあまりビールを飲まないが、今日に限ってはシンハの大瓶を70バーツで買う。ペプシコーラの1.2リットル瓶を開栓した次男は中身を暴発させ、まわりの若い人たちに謝る羽目になる。当方は日本人であれば、まさかこちらから「マイペンライ」とは言えない。
チムジュムをひとくち食べるなり「美味い!」と、感に堪えたように次男が口を開く。先ほどの子袋は茹でられヤムになって運ばれてきた。味見をして「容赦ないタイの味だよ」と説明すると、次男も子袋と香菜をまとめて口に入れて「最高だね」と答える。タイのメシは次男好みだと、常々思っていたのだ。我々のすぐ目の前のステージでは、運良くタイの踊りが始まった。
バスターミナル付近をすこし散歩し、セブンイレブンで水を調達する。明日は朝から山に入り、チェンライに戻るのは明明後日の予定である。
ホテルに戻り、ロビー兼食堂で"wifi"の設定を次男にしてもらう。なかば眠りながらツイッター活動をし、タイ時間23時、日本時間午前1時に就寝する。
「乃木希典三十五歳初老のみぎり」という文章を知っていると書いたのは吉行淳之介だ。吉行の読んだものでは「みぎり」は「水限」と表記されていたかも知れない。とにかく、35歳が初老なら、55歳はもはや立派な老人である。
老人は大体において早起きをする。きのうの朝、早く目覚めて窓の外に目を遣ると、部屋と東京タワーのあいだの森の中に白壁赤瓦の洋館があった。いずれ貴顕高官の持ち物だったに違いないと、先ずは"google map"に当たり、次は"google"を回す。そしてそれが、かつては朝吹常吉の屋敷だったことを知る。
夕刻に次男と上り特急スペーシアに乗り、地下鉄千代田線と半蔵門線を乗り継いで神保町に出る。傘を差すほどでもない雨が降っている。"Shanti Club India"で夕食を摂る。
「さかいやスポーツモンベルルーム」でトレッキングアンブレラを買う。「さかいやスポーツシューズ館」へ移動して、今度は次男の靴下2足を買う。それほど高くもない靴下のために試着や靴紐の締め方の指導など、長い時間を割いてくれたオネーサンには厚く御礼を申し上げたい。
すこし歩いて「石井スポーツ」で"ISKA"のザックカバーを買う。タイ北部の山中で、赤い蛍光色など身につけて大丈夫だろうか。
次男は"CARAVAN"のトレッキングシューズを履いている。僕は迷いに迷った挙げ句"Dolomite"の"Cristallo"ではなく、"Redwing"の"Irish setter"を履いて家を出た。このハンティングブーツの底は、湿って平滑な土の上ではとても不安定になるけれど、登山靴で舗装路を長く歩くと腰が痛くなる。新たにトレッキングブーツを買っても、年に何日も使うわけではない。これでも、あれこれ考えているのだ。
我々は特段の事故に見舞われない限り、明日の夜にはチェンライにいる。そして明後日の夜には未知の集落の、知らない人の家で寝ているはずだ。僕の日記はクラウドではないから海外から更新をすることはできない。どこかに"wifi"があれば、ツイートくらいはできるかも知れない。
ヴァラナシの路上に行き斃れ、小銭による喜捨を胸の上や顔の周りに施されて薄目を開けたまま息絶えている老人。あるいはガンジスの河畔に燃えさかる薪の上で、焼けるに従って筋や肉を縮ませ膝や上半身を持ち上げようとする、年齢も性別も不明の死体。それらは風景の一部であって、そのすぐそばまで近づいても恐怖は一切、感じない。
しかしながら白いシーツの上に、あるいは棺の中に寝かされいてる遺体については、僕はこれを正視することができない。何やら不気味なのだ。だから伯母の入れられた棺の、顔の部分に開いた窓から中を覗き込んだ人たちが「まぁ、綺麗」などと口々に言い交わしても、僕は決して祭壇に近づくことはしなかった。
ところが今日の告別式も終わりに近づくころ、故人を花で飾る時間になると、棺は祭壇から低いところに移され、その蓋は取り外されたから、一般の参列者であればともかく、喪主の配偶者としては会場の隅に逃げているわけにもいかない。
