自分が折に触れ食べて「美味いなぁ」と感心している品を聚め、ここにたまり漬を添えた「日光の美味七選」は、ヤマトが1日で届けることのできる本州と四国のみを対象としてご注文をお受けした。
そこには本日が消費期限の品がふたつ含まれ、そのひとつは「松葉屋」の刺身湯波、もうひとつは「玄蕎麦河童」の盛り蕎麦である。蕎麦は年越し蕎麦でもあるから本日中にこれがお客様のお手元に届かないような事態が発生することは許されない。
テレビの天気予報によれば本日は極端な西高東低の気圧配置にて、日本海側は言うまでもなく近畿地方から関東地方の南部に至るまで大雪の降る可能性があるという。よって午後から限定数40の送り先すべてを、ヤマトのコンピュータに入って追跡する。
午前9時台に京都へ、あるいは午前11時台に秋田に到着した優秀な例がある一方、夜6時をすぎて埼玉県に届かないものあり、気を揉んだが18:29に最後の着荷を確認し、4階の居間へ戻る。
簡素ではあるが美味い晩飯を食べて9時30分に就寝する。
午前、ヒョウと見まがうばかりの大きなアラレが降ってくる。その中を町内の「松葉屋」から湯波が届く、あるいは家内が受け取りに行っていた「玄蕎麦河童」の蕎麦や「晃麓わさび園」のわさびが社内に運び入れられる。「久埜」の栗きんとん、"Chez Akabane"のチョコレート、「柏盛」の原酒はきのうのうちから整っていた。
これら地元の優れた品々とウチのたまり漬とを組み合わせた「日光の美味七選」の荷造りを午後一番より始め、4時間後に完了する。本日は日曜日にて、普段荷造りをしている現場の社員は休みである。予想した倍の時間がかかってしまったのは、間違いを避けるための確認を入念にしたためだ。
顔と態度には出さないものの、年末の繁忙にて宅急便の運転手は疲労の極みにあるのではないか。そういう次第にて本日は閉店後のミーティングを中止し、フォークリフトを使って「日光の美味七選」の積み込みを手伝う。
お客様のお手元にこれを正しく配達する仕事はヤマトに委ねられた。明日の午後からは、これらの荷物の足取りを追跡する。夜はメシの合間にときおり事務室へ降り、着荷の確認をすることになるかも知れない。
人員のやり繰りの都合上、午後1時30分から昼飯を食べる日々がこのところ続いている。そういう日は仕事を終えても腹が減らず、消化剤を飲むことが多い。ところが本日はたまたま正午すぎに昼飯を食べることができ、すると夕刻にはひどくメシが待ち遠しい。
今月17日の日記に書いた通り、本日は飲酒を為さない。晩飯のおかずは寒鰤の照焼きにて、相手に不足はない。
長男の知る人に「米のメシは確かに酒よりも美味い」という意見の持ち主がいるという。僕もその意見に同意をする者のひとりであるし、あるいは長男も、それを否定はしない。それではなぜそのような人が、あるいは僕も長男も、普段は米のメシを食べずに酒を飲むか。
魂が開放されるような酒とは、そうそう飲めるわけではない。僕にとっては先月21日のドライシェリーが、珍しくそのようなお酒だった。そして「あしたは白ワインだ、しかしあさっての大晦日はどうしようか」と、意義も益もないことを考える。
8時45分にパドックへ行くと、"BUGATTI TYPE35"は"EB Engineering"のタシロジュンイチさんにより、既にしてトランスポーターから地上に降ろされていた。何より気温は低いから、クランクを回してエンジンをかけるのは難しい。これをホンダフィットで牽引しながらパドックを1周半するあいだに直列8気筒は突然に目覚め、野太い排気音をあたりに轟かせはじめた。
9時より「ツインリンクもてぎ」の西のショートコースに出る。新品のタイヤを慮って、またエンジンやオイルを温めるため、はじめの2周だけはエンジンを最高で2000回転までに抑える。その後は徐々に速度を上げ、昨年は車体が激しく振動しはじめた4速の3500回転から、メインスタンド前のストレートでは更にスロットルペダルを踏み続けてみる。
と、"Jaeger"の針が3700回転に達しても、身に覚えのある振動は起きない。エンジンの余裕はなおもあるが、第1コーナーは間近に迫っている。ブレーキペダルを強く踏み、ギヤを3速に落としてハンドルを右へ切っていく。
第1と第2の右コーナーは、3速の2500回転まで速度を落とせば特に緊張するところはないと、昨年の経験から知っている。バックストレッチからシケインを抜けて後の、上り逆バンク気味の最終コーナーも、同じく3速の2500回転で危険はない。
ブガッティのギヤは極端なシフトダウンでない限り、特に回転を合わせなくてもガツンと一発で入る。しかし極端なシフトダウンを避けるためには、エンジンの回転をそれなりに落とす必要がある。
