本日はオフクロの80歳の誕生日にて夜、霧降高原のステーキ屋「グルマンズ和牛」へ家族5人で行く。
この店で先ず客のすることは、自分はいったい幾らのコースを食べるのか、それを決めることだ。エントランスで手渡されるメニュには価格のみがあって、しかし肉の部位も重さも記されてはいない。よって不明の点は、親切な店員に相談をすることとなる。
個室に請じ入れられると、今度は自分の選んだ価格の肉について、より細かいことを、にこやなか料理人と共に詰めていく。焼き方などは特に聞かれないし、当方も何も言わない。この店の仕事はただひとつ、客の選んだコースの中で最善を尽くす、ということのみだ。
そしてすべてを食べ終えて後は店の人の見送りを受け、客である当方は「あぁ、良かった良かった」とか「美味しかったです」とか「ごちそうさま」などと口々に言いながら濃い緑の中を帰路に就く。
「グルマンズ和牛」とは要するに、そういう店である。
日本経済新聞の第一面に「野村、765億円の最終赤字」との記事がある。世界経済の指針を顧客に示すべき証券会社が、世界経済の混乱により自ら損失に損失を重ねている。「そちらは方角が悪い、その日は日が悪い」などと人に言っていた占い師がつまらない事故に巻き込まれて頓死した、そんな笑えない話を思い出す。
「当面は使う予定のねぇゼニをよ、ただ寝かしておいちゃぁ勿体ねぇからよ、複数の銀行や証券会社を呼んだんだよ。結論から言うとよ、若いオネーチャンを寄こしたところと付き合うことにしたよ。どれを買えば儲かって、どれを買ったら損するか、そんなこたぁ売ってる側にだって分かりゃしねぇんだ、だったら将来のある若けぇヤツに仕事の取っかかりを与えてやりてぇじゃねぇか」
とは、今月ある酒場で耳にした酔客の言葉だ。こういう会話が耳に入ってくれば、これは文庫本の文字を追っているよりも面白いから当方はおもむろにそのペイジを閉じ、椅子にゆったりと座り直すことになる。
案外こういうオッサンが、博打においては当たりくじを引くのではないか。無論、外れくじを引く可能性も大いにあるわけだが。
4時に起床する。3時台から明るかった夏至のころを思えばあたりの薄暗さは寂しいばかりだが、それでも朝5時の空は夏のさわやかさに満ちて至極気持ちが良い。
6時すぎに外へ出ると、店舗駐車場の坪庭に朝顔が咲いている。先日は白地に藍をひと刷毛はいたような一輪が咲いていた。今朝は一面紫のもの一輪と、深紅のもの一輪が咲いている。紫は通常の大きさだが深紅の方は直径が3センチ以上にならない種だという。
所用にて開店前より自転車に乗り、大谷向町まで出向く。知った顔に呼び止められ、ふたことみこと話したりして、ふたたび大谷橋を渡ってこちら側へと戻ってくる。
大谷川の面に立って釣りをしている人がいる。大谷川の水温は夏でも15℃以上にはならないから鮎は生息できないのだと、先日あるところで耳にした。ちなみに15℃とはまた、西瓜を冷やすに最適な温度だという。
夕刻はくつろいで、焼酎のソーダ割りを飲む。
自宅でのメシの後になど、新聞を読む。各社により掲載の曜日は異なるのかも知れないが、新聞には書評欄というものがある。ここに興味を惹かれる本があれば読みたいと思う。そう思うのはメシを食べ終えた後の自宅においてで、しかし本を注文するのは事務室の机に置いたコンピュータからとなる。
このとき僕は、読みたいと思った本をメモに残すことはない。書名を頭に刻みつけ、4階から1階までエレベーターで降りて事務室へ行く。実は、先ほど頭に刻みつけたはずの書名は、ここで綺麗さっぱり消えている。読みたい本があったことさえ覚えていない。
そして数日経ったあたりで「この前、オレが読みたいと思った本は何だっただろうか」と考えるが、一体全体どの新聞にあった情報かも覚えていなければ、肝心の新聞も、誰かが何かを包むなどに使ってしまった後だから読み返すことも能わない。
それではなぜ、新聞の書評欄で出会った、自分にとって興味深い本をメモに残さないか。それは、それらをいちいち注文していたら、一生のあいだに読み切れない本が家の中にあふれると知っているからである。
「アメリカングラフィティ」をDVDで観るため、晩飯にはピザの出前を取った。僕は18歳から22歳までのあいだに数百本の映画を観た。そのうち日本映画でなかったのはこれと「5つの銅貨」の2本きりだ。
スネアドラムの2発目に"Rock Around The Clock"のヴォーカルがシンクロする出だしから鳥肌が立つ。これはわくわくする映画だ。次男もさぞ喜ぶだろうと思ったが、こちらの方は途中から漫画を読み出し、そのうち風呂に入って寝てしまった。
それはさておきこのDVDには"making American graffiti"というようなおまけもついていて、これがなかなか見応えがある。映画を作り上げていく課程の話は一体に興味深く、伊丹十三による「お葬式日記」や「マルサの女日記」も同様に面白い。
本日は"making American graffiti"の途中でワインが過ぎて眠ってしまったため、残りは近いうちに観ようと決める。
午前、所用にて横田接骨院へ行くと、年長の友人ヨコタジュードーが「このまえアカサカ、歩いてたんべー、見たって人がいたぞー」と言う。
