きのうまでの仕事着は、半袖のポロシャツに長袖のTシャツを重ねたものだった。その半袖のポロシャツを、今朝を境としてヒートテックの長袖ハイネックシャツに替えた。このところの服えらびは難しい。照れば汗ばむほどの暖かさになり、曇って風が吹けばダウンパーカが欲しくなる。奥鬼怒では雪が吹きかけ始めたという。
先日、新聞の集金があった日に、その領収書に印刷された番号に電話をして朝日新聞の購読を止めた。「新聞は朝日が好きなんだよ」と言っていたオフクロが亡くなったためだ。これでウチの取る新聞は下野新聞と日本経済新聞の2紙になった。これを1紙に減らすことは、現状の気分としては、ちと難しい。
無限遠でのピントが合わないため、今月24日に「リコーイメージングスクエア新宿」から工場へ送ってもらった"RICOH CX6"の返送日は「11月の4日ごろ」と伝えられていた。それが検査と調整を受けて、早くも本日、佐川急便により届けられた。リコーが後継機を出してこない以上、これを大切に使い続けるしかないのだ。
10月は5日の夜までタイにいた。6日に帰国して9日後の15日に突然、オフクロが亡くなった。葬儀場が混み合っていたこともあって、通夜は20日、告別式は21日までずれ込んだ。外で飲酒活動をする機会はほとんどなく、物を買うことも少なかった。そして今月の小遣いは予算の半分以上が残った。
来月はその余剰を以て、若干の経済活動をしようと思う。
仕立屋の、たたき上げの社長に「イヤな客って、どういう客ですか」と、むかし訊いたことがある。
「背広なんて腕が通りさえすりゃぁ良いんだ、と言う客、注文の品ができあがってから文句をつける客、自分の手がけた品物を粗末に扱う客」と、その社長は3通りの客について教えてくれた。「腕が通りさえすりゃぁ良い」を今風に翻訳すれば「着られさえすれば良い」ということになる。
ビスポークのスーツを誂えながら「着られさえすれば良い」などと言われれば、たとえ職人出身でなかったとしても、服屋としては面白くないこと明かである。
しかし僕は一方「クルマなんて、走って曲がって停まりさえすれば何でも良いんだ」と言う人にはある種の美学を感じる。「クルマは道具。それ以上でも以下でもない」という考えは潔い。
「食事に招かれるのは嬉しいけれど、いわゆる『ワイン通』の集まりは敬遠したい」と、ある有名なソムリエがどこかに書いていた。良く分かる意見だ。「ツウ」はしばしば「痛」に通じる。
「本酒会」という、日本酒ばかりを飲む会で僕は書記を務めている。自分の所属する会は閉鎖的であることを望む僕だが、時には会長の意向を汲んで、入会者を募ることもあった。その、僕の誘ったうちのひとりに「酒は、酔えば良い方だから」と、角の立たない理由で入会を断られたときには「なかなか洒落たことを言うな」と感心をした。
「走って曲がって停まりさえすれば、クルマは何でも構わない」と「酔いさえすれば、酒は何でも構わない」には、相通ずる格好の良さがある。四文字熟語にすれば「無碍自在」あたりが適当かも知れない。
元ちとせの歌声は呪術的とさえ言える。自分のその財産に気づいていたか否かは知らないけれど、彼女は学校を出ると歌手ではなく美容師を目指した。彼女がその道を諦めたのは、重度の手荒れによる。
僕が子どものころ歯科医は素手で仕事をしていた。今では自動車の修理工さえ薄いゴム製の手袋を使う例がある。多くの美容師が手荒れに悩みつつ、いまだ素手で仕事をしていることが、僕には不思議でならない。
冬が近づくと決まって手が荒れる。テレビの宣伝やいわゆるクチコミに誘われ、あるいは薬局の人にいただくなどして、これまでたくさんのクリームを使ってきた。しかしそのいずれも手が油じみるところから、塗って数分後にはそれを石鹸で洗い落とすことを繰り返してきた。
その、賽の河原に石を積むような行為に終止符を打つことができたのは「日本ケミファ」のクリーム「モイスポリア」のお陰だ。これは塗っても手の油じみない珍しいクリームだ。朝に塗った直後の、水に溶いた石膏を皮膚に刷毛で掃いたような感触は、しかし直ぐに消える。その後は夕刻まで特に何も感じない。そして毎日これを使うことにより「荒れていない手」が春まで維持されるのだ。
今年の冬は、この75gのチューブがいくつあれば足りるだろうかと考え、小遣い帳を検索すると、しかしそこには他の薬や手袋との合計金額しか記されていなかったため、購入した数までは分からなかった。またまた悪い癖を出して"amazon"あたりでまとめ買いをするかも知れない。
夏至ちかくの朝日は、宇都宮証券の屋根に取り付けられた縦長の看板の、ウチの食堂から見てはるか左から昇った。それが今日に至って遂に、同社の立体駐車場の右から昇るようになった。約2ヶ月後の冬至にかけて、朝日はますます南へ寄りながら上がってくるのだ。
このことについて「やっぱ、地球が傾いているせいでしょうかね」などと天文ファンに訊こうものなら、ヲタク特有の微に入り細に亘る長広舌を聞かされ、余計に分からなくなることを知っているから、そのようなことはハナからしない。
下今市駅07:57発の上り快速に乗って、県南まで腰の治療に出かける。そうしてこの「ローカル線の旅」めいた外出から11時前に戻って今度は如来寺に出かける。
オフクロが亡くなったのは今月15日のことだった。初七日の法要は21日の告別式の日に繰り上げて済ませた。今日はふた七日の塔婆を寺務所で受け取り、それをお墓に立ててお参りをした。
来月は4日、11日、18日と、同じことを繰り返す。む七日の25日はなぜか塔婆は出ない。そしてなな七日つまり四十九日は12月2日の火曜日になるけれど、このころは毎年、年末ギフトの受発注に忙殺をされている。よってその法要は11月の平日に行おうと思う。
鐘楼の鐘を、参拝客から金を取って撞かせていた寺がある。金を取る理由を問われて「この鐘の音は、極楽浄土にいらっしゃるご先祖様のお耳まで届きます」と答えた住職に「お前、自分で行って、その音を聞いてきたのか」と怒鳴りつけたのが、天台宗の大僧正だった今東光だ。
「亡くなって四十九日が経つまでは、人は彼岸と此岸のあいだ、つまり来世と今世のあいだにいる。本人が心配をするから故人の私物はそのままにしておけ」という教えだか風説に逆らって、オフクロが亡くなって僅々10日の後に、僕は甘木庵に詰め込まれたオフクロの衣類を、ほんの一部ではあるけれど、それでも70リットルのゴミ袋で10個ほど処分した。
それが祟ったか、きのうは「あわやギックリ腰」という痛みに突然、襲われた。その痛みは今朝も続き、腰をかがめて顔を洗うことさえできかねる状態である。
来店客の数は今日も多い。販売の応援をしながら店舗の床や駐車場にゴミを見つけると、近づいてそろそろと腰を落とし、更には石の上に膝をついてそれを拾う格好の悪さである。
普段であれば昼飯の後には少々の食休みをするところ、今日はそのまま店に出る。客足は波のように押し寄せ、やがて去りを繰り返す。波が去ってふと気づくと必ず、給茶器のコップが少なくなっている。そうして新しいコップの補給や使用済みのコップの片付けをしながら夕刻に至る。
月曜日にもかかわらず。今日の売上げはきのう日曜日のそれよりも多かった。きのうの日記の冒頭にも記した通り、この時期には良くあることである。
10月の第1と第2の週末は台風の来襲により、紅葉狩りの行楽客は少なかった。これから11月の上旬くらいまでは、晴天に恵まれたいと望んでいる。
紅葉の時期には売上げの金額が不思議な動きをする。平日の、土曜日は1.5倍、日曜日は2倍といったところが通常の推移である。ところが10月の下旬から11月のはじめにかけては、平時の数字を当てはめることができない。
きのうは僕と家内が所用で会社を休んでいるところに繁忙が一気に押し寄せ、社内各部の均衡が保ち難かったと報告を受けた。よってそのことを自分のスケデュール管理に記録する。来年の10月では間に合わない、今回のことは9月のなかばには目にすることのできる場所に格納した。
そのスケデュール管理で、10月01日の日付を振られている"to do"に、いまだ手を付けていないものがある。計画は実行して初めて実を結ぶ。その手つかずのことについては、ここ数日のあいだに完了させなくてはならない。
「瓜を食べれば我が子を思い出す。栗など食べれば尚更のことだ」と憶良は詠んだ。僕は洋物のメシを食べると決めたところでオフクロを思い出す。そうして夜は自転車に乗って洋食の「コスモス」へ行き、いつもとおなじものを肴にいつもとおなじものを飲む。
「空間恐怖症」という病気があるとすれば、オフクロはまさしくそれだった。
オフクロは、部屋に空間があればそこを家具で満たした。廊下に衣装ダンスを置き、便所に本棚を置き、机の上は書類や置物で満たした。その「恐怖症」は家の中に留まらず、庭に空間があれば所かまわず木を植えたがった。
何より空間が嫌いだから、衣装ダンスや桐の箪笥の中には、偏執狂的几帳面さを以て折りたたんだ衣類が隙なく満ちている。許容量を超えて衣類を詰め込まれた引き出しは、やがて底が抜ける。底板の抜けた引き出しを無理に開けようとして、今度は取っ手や面板が抜ける。