いったん休憩の後、ふたたび出て行ったコースのメインストレートで4速3700回転まで速度を上げる。第1コーナーまで100メートルのところでフルブレーキをかけながら、しかし"heel and toe"を用いて速度は先ほどよりも高い3速3000回転に保つ。そのままハンドルを右に切っていくと、細いタイヤは気味の良くない音を発しつつ滑っていくが、ここは操縦者とクルマとのチキンレースにて、決して臆するべきでない。
スロットルペダルを踏めば後輪だけが外に振り出されるから、つい数秒前までは「曲がりきれないのではないか」と危惧した第1コーナーを余裕で過ぎ、第2コーナーも難なく脱してバックストレッチへと向かう。
最終コーナーも同じくクルマを滑らせ上がっていくが、しかしこのような実験は、同乗者のいるときにはもちろん行わない。こうして右コーナーを攻め続けたせいか、新品のタイヤは特に左前輪においてずいぶんと減ってしまった。
昼食の後は差し入れのお茶を飲んだり甘い物を食べたりしてのんびり過ごし、ときおりコースに出ては、今後の課題を確かめながら周回を重ねる。タシロさんは来春早々から燃料タンクと燃料パイプの清掃を、その後はボディの立て付けの調整を行うという。
冬の日の傾くのは早い。我々が前泊したホテルでは今夜「阪納誠一メモリアル走行会」の懇親会が開かれる。しかし当方にその余裕はない。3時30分にパドックを出て5時すこし前に帰社する。
暮のお稲荷さんの掃除については、学生のころから僕がこれを担当してきた。それを人任せにするようになったのは、販売係に男子を採用し始めた2003年のことだ。今年は入社して9ヶ月目のサカヌシノリアキ君に、「お稲荷さんは結局のところ、これがもっとも効率よく綺麗にできる」という方法を伝授する。
来る新年のお供えとしての味噌と醤油と漬物を明朝、ハセガワタツヤ君が瀧尾神社へ奉納する際には、社内の古いお札などもついでに持参をするという。よって幣束や破魔矢、熊手、お札などは今日のうちに神棚から降ろし、大きな段ボール箱にまとめておく。
夕刻ホンダフィットに長男と次男を乗せ、68キロの道のりを1時間25分かけて「ツインリンクもてぎ」に到着する。「ホテルツインリンクもてぎ」は国内で僕の知る限り、サーキットに附属の宿泊施設としては最高のもので、一般のホテルにくらべても洒落ている。
本日12歳の誕生日を迎えた次男の希望により1階のレストランへ行き、乾杯ののち晩飯を食べる。「阪納誠一メモリアル走行会」の懇親会は明晩にて、今夜から前泊する人は少ないらしい。
酔って部屋へ戻り、入浴は割愛して即、就寝する。
栃木県内の37神社で構成する「県神社広報会議」が瀧尾神社で行う「天地災害鎮め祭」については数日前、町内のタケダミッちゃんより「私も料理の手伝いに行くんだよ」と聞いていたため、それほど形式ばったものでもないだろうと考えていた。
朝7時50分に、普段着の上にツィードのジャケットを羽織り、エールフランスの客室乗務員からオフクロがもらってきた赤い毛布を首に巻いて鳥居の前まで来ると、しかし本日のお祭りは、日光市長は来ている複数のテレビ局も来ているという、なかなか物々しいものだった。
背後から近寄ったらしいイワモトミツトシ春日町1丁目区長が僕の首から赤い毛布をはぎ取るなり「どこかに置くとこ、ねぇかな」と言うので「赤い色は神社にふさわしくないのだろうか」といぶかしむ。
本殿前に進むと、東は水色、西は白、南は赤で北は紫という長い布を結びつけられた4本の柱が地面に埋め込まれ、その中央には京都の上賀茂神社にあるような砂の三角錐が、東西南北のそれぞれの柱の下にも同じものが各ひとつずつ築かれている。
本日2006年12月26日は、我が町を大震災「今市地震」の襲ったその日から58年目に当たる。過去400年を遡っても、栃木県地方の天変地異は日光地方に多く発生している。また今年は夏に新潟中越沖地震もあり、それらを鎮撫するためのこれはお祭りであると、集まった宮司、禰宜、権禰宜のうちのひとりが朗々とした声で説明をする。
今市地震の第一波が発生した8時17分に一同は黙祷し、最大の揺れの来た同25分に、僕は西側にある砂の三角錐を、他の3名はそれぞれ北と南と東のそれを木剣で左上より切り払い、これを以て地を鎮める儀式の主なところは完了した。
奏楽、祝詞の奏上、玉串奉奠を経てようやく、災害当日の炊き出しを彷彿させるお粥と味噌汁の配給を受け、これが本日の直会だった。