僕は山手線の内回りでは池袋を境としてその西側へは滅多に行かず、また地下鉄銀座線では新橋を境としてその西側へは滅多に行かない。今年3月に南青山で晩飯を食べた際には地下鉄で赤坂見附を通過したが、たとえこのとき誰かに見られたとしても、赤坂を歩いていたうちには入らないだろう。
7年前の秋に池袋の焼鳥屋「母屋」で席に着いたとたん、店員が親しげに「きのう、ノグチ様がお見えになりました」 と話しかけてきたことがある。僕はその店員とは初対面で、「ノグチ」という人のことも知らない。昨年の3月には神保町から竹橋へ向かう途中、未知の中年男から「コバヤシです、ほら、ナベさんの」と、このときには声をかけられただけなく、お茶にまで誘われた。
多分、僕によく似た人がひとりないしは数名いて、東京のあちらこちらで夜間歩行をしたりメシを食べたりしているものと思われる。
夕刻より瀧尾神社へ行く。8月10日に開催される「日光奇水まつり」につき、その概要の説明を社務所にて受け、また関係者との顔合わせを行う。
きのう「シンスケ」で支払いをするとき、オヤジさんには「お連れさんも含めてお強いですね」と言われた。当方は別段、そう酒に強い方でもない。ただしきのうはガサガサといろいろなものを食べ過ぎた。「酒を飲みながらあれほど食べるのは粋じゃねぇな、次回はちとひかえよう」と、反省をする。
"EST!"ではこちらがパーロブロイとリカールを飲んでいるあいだに長男はドライマーティニとコニャックソーダを飲んだ。そのとき「いつかこの店で話しかけてきた自由学園の卒業生がブラスバンドのOB会に来ていて、奇しくも楽器も自分とおなじトランペットだった」と、長男が言ったことを、昨夕は相づちを打ちながら今朝まで忘れていた。
日記を検索してみると、その「いつか」とは昨年1月24日のことで、光陰矢のごとしとの感慨を深くする。
それにしても、自由学園という小さな学校に学んだ者が、大きな盛り場でもない湯島の、優れてはいるけれどとても小さな、"EST!"というバーで遭遇し、しかも1年と数ヶ月を隔てて別の場所でふたたび相まみえるとは不思議なこともあるものだ。
そして長男とは、次回は男坂下のグラタン屋「すいせん」に行きたいと思う。
所用にて神田、新宿、神保町と移動をする。
「アカシア」の、高等学校のころにさんざん食べたロールキャベツを昼飯にしながら「味は変わっていない、しかしあのころよりも当方の口は肥えてるわけだから、店側の研鑽は日々おこたりないというわけだ。今度は夜に来て、これを肴に白ワインが飲みてぇな」と思う。
夕刻に長男と神保町で待ち合わせ、タクシーで湯島天神へ行く。この境内を脱けて女坂を下れば、やがて左手に柳の木が見える。
その柳の枝に接した「シンスケ」で小酌を為し、"EST"へと流れる。ここで坂口謹一郞の好物は水で5倍に薄めた"RICARD"だったと聞き、「だったらオレは2倍でいこう」と、この薄黄色く濁ったお酒を飲む。
昼に幾分かあった風は、日の落ちると共にまるで凪のように止んだ。甘木庵への坂を、全身に汗をまとって上る。
ヘチマの観察は次男の夏休みの宿題のひとつで、持ち帰った荷物から今朝、本人がその苗を出したところ、それは既にして黒くしなびていた。訊けば終業式があった17日以降、ずっと袋に入れたままだったという。こういうあたりがいまだガキである。
ちなみに長男は10年前に同じ宿題を出され、しかし長男はヘチマの苗を寮に置き忘れて、仲町のイケダさんの店で種を買い直したような気もするし、あるいはイケダさんの店では生憎とヘチマの種は扱っていなかったような気もする。
午後、所用にて宇都宮へ行く。狭い道で対向車がフラフラと当方に近づいてくる。運転しているのは爺様で、視線を左斜め下に落として煙草に火を付けることに熱中している。
ゴム草履を履いて原動機付き自転車を運転し、水たまりに差しかかったところで足を上げたら待ち構えていた警察官に安全運転義務違反の切符を切られた同級生がいる。その程度で安全運転義務違反なら、クルマを運転しながら煙草を吸う人も、ぜひその理由で捕まえてもらいたい。
すれ違った爺様のクルマをバックミラーに捉えたら、そのリアウインドウには枯れ葉のマークがあった。ある一定の年齢を超えたドライヴァーには反射神経や知能のテストをするべきだ。
赤ん坊が日の出ずるごとく素早く成長をするように、老人は日の没するごとく素早く衰えていく。それを勘案すれば、反射神経や知能のテストは運転免許証の書き換えごとではなく、頻繁に行わなくてはいけない。老いて後の交通刑務所暮らしはさぞかし骨身に応えることと思う。
夕刻、事務室にいると電話が鳴って、そのディスプレイには「公衆電話」とある。今時分、公衆電話からの着信は珍しい。出ると案の定それは次男からのもので、浅草駅17:00発の下り特急スペーシアに乗っているという。
今月17日の終業式の晩は甘木庵に泊まり、18日は同級生3人と東京ディズニーシーに11時間の滞在、19日は教師の要請を受けて学校の手伝い、20日と21日は学校見学者へ向けてのブラスバンド演奏、本日22日は池袋新文芸座「市川崑特集」の「ビルマの竪琴」と「野火」それに谷川俊太郎と谷川賢作のトークショウを見に行くとのことだったので、帰宅はてっきり23日になると思っていた。
