東の空が、まるで錦絵のように紅く染まってくる、その時間は、しばらく前までは6時10分くらいだった。しかし現在は、冬至を過ぎたにもかかわらず6時20分あたりと、却って遅くなっている。検索エンジンにあたってみれば、日の出から日の入りまでの、つまり昼は冬至から徐々に長くなるけれど、だからといって、日の出が早くなるわけではないと書かれている。
このあたりについて、天文に明るい人に訊けば懇切丁寧に教えてくれるだろう。しかし僕はそれをしない。詳しい人は得てして微に入り細を穿って長々と話し、当方はいささかも理解できないばかりか、以前にも増して混乱してしまうことを知っているからだ。
「日光の美味七選」をウェブ上から注文して下さったすべてのお客様に、何か行き違いがあったら連絡を下さるよう、当方のメールアドレスと携帯電話番号の入ったメールをお送りする。また、お送り先一覧にヤマトの伝票番号を事務係のカワタユキエさんに書き添えてもらい、それを元にすべての荷物の追跡を始める。
「日光の美味七選」の最後のひとつがお客様のお手元に届いたのは16時48分だった。それを確かめてから製造現場へ行く。1月2日の初売りにお出しする福袋が、着々と完成しつつある。
大晦日とはいえ夜更かしはしない。21時に入浴をして即、就寝する。
12月30日といえば「日光の美味七選」である。この商品のことは今月1日の日記に詳しく書いた。今日はいよいよその中身が各お店からウチに配達をされ、あるいは僕が製造元まで取りに行き、荷造り、そして出荷をする日だ。
「日光の美味七選」については初回の2007年からずっと、良かった点、反省すべき点を書き留めてきた。しかし反省をしながらそれを次の年に活かせないことがいまだにある。今年もまた、出荷日の午前に至ってようやく、箱の中に入れる商品説明および箱の外に貼る内容一覧が出来上がった。「来年こそは早めに」と念じながら今回もまたおなじ反省を繰り返し記録する。
段取りの一部に遅れはあったけれど、本番の荷造りは13時から始めて15時に完了するという、この企画はじまって以来の手際の良さだった。長男によれば、今回の仕事の進め方には同級生オーキトシヒコ君の考えた"logistics"を採り入れたのだという。オーキ君にはぜひ、日光まで来て随時小酌をしていただきい。
会社中が、通常の業務をこなしながら、大掃除など年末特有の仕事をしている。製造現場の水神は水で洗われ鏡餅が供えられている。神棚やお稲荷さんにも無論、正月の飾りやお供えは完了している。僕もそれに倣って客用トイレに輪飾りを結びつけたりする。
英語の助手としてロンドンから自由学園に来ているイニゴー君を夕刻、次男が東京から連れてくる。ふたりは御徒町で待ち合わせ、参拝客で賑わう浅草を散策してから東武日光線に乗ったのだという。
「今夜だけは洋風だけれど、明日からは日本の、それも年末年始の特別なメシになるからね」とか「元日の朝は先ず墓参り、それから家の中の神様にお雑煮をあげて、人がメシにありつくのはその後。腹、減るぜー」などと話をしながら計5人で夕食のテーブルを囲む。
昨年10月27日に"RICOH CX5"を本郷三丁目で見失い、同11月5日には"RICOH GRDIII"を北千住のどこかに置き忘れた。そしてそれぞれの後継として"RICOH CX6"と"RICOH GRD IV"を、同11月13日までに買い直した。
そのとき手に入れた"RICOH CX6"は、今年の6月7日にデンパサールで多分、夜道に落とした。そして同じカメラを同じ月の30日に買い直した。
サーキットで動画を撮るため今月21日に"Go Pro HERO"を買った。小さなカメラは焼き菓子でも入っていそうな白く細長い箱に収まって届いた。僕はそのカメラを一式まるごと、その細長い箱のまま「ホテルツインリンク」に持ち込んだ。
翌朝ホテルを出る前に、カメラはジャケットのポケットに、そしてヘルメット用のストラップはタシロさんに手渡した。"Go Pro HERO"は結局のところモモイシンタローさんのヘルメットに装着され、迫力のある動画を撮ることができた。
それはさておき、きのうの夕方タシロさんの運転するトラックで帰宅し、ショルダーバッグの中を点検すると、カメラの付属品一式を入れた細長い箱が見あたらない。箱はホテルの部屋を出るときショルダーバッグに立てて入れた。この記憶は確かだ。とすれば箱はトラックの暗がりに紛れたのではないか。そう考えて、とりあえずはトラックを降りた。
車庫に戻って積み荷を降ろしたタシロさんからは、しかし車内に箱は見あたらなかったとの連絡が届いた。とすれば、充電コードを始め諸々の入った箱はどこへ消えたのか。
自分の紛失癖に辟易しながら念のためホテルに電話を入れてみる。ややあって「すべてお調べいたしましたが…」の返事が戻る。紛失した物の行方は今回も迷宮に入ってしまったかに思われた。
ところが午後になると今度はホテルから連絡があり、当該の箱はおっしゃるとおり部屋の目立たないところにあったと、フロント係は息を弾ませるようにして報告をしてきた。とすれば「箱はホテルの部屋を出るときショルダーバッグに立てて入れた」という鮮明な記憶は錯覚だったのだろうか。
とにかく「失せ物」が出てきて良かった。カメラ関係の紛失には、そろそろ飽き加減な今日この頃である。
サーキット内のホテルに泊まっているとはいえ油断は禁物である。朝食会場の「グリーンベイ」には開場の7時と同時に入らなくてはならない。「阪納誠一メモリアル走行会」の受付は意外に早く、パドックで8時に始まるからだ。
7時50分にチェックアウトを済ます。そしてトラックに乗り、丘を下ってパドックへと入る。マシンを覆ったカバーを外すタシロさんを置いて、受付とミーティングの開かれる会議棟まで歩いて行く。冬の朝の日が真横から強く差している。
この走行会の、事前講習の講師は毎回、津々見友彦という贅沢さである。僕はいつも最前列の中央に席を占め、本職による注意点を真面目に聴く。「クリッピングポイントを死守」という言葉を津々見は頻繁に使う。そういうところを聞き逃してはいけない。
トランスポーターから降ろされた、たくさんのクルマの並ぶパドックを30番ピットまで戻る。旧いクルマを整備点検するメカニックは馬の調教師に似ている。僕がミーティングに出ている間にタシロさんはエンジンをかけ、"BUGATTI 35T"の、今日の調子を探っていた。そうして9時40分から西コースに出て行く。
20分ほど走ったところで、ガソリンの供給の細くなったような挙動をエンジンが示し始めた。ちょうど第1コーナーに差しかかるところだったため、そのままゆっくり周回し、ピットロードに入ったところでエンジンが止まる。コース係員が駆け寄り当方の状況を訊く。僕は簡単に説明をし、携帯電話でタシロさんに救援を頼む。
ピットロードからパドックまでは、コース係員、タシロさん、この催しにいつも来てくれるモモイシンタローさんが押し上げてくれた。そして押し掛けによりエンジンを始動させ、30番ピットに戻る。