そうしてその衣装ダンスはやがて使われなくなり、するとその前には本や雑誌がうずたかく積まれることになる。タンスの中身は二度と顧みられない。
オフクロのそういう衣類を、別件にて甘木庵に泊まり込んだ家内とふたり、朝から片付け始める。
北野武の「菊次郎の夏」で「菊次郎の女房」を演じた岸本加世子の衣装、つまり新小岩、巣鴨、錦糸町あたりのいわゆる「オシャレショップ」につるされていそうなシャツやカーディガン、あるいは吉田類の好みそうなラメ入りのスカーフやセーターを、大きなゴミ袋に次々と詰めていく。
オフクロが見境なく買い、どこに仕舞ったかも忘れ、しかし処分などは頭の片隅にもなかった衣類を容赦なくゴミ袋に詰め込んでいく行為は理屈抜きに楽しい。復讐に似た快感さえ覚える。「勿体ない」と難じる人がいれば「君がもらってくれ」と言いたい。「発展途上国の貧しい人に送れ」と教えてくれる人がいれば「君がここに来て荷造りをしてくれ」とお願いしたい。そうしてサンタクロースも大黒天も背負えないような重い袋10個が瞬く間に廊下に並んだ。
オフクロの衣類は自室からはみ出し、ダイニングキッチンの隠し扉の中にもズラリと並んでいる。こちらはシャツやセーターではなくコートの類いだから、片付けは更に難物である。
洗面台の下には40年ちかく前にオフクロの買い溜めた石鹸が25個ある。歯磨きのチューブは十数本ある。「モノを粗末にするとバチが当たるぞ」と教育的指導をしてくれる人がいれば、捨てる前に差し上げたいので、どうか連絡をいただきたい。念のために申し添えれば歯磨きの中身は固まって、通常の握力では絞り出すことができません。
"RICOH CX6"の無限遠でのピントが合わなくなった問題を解決するため、日の暮れるころ、淀橋浄水場のあったあたりを歩いて「リコーイメージングスクエア新宿」を訪なう。
僕の機を預かった係員はヲタクあるいは技術者に特有の早口で、しかし懇切丁寧に「調べた結果によれば無限遠は合焦している。マクロモードのまま無限遠の撮影をすると、ピントは合うものの、合焦するまで時間がかかる。あるいはカメラの性能を越えた環境で撮影をすれば、ピントは合わない」というようなことを説明した。
そうは言われても、当方は"Kodak Instamatic"を皮切りに今に至ったカメラ小僧である。マクロモードのまま山の写真を撮るような間抜けではない。工場で細密に調べるよう頼んで預かり証を受け取る。
コクーンタワー下の動く歩道に乗り、更には「こんなところで感冒なんか染されたらたまんねぇな」などと考えつつ新宿駅構内の雑踏ををジグザグに、しかしおおむね東南東を目指して歩く。そして10分の後に東南口に至る。
むかしこのあたりに来るには南口を出て甲州街道を東に進んだ。左手は崖のような地形になっていて、そこにはS字の坂があった。坂の上の方の「花蓮」のラーメンはスープが熱くて美味かった。坂を降りきったところには「ボニータ」という名の、マッチ箱のように小さなヌード小屋があった。今や幻の一角である。
その東南口から自由学園男子部35回生の同窓会へと向かう。海外はじめ遠方に住む者もすくなくない中で、57パーセントの出席率は立派である。会がお開きになって後は路上で記念撮影をし、二次会に行く者と帰宅する者とに別れる。
僕は帰宅する者に区別はされただろうけれど、真っ直ぐに帰ったわけではない。御苑前まで散策をし、そこから三丁目に戻って丸ノ内線に乗る。気がつくと車両は後楽園まで来ていた。すぐに下車して向かいのプラットフォームに移り、ベンチに落ち着く。そこで眠って次の車両を逃し、その次の車両でようやく本郷三丁目に達する。
甘木庵に帰着したのは23時すこし前のことだった。そしてシャワーを浴びて早々に寝る。
「神仏にあれこれ頼むのは良くないらしい。日々の礼を伝えるのみに留めることこそ大切らしい」と言ったが人いる。
朝、仏壇に花や線香やお茶を供えながら、このところ僕がホトケだか先祖だか知らないけれど、とにかく頭を下げつつ心に想うのは「オフクロをサッと逝かせていただきまして有り難うございました」ということだ。
僕は歯医者でこそ、口の中で道路工事まがいのことをされても平然としていられるけれど、血管注射だけは駄目だ。痛みに弱いということではない、皮膚を透かして青く膨らんでいる血管に針の刺し込まれる不気味さに耐えられないのだ。
その自分の性癖もあって、点滴の針を刺されたままの病人については、気の毒で仕方がない。あるいは正視に耐えない。だから余計にオフクロの、突然に訪れた死については、本人にとっても、そして僕にとっても幸いなことだった。
死の前日の晩餐が腕や頸や鼠径部への点滴でもなく、また胃に開けた穴からの栄養補給でもなく、メンチカツと生のトマトとスパゲティサラダと炊きたてのごはんなど、望んでもできない大贅沢である。こればかりは節制や勉励や信仰でどうこうなるものではない。「ずるい」と難じられても仕方のない運の良さだった。
店舗の前の鉢は、僕がタイに行ってるあいだに色とりどりの鮮やかなものに替えられていた。花の名はカランコエというらしい。
昨年の4月には、オフクロはパリまで行けた。それが半年後の転倒をきっかけとしてにわかに体の動きを鈍くし、1年を経て亡くなった。
「転ぶってのは本当に良くないんだよ」とは、世間でしばしば聞かれるうちのひとつだ。「未開の地の、ほとんど裸で狩りをしている人たちも、先進国の摩天楼で仕事をしている人たちも、死に至るきっかけとしてもっとも多いのは転ぶこと」と書いた本もあるという。
昨年10月の転倒さえなければ、オフクロも、いましばらくは生きられたのではないかと想像される。
そういう僕もまた先月の28日にタイ最北部の温泉「ハーセン」で足を滑らせ、肉がえぐれるほどの傷を腰に負った。患部にはせいぜい手持ちのバンドエイドを貼るしかなかった。薬局へ行けたのは山を降りた翌日の昼すぎで、ここで湿布薬を買い、バンドエイドに重ねた。
なにしろひとり旅にて、どう体をねじっても見えない部分に貼るバンドエイドや湿布は位置がずれたり剥がれたりと、多いに苦労をさせられた。
怪我から9日後の今月7日にようやく外科の病院へ行き、レントゲンを撮ってもらったところ、幸い骨には異常がなかった。しかし傷は深く、患部の痛みや腫れはその後も続いた。
本日、3度目の診察を受けると、医師は傷をひと目見るなり「もう大丈夫。治ってます」と、晴れ晴れとした声で言った。しかし自分で手探りしてみる患部は何やら肉が盛り上がり、完治したとは思われない。それを告げると医師は「携帯電話、持ってますか」と訊く。診察台に腹ばいになったまま、顔のすぐ前にある乱れ籠から"iPhone 5c"を取り出し、カメラのアイコンに触れつつ手渡すと、医師はそれで問題の部分を撮って僕に見せてくれた。
専門家が「大丈夫」と言うなら大丈夫なのだろう。それにしても、タイの温泉は鬼門である。日本のそれのような、床にはできるだけ滑らないタイルを使うとか、足元の危なそうなところには手すりを設けるとか、そのような工夫は一切されていない。そして「タイには行っても、温泉にはもう絶対に入らねぇからな」と心に誓う。
タイで買った、タイガーバームの湿布薬は締めて230バーツ。帰国して外科での診察と治療にかかった経費は5,180円。これらを合計してタイバーツに換算すれば先月24日のレートで1,764バーツ。タイ国有鉄道の三等車なら、5,000キロ以上も旅の楽しめる大金である。
このところはずっと晴れの天気が続いていたにもかかわらず、きのうは通夜を控えて降り始めた雨に気を揉んだ。今朝は「菊屋ホール」の控え室で目を醒まし、ロビーで日記を書くうち、あたりが明るくなってきた。空には雲の切れ間も見える。
6時30分に帰宅をして朝食を摂る。顧客からのメールに返信をするなどの仕事をして8時30分に「菊屋ホール」に戻る。
遠方から来る親戚には申し訳ない気もしたが、告別式は早めの10時から始めることに決めていた。そして告別式、火葬、埋葬、繰り上げ初七日法要とつつがなく進み、最後までつき合ってくれた組内、親戚、元社員、そしてオフクロと親しくしてくださっていた方々にお礼を述べても、時刻はいまだ14時にはならなかった。
帰宅して喪服を普段着に着替え、会社に戻る。外の掃除をしながらふと店の駐車場に目を遣ると、香典帳やオフクロの写真などを手渡すべく来てくれた、「菊屋ホール」のワガツマさんの姿が見えた。以降は自宅と会社のあいだを往復しつつ、仕事と共に葬儀の残務整理をこなす。
今回のことを振り返ってみれば
2005年のオヤジのときは現役社長の死去だった。
オヤジは11月20日という、年末の最繁忙期に差しかかるところで亡くなった。
オヤジに続いてお婆ちゃんの喪主を2012年に務めて経験を積んだ。
オフクロは死の当日まで身の回りのことは自分でしながら自宅で突然に逝った。
今回は連絡、折衝、数々の意思決定、記録などを長男が担ってくれた。
などの理由により、特にオヤジのときとくらべれば、この1週間は必要なことを粛々とこなすのみの淡々とした日々だった。向こう三軒両隣の組内をはじめ、オフクロに親しくしてくださった方々、お世話くださった方々には、厚く御礼を申し上げたい。
