終業後に社員とのミーティングを済ませ、自宅へ戻る。仏壇からお茶や水あるいは花を下げ、風呂の掃除をしてから階段室へ行って本を探す。今夜は家内も次男もいないから外へ酒を飲みに行く。読みかけの「目玉」は本体をハトロン紙でくるみケースに入れた体裁で、酒や醤油を垂らすのは忍びない。しかし活字を欠いてはひとりでの飲食はできかねる。ようよう
を選んで階下へ降り、外へ出る。雨が降っている。傘を差して徒歩で日光街道を下っていく。
「和光」に入ると8席のカウンターには飛び飛びに空きがあり、いちばん奥に同級生のタイマサヒコ君がいた。タイ君は僕の姿を認めて同じく同級生のサイトーモンスーン君に呼び出しの電話をしはじめた。つまり今夜の本読みはおあずけである。
サイトー君が来たところでカウンターを離れ、入れ込みに上がる。タイ君が焼酎を割るためのお茶のペットボトルが目の前にある。目の焦点を合わせると、そこには「第十七回伊藤園俳句大賞」の受賞句が並んでいた。
「縄張りの猫が変わった冬の朝」という句を読み、それが18歳女子の作品と知って「へぇ、18歳で、もうこんな句がなぁ」と驚く。「ぶらんこを春のリズムで漕いでみる」という句を読み、それが71歳男性の句と知って「へぇ、71歳のジイサマでもこんな句がなぁ」と、またまた驚く。
同級生たちとの話には役に立つものも多くあり、しかし酔っぱらっているからそれらのほとんどは間もなく脳から消えてしまう運命にある。「ヨシハラノリコさんの店にオレのボトルがあるから、今度はそれを飲みに行こうぜ」と言って8時前に席を立ち、ふたたび傘を差して日光街道を遡上する。
きのうの日記に書いた朝顔の疑問を晴らすべく検索エンジンに当たり、この花には朝から日没まで咲いているもの、夏から晩秋まで咲き続けるものなど多くの種類があることを知る。朝顔は好きな花のひとつだが、上っ面を眺めているだけで一向に知識が身に付かない。
それはさておききのうの蒸し暑さにくらべて本日は急転直下の涼しさにて、朝、次男を丸山公園のテニスコートへ送った際などは、半袖のTシャツに短いテニスパンツという自分の格好に後悔を覚えたほどだ。長期予報によれば残暑は10月まで尾を引くそうだが、果たしてどうなることか。
そして当社「結庵」のおむすびは本日より新米によるものとなり、その美味さを一層増した。
子規の「仰臥漫録」に「朝顔の盛り過ぎたる施餓鬼かな」の句がある。朝顔とくれば盛夏を想い、だから施餓鬼とは遅くもお盆のころまでの行事と考えていた。
しかしご近所の玄関前にはいまだ、紫の地に白い縁の朝顔が元気に通る人の目を楽しませている。「おかしいな、仰臥漫録によれば」と、今度は如来寺からいただいた「大施餓鬼会法要」の案内を取り出しみれば「平成19年9月25日(火) 午前11時より」の文字がある。
「ということは朝顔も施餓鬼も、9月下旬のものとして充分に通じるのか」と納得しかけたが、施餓鬼はともかくとして朝顔が10月を目前にしてなお瑞々しくあるとは妙だ。
先般、昼飯にラーメンの「ふじや」へ出かけ、帰りがけに件の朝顔を見れば残暑をものともせず、なお大輪の花を咲かせていた。「それでもあの花は、本当に朝顔なのだろうか」と、だんだん自信がなくなってくる。
夕食の宅に並んだ野菜はすべて、サイトートシコさんの畑のものだった。自家消費用のものだから育つに任せて姿は悪い。しかしオクラにはなんともいえない芳香があり、おろ抜き大根の葉は噛んで香ばしい。食べていてそれの生っている情景が頭に浮かぶ、という野菜は現代においてはそうそう求めがたい。唯一の難点は、こういう野菜をおかずにするとメシあるいは酒が進んで止まらなくなる、というところにある。
2日ほど前に「他流試合」を読み終え、次に読むべきものを見つけるべく階段室の倒壊した棚からこぼれ落ちた本をあさるうち
に行き当たった。これを手に取ったのは、視力の衰えを覚えて先日、阿久津眼科で検査を受けたことも意識の下にはあったことと思われる。過不足のない端正な文章を深夜に追ううち「寝床なんかで読んじゃもったいねぇんだけどな」と考え、次に「日中の緑陰に本を開くことのできる環境を、オレも作らなくちゃいけねぇな」と思う。
初更、イチモトケンイチ本酒会長に手伝ってもらい、母屋より隠居に料理や一升瓶を運ぶ。そして庭の明かりを点け、普段はほとんど閉じたままの巽門を開いて本酒会の面々を待つ。