帰路、日光街道を徒歩で下りながら「こういうときにツィードとリーヴァイスじゃマズイわな、靴もメレルのジャングルモックだし」と反省をする。いま持っている礼服は、生地は良いものの胴回りがきつすぎる。「もう一着、誂える必要があるだろうか」と考えながら帰社する。
夜7時より次男の同級生タカマツヨッチの家に出かける。次男の誕生日には毎年、、ここで河豚一式を食べることにしている。誕生日は明日だが、明晩は日光市を離れているから1日だけ繰り上げをした。
メシの途中でヨッチの父親が、今回の河豚にはとても立派な白子が入っていたと教えてくれたため、そのうちの特に大きなものは塩焼きで、小振りのものは鍋で食べることとする。
ヒレ酒は3杯に留め、その代わり帰宅してからビール500CCを飲む。
タイヤの空輸が間に合い、"BGATTI TYPE35"に残された今回の課題はすべて乗り越えたと、古典車修復工房"EB Engineering"の責任者タシロジュンイチさんから電話で聞いたのは数日前のことだった。
しかし繁忙によりなかなか会社を抜け出せず、本日の午後になってようやくその仕上がりを見に行くことができた。
動態保存されたクラシックカーのために"EXCELSIOR"が作り続けている"BEADED EDGE TIRE"はトレッド以外の、すこし走ればすぐに摩滅してしまう小さな突起も初々しく"35"のホイールに取り付けられていた。四半世紀も前のタイヤを履いたままでいたことが、土台間違いだったのだ。
ツインリンクもてぎの直線をどれだけ速く走ることができるか、上り逆バンクの最終コーナーを、どこまで安定した挙動で抜けていくことができるか、それを試す日は3日後に迫った。
初更、晩飯の内容から、きのう余らせた"Beaujolais Nouveau Selection Chevalier 2007"は取りやめ、ワインは白いものにする。
朝5時に起きて事務室へ降りる。6時がちかくなったころ外へ出てみると、雨はつい今しがたまで降っていたのだろう、玄関前の笹の葉が濡れている。にもかかわらず東の空は紅い。天候は回復するらしい。
午前、植木屋「日光園」のナカザワハジメさんが門松を届けに来る。社員たちは何日も前から、手分けして社内の清掃をしてきた。新年を迎える準備が、徐々に整っていく。
夜、静かにメシを食べる。シャンペンや味わいの薄いワインはひとりで1本を飲むことができる。ところが今夜のボジョレヌーヴォーは強烈にて、家内と手分けをしても300CCほどを余らせた。残りは明晩に、また飲もうと思う。
朝5時に洗面所へ行き窓を開けると、北西の暗い空に日光の山々の麓から中腹までが見えている。直線距離にして10キロ以上は離れているだろう霧降高原の山道を上り下りするクルマの明かりが雨にもかかわらず明瞭に見えるのは、それだけ空気が澄んでいるからだ。その、北西の山から吹き下ろしている強風は、この季節にもかかわらずむしろ温かい。
昼に帽子をかぶって買い物へ出て、頭に汗をかく。今月は温かい日と寒い日とが交互に訪れ、まるで春先の三寒四温のような塩梅だった。大晦日まで残すところあと1週間という割に、街に慌ただしさは見られない。
夜、タシロケンボウんちの徳用湯波で鍋を仕立て、これを酒肴として泡盛を飲む。湯波屋は年末需要の極端に高い業種で、ケンボウの家でも11月のうちから年内の予約はすべて埋まってしまっている。
しかしながら僕が味や食感の点で好むのは、湯波を作る行程においてどうしても出てしまう規格落ちの「徳用湯波」で、これなら予約などしなくてもいつでも買える。ケンボウんちの徳用湯波は、いわゆる「人の行く、裏に道あり花の山」であり、あるいはまた、多くの人が欲しがる普通の湯波に隠れた「狭き門」である。
キリストはなぜ「狭き門より入れ」と言ったか、それは、狭い門から入れば人は常に、美味いものを自在に食うことができるからである。
吟行における俳句の作り方について、出かける前に作っておくという手もあると、江國滋の書いた何かで読んだことがある。自分はきのうのものでも今日のものでもなく、明日の日記を書いている、という人に会ったことがある。そういう人たちを見習ったわけでもないが、年末の繁忙を見越し、12月の日記3日分は、11月のうちに書いておいた。
ところがいざ12月になって、この3日分の日記をいずれかの日にそっくりそのまま貼りつけようとすると、そう簡単でもないことが分かった。会社に弁当を持参したところ、その日は創立記念日で昼食が支給された、だったら持参した弁当はどうしよう、というような話である。
