下今市から北千住、北千住から西日暮里、西日暮里から駒込と移動をする。そしてこれから一昼夜のあいだに公開をされる、新しいウェブショップについて、その方向性を決めた人、デザイナー、コーディング担当と、最後の打合せ、すり合わせをする。
本日の東京の最高気温は33℃と、今朝のテレビは報じていた。しかし台風の置きみやげのような強い風が湿り気を吹き飛ばしたのかどうなのか、暑さはまったく感じない。むしろ爽やかでさえある。
「秋の雰囲気だよね」などと言い交わしつつ商店街を往く人がいる。それが僕の耳に入ったから「まだ秋にはなってほしくねぇなぁ」と心底、思う。
「秋惜」ということばがある。文字の通り、去りつつある秋を惜しむ、という意味だろう。そして僕は今、去りつつある夏を惜しんでいる。しかし街に差す午後の日は、荒木経惟の写真集「東京は、秋」のそれ、そのものである。
浅草発14:30発の下りの特急があったはずだ。それは多分、11分後か12分後には北千住に来るだろう。そう考えて北千住の駅の東武日光線下り専用プラットフォームに上がってみると、しかしそのような列車は無かった。
そうして15:12発の特急に乗って帰社する。
太平洋上を迷走し続けた大型台風が遂に列島に上陸をする。そんなニュースを何日も伝え続けられれば人間の行動は鈍る。本日、店はかなりヒマになるだろう。そう考えて自宅3階の、四半世紀ほども使っていない、かつての自室を片付けることにする。
御茶ノ水の駅前から南下する文坂を駿河台下に達する手前で右に入ると、そこは富士見坂で、左手に登山用品を売る店がある。いまとおなじ店かどうかは不明ながら、その軒先に提げられたザックが気になっていた。1980年代はじめのことだ。
いずれは買おうと考えていた、その"SALEWA"のサブアタックザックはしかし、その店が火事を出したことにより焼けてしまった。そうなれば余計に欲しくなる。
インターネットの無い時代にどのような方法で調べたかについては覚えていない。とにかく"SALEWA"の品を輸入している会社が浅草橋にあることを突き止め、訪ねると「在庫の有無については自信が無い」と言いつつ社員は階上の倉庫に案内をしてくれた。
主体となる倉庫は別のところにでもあるのか、古いビルの、床も壁もコンクリートが向き出しになったその場所は、やけにガランとしていた。そして僕の求めるザックは果たして、その床にくしゃくしゃになってひとつだけ、放り出されるようにしてあった。
「いくらでも構わない」という社員に僕は1,000札1枚を手渡した。もはや売り物にはならなそうな外観でも、その価格は破格の安値と感じられた。
1982年が明けて間もなく、僕はそのザックと共に2ヶ月の旅をした。しかし以降は、そのザックの使われる機会はほとんど失われた。僕の身辺が、旅どころではなくなったからだ。
かつての勉強机の上の天袋から引き出したそれは、革の部分が黴びていたけれど、クリーニングに出せば綺麗になるだろう。しかしたとえ綺麗になっても帆布製のザックなどは重くて今の僕には使えない。そう考えてこれは潔く捨てることとした。
勉強机を背にして箪笥の裏からは、家内の"GALIBIER SUPER GUIDE"が出てきた。家内が山へ行くことはもうないだろうけれど、しかしこれは捨てがたい。そしてまた、ひとつ上のクラスのカンザワシンタロー君が1974年に出した詩集「赤い糸」もおなじく残すべく、保存用のカゴに入れる。
1991年4月、自由学園男子部9回生のタナカヒサオさん、男子部教師のツジムラトール先生、同教師で僕の同級生でもあるヤマモトタカアキ先生との4人でカトマンドゥへ行った。その前年から始まった、学生による植林活動を更に進めるための追加調査が、その旅の目的だった。
日本からネパールへの直行便はないから途中、バンコクで1泊をした。僕はヤマモト先生と同室だった。ホテルの内外で撮った写真は今も残っている。翌朝、道を渡った目の前でガオラオクルアンナイムーをおかずにメシを食べたことも覚えている。しかし窓から濃い緑の望めた、そのホテルの名前だけは思い出せないでいた。
先日、今は使っていない部屋を整理しつつ、そこの戸棚にプラスティック製のザルを家内が見つけた。要らなければ処分してくれというので調べてみると、それは1991年4月、つまり四半世紀前の旅の雑物を収めたものだった。
ザルの底に、軽く折りたたんだ封筒が見え、そこからは1バーツコイン4枚と50サタン硬貨1枚が出てきた。封筒にはまた"MANOHRA HOTEL"の名があった。よって即、事務室に降りて、検索エンジンを働かせてみた。
スリウォン通りの西端ちかく、チャルンクルン通りまでは目と鼻の先と、googleマップを見れば理解できるそのホテルは果たして、2012年に廃業をしていた。
戸棚のザルが何年か前に見つかっていれば、僕はこのホテルに裏を返していたに違いない。しかしてその跡地には現在、何が建っているのだろう。そしてまた、あの軒先の低い飯屋はいまだ健在だろうか。いつかは訪ねてみたい場所、である。