次男の身長は1学期のあいだに5センチほどは伸びたのではないか。一方体重は4キロ減ったという。寮生活でもっとも辛いのは筋力トレーニング、もっとも楽しいのはお菓子を食べながらの週末の歓談、という感想は5月の連休に帰宅したときと変わらない。
「まぁ、とりあえずはメシ、ガッチリ食えよ、でも筋肉も維持しなくちゃなぁ」と、晩飯の席で次男に言う。
土曜日も入れれば3連休の最終日は、なかなかに忙しい。その繁忙からひとり脱け出し、市内の篤農家タシロさんの家へ遊びに行く。
歓談は長い時間に及んだため屋内では落雁や抹茶、コーヒーゼリーやコーヒー、屋外では麦茶や梅干しをいただく。
畑でバッタやカマキリと遊び、いざ帰ろうとすると、好きなだけ野菜をもいでいけとタシロさんは言う。好きなだけと言われても当方の胃袋はそれなりの容量だから茄子を3本、シシトウを5本と収穫していると、そこにタシロさんの奧さん来て、結局はどっさりの量になる。
タシロさんちの野菜は農薬を使わないため、出荷をしても形が悪いだの虫が付いているだので一般の消費者には好まれない。よってハナから自家用と決めている。
夕刻に帰社してそのモロヘイヤ、空心菜、インゲン、茄子、シシトウ、ピーマン、大根、2種のトマト、青唐辛子などを事務室の床へ広げ、社員たちと分け合う。
1975年の夏、自由学園の演習林で晩飯当番になったときにはピーマンの肉詰めを作ったほど僕はこの料理が好きだから、タシロさんちのピーマンもこれに使いたく思う。しかし今は夏時間で営業をしているため閉店時間はいつもより1時間も遅く、晩飯の用意に時間はかけられない。ピーマンはいずれチャーハンの具あたりになってしまうかも知れない。また、それでも十分以上に美味いだろう。
いまだ早朝の森にカッコーが啼いている。カッコーが啼くのは毎日のことだが今朝はウグイスが、そしてホトトギスも啼いている。ウグイスやホトトギスの声は遠くまで届くものではないから、ごく近くにいるのだろう。
寝床にいてその声を聴きながら「啼いて血を吐くホトトギス、か」と、頭の中で独り言を言う。
関東地方はきのうの日中から梅雨明けをした。よってこげ茶に社名を白抜きしたのれんを降ろし、麻に「涼味在中」と大書した夏ののれんにかけ替える。客用ベンチ脇の墨書はつい数日前に、「麦笛」から「鬼灯」へと入れ替えたばかりだ。
山にひぐらしが鳴き始め、山百合が咲き始めると、同時に土の上には乳茸が出るという。その乳茸を午後にいただく。ひぐらしの声は涼しげだが、秋を連想させるところだけは好きになれない。
夏はできるだけ長くあって欲しい。
「今のこれを思えば、昔のあれは到底、買う気がしない」というものが多いのは当たり前だ。今の"ipod"を思えば昔のテープレコーダーなど到底、買う気がしないとか、今の携帯電話を考えれば昔の黒電話など到底、契約するに気になれないなどがそれである。
もっともこの逆もあって、大して頭を働かせなくてもすぐに以下のようなことが出てくる。
芭蕉が詠嘆したころの松島を思えば、今の松島へなどは到底、行く気がしない。安土桃山の諸々を見れば、魯山人の器など到底、買う気がしない。芝浜の小海老を想像してみれば、今の東京沖で採れた海老など到底、食べる気がしない。王羲之の直筆を目にしたら現代の書など到底、いや、これは比喩としてはいささか極端だった。
一昨年の末、長男が間近に見て「これはいいね」と言ったクルマがアルファロメオの"Tubolare Zagato"で、だから僕は「それは高けぇんだ」と答えた。
「今のこれを思えば」と「昔のあれを思えば」を当てはめたとき、クルマは圧倒的に、後者に分類されるのではないか。そしてそのような嗜好を持つ者は、現在においては欲しい新車がないのだから、下駄代わりの安い中古車で済ませて大金は使わずに済む。どのみちアルファロメオの"TZ"などは、買えるわけがないのだから。
おばあちゃんのお姉さんが亡くなった。彼女は明治40年8月5日の生まれで享年101歳だという。元気なままの大往生で良かった。
僕からすれば大伯母ということになるのだろうか、この人の現役時代は教師だったから親戚の中では「センセオバチャン」と呼ばれていた。僕は十代なかばのころ、このセンセオバチャンに「タキジあたりは読むの?」と訊かれたことがある。僕が好きだったのは「つゆのあとさき」方面で、もとより「蟹工船」などは読まない。センセオバチャンは共産党のシンパだった。
大学を退官してからは裁判所で調停委員をつとめ、視力の衰えた後はその内容は知らないが大きな活字を持つ巨大な本を取り寄せて読んでいた。センセオバチャンは喫茶店で仕事をするのが好きだった。
明治末期の日光街道今市宿を描いた油絵が、引き延ばされた大写真となってウチの店に飾ってある。この油絵で「糸屋蕎麦屋」の前あたりを走っている着物姿の女の子が幼少期のセンセオバチャンだ。
「昭和は終わった」どころではない。長生きの年寄りをよすがに目を細めてみれば、いまだ我々は明治をほの見ることができるのである。