旧い"BUGATTI"のエンジンを始動するときには先ず、スカットルの左に設けられたエアポンプを手で突き、燃料タンクに空気を圧送する。ガソリンは、その空気の力に圧されてエンジンに送られる。エンジンが始動して後はカムシャフト先端に設けられたエアポンプが、手動ポンプに替わって燃料タンクに空気を送る。
先ほどの問題は、ポンプから燃料タンクに伸びるパイプのバルブの開閉位置を間違えたところにあった。僕はこの誤りを二度と繰り返さないため、正しいバブル位置を写真に残す。
今年の「阪納誠一メモリアル走行会」は、昨年11月に亡くなった小林彰太郎を追悼する会ともなった。小林彰太郎が終生愛したオースチンセブンも含めて「今年はこれだけたくさん集まっていただけたわけですから」との主催者の考えにより、ランチタイムの4分の1ほどの時間を割いて急遽「Vintageクラス」のみコース上に集まり記念撮影をする。
この走行会に先立っては、僕はかならず昨年の日記を確認し準備をする。20年以上も車庫で眠り続けた"BUGATTI 35T"は、2006年から「EBエンヂニアリング」のタシロジュンイチさんが整備を続けて来た。初めのころは治すべきところ、交換すべきところも多かったけれど、2011年にバルブのクリアランスを調整して以降は、あちらこちらの微調整や小さな修復、あるいはタイヤの交換くらいで、他にすることはない。
スカットルの「直線は4速3,700回転、第1コーナーは3速2,500回転」の覚え書きは、きのうそれぞれ4,000回転と3,000回転に書き直し、今朝タシロさんに貼り替えてもらった。エンジンは4,000回転を超えてなお回り続けようとするけれど、西コースの直線585mでは、4速4,000回転に達したところで第1コーナーが迫るため、そこから先は恐怖の領域なのだ。
「Vintageクラス」に与えられた時間は同乗走行のそれも含めて145分。ピットロード入り口に停まっていた5分とタシロさんが試運転に要した15分を除く125分のあいだはずっと、僕はコース上を走り続けた。
第1コーナー手前150mのところで座席に深く沈み込み、背中を丸めて長楕円形のブレーキペダルを力一杯踏む。3速に減速したら第1コーナーには大外から進入して第2コーナーを目指す。このときは先ほどとは逆に背筋を伸ばし、背と腰の左側を助手席との仕切りに押しつけ遠心力に耐える。第2コーナーのクリッピングポイントを上手く「死守」できればコーナーの出口で回転計は3,200を指している。
バックストレッチで4速4,000回転に達すれば、シケインまでの距離は150m。ここは西コース最大の難所だからふたたび急制動をかけつつ3速に落として右のクリッピングポイントをを死守したいところだけれど、それが難しい。大きくS字を描きながら最終コーナーのクリップに左の車輪を触れさせたら、そこからは坂を駆け上がりつつ右のクリップを目指す。
最終コーナーの最後のところを3速3,500回転で抜けられれば首尾は上出来だ。40番ピットを過ぎる直前で4速にシフトアップ。以降はこの青い競走馬に鞭を当て続けるのみである。
4速の4,200回転から急制動をかけ、3速の3,000回転で第1コーナーをなかば滑っていく走り方は怖い。しかしここで3速の2,500回転に速度を落とすと、今度はちっとも面白くない。徹頭徹尾、気を抜かず、気合いを入れ、無理を承知で限界に近づくうち、日は早くも西に傾いてくる。
パドックに戻って、この場では目に見えるところだけだけれども、車体のあちらこちらを調べ、気になるところをタシロさんに伝える。タシロさんは丁寧に、この旧いレーシングカーをトラックの荷台に戻す。
モモイシンタローさんが淹れてくれたお茶、そしてお菓子の甘さが、油煙に汚れたままのこわばった顔をほぐしていく。「また来年」である。
店舗の入り口には6鉢の万両が「花一」のヤマサキジュンイチさんにより並べられた。その6鉢のうちの2鉢は、タカハシカズヒトさんの置いてくれた一双の門松に添っている。新しい年が5日後に迫っている。
"BUGATTI 35T"を積んだトラックが、目の前の国道121号を北へ上がっていく。事務室から外へ出てその後ろ姿を追うと、トラックは大きくUターンをして目の前の大橋油屋に入った。ブガッティの大きな燃料タンクにハイオクタンのガソリンを満たそうとしているのだろう。
僕は1年に1度しか着ない"BELSTAFF"の重いジャケットを着て、またヘルメット、グローブ、レーシングシューズの入った大きなショルダーバッグを肩に掛けて外へ出ていく。「EBエンヂニアリング」のタシロさんはそれから数分の後に、僕の前にピタリとトラックを着けた。
「ツインリンクもてぎ」までは1時間20分の行程だった。南ゲートからサーキットを大きく迂回しつつ坂を上り下りして「ホテルツインリンク」の駐車場にトラックを停める。西の雑木林の向こうに日が沈もうとしている。タシロさんは旧く青いレーシングカーに、夜露を避けるための覆いをかけた。
18時から夕食を摂り、早々に入浴をして、早々に就寝する。
「家内と子どもは矢鱈に物を捨てる性格なんです」と言う人がいたので「物を捨てれば捨てるほど、家計のキャッシュは増大しますよね」と答えると「ホントですか?」と、その人は怪訝な顔をした。
物の溢れた乱雑な家では、必要なときに必要な物が見つからない。見つからなければ重複すると知りつつ同じものを買う。そうして物はますます増えていき、キャッシュは逆に減っていく。
物を捨てれば捨てただけ身の回りは綺麗になる。整頓の行き届いた家に身を置けば、人は大抵、その整った環境を維持しようとして、物を増やすことに慎重になる。いきおい買い物の機会は減り、キャッシュは逆に増えていく。
ウチは昨年2013年の秋から暮にかけて、大規模に物を捨てた。「物を捨てれば捨てるほどキャッシュは増大する」の原則に当てはめれば、僕の、たとえば服飾費は前年比で下落しているに違いない。そう考えて、この3年間の小遣い帳に「服」で検索をかけてみた。その数字が以下である。
2012年 買い物の回数=11、合計金額=101,340円
2013年 買い物の回数=8、合計金額=31,774円
2014年 買い物の回数=16、合計金額=84,241円
大規模に物を捨てたのが2013年の秋から暮にかけてであれば、2014年の買い物は少なくなって当然のところ、なぜ前年よりも増えているか。詳細に調べてみたところ、今年2014年は3着のアロハが数字を持ち上げていた。アロハは既にして、すべての男子社員に形見分けができるほど僕は持っている。来年はこのあたりに留意をして経済活動をしていきたい。
「とちぎテレビ」で録画した「全日本オールスター紅白歌合戦」を、きのう止めたところから夜に再々視聴する。僕の目と耳からすれば、紅組の活躍が顕著と思われた。しかし結局のところ、今年は白組が3年ぶりの優勝を手にした。