「第172回本酒会」への参加者は18名だった。料理屋での開催よりも出席数が多かったのは、木々に囲まれひっそりとうずくまるようにしてある古い建物が、あたかもおとなにとってのアミューズメントパークのように感じられたためだろう。
社員たちはここ数日をかけ、決算のための棚卸しを行ってきた。各部署からの数字を事務係のコマバカナエさんが取りまとめ、会計事務所に手渡せる形にしたのはきのうのことだ。
その棚卸しの内容について疑問の点を質すべく製造現場へ行くと、ちょうど茗荷の塩切りをしているところだった。茗荷は硬く締まっているように見えてなかなか繊細な野菜にて、ミキサーを使い一気に塩と混ぜることはできない。製造係の面々は半日を要する手作業にて茗荷と塩とをなじませ、冷蔵庫へと収めた。
会社とは皆が集まり来てパンを食べるから"Company"だとは駄洒落から出た説ではなく、歴とした根拠を持つものである。その根拠に従って終業後に焼肉の「大昌園」へ集結し、先般の「日光MG」および本日まで続いた秋の原材料処理の打ち上げを行う。
ここで飲酒を為すのは僕も含めた30歳以上の者ばかりにて、若い者は酒ではなく肉とメシを腹へ突っ込む。中にはメシ大盛り、メシ大盛り、メシ大盛りときて4杯目にビビンバという、満腹中枢の麻痺したような24歳もいる。僕は会合のメシを嫌うが社員とのメシは好きである。
バランスシートが一定水準を超えた上で最終到達自己資本の高かった順に3名のみが、マネジメントゲームでは表彰される。ところが話せば長くなるからここには書かないものの、僕は決算速度に強いこだわりを持つ。そこで「日光MG」では創設の当初より、最終期の決算速度がもっとも高かった者に本人の希望するものを贈呈してきた。
今回の「第14回日光MG」において、第5期の計数力第1位は販売係のヤマダカオリさんが獲得した。というわけでヤマダさんには図書券が贈られた。「第15回日光MG」は来年の1月に開催される。
次男の登校に際しては毎朝、星野産婦人科の角まで共に行く。事務室へ戻るため店舗駐車場の北東側に足を踏み入れると、その右側には樫の木8本の植え込みがあり、地面には砂利が敷いてある。そしてここに雑草を見つければ即、抜く。
砂利に生えた雑草は根が浅いため、同じ種類のものでも土にあるものよりは、はるかに抜きやすい。そして僕はここで、石の上に落ちた種は速やかに芽を出すが、ひとたび熱風が吹けばたちまち枯れてしまう、という聖書の「種まきの譬え」を思い出さないわけにはいかない。
「種まきの譬え」とは何の関係もないが、きのうサイトートシコさんに「十五夜はしますか」と訊かれて間髪を入れず「します」と答えた理由を問われれば、それは僕が日本人であるからに他ならない。
年寄りのいる家ならば、たとえ自分の子が無関心でも節句彼岸盆正月など季節の習わしは孫に伝えられる。核家族では親が気を入れていかないと、伝統行事は廃れるばかりだ。僕は別段、国粋主義者ではないが、秋の月にお供えをするくらいはしたい。
というわけで初更、おばあちゃんの居間にススキ、団子、葡萄、けんちん汁を揃え、今年のお月見とする。月は煌々と照って南の空に高い。
奇しくもきのうとおなじ午前4時に目を覚まし、しかしきのうとは異なってコンピュータを持ち1階へ降りる。フロント奥にある会議室入口の机と椅子を借り、きのうの日記を作成する。
同級生のハセガワヒデオ君が4年前の暮に亡くなり、同窓会には永遠に写真でしか参加できなくなったことは痛恨の極みだ。
短命の人のいる一方、きのう訪問した中川一政美術館の隣には、彼が97歳11ヶ月で死んだときのアトリエがそのまま保存されている。最上段に万葉集の並ぶ本棚の中段は絵の具のための場所で、たわむれに数えてみたセルリアンブルーは6号20mlのチューブで78本があった。他の色についてもそれと等しいほどの在庫が箱入りで整然と積まれていたから「この怪物はいったい何歳まで仕事をするつもりだったのだろう」と驚き且つ感心をした。
クルマで来ていたシゲマツアキラ君に湯河原駅まで送ってもらい、午後はやくに帰社して仕事に復帰する。
コバヤシヒロシ君、シゲマツアキラ君、ツナシマショーゾー君との4人部屋で朝4時に目を覚ます。そのまま1階へ降り、フロントのカウンターに届いていた新聞をロビーで読むうち朝風呂に行く面々が行き交う時間となった。7時前に僕も風呂へ行き、浴衣のままレストランで朝飯を食べる。