午後、フランス料理屋の"Finbec Naoto"に予約の電話を入れると、これから数日間はクリスマスの特別メニュのみだと、店主兼料理長のオオイデナオトさんが遠慮がちに言う。「まぁ、それでもいいや」と、夜7時にこの、料理だけではなくパンもお菓子も美味い店の入口に達し、2時間ほどかけて晩飯を食べる。
「音楽家というものは、良い音楽さえできればそれで満足をしてしまうところがある」と、何年か前にジャズドラマーの原田俊太郎が言うのを聞いたことがある。
音楽家が音楽をするのは仕事だから特に問題はない。ところが僕は、まぁまぁのメシとまぁまぁの酒、加えて面白い本があればそれで満足をしてしまうところがあり、しかしそれらを飲み食いしたり読んだりすることは僕の仕事ではないから「それでは人間として失格でしょう」と反省すること十度や二十度ではきかない。
高級でも何でもないが、とにかくシャンペンの栓を抜いてグラスへ注ぎ、スパゲティから始めてチーズやイチゴで晩飯を締めれば満足をして、後はもう風呂に入って寝るだけである。
そして「オレはとてもじゃねぇけど、夜遅くまで営業まわりなんて仕事はできねぇなぁ、その代わり、せめて朝は早く起きよう」と思う。
「第175回本酒会」に出席をするため、初更"Casa Lingo"に行く。先ずくじを引くとそこにあった番号は14番で、店側が懸賞として用意してくれた"Linea del Sole Sangiovese"をいきなり当てる。
12月の「本酒会」は会費無料で、今回は15本の試飲酒が用意された。15人の出席者が15本の、それもほとんどは一升瓶の日本酒を飲みきれるわけはなく、よって残ったお酒は各自が持ち帰る。
先ほどの14番は、14番目のお酒がもしも余ったら持ち帰っても良いという意味も兼ねる。今夜の14番は「斎彌酒造」の「雪の茅舎」だから「良いお酒ではないか、しかも14番目のお酒となれば、会員も最早そうは飲めず、よって余りも多いはずだ」と、意地汚いことを考える。
お酒の供給元で秋田県能代市にある「天洋酒店」は、乾杯用として喜久水酒造の活性にごり酒「一時」をプレゼントしてくれた。これについてはコバヤシハルオ会員が無事に抜栓し、1年を締めるにふさわしい乾杯となった。
問題は2本目の活性にごり酒「ど」で、普段は「一時」よりもよほどおとなしいお酒だが今日のこれはやけに勢いが良く、熟練の抜栓者イチモトケンイチ会長を数十分も手こずらせた。暴発した「ど」の汚した椅子や硝子窓をこころよく拭いてくれた店の女の人には、厚く御礼をしたい。なおも暴れ続ける「ど」については、途中からオチアイマナブ会員が外へ持ち出し、活動が収まるまでこれを寒中に放置した。
「飲む」というよりは「食べる」と形容したい「ど」に引き続いて次々と味わった中で今回、僕の印象に残ったのは「山本合名 斗瓶囲い」「同 アル添前」「福禄寿酒造 氷点貯蔵」「喜久水酒造 能代比羅夫」「同 喜三郎の酒」の5点だった。
大麦のクリームスープ、牛すじのスパゲティ、ソフトシェルクラブのフリットとローストビーフ、ズワイガニと下仁田葱のペンネ、ナポリサラミとブロッコリーのピッツァなどを酒肴とし、更にマルゲリータの大きなピッツァをお土産にもらって9時30分に帰宅する。
当初はすぐに売り切れてしまうと予想した「日光の美味七選」だったが、ウェブショップに上げて1週間目のおとといになってようやく完売した。予定数量のほとんどは最初の2日間で売れ、しかしその後の5日間は1日にひとつが売れたり売れなかったりの進捗だった。
皮肉なもので、これが完売した途端「えっ、もう売り切れちゃったんですか、欲しかったのに」という問い合わせが何件もあった。こういうお客様の気持ちはよく分かる、欲しいけれども購入の決断がつかず、しかし売り切れた瞬間から急激に「惜しいことをした」という気持ちが亢進していつまでも静まらない、僕も何度くやしい思いをしたことか。
「フォトメンテナンスヤスダ」のペイジに"Leica DII"の売り物がある。情報によれば滅多に出ない上物で、軍艦部の銀の象嵌も鮮やからしい。値段はそう高いものでもない。欲しいけれども既にして、僕は同じカメラの、しかし大して綺麗でないものを持っている。
"Leica DII"の上物は、いまならまだ買える。上物を買って、汚い方を売りに出せば良いのだ。ところがあと一歩の踏ん切りがつかない。しかしてこの"DII"が売れたとき、僕は「日光の美味七選」を買い逃したお客様と同じく「欲しかったのに」の念を残すだろう。分かっていながら、あと一歩の踏ん切りがつかないのだ。
午後より自由学園へ行き、「四年過程4年卒業研究第三回中間報告会」に出席をする。