本日が一学期の終業日となる次男より、寮で使った諸々なのだろう、4個の段ボール箱が送料着払いで届く。その荷造りは箱の上下を一本の綿テープで留めたのみにて、バクバクに口が開いている。このような荷物でも運んでくれる宅急便の存在は有り難い。
自由学園は、その教育内容を紹介するため種々の催しを行っている。昨年は僕と次男も参加をさせていただいた東天寮における宿泊体験が、今年は今週末にある。この催しの中で、次男はブラスバンドの一員としてバスドラムを叩くという。「習い始めて数週間の生徒をいきなり使って大丈夫なのか」との懸念もあるが、変に格好をつけないところが自由学園男子部の特徴である。
次男は来週の前半に帰宅をするだろう。生活時間を守り、規則正しくメシを食べ、勉強と遊びにいそしんで元気に夏を過ごしてもらいたい。
"Cosentino"という名のイタリア人と、"FISCO"のパドックで言葉を交わしたことがある。ヘアピン手前の100Rではアウトからインへ向けて水が川のように流れる、強く雨の降る日だった。
「エンジンを自製しない会社のクルマを私は評価しない」と"Cosentino"は言った。彼の視線の先には水しぶきを上げながら疾走する何台もの"ABARTH"があった。
「イタリア物で右ハンドルのマニュアルシフト。全長は4メートルを超えず排気量は自分のひと晩の酒量以内」というのが、僕が自分のクルマを選ぶときの基準である。この規に収まる6台目として、学生のころから欲しかった"Lancia Rallye HF"を手に入れたのは15年ほど前のことだ。そのときには「もう一生、自分のクルマを買うことはないだろう」と確信した。
ところが"FIAT"では現在、2本のカムシャフトと16個のバルブを持つ1400CCのエンジンを積んだ最強の"500"が"coming soon"だという。限界までチューンナップしたエンジンを冷やすためリアハッチを開け放った"FIAT ABARTH 695SS"よりもはるかに強力な"500"が"coming soon"なのだという。これはちと刺激的なニュースだ。
猫の目のように搭載エンジンを変える新生miniのように、あるいはそこここの中古車センターで投げ売りされている"Alfa Romeo 156"のように、この"500"が街にあふれることはあるだろうか。その可能性が無いなら僕はこの小さなネズミが是非とも欲しい。問題は、先立つものである。
"Fiat Group Automobiles Japan"にはとりあえず「購入予定無し」としてカタログのみを請求した。
燃料の価格がここ5年で3倍になり、しかし魚の市場価格は横ばいである、このままでは漁に出るたび赤字になる、そういう状況を国はどうにかしてくれと訴えるための一斉休漁を、本日は日本全国の漁師が行うと、朝のテレビが伝えている。
テレビの画面が銚子漁港から三浦三崎港に変わると、カメラはマグロの冷凍倉庫に入っていく。出漁をひかえる漁師が増えればマグロの高騰は目に見えていると、マグロの卸売業者が言っている。物の値段は思惑で上がる。「高騰は目に見えている」ではなく、マグロの価格は既にして上がり始めているのではないか。
僕は鮨屋では青魚と貝ばかりを食べてマグロは食べない。鮨屋からマグロが消えても何の痛痒も感じない。しかし「あるけれど食べない」と「無いから食べられない」の差は大きい。そしてやがては青魚さえ食べられなくなってしまうのではないか。現にイワシは随分と高くなった。
ウチの漬物の原材料も、前年比で5割の値上がりなどは珍しくない。きのうは昨年比8.5倍になる原材料もあると市場の関係者から伝えられた。それでも当方にはお得意様がいらっしゃるから「だったらこの品物はもう止めよう」というわけにはいかない。その原材料については積極果敢に買いに入るよう関係者には伝えた。
我々は一体全体どこへ行こうとしているのか。
午前、全社員のひとりひとりと面談をしながら夏の賞与を手渡す。初更、レストラン"ParroT"にて八坂祭の役員直会を行う。
朝9時に春日町1丁目の会所へ行く。子供御輿の安置されたテントの中で町内の長老たちと30分ほども待ち、ようやく瀧尾神社の渡御行列を迎える。禰宜と当番町大谷向町の人たちは本日、これから各町内の会所を巡って8キロの道のりを歩く。
夕刻6時からは子供御輿の町内巡行に付き添う。御輿にはすくなくとも10人の子供が必要だが本日は4人しか集まらなかった。よって青年会のタノベタカオさんと僕も担ぎ棒の一端を担う。町内の子供の減り具合は、ここ数年で特に顕著だ。町内の年齢別人口構成比は、そのまま国のそれに当てはまる。
会所の大きな部分の片付けを済ますと、御輿を倉庫にしまい終えた青年会員の何人かに洋食の「金長」で打ち上げをしようと誘われたが、当方はいまだ仕事が残っていたため会社に戻る。
1時間後に外へ出て自転車に乗る。いまだ昼の暑熱が残る日光街道を下って飲み屋の「和光」へ行く。常連に混じってカウンターで飲むうち背後で「クガセンセー」という声が聞こえ、反射的に席を立つ。目の前には今市中学校で美術教師を務めていたクガタツオ先生がいらっしゃった。