そして伯母が亡くなってからはじめてその顔を見て、思わず僕は胸の前に手を合わせた。生前の美貌をたたえた顔にはシミもシワもなく、色は白く、行年の93より30歳ちかくは若く見えて驚いたからだ。
感謝や感激が度を超すと脳には何のことばもl浮かばず、ただ「ハハーッ」という声が自然に出て頭の下がることがある。僕は伯母の顔を見た瞬間、腹の中に「ハハーッ」という声を吐き出した。文字通りの大往生である。
伯母のお骨を実家に安置するため鎌倉へ向かう家内と長男とは斎場で分かれた。僕は次男と五反田から浅草に移動し、16:00発の下り特急スペーシアに乗る。
旧高輪プリンスホテル、現グランドプリンスホテル高輪のロビーで「wifiのパスワードを教えてください」とオネーサンに訊いた次男は「5分間100円の使用料でございます」との回答を得て僕のところに戻り「ヴェトナムじゃぁどこでもタダだったんだけど」と不審そうにつぶやいた。
コンピュータをサーヴァにアクセスさせるための電波は、ヴェトナムにおいては大盤振る舞いをされている。カンボジアはそこまでいかないが安い。タイのそれについては「いかにも高い」と感じる。しかしそれは、僕の使うホテルに限ったことなのかも知れない。
16時30分に桐ヶ谷斎場へ行く。独身で子もいなかった伯母の通夜を、家内が喪主として務める。通夜ぶるまいの、かつて伯母が贔屓にしていた鮨屋のちらし鮨は美味かった。喪主の配偶者が酩酊するのはいかにもまずいと、飲酒は避ける。
「自分は旅行の準備は絶対にできない。だから旅行にも行けない」という人と先日、話をした。
「簡単じゃないですか、僕は旅行の装備一覧をコンピュータに保存してあるんですよ、次の旅行が近づいたらそれを印刷して、上から順にチェックしていくだけです」と答えたら「そんなのもー、ぜーったいにできない」と、その人は嘆息した。
その人は自分で会社を興した、いわば起業家である。会社を作ることにくらべれば、旅行の準備など屁のようなものではないのか。
人には色々な性癖がある。そういう僕も、興味関心のないことは一切できない。データベースについてのことなら深夜早朝に事務室入りしてかなり複雑な作業もこなすが、テレビ番組の録画予約などについては、いつまでも覚えられずに恬淡としている。
「自分は旅行の準備は絶対にできない、だから旅行にも行けない」というその人も、旅行自体は嫌いではないらしい。誰かがお膳立てをしてくれれば海外へでも行けるのだという。
旅行の楽しみうちのかなりの部分は、その準備が占めていると僕は思うがどうだろう。そして谷口正彦の「冒険準備学入門」は何度読んでも新鮮である。
というわけで夜は飲酒を避け、4日後に迫ったチェンライ行きの荷物を整える。
お盆の繁忙に加えて雑務やら、あるいは今月はじめに解決したはずの仕事が形を変えてゾンビのように復活してきたりして、いつも巡回しているウェブ上のニュースページなどにはすっかり無沙汰をしていた。そして本日、そのようなページのひとつにアクセスして「あなたの本を1冊100円でpdf化します」という商売のあることを知る。
数百ページの本をスキャニングして1冊100円は安い。詳しい説明は避けるが、自分の本をいちどデジタルデータにしておけば、いつでもどこでも、iPhoneでもコンピュータでも、自分の手持ちのキャリアでそれを読むことができるという。そして僕は「しかしなぁ」と考える。
いまだ木造3階建だった時代の「鳥ぎん」のカウンターで、タイトスカートの足を組みながら株式新聞をズバッと開いたオバチャンがいて「へぇ、かっこいいじゃん」と、僕は目を見張った。
東京大学ちかくのどうということもない飲み屋で「文藝春秋」を読み流していた、40代と思われる男の姿は悪くなかった。しかし湯島天神下の「シンスケ」のカウンターで文庫本の文字を目で追っていた、これまた40代の男はなんだかいじましく見えた。
僕は活字は多く飲み屋で読む。飲み屋で活字を読む人は、他者の目にはいろいろに映る。上の3つの例にしても、それは僕の感想であって、他の人による印象については知るよしも無い。危惧する必要があるのは、飲み屋における本読みは、店の雰囲気を壊す場合が多々ある、ということだ。