本日、ゴルフ組は芦ノ湖のゴルフ場へ行き、初島組は初島へ渡って昼の宴会をする。その他、たまたまちかくにある家のお墓をお参りをするなどの者もいて、僕は先ず真鶴からバスに乗り、「中川一政美術館」を訪なう。ここを振り出しにいくつかの美術館をめぐって夕刻に湯河原へ戻る。
今般の同窓会では嬉しいことに、今朝のゴルフから学園長が合流してくださった。これも幹事の思いつきと努力による。6時すぎよりその学園長を囲んで宴会を行い、同級生たちとはきのうと同じく歓談をして有意義な数時間を過ごす。
これまたきのうと同じくだが予約済みのカラオケルームには宴会で余った酒を運ぶのみにてカラオケには参加せず、ヨネイテツロー君に誘われた麻雀もお断りをして即、就寝する。
0時30分あるいは1時30分の起床を予定していたが、蚊の羽音と右腕の痒さに目を覚まし、枕頭の携帯電話を見るといまだ21日の11時30分だった。横になっていてもいずれ眠れないだろうと考え、着替えて事務室へ降りる。
「毎年あれをやる時期はとうに過ぎた」と分かっていながら手を着けていなかった仕事があって、それをきのうは事務係のコマバカナエさんに指摘された。よって各方面よりデイタを集め、小一時間ほどもかけてこれを仕上げる。
2時30分にいきなり電話が鳴ったから「おおかたどこかの酔っぱらいが間違い電話をかけてきたのだろう」と勢い込んで受話器を取ると、相手は契約している警備保障会社で、その内容は「あなたは確かにその会社の人間で、していることは本当に仕事なのか」というものだった。先ずは連絡もせずに深夜の活動をしていたことを詫び、仕事が終わらなければ朝までこの状態であることを説明する。
今早朝に予定していた作業をすべて終えたのは5時で、この時間から6時30分まで眠ると、それでも夜通し眠った気分になった。
近隣の小学校と中学校のテニス部員を対象とした「グラクソスミスクライン杯」に参加する次男と共に、7時すぎに丸山公園のテニスコートへ行く。次男は1回戦で敗退したが、真夏の高原のような環境で健康的な半日を過ごし、気持ちが良かった。
午後、上り特急スペーシアに乗り、浅草、神田、東京、熱海と移動して湯河原に至る。1年も前から場所を押さえ「自由学園男子部35回生50歳記念修養会」を企画してくれた幹事には感謝状を贈りたい気分だ。
そして感謝状を贈りたい気分とは言いながら、夜9時に宴会が終了して後は、0時まで貸し切りとなったカラオケルームを横目に部屋へ直行し、即就寝する。
先日、居間のテレビが壊れたから「これでしばらくは静かになるか」と楽観したが、隣の部屋で使われていなかった代替機がすぐに運ばれ、何ごともなかったように旧に復する。
テレビのない時代、メシの時間に子供たちが何をしていたか、あるいは何をさせられていたかといえば、父親や母親の演説あるいは説教を聞かされていた。テレビが人口に膾炙してからは、テレビが親の代わりを務めるようになった。
「自分なら教育改革よりも先ずテレビ改革をする」と自身の著作「オンセックス」で語ったのは鹿島茂で、しかしあのフランス文学者がそれを実際の行動に移すことは考えづらい。第一マスコミの改革など誰にできるというのか。
夕刻より今市小学校へおもむき、春日町1丁目のPTA支部長として、先般の運動会の反省会に臨む。 しその実の買い入れが始まって以来なにかと忙しく、湯河原にて明日から2泊3日の予定で開かれる「自由学園男子部35回生50歳記念修養会」へ参加をするための、新幹線の切符を買うことはできなかった。ちなみに忙しいとは時間が無いとうことではなく、気持ちが忙しいということである。
入浴後は
「他流試合 兜太・せいこうの新俳句鑑賞」 金子兜太・いとうせいこう著 新潮社 \1,575
を読んで早々に寝る。
夜半に目覚めて「松蘿玉液」を読み終える。これで子規の四大随筆はすべてこなしたことになる。しかし僕の本の読み方は覚醒と睡眠のはざまに文字を追うような塩梅だから、それほど真面目なものではない。
現在「松蘿玉液」は手に入りづらく、そのため「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」と時を追って後、ようよう届いた「松蘿玉液」を今度は時を遡って読むこととなった。これら4冊を振り返ってみれば、書物に対してイイカゲンに取り組んでいる身としては甚だ僭越ながら、病いよいよ亢進して死を目前にしてからの、息も絶え絶えの中から発した一言半句こそより研ぎ澄まされ、しかも重い。