先日、お通夜の席でふと気づくと、右足の靴下は黒で、しかし左足のそれは紺色だった。翌日、告別式の席でふと気づくと、今度は右足の靴下が紺色で、左足のそれは黒だった。
僕は靴下は、ユニクロで3足1,000円のものを買う。靴下は黒と決めているけれど、誤って紺色を買ってしまったことがある。それが今般の、左右の色の違いの原因である。
今朝、チェストの引き出しを暗闇の中で開けると、ユニクロの靴下はすべて洗濯中らしく、手に触れなかった。すこし奥の分厚いものは履く気がせず、だから左側に寄せた、温泉旅館から持ち帰った足袋状のものを取り出した。
そろそろまたユニクロに出かけて、いつもの3足ひと組を買ってこなければならない。そして今度こそは「これは黒ですよね」と、店のオネーサンに確認することを忘れてはいけない
日中、髪と髭を刈ってもらいたい衝動に突然、襲われる。小遣い帳を検索してみれば、住吉町のカトー床屋にかかったのは今月4日のことだった。坊主頭で、かつ髭のある僕のような者は、高い頻度の散髪を要求するのだ。
カトー床屋は毎週、月曜日と火曜日が休み。そして水曜日は東京への出張が控えている。よって事務机の左に提げたカレンダーをめくり、9月1日の余白に「床屋」と赤いペンで書き入れる。
来月の14日から19日までの6日のあいだ、新宿高島屋11階で開かれるイベント「美味コレクション」に出店をする。その案内ハガキのお送り先を、顧客名簿から抽出する。
今回は、昨年までの手順のほとんどを捨て、新しい方法を考えた。小一時間はかかる試行錯誤を2度繰り返し、3度目にしてようやく、納得のいく結果を得ることができた。この仕事のためだけに、今日は1日の75パーセントを使った。結果が楽しみである。
晩飯はスパゲティと聞いていた。よって事務室から4階の食堂へ戻る途中で2階のワイン蔵に寄り、棚から安いブルゴーニュ1本を抜き出す。ワインを飲めば必ず眠くなる。それを知っているから風呂のお湯はメシの前から溜めておく。
簡単に済ませる晩飯が好きだ。そして風呂のガラス窓は、いまだ夜にならない空の藍色を映していた。
飛行機の中では足元に気を遣う。低いところを飛ぶ国内線ならともかく、国際線の場合には、離陸をして1時間ほども経つと、機内の温度が急に下がるからだ。
これが電車での移動となると、僕は靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、裸足になる。ポケットの中のものをテーブルに出し、腕時計も外す。電話などは滅多にかからなず、まるで夜明け前の自宅にでもいるようにくつろげる。
「北千住だよ」と長男に声をかけられ、あわてて飛び起きる。テーブルに頭をぶつけないよう気をつけつつ身をかがめて靴下を履こうとすると「まだもうちょっとあるよ」と長男は言葉を継いだ。窓の外に目を遣れば、荒川の鉄橋はいまだ渡っていない。胸をなで下ろして、今度はゆっくりとした動作で靴下を履く。
日光では秋の虫が鳴き始めている。しかし駒込駅のプラットフォームには、9月が目前に迫った今も、ミンミンゼミの声が降るように注いでいる。ミンミンゼミは斜面に多く棲むという。すこし気をつけていれば分かることだけれど、山手線の大塚から上野にかけては崖だらけである。
そうして昼すぎまで新しいウェブショップに関係する仕事をし、朝に来た道をたどって会社に戻る。
閉店後、19時を回ったところで外に出て、自転車で会津西街道を下る。上は半袖のポロシャツ、下はタイパンツ、素足にサンダルの薄着で「本酒会」の例会に行けるのも、ことしは今日が最後になるかも知れない。
店舗の大屋根の、左の庇に守られてあるお稲荷さんの坪庭には、いつのころからか白い百合が咲くようになった。昨年、この百合が枯れて後、そのめしべのあったところに茶色の、両端の丸い筒状のものができたため、割ってみるとそこにはたくさんの種が入っていた。
その種を、目と鼻の先の紅葉の根元に播いた。否、僕のしたことだから播種というような丁寧なものではない、文字通りばら撒き、靴底で踏みつけた。そうしたところ、今年はそこに十数本の百合が育ち、花を開き始めた。百合が咲くのは良いとして、そのすぐ脇にはやはり今年の新顔としてススキも大きくなってきた。
ススキは野原に群れてある分には悪くないものだ。しかし身近なところにいきなり現れたそれにはどうも違和感を禁じ得ない。そしてまたススキはたったひと株にしても、その根の部分は中々に頑丈で、掘り出すには結構、苦労をするのだ。
その苦労を厭ってススキは今のところ、処分されないままになっている。あるいは月見のときになれば、これを団子のかたわらに飾ることになるのかも知れない。
表参道の駅には早めに着いて、青山通りの喫茶店できのうの日記を書く。今朝の予定をメッセンジャーで問うと、取引先には直に行くと、長男から返信が届く。
どこの街でも広い道よりは建物と建物の隙間のようなところが好きだ。そしてここでも夏の終わりの路地を辿って南青山のデザイン会社を訪なう。今日の仕事量はそれほどは多くなく、昼すこし過ぎには予定していたすべてを完了した。