飲み屋で酒を飲みながらiPhoneで読書をする男… その店が池袋の「ふくろ」であれば、まぁ、その男は周りからかなり浮くだろう。立石の「宇ち多」なら更に、だ。そして飲み屋で本を読むにあたっての風情のひとつが、ページにモツ焼きのたれや酎ハイのシミの付くあたりと考えれば、デジタル機器で本を読むことは、僕には難しい。
「読む活字は仕事の資料、学術書、ビジネス書、教則本のたぐいのみ。読む場所は出張における車内や機内あるいはホテルの部屋ばかり」という人にこそ、デジタル化された本は似合うように思う。
朝4時ころのことだっただろうか、居間でメイラーを回すと「8月13日の日記のWINDOWS SEVENの拡張子について」という表題のメイルが入ってきた。それは、今月13日の日記に「windows7からは、画像ファイルに拡張子は要らねぇんじゃねぇか」と僕が書いたことへの、自由学園の後輩マハルジャンさんからの回答だった。
「OSがwindows7になってもファイルの拡張子は必要で、それが見えないとは、見えない設定になっているからだ」と、メイルに添付したpdfに図示することまでして、マハルジャンさんはその設定の外し方を教えてくれていた。こういう風に気を遣ってくれれば当方もまた「たまにはメシでも食べましょうか」となるわけだ。
国道121号線にきのうまで続いていた鬼怒川方面へのクルマの列が、今日になってようやく消えた。よってホンダフィットにオフクロを乗せ、義理のあるお宅の初盆に、お線香を上げに伺う。鬼怒川への車列が消えたからとはいえ、もちろん一部には渋滞が残っている。よって日光江戸村と鬼怒川温泉の間では有料道路を利用した。
ウチの仏壇には、お盆のお供えの精進揚げが上がっている。「晩飯はこの天麩羅と素麺でいいや」と提案をしたら「誕生日なんだから、鰻くらい食べないと」と家内が言う。「誕生日なんだから」ではなく、自分が鰻を食べたいだけなのではないか。しかし夕刻になって「魚登久」に電話をすると応答が無い。お盆休みなのかも知れない。
晩飯は結局、次男の希望に添ったものになった。明治大正期の農山村を思えば、今は何を食べようが、毎日がお祭りのようなものである。
長男は朝一番でイワモトミツトシ春日町1丁目自治会長を訪ね、東照宮の無料拝観券をもらってきた。そして次男と、きのう名古屋から鈍行に乗って訪ねてきたイワシゲ君をホンダフィットに乗せて日光へと向かった。
2学年上の自由学園男子部委員長に日光を案内することになり、次男は緊張の極みにある。日本にはいつのころからか、長幼の序をわきまえない人が増えた。若いころに厳しい環境で生活をすることは、やはり必要である。
長男は東照宮から帰って店の手伝いに入った。お盆はいつまで忙しいだろうか。「Uターンラッシュは14日から」とテレビのニュースは伝えていたが、目の前の国道121号線には、鬼怒川方面へのクルマの列がいまだに続いている。
定年退職をした、むかしの取引先が親戚を連れて店を訪ね声をかけてくれたので「せっかく遊びにいらっしゃった方々には、Uターンなんかしないで、もうしばらく滞在していただきたいですよね」と言う。
「東照宮では徳川家康の墓所まで上がり、昼飯は東武日光駅前のインド人のやってる店でカレーを食べ、青春18きっぷでで東京へ向かうイワシゲ君とは日光からJR日光線に乗って、自分だけは今市駅で下車する」という使命を果たした次男は、午後のそれほど遅くない時間に帰宅した。次男が夏休みの宿題に関われる時間は事実上、今日も含めて残り5日となった。苦戦しているのは感想文を書くための読書らしい。
夜に濁り酒を飲む。「濁り酒」は秋10月の季語ではあるが、夏の夜に発泡性の酒はよく似合う。明日に出張を控えた長男は飲酒を避け、20時に玄関を出てクルマでアパートへと向かった。
「朝のうちに日光まで行ってきた」と、製造係のフクダナオブミさんが開店直後にチタケを持ってきてくれた。「松茸よりよほど好き」と長男の言うこのキノコの採取場所を訊いたところフクダさんは、観光客のぞろぞろ歩いている遊歩道の名を挙げた。