この日記において僕は読書感想文のようなものは書かず、その理由は以前このウェブペイジ内"BANYAN BAR"の「本読み」に記した通りだが、しかし子規晩年の随筆に限っては、その都度あれこれ考え、またここになにやら書きつけた。 このようなときには得てして次に読むものの選択が難しい。「坂の上の雲」から「ひとびとの跫音」という線もあるが、前者はその初版全巻を甘木庵に置き放って既に30年が経つ。
初更、窓の外を眺めるうち、弦をふくらませた月は弧を描いて徐々に右下へ落ちかかる。彼岸にもかかわらず、扇風機を片付けられるほどには涼しくなっていない。
「平成19年度食品衛生指導員部会及び研修会」というものに出席をするため、午後3時に「ブライダルパレスあさの」へ行く。研修の内容にメリハリをつけるためだろう、講義と講義のあいだに参加者百数十名の中から4名が無作為に選ばれ、手の平の菌数検査が行われる。
その4名には僕も含まれたから「これは面白い」と思いつつ前へ出て、特殊な器具で手の平を撫でまわされる。次には「それではこれから逆性石けんで手を洗ってきてください、それで菌数がどれだけ減るかを調べます」と指示され、手洗い所で手を洗ってふたたび会場へ戻ろうとすると、僕の手に測定器を当てた係の「駄目だ、こんなに少なくちゃサンプルにならねぇ」とぼやく声が聞こえてきた。
手洗い前と手洗い後の手の平の菌数はそれぞれ
A氏(7,351/491) B氏(5,295/718) C氏(15,886/844) 僕(1,812/77)
というものだった。いちいち数えてはいないが僕は日に数十回は手を洗う。おまけにアルコール噴霧器で手の消毒をすることが大好きだ。上の数値を見れば、ふだん手の汚い人は、手の洗い方もぞんざいであることが分かる。
夕刻に帰社して、本日は子規の命日だったことを思い出す。
難関を突破してはじめて就ける職をなりわいとしている家では、親にその気がさらさら無ければどうということもないが、子に跡を継いでもらいたいとなれば相応の胸苦しさがある。
顧問税理士スズキトール先生の息子さんは昨年、いまだ大学院生のうちに税理士の資格を得た。税理士試験の合格率は僅々2パーセントである。その息子さんが今年はなんと、弁護士と弁理士の試験にも受かってしまったという。
滅多にない慶事にて「お祝いはどうする」「蘭の花とか」「今回はお花よりもシャンペンじゃないの」というような会話を家内と交わし、2階のワイン蔵に1985年のドンペリニオンがあったことを思い出す。
1985年はフランスのワインにおける当たり年だがシャンペンはヴィンテイジよりも新鮮さが身上だ。念のために初更、これを抜栓してみれば泡立ちは良くてもヒネ臭は隠しがたい。「人にワインを贈るときには複数本を準備し、味見をした上で用いるべし」と、この齢になってひとつ利口になる。
それにしてもこのドンペリニオン、古さを増してアルコール度数が高まることは考えられないから僕のからだの具合だろうか、グラスに2杯を飲んだのみにてずいぶんと酔う。そして「お祝いにはマグナムだろう、やっぱ」と考える。
この3連休に入らんとするときの天気予報は土曜日が晴れ、漸次曇りがちになって月曜日は雨模様とのことだった。お客様には常に新鮮な商品のみ提供し、繁忙に際しても商品の作り置きをしないこと我が社の方針のひとつで、だから上記の予報に鑑み、本日店舗に並べる商品については、これを少なめに調整した。
ところが朝方の霧雨は7時にて止み、その後は晴れ間が見え始めると共に気温も上昇の一途を辿った。これに従って客足も繁くなり、昼ちかくにはかなりの賑やかさとなる。
午後2時30分、「らっきょうのたまり漬」に売り切れの懸念が生じたため、地方発送の現場から余裕のある分だけ店舗へ戻し、店舗では冷蔵ショウケイスにおける陳列幅を狭め、空いた場所には他の商品を補充する。
閉店時に残った「らっきょうのたまり漬」は、指を折って数えきれるほどに過ぎなかった。
本日は3日連休の中日にて、しその実の買い入れに人員を割ける状態ではなく、契約農家には早くからこの日の休みを種々の方法で知らせておいた。そういう繁忙のさなかに入社試験も重なり、朝から夕方まで走りまわる。