長男とは路地から青山通りに出たところで別れた。その青山通りから表参道、そして枝道に入り、明治神宮前から地下鉄を乗り継ぎ神保町へ行く。そこでふたつかみっつの用事を済ませて、今度は池袋に回る。
遠近両用の安くないメガネを失くしたのは6月13日のことで、場所は多分、ヤンゴンから乗った"ANA"の機内だ。問い合わせてもそれが見つからなかったため、おなじ"LINDBERG"のフレームによる、しかし今度は遠近両用ではなく近近両用というはじめて耳にするものを6月20日、前とおなじメガネ屋に注文した。
僕の希望するフレームは国内に在庫が無く、デンマークから取り寄せることとなった。それでもはじめに伝えられていた納期よりは隨分と早い7月11日に完成の連絡が届いた。それからひとつき半ものあいだ、その完成品を取りに行けなかったのは、担当者と僕の予定が合わなかったことによる。
そうしてその新しいメガネをザックに入れ、西日暮里、北千住と移動して16:12発の下り特急スペーシアに乗る。
下今市駅13:35発の上り特急スペーシアに乗らなくてはならないところ、12時30分を過ぎても店が忙しくて抜けられない。今日の仕事はいわゆる自由業を相手のものではないため、まさかTシャツとタイパンツ、というわけにもいかない。
ようよう着替えて、しかし昼食を摂る時間はなく、自転車で駅へ向かう途中にサンドイッチを買う。
待ち合わせは秋葉原駅の、昭和通り口への改札口だったから、そこを見おろす位置にある喫茶店で本を読む。そうして16時のちかづいたところでコンコースに降り、取引先に促されて外へ出る。
「こんなところがいまだ残っていたのか」と感心するほど古い、梁や桁などの構造が内側に張り出した雑居ビルの3階に上がる。そしてそこで更にふたりの人と顔を合わせ、応接テーブルにて商談をする。
その仕事を終え、あらかじめ夕食を共にすることにしていた次男に電話を入れると、彼はいまだ甘木庵にいた。
次男が秋葉原駅の昭和通り口に達するまで、30分はかからなかったように思う。甘木庵からは歩いてきたという。そうして9月の日光MGに来てくれることになっているマツモトタケシさんが最近、秋葉原に開いた店で飲酒活動に入る。
日本年金機構からなにかと郵便物が届くようになったのは、昨年あたりからのことだろうか。今回のそれには僕の興味をそそる数字があったため、すぐに捨てることはせず、その数字にしげしげと見入った。
62歳から受給する場合の金額に対して、65歳まで待って受給する金額はその43.5パーセント増し。両者をコンピュータに入れて繰り越し演算をしてみると、前者の累計金額を、後者のそれは僕が71歳になったときに追い越す。
一方、これまで納付した保険料の累計額を受給の累計額が追い越すのは、前者が73歳のときに対して後者は72歳だ。
年金を62歳から受け取るべきか、それとも65歳まで待って受け取るべきかについては、僕が会話を交わした複数の社会保険労務士のあいだでも意見は分かれる。
「この中で長生きをしそうなのはウワサワだな、タバコは吸わない、食い物はバランスが取れている、生活は規則正しいだろ」と、おととしの秋に開かれた同窓会で、今は亡きサカイマサキ君の言ってくれたことばは忘れない。
とすれば、というのも何だけれど、僕はやはり、年金は65歳まで待って受け取るべきか。しかしここで引っかかるのは、僕が65歳に達するのは2021年。つまり東京オリンピックの翌年、というあたりである。
オリンピックが去れば開催国の景気は低迷する。それは歴史が証明をしている。そのときになって「年金の受給は70歳から」などという法律が成立するやも知れないのだ。そうなったらそうなったで、当方は力なく笑いつつ諦めるしかないだろう。
集団で進める仕事の連絡の手段として、このところは多くfacebookが使われる。そのfacebook経由で僕に出されていた宿題ふたつのうち、はじめに送った答えに対する先方からの追加要請に、今朝は新たな部分を付け足して送る。
更にはふたつめの宿題の答えも送る。その、facebook上に設けられた会議室には、日曜日の朝5時台にもかかわらず、集団のひとりから即、返信が入る。そのことが僕に、ある種の気持ちの良さを与える。
僕は稀代の怠け者で、楽をすることばかり考えている。しかし朝だけは早いのだ。
きのうの予報によれば、今日はほぼ1日中、雨のはずだった。しかし東の空に低く薄く重なった雲を通して太陽の赤い光が西へと差している。その、東の雲を除けば空はすべて晴れている。
9月はじめに新装開店するウェブショップの素材として、山の写真を求められている。提出の期限は今月の24日。残る3日のうち最後の機会は今日の、まさに今かも知れない。そう考えて屋上へ上がり、F11まで絞って数枚を撮る。
タンスの扉を開くと、スーツは三季用と冬用の2着を数えるのみだ。そのことに僕は深い満足感を覚える。モノの少なさは気持ちの余裕を生むのだ。
そのタンスの下に置かれたチェストからポロシャツを手探りで取り出して着る。時刻は3時30分。モノが少なければ暗闇の中でも自由自在である。