1978年の僕は同じ卒業研究において、イトーイクオ君、オオハシシンイチ君、ヤマシタヨシマサ君の3人と共に「イベリア半島のイスラム」という主題に沿った勉強をした。当時は「自由学園の卒業研究は到底、ひとりでできるものではない」という考えのもと、みな仲間を募って小さな研究集団を作ったものだ。しかし入口で手渡された今回のレジュメによれば、現在は単独によるものも目立っている。
午前9時から始まったらしい今回の報告の、最後の組が質疑応答を終えたときには午後6時がちかかった。中間報告でさえこれだけの時間を要するとすれば、本番には2日あるいは3日を充てるとか、あるいはテーマごとに場所を設け、聴講者は自らの興味に応じて移動することが必要になるのではないかと感じた。
北千住20:12発の下り特急スペーシアに乗り、凍った道を歩いて10時前に帰宅する。
断酒のノルマを前倒しして達成しつつあるのは、12月最終週の晩飯の内容を既に決めている、ということも関係している。すなわち現在の計画は以下の通りで、酒肴ではなくメシのおかずにするとすれば、それは29日の、鰤の照り焼きくらいのものではないか。
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12.24(月) "Casa Lingo"のハーブチキン、本物のモツァレラチーズによるピッツァ他----------------------------------------------------------------
を読んで10時前に就寝する。
4時前に目を覚まし、しばらくはそのまま静かにしていたが、頃合いを見計らって起床する。宴会のあいだは部屋の金庫に入れておいたコンピュータも、就寝前には枕元に移動をしておいた。闇の中にこれを携え11階の部屋からロビーまで降りる。そしてここのソファできのうの日記を作成する。
夜が明けると外には横殴りに風花が舞っていた。鬼怒川温泉の北方には、このあたりにしては雪の豊富な山がある。そこに降り続く雪が強風に乗り、10数キロを飛んでくるのだろう。
朝食を済ませ、8時30分にホテルを出て9時前に帰社する。
初更、今月に入って6回目の断酒をする。断酒のノルマは月に8回だから、早くもその4分の3を達成したことになる。ことしは残り2週間で、あと2回の断酒をすれば良い。これは楽勝のペースである。
「いまそこのお店にクルマが突っ込んでてビックリした」と、包装係のサイトーヨシコさんが出勤するなり言う。
朝日が斜めに差す日光街道を北へ歩くと、おなじ春日町内の荒物屋安澤屋さんに白い軽自動車が突っ込み、歩道をまるまる塞いでいる。時刻は8時を過ぎたばかりで、数十分前の事故とすれば小学生の登校時間に重なっている。今日が土曜日でなければ、とんだ惨事になっていた可能性は高い。
冬季は使わないテニスコートを閉鎖するため9時前に今市小学校へ向かう際には、わざわざ遠回りをしてこの事故現場に立ち寄り、危険はいつどこにあるか知れないと、次男に説明をする。
氷雨の降っている夕刻、これが雪に変わることを懸念し、四輪駆動の三菱デリカで鬼怒川温泉へ向かう。13.5キロの行程を25分かけて「ホテルニューさくら」に到着する。フロントで「幹事様ですか」と訊かれたため会計係として「はい」と答えたが、お金も宿泊者名簿も携えない僕に、相手はかなり面食らったようである。
それでも春日町一丁目役員会の忘年会は予定通り7時に始まった。1年の労をお互い楽しくねぎらいながら数時間を過ごして後、他の人は二次会などしたのだろうか、夜はすぐに眠くなるから僕は早々に部屋へ戻り、10時前に就寝する。
午前9時30分より社員に賞与を支給する。各自と面談をしながらのため、流れ作業ですぐに終わるというものではない。
午後3時15分に古典車修復工房の"EB Engineering"へ行き、"BGATTI TYPE35"の仕上がり具合につき責任者のタシロジュンイチさんから意見を聴く。
昨年12月28日に「ツインリンクもてぎ」で行われた「阪納誠一メモリアル走行会」におけるこのクルマの問題は3点あった。第一はタンクからエンジンにガソリンを供給するためのエアポンプの空気漏れ、第二はステアリングシャフトを固定する革製ブッシュの劣化によるハンドルのがたつき、第三は4速の3500回転以上で発生する車体の激しい振動がそれだ。
このうちの第一と第二についてはタシロさんが部品を自製して復旧させた。第三の問題つまり4速3500回転以上で顕著となる振動についてはタイヤの真円度を疑い手を尽くしたが、こればかりは実際に走らせてみるまで修理が成功したかどうかは分からない。タシロさんは別途、"EXCELSIOR"製の"BEADED EDGE TIRE"を航空便で送るよう商社に発注をかけたという。