「先生、ご無沙汰しています、ウワサワです」と声をかけると先生は「タクヤかー、覚えてくれていたかー」とおっしゃるので「先生のことは一生、忘れません」と、お答えをする。45分間の持ち時間でチューリップを描くとしたら、そのうちの30分間はチューリップを観察する、それを言葉ではなしに行動で教えてくださったのがクガ先生である。
先生に呼ばれて先生の卓へ着き、しばしお話をさせていただく。
「あのころのオレは教師なんてもんじゃねーよ、オロオロしながら子供の傷を撫でてたようなもんだー」と先生はおっしゃるが、オロオロしながら人の傷を撫でるなら、それはそのまま宮沢賢治の目標とした「サウイフモノ」の一角を為すのだから誰にそしられるものでもない。
本日の偶然を有り難く感じながら日光街道を遡上し、本日2度目のシャワーを浴びて10時30分に就寝する。
本日は妹の祥月命日につき、今年最高の気温と思われる空気の中を午前、家内と墓参りに行く。おばあちゃんの父親の亡くなったのは1972年の2月だった。その骨を拾った僕の妹は翌月に病を得て7月に亡くなり、おなじ火葬場で骨になった。
如来寺でお経を聴くとき手渡される小冊子には、人の一生は朝露のようにはかないという意味の一節がある。まことにその通りである。まことにその通りであると認識はしているけれど、その一方、たいがいの人は死というものを意識することなく日々を過ごしている。
我々は日常に死を強く意識すべきなのか、あるいはすべきでないのか。"Memento mori"の解釈は時代により宗教により人により様々である。死は、意識しつつ意識しないのがちょうど良い。
今夕、春日町1丁目では青年会の御輿と子供の御輿が連携して町内を巡回する。子供御輿の出て行ったテントの中で待つうち、降り始めた雨はその粒をみるみる大きくし、やがて土砂降りとなった。小一時間ほども経って、濡れ鼠になった大人と子供が戻って来る。子供たちには「はやく家に帰ってすぐ風呂に入れ」と声をかける。
帰宅して入浴を済ませたところにユザワクニヒロ青年会員より電話があり、恒華園で直会をしているから来るようにとの誘いを受ける。しかし今夜は特に、お酒の欲しくならないような晩飯を用意してもらい、当方は断酒の意欲満々である。よって直会はお断りをし、早めに就寝する。
10時より町内役員一同にて春日町1丁目会所の飾り付けをする。会所の入り口には笹を飾り提灯を出し、床の間には祭壇を設ける。外にはテントを張り、子供御輿を準備する。
午後3時、八坂祭の執行される瀧尾神社へ向けて各町内の御輿が日光街道を遡上していく。僕は町内の記録係として町内青年会の写真を撮るべく、やはりその時間に神社へ上がる。記念写真は誰それが目をつぶっているとか、誰それの口が尖っているとか、また誰それは空を行く鳥を見ているなどして、まともなものはなかなか撮れない。
瀧尾神社の大御輿は関東一の重量と言われるが、飾り物ではなく、実際に街を渡御するものとしては、関東一どころの大きさではないのではないか。それほど巨大な御輿は花火の合図と共に午後4時30分に宮出しをされ、やがて春日町交差点を通過して追分地蔵尊を目指す。
当方は終業後に本日2度目のシャワーを浴び、上下真っ白の、これから死にに行く人のような格好をして会所へ行く。6時より子供御輿の町内渡御に付き添い、その後は大御輿と共に瀧尾神社へと向かう。
夏の長い日が落ちていく。いつ果てるとも知れないお囃子の音が、コルトレーンの"infinity"のように聞こえる。そのお囃子の中を大御輿が宮入りしていく。交通整理をする警察官の吹く警笛と神輿を制御する係の警笛が交錯し、その音にまみれて僕はまるでカトマンドゥのパシュパティナートに迷い込んだような錯覚に陥る。
神社の闇の中に、先乗りをした長老たちの提灯が点々と浮かぶ。その様子は寺山修司の映画「田園に死す」の一場面を、あるいは山口小夜子がいまだ若かったころの、山本寛斎のショウを見ているようだ。夜の祭りにおいて、僕の自分は僕の中にはない。離脱した幽体が光を追い、あたりに満ちた音を聴いている、そのような気がする。
大御輿はいよいよ宮入りを果たし、当番町大谷向町の若衆頭コンナイゼンシロー君の合図により馬に安置された。八坂祭は炎熱と驟雨の中、14日の月曜日まで続く。
居間に新しいテレビが設置されてから1週間が経つ。同時に注文したDVDプレイヤーは人気商品のため納期が遅れているという。僕は映像よりも活字の方が好きだから、DVDプレイヤーなどはなくてもどうということはない。
"amazon"に出品をしている古書店からきのう届いた嵐山光三郎の「おとこくらべ」は新品同様で124円だった。それと相前後して届いた、キャパによるトロツキーの写真を表紙にしたラッセル・ミラーの「マグナム」は枕ほどの厚さがあって904円だった。活字は僕にとって、舐めても舐めても一向に減らない上出来の飴のようなものだ。
もっともそういう僕も、感受性の合わない人と場を共にすることなく映画を愉しむことのできるDVDの存在は、なかなか有り難いものと感じている。