「あなたのお母さんはお話しが面白くて好きでした。仏壇に向かわれることがあれば、私の分も1本、お線香を上げてください」と先日、眼科のアクツ先生に言われたことを、これまた暗闇の中で思い出す。家にいる限り仏壇には毎朝、向かう。そして今朝はいつもの2本に加えて更に1本の線香を上げる。
ワイングラスはリーデルの、赤用と白用のそれぞれ2客を揃えていた。それらをこのところ立て続けに割って、今夜は緊急避難的に巨大な風船グラスを食卓に出す。そしてそのグラスひとつで2種のワインを飲む。
モノの少なさは気持ちの余裕を生む。とはいえワイングラスが1客のみではいかにもまずい。これについてはできるだけ早く、元の数まで戻したい。
店舗入口の季節の書は先月はじめより「新らっきょう」、お盆前に「氷水」、そしてきのう「鬼灯」に変わった。
お盆のあいだは「寒いっ」とクルマから降りるなりお客様のおっしゃる曇りの日もあった。そのお盆が過ぎると皮肉なことに気温は急上昇をし、空は晴れ上がって、夏のよみがえった気がする。
子供のころなら、この夏の終わる前にまたひと泳ぎと、プールに出かけることを考えただろう。そんな気持ちの良い日に人を避け、電話を避けて自宅4階の食堂に籠もる。そして突然の来客や面倒な電話があってはできない仕事を、1時間ほどかけてする。
この仕事の結果に不思議なところがあり、とにかく今日は、その後の部分を事務係に引き継ぐことができなかった。その不思議については明早朝に検証することとして、取りあえずは事務室に戻る。
夜は親戚のお通夜に出かける。このところ、このような機会の重なることが多い。そして21時30分に帰宅して早々に就寝する。
僕の体重は2013年まで長く63キロを保っていた。このときのBMI値は22.3である。これが64キロに増えれば少しく狼狽して何とか元に戻そうとし、62キロまで落ちれば「少ない分には、まぁ良いか」と気楽にしていた。
2014年の正月にいささか食べすぎの感があって「またぞろ64キロにまで増えているのではないか」と懸念をし、体重計に乗ってみると、意外や61.5キロと、逆に減っていた。
2014年の、その後の体重は2月に60.5キロ、3月に60.1キロ、4月には60.0キロ、そして8月には58.95キロと、更に減った。食事制限や運動などは特にしていない。心配をしてくれる人がいて同年の2月には胃カメラによる検査を受けたが異常は見つからなかった。
その後、機会のあるごとに体重は測ってきた。いちど60.0キロに戻したこともあったけれど、58.5キロまで落ちることもあり、ふたたび不安が頭をよぎった。しかし先月、浅虫温泉のホテルのデジタル体重計では、またまた59キロ台に戻っていた。
僕には上質な物を好む反面ケチなところがある。特に服などは良い物を買うと、それがすり減ることを惜しんで温存し、今度はおなじ用向きの安物を手に入れて、そちらばかりを身につけることが珍しくない。
ベルトについても、気に入ったものはチェストに仕舞い込み、その代替品として、革も金具も大したことのない安物を何年も使ってきた。安物なら胴囲の短くなるに従って内側に、つまり短い方に電動ドリルで穴を開けることにも躊躇はしないで済む。
最近はその穴でもベルトがゆるい。しかし更に内側に穴を開ければ今度は余った部分が長くなりすぎてみっともない。よってこのベルトは遂に捨て、小遣い帳によれば2009年3月26日に買った、いまだ真新しい1本を今後は使うこととする。
小遣い帳によれば、"LINDBERG"のフレームによる遠近両用メガネを作ったのは2009年6月2日のことだ。その後、レンズの傷や視力の衰えから2013年6月28日にレンズのみ新しくした。
この安くないメガネを6月13日、ヤンゴンから成田に戻るANAの機内に置き忘れた。そのことに帰宅してから気づいて遺失物係に連絡をしたけれど、当該の品は見つからなかった。
それから1週間後の6月20日、前とおなじ池袋のメガネ屋を訪ねて、おなじ"LINDBERG"のフレームによるメガネを発注した。
その際に持参した、今年3月25日に受けた健康診断の結果にくらべ、それから3ヶ月も経ていないにもかかわらず、特に右目の視力が極端に落ちている、それをメガネ屋は心配し、念のため医師の診断を受けるよう薦められた。
一方、この2、3日のあいだ、右膝の一部が痛い。どのような痛みかといえば、椅子に座って右足を上げたとき、膝の皿の表面の一点に小さな痛みを感じるのだ。
眼科の方は忙しさにかまけて隨分と遅れてしまったけれど、盆明けと同時に今日は朝から眼科と外科をハシゴした。
眼科のアクツ先生は「右目のレンズに濁りがある。しかし病気ではない。むかしは手術はできるだけ引き延ばす傾向にあったけれど、今はその時期が早まっている。しかしすぐに手術をすることもない。予防策は大してないけれど、紫外線はできるだけ避けるように」と言った。
僕はサングラスを嫌う。風景はできるだけ、そのままの色で見たいからだ。素通しのサングラスもあるとはいえ、細かい字を読むでもないのにメガネをかけるのは鬱陶しい。しばらくはこのまま様子を見ることにしよう。