優勝旗に添えられた帯の「第17回全日本オールスター紅白歌合戦」の文字は、マジックインキによる金釘流という念の入れようである。フィナーレの合唱は「青い山脈」だった。来年は是非、宇都宮市文化会館大ホールにおける公開録画に参加をしたい。
クリスマスに際して、年長の友人から良い話を聞いた。この友人の家は祖父母、父母、兄弟3人の7人家族だった。クリスマスには父親がホールケーキを買ってくれた。そのケーキを八等分すれば7人の家族に対してひとつ余る。そのひとつを賭けて家族全員でジャンケン大会した、というのがその話のあらましである。昭和の、切なささえ伴う美しい風景である。
そのことを他の場所で披露すると「今、クリスマスケーキは食べるのに2日とか3日、かかっちゃいますよ」と答える人がいた。核家族に少子化が追い打ちをかければ、なるほどそういうことになるのだろう。
「クリスマスは家で静かに過ごすべきと、個人としては考えますけどね」と、あるレストランのオーナーが、クリスマスイブの満席の店内をバックヤードから伺いつつ、つぶやくのを耳にした、とは別の友人から聞いたことだ。やり手のオーナーの頭の中には、常人では考えつかない「次の一手」が既にしてあったのかも知れない。
オフクロが生きていれば、せがまれて外で食事をすることもあっただろう。しかしこの暮は夜もずっと家にいる。そして「全日本オールスター紅白歌合戦」の録画を、きのう止めたところから再視聴する。
ポイント、というものにさほどの興味を持たない性格である。
むかし"AMEX"のカードを使っていたときには、そのポイントにふさわしい交換品に欲しいものが無かった。カードの会費も惜しく感じていた。よってポイントはアフリカのどこかへ送るワクチンと交換し、直後にカードも解約した。
"AMEX"を解約して、しかしクレジットカードが皆無というのも何かと不便だ、以降は当時"amazon"での買い物に特典のあったカードを経由して、今は楽天カードを使っている。その楽天カードにも30,000以上のポイントが溜まり、しかしこれまた溜まるに任せている。
"docomo"にもポイントが積み重なっている。当該のウェブページを開き、ログインをして調べると、携帯電話はそれほど使わないにもかかわらず、ポイントは10,000を超えていた。ポイントを何かに替えた履歴は空白だった。「2015年5月に失うポイントは…」などと目にすれば何となく焦燥はするけれど、今日のところは、あるいはいつものように、そのままログアウトする。
クリスマスイブは静かに過ごすべきかも知れないけれど、静かすぎてもつまらない。よってきのう「とちぎテレビ」で録画しておいた「全日本オールスター紅白歌合戦」を視聴する。しかしこの手に感応するのはウチでは僕と長男のみのため1時間ほどで切り上げ、その後は鄧麗君によるクリスマスソングを聴く。
天皇誕生日は祝日ではあるけれど、過去の統計を見ても、店はそれほど混み合わない。年末もここまで押し詰まれば、そしてまた日光の街も冬の色を濃くすれば、人はそれほど出歩かない。
しめ飾りやダルマを売るタカハシカズヒト君からは今月の上旬に電話があり、門松は17日にも持って行けるがどうするかと訊かれた。同じお金を払うならできるだけ長く置いた方が1日あたりの単価は低くなるけれど、しかし師走の半ばから門松とはいかにも早すぎる気がした。そして届け日は次の大安つまり22日と頼んだ。
その門松は、きのう会社を忙しく出たり入ったりしているうちに、いつの間にか届き、飾られていた。タカハシ君には、年末の輪締めなどにつき確認したいことがあったけれども、そういう次第にてその機会は逸した。まぁ、どうにかなるだろう。
冬休みを迎えた次男はきのう、僕が寝た後に帰宅をした。次男の好きなカレー南蛮鍋を、今日の晩飯として家内は用意した。僕は僕で、これを肴に焼酎のお湯割りを飲めることがとても嬉しい。年末気分のまったくしない夜である。
早朝に仕事のあるときにはiPhoneにアラームを設定する。しかし大抵は、それが鳴る前に目を覚ます。特別な仕事のないときにはアラームは設定しない。それでも早くに目を覚ます。若いころから朝型の人間だったわけではない、いつの間にか、それもごく短いあいだに夜型から朝型に変わってしまったのだ。
そうして今朝も早くに起床して、しかし何をするということでもない。家内が不在のため、6時を過ぎたころから朝飯を作り始める。作るとはいえおかずは冷蔵庫から出したものをそのまま、あるいは刻んで器に盛るだけのことだ。味噌汁だけは作る。油揚げは小さな正方形ではなく、細長く刻んだものが好みだ。
昼前には銀行員が来て社会保険労務士が来て、その社会保険労務士とあれこれしている最中に市役所の職員が来る。社会保険労務士は一旦引き上げ、午前とは異なる書類を持って昼すぎにふたたび来た。このことにより昼飯の時間は大きく後ろにずれ込んだけれど、懸案の仕事は一気に片付いた。
必要に迫られ、夕刻から銀行へ行く。本日は旧暦の11月1日。冬至と新月が重なる「朔旦冬至」である。夜の風呂に浮かべる柚を買うためスーパーマーケット「かましん」に寄ると、しかしそれは既にして売り切れていた。
冬至の日には「ん」の付くものを食べると「運が付く」と言われている、ということを長男から聞く。その代表は「なんきん」つまり南瓜だという。「かましん」に生の南瓜のほか、真空パックされた南瓜の煮物が目立ったのは、そういうわけだったのかと得心をする。
晩飯は長男が作った。冬至に食べるべきは犬だと、中国で冬を越した経験のある長男は言う。しかし犬の肉は、日本では簡単に手に入らない。今夜のスープにはベーコンが見え隠れしていた。「ん」の付くものが食べられて良かった。
そして今夜も早寝をする。
早朝にきのうの日記を書きながら「おひとりさま」と「お一人様」は、この日の日記の性格からすれば、どちらがよりしっくり来る表記かを調べるため、検索エンジンを回した。そうしたところ、そもそもの目的とは異なる、しかし面白いあれこれがいろいろと出てきた。
つい立てにより他の客とは隔絶した環境で焼肉を食べられる「1人焼き肉専門店ひとり」も、そのうちのひとつだ。日記のことなど忘れて「なになに?」などとリンクをクリックする。後ろ姿の寂しそうな、男のひとり客の画像も出てくる。店の場所は御徒町だから僕の行動圏内だ。興味は大いにあるけれど、ひとりであれば、僕は飲み屋へ行ってしまうだろう。
「おひとりさま」といえば蛭子能収の「ひとりぼっちを笑うな」も買おうと思っていて、いまだ買っていない。「おひとりさま」を見て可哀想と感じる人もいるけれど、当人は案外、楽しかったりするのだ。
そういう楽しさについては、ロシアの文豪も、ごく短い文章だが残していたような気がする。文豪の名前は思い出せない。