昭和3年生まれのオフクロは、昨年の秋までは自転車で買い物に行けるほど元気だった。その秋10月なかばに大きな台風が来襲し、やがて去った。折しも甘木庵に逗留中だったオフクロは、台風による雨のいまだ路上に残る晩に東京大学構内のイタリア料理屋へ出かけ、その帰りに足を滑らせ背中から転倒した。
骨折こそしなかったものの、打撲による痛みのため、狭い甘木庵の寝室から便所へ行くにも数十分を要する有様にて、1週間ほどしてから東京大学病院に入院をした。この入院中の検査で判明したのが肺動脈性肺高血圧症という難病である。
オフクロは若いころに喘息を患ったことも影響してか、常人にくらべ肺が酸素を作る能力に優れなかった。あるいは肺動脈性肺高血圧症を発症しながら、それに気づかずここ数年を経てきたのかも知れない。
東京大学病院に入院した直後から透明のチューブにより酸素の供給を受け始め、痛み癒えて2ヶ月後に退院をしたときには、ボンベの酸素を吸いつつクルマで帰宅した。
以降は鬼怒川温泉の入り口にある獨協大学医療センターに、月に1度ほど通って診察を受けてきた。診察には僕が付き添っていたけれど、今年の夏前になって「お母さんは、もう、そうは長くは生きられない」と担当の医師より告げられた。
苦しみを伴う死なせ方はできるだけ避けたいと考えつつ、どのような亡くなり方が予想されるかと訊くと「肺の能力が劣る分、その肺に酸素の元となる血液を懸命に送ろうとして疲弊した心臓がある日いきなり停まる。あるいは心肺の機能が徐々に低下して息苦しさが耐えがたいところまで来たら入院をさせ、麻酔で苦しみを緩和させつつ半覚半睡の状態で過ごしてもらうかのどちらか」と説明をされた。
更に延命策についても問うと、ひとつは肺移植とのことだったが、85歳の老人に臓器移植は非現実的だ。そしてもうひとつは食事療法だという。オフクロは大変な食いしん坊で、余命幾ばくもないとなれば、好きなものを食べて余生を送った方が幸せに違いない。そのことを伝えると「それもひとつの方法です」と、医師は僕の意見を否定しなかった。
昨秋に転倒するまでは、オフクロは自分で食事を用意していた。しかし年末に帰宅をしてからは、朝飯のみ自分で用意し、昼飯は家内が調理したものを家族が寝室まで運び、晩飯は酸素ボンベを曳きつつ食堂に来て、10代20代の孫も含めて皆とおなじものを食べた。
今月14日の晩飯を済ませたオフクロは、いつもと変わらない挨拶を残して寝室へと去った。翌15日の朝飯は、オフクロはいつもどおり自分で整え摂ったはずだ。そして12時30分、昼飯の盆を手に長男がオフクロを訪ね、声をかけると応答がない、それを不審に感じ、事務室にいた僕を呼びに来た。取り急ぎオフクロのところへ行き、からだを触ると、人の体温にしてはすこし低い。耳に口を当てて呼んでも返事をしない。
長男の電話で駆けつけた救急隊員によれば、オフクロは、亡くなって30分は経っているとのことだった。そしてその日は午後から晩にかけて、家族はなかなか忙しい思いをした。
オフクロは昭和30年に木更津から日光へと嫁に来た。オフクロの最低最悪の時期は、僕の妹を病で失った昭和47年からの数年間だったに違いない。しかしその後は好きなことをして今に至った。最晩年の最も楽しみとしたところは家族との食事、そして若い友人たちとの交流だったと想像される。
いま「最後の晩餐」といえば、ほとんどは病院の点滴ではなかろうか。オフクロの「最後の晩餐」は、メンチカツ、生のトマト、スパゲティサラダ、そしてごはん1膳だった。ワインを勧めたものの、この日は飲まなかった。オフクロの最後の酒は、僕がいまだタイにいた10月4日の「新政酒造・亜麻猫改」だったという。
そして本日、オフクロの通夜の場に喪主として臨む。
きのうサイトートシコさんがたっぷりの、春菊のおひたし、けんちん汁、胡瓜の古漬けなどを持ってきてくれた。僕は春菊はそれほど好まないけれど、サイトーさんのそれは香りが穏やかで美味い。街で売っているものとは種類が異なるのだろうか、あるいは収穫してすぐに調理をすれば、みなこのような風味になるのだろうか。
サイトーさんのけんちん汁は、野菜の刻み方がすこし大ぶりで、そこのところが歯や舌や口内の粘膜に嬉しい。比喩としてタイのことを持ち出せば、古典舞踊を鑑賞しながら摂る宮廷料理も悪くはないのだろうけれど、シームンの家で食べる野山のものはガツガツとかき込みたくなるほど美味い、そういうことがあるのだ。
「今市屋台まつり」は今年はJR通りで開催をされる。大谷向町と朝日町の屋台は昼を前にして、国道121号線の長い坂を登り、春日町の交差点を左折していった。我が春日町1丁目の屋台は正午ちょうどにおなじ交差点を直進していった。会計係の僕は数日前に大膳に前払い金を手渡した。残る仕事は精算と決算書の作成くらいのところだろう。
ワイン蔵に温存した、マルセル・ラピエールのモルゴンを先日ひさしぶりに飲んだところ、醸造から14年を経ていささか衰えていた。よって今月に入って3本目のキャップの蝋をナイフで削り落とし、抜栓をする。
「買っていまだ3ヶ月しか経っていない"RICOH CX6"のピントが望遠において合わなくなった」とは、今月12日の日記に書いたことだ。今朝、きのうの日記のための画像を選ぼうとしてそれらを見てみると、マクロにおいてもピントの甘くなっている感じがする。対象に1センチまで寄れるマクロが不調となれば、このカメラを持つ意味は無い。
そんなことを考えつつ5時30分が近づくと、青い空に浮かんだ雲が、いま正に昇ろうとしている朝日を受けて、朱と桃を合わせた色で光り始めた。朝の空は、日の出の直前がもっとも美しい。よって望遠のピントが合わないことは重々知りつつ、その空へ向けてシャッターを切る。「もしや」と期待をする気持ちもすこしはあったけれど、ピントは今朝も合わなかった。
きのうの日記についての画像は、ピントの合っていないものはすべて捨てた。朝飯の画像も何となく冴えず、渋々の採用である。
"RICOH CX6"の代替は"RICOH GRD IV"が務めることになる。しかしこちらは朝の空の色を捉えるなどは、どうも苦手らしい。あるいはそれは、僕の知識不足によるものかも知れない。
今朝の味噌汁の具は、薄く輪切りにした茄子とズッキーニのソテーだった。炒めた野菜を加えた味噌汁は、油や脂を好む僕の、たまに欲しくなるものだ。秋も深まるころに口にする夏野菜には、とうに過ぎてしまった夏を惜しむ、否、懐かしむ気持ちをかき立てるようなところあがる。そして改めて、これから来る冬のことを思う。
整理整頓とは大したもので、昨年の晩秋これを断行したところ、今ではたとえ未明の闇の中でも、望む服を引き出しから手探りで取り出せるようになった。
整理整頓のうちの「整理」には、物を捨てる意味が含まれているらしい。そして家の中に余計な物が存在するときには、それらを捨てれば捨てるほどお金は貯まる。なぜ貯まるか。
家に物が溢れていると、いざというとき必要な物が見つからない。だから仕方なしにそれを買う。買えば物は更に増える。更に増えればせっかく買い足した物も次の機会には見つからず、再び三たび同じ物を買う。物はますます増えて、お金は減る。無限の連鎖である。
そうして今朝も暗闇の中に靴下を手探りし、暗闇の中でそれを履く。そうして昼ごろになってふと足元に目を遣れば、左右で異なる色の靴下を履いていた。穴の開いた片方を捨てるうち、色違いの一足ができてしまったのだ。今後は靴下は、同じもので揃えようと思う。
ところで先ほど物を捨てるほどお金は貯まると書いた。しかしそれは貯金癖のある人に限ってのことだ。今月末にお金が貯まれば来月初には使ってしまう、そういう性癖の持ち主であれば、いくら物を捨ててもお金は貯まらない。僕がその好例である。
1980年のバンコクで、登山靴を履いて旅する人を見かけた。訊けばスリランカで負傷したつま先に蛆を湧かせて以来の習慣だという。
僕は冬でも靴下を履きたくないほどの素足好きである。南の国ともなれば素足で過ごしたい気持ちは日本にいるとき以上につのる。
しかし南の国の歩道はスコールに備えて高くできていることが多い。あるいは整備の行き届いていない個所も少なくない。更には工事中の、いまだコンクリートで覆う前の暗渠が夜も放置されていたりする。いくら素足が好きでもゴム草履は危険だ。
その危険を承知の上で、先般のタイ旅行では多くゴム草履で歩いていた。あるホテルではベッドの下に隠れていたキャスターに爪先を強く打ち付けた。皮膚が破けなかったのは幸いだった。
"KEEN"の、長く愛用している"YOGUI"はつま先を守る式の草履だけれど、かさばるところが難点だ。しかしおなじ"KEEN"でも"WAIMEA H2"なら機内持込サイズのスーツケースに何とか収まりそうである。
次に南の国へ行けるのは来年の秋になる。草履を買うのはその直前が望ましい。しかし夏に在庫が払底したらどうするか。秋も深まってきた今こそ売れ残りを確保する好機ではないか。そう考えて、これに最安値を付けている店の注文ボタンをクリックした。
できるだけかさばらないようにと、普段より5ミリ下のサイズのそれが届いたので試してみれば、更に下のサイズでも履けたのではないかと思われる感触だった。しかしまぁ、あまり無理はしない方が良いかも知れない。