外科のオカムラ先生はレントゲン写真を子細に眺めつつ「骨に異常はない。消炎鎮痛のための飲み薬と貼り薬を出しておく。痛みがなくなったら薬はそこで止めるように」と言った。
朝夕の食後に服用すべき飲み薬は帰宅した12時30分に、その1回分を飲んだ。湿布薬も右膝に貼った。そして夕食どきにふと気づくと、既にして痛みは去っていた。何やら呆気にとられつつ、いまだ6.5日分も残っている飲み薬を専用の引き出しに仕舞う。
健忘症につき、何かとコンピュータに記録をする癖がある。1956年物のシャトーマルゴー半ダースを手に入れたのは、データベースによれば1990年6月1日のことと知れた。
このうちの2本は、2003年12月7日に病没した同級生ハセガワヒデオ君の家に、翌年2月3日に持参した。1本はハセガワ君のお母さんへの土産とし、1本は遺影に供えてのち同級生たちと飲んだ。3本目は何年か前に、世話になった方に差し上げた。
隨分と間が開いたけれど、4本目はきのう地元のフランス料理屋"Finbec Naoto"に持参し、保管を頼んだ。
そして本日は家族5人で、とはいえ長男の嫁はお腹に子供がいるから僕、家内、長男、次男の4人でその、60年前のワインを飲む。
「美味かったか」というような野暮なことは訊かないで欲しい。1956年は20世紀中の、恐らくは最低最悪のヴィンテージであり、またフランスの、あるワイン蔵の番人の言葉を借りれば「ディートリッヒのような女は、ごくまれにしかいない」のだ。
「残る2本はどうしようか」と考えて、いまだ結論は出せていない。
オールドファッションドグラスの縁まで氷を入れ、水を満たす。これを今年の夏は隨分とたくさん飲んできた。昨年までは覚えの無いことだ。からだが乾いているのだろうか。
仕事中に疲れて4階の食堂へ上がり、いつのもグラスに氷水を作ってテーブルに載せる。椅子をテレビの方へ向け、その椅子とテレビの間に別の椅子を置く。そしてその椅子に足を投げ出しテレビのスイッチを入れる。
するとそこには日本武道館で行われている「全国戦没者追悼式」で「おことば」を述べる天皇、そしてその横に謹んで立つ皇后の姿があった。僕はテレビに向けた足を反射的に床へおろし、また、足を投げ出すために置いた椅子を元の場所へと戻した。
「掃除の仕上げとして玄関に新聞紙を広げたら、そこに天皇の写真があったから、よりによって人の足で踏むところに、と畏れて父はそれを取り避けた」という意味の、主人公の声による独白の流れる場面が、大昔に視た向田邦子のテレビドラマにあった。
「たかが電波の運んできた映像じゃねぇか」という意見もあるだろうけれど、そしてまた僕は右翼ではないけれど、向田邦子の父親とおなじような心情を、皇族には持つのだ。
それにしても、終戦記念日がお盆の真ん真ん中にあるとは、何やら象徴的なことである。
お盆休みの、ウチにとっての最繁忙日は14日の日曜日と、前々から予想をしていた。しかしきのう初盆で休んだふたりの社員のうちひとりが復帰し、またパートタイマーふたりが出勤をしてくれるため、からだも気分も、今日はきのうより楽になれそうである。
社員たちは朝からそれぞれの持ち場でそれぞれの仕事を始める。手の足りないところは他の部署から人手を借り、品切れなど起こさないよう気をつけている。もっとも夏限定のらっきょう「夏太郎」だけは開店前の在庫が45袋とのことだったから、これは今日か明日中には売り切れるだろう。
8月の14、15、16日の3日間は毎年、昼食を社員に支給する。今日のそれは助六寿司と知らされ落胆をしていた。菓子、果物、一部の飲み物を除いて甘いものは苦手なのだ。しかし13時30分より自宅に戻って摂った助六寿司はなかなか美味くて助かった。
夜はようよう外へ出る気分になって、家族4人で洋食を食べに行く。
3時すこし過ぎに起きて食堂へ行くと、きのう僕が寝てから家内が作ったらしい、和紙を折った傘の下にホオズキ、素麺、若布を吊した盆飾りがあった。
本気になりさえすれば、仏壇の掃除は45分間で完了する、そう考えて5時からその仕事に取りかかる。そこに家内が来て墓参りに行くと言う。時刻は5時30分。よって掃除は中断し、ホンダフィットで如来寺へと向かう。
きのうよりも朝の時間に余裕がなく、弁当を詰めることはできなかった。
世間のお盆休みはおとといの「海の日」から始まった。山場の初日は今日だろう。その繁忙の最中に初盆の社員ふたりを欠いて、人のやり繰りが難しい。
どこかへ昼食を摂りに出ようとしても、とにかく販売係が少ないから、それが果たせない。家内におむすびを握ってもらい、それを事務室に持って来てもらう。しかしそれを食べる時間が確保できない。やがて15時が過ぎる。ここで何かを腹に入れれば、今度は夕食が不味くなる。おむすびはそのまま取り置くこととした。
お盆のいわゆる「お迎え」は、通常であればいまだ明るい夕方に済ます。しかし今日は、定時の18時になっても店を閉められない忙しさだった。19時もちかくなるころ、ようやく提灯を手に通用口を出る。徒歩で下る日光街道の空は暮れごろを過ぎて、ほとんど夜の領域に入っている。