外の新聞受けから新聞2部を取り出し、それを事務室に持ち込んで大テーブルに置くと、先ずは双方を開いて折り込み広告を抜き出し、ほとんど目を通さないまま室外の資源ゴミ置き場に持っていく。しかし目を惹くたぐいのそれがたまたま紙の重なりからはみ出ていたりすれば、そのときには例外的にしげしげと見たりする。
冬はユニクロの「ヒートテックタートルT」に「ヒートテックフリースモックネックT」を重ね着する。この「ヒートテックフリースモックネックT」に毛玉が目立ちはじめ、みすぼらしいから新しいものに替えるよう、このところ家内に言われていた。しかし自分の目からすれば、いまだ充分に着られるものである。
小遣い帳を検索すると、このTシャツというよりもセーターにちかいシャツを、僕は2011年12月10日に3着まとめて買っている。3着を1週間ごとに着回すとはいえ4年目の冬にしていまだ充分に着られる耐久性は大したものだ。しかし家内は「みすぼらしい」と言う。
今朝のユニクロの広告によれば、普段は1,000円する「ヒートテックフリースモックネックT」が22日までの期間限定で790円だという。実はおなじ機会が数週間前にもあったけれど、僕は自宅から3キロほどの「ユニクロ今市店」まで出かけ、現物を見て、しかし買わずに帰ってきた。
ウェブショップでは実物を見ることもできず、質感を手で確かめることもできないのに、なぜか気軽に買い物をしてしまう。先日の、検索エンジンで見つけたショルダーバッグが良い見本である。ところがリアルショップでは、そこに現物があるにもかかわらず、ひどく慎重になってしまう。この心理とは一体全体、どのような理由に因るものだろう。実に不思議な現象である。
そして本日もまた3キロ強の道のりを「ユニクロ今市店」まで出かけ、迷いに迷った挙げ句に結局のところは遂に、790円のシャツというかセーター3着を購入した。しかしこの3着をこの冬におろすかどうかは決めていない。着古したとはいえ現在の3着も充分に機能しているのだ。どうも僕は、こと普段着に関してはかなりの「締まり屋」であるらしい。
夜は家内、長男ともそれぞれの忘年会があり、僕はいわゆる「おひとりさま」である。あれこれ考えた末に先ずは氷雨の降る街へ出て焼き餃子を肴に燗酒を飲む。帰宅して後は冷蔵庫のあれこれにて焼酎のお湯割りを飲む。「おひとりさま」ならではの晩飯の形態である。
9時をすこし回ったころに日本橋に出る。そこから室町へ向かいつつ、ふと考えて裏道に入る。いつでもどこでも裏町を歩くと、変わった店、面白そうな店、美味そうな店が見つかるのだ。
生まれてこのかた、宝くじはただの一度も買ったことはないけれど、宝くじの当選に霊験あらたかという「福徳神社」が見えてきたので、取りあえずはお参りをする。所用を済ませて後は、来た道を戻る。そして中央通りから、ふたたび日本橋に戻る。
そこから今度は新丸ビルへ移動し、上階へ上がったり、あるいはまた1階へ降りたりする。そして浅草には12時03分に着いた。
12:00発の特急にはもちろん間に合わない。よって12:30発の切符を買い、急ぎ足で駅を出て横断歩道をふたつ渡る。鮨10貫を食べるのに要した時間はちょうど10分だった。
下りのスペーシアは既にプラットフォームに停まっていた。即、乗り込んで、特急券に示された席まで歩いて行く。するとそこには既に女の人が座っていた。互いの特急券を見せ合うと、双方に同じ数字がある。ところが女の人の切符は12:00発のものだったから「いま12時20分ですよ、もう出ちゃった電車じゃないですか」と驚くと「いえ、それが遅れているんです」と逆に教えられて、またまた驚く。
プラットフォームに飛び出して、ちかくにいた駅員に切符を見せ「乗車変更、間に合いますか」と訊く。駅員は大急ぎで、ちかくのブースにいた別の駅員に、こういう場合に用いるらしい、束から切り外す式の切符を手書きさせた。そして改めて、口伝えで教えられた席に着く。12:00発の下り特急スペーシアは、26分遅れで発車をした。遅れの原因は、どこかで発生した車両故障によるものだという。
下今市駅に降り立って時計を見ると14時12分になっていた。列車は途中でも遅れたらしい。このまま会社に戻れば電話や来客で外へ出られなくなるだろう。そう考えて、途中で加藤床屋に寄る。いま髪を切っておけば、ひと月ほどは保つ。そして16時に帰社して仕事に復帰する。
栃木3区に1963年以来、渡辺美智雄、渡辺喜美と続いた地盤の51年目の消滅を、今週の月曜日から本日までの4日に亘って下野新聞は第1面に書き続けた。「新聞は、良しにつけ悪しきにつけ騒ぎます」という新聞人の言葉を今さらながら思い出す。16日の、朝日新聞では「天声人語」にあたる「雷鳴抄」もまた、感傷趣味に溢れたものだった。
初更より東京に出る。天神下から切り通し坂を登り始めたのは多分、19時30分のころだ。そして甘木庵に荷物を置く。
本郷三丁目の駅周辺から湯島天神下までの、春日通りに沿った約1,000メートルは、僕の調査不足、認識不足があるやも知れないけれど、「シンスケ」を除いては居酒屋不毛地帯だ。その帯状の範囲にあって唯一、外から見ていつも賑やかな「桃狼」の引き戸を今夜は開けてみた。僕は初見の客である。
そうしてカウンターのいちばん端に着いて、先ずは焼酎のお湯割りを口に含んで、繁盛の理由が分かった。特製のモツ煮を注文して、更に分かった。ここは「できそうで、できないこと」あるいは「分かっているけれど、できないこと」をしている店だ。
欲から離れると、お客が増える。お客を増やすためには、欲を捨てなければならない。そしてその実行は、とても難しい。
もっとも僕は、価格にはそれほど細かくない客だ。「ウワサワさん、そんなこと言っても、この店、それほど安くないですよ」と反論をされれば、その通りなのかも知れない。それでもなお、お客の入りは今夜も汗牛充棟の有様なのだ。
と、ここまで述べて、しかし僕は、この店には裏は返さないような気がする。長男や次男が一緒であれば大鳥居前の"Arrangiarsi"が、独行であれば天神下の「シンスケ」が、いわゆる"default"だからだ。「それで何の不足があろう」である。
北海道の北および北西上空にはとんでもない規模の、というかミリバール、というかヘクトパスカルの低気圧がふたつ並んでいる。そして、そのことにより起きる降雪にはただならないものがあると、きのうから予報がかまびすしかった。
よって当方は身を固くして今朝を待ち構えたけれど、栃木県地方に限っては、荒れ模様はまったく近づかなかった。雪が積もって嬉しかったのは、せいぜい学生のころ、あるいは東京で仕事をしていたころまでのことである。
11月のうちから街に聞こえたクリスマスソングは、僕の耳にはもう入ってこない。あるいはそのような音の鳴っているところに僕が出かけて行かないだけのことなのだろうか。選挙が終わって街もテレビも一気に静かになった気がする。