そしてこの"WAIMEA H2"を決して仕舞い忘れないだろう場所に格納しながら「だったら今の"havaianas"製はどうしようか」と考える。捨てるほどにはすり減っていないのだ。
チェンライからコック川を舟で小一時間ほども遡ると「ハーセン」という温泉にたどり着く。僕は日本の温泉こそ嫌いではないけれど、タイ人の皮膚感覚にはちょうど良いらしい、極めてぬるいそれには興味が無い。興味がないから「温泉は、いいよー」と婉曲に断った僕に、しかしカレン族のシームンは「折角だから」とか「ここまで来ながら」と入浴を勧めた。
あずまやのような趣の個室まで僕を先導したシームンは「大きな蛇口はお湯、小さな方は水」と、その蛇口を開けながら説明してくれたけれど、大きな蛇口からほとばしるお湯は案の定、ひなた水ほどの温度だった。
「鉱泉浴に最適な時間は20~30分」と浴室の壁には示唆されていたから、そのぬるい湯の中で我慢を重ね「もう20分ほどは経っただろうか」と、脱衣カゴの腕時計を見るため風呂の縁に立った途端、僕はマンガの中の、バナナの皮を踏んだ間抜けのように後ろに転倒して腰をタイルの角に打ち付けた。
ひとり旅で何がもっとも不便かと問われれば、今は自信を持って「背中の傷にバンドエイドを貼ること」と答えられる。そうしてその、9月28日に作った傷の癒えないまま帰国したのが10月6日。そして翌7日に外科の診察を受けた。
傷にはガーゼを当てて湿り気を取る、という方法は今は流行らないらしい。四囲に粘着性を持たせた透明フィルムを患部に貼った看護師の向こうで「一週間経ったらまた傷の具合を見せてください」と医師は言った。
外科にかかった割に傷の痛みは去らない。それどころかフィルムの内側には白濁した液体が随分と溜まってしまった。「膿んじゃったんじゃねぇか?」と、1週間に1日多い本日、ふたたび外科の診察台にうつぶせになってみれば「これは膿ではありません、肉が盛り上がってくるときににじむ液です」と医師は明るく言い放ち「かなりえぐれていましたからね」と加えた。
肉が「かなりえぐれ」るほどの転倒をしながら頭蓋骨も腰骨も背骨も傷めなかったのは幸いだった。僕はかなり運の良い人間なのかも知れない。
その後に気づいたことではあるが、タイの浴室や居間には滑りやすい性質のタイルが多く使われている。今後は重々、気をつけなければならない。
下今市07:45発の上り特急スペーシアに乗れば、浅草着は09:33。所用を済ませて浅草に戻ると時刻はいまだ10時28分。そして11:00発の下り特急スペーシアで帰社する。東京での滞在時間は1時間27分。僕としては非常に短時間の出張だった。
午後に銀行へ出かけると、おなじ町内で数年先輩のシバザキトシカズさんと出くわした。
「なんで駆り立てられるようにしてタイ、行くんでー?」と、昨月末から今月初までの僕の行動を知るらしいシバザキさんが話しかけてくる。「駆り立てられているのは日本で、ですよー」と、僕は人差し指を銀行の床に向けつつ「だからタイでノンビリするんです」と加えた。
「向こうでよっぽど良いことがあるんじゃねぇんけー」とシバザキさんは畳みかけてきた。よって「できればシバザキさんとタイ、行きたいですよー」と、これは皮肉でも世辞でもない、僕の素直な気持ちから言った。
チェンライの、特に土曜日の晩にシバザキさんと一緒にいたら、どれほど楽しいだろう。楽しいどころか想定外のところに着地する可能性も無いでは無い。シバザキさんとバンコクまで南下したらどうなるか。僕ひとりの力ではどうにもならない状況に追い込まれるかも知れない。しかしシバザキさんは多分、そうなっても「ブワッハッハッ」と笑っているのだ。
旅の長さが2週間ほどであれば、そのうちの1日、2日は人的交流に充てても良いかも知れない。残りの十数日は、ひとりでのーんびり、である。
この日記を検索して、それは2002年10月1日のことと知れた。テレビは西から近づきつつある台風に対して「戦後最大級」と、大騒ぎをしていた。その中を僕は夕刻から銀座に出た。地下鉄の構内から地上に出ようとする僕とすれ違うようにして、帰宅を急ぐ人たちは階段を下りつつ奔流のように途切れなかった。
「松屋」で開かれていた、きのうまでは大賑わいだったはずの展覧会に、客は僕も含めて10人ほどしかいなかった。そのお陰もあって、会場内に掲示された説明や年譜の、ほとんどすべての文字を僕は読むことができた。
銀座の街には「台風のため、閉店させていただきます」 と札を出す店が目立った。雨はほとんど降っていない。風は普段よりは強かったけれど、テレビの伝えるような「落下物に気をつけてください」というほどのものでは勿論ない。
数寄屋通りにある、普段は大繁盛のおでん屋に顔を出すと「今日は3件、キャンセルがありました。情報過多ですよねぇ。損害賠償してもらいたいくらいです」と、あるじは嘆いてみせた。客は僕を含めても2、3人だったように思う。
19時台のニュースをテレビで観ていると、ヘルメットをかぶった記者が「傘を差して歩くことも危険な状況です」と、三重県津市の様子を歯切れ良く説明している。
その言葉を受けて記者から歩道にカメラがパンすると、「町内のご隠居さん」という感じのオジサンが画面に明るく写り込んだ。オジサンの傘は間の悪いことに、風にあおられもせず直立を保ったままだった。
淡路島上空に差しかかった台風19号は、既にして980ヘクトパスカルまで勢いを減じている。店舗や工場の、銅製から樹脂製に換えた雨樋の、今秋は試運転の期間になるだろう。
昨年の10月27日に"RICOH CX5"を本郷界隈で紛失した。2週間後の11月12日、その後継機にあたる"CX6"を、ある人の助けにより大変な安値で手に入れた。その"CX6"は今年の6月7日にデンパサールで紛失した。またまた同じものを7月1日に"amazon"で買った。
その、買っていまだ3ヶ月しか経っていない"RICOH CX6"のピントが「望遠」において合わなくなった。数日前のことだ。
「リコー」のサービスセンターは銀座の昭和通り沿いにあって便利だった。ところが昨年5月、この施設が埼京線の「浮間舟戸」という駅のちかくに引っ越した。大いに不便なことである。
「リコー」はまた「リコーイメージングスクエア新宿」でも持ち込み修理を受けつけている。しかし東京では主に東側で活動している自分にとっては、新宿へは何となく行きづらい。
今月の下旬には恵比寿で用事がある。新宿へ出かける機会もある。そのいずれかの日に「リコーイメージングスクエア新宿」まで出かけてみようか。買って僅々3ヶ月後の故障はちと早い気もするけれど、同じリコーによる"GRD"の初期型にくらべれば、随分と頑張った方かも知れない。
東京へ行くくらいのことでは、デジタルカメラは持たなくなってしまった。先般のタイ行きでは、11日目に予備も含めてバッテリーが枯渇し、以降その日も含めて2日間は"iPhone"をカメラ代わりにしていた。極端に暗いところでもない限り、また特に接写でもしない限り、ウェブ上で使う写真の撮影は"iPhone"で充分である。
鬼怒川号には滅多に乗らない。下今市から池袋、新宿へ乗り換え無しに行けるのは便利としても、運賃の高さ、それに加えてJRの車両のテーブルの使いづらさのゆえに乗る気がしない。
本日は事情があって、これに乗らざるを得なかった。ところがプラットフォームに入ってきたのは東武鉄道の車両だった。駅員に質すと、時間により車両が入れ替わるのだという。それを聞いて「こっちのほうが良いよね」と、今朝の車両を指さすと、駅員は明確な返答を避ける代わりに肩をすくめて笑った。
北千住でのカウンター活動においては、家内を同伴しているため、立ち飲みというわけにはいかない。よって「天七」でも今夕は細い道に面したいつもの方ではなく、そのはす裏にある「分店」に回ってみた。こちらには初めて来てみたけれど
1.座って食べられる。
2.カウンターに置かれた紙に客が記入する形で1本から注文できる。
3.メニュにホッピーがある関係から「ナカ」が注文できる。
の3点により、これまで通っていた表の店より気に入った。店側の配合比によるチューハイは僕には薄い。濃度は「ナカ」を加えて自分の好きにしたいのだ。北千住で串カツを肴に飲酒活動をする際には、時間に追われてでもいない限り、今後はこちらの「分店」に来ようと思う。
そして19:13発の下り特急スペーシアに乗り、21時前に帰宅する。
雨のロイクロー通りを東へ走って古民芸の店"PA KER YAW"を訪ねたのは先月25日のことだ。
麻や木綿による布が好きだ。もっともそれらを買って帰っても、ほとんどは箪笥に仕舞われ日の目を見ることは無い。それを知っているから"PA KER YAW"はアリババの洞窟のような店だけれども、ザラザラと荒っぽかったり、濃い紫の隣に赤や黄色を継いだり、似た色を重ねてわざと地味目に織った絣などについては、眼や指で愛でるだけにして、買わずにいとまを告げることが常だった。
しかしプレー産の藍染めのタイパンツ、それからチェンマイ産の手縫いのタイパンツについてはどうにも物欲に抗しきれなかった。一旦チェンライまで北上し、月の改まった今月3日にふたたびチェンマイに下りるなり"PA KER YAW"を訪ね、その2本を買った。