道の駅「日光街道ニコニコ本陣」では、きのうから広場にビヤホールができている。複数のバンドも出演をして賑やかだ。その音が如来寺まで威勢良く響いている。
お墓には風があり、2本のマッチを無駄にした。ようやく点いた蝋燭の火を提灯の蝋燭に移し、バンドの音の、できるだけ小さくなりそうな道を選んで帰宅する。そして提灯の火を仏壇に移し、ひと息をつく。
今日こそ限界だから外へ何か食べに行きたいと言う家内をきのうに引き続いて説き伏せ、簡単なおかずを作ってもらう。そのおかずも、また焼酎のソーダ割りも、とても美味い。贅沢は要らない。落ち着いた時間が欲しいのだ。
早寝をすれば早すぎる時間に目の覚めることを知りつつ眠気には勝てず、21時に就寝する。
家内との昼食の時間をずらせてくれときのう長男に言われたため、今朝は自分用の弁当を作る。自分で作る弁当は至極、荒っぽい。家内が朝食用の目玉焼きを焼いているフライパンにウインナーソーセージと獅子唐を放り込み、これを主なおかずとする。あとは冷蔵庫にあった鰹の甘辛煮や何種類かのたまり漬を添えて完了である。
きのうが海の日、明日が土曜日。その谷間にあって今日の売上げはすこし落ちると予想をしていた。しかし実際の数字はきのうのそれよりも隨分と良かった。お盆や連休中の日別の売上げについては、なかなか予想しきれないところがある。
疲れたから外で食事をしたいという家内を説き伏せ、夜はスパゲティを茹でてもらう。「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」では凌ぎづらいけれど、そこに具だくさんのスパゲティと何種類かの酒があれば、僕は結構、生きていける気がする。
今日は新しく制定をされた祝日「山の日」の最初の日である。「山の日」は「◎月の第〇月曜日」というような移動祝日ではない。世間のお盆休みは実質上は、今日から始まるような気がする。
社員が6月はじめに収穫した原材料を元に作った夏限定のらっきょう「夏太郎」の蔵出しに合わせて、店舗入口の季節の書は「新らっきょう」にした。それをきのう「氷水」に掛けかえた。
昨年は確か14、15、16日の3日間に限ったお客様への「お買い上げ1,000円ごとに1杯」のかき氷の提供を、今年は今日から始めるべく、その準備を進めてきた。フタを開けてみれば有り難いことに開始の早々より、窓口の事務室にはお客様の列ができた。
曇っていても蒸し暑い。その天気が午後より「晴れて蒸し暑い」に変わる。空の色は変わっても蒸し暑さに変わりはない。
世間のお盆休みは16日が最終日になるだろう。それまでの6日間は、過重な労働が続く。健康には特に気を遣って、この繁忙を乗り越えなくてはいけない。
一方「山の日が月曜日に当たれば、お盆休みは、その2日前の土曜日から始まって、その分、売上げも増えるだろう」というような計算もする。そして検索エンジンで調べてみれば、その初年は9年後の2025年とのことだから、あまり気にしない方が良さそうである。
月曜日の朝、まな板の上のオクラを見るなり「これ、買ったものじゃないでしょ」と家内に訊いた。姿かたちの立派さ、みずみずしさが、スーパーマーケットで見かけるものとは全然、違っていたからだ。案の定、それは農家からのいただきものだった。
むかし"NIFTY"のフォーラムで活躍する食通がいた。あるときその人が「田舎に住んでも美味いのは野菜くらい。自分はやはり都会に住みたい」と発言をしていた。
「田舎に住んでも美味いのは野菜くらい」ということばには少しく語弊がある。その田舎が海のちかくにあれば海で獲れる、あるいは採れるあれこれも美味いに違いない。山は山で、美味いものは野菜に限らない。更には、田舎には歴史に培われた知識や技術の集積がある。
本当に豊かな食生活は、日常の、あるいは家の中にこそある。ウチの味噌汁はいつも大抵、美味い。そして今朝のそれは特に美味かった。
体重を増やさないため朝食を抜く、という人がいる。僕には到底、できかねることだ。家での朝食を抜くと、人生の楽しみの一割ほどは減る気がするのだ。
親しい人、義理のある人が亡くなると、多くは仕事に重ならない通夜式に出かける。その晩に他の用事の入っているときには昼の告別式に出る。告別式で出棺を見送れば、斎場までつき合うことはせず帰社する。
しかし今日の告別式は普段なにかと世話になっている叔母の、姑のものだ。よって最後まで腹の減らないよう、11時前にそそくさとサンドイッチを腹に入れる。斎場からは15時に戻ることができた。
こういうときに限ってきのうも今日も会食の予定が入っている。喪服を白いシャツに着替えて下今市駅16:05発の上り特急スペーシアに家内と乗る。2時間後に新橋に着く。列島の気温は場所により37℃を超え、熱中症に気をつけるよう、テレビは盛んに呼びかけている。僕にとっての適温である。
銀座から家まで、どのようにして帰ったかの記憶が無い。この日記のための画像をカメラからコンピュータに移してみれば、帰途、上野駅で撮ったものが含まれていた。これについても何も覚えていない。よくもまぁ、無事に帰ってこられたものである。