キノコ採りを趣味とする人は、「城」と呼ばれる自分の採取ポイントを決して人に教えない。秋を迎える頃、山で行方不明になる年寄りがポツリポツリと地方紙に載るのは、そのような理由による。
だからフクダさんが口にした「チタケの採れる遊歩道」も、実は自分の城を知られないための与太なのではないか、と想像する人もいるだろう。しかしフクダさんの人柄は実直である、奥日光のとある遊歩道の際でチタケが採れるという件については、やはり本当のものと思われる。
僕の誕生日は今月の16日だが、今日は仕事先から長男が帰宅することもあり、その食事会を前倒しでしてしまおうとの案がオフクロより持ち上がる。そして19時より家族5人でフランス料理の"Finbec Naoto"を訪ねる。その数十分後、メインの料理を食べ終えようとしているときに、次男のふたつ上のイワシゲジュンノスケ君より電話が入る。
夏休みを利用して、中国地方、関西地方、中部地方を巡回したイワシゲ君からは本日午前に「これから鈍行にて名古屋を発つ」旨の連絡をもらっていた。
イワシゲ君には、"Finbec Naoto"のコースの最後のころに出てくる「小さなカレーライス」の「小さくないやつ」とデザートを食べていただき、ホンダフィットにて帰宅する。
イワシゲ君の来訪が、長男の帰宅日にちょうど当たって良かった。上級生が家を訪ねてくれるとは、次男も幸せ者である。僕はいささか酔っていたから彼らの会話には加わらず、21時に就寝する。
この日記に用いる画像は、西暦を含むその日の日付の最後にアルファベットを順に振り、最後に"jpg"の拡張子を付けてきた。つまり今日の日記の最初の画像であれば、そのファイル名は"20110813a.jpg"となる。
"Let's Note N10"で日記を書くようになった今月6日から、画像のファイル名が、たとえば"20110813a.jpg.JPG"と自然になってしまう点については、不審に思いつつこれまで放置してきた。
きのうふと気づいたのは「windows7からは、画像ファイルに拡張子は要らねぇんじゃねぇか」ということだ。ことによると、他のファイルについても同様かも知れない。
閉店後に提灯を持ち、如来寺のお墓に次男と行く。墓前に灯明を上げ、その灯明を提灯に納めて、薄暮よりも濃く暮れかけた道を自宅めざして戻る。
「変わったことやってんじゃないの」と、途中「やぶ定」のワガツマカズヨシさんに声をかけられる。「お迎えですよ」と答えると「ずいぶん風流だね」と言うので「風流じゃなくて信仰心ですよ」と、またまた答える。「信仰心」とはいえ僕のそれは、熱帯の山に棲む人たちがピーを畏れ敬うとおなじたぐいにて、それほど高級なものでもない。
しかしそういえば、提灯を提げて先祖の霊を迎える家を、僕はこれまで目にしたことがない。ウチではむかしからしてきたことだから今もしているだけのことだが、ウチのような家は、如来寺の檀家の中に、一体全体どれほどの割合を占めるのだろう。
灯明が途中で消えるようなことがあれば、再びお墓に戻って先ほどからの行いを繰り返さなくてはならない。よって玄関を入ってからも提灯は慎重に扱い、遂にその火を仏壇の蝋燭に移す。
そしてシャワーを浴び、次男とゴム草履を履いて、メシを食べるため夜の街に出て行く。
「ラーメン屋じゃ五目そば頼んでよ、上に乗っかってんのをつまみにしてビール飲むんだよ、そうすりゃ締めのラーメンまでひと品で済むだろう」と言う人がいた。「あぁ、なるほど」と僕は答えたが、五目ラーメンを肴にビールを飲むことには、ちと無理がありはしないか。しかし撈麺であれば問題はなさそうだ。
ヤワラーのクルンカセムロードを汚い運河に沿って北上していくと、今は知らないが1982年当時は左側に映画館があった。この映画館ちかくのクイティオ屋台で、酒を飲むか訳ではないが、僕は撈麺を食べようと考えた。タイのクイティオ屋に中華の撈麺を作ってもらおうとの魂胆だった 。
腹が減っていたので麺は2玉にしてもらった。屋台のオヤジは愛想良く笑いながら、僕の思うとおりの撈麺を作ってくれた。昼の日陰で食べたその撈麺は美味かった。今から考えればこれはバミーヘンで、クイティオ屋にしてみれば特別な注文でも何でも無い。