積雪や荒天を心配するお客様からの電話が、朝のうちに何本も入る。そのたび「快晴です」とか「道路に雪はありません」とお答えをした。ところが昼が近くなるにつれ、地上の人間を圧するような勢いで、黒い雲が低く垂れ込めてきた。以降、天候については、あまり楽観的な見通しは述べないようにした。
昼から夜にかけては、雪が断続的に降り続いた。「降り続いた」とはいえ、その量はチラホラというほどのものだったから、地面に落ちたものはすぐに融けてしまった。雪は、クルマの屋根にのみ積もって、水銀灯に青白く照らされている。
先週の金曜日に、神田からお茶の水までJR中央線に乗った。2分の所要時間のあいだに僕の目を惹きつけたのは、向かいに座ったオニーチャンのショルダーバッグである。
そのショルダーバッグは、幅の極端に広い肩掛け部分を持ち、帆布と分厚いビニールの、2種の黒い素材からできていた。サイズは、極端にいえば昔の牛乳配達の袋を思い出させるほど大きい。
僕は袋物のたぐいに目が無い。目が無いとはいえ目はそれなりに肥えているから盲目的に買いあさることはしない。そしてまた、大きなショルダーバッグと大きなトートバッグは決して買わないと決めている。ショルダーバッグとトートバッグは、からだの片側に負担のかかるところが難点である。特に大きなそれは、その容積にふさわしい量を詰め込めば必然的に重くなる。使いづらいこと甚だしいのだ。
オニーチャンのショルダーバッグには、その側面に金属板がリベットで留めてあった。列車は御茶ノ水駅に滑り込みつつある。立ち上がってオニーチャンに近づき、金属板を注視するも、近視と遠視と乱視の混じる目には、その文字がよく見えない。そしてようやくその前半は"Rock"、後半の最後のふた文字は"dy"と確認して列車を降りた。
ショルダーバッグの素性はそれから数十分のうちに知れた。ブランドは"BEAMS"と"PORTER"が手を結んだ「B印YOSHIDA」の"Rock Steady"。値段は見なくても分かっている。僕の食指の伸びる水準のものではない。
そして本日、その問題の品が佐川急便により届けられた。中部地方の古物屋に、今年の4月から売れずにあったものだ。価格は8,800円だった。
大きなショルダーバッグは、からだの片側に過重な負担のかかるところが難点だ。出番は年にせいぜい1、2回と想像される。
5時に外へ出て新聞受けを見ると、購読している2部のうち1部しか配達されていない。既に届いていたのは日本経済新聞だった。その日経がいつもよりかなり薄く感じられたのは、一切の広告が折り込まれていないせいだろうか。そう考えて文化面右上の数字を見ると"24"とある。
毎日読みながら、通常の日本経済新聞が何面からできているかを僕は知らなかった。よって屋内に入り、事務室裏の資源ゴミ置き場で確かめると、文化面右上の数字は"48"だった。
出勤する社員を迎えるため7時30分に事務室のシャッターを上げると、下野新聞も届いていた。普段はテレビ欄になる最後のページに、今日ばかりは選挙結果を報せる大きな文字、大きな写真が並んでいる。配達が遅れたのは、栃木2区の結果を待っていたからに違いない。
政界、またそれにちかい業界団体に関わる人たち以外には、いつもの年末が戻ってくる。これから2週間と少々を、粛々と生活していきたい。
普段よりも簡単に朝飯を済ませ、7時に家内と外へ出てホンダフィットに乗り込む。と、フロントの窓ガラスには霜が厚く降りていた。エンジンをかけデフロスターを働かせ、その霜を解かす。目と鼻の先にあるのだから歩いて向かえば良さそうな今市小学校で、第47回衆議院議員総選挙の投票をする。
1976年12月、いわゆる「ロッキード解散」による第34回衆議院議員総選挙以来、公の議員を選ぶ選挙には、僕は棄権をしていないような気がする。
否、1991年4月の、磯村尚徳が銭湯で老人の背中を流すなどしてみせた東京都知事選挙は、その結果をカトマンドゥのホテルの屋上で、短波ラジオで聴いていた。ネパールへ発つ前に不在者投票をしたかどうかの記憶は無い。
と、ここまで書いて二転三転。1991年には僕は既にして日光に帰っていたから、東京での投票権は元より持っていなかったのだった。
夜はあちらこちらのテレビ局を横断しながら選挙速報を見る。日光市を含む栃木2区は激戦区にて、いつまでも出ない結果を待って睡眠を削ればからだに響く。よっていつものように入浴をし、21時すぎに就寝する。
平時においては週に1度ほどの早朝の仕事が、今の時期は週に5、6度はある。仕事は単調に思われて、しかし工夫のしどころは幾つもある。そして次の日は、前の日に感じたことを早速、活かしていくのだ。
毎日おなじ仕事とはいえ扱う品は生き物である。当方は五感を研ぎ澄ませ、目や鼻や口だけでなく、耳までも働かせて商品の状況を見ていく。手の指がかじかむことはない。寒さはやはり、年が明けてから来るのだろうか。
第47回衆議院議員総選挙の、本日は選挙戦最終日だ。栃木二区は広い。選挙カーはたまにしか回ってこない。その選挙カーから放たれるウグイス嬢の口調が、数日前のそれと比べてまったく違っている。正に「最後のお願い」である。
晩飯を食べ終え、ひと息ついて、しかしもうすこし何か口にしたい。エクレアがひとつ残っていたことを思い出し、先ずは2階の倉庫へ行く。エクレアではない、オフクロが旅行のたび買い溜めたコニャックを取りに行ったのだ。
ワインと異なり立てたまま数十年を経たコニャックは、多くコルクの栓が傷んでいる。ところが今夜のそれは、コルクはコルクでもプラスティックのようなもので覆ってあったため、崩れることなく綺麗に抜けた。
そしてエクレアを肴にその濃い琥珀色の液体を飲み、入浴して早々に寝る。
早朝から製造現場に降りる日が続いている。仕事の最中に朝日の差してくる季節もあるが、現在は終始、外は真っ暗である。そうして食堂に戻り、午前6時を過ぎるころに遮光用のカーテンを上げる。
今どきの空は、それが東の方角であっても、6時にはいまだ藍が濃い。それから10分を経てようやく、朝らしい光が現れてくる。その朝の空にカメラを向けてシャッターをふたつみつ切る。そしてその画像を見て「光量の少ないときには、たとえ無限遠でもピントは甘くなる」という、10月の末に訪ねた「リコーイメージングスクエア新宿」の技術者のことばを思い出す。
「無限遠はいっそ、被写界深度を深くして、合焦などしなくてもピントが合うようにできないものだろうか」というのが僕の素人考えだ。しかしそれで上手くいくなら、カメラの会社はとうのむかしにその方法を採り入れているだろう。
きのうに引き続いて、しかしきのうより4時間30分ほども遅れて東京に出る。そして日本橋、神田、お茶の水と移動をして、暗くなるころ池袋に至る。
次男と入った店で冷たい緑茶を頼むと、中国人らしいオネーサンは緑茶ハイふたつを持ってきた。次男はいまだ18歳で、飲酒はできない。よってアルコールの入っていない緑茶1杯を、改めて注文する。ふたつ届いてしまった緑茶ハイは返さない。緑茶に入れるために頼んだ焼酎も返さない。店は満員の盛況である。