自分の手先の不器用さについては強く認識をしている。仕事は几帳面に仕上がっていないと我慢がならない。このふたつにより、極端なことをいえば、たとえ壁に釘1本を打つにしても、職人を呼ばなくては気が済まない。とはいえ手帳に紙を貼るくらいのことで経師屋を頼むわけにもいかない。
旅行中に携行するメモ帳には"Campus"の5号を使っている。旅の頻度、記録すべき内容の多寡にもよるけれど、大抵は3年に1冊の割で更新をされる。現在のものは今年6月のミャンマー行きから使い始めた。
これに今朝はバンコクの高架鉄道と地下鉄の路線図、またチャオプラヤ川を上り下りする船の運航図を貼付すべく、前者は「歩くバンコク2014-15」から、また後者は「地球の歩き方バンコク2012-13」からそれぞれ切り取った。そしてその四辺を裁断機で整え、メモ帳へと貼る。
荷物は極限まで減らしたい。その欲求から旅先にガイドブックは持参しない。すべては可能な限り小さい形で準備する。なお上記の路線図や運航図は、手帳を失くしたときのための保険としてiPhoneにも収めてある。
旅は、こjのような準備こそ楽しいのだ。
そうして夕刻より叔母の姑の通夜の席に連なり、献杯の挨拶をする。
日曜日の店は、平日の3倍は忙しい。しかして世間の催しは多く週末に設定をされる。それが僕の辛いところである。
今朝は8時30分から町内の公民館で「自主防災会研修会」が開かれると、前々から知らされていた。あれこれの仕事の集中する時間ではあるけれど、公民館長ツカハラミノルさんが近隣の住民を慮っての段取りと考えれば、これを欠席するわけにはいかない。
45分間の短い講座ではあったけれど、結論としては、出て良かった。とてもためになった。日曜日にも拘わらず出張してくださった市役所の職員にも、厚く御礼を申し上げたい。
オヤジの妹の姑が97歳で亡くなったとの電話連絡を受け、午後に一度、日光市郊外にあるその家を訪ねる。会食の予定が入っていたため、夜はその会食の後に、今度は家内を伴って、またまた訪問をする。
お盆の迫っているこの時期ではあるけれど、隣組の方々が詰めてくださり、とても有り難い。そしてまたお盆の迫っているこの時期だけに、お通夜、告別式とも異例の早い日程で執り行うことを確認し、帰宅する。
芸能人が一般の家庭を訪ねる番組を視ていると、先ずはその家の玄関先が映った。玄関には下駄箱があって、その上に小さなこけしが林立していたから「これは大変だ」と思った。
別の家では応接間の片隅に丸いテーブルがあり、そこには家族の写真や小さな香水ビン、また旅先で求めたらしい小物がたくさん飾られていたから「こちらも大変だ」と思った。何が大変か。
下駄箱やテーブルや飾り棚の上に小さなものがたくさんあれば、その小さなもの、またそれらが置かれたところを綺麗に保つために大変な手間が要る。たくさんの小さなものをひとつずつつまみ上げ、小さなはたきでホコリを払う。あるいはそれらすべてを他の場所に移し、それらが置かれているところを拭く。その行為を10年、20年と続けるのだ。賽の河原に石を積むとは正に、このことではないか。
ウチの、オヤジとオフクロの暮らしていた3階が、まさにその状態にある。オヤジは11年前に亡くなり、オフクロは2年前に亡くなった。オヤジが生前「巨大なゴミ溜め」と言いあらわしたその空間には、いまだ膨大なモノが集積したままになっている。
iPhoneの充電ケーブルは、むかしdocomoで契約した、そして今は必要としない通信端末用の巾着袋に入れている。5、6年ほども使ううち、この布の袋がさすがにほころびてきた。よってこれに代わるものを検索エンジンで探してみたものの、すべては帯に短したすきに長し、あるいは10個単位の販売だったりするから手が出ない。
ふと思いついて3階へ行き、浜の真砂ほどもあるガラクタの中からポーチを漁る。するとすぐに手頃なものがふたつ見つかった。そのうちの小さな方を試してみると、iPhoneの充電ケーブルは、果たしてそれが専用のケースででもあったかのように収まった。
「だからモノってのは、とっておかなきゃダメなんだよ」というオフクロの得意顔が目に浮かぶ。そして「巨大なゴミ溜め」はいつまでも片付かない。
お盆は休まず営業をする。そのことをメールマガジンにして、お客様への送達は今日にしよう、そう考えたのは、今朝も今朝、始業してからのことだった。
ウチは現在、メールマガジンは3つのチャンネルからお送りをしている。ヘッダの形や文面が、それぞれ微妙に異なる。気分にある程度の勢いがないと、この仕事はできないのだ。
新装の成ったウェブショップが来月の頭から稼働する。その際には注文の受け入れ方法も、現在のそれとはすこし違ってくる。そのための調査と土台づくりのため、昼前に東京から技術者が来る。
僕は今朝、勢いに乗じて突然、メールマガジンを発行した。メールマガジンが届けば「お盆は休まず営業をする」という文面とは関係なしに注文が増える。注文が増えれば嬉しいけれど、それと技術者の来訪とが重なり、受注係のカワタユキさんは少なからず慌てたらしい。これからはそのあたりの段取りや連携につき、より気を配っていきたい。