1982年以来、たぶん僕はバミーヘンを口にしていない。「核酸系調味料は入れないでください」はタイ語で「マイサーイ…」と、思い出そうとして思い出せない。「旅の指さし会話帳」のタイ語版に「核酸系調味料不要」を意味する訳語はあっただろうか。
活字を欠いては飲酒喫飯のできない質により、盛り場で本をあさることが、むかしはしばしばあった。
銀座が近藤書店を失ったのは痛かった。旭屋書店にはなぜか足が向かなかった。福家書店ではたまに、僕好みの本が店内のある場所に固まっていることがあって、そんな時には「オレに似た傾向の店員がいるに違いない」と思った。教文館には親切で感じの良い店員が多く、だからなのだろうか、飲み屋で読む本を探す雰囲気ではなかった。
「盛り場で本をあさることが、むかしはしばしばあった」の「むかし」とは、どういうことか。今は読みたい本があれば、"amazon"で古書を求めることが常になり、定価で本を買うことが馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。
池袋では、駅の中央コンコースから北口に抜ける左側の、壁を2メートルほどくりぬいたような小さな本屋が好きだ。むかし僕はここで小林紀晴の「写真学生」を買った。そして先日はこの店で丸谷才一の「月とメロン」そして伊集院静と西原理恵子による「なんでもありか」を目に留めた。
目には留めたが、もはやむかしではないので僕はその書名を脳に刻み込み、帰宅してから"amazon"に検索をかけた。2冊は出たばかりの本らしく、古書での販売はなかった。しかし丸谷才一、伊集院静、西原理恵子の周辺には興味をそそる古書が最低1円からごそごそとあり、よって本日はここで計7点の買い物をした。
飲酒の直前になっていきなり活字の枯渇しないよう、現在は、いま読んでいる本の残りページを慎重に目測し、次に読むべき本を持つようにしている。本に費やす経費は低減したが荷物は重くなった。まぁ、そのくらいは仕方がない。
日常のふとしたときに「あぁ、このこと、日記に書こう」と、何かを思いつくことがある。 そういうとき小型ボールペンと共に胸ポケットに備えて便利なのがジョッターである。これさえあれば、一瞬が過ぎれば忘れてしまうようなことでもメモに残せる。
ところが悲しいことに、胸にポケットのあるシャツを僕はほとんど着ない。夏はポロシャツ、冬は長袖のヒートテックのシャツで、メモのたぐいはすべてズボンのポケットに格納する。
ジョッターは大抵、堅めの皮に紙を固定する構造を持つ。これをズボンのポケットに入れれば立ったり座ったりが不便になる上、堅めとはいえ厚さ数ミリの皮であれば、すぐに折れ曲がってしまうだろう。
よって今日の日記も、これを日記に書こうと思いついたことではなく、なぜそのような思いつきを文章として残せないかの説明になった。ジョッターは僕にとって、何年も欲しいと考えながら、そういう次第にていつになっても買えない物のひとつである。
朝に空と山が晴れていればなにやら嬉しく、きのうに引き続いて、その写真を撮る。
家の玄関から東武光線下今市駅の上りプラットフォームまで、8分の記録を僕は持っている。走れば更に短縮できるだろうが、これは早歩きによる数字である。今朝は駅ちかくの駐輪場まで自転車に乗り、そこから改札口まで歩いたら、家を出てから僅々2分しか経っていなかった。
そして07:45発の上り特急スペーシアに乗る。今日の出張はコンピュータを必要としない。"Gregory"のウェストポーチひとつの気楽さである。
日本橋で用を足してから池袋に移動をする。駅前の喫茶店で人を待っていると、隣の席の会話が聞こえてくる。
「いや、今日はまた特に暑いですね」という声に対して「そうかねぇ」と、早くも腹の中で異を唱える。「ちょっと前までは凌ぎやすかったですけど」については「オレは寒くてイヤだったな」と、声なき声で応える。「あのまま秋になっちゃえば、いっそ楽でしたけどね」については「オレだったら来年の夏まで、ずっと夏のままでも良いくれぇだぜ」と、常夏の日本を妄想しながら待ち人の姿を雑踏に探す。