オリエンタルホテルちかくの、僕が勝手に「乱雑屋」と名付けた店で昨年3月にタイパンツを買った。価格は200バーツほどのものだった。今回の旅行中はほとんど、そればかりを穿いて過ごした。
今月6日の朝に帰国をして翌7日、その、ずっと穿いていたタイパンツに加えて新たに手に入れた2本もまとめて、家の向かいの岩本染張店に洗いを頼んだ。「充分に大きいですから、縮むことなんて心配しないで遠慮なく水を通してください」と、僕はイワモトさんに言い添えた。
その3本のタイパンツが本日、早くも戻ってきた。プレー産の藍染めのそれは、水に漬けただけで藍が派手に溶け出したという。そして素人の僕には初めて聞く言葉だったけれど、イワモトさんは「藍止め」を施したという。
チェンマイ産の手縫いの方は、良く言えば古拙、悪く言えばずぼらな針仕事によるひと品だ。機械縫いよりも耐久性に劣りそうだから、これについては惜しみつつ穿こうと思う。
「乱雑屋」のそれは、存外に穿きやすかった。来年は日本を出るときから穿き始めようと思う。
朝、出勤する社員とすれ違うようにしてホンダフィットに乗る。そして日光宇都宮道路、東北道と乗り継いで県南に至る。ひとつ目の予定が先方の都合で早められたため、二つ目の用事までは3時間の時間が空いてしまった。よって"iPhone"でファミリーレストランの場所を探し、そこで2時間30分ほども過ごす。
日光では、特に朝方などは半袖では寒く感じることもある。しかし栃木県も最南部まで下れば汗ばむほどの気温にて、クルマにはときおりクーラーを効かせる。しかし「真夏でもないのに」という、罪悪感でもないけれど、いささか躊躇われるような感じもあって、効かせっぱなしにはしない。
後席の背もたれを倒し、結構な量のあれこれを積んで夕刻に帰社する。本日の仕事は会社が金銭的利潤を得るためのもの、というよりも種まきのようなものだ。そして出勤しているすべての社員にそれについての報告をし、会社における一日を締める。
と、ここまで書いて文字数は386。毎日これくらいの長さに収まれば上出来ではあるけれど、そうそう上手くいくものではない。
"TRAVEL"と表紙に書かれた小さなノートは僕の旅のデータベースだ。すべきこと、覚えるべきこと、記録すべきことは、可能な限り、ここに書き留める。その「反省」の欄には今回、9つのことが加えられた。
・これまで泊まったホテルを使う限り、コンセントのアダプターは必要ない。
タイではほとんどのホテルで日本のプラグがそのまま使える。
・点鼻薬はタンクの上限まで薬液を満たしておくこと。
「まさかそこまで必要ないだろう」と中身が半分くらいになったものを持参して、しかし1週間目に枯渇した。
・日本から焼酎を持ち込む必要はない。
チェンライの中心部に上出来のラオカーオを売る店を見つけた。
・襟付きのシャツは減らしてTシャツを増やす。
襟付きのシャツを必要とするところに出入りする機会など、ほとんど無い。
・カメラはバッテリーの充電器を持つこと。
バッテリーは予備を持参して、しかしそれも11日目に枯渇した。
・eチケットの控えはノートに貼る。
原本の他に複写1枚を持参して、2枚とも紛失した。
・機内持込のザックは"T-TECH"から"GREGORY"のデイパックに戻す。
内部にポケットの多い"Tumi T-Tech Empire Smith Laptop Briefpack"は、どこに何を入れたか忘れて混乱する点において却って使いづらい。
・機内必需品をまとめておくビニール袋を復活させる。
2010年9月にチェンライ着の機内にメガネを置き忘れた。それを契機として、以降は機内での必需品はすべて透明袋にまとめることとした。今回はそれを持参せず、"Tumi T-TECH"のポケットでこと足りると考えたが、またまた羽田着の機内にメガネを置き忘れた。
・「日光味噌」のフリーズドライ味噌汁を持参する。
「いつかいただいたあれ、すごく美味しかったです。伊勢丹にもフジスーパーにも売ってないんですね」と言うタイ人がいたため。
旅先ではテレビのスイッチは入れない。その国のテレビさえ観ないのだから、日本のそれなどは更に観ない。なぜ観ないか、旅の感興が削がれるから観ない。会社や家族から電話がかかることもない。そのお陰でこちらは電話も通じないところで好きなことをしていられるのだ。
旅先でテレビを観ない分、帰ってからの情報量が多すぎて辟易するかと思えば、そのようなこともない。相変わらず情報にはそれほど触れないせいかも知れない。
きのうは昼前に帰宅し、午後に入ってから行きつけの病院に電話をすると、診療は午前のみと言われた。よって今朝は一番に出かけ、先月28日に温泉の浴室内で転んで打ったところを診てもらう。レントゲンの結果、骨に異常は無かった。傷も膿んではいないが腫れがひどい。患部を冷やして1週間後にまた来るように、という医師の言葉を背中で聞いて帰社する。
ウチの社屋も築40年がちかくなって、あちらこちらに交換しなければならない部分が出てきている。雨樋は今春の大雪により随分と痛めつけられた。銅製のため、雨や瓦に含まれる酸性の物質を受け続けて、まるで銀紙のように薄くなっているところも見つかった。
この仕事に充たる人の意見に「それでは風情が無くなる」などと逆らうことはせず、これまでの銅製を樹脂製に換えることに合意をした。これも時代の趨勢だろう。そして僕がタイへ行っている間に、工場の脇には足場が組まれていた。店舗に続いてこちらの雨樋もまた樹脂製に、そして取り付け金具は鉄製からステンレス製へと交換される。
日光の竜頭の滝あたりでは、先月の下旬から、早くも紅葉が始まっているという。紅葉の見ごろを報せるアプリケーションを"iPhone"に入れ、それを常夏の国で観れば何かの感懐を得ることができるだろうか。海外での生活が長くなれば、あるいはそのようなことをしている人も、中にはいるかも知れない。
目を醒ますための熱いおしぼりの配られる気配で目を醒ます。時刻は2時50分。離陸から4時間弱が経っている。離陸直後から眠れたとしても、4時間以内には起こされてしまう計算だ。間もなく朝食が配れ始める。その朝食は3時20分に食べ終えた。
機が大きくうねるようにして揺れたのは、それほど長い時間ではなかった。そして"TG682"は、定刻より65分も早い、タイ時間03:50、日本時間05:50に羽田空港に着陸をした。
バンコク22:10発の成田行きと00:05発の名古屋行きが大きく遅れる中で、僕の乗る22:45発の羽田行きが通常どおり飛んだのは幸運だった。羽田空港に雨は降ってたるが、その雨も、また風も、台風を感じさせるような強いものではない。
羽田から乗り換えなしで都営浅草線の浅草駅に着き、地上に出ると、やはり雨が降っている。ここから東武日光線の浅草駅までは百数十メートルを歩かなければならない。機内持込サイズとはいえ僕はスーツケースを曳いている。傘は持っていない。よって昇ってきたばかりの階段を降り、初乗りの料金を支払って地下鉄銀座線のプラットフォームに入る。そしてそれを経由して東武日光線の浅草駅に至る。
特急スペーシアは運休していたが、快速は動いていた。それほど待たずに09:10発のそれに乗る。快速は大して遅れることもなく11時すぎに下今市駅に到着した。
しばらく日本から離れても、日本食が恋しくなることはない。夜はサラダとグラタンにて白ワインを飲み、早々に就寝をする。
朝のチャオプラヤ川を、ウォーターヒヤシンスが流れていく。それが本当にウォーターヒヤシンスかどうかは知らない。地元の人に聞いたことだ。
きのう8時30分を過ぎてから朝飯を食べに行ったらブッフェの会場はすごく混んでいた。よって今朝は大事を取って、6時台に1階に降りる。早くにメシを済ませれば早くから遊ぶことができる。ホテルから通りに出て、最初に来たバスに乗るという遊びである。
7時50分。ジャルンクルン通りの南、木々の間から見えてきたのは、昔ながらの赤バスだった。望むところである。10バーツ硬貨1個を握りしめてステップを上がり席に着く。「赤バスは多分、終点まで乗っても7バーツだろう」と車掌の姿を探すがどこにもいない。噂には聞いていた、たまにある無料のバスらしい。
ジャルンクルン通りから右に折れてシロム通りを東行。サラデーンで左折してルンピニー公園脇を北上。スクンビット通りに出たら左折をしてサイアム。通りの名は何故かラマ一世通りに変わる。
走行距離は数百万キロに達しているのではないだろうか、バスの車体はまるで、松本零士の漫画でテストパイロットを殉死させてしまう新型飛行機のように激しく揺れる。メモは運転手がクラッチを踏み、ギヤを上げる、その数秒のあいだにしかできない。
西に進んで今度は左折。クルンカセーム運河を左に見ながらフアランポーン駅ちかくまで南下。そして右折、また右折。スクンビット通りからラマ一世通りに名を変えた道は更に、バムルンムアン通りと表記が変わる。
ガイドブックで見覚えのある、鳥の羽のような構築物は民主記念塔だ。大きく左に曲がると右手には王宮前広場が広がる。その緑の尽きようとするところを右折し、エメラルド仏で有名なワットプラケオに沿って北上する。ナープラロン通りからナープラタット通りに右折すると間もなくタマサート大学の停留所で、女子学生が降りていく。