ジョージ・ルーカスの「アメリカングラフィティ」の終わりちかくで、登場人物たちのその後が紹介される。テリーはヴェトナムで戦闘中に行方不明と文字の流れたところで「アハハ」と笑う観客がロードショウの映画館には少なくなかった。「いかにもそういうドジを踏みそうなヤツだぜ」ということなのだろうが、ここは笑う場面ではない。
黒澤明の「生きる」では、左ト全が登場するたびに「ワハハ」と哄笑する観客が、あの池袋文芸地下にさえ大勢いた。ここも、笑う場面ではまったくない。
そういう人たちと一緒に映画を見なくても済むという点においては、家にあるDVDプレイヤーはしごく有り難い。
八坂祭のための御神輿の組み立てを、湯澤歯科医院の駐車場にて夕刻より行う。
仕事の能率を上げるためには明窓浄机に努めるべきだが、それがなかなかできない。机上に散乱するあれこれの中に、今年4月19日の、日本経済新聞の切り抜きがある。
その切り抜きとは「辻清明氏を悼む 信楽焼に宿る進取の気性」という表題のもので、この文章は「実りの多い陶芸家人生を支えたのは、物おじしない晴れやかな精神である」で終わっている。
なぜ僕がこの記事を取り置いたかといえば、「物おじしない晴れやかな精神」こそ、勉強も運動も苦手な次男の唯一の取り柄だからだ。そして、入学から幾日も経っていない次男にこの切り抜き送って励ましてやろう考えながら3ヶ月ちかくもそれをしてこなかったのは、次男はこのようなものを読んでも理解できねぇだろうと判断したからだ。
あと10日たらずで夏休みともなれば、そろそろこの切り抜きを送っても良いころだろうか、あるいは送っても仕方のないものだろうかと僕は逡巡している。
レッグウォーマーが流行ったとき、香港でこれをしている女の子のスネにはアセモが目立ったという。9年前の1月、圧雪が凍った秋田県能代市の路上で夜、半ズボンを穿いたオニーチャンを見たことがある。ここ数年、日本では夏でも毛糸の帽子をすっぽりとかぶった人が目立つ。
緩やかに、あるいは激しく上げ下げするグラフのように、ある規則性をもって来たり去ったりする流行がある。人のからだに無理のある流行ほど、ふたたび訪れるまでには短くない年月を要するような気がする。
クロームメッキを多用したパールホワイトのミニバンを若い人の欲しがる気持ちが分からない。子だくさんの家なら理解もできるが、7つも8つも椅子のあるクルマを独り者がなぜ持つか。「若けりゃロータスセヴンとか欲しくねぇかフツー」と思うが、そう思う僕が普通ではないのだろう。
ビッグスクーターを買うためにお金を貯めている、という若い人と先日は話をした。「若けりゃカフェレーサーだろうフツー」と思ったが口には出さなかった。ここでも僕は普通ではないのだろう。
流行はフツーを凌駕する、当方はそれを眺める野次馬である。いや、野次馬というよりは傍観者か、多分。
晩飯の前に次男の勉強机で「晴れた日」を見ていく。
ここに見覚えのある何枚かが含まれているのは、この写真集が、1974年の「アサヒグラフ」に連載されたものの集積だからだろう。青嵐会の面々の写真がある、リングの上の輪島功一の写真がある、オノヨーコの写真がある。
そのオノヨーコの写真のキャプションに
「ビートルズのジョン・レノンとの結婚で話題を呼んだヨーコ・オノが、郡山のロックコンサートその他の公演のため彼女のグループを率いて8月9日初来日した。来日直前のニューヨークにて 7/26」
とある。その郡山のロックコンサートとは「ワンステップフェスティバル」のことだ。1974年の多分7月だっただろう、僕は同級生のナカムラサカエ君と新宿を歩いていてチラシを手渡され、翌月郡山へ行った。
オノヨーコの歌は大層ヘタだった。歌が終わるとオノヨーコは「私の分身と思ってください」と、手に持った籐のカゴからパンツをばらまき始めた。そのパンツを拾おうとステージ前に殺到する人たちを見て僕は「バカみたい」と思った。
コンサート会場から旅館へ戻る途中の暗がりに機動隊のバスが停まっていた。ナカムラ君はこぶし大の石を拾おうとしながら「窓ガラス、割っちゃおうぜ」と言ったが「まずいよ」と僕はそれを押しとどめた。機動隊員はどこに潜んでいるやも知れず、また警察の車両を破壊して逃げ切れるとも思えなかった。
「晴れた日」の最終ページまで至って、しかし僕の好きな写真集の1番は荒木経惟の「東京は、秋」、2番は同じく「10年目のセンチメンタルな旅」、3番目は田中長徳の「東京ニコン日記」という順位は依然として変わらない。
「男は一生のうち、気に入ったネクタイには数本しか出会わない」という箴言めいた一節を目にしたのは、およそ30年ほども前のことだ。以来ことしの春までの30年間に、僕が気に入って繰り返し締めたネクタイは指折り数えて僅々5本に過ぎない。
その5本のうちの1本は不祝儀用のもので、しかし不意の葬式に間に合わせるべく駅のキヨスクで求めるような、例の真っ黒のものではない。チャコールグレイだから不祝儀のときにも締めれば紺色のブレザーに合わせたりもする。
今年の春、銀座の7丁目で若い人と晩飯を食べ、そのまま外へ出て歩き始めるとちかくのショウウインドウに自分好みのネクタイが2本ある。気に入ったネクタイには一生のうち数本しか出会わないという割に、一度に2本も欲しいネクタイが現れるとはきわめて珍しい。すぐにその店へ入り、と書きたいところだが、そこが僕のケチなところで横目で見ただけで通り過ぎた。