池袋での相談ごとを終え、他にもあれこれして夕刻の下り特急スペーシアに乗る。そのスペーシアを下今市駅で降りれば、あたりにはいまだ昼の暑さが残っていたから「悪くねぇな」と思う。そして自転車に乗って帰宅する。
朝に山が晴れると、それを画像に納めたいとの欲求が勃興し、そしてその欲求は抑えがたい。よって今朝も洗面所の窓から1枚を写す。
店舗のレジの脇には「8月7日までは暑中見舞い、8月8日からは残暑見舞い」のメモがある。夏至の日には、これから徐々に昼の短くなることを残念に思う。立秋の日には、夏が終わってしまったことを悲しく感じる。毎年のことだ。
地元の神社についてのレポートを提出せよとは、次男に与えられた夏休みの宿題のひとつだ。その文章はきのうのうちに完成した。今日は「百聞は一見にしかず」の画像をそこに添付するため、午前のうちに次男と瀧尾神社へ出かけ、八坂の祠を中心として数枚を撮る。
胡瓜や茄子やオクラなどは、僕の子供のころには夏にしか食卓に上らなかったような記憶がある。今の食卓からは季節感が失われた。しかし漬物の原材料の手当においては、我々は季節とともに行動をする。
日光産の茗荷をお盆過ぎに納入してもらう手はずは既に整えた。日光産のしその実の買い入れ日を各農家に知らせるハガキの文章は既に整えた。秋は嫌いと言いながら、僕の気分は既にして秋へと向いている。
立秋の迫った朝の空は高く晴れ、空気は涼しい。
春日町1丁目の納涼祭は、長男が小学生のころにはちかくの公園の砂場を掘ってプールにしたり、あるいは各種の出し物をしたりと、盛大に行われていた。しかし子供の減少に伴って徐々に縮小され、今では公民館に接する猫の額ほどの土地で、あれこれの食べ物を供する形で続いている。
町内の役員としては、この納涼祭の準備に関わるべきだが、あいにくと現在は繁忙の最中である。こういうときに助かるのが次男の存在で、次男には朝から手伝いに行ってもらった。
その次男から「ヤンニョンカルビがあるから来るように、とユザワさんが呼んでいる」との電話が昼に入り、そのヤンニョンカルビを食べに公民館へ出かける。純正の炭火で焼いた、そのカルビは美味かった。そして行きがけの駄賃のようにして、かき氷も食べる。
今度は神社の責任役員として「日光奇水まつり」に列するため、15時30分に浴衣を着て、その15分後に瀧尾神社へ行く。
日光市の瀧尾神社、高お(「お」は雨冠に口を横に3並べして下に龍)神社の二社には創建当時から霊験あらかたと伝えられる御神水がある。「日光奇水まつり」は、両社の御神水を合わせることにより良質の水を後世へ伝えようとする、全国でも珍しい二社合同のお祭りである。
奇水まつの御輿に鎮座するのは3斗6升5勺の八角樽である。御神水をここに満たした御輿は複数の町内から参集した面々により宮出しをされ、ときおり激しい夕立の降る日光街道を下っていく。そして瀧尾神社から八丁の距離にある追分地蔵尊に至って旧市街の渡御を終える。
渡御は一段落をしても、ここで祭りが終わったわけではない。日光奇水祭りは今市地区旧市街の瀧尾神社と、また大室地区の高お神社に向けて、毎年交互に御輿が巡行する。両社は10キロほども離れているだろうか、よって御輿はトラックで、また人員はバスで移動をする。今年の御輿は高お神社に宮入りをする番である。
高お神社は稲田の中の小高い山の中腹にある。よく整備された林道をバスで上がった役員や自治会長が四阿で待つうち、山の下からかすかに人の声が聞こえてくる。そしてその声はやがて明瞭な「わっしょい」のかけ声となって急峻な参道を登ってきた。
斜めになったり揺れたりして中身は徐々にこぼれるとはいえ、何しろ3斗6升5勺の水樽を載せた御輿である。これを山の中腹まで担ぎ上げる仕事は楽ではない。そして神事は瀧尾神社と高お神社の御神水を合わせる「水あわせの儀」を以て無事に完了した。
そして投光器の照らす明るい境内にて直会の品々をいただき、ふたたびバスに送られて20時すぎに帰宅する。