バームラムプー運河がチャオプラヤ川に注ぐ、いにしえの軍事的要衝に建てられたプラスメーン砦を左手に見ながら道なりに右に曲がり、砦と同じ名のプラスメーン通りを東へ進んですぐにチャクラポーン通りに右折。カオサンが近づいてくる。
とある停留所で遂に、乗客は最後部左窓際に座る僕ひとりだけになった。運転手に何か言われるかと心配したそこから、しかしまた多くの市民が乗り込んできて安心をする。
大きな通りに出てすこし行くと、ふたたび先ほどの民主記念塔。車体を震わせつつこのロータリーを大きく巻いてバムルンムアン通りへ。華僑病院を左手に見ながらオンアーン運河を越え、国鉄の線路を越えて間もなくサイアム。ここまで来ればなんとなく、このバスはどこかまで行ってそこが終点なのではなく、元のところまで戻りそうな気がしてくる。
そして予想したとおりラマ一世通りからスクンビット通り。間もなく右折してラチャダムリ通りに出れば、右はロイヤルバンコクスポーツクラブで左はルンピニー公園。シロム通りに右折してサラデーン。しばらく行けば左手にインド寺、その先を左折してジャルンクルン通りを南下。サパーンタクシンの高架をくぐってホテル最寄りの停留所には9時15分に着いた。
ジャルンクルン通りを北へ向かう15番のバスを見たら、迷うことなく乗り込むべきだ。 渋滞のない日曜日の朝なら1時間25分の観光バスが体験できる。僕は運転手に「コップンクラーップ」と大きな声で礼を述べ、ステップを降りた。
荷物は昨日の夜にあらかたまとめておいた。チェックアウトをしてスーツケースを持ち、ホテルの桟橋から10時30分の舟に乗る。コモトリ君の住むコンドミニアムの舟はサトーンの船着き場から10時40分に出る。その舟が普段は立ち寄らないオリエンタルホテルに近づいていく。
サファリジャケット姿も凛々しい係員に送られてオリエンタルホテルの朝食会場から乗り込んできたのは、先日も同じ舟に乗り合わせた白人だった。
"Good morning"
「おはようございます」
「日本語を、お話になるんですね」
「えぇ、日本には15年いました」
相手の風貌から推しつつ「お仕事は大学の先生とか」
「いえ、アメリカの大学の理事として日本に赴任していました」
「そうでしたか。それはそうと、先日の時代物のズボン、なかなか良かったですね。今日のズボンもまた素晴らしい。これはタイで生地を買って、仕立屋に作らせたものですか」
「先日のあれは、ルアンパバーンで友人が誂えてくれたものです」
「ということは、今日のこれもルアンパバーンで」
「えぇ、そうです」
英語と日本語の交錯する会話を続けるうちコンドミニアムが近づいて来た。「タイにはいつごろまでいらっしゃるおつもりですか」と訊くと、その物静かなアメリカ人は「ずっと」と、「ず」にアクセントを置いた日本語で答えた。
週末の朝のバドミントンを楽しんだらしい、ラケットを小脇に抱えたインド人と会話を交わしつつ、コモトリ君の住む階までエレベータで上がっていく。チャオプラヤ川の対岸に見えるキリスト教系の学校には日曜日にもかかわらず、バザーでも開かれているのか、クルマが多く駐まっている。
チャオプラヤ川を舟で行き来することは楽しい。コンドミニアムの、サパーンタクシンに向かう次の舟には他にも乗客がいたけれど、船頭に頼んで通常の航路にはないサワディーの小さな桟橋に着けてもらう。そしてそこからコモトリ君と中華街に入っていく。
いにしえの九龍城を思わせる路地を辿り、すこし広い通りに出る。「楽宮旅社」に逗留していた1982年の僕は、なぜ目と鼻の先の「7月22日ロータリー」まで足を延ばすことをしなかったのだろう。
大きな雲が頭上を行き交うたび、照ったり、また陰ったりする。気温は30度くらいのものだろうか。チェンライの方が暑く感じられたのは、空気が澄んで日の直射が強かったせいかも知れない。
いつの間にか、今朝のバスで通って見覚えのあるバムルンムアン通りに突き当たる。その丁字路を右へ進んで大きめの交差点に出る。歩道橋を渡り、これまた今朝バスで通ったクルンカセム通りを運河に沿って南に下る。遠くにブアアットステイトタワーの金色のドームが見えてくる。
目に付いた料理屋で昼飯を済ませ、更に歩く。中華街らしく、まるで中華寺のような見た目の病院がある。1階は店舗、2階は住まい、そしてそれ以上の階を持たない南の華人街を、タイ人の女の子に先導された、下町自転車ツアーの白人が団体で過ぎていく。
コモトリ君の家のベランダからチャオプラヤ川の対岸に"RIVAR VIEW GUEST HOUSE"という、ペニンシュラホテルなどにくらべればマッチ箱のような建物がある。そのゲストハウスに僕は少なからず興味を持っていた。「クルマの解体屋だらけのところだ」と言うコモトリ君の案内で、その界隈に浸透していく。
お寺と倉庫のあいだの小路を進み、更には建物と建物に挟まれて、二輪車しか入っていけないほどの隙間に面して"RIVAR VIEW GUEST HOUSE"はあった。「折角だから」とフロントで名刺とパンフレットをもらい、また通りに出て南を目指す。川に近づくと、風がいきなり涼しくなる。そして遂に、オーキッドシェラトン手前のリバーシティに至る。
バンコクに住むタイ人は、100メートルは歩く。しかし一気に300メートルとなると、二の足を踏む。たとえ数百メートルの距離にもかかわらず、街の辻々で客待ちをするバイクタクシーに乗ってしまうのだ。そういうタイの都会人からすれば気の遠くなるような道のりを、今日の我々は歩いた。その距離は多分、5キロほどにはなるだろう。
チャオプラヤ川の下流から、恐ろしいほどの速さで雨雲が近づいてくる。コンドミニアムの舟が我々を見つけて接岸するのが先か、あるいは夕立が先か。そして舟に乗り、シャワーのように降り注ぐ雨から逃げるようにしてコモトリ君の家に戻る。
日の暮れかかるころ、警察官舎の砂利の広場を横切ってチャオプラヤ川沿いの料理屋"YOKYO MARINA RESTAURANT"へおもむく。電子ピアノのいわゆる「先生」が来る前のこの店には、ディオンヌ・ワーウィックのバート・バカラックメドレーが流れて、旅の最後の夜にふさわしい心地の良さだ。
予約しておいたタクシーには、19時58分に乗り込んだ。チャオプラヤ川をタクシン橋で渡り、空港には20時39分に着いた。高速道路の料金は、1本目が50バーツで2本目が25バーツ。メーターは267バーツだった。
タイ航空のカウンターに近づくと、人だかりできている。その人だかりの奥には1枚の張り紙があった。張り紙は、22:10発の成田行きと00:05発の名古屋行きの、台風による大幅な遅延を伝えるものだった。ということは、僕の乗る22:45発の羽田行きは通常どおり飛ぶということだ。「よしっ」と腹の中で呟き、チェックインの列に並ぶ。
20時51分にチェックインを完了。21時00分に荷物検査を完了。21時05分にパスポートコントロールを通過。
新品同様の"Boeing 787-8"を機材とする"TG682"は、定刻に11分おくれて22:56に離陸をした。そして夜食のサンドイッチを断って即、就寝の姿勢に入る。
ホテルの部屋にはふたつのデスクがある。しかしどちらも机と椅子の高さが適切でないからコンピュータが使いづらい。よってリビングで一昨日の日記を書く。適当に端折れば良いものを、つい詳しいところまで開陳して手間を食う。
朝飯の会場に降りると「ミス何とか」という大会がバンコクのどこかで開かれるのか、それに出るだろう女の人たちが、国名を記したタスキを肩から斜めがけにして朝飯を食べている。
ハイヒールは、背の低い人が背を高く見せようとして履いても似合わない。ハイヒールは、背の高い人にこそ似合う。それにしても身長が190センチに届こうとする女の人たちが更に、夜のオネーチャンの好みそうな極端なハイヒールを履いてブッフェの会場を闊歩している。壮観と言う他はない。
朝飯のテーブルが屋内と屋外にあれば、特に南の国では外で食べたくなる。僕も外に出て小さなテーブルに着く。このテーブルが、屋根のひさしの下から幾らか外にはみ出していたためか、椅子が夜露に濡れている。よって他所から別の椅子を持ってきて座る。テーブルは石の床が平らでないため、時々大きき傾く。そしてテーブルにあらかじめ用意されたミルクをこぼす。
他所のテーブルでは、食事を終えた白人が立ち上がるなり自分のシャツとズボンの濡れていることに気づき、しかしその湿った部分をひと撫でしただけで去って行った。同じことが日本のホテルで日本人の客に発生したら、とんだ騒ぎになるだろう。
ホテルの、9時30分の船に乗ってサトーンの船着き場へ行く。ここからは9時40分に出る、コモトリ君の住むコンドミニアムの船に乗り換える。コンドミニアムには出入りのタクシーが待っていた。そしてそれに乗り、コモトリ君とクロントイのスラムに向かう。
自分が本読みを好むこと、売上げの一部がスラムや辺境の子供たちに役立てられること、同級生のコモトリ君がこの会に微力を尽くしていること、そのような理由から、社員へのお土産は、この「クロントイ・シーカーアジア財団」で求めることと僕は決めている。