この2ヶ月間に参列すべきお葬式が2件あり、しかしなぜかいつものネクタイは見当たらなかった。仕方なく予備のもので間に合わせたが本日、シャツと同じ袋に入って洗濯屋から戻ったそれを物入れの奥に発見して胸をなで下ろす。
ことしのいまだ寒い晩、銀座の7丁目で見て気に入ったネクタイはその後、その店を訪ねて求めたところ店の人はしばらく探し回ってようやく、僕の記憶する2本を携えてきた。売るべき季節を逸し、値札の数字は僕が見たときよりも何割か低くなっていた。
本日、物入れの奥から出てきた不祝儀用のネクタイは幸い、名の通った製造元によるものだった。よってその名をコンピュータに記録し、ふたたび見失ったときの検索条件式とする。
「1週間に7日もお酒を飲むなんてね、あなた立派なアル中ですよ」と数年前、僕に吐き捨てるように言った医師に現在は血圧や高脂血の監視をしてもらっている。
「毎日サケ飲むヤツはアル中らしいぜ」と言ったところ「ひゃー、だったらウワサワの社員はみんなアル中になっちまう」と笑ったのは製造係のフクダナオブミさんだ。「そのお医者さん、実は父親が酒乱で、それがトラウマになってるんじゃないの?」と呆れたのは飲み屋「市之蔵」のオカミだ。
とにかく僕はこの医師にアル中と言われて以来、1ヶ月に8日の断酒をしている。ところが今月は初日から5日まで飲み続け、ノルマが苦しくなってきた。というわけで今夜はお酒の欲しくならない晩飯を食べ、飲酒は避ける。
夜の10時に事務室へ降り、Yahoo!オークションで篠山紀信の「晴れた日」を落札する。1975年に5,000円で売り出されたこの写真集はここ数年のあいだ、45,000円ほどで取引をされている。本体を包むビニールカバーが失われているとはいえ、これを13,000円で落札できたのは幸運だった。
配偶者の死に顔を自身の写真集に入れたことを批判されて以来、荒木経惟は篠山紀信と絶交した。それまで荒木が篠山の作品中随一と推していたのが、この「晴れた日」である。
自作による手帳の収納スペースから、スワロフスキーのクリスタルを埋め込んだ名刺が出てきた。3日前に大船の飲み屋でカワカミアキヒサさんからもらったものだ。「ホントは女にしかやらねぇんだけどよ」とカワカミさんは言っていたが、カワカミさんにはウチの長男も「君だけに上げる」と、ホールインワン記念QUOカードをもらったことがある。
この名刺を記念として手帳の1ペイジに糊で貼ろうとしたところ、ガラス玉がボコボコして以降の書き込みが難しくなりそうなため、諦めて事務机に収める。カワカミさんはつい最近、社名を変更したらしい。
葉山から家に戻ると、居間のテレビが新しくなっていた。20年前に買ったテレビがいよいよ壊れたらしい。新しいテレビの色彩には見覚えがあると感じて記憶をたどったら、新聞に折り込まれるパチンコ屋さんのチラシのそれと同じだった。
デジタル技術によって色調とコントラストを強調した画像こそ天然の色と感じている節が現代人にはある、ということを数年前に藤原新也がどこかで書いていた。それを思い出して「あぁ、これもそのひとつだわな」と、テレビの色を薄めるよう家内に頼む。
入浴後に西順一郎の「MG教科書A」を読む。
普段は早起きの僕でも今朝は6時30分になってようやく目覚めた。「葉山研修センター」の部屋のカーテンを開くと、折からの雨に霞んだ江ノ島が遠くに浮かんで見える。
「渚MG」の2日目は"strategy accounting"の講義から始まった。神奈川県には大雨注意報が出ていたらしいが、空は徐々に明るくなってくる。
僕の第4期はA卓にて、見わたせば人の会社盤つまり6つの会社はみな似たような姿をしている。ひとつの競合関係に強力な会社がひしめいても、その各々がことなる戦術を採るかぎり、それほどの苦労はない。今回の4期こそは難物である。
少々の工夫、少々の設備投資によりこの第4期を大過なく乗り切り、しかし本日最終の第5期に、僕はC卓へと落ちた。上の卓へ上がれば強豪がひしめき、下の卓へ落ちても工夫の固まりのような競争相手がいるのだからマネジメントゲームは息を抜くときがない。
第5期の末において僕は、自己資本よりも高くなっていた長期借り入れを完済して他人資本は納税充当金のみとした。しかし損益分岐比率が98パーセントでは「この1年間、あなたは汗水たらして何をしていたんですか」である。
2日間5期の経営を完了して自己資本が33名中の最高を記録した最優秀経営者賞にはワタナベアキラさんが、2位の優秀経営者賞にはコバヤシヒデナガさんが、3位にはミウラコーキさんが輝いて各々の表彰状を手にした。西研究所主催のマネジメントゲームでは表彰対象とならないが、ここでは第5期の決算速度第1位も前へ呼ばれ、サトーマサヒデさんが記念品の図書券を得た。
正面に貼られた「ことがら表彰」には更に、すべての期において売上高のもっとも高い市場A卓に居続けた"4A"や、期が進むに連れて着実に売上高を増していった「昇り竜」の項目もあり、5つめの記念品は、このどちらかに授与すべく用意されたものだったのだろう。