2杯の緑茶ハイは、キンミヤ焼酎1合を継ぎ足しつつすべて飲んだ。次男とは池袋の駅で別れ、23時すこし前に帰宅する。
「雨男」と囃され、嗤われる。
空港からホテルへ向かう道の水たまりが快晴の空を映しているので「雨でも降りましたか?」と訊ねれば「昨晩は大変な嵐でした」と運転手が答える、ということを僕はチェンライで少なくとも2度は経験している。海外では、僕は割と運が良いのだ。「雨男」は国内に限ってのことだ。
地下鉄を降りて日本橋の室町寄りで地上に出る。予報に反して雨は降っていない。中央通り北へ歩き、屋内にて少々の仕事をする。数十分後にロビーに降りると、行き交うクルマはおしなべてワイパーを動かしている。よって今度は傘を差して来た道を戻る。
先ほどと同じ銀座線にひと駅だけ乗って、日本橋南郵便局の下から階段を上がっていくと、地上への出口には冬の曇り空があるばかりだ。不思議に感じながら階段を昇りきると、見慣れた景色は跡形も無く消えていた。
中央通りを横断して工事現場の案内板を見ると、そこには「日本橋二丁目地区第一種市街地再開発事業」の文字が読めた。そしてその工事現場と高島屋のあいだの道を奥へ、つまり海の方へと歩いて行く。
今回の工事現場のほぼ真ん中を貫くようにして、以前は細い路地が南から北へと延びていた。その路地にあった天ぷらの名店「八つ花」と、やはり地上げされた海苔の「山本山」と鰻の「美國屋」は、裏道のおなじ建物に店を移していた。再開発が完了するまでの、仮の店舗と思われる。
その並びの、裏町にふさわしい風情が好きだった中華料理屋は、その入り口のみを改装して、薦被りの四斗樽が置いてあるところからすれば居酒屋なのだろうか、そんな感じの店に変わっていた。
「前に来たのはいつ頃だったか」と問われれば、答えに窮するほど、僕はこのあたりには無沙汰をしていたらしい。あるいはすべての用事を地下のみで済ませ、地上の様子は見なかったのかも知れない。
浅草駅16:00発の下り特急スペーシアに乗り、18時前に帰社する。雨は夕刻に上がったばかりのようだった。
人間が成熟を遂げた表れのひとつは、好みのものが固定することと、つい最近になって思うようになった。「好みのものが固定する」とは「要るものと要らないものが決まる」ということだ。
当方はいまだ老成を遂げたわけではないから「これ以外のものは要らない」と、あれこれについて決めたわけではない。しかし物や行動における好みは、以前にくらべれば随分と固まってきた。それは言葉を変えれば「経験を経て自分が自分を知ってきた」ということなのかも知れない。
時計は国産の三針、白ワインはシャブリのビローシモン、スーツは春夏用と秋冬用の黒の2着、普段着はボタンが皆無か、あっても数個の頭からかぶる式のもの、ジーンズは2本、夏のパンツはタイの漁民用、コートはシェラデザインのマウンテンマーカ、靴はトリッペン、カメラはリコー、コンピュータはパナソニック、眼鏡の枠はリンドバーク、池袋では「男体山」、湯島では「シンスケ」、連雀町では「まつや」、鮨は「よしき」、フランス料理は「ナオト」、懐石は「ばん」、美術館は竹橋、クルマはホンダ、旅先はチェンライ、と決まってしまえば脳もからだも楽である。
ところで「時計は国産の三針」と挙げながら実のところ僕はそれを持っていない。買うべきか、買わざるべきか。買っても使う機会は月にせいぜい数回と知れている。結局は死ぬまで買わないかも知れない。
バス旅行の最大の楽しみは、名所旧跡を訪ねることでもなく、また山海の珍味に舌鼓を打つことでもない、繭のような空間に密閉されながら、いつまでも活字を読んでいられるところにこそある。
この日記を遡ればそれは今年の3月10日からの2泊3日と知れた。伊勢参りのバスの中では、僕は左手に本を持ち、右手でページを繰りながら、ずっと活字を追っていた。このときの本は、異様に分厚い紙に活版で印刷をされた、西洋のペーパーバックと同じ大きさの重いものだった。
厚さ3センチ強の本を、日光と伊勢を往復するバスの中で、ひじ掛けも使わず持ち続けたことにより、帰宅して数日が経つと、左の肩にかなり強い凝りを感じるようになった。
僕はこの年になるまで肩の凝ることはほとんどなかった。それがいきなりの強い凝りだったから驚いて鍼の治療を何度も受けたがまったく快方に向かわない。そうして「これは、もうダメだ」と放擲して数ヶ月。本日の午後、ふと気づくと左肩の凝りが一掃されている。いつから楽になったかの記憶はない。
「快癒」とは、常にこのように、気づかないうちに訪れるものなのだろうか。「薄皮を剥ぐように」ではなく、また「いきなり」でもない。狐につままれたような気分ではあるけれど、とにかく良かった。
そうして19時を過ぎるころに家を出て、日本酒に特化した飲み会「本酒会」の、第259回の例会に出席をするため鰻の「魚登久」へと向かう。
ミヤジマノゾム君のいる共働学舎新得農場のチーズと、フクザワカズオ君のいる共働学舎寧楽農場のベーコンが、今朝、佐川急便で届いた。オノヨーイチロー君がとりまとめて送ってくれたものだ。
新得農場のチーズ「シントコ」は、グジャグジャと噛んでいるうち、自分の口の中がまるで牛の口の中になったような気がするほど… と書けば褒め言葉にはなっていない気もするが、とにかく僕が大切にしている好物だ。
寧楽農場のベーコンは、これを食べるたび「スタインベックの『朝めし』に出てくるベーコンってのは、こんなんじゃなかったかなぁ」と妄想する。
大久保康雄の翻訳による「朝めし」の、僕の最も好むところは以下だ。
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私たちは、めいめいの皿にとりわけて、パンにベーコンの肉汁をかけ、コーヒーに砂糖を入れた。老人は口いっぱいにほおばって、ぐしゃぐしゃとかんでは、のみこんだ。 それから彼は言った。 「こいつはうめえや」
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しかしてこの「こいつはうめえや」を原文に当たると、それは以下になる。
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The he said,"God Almighty,it's good;"
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ところで「朝めし」の最後の部分を上手に訳せる日本人はいないだろうか。
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But there was some element of great beauty there that makes the rush of warmth when I think of it.