現在の閉店時間は17時30分で、しかしウチは店内にお客様がいらっしゃるかぎり店は閉めない。店舗のシャッターが降りたのは18時15分だった。
我が町で美味いステーキを食べようと思えば肉は自宅で焼きタレは洋食の「金長」で求め、ワインはウチの2階にあるワイン蔵から調達するのが一番だが本日は体力の消耗はなはだしい。よって卓上のボタンでピンポンとウェイトレスを呼ぶ式のレストラン"Big Boy"へ行き、ステーキとサラダを酒肴として赤ワインを飲む。
ファミリーレストランや、あるいは若い人を意識した焼肉屋などの赤ワインが多く摂氏5度ほどまで冷やされてあるのは、これをその温度帯で飲みたいと考えるお客が最大公約数を占めるためだろう。
夜半0時30分に目を覚ます。「仰臥漫録」を読み終えてからは
を読み始め、あるいは疲れて灯りを落とし、しかし眠りもできないためまた読んで、これを繰り返しているうち朝になる。
7時50分に雨をちらつかせた雲は、その20分後には空から一掃された。真夏のようなまぶしさを帯びた今市小学校に、運動会の手伝いのため行く。次男は自分が出る競技以外の仕事として応援団を希望したが、担任の先生の指名を受け、進行や実況のアナウンス係となって、その席に座っている。
僕に与えられた仕事は道具の出し入れだった。プログラムの要所要所に蛍光マーカーで印をつけ、これを気にしながら綱引きの綱や体操マットをグランドに運んだり、後にはそれらを体育小屋へ片付けたりする。
閉会式が済めばグランドは潮が引いたように閑散とする。お父さんたちとテントの片付けなどをし、日焼けしたからだを引きずるようにして帰社する。
初更、次男のアナウンスや騎馬戦のヴィデオを見ながら芋焼酎のソーダ割りを飲む。
町内の小学校支部長が何をする役かは知らないが、とにかくその役目のひとつを果たすべく、運動会を明日に控えた今市小学校へ午後一番で行き、テントを張ったり、あるいは入場門の高いところに「秋季大運動会」の額を取り付けたりする。
校庭のあちらこちらに散ってそれぞれの仕事をこなしていた親たちが、やがて役目を終えて三々五々、帰宅の途につくころ、マイクとスピーカーの接続と調整をしているオジサンを見たら、僕がこの小学校に通っているときの電気屋さんと同じ人物だったから「いやっ、すげぇ」と、その健在ぶりに大いに驚く。あのころ僕の年齢はふた桁になったばかりで、とすればオジサンは充分に大人に見えたがその齢はせいぜい20台の後半くらいだったのかも知れない。
明日も僕は小学校で何かの役目を振られている。しかしその内容については聞いても理解できず、だから明日、実地に臨んで教えてもらうこととする。
今月11日の日記に書いた葱のことをサイトートシコさんに言うと、それは葱坊主を作らず、1本を植えただけで驚くほど増える夏葱ではないかとのことにて、きのう自宅の畑から持ち来てくれた。今夕は晩飯の最後にこれの刻んだものをどっさりと器へ盛り、鍋の残り汁をかけまわした後、塩胡椒をして飲む。はなはだ美味い。
ブリア・サヴァランが僕のメシの記録を読んだら、豪語するとおり僕という人間の内奥を特定することができるのだろうか。「そりゃ無理だろう、やっぱ」と思う。 「君の居間に飾りおく絵を見せてくれ、君がどのような人間か言い当てよう」というのはどうか。こちらの方が人物の評定法としては、より確実のような気がする。
壁に穴を穿つことを好まないため、絵は壁に掛けず棚の上に置いたり、あるいは100号を超えるものについては床に立てかけたりしている。
何週間か前に、すこし大きめの地震があった。そのとき朝鮮の飾り棚から落ちた唯一が堂本右美のドローイングで、割れたガラスが作品を傷つけることを恐れ、そのまま仰向けに放置した。その粉々のガラスを今朝は思い切って先ずピンセットで、素手の方が安全で効率の良いことが分かってからは指でつまみ持ち上げ、あるいは額の溝から引き抜いてすっかり綺麗にする。
このまま元の場所に戻しても良さそうなものだがホコリの付着は避けたい。ガラスはいずれ、宇都宮の白木屋で入れてもらうことにしよう。
「病床六尺」の74番目の文章を数日前に読み、また宋岳人の句集「味蕾」をきのうから今朝にかけて読んだ今となっては「ウェブ日記に自分の俳句を露出するなど、とんだ恥さらし」と考えるようになった。俳句と真面目に対峙している人はそれこそ真剣で、しかし僕のはいわゆる「イイカゲン」である。