しかし今回はそのどちらにも該当者がなく、第5期決算順位第3位および第3期売上高最高という2ヶ所に名の書かれた僕が、再三辞退をしたにもかかわらず「きのう自社の事例を発表したりもしたんだから」との理由にてこれをいただいてしまった。この図書券は、よほど考えて使おうと思う。
締めの講義を聴き、原稿用紙2枚分ほどの感想文を書くころには、窓外の棕櫚の木に午後の日が強く差していた。先ずは湘南の地におけるMGの復活を祝いたい。
大船の"HOTEL METS"のLANケーブルを「どうせブラウジングしかできねぇんだ」と大して期待もせず"ThinkPad X61"に繋ぐと、案に相違してメイルの送受信もウェブペイジの更新も可能だったから大いに喜んで"WORKS"の「おほさかの人」まで一気に更新する。
きのう一緒に飲んだうちタケシトーセーさん、テシマヨーさんとの3人で大船から葉山へ移動する。駅前で待機していたスズキケンジさんのトヨタ車に乗せていただき、「葉山研修センター」へ行く。
藤沢に地の利、人の利を得て10年のあいだ続いた「湘南MG」は、なぜか2003年を以て開かれなくなった。それを寂しく感じていたところ今回、川崎の小川会計さんが1年にいちど葉山の地でマネジメントゲームを開催することを決めた。7月の頭はお中元の出荷の最盛期にもかかわらず、湘南におけるMGに格別の思いを持つ僕は、無理をおしても参加することとした。このMGの通称は「渚MG」という。
この「渚MG」の第3期にて、僕は参加者33名中の売上高最高を記録した。発想を自由にしていろいろな経営の形態を試すのがマネジメントゲームだが、僕は常に、自分好みの商売のみをしようとする。自分好みの商売とは、少数の優れた商品のみを売って顧客の賛同を得られないか、というものだ。そういう戦術を貫こうと努めているつもりでも、売れてしまうときには売れてしまう。
3期の決算を完了しない人も、夕刻5時30分からは散歩の時間になる。外へ出て細く屈曲した下り坂をたどっているうち海岸に出る。ここでしばし過ごして後、僕だけは集団から離れて写真を撮りつつ出発点に戻る。
西順一郎先生による「第4期経営計画の立て方」の講義の後、マイクを手渡されて僕が事例発表をする。僕の次はサトーマサヒデさんの「資金に余裕があるとき、借り入れは一気に返済した方が有利か、あるいは借り続けた方が有利か、そしてその理由は何か」という面白い話に移る。
軽い交流会から引き続き、テシマヨーちゃんによる「マイツール実用教室」がある。ここに集った人たちの、実学への欲求は非常に高い。
そうこうするうち時刻は午前1時をすぎた。この勉強会は多分、あと3時間は続くだろう。それが見て取れたから自分は部屋へ戻って1時30分に就寝する。
店舗駐車場の片隅にキキョウが咲いた。包装係のアオキマチコさんがつい数日前に植えた、僕の知らない花も咲いた。どちらも今朝になっていきなり咲いた。そのかたわらを僕は草刈り鎌を手に通り過ぎ、歩道に生えた雑草を取る。
綺麗な花には水をやり、役に立たない、あるいはそれをそのままにしておけば周囲の不興を買いそうなものは取り除く。自分の体制にとって有用な者は宣撫し、邪魔者は容赦なく掃討する。雑草取りのような環境整備をしながら思い浮かぶ言葉は「内戦」とか「紛争」といったものだ。
蛍を愛でながらゴキブリは殺す、鈴虫の音に耳を傾けながら蚊はピシャリと打ち落とす。こちらもおなじことだ。
午前に"EB-Engineering"を訪ね、"BUGATTI 35T"の、クラッチの研磨状況を見る。サンドブラストから戻ってきた排気管を見る。塗装を終えたアンダーカヴァーを見る。
葉山だか逗子だか知らないが、とにかくそのあたりへ向けて午後、上りの特急スペーシアに乗る。
下今市駅から2時間55分をかけて夕刻6時すこし前に大船に着く。こちら方面の友人タケシトーセーさんと6時15分より飲み始め、やがてそこにカワカミアキヒサさんとテシマヨーさんも加わって、同じ店で11時まで飲む。
「美人はどのような環境下に生まれるか」という、議論よりもゆるい、まぁヨタ話といってもよい会話をある人と交わしたことがある。
「ヒマラヤの奥地にですね、近隣の人たちに、いえ近隣ったって険しいな山谷を越えて行くわけですから周囲からは充分に隔絶しているわけですけど、美人村と呼ばれる場所があるわけです。ごく狭い範囲内で婚姻を繰り返しますから血が純化されていくんですね、この村には英国の調査も入っていて、研究者たちはここの娘たちを"Himalayan beauty"と賞嘆したらしいですよ」
と僕が言ったのは、中学生のころに読んだ中尾佐助の文章から得た知識によるものかも知れない。
「いーえ、美人を生むのは港町です。血の混じり合いが美人を作る。だから長崎には美人が多くおるんです」
と反論した相手は長崎県の出身で、その主張に身びいきが多く作用しているかどうかは不明だが、血の純化にくらべれば、血の混交は遙かに健康的と思われる。
なぜ日記を書く段になってこのような昔のことを思い出したかといえば、晩飯に食べたチキングラタンとメシとドミグラスソースのごちゃ混ぜがことのほか美味かったからだ。混交は美味を生む。しかし純化もまた美味を生むだろうことは疑うべくもない。