夜は同級生が池袋に集まって、小さなクラス会を持つ。来春、我々は自由学園男子部のOB会「同学会」から還暦を祝ってもらう。祝う方にも祝ってもらう方にも準備が必要である。今日のクラス会は、それも含んでのものだった。
そして22時が近づくころ会場から西口と北口のあいだの路上に出て三々五々、帰宅の途に就く。
糸井重里の新聞とおなじくウチは「ほぼ年中無休」のため、社員はシフトを組んで休む。僕は床屋へは、3名の事務係がすべて揃う日を狙って行く。
前回、床屋にかかったのは6月24日で、場所はトンローのソイ7と9のあいだの、まぁ、床屋というよりは美容院だった。
年にせいぜい数回しか床屋にかからない人のことを「盆暮れ頭」というらしい。僕のような坊主頭は、ひと月に1回の散髪でも間の開きすぎる感がある。それが今回は、ひと月半ちかくも無沙汰をしてしまい、すこぶるみっともない。
3名の事務係のすべて揃う日は、直近ではきのう8月3日だった。よって朝、行きつけのカトー床屋に電話を入れると奥さんが出て、当日は臨時休業だという。
「さて困った」と、次善の策を考えた。東京に出たついでにどこかで髪を刈る、ということもできる。しかしその日程を頭に浮かべてみれば、直近では難しい。いわゆる「10分床屋」では、カトーのオヤジのような精密な仕事は望めない。
そんなことを考えつつ今日の午後を迎えるころ、なにやら仕事にストンと空白ができた。よって即、カトー床屋に14時の予約を入れる。
次の散髪は9月早々にできれば良い。その次は10月のはじめにタイのどこかで、ということになるかも知れない。
夜おそく、あるいは明け方ちかくに寝るから昼まで起きられない、という昼夜逆転の人がいる。僕は、夕食が済むとすぐに風呂に入って寝るから深夜1時台や2時台に目を覚ます。寝坊とは逆の昼夜逆転である。
明け方が近づくとさすがに腹が減る。すぐそばに煎餅があり、つい手が伸びそうになる。しかしいま固形物を腹に入れると朝食の味を損なう恐れがある、そう考えて、梅干しを入れた白湯を飲むことにする。
梅干しは和歌山の大澤農園から取り寄せている。大玉の分厚い果肉には塩と酸味がたっぷり含まれている。オールドファッションドグラスに何度も熱湯をつぎ足しつつ、かなりの量のお湯を飲む。
オールドファッションドグラスといえば、食器棚にははじめ、いただきものの2客があった。そこに更に2客をいただいて4客に増えた。しかし3客を割って今は1客が残るのみだ。これも割れたら次こそは自分で買わなくてはならない。
口への当たりは松徳硝子の「うすはり」が圧倒的に優れている。しかし熱湯に対しては心配がある。とすれば和平フレイズのステンレス製を選ぶべきかも知れない。最後の1客は夏を越すことができるだろうか。
店の一角の、オフクロが丹精をしていた小さな土地に紫色の花が咲いた。毎年これを目にするたび僕は検索エンジンに「ききょう、りんどう、違い」と入れて回す。
「オマエ、桔梗と竜胆の違いも分からないのか」と問われれば、竜胆は茎にたくさんのつぼみを付ける特徴的な姿により一目瞭然と知りながら、しかしウチの桔梗は「これほど低いところに花を開くだろうか」と不思議になるほど地味な咲きぶりのため、つい混乱をするのだ。
午後になると、きのうに続いて雷が響いてきた。きのうの雷は割合に大人しいものだった。しかし今日のそれは轟音と共にやたらと落ちる。事務室の奥にいるから稲妻は見えないものの「避雷針、このちかくにそんなにたくさん、あったっけ」と不思議に感じるほどの落雷の数である。激しい雨の続く時間も今日はヤケに長い。
その雷雨もやがて止み、すると先ほどまでの暗い空はどこへやら、午後の強い日が差しはじめた。
「あの桔梗はどうなっただろう」と、ふと思い出して外へ出る。そしてそばに近づいてみれば、その、一輪のみ咲いた薄紫は花弁に雨の粒を載せて、朝と変わることなくそこにあった。
先月29日の日記「なぜいきなり来るか」にも関係することだけれど、自営業者は、地理的逃避、あるいは時間的逃避をしなければ仕事にならないことが多々ある。今朝も2時台に目が覚めた。よって8月3日には知っていたい数字を今朝のうちに出すべくコンピュータを起動する。
当然のことながら外はいまだ暗い。蒸し暑さはそれほどでもない。食堂の窓を開け放ち、STAN-GETZの"SWEET RAIN"をプレイヤーに差し込む。このCDを手に入れたときのいきさつは忘れた。とにかく、ヴェトナムの泥沼に首まで沈んで身動きのとれなくなっていた、1967年のアメリカで作られた音楽とは信じられない軽やかさ、爽やかさである。
午後、東の空にすばらしい入道雲が湧き上がる。しばらくして驟雨が地面を叩きはじめる。雨滴が風に煽られ犬走りにまで吹き込んでくる。ノレンは気づかないうちに誰かが事務室に取り込んでくれた。そしてその激しい雨は、大方の予想を裏切って、すぐに上がった。
「梅雨は雷に始まり、雷に終わる」と、このあたり、つまり日光の周辺では言われている。しかしまた「雷三日」ということばも、これはもっと広い範囲にある。しばらくは、午後になるたび、威勢の良い雷雨が続くかも知れない。