ウインドウズをOSとするコンピュータについては、1995年以来ずっと"ThinkPad"を使ってきた。しかし"lenovo"になって以降の質感の劣化は甚だしく、"X61"の、無線LANの具合が悪くなった先月より次の機種の選定に入った。そして後継機を"Let's Note N10"と決め、そのセットアップは外注SEのシバタさんがきのうから始めた。
当方のあれこれの要求、また動作試験もあり、セットアップは夕刻を過ぎてようやく完了した。ワードプロセッサを新しくしたらこれまでのユーザー辞書が移行できない、ブラウザのブックマークも移行できないなど、コンピュータの交換時につきものの現象については、これから数日をかけて解決していくつもりである。
夜になってから自宅4階の居間できのうの日記を書き、ここまではさすがに無線LANの電波も届かないから"docomo"の通信端末"L-05A"でサーヴァにアクセスする。と、これまでは無通信タイムアウトによりひどいときには十数回もの回線切断、回線がつながっても今度は画像の転送が渋くてまたまた切断ということが常だったにもかかわらず、"Let's Note N10"ではスルスルッと、見る間に日記の更新が済んでしまった。
"L-05A"のファイル転送の非能率性についてはこれまで「サーヴァの混雑」と、その原因を説明されていたが「実はそんなの、嘘だったんじゃねぇの」という感じだ。
"Let's Note N10"はまた、起動もシャットダウンも驚くほど早い。夜の数時間をブラウジングに充てたにもかかわらず、バッテリーの残量はいまだ6時間分もある。今後の課題は、17年のあいだトラックポイントになじんだ指をパッドに慣らすのみ、かも知れない。
夏休みといえば海、山、青い空、白い雲、ではなく、夏休みといえば宿題である。
「夏休みの宿題は3日で終わらせる」と、同級生のアリカワケンタロー君は言っていた。ひとつのことに集中する能力に、よほど優れていたのだろう。普通の人間には、とてもではないが、できない芸当である。
「宿題の中で一番、手こずりそうなものは何だ」と訊くと「読書感想文だね」と次男が言う。読書感想文は、活字中毒である僕にも面倒な宿題だった。本をあまり読まない次男であれば、その困難さは想像に難くない。
読書感想文を書くことの難しさは那辺にあるか。好きな本であればいくらでも読める。しかし読書感想文の宿題においては多く、読むべき本を指定される。ここがまず辛い。白くパリパリに乾いたシーツに横たわるのが蜂蜜色の倖田來未であれば興味もわくが、それが焦げたトーストのような平井堅では、少なくとも僕は二の足を踏む。
活字中毒者にとって読書とは、盛り場の片隅にあるサウナ風呂で、人知れず、ハムエッグを肴に生ビールを飲むような、怠惰を伴う快楽である。それが、本を読んだ後に感想文を書けでは、読書が遊びではなく義務になってしまう。そこがまた気にくわない。
夏休み報告書を除くすべての宿題を、遅くも今月21日の昼までに終わらせらべく計画を立てるよう次男に言う。正味16日。次男によれば、歴史の宿題の、地元の神社についてのリポートは、明日1日で完了させるとのことだった。
「働く」の頭にはどのような言葉がふさわしいか。順当なのは「額に汗して」だろう。ここ数日のあいだは文章を考えることばかりをしていた。額に汗したのはきのうの朝に、国道の雑草を取り除いたときのみである。
限られた文字数の中で、最大の効果を得るべく文章を考える、という仕事は嫌いでない。そしてこれは僕の悪癖のひとつだが、締め切りの日の、更に締め切りの時間が迫るまでその、文章を考えるという作業には身が入らない。
「余裕、気合い、一瞬」という、あまり褒められたものではない仕事の手順がある。時間の猶予のなくなるギリギリのところまでは余裕綽々で構え、切羽詰まってようやく気合いを入れ、一瞬の跳躍を以て高い垣根を越える、というものだ。
今日の仕事が高い垣根を越えられたかどうかは不明ながら、先方の書式に従って午後、その文章を取引先に送る。
「在庫があれば1週間」と告げられてちょうど1週間が経った本日夕刻に、注文した商品が届いたと「コジマNEW日光店」から電話が入る。そして終業後にホンダフィットに乗り、"Let's Note N10"を受け取って帰宅する。