売店は週末はお休みとのことだったが、今日は特別に開けてくれた。そして今回は、モン族の手仕事によるポーチ10個を買う。
2階の売店こそ休みだったが、1階の広間からは子供たちの遊ぶ声が賑やかに聞こえてきた。その子供たち、責任者のヤギサワカツマサさん、移動図書館の運転手兼読み聞かせ担当のソムサックさん、そして売店の女の人などと記念写真を撮って、財団を辞去する。
「海関対面魚翅館孔堤」を訳せば「クロントイ港の税関前のフカヒレ屋」で、それが店の名前なのだろうか、とにかくその南洋中華の店でフカヒレスープをオカズに米のメシを食べ、燕の巣の蜜煮で仕上げて、これを本日の昼飯とする。
スーパーマーケットに寄ったりしながらホテルに戻り、夕方まではきのうの日記を途中まで書く。
夕刻にホテルの舟に乗り、5分もかからずサトーンの桟橋に着く。5分も待てば、コモトリ君の乗った、コンドミニアムの舟が着く。そしてふたりでサパーンタクシンからラチャテウィーまで"BTS"で移動する。
「何でもかんでも一緒にぶち込んでグツグツ煮やがって、その上『これがスタンダードだ』ってな顔をしている点においてタイの鍋は気に食わねぇ」というコモトリ君を口説き落として遂に本日、大繁盛のチムジュム屋「ジェーコーイ」に僕は来ることができた。
タイ人からすれば「何をチマチマやってんだ」というところだろうけれど、野菜の、先ずは火の通りづらい茎の部分を、次は葉の部分を、そしてようやく豚の内臓各部を、という順序であれこれを煮ながらチムジュムを食べる。それにしてもここの料理は鍋にしてもガイヤーンにしても味付けが甘い。「田舎のそれとは違うよ」というところなのだろうか。
食後に歩いたソイ12は洗濯屋と床屋の集まる路地だった。そしてこの路地の、むかしのバンコクを色濃く残した景色を僕は嬉しく眺めた。この界隈には次の機会にも、ぜひ足を延ばしたい。ソイ12からソイパヤナーク、そこから便所を借りるため「アジアホテル」のドアを押す。
「アジアホテル」といえば、アラブ諸国や中国大陸からの団体旅行の受け入れ先としか認識をしていなかった。ところがロビーに一歩を記せばコーヒーショップの"Tivoli"ではバンドのボーカルがエルビス・プレスリーの物まねで「監獄ロック」を歌い、アラブ人のオバチャンがそれに合わせて大はしゃぎで踊っていた。「なるほどー」と、深く感心をする。バンコクでは川沿いを好む僕だけれど、次回はここに泊まるのも面白いかも知れない。
「アジアホテル」を出てからはパヤタイ通りを南下し、ファチャンの橋を越える。そして歩いて国立競技場に至る。巨大なショッピングモール"MBK"には、僕は今回はじめて足を踏み入れた。そしてふたたび"BTS"でサパーンタクシンに戻る。
時刻は21時10分。この時間からも「リバーシティ」への舟に乗ろうとする人がたくさんいることに驚く。そして僕はホテルの舟に乗り、21時20分にホテルの桟橋を上がる。
気づくと部屋の灯りを点けっぱなしにして着の身着のままで眠っていた。腕時計は0時20分を指している。先月29日に買ったラオカーオは、きのうその残りをすべて干した。「すべて干した」とはいえ大した量ではない。思わぬ不覚である。
風呂に湯を溜め、ゆっくりと漬かる。そして新しいシャツを着る。部屋の"wifi"は安定しないので、コンピュータを持って深夜のロビーに降り、あれやこれやする。
0時20分の起床はいかにも早い。部屋の明かりを落として4時30分から二度寝をする。そしてiPhoneに設定した06:30のアラームで目を醒ます。
このホテルが空港へ向けて運行するシャトルバスは、8時や9時など正時のみの出発で、運賃は130バーツだ。そして本日、僕がバンコクまで飛ぶ"TG1301"はチェンマイを10時10分に発つ。よってホテルを8時に出たのでは早すぎ、しかし9時では遅い気がする。フロントで訊ねると、あと20バーツを追加してくれればタクシーが呼べるという。僕は迷うことなく8時30分にタクシーを呼ぶよう頼んだ。
ホテルから空港までは14分しかかからなかった。9時発のシャトルバスでも間に合っただろう。しかし肝心なときにはすこしの危険でも回避を図るべきなのだ。
"Boeing777-300"を機材とする"TG1130"は、定刻の10:10に10分遅れて10時20分にチェンマイ空港を離陸した。機内では軽食は断り、水のみをもらう。日記を書く間もなく11時05分には「降下を始めました」のアナウンスが流れる。機は定刻の11:30より13分はやい11時17分にスワンナプーム空港に着陸をした。
スーツケースは機内持込サイズだが飛行機の胴体に預けた。これが出てくるのを待ってエアポートレイルリンクの駅のある地下1階まで降りる。
その"ARL"は12:15にスワンナプームを発車した。パヤタイ着は12:42。ここで"BTS"のスクンビット線に乗り換えるべく緩い傾斜を下っていく。切符販売所で100バーツを10バーツ硬貨に両替してもらって初めて、これまでは硬貨しか受けつけなかった自動券売機に紙幣用のそれが加わったことを知る。
切符を買うことに時間を食い、"BTS"でパヤタイを出たのは13:03だった。サイアムには13:10に着いた。
同じプラットフォームの反対側で乗ったらパヤタイに逆戻りだ。そう考えて1階上のプラットフォームに上がり、来た車両に乗ったところ、どうも様子がおかしい。ちかくの若い人に訊くと、これこそパヤタイに逆戻りをする列車だった。「赤坂見附だか表参道だかでの地下鉄の乗り換えと同じだったか」と後悔しつつ、パヤタイからサイアムに戻る。
ちょうど真向かいに逆の方向から滑り込んでくる車両があった。プラットフォームに立つ女学生に「サパーンタクシンまで行きますか?」と訊いて"YES"の返事があったから即、それに乗り込む。車内ではもう一度、今度はオニーサンに同じことを訊いて"YES"の返事をもらう。オニーサンは車両がサパーンタクシンへ着くなり、そのことを僕に眼で教えてくれた。時計は13時30分を指していた。
サイアムでのコイン購入のもたつきと乗り間違いが無ければ、あと15分は時間を短縮できていただろう。スーツケースを機内に持ち込めば、更に20分はサパーンタクシンに着く時間を早められたと思う。同級生のコモトリケー君は改札口で待っていてくれた。
先ずはバンラック市場ちかくの、まるで体育館のように大きな建物のフードコートへ行く。ここではいつもはバミーナムを食べていたが今日は注文屋台を見つけ、ここでメニュにはなかったけれども一度は食べてみたかったヤムママーを注文してみる。すると店のオネーサンと、料理を待っていた客のオバチャンが同時に笑い声を上げた。なぜかは分からない。
ヤムママーはそれだけで1食分があるので、ひとり旅の酒飲みとしては夜には注文しづらいのだ。南国の香菜がたっぷり効いたヤムママーは「次の機会にもこれを頼むかも」と感じるほど面白いものだった。
サトーンの船着き場の、アジアティックへ行く舟と同じ桟橋から、今回の宿"CHATRIUM HOTEL RIVERSIDE"の舟に乗る。舟はほんの数分でホテルの桟橋に横付けされた。僕はバンコクでは、窓からチャオプラヤ川の見えるところに泊まりたいのだ。
なぜかグレードアップされた12階の部屋に入ると先ずはキッチンを備えたリビングがあり、左手にはベランダ、正面にはツインの部屋、そして右手の奥まったところにはダブルの部屋があった。バスルームはふたつ。こんな部屋を、どのようにして使えというのだろう。しかしまぁ、川の見える部屋の確保できたことは良かった。
部屋でチェックインの手続きをしていたフロントの人が部屋から出ると同時にシャワーを浴びて着替えをする。そして隣の学校の生徒も使えるホテルの舟で、ふたたびサトーンを目指す。サトーンからはコモトリ君の住むコンドミニアムの舟に乗り換え、彼の部屋で一服をする。ホテルからここまでは、うまくすれば20分ほどの近さだ。
バンコクの、ある一定以上の水準のホテルを使って困るのは洗濯代の高さだ。"CHATRIUM HOTEL RIVERSIDE"もその例に漏れず、シャツ1枚に200バーツもかかる。よって僕は溜まった洗濯物を袋に入れコモトリ君の家に持ち込んだ。それをお手伝いさんに見せると百何十バーツかで引き受けるという。僕はチップも入れて200バーツで話を付けた。シャツ1枚の値段で下着から複数のシャツからズボンまでを洗ってもらえるのだから、僕としては万々歳の話である。
コンドミニアムの舟でまたまたサトーンに戻る。サトーンはチャオプラヤ川に運行する大小様々な舟の要衝である。そうして桟橋の階段を上がり、ジャルンクルン通りからシロム通りへと散策の足を延ばす。
晩飯は僕が希望して、ブアアットステイトタワー向かいの屋台にしてもらった。ここは何を食べても美味く、コモトリ君に教えてもらって以来、僕の行きつけになっている。
この屋台で飲酒活動を終えたのが19時40分。バンコク各所にある盛り場の賑わいは、今まさに始まろうとしている時刻だ。しかし僕はホテルまで、それも徒歩で帰ることとし、ジャルンクルン通りを、シロム通りとの交差点から南に歩き始める。コモトリ君とはロビンソン百貨店の前で別れた。