それはさておき「仰臥漫録」に「夕顔と糸瓜残暑と新涼と」および「青崖と愚庵芭蕉と蘇鉄哉」の2句を認め、「ムスカデとチコリと皿と手長蝦」という、1992年の自作を思い出す。その1992年から更に10年を遡った1982年の句も記憶にあり、こちらは「眼下一面菜の花にしてカトマンズ」というものだが、これが果たして俳句と呼べるかどうかは分からない。
とんだ恥さらしと言いながら、その上塗りをする。
春あたたくなり始めてから秋が寒くなるまでの長葱は硬く乾いて美味くないため、この時期にはその代わりに万能葱を用いる。納豆の薬味としての随一は、僕の好みからすれば大根おろし、二番手が長葱で、それらにくらべれば万能葱は大きく落ちる。
そういうわけで諦めていた長葱だが先月末、所用にて"Casa Lingo"はす向かいの農業協同組合へ行くことがあり、ついでにその脇の直売所を覗くと、細くて短いながら紛うかたなき長葱があったからすかさず買い、その後の数日間、これをあれこれの薬味に使ってみたところとても美味い。
どういうたぐいの長葱なのか、その正確なところは知らないが、今年これから寒くなるまで、また来年の春から秋にかけては繁く直売所を訪ない、この香り高く瑞々しい長葱にありつこうと思う。
本日より、近郷の農家からのしその実の買い付けが始まる。この時期の我が社は店舗駐車場から蔵の奥までしその実の若々しい香りに満ちて、香味野菜の好きな者には陶然とする環境が与えられる。
しその実はそのまま積み置くと熱を発し、ごく短いあいだに黒く乾いて使い物にならなくなる。そのため検査と計量を終えたしその実はただちに製造現場へ運ばれ、3連の水槽で念入りに洗浄される。
洗浄の次は脱水、塩切りを経て大桶に入れられ、重しをして冷蔵庫に運ばれる。
今月は、この決して楽ではない仕事に並行して茗荷の買い付けもある。茗荷もしその実と同じく入荷と同時に下処理をしなければ、こちらは黄色い芽を吹いて軟化するからやはり使い物にはならない。
しその実の下処理に従事した社員のもっとも遅い退社が午前2時、という記録が過去にはあった。今年はそのような狂騒なきようしたいが自然が相手ゆえ、どのような塩梅になるかは不明である。
今早朝に「病床六尺」を読み終え、初更より
を読み始める。
朝、おばあちゃんの居間のカーテンを開けると、ガラス1枚を隔てて目の前にカマキリがいる。カマキリは頭を下にし、いわゆる「蟷螂の斧」は畳んで摺り合わせるようにしている。「なにか欲しいものでもあるのだろうか」と思うが無論、話しかけることはしない。
午前、次男を送って丸山公園のテニスコートへ行く。本日はストレッチの先生が来て、10時から1時間ほどもその講義を聴く。講義とはいえ座学ではなく実際にからだを伸び縮みさせ捻転させるものだったから、当方は一時、腹筋を攣らす。
ここで「ハハハ」と嗤った人は蹲踞の姿勢から両腕を斜め前へピンと伸ばし、左のかかとを右手の指先に着けて欲しい。これのできた人のみ僕を嗤う資格がある。
午後、サイトートシコさんが見事な葉の大根を持ってきてくれる。暑い時期の大根は季節はずれのように思われるがこれは鶏頂山で採れたものだから充分に美味い。
晩飯どき、この葉と油揚げの炒め煮びたしを酒肴としながら「明日の朝飯は、これにてお茶漬けを際限なく食べよう」と決める。
深夜と明け方のあいだには、地面に水しぶきを上げて走るクルマの音が聞こえていた。しかし午前7時の天球には台風一過の空があり、湿った闇から乾いた光への移り変わりの鮮やかさに目を見張る。
午前、次男をともない丸山公園へ行くと、、本日はテニスクラブの練習を手伝う父親の数が少ないのだろう、当方は子供たちの打つサーヴのレシーヴ係をする羽目になり、炎天下に15分これを務めただけでフラフラになる。
ウィンブルドンなどで試合が長引いた場合、プレイヤーはあの狭いコートの中を最大で6千メートルも走るという。エヴェレストに無酸素で登れるほどの体力と思われるが、当方はその足許にも、否、かかとの皮膚にも及ばない。「休憩まであとどれほどだろう」と心配になったところで会社からの電話に救われる。
夕刻になって体内の水分が枯渇し、年に何度と口にする機会のないコカコーラをコンビニエンスストアより買い来て飲む。