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"element"のあたりが難物だと思う。
僕が出席すべき忘年会は町内関係のふたつのみだ。そのうちのひとつに参加をするため、17時50分に公民館への階段上がる。「敬老会が廃止をされたのは、老人たちがこの階段を上れないからだ」という話があるけれど、それはまぁ、与太のたぐいだろう。
座敷の真ん中には既にしてガスコンロが置かれ、その上にはアルマイト製の大きな鍋がふたつ並んでいた。本日あれこれ忙しかったはずのカミムラヒロシさんは、しかし料理の準備を完璧に完了していてくれた。
ひとつの鍋の上には、それぞれ赤い取っ手のおたまと穴あきおたまが、そしてもうひとつの鍋の上には、それぞれ白い取っ手のおたまと穴あきおたまが並べてあり、それを示しながら「赤い方はキムチ、白い方は海鮮」と、カミムラさんは几帳面なところを見せた。
カミムラさんはどこかで"Total Quality Control"の勉強をしたのかも知れない。あるいは「それっくれーのこと、勉強しなくったって分かっぺー」ということなのかも知れない。
鍋は「キムチ」も「海鮮」も、とても美味かった。しかし連絡を寄こさないまま欠席をした役員が複数いたため、折角の料理もすこし余ることになった。そして僕はボウルに取り分けられたうちの「キムチ」の方を土産にして、氷点下になんなんとする夜の日光街道を歩いて帰る。
「4時30分を過ぎたころだろうか」とぼんやり考えつつ枕頭のiPhoneを見ると時刻はいまだ3時をまわったばかりだった。床暖房が入っているにもかかわらず、部屋は冷え冷えとしている。いよいよ真冬の到来である。
着替えて食堂に出て、天井に埋め込まれたエアコンディショナーのスイッチを入れると、きのうまでとは異なって、温風は10分ほども待ってようやく吹き出てきた。それがこの機械の、厳冬期における特徴である。
平時は週に1度ほどの早朝の仕事が、今週は今日で3日目になる。仕事場から食堂に戻ると時刻は5時30分。あれこれ調べごとをしながら6時が過ぎるのを待って、南東に面した窓のロールカーテンを上げる。
朝の空は日の出の直前がもっとも綺麗だ。スタインベックの「朝めし」は、アメリカのどの土地のことを書いた小説だったか。その朝の描写はとても美しいものだけれど、ウチから望める、様々な建物にその下端を矩形に、あるいはギザギザに切り取られた空も、悪いものではない。
昼に食べたラーメンが、18時が過ぎても消化されず腹にある。よって胃薬を服用し、食前にも拘わらずコニャックを飲む。そうするうちメシの食える感じになってきたため、天然のなめこにより嚥下しやすくしたスパゲティを作ってもらう。するとこれが存外に進んだため、その器に北九州のラーメンで言うところの「替え玉」を投入してもらう。
胃の調子は更に次の替え玉が欲しくなるほど旧に復していたけれど、そこまでは流石に口には出せず、入浴して早々に寝る。
口内炎の原因は、自分の場合はストレスだと思う。このストレスとは悪いものではなく、自分の能力を超えて脳を動かさざるを得ない状況が、自分の場合には世に言うストレスなのだと思う。
口内炎に悩まされ始めたのは15歳のころで、当時の塗り薬はとにかく効かなかった。何年かして「これだ」と気づいて現在まで続いているのはビタミンB2とB6の摂取である。
医師や薬剤師がこれを読めば「根拠を欠いた対策」と言うかも知れない。しかし長いあいだ自分のからだで試して効果のあったことだから、僕はこれからもこの方法を採る。
口内炎のできそうな兆候を感じたら、処方箋の倍量のビタミンB2とB6を飲む。体内ではビタミンB2とB6が激しく費消されているのか、小便は黄色くならない。
小便が黄色くなってきたら、ビタミンB2とB6を処方箋の量まで落とす。ビタミン不足は緩和されつつあるのかも知れないけれど、しかし小便は黄色くならない。
ビタミンB2とB6を処方箋のとおりに飲んで小便が黄色くなるようであれば、口内炎の快癒もちかい。それから1日、2日のあいだビタミンB2とB6を飲み続けることにより、口内の粘膜は復旧する。
もっともこれは僕にのみ効果のある方法かも知れない。また大きな糜爛やウイルス性の口内炎については、僕は経験をしたことがないから分からない。口内炎が兆候となる重病については、18歳のころに検査済みである。
口内炎は現在もひとつできているけれど、自分なりの治療法を確立しているから焦燥することはない。
師走といえば忘年会である。
手帳を開き眉間に皺を寄せつつ出席すべき忘年会の多さに溜息をつく、その溜息が本心によるものか、あるいはみずからの忙しさを周囲に衒うためのものかは知らないけれど、むかしはそのような人を良く目にした。
そのような人が今もいるのかどうかについては、そのような人の集まる場所に僕が出入りをしなくなったこともあって、分からない。
事務机の左手に提げられたカレンダーに目を遣れば、7日の日曜日と20日の土曜日に「忘年会」の文字がある。場所はいずれも町内の公民館で、それぞれ役員と青年会によるものだ。そしてそれ以外に僕の出席すべき集まりは、日本酒に特化した飲み会「本酒会」を除けばひとつも無い。
からだや気分の忙しい時期には集まりにはなるべく出ずに、肉体や神経を休めるべきだ。そして、からだや気分の楽な時期には、これまた集まりにはなるべく出ずに、より楽に過ごすべきだ。そしてそれを長く続けていると、世間は徐々に狭くなる。僕のことである。
五穀豊穣と商売繁盛を祈念するお祭「恵比須講」を、ウチでは新暦で行ってきた。お祭はすべからく旧暦にしたがった方が気分は出るけれど、そうするとそれは師走にずれ込み、繁忙に輪をかけることになるからだ。