"BTS"の高架下を抜けてしばらく行くと、右手の空き地に巨大な料理屋が見えた。バンドによる音楽も聞こえてくる。近づいていくと、そこは一体全体いくつの席があるか数えようもないほど大きなムーカタ屋だった。しかもほぼ満席である。このような店を見つけられるのも、徒歩の効用である。
そのムーカタ屋のある空き地にはまた、ベッドのマットから皿小鉢までを売る、これまた大きな露店も設けられていた。その露店の中を通ってジャルンクルン通りに戻ろうとすると、チェンライのナイトバザールで馴染みの七輪と土鍋のセットが置かれている。僕の欲しくて堪らないひとつではあるけれど、持って帰れるものではない。
国王と王妃の写真を飾った歩道橋を過ぎる。右手の工事現場の向こうにようやくホテルが見えてくる。そのまま歩き続け、屋台を出てから40分後にホテルに帰着する。道草を食っていなければ30分の行程だろう。
そして部屋に戻り、入浴の後は少々のインターネット活動をする。そして22時20分に部屋の灯りすべてを消す。チャオプラヤ川にはいまだ舟が行き交っている。
1980年の「マレーシアホテル」には、現在のカオサンの趣があった。ロビーの一角には日時を指定した上で「空港への同行者を求む」というような、宿泊客による張り紙がたくさんあった。タクシー代を減らす工夫である。
現在では、その張り紙の代わりをインターネットがしている。そうして集った5人がワゴン車に乗り合わせ、10時30分にチェンライを出発する。
チェンライとチェンマイを繋ぐ100キロほどの道は、山越えまた山越えである。しかしその山は高くなく、つづら折りも急坂も無い。バスでさえ時速80キロほどで飛ばすその道を、ワゴン車は90キロから100キロを保って走る。
ちょうど中間のあたりで屋根だけの、壁のない食堂に立ち寄る。
タイで感心することのひとつは、それがたとえ街道筋のラーメン屋であっても、便器がピカピカに磨いてあることだ。 「東南アジアは汚くて臭くて嫌いなのよ」と顔をしかめる50代、60代の日本人には「あなたが小学生だったころの学校の便所はどうでしたか」と訊いてみたい。
最後の山を下ればチェンマイの街はそう遠くない。道が徐々に混み合ってくる。同乗者の都合だろうか、ワゴン車はナコンピン橋を渡らず、その手前で左に折れてチャルーンラート通りを南下し始めた。そしてピン川をナラワット橋で渡り、懐かしのターペー通りへと入って行く。
ナイトバザール至近の、立地だけは良い、大きいけれども古びたホテルの14階に荷を解く。そしていつものように部屋の整理をしながら風呂場を覗くとタオルが無い。数分後にスーツケースを届けに来たベルボーイにそのことを伝える。ホテル側の、このような落ち度により出鼻をくじかれるのは、あまり気持ちの良いものではない。
チェックインとき"wifi"のパスワードをもらい忘れていたことに気づく。というか、最近は頼まなくてもそれをくれるから、わざわざ請求しなかったのだ。そしてロビーに降りてフロントでそれを受け取り、部屋に戻ってコンピュータを立ち上げる。
14階の"wifi"にアクセスしようとすると、課金が発生する旨の表示が画面に出る。ここには昨年も泊まったが、そのときは無料だった。「更に訊きたいことがあればフロントまで来てください」と、ページの下部に文字がある。よってまたまた14階からロビーまで降りてフロントのオニーサンにその画面を見せると「問題ありません、無料です」と彼は答えた。どうもこのホテルはいけない。
つまらないことに時間を取られて行動が制限されることは避けたい。インターネット活動は夜に回すこととして外に出る。そしてロイクロー通りをピン川へ向かって歩く。ナイトバザールの開かれるチャンクラン通りを過ぎると、道は子供のころ通った内房の、海のちかくのそれに似てくる。警官がレンタルバイクに乗った白人を呼び止めたのは、小遣い稼ぎのためだろうか。
古民芸の"PA KER YAW"は、チェンマイで時間が取れれば必ず訪ねる好きな店だ。そして先月25日に目を付けておいた、プレー産の藍染めとチェンマイ産の手縫いによるタイパンツを1着ずつ買う。価格はそれぞれ市場で買うそれの5倍8倍だけれど、見て触ればその価値は容易に理解できる品物である。そして部屋に戻って今度は落ち着いてそれらを検分し、丁寧に畳んで荷物に仕舞う。
チェンマイの盛り場にあるホテルは、いまや長所は立地の良さのみで、いかにも古びてしまった。管理運営についても先に書いた通りだ。しかしプールサイドからの眺望だけは最高だ。目の前にはドイステーップはじめタイ北部の山々が重畳と続いている。
ところでこのプールには、ざっと数えたところ30人ほどの白人が思い思いにバカンスを楽しんでいた。そして黄色人種は僕ひとりである。10月1日からの国慶節で、街にもホテルにも中国人がひしめいている。しかし彼らの姿はここには見えない。
近藤紘一の「目撃者」は、1981年4月1日にバンコクで起きたクーデター「エイプリルフール革命」の周辺に材を取った「噂によれば」に入り、面白くて勿体なくてページを繰る手も遅れがちになる。よってその本を閉じ、100メートルほど泳いで引き上げる。
夜はアヌサーンマーケットの賑やかなところから南の暗がりへと抜け、大木の茂るあたりの料理屋で飲酒活動をする。
「コッコー」と鳥の啼く声が聞こえ始める。時計を見ると時刻は5時15分だった。「コッコー」とはいえ鶏ではない、その調子、高い木の上から聞こえてくるあたりから、声の主は郭公の仲間と思われる。
外が暗いうちは流石に不用心と考え部屋は閉め切っておいた。そしてあたりが明るくなるのを待って、ベランダへの、それまでは薄いカーテンのみ引いていたガラス戸を開け放つ。更には廊下へのドアも全開にし、郭公の声をより身近に聞こうと試みる。部屋を抜ける風は随分と涼しい。
ホテルは1フロアに12室の3階構造だから全36室。ロビーの外にはクルマ7台が置ける小さな駐車場があり、そこに3台の自転車が停めてある。午前はそのうちの1台を借り、特に行き先も定めず東へ向けてペダルを漕ぐ。
メンラーイ王の銅像のある大きな交差点からスーパーハイウェイに入り、しばらく行くとコック川に行き当たった。片側2車線の大きな橋は緩く太鼓型を描いているからこれを苦労して上り、しかし半ばを過ぎれば今度は下り坂になって、脚は急に楽になる。ふと左に視線を振ると、コック川のほとりに白い木造の洋館が見えた。白人が建てた別荘のようにも思われる。
興味を惹かれて道を大きく巻き、その洋館へ続くらしい道に進入していく。洋館は果たして、この街にあっては随分と洒落た感じのカフェだった。ちょうど昼になりかかるときで、人の出入りが多い。客層は地元の富裕な人たちだろうか。
濁っているにもかかわらず眩しい川面に眼を細めつつ奥へ進むと、木の床に腹ばいになった老犬の首を、安楽椅子に座った老人が撫でてあやしている。そしてその木の床は、エステティックらしい別棟に繋がっていた。「チェンライにもこんなところがあったんだなぁ」と感心しつつ外へ出て、再び自転車を漕いでホテルに戻る。走った距離は6キロ、というところだろう。
きのうの天気は冴えなかったが、今日は朝の曇天が嘘のように晴れ上がり、気温は多分、30℃を軽く超えている。このような日は泳がなければ損だ。そして午後の数時間はプールサイドで本を読んだり昼寝をしたりして過ごす。
近藤紘一の「目撃者」は、昨年のタイ旅行では492ページまでを読み進んだ。今回の旅では493ページから読み始め、今日は悲しく叙情的な「夏の海」を読み終えて637ページに至った。
夕刻よりホテル前のパフォンヨーティン通りを西へ進み、いつもの交差点を左に折れて南下する。そしてその通りを左から右へと渡り、先日の酒屋の並びにあって、大量の在庫、これは箱だけかも知れないけれど、とにかく大量の薬を壁の戸棚に几帳面に収めた薬局に入る。そして山から降りてきた日に郊外で買ったと同じプラスター、それからコンビニエンスストアで売っているヤードンより薬効に優れていそうな鼻薬を求める。
晩飯はナイトバザールでも、いつもの庶民用フードコートではなく、木製の太い柱と大きな屋根を持つ高級な方の席に着いた。そしてウェイトレスからメニュを受け取りつつ周囲のテーブルに目を遣ると、ひと品の量がとても多い。よって烏賊の柑橘蒸しとビール1本、そして氷のみを注文する。その名に「ヌン」が付けばそれは蒸し物と日本語の本にはあるけれど、タイの「何とかヌン何とか」という料理は実際は蒸し物ではなく、汁の多い煮物あるいは汁の少ない鍋物である。
随分と美味い、しかし大量の槍烏賊がようよう片付くころ、舞台では地元の少女たちによるタイの踊りが始まった。僕は勘定を済ませ、店を出てナイトバザールの入り口へ向かって歩いて行く。
その入り口の外には布の露店があった。女の人に「パコマーですか」と訊くと、はたしてそうだった。1982年の「楽宮旅社」では、日中の暑い盛りにはボーイは廊下に茣蓙を敷いて昼寝をしていた。そのボーイの腰巻きを指しながら問うとボーイは声高らかに「パコマー」と教えてくれた。「パコマー」の「コ」はフランス語の"R"と同じく、喉の奥をふるわせながら発せられる。僕は「パコマー」の発音には自信があるのだ。
そして夜の目抜き通りを北へ辿り、その先を右に折れてホテルへと戻る。