12月はなにかと飲酒の機会が増えるため、月間のノルマ8回のうち本日は5回目の断酒をする。
いくら繁忙でも社員は規定の休みを取らなくてはいけない。そうして人手が少なくなった日には、彼らの仕事を僕が肩代わりする。朝から会社の中を行ったり来たりしているうち夜になる。
「ウイスキーをパッと飲みてぇ気分だ」と暗い街にホンダフィットを乗り出し酒屋へ行く。いつものマッカランと他のもの1本の計2本を購い、帰宅する。
ウチが年末の繁忙から開放されるのは、毎年クリスマスを過ぎてからのことだ。もっともその後も、あれやこれやの仕事は続く。油断することなく年の瀬を乗り切っていこうと思う。
「戦後の巨星二十四の物語」の中上健次の項を読み、10時前に就寝する。
今市小学校の3年から6年まで担任だったエダタダシ先生には3つのことを教わった。
与えられた自分の身体はできるだけ鍛えて丈夫に保て、頭が多少悪くても仕事はできる。しかし体が動かなくなったらどうにもならない、ということがひとつ。これを言われた当時は「頭が悪くちゃ話にならねぇじゃねぇか」と思ったが、社会人になってみれば、なるほど先生のおっしゃったことに間違いはなかった。
決められた道具は本来の目的以外のことには使うな、というのがその二つ目で、これは同級生が、ドライヴァーを玄翁のように使って壁に釘を打ち、木製のグリップを穴だらけにしたときに先生がおっしゃったことだ。フォークリフトの、本来は物を持ち上げるためにある爪に乗り、結果として頭蓋骨を割った人を僕は知っている。
サッカー選手のユニフォームはなぜあのように派手なのか、それは、45分間を走りつくし意識が朦朧としているときでさえ瞬時に敵と味方を識別できるよう、ああいう風になっている、というのが三つ目の示唆だった。年の瀬の荷造り現場は、まるでロスタイム時のサッカー場のようだ。先生のこの教えから、係へ回す発送伝票には太いサインペンや蛍光ペンを用い、できるだけ視認性を高めている。
「分かった、3つの教えについては分かったが、一体全体エダ先生は、机の上の勉強については教えてくれなかったのか」と問われれば「教育と食パンは耳のところがいちばん美味い」とだけ僕は答えたい。
きのうサーヴァーへアップした「日光の美味七選」が夜中に売り切れた場合、それ以降にご注文くださったお客様に後からお詫びをするのは心苦しい。だからこれから数日間は、受注状況を徹夜で監視している必要があると、はじめは考えていた。
ところがウチのウェブショップで決済に利用しているYahoo!のシステムは在庫の設定が可能で、ひとつ売れるごとにカウントが減っていき、0になったところで注文できなくなる仕組みのあることを、遅ればせながら知った。
「酒気を帯びて売れ行きの監視はできない、だから当然、これから数日のあいだは断酒をする」と決めていたが、そういう便利な仕組みがあるなら話は別だ。というわけで当初の予定を変更し、晩飯どきにはバキュバンで栓をしておいた紅白のワインに加え、泡盛を飲む。
自分は普段、地元の美味いものを食べている。美味いものとはいえ高価なものではない、野に咲くれんげ草のような店が、良質の材料を手塩にかけて作り上げていく、微々たる生産量のあれこれである。
このあれこれをどうにかしてウチのお得意様に召し上がっていただけないか、そう考えて企画したのが「日光の美味七選」で、今朝はその紹介文の最終案を"Computer Lib"のマハルジャンさんにメイルで送付した。
午後も遅くなるころ、マハルジャンさんからペイジ完成の報告メイルが入り、先ずはトップ、そしてそこからリンクした紹介ペイジを確認する。
吉田松陰は伊藤俊輔を「周旋の才あり」と認めていた。僕にはこの「周旋の才」が決定的に欠けている。真剣勝負の職人たちを訪ね、商品提供を呼びかけるのは、そのような性格の僕からすれば楽ではなかった。 しかしとにかくここまでこぎ着けた。なにより微々たる生産量のあれこれだから、限定で40セットしか用意をすることはできない。
「日光の美味」を無事に組み上げたところで、ふとある心配が去来した。その心配とは「こんなに優れた品物を集めたら、ウチのたまり漬が霞んでしまうではないか」というものだ。
たかだか40セットに過ぎないが、あるいは40セットしか準備できないところにこそ、この「美味七選」の価値はある。
日光の山が一気に白くなった。「寒気凛裂なれども波高し、いや、日本海海戦は天気晴朗なれども波高しだったか」と、洗面所の窓を閉めながらどうでも良いことが頭に浮かぶ。