駿河半島付近から本州に上陸した台風が日光地方を通過したのは午前9時のことだが、さしたる風雨はなかった。ところが所用により鹿沼へ行こうとして三菱シャリオで例弊使街道を下っていくと、10数キロを走るうち、既にして道路脇に寄せられてはいたが、倒れた杉の大木3本を目にする。センターラインは杉の落ち葉に隠されて見えず、路肩には何やら探し出してこれを拾おうとしている人が、やはり2、3人はいた。彼らは一体なにをしているのか。
2時間後に日光へ戻ると日が射し始め、店舗駐車場の松葉ボタンがその日差しを受けている。オレンジや白や紫の花のまわりには種々の雑草が目立つ。しかしその雑草は吹き寄せに似て大いに悪くない。むしろ「雑草こそおかし」というほどの風情がある。
花と雑草のあいだにどれほどの価値の違いがあるのかは知らないが、雑草は雑草というだけでいずれは抜かれてしまう。雑草好きは自らが世の少数であることを知っている。少数を以て大勢に対抗するのは苦であるし、なによりたかが雑草のことだから黙って大勢に従っている。
咲きたい花は好きに咲け、おおむね雑草だけの庭、とはいかにも僕の好みだが、雑草はやがてススキと見まがうばかりに伸びるから、これを刈ることの好きな人と仲良くなっておくことが肝要である。
死を目前にした子規が新聞「日本」へ連載したウェブログが「病床六尺」だ。その中身はまさに「鳴いて血を吐くホトトギス」で、こういうものを半覚半睡で読むのは失礼と思いつつ「しかしそれは世に出てしまった作品の宿命だろう」と居直り、今朝もこの薄い文庫本を読み、かつ眠る。
2日間の社員研修中に仕事が溜まった、というわけではなく、本日その日に日時を特定された仕事が複数あって、朝から繁くコンピュータへ向かい、あるいは外まわりをする。
台風はいよいよ関東地方上陸の気配にて、JR東海および首都圏の列車には、新幹線も含めて運休が目立ってきた。日光MGへ参加をされた「リバーストン」の社員さんたちが大阪へ帰られた昨夜には、いまだダイヤの乱れもなく、本当に良かったと思う。
日光MGの会場「晃陽苑」は日光市瀬尾地区にあり、山を背負って初秋の緑は目に痛いばかりだが、瑕僅としては携帯電話などの電波が弱い。だから僕は早朝に帰社してメイルの送受信や日記のサーヴァーへの転送を行うことにしている。
今朝は大阪から参加のヨシダ社長を伴い、通用口から会社に入ってお互い"Think Pad"を取り出し、外部の諸々を取り寄せる。顧客からのメイルへ矢継ぎ早に返信をつけていく僕を見てヨシダ社長が「前夜との違いには驚くばかりです」と苦笑いをする。本日午前1時、僕は露天風呂において、漱石枕流の状態で眠っているところをヨシダ社長に発見されたのだ。
8時に「晃陽苑」へ戻り、朝飯を食べる。晴れたかと思えば強雨が来襲したりと、窓外の天気は目まぐるしい。格好の餌でもあるのか、池の上には燕が群れ飛んでしばし季節感を喪失する。
僕は小さな会社が好きだ。セントラルキッチンを備えた居酒屋ではなく、お酒は湯島の「シンスケ」や月島の「味泉」で飲みたい。マクダーネルで晩飯を食うのはイヤだ、路地の奥にある洒落たビストロへ行きたい。
そういう、小さくても優れた会社をマネジメントゲームの盤上に展開するにはどうすべきか、その答えのひとつを今日は見つけたような気がする。
5期を終了し、出席者中最高の自己資本759を記録した最優秀経営者はヨシダゲンゾウー社長、2位の優秀経営者は販売係のトチギチカさんで、同値は497だった。
マネジメントゲームでは、来期のバランスシートが一定の水準を超えないと、いくら自己資本が高くても表彰の対象にはならない。第5期の資金繰り表最終行に至って次期繰り越し在庫の足りない僕は、このまま終了すれば社員の誰かに表彰状を得させられると一瞬、考えたが勝負は勝負だ。市場に払底する材料を海外に求め、3位にすべり込んだ。
最後の講義があり、原稿用紙数枚分の感想文を書く。玄関のポーチで社員たちがトラックに荷物を積み込み、僕と家内は先生およびヨシダゲンゾー社長、フジタコーヘーさん、ユアサシンノスケさんをクルマに乗せて打ち上げの席へ向かう。
「らっきょうのたまり漬」を持ち込んで作ってもらった"Casa Lingo"の「らっきょうのたまり漬ピッツァ」は、先乗せのらっきょうが土釜で蒸し焼きにされても生の食感を保っているところが不思議だ。ワインが飲みたくても日光MGの2日目は断酒をすると決めている。
