「イギリスの道路の舗装率は100パーセント」と教科書で読んで驚いた記憶がある。「両側に畑の続く田舎の道も、イギリスではすべてアスファルトに覆われているのだろうか」と、小学生だった僕は狐につままれた気持ちになった。
清流に沿って小さな田や畑が点在する山あいの集落に向かって森の道を下っていく。その集落をつらぬく道は狭く曲がりくねって、しかし勿論、舗装はされている。
一軒の農家に案内を請い、目指す農家を探し当てる。そしてその庭先にホンダフィットを乗り入れる。そして今年のらっきょうを見せてもらう。
「どうやったら、おたくで売ってるらっきょうみてぇに、丸々と育つんだんべ」と、温厚を絵に描いたようなあるじに訊かれる。自然の産物は天地人の絡み合いによりその出来が変わってくるものならば、なかなかこれといった答えは見つけづらい。
奥さんは手入れの行き届いた畑からズッキーニを収穫し、土産として持たせてくれた。らっきょうについてのみならず、ズッキーニについても、また茗荷についても、当方の知り得ないことを教えてもらって僕と長男は大いに勉強になった。
夜、31年前のワインのキャップを切り取ると、コルクはみっしりと青いカビに覆われていた。よってそのカビをアルコールで拭き取り、栓を抜く。
ステーキの上にはトマトと玉葱に加えて今朝のズッキーニをみじん切りにしたドレッシングをかけまわした。そしてそれを肴にして古い赤ワインを飲む。
バーベキューというものに心を躍らせたことがない。それはなぜか。
ひとつは、野外のグリルや鉄板で作った食べ物よりも、台所で作ったそれの方が美味いからだ。もうひとつは、調理器具や食器や食材を外へ運んだり、火を熾したり、調理をしたり、あるいは片づけをすることが面倒だからだ。
グリルや鉄板で焼いてこそ美味いものを用意し、準備や片づけのすべてを人