今年も例年にならって恵比須講は10月20日を予定していた。しかし思いがけずオフクロが10月15日に亡くなり、20日はその通夜と重なった。恵比須講は繰り延べである。
そうして旧暦10月20日に当たる本日ようやく、恵比須講のお祭を開催する。「開催」とはいえ参加者は僕と家内と長男の3人のみである。
よその家のことは知らないけれど、ウチでは恵比須講は夜に行う。床の間に恵比須大黒の木像を安置し、その上におなじく恵比須大黒の軸を掛ける。瀧尾神社から届けられた御札と幣束は木像に並べて立てる。供え物は鏡餅、頭付きの鯛、魚の煮付け、なます、葉物のおひたし、けんちん汁だ。
本日の恵比須講に先立ち、事務室の神棚を探るとなぜか、恵比須講のための御札と幣束はふた組あった。神棚は毎年末に掃除をするから、昨年の分が残っていたとは考えづらい。そして「そうであれば」と今年はふた組をそのまま飾った。「ダブルバズーカ」である。
灯明を上げ、恵比須大黒の像に向かう形で手を合わせ、頭を下げる。そのまま去っては心配だから灯明を落として、しかし部屋の灯りは点けたままにする。そして食堂に戻り、供物とおなじカジキマグロの煮付け、大根と人参のなます、ほうれん草のおひたし、それにけんちん汁を肴として2種の日本酒を飲む。
と、ここまで書いたのが4日の早朝。そして事務室に降り、左の壁に提げたカレンダーをそれとなく見ると、旧暦10月20日は12日11日と示してある。とすれば、今年の恵比須講を12月3日と決めた家内と長男は、どのような根拠を元にしたのか。ちと確認をしなくなはならない。
オフクロの四十九日の法要は昨月25日に如来寺で無事に完了した。しかし同寺より手渡された七七仕切表では、今日が本当の四十九日と示されている。よって朝のうちに花と線香を携え、家内と墓参りをする。百か日は来春1月の何日になるだろう。これまた七七仕切表を見て来年のカレンダーに記す必要がある。
オヤジの一周忌は日光の精進料理屋「尭心亭」にお客様をお招きした。社内的なそれは宇都宮の、オヤジが好きだったステーキ屋「グリル富士」に社員全員と集まって、これまた賑やかに飲み食いをした。
来年のことを言えば鬼が笑うと聞くけれど、さてオフクロの、社内的な一周忌はどこで食事をすべきかと考える。社員がウチの仏壇に線香を上げてから出かけては火が心配だ。とすれば終業後に墓参りをしつつ食事をするのが合理的である。
その経路とオフクロの生前の好みを勘案すれば、メシの場所は如来寺の裏手にほど近いフランス料理屋"Finbec Naoto"を置いて他はない。
男子社員は何でも食べるが女子社員には偏食が多い。店主兼料理長のオーイデナオトさんにはその点について相談をしなければならない。日本人はビールを好む。しかし僕と誰それはワイン、そして年配の男子社員はスコッチの水割り、などと考えつつ「それこそ来年のことを言えば鬼が笑う、だわな」と腹の中で苦笑いをする。
長いあいだ親しんだり、あるいは「これを作るには大変な努力が必要だよ、ホントに」と普段から感心しつつ食べている地元の品を集め、これを大晦日必着でお届けする「日光の美味七選」を始めたのは2007年のことだ。この、限定数40のセットが人気を博するまでには、そう長い時間はかからなかったように思う。
今では争奪戦の様相を呈して「自分には人より早く発売開始を報せてくれ」という要望から、売り切れて後は「そこを何とか、あと1セットくらい、どうにかならないか」という要求、あるいは「コンピュータは職場にしか持たないからメールマガジンは平日に送れ」、それとは逆に「自分は週末しかコンピュータを開かないからメールマガジンは土日に送れ」まで、いろいろな頼みが寄せられる。
そうして午前8時55分、ウェブショップに準備した「日光の美味七選2014」の商品説明および注文ページを、管理者以外にも「見える」に設定する。これまたあらかじめ準備したメールマガジンは9時ちょうどに配信する。
ウェブショップには昨年の9月に大規模な改装をほどこし、サーバも乗り換えた。9時ちょうどのメールマガジンは、この新しいウェブショップに顧客登録をし、且つメールマガジンの送付を許諾されたお客様のみを対象としたものだ。
第1回目からこのセットを買ってくださっている常連様のうち、複数人数の注文が13時を過ぎても入らないのは、旧システムからのメールマガジンしか受け取っていないことが原因だろうと想像して、急遽、そちらからも告知を送る。
いつもは夕刻に売り切れるこのセットが閉店の18時に至っても残っている。それは、朝のうちにメールマガジンを受け取れなかったお客様の出遅れによること明白である。
こちらがコンピュータを"watch"していられないあいだに予定数を超えて売れてしまうことは避けなければいけない。よってここに至って遂にシステムに「残量」を設定する。
残り2セットになったところで「まだ、ありますか」というメールがやはり常連のお客様から入る。僕がこのメールに気づかなかったら、どうなっていただろう。僕から送った返信を、このお客様がお読みにならないうちに残りが売れてしまう可能性もある。よって今すぐ商品を買い物カゴに入れるよう、電話でお願いをする。
限定40セットはその直後に売り切れた。ふたりのお客様がほぼ同時に買いをお入れになったのだ。
「12月31日必着の年越しセットです」とメールマガジンに書いてあるにもかかわらず「12月10に届けてください」とか「12月21日の配達希望」などと備考欄に記入をされたお客様へのご案内については、明日の仕事とする。
毎年この日は特に気を抜くことができない。そうして晩飯の後はテレビで「酒場放浪記」などを視て気を鎮める。