地元に戻った1982年から10年ほどは、およそ2ヶ月に1度の割合で扁桃腺を腫らせ、高熱に数日を伏することが常だった。高熱のため病院へ行くことも辛いときには、薬局で入手した、耳鼻科の医者の使う特殊な棒に脱脂綿を巻き、これでルゴール液を自ら喉に塗った。
そういう体質が劇的に改善された理由を考えてみれば、それは自分がいろいろなことについて無頓着、あるいはいい加減、あるいは放埒になったためと思われる。強さと鈍さがどこかで繋がっていることは間違いない。
初更、鰻の「魚登久」へ行く。生ビールの小から鰻酒に続けようかどうしようかと迷っていたところに「粕華ですね」とオカミから声をかけられ迷いが解ける。これにより「片山酒造」のカストリ焼酎を、いつものとおり牛乳瓶1本分ほども飲む。
朝、北西の山と雲がうす紅い。寒気はそれほどでもない。子供のころアトピー性皮膚炎に悩まされたこと、着ぶくれることは嫌い、この2点により毛糸のセーターは着ない。家の中ではいまだ木綿のシャツ2枚でこと足りる。あるいは寒くても厚着はしない。
夕刻、友人のたらちゃんから届いたメイルを読み、今夏ウチの「らっきょうのたまり漬」が"ANA"の機内誌に掲載された事実を、自身のウェブログで紹介してくれていたことを知る。たらちゃんは様々な先鋭的活動を続けるお米やさん「ライスアイランド」の経営者で、自由学園の「那須で育ったお米」を、先日は研究材料として送った経緯があった。いずれにしても持つべきものは友、である。
朝のうちから「今日は断酒日にしよう」と考えていたが、晩飯のおかずのひとつが鯛しゃぶと聞き、あっさりとその予定を放擲する。
メシをおごってくれと、おととい下級生からメイルが入っていたことを思い出す。これに対し、そのメシ会は年内は無理だが年が明けたらかならず実行すると返事を出す。メシをおごってくれと人から言われることは嫌いでない。もっとも、誰から言われても嬉しいというわけでもない。
昼ごろ長男から、これこれの本につき"amazon"に出物があれば買って送って欲しいとメイルが入る。指定された本は2冊で7000円とすこしの金額だった。もちろん古書である。清水幾太郎の「論文の書き方」が8円で出ていたので、これも先の2冊と同じく甘木庵を送付先として注文する。
追っつけ長男より、古書にしても7000円では自分には高い買い物だったから助かった、しかし清水幾太郎による良書であっても需要がなければたったの8円かと、感慨をにじませた返信が届く。
このところ生わさびの画像を撮る必要が2日にわたってあり、結果として冷蔵庫に2本の生わさびを蓄えることとなった。これを早く費消しなければならないため、ワサビのスパゲティを作ってくれと家内に頼むと、そんなの美味いわけはないと言う。
しかし実際にこれを食べてみれば食卓に着いている全員が「美味い美味い」の大合唱で、だから「レシピはオレに任せろ」と自慢をする。もっとも自分の考えた料理がいつも成功するとは限らず、同じ卓に載せた刺身湯波のカルパッチョの方は、バルサミコの甘味が湯波の淡泊さに合わず、失敗だった。
団体に属することが嫌いなわけではないが、その会員になること、あるいはその会に出席することについて、どうにも気の進まない団体はある。
胸に日の丸のバッジを付け会の始めに君が代を歌う団体には、誘われてしばらく顔を出していたが、間もなく会費を払うのみとなり、卒業までの10年間はほとんど出て行かなくなった。
歯車のマークを象徴とする団体には、子供のころオヤジに誘われそのリクリエイションに参加をしたときから違和感があった。その違和感とは、どうも生理的なものらしい。
しかしてそのような団体から勧誘を受けたとき、お断りの理由として「生理的にイヤだから」などと言うのは失礼である。よってすこし深く考えてみたところ、自分はどうも、高邁な理念を掲げる団体に対しては、これを避けようとする癖のあることが判明した。
夜7時、春日町一丁目青年会の忘年会に出席をするため、飲み屋の「和光」へ行く。春日町一丁目青年会とはある種の団体で、しかしこの団体に高邁な理念などいささかも無い。だからむしろ心地良く、3時間ほども飲み食いして10時に帰宅する。
を読み終える。「読み終える」とはいえ、これはひとおおり読んでお終いにしてはいけないたぐいの本である。常に脇へ置いてことあるごとに開くべきものだ。しかし同じ本を何度も読めないのが僕の弱いところである。
同じ著者による「論文の書き方」は学生のころに読み、甘木庵に残置したつもりだったが、長男によれば今は見あたらないという。
を読み始める。僕は、本田靖春と辺見庸は信用している。「彼らのどのあたりを以て信用するのか」と問われれば「読めば分かる」としか答えようはない。