先の台風以来、まるで梅雨のような雨が降り続き、秋のように涼しく、あるいは寒くなってしまった日本列島だが、今日からはまた本来の蒸し暑さが、徐々にではあるが戻りつつある。
朝、国道121号線沿いの雑草を、鎌ではなく小振りのスコップで、車道と歩道のあいだの隙間から切断して歩く。この作業をしばらく続けると、随分と汗をかいた。そしてシャワーを浴びる。
蒸し暑さが戻りつつあるとはいえ、盛夏のそれにくらべれば、まだ物足りない。昼食に冷たいラーメンではなくタンメンを食べるとまたまた汗をかき、本日2度目のシャワーを浴びる。
むかし中古で買った"FIAT 850"の、ドアを開けるなり室内灯が点いたから「あ、ランプが点く」と叫んで「ウワサワさんはクルマに対する要求度が低すぎる」と、そばにいた人に嗤われたことがある。僕は、クルマについては多くを要求しない。しかし、汗で濡れた肌やシャツはすぐにでもどうにかしたい、ということへの要求度は高い。
1981年に買った、レスキュークロスによるシュラフを先日、購入後はじめてクリーニングに出した。そしてそれが今日の夕刻に戻る。
クーラーはおろか窓にガラスさえない楽宮旅社で、このシュラフに入って汗にまみれ、シュラフから這い出しては複数の蚊に襲われて、またまたシュラフに潜り込んで肌を守る、ということを繰り返したこともある、これは思い出の道具である。
8月下旬のタイ北部は多分、日本よりも涼しい。トレッキングには、これくらいのものは持参した方が良かろうと考えてのクリーニングだった。ザックは20リットルほどのもので充分だと思う。
僕の日常のお酒はワインと芋焼酎だ。ワインはほとんどインターネットショップで、そして焼酎はほぼ100パーセント、街なかのディスカウントショップで買う。
こういうことを言うと焼酎の作り手からは味盲あつかいされるかも知れないが、焼酎は芋、麦、米などの材料さえ共通していれば、蔵や商品ごとの味の違いは、日本酒やワインほど甚だしくないと僕には感じられる。
だから日常の芋焼酎はそれが少なくなるたびディスカウントショップへ出かけ、以前に飲んだことのあるものは避けて目新しいものを買う。そしてこれを繰り返して、もう10年ほどが経つかも知れない。
ところが先日は「別段、それほど差のあるわけでもねぇんだから、それこそ何でもいいや」と考え飲んできた芋焼酎の、たまたま買った1本がなぜか美味く感じられ、だからいつもの店を訪ねると在庫はなかった。
僕の使うディスカウントショップはなぜか、販売している焼酎の顔ぶれが「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という風に頻繁に変わる。しかし今回だけは、以前に買ったとおなじ焼酎が欲しい。
よって帰宅してコンピュータを起動し、検索エンジンに当たって「軸屋酒造」の芋焼酎「紫尾の露」計6本を買う。
「あしたキムチと揚げ玉の味噌汁、食いてぇなぁ」と、いただき物のポッサムキムチで焼酎のお湯割りを飲みながら思わず口にすると「それ、なにか邪道な食い物って気がする」と次男が言うので「邪道なものこそ、得てして美味めぇんだよ」と答えた。
上出来のクロワッサンにバターを載せながら食べていて「それ、おかしいわよ」と、夏には白いレースの手袋をする上品なお姉さんに注意を受けたのが同級生のコバヤシ君だ。「美味けりゃ何だって良いじゃねぇか」とは、コバヤシ君の曲げられない主張である。
西瓜に砂糖をかけて利休に叱られたのは、どこの誰だったか。とにかく味噌とキムチと脂または油の三位一体には抗しがたい魅力がある。
大谷川河畔で行われる花火大会の日には大抵、雨が降る。今日もその例に漏れず、ぐずついた空模様の一日だった。雨は夕刻には上がったが、それでも花火の一部は雲とも霧とも判別のつきづらいものの中で炸裂し、しかしそれはそれで悪くない風情を感じさせた。
さて8月はいつのころから本来の暑さを取り戻すだろうか。クーラーも扇風機も必要とせず、キムチ鍋を囲んで汗ひとつかかないとは、まるで秋10月の気分である。