下今市駅には、上り特急スペーシアの発車する7分前に着いた。今夜、台風で新幹線が遅れるようなことがなければと願う。もっとも遠方からのハラダさんは大阪までお帰りになるのだ。
マネジメントゲームを終えると、空いたゲレンデで朝から夕刻までスキーをしたくらいの疲れが残る。帰宅して入浴し、9時に就寝する。
ベッドマットの上で目を覚ますと部屋はすべての明かりを灯されて煌々と明るく、時刻は4時18分だった。昨夜、枕頭に用意した
はもちろん、そこにあるだけで読めてはいない。ふたたび眠りたいという欲求はなく、起きて洗面の後、きのうの日記を作成する。
"ThinkPad X60"を携え6時30分に外へ出る。台風の接近中にて天気の悪化に懸念をしていたが、今朝の空には雲の一辺すらない。三菱シャリオを5分ほど運転して会社に戻り、顧客へメイルを書いたり、あるいは日記をサーヴァーへ転送する。
9時30分に「第14回日光MG」が始まる。日光では年に2度のMGを開催している。これがもう7年の歴史を刻んだかと思えば感慨も深い。夜、交流会の席上では3日後より始まる秋の材料購入につき、特に社外の方たちの興味を喚起するような報告をする。
交流会場、また露天風呂にてヨシダゲンゾー社長と話し込み、1時ちかくに就寝する。
1995年、社員旅行で四国へおもむいた際、松山に1泊をした。翌朝、松山城へ登る坂に「松山や秋より高き天守閣」の碑を見て僕は「松山の秋より高し天守閣」の方がいいんじゃねぇかと添削をした。
子規は神様ではないから僕のしたことを「神をも恐れぬ所行」とはいえないが、しかし相当に向こう見ずな行為には違いない。
「山の端の紅く滲みて友を待つプラットフォームに虫は鳴きつる」の歌を、夕刻6時40分に詠む。「虫は鳴きつる」「虫は鳴きけり」「虫は鳴きおり」の意味をそれぞれ説明せよと言われても僕にはできない。文法は数学に似て、だから僕は文法はさっぱりである。
日中国交正常化の折、宰相田中角栄は自作の漢詩を携え北京に飛んだ。毛沢東はその詩を一読するなり鼻で嗤ったという。「山の端の紅く滲みて友を待つプラットフォームに虫は鳴きつる」を読んで、同じく「バーカ」と思う人も多かろうと思う。
西hinano先生、「リバーストン」のヨシダゲンゾー社長、同社員さん2名を乗せた下り特急スペーシアは、時刻表どおりの6時41分に下今市駅へ着いた。彼らにはいったん会社へ来ていただき、ことし3月に新設した研究開発室などをお見せした後、会席の「ばん」にて日光MGの前夜祭を行う。
東照宮の研修施設「晃陽苑」に着くと11時が近かった。どこでそれほどの時間を費消したかは酔っていたから知らない。
店舗の繁忙を1年の中で見てみれば新緑、お中元、紅葉、お歳暮と4つの山がある。製造の方では店舗に商品を供給する他に材料購入や漬け込みの繁忙が、店舗とは時期をずらしてやはり年に何回かある。
9月にはしその実と茗荷の材料購入があり、両者の入荷する日は重複している。しその実も茗荷も入荷したその日に処理しなければ使い物にならない。それに加えて茗荷の漬け込み量は数年前とくらべて数倍になっている。だからこの間の製造係は楽でない。
「しその実と茗荷を塩漬けして冷蔵庫に収めたら打ち上げだな、打ち上げは焼肉として、それまでは焼き肉屋へ行くことを封印しよう」と考えていたが、本日はその考えをすこし修正し、打ち上げの下見のために焼き肉屋へ行く。
世の中に右利きと左利きのどちらが多いかといえば、右利きが左利きを圧倒して多いから、世の中のほとんどの道具は右利きに便利なようにできている。左利きは不便をかこつことしばしばだが、自らは少数派だから仕方なく多数に従っている。
冷蔵庫の扉の開閉方向も、大方は右利きに便利なようにできている。よって今般、会社で購入しようとしている冷蔵庫についてもそれを懸念し、頼みつけの冷蔵庫会社に問い合わせてみると、業務用のそれは別製だから、扉のちょうつがいは右にも左にも付けられるという。
僕が自分の持ち物としているクルマはすべて右ハンドルのマニュアルシフトで、これは、幼児期まで残っていた左利きの癖により、右腕ではギヤチェンジのしづらいことがその理由のひとつになっている。日本は左側通行の国だからクルマのハンドルは右側に付いている方が常に便利で、この点についてのみは自分の左利きも有利に働いていると感謝している。