師走はなにかと飲酒の機会が増えるため、今月は5日にして早くも2度目の断酒をする。
午前、ちらりほらりとアラレが降ってきて、その粒が幾分大きくなったかと思われた直後、まるで君主豹変とでもいうべき唐突さをもって、そのアラレが雹になる。その雹は一時、地面を真っ白にするくらいの勢いで降り続いた。
そういう劇的な風景を事務室から眺めながら僕は「あぁ、写真に納めておきたい」と強く思ったが、そのときにはちょうど来客中で、僕は書類にハンコを押していた。ハンコを押しながら「スイマセン、ちょっと写真、撮ってきます」もねぇだろうと我慢をして後刻、店舗駐車場奥のお稲荷さんへ行くと、さきほどの雹は濡れた土の上にいまだ融けずにあった。冬の雹というのは、僕はあまり経験していない。
昼に蕎麦の「河童」を訪ない玄蕎麦の盛りを食べる。玄蕎麦とは外皮を取り除いていない、色の黒い蕎麦をそのまま粉にして打ったものである。僕は盛り蕎麦を食べるときには、薬味の葱はおおむね使わない。しかしこれを食べずに残すかといえばそうではなく、つゆの残った猪口に入れ蕎麦湯を注いで飲む。これは恰好の酒肴となるが、仕事中の昼日中とあってはもちろん飲酒は為さない。
夜も蕎麦を食べ、今度は日本酒を飲む。
首尾良く午前3時に目が覚めたため、着替えて居間へ行き、きのうの日記に続いてウェブペイジ版の「第174回本酒会報」を作成する。
一息ついたところで熱いお茶を飲みたくなるが、仏壇に花や水やお茶を上げる前に人がお茶を飲むわけにはいかない。しかして外はいまだ真っ暗だから、仏壇にお茶を上げるには早すぎる。しかたなく冷蔵庫から冷たいお茶を出し、これをグラスに注いで飲む。
本日は旧暦10月24日の八白先負で、先勝は好きだが先負はどうも字面が悪い。ところが先負の割に午後からは特に交渉事がトントン拍子で進み、その余勢を駆って更にあちらこちらへ出かけたり電話をかけたりする。もっとも振り返ってみればこれらの交渉事はすべて「ウチの商品を買ってください」ではなく「あなたの商品を売ってください」というものばかりである。
初更、カレーライスを食べて今月最初の断酒をする。
「今市スポーツ少年団駅伝大会」の開かれる大室ダムへ、朝8時30分に次男を送る。市街地が拡大しているとはいえ家から6キロ離れた大室地区へ行くことは滅多になく、ここにこのような広大なダムがあることも初めて知った。
子供が走るところを見たい気持ちは山々だが、12月の週末はギフトの受注などで繁忙は必定である。よって9時30分に到着したサイトートシコさんと付き添いを交代し、帰社する。
きのう飲んだ「ほほえみ大吟醸」がとても美味かったと、夕刻になってから醸造元の片山酒造へ電話を入れる。自分にしか理解のできない、しかも抽象的な香りだから適当な形容詞を見つけることはできないが、福井の上出来なお酒たとえば「石田屋」などに共通する雰囲気を、この「ほほえみ大吟醸」は持っている。
むかしは随分とあちらこちらの写真展で入賞していたイチモトケンイチ本酒会長が日中フラリとウチを訪問し、「ウワサワから辿っていくとある白黒写真、いいねぇ」と言う。はじめは何のことか分からなかったが数秒考えて、それが毎月1日に更新している"WORKS"の12枚と気づく。
「清閑PERSONAL」を始めた1999年当時この日記は無く、"BANYAN BAR"、"MY FAVORITE"、"GOURMET"の各場所に文章を書いていた。
当初はひと月にいくつも更新していたその量に対して、つきあいのあった外注SEマエザワさんには「どこのページもネタのあるうちは規則正しく更新します、しかしそのうち疲れて間が空いてきて、最後には野ざらしという例が多いんですと」と言われた。以降、これらの更新は毎月1日の1回限りと決めた。
マエザワさんの言う通り、最初の何年かこそあれこれ書くこともあったがそのうち月に1度の更新も辛くなってきた。このとき思いついたのが"WORKS"に12枚の組写真を載せるというものだった。
しかしいざ始めてみると、頭に何か思い浮かびさえすれば僅々15分でまとめられる文章に比して、自分がまぁまぁ納得のできる画像12枚を15分で撮ることは不可能に等しい。
今年の初秋、子規の随筆を立て続けに読んでいたときには次々と俳句が浮かび「だったら12月1日には今年12ヶ月分の俳句12句を"BANYAN BAR"にでも掲載しよう」と考えたが、子規の本から離れると同時にパタリと句才も途切れた。
というわけで本日も過去に撮り溜めた多数の画像から12枚を苦し紛れに選び、これを"WORKS"に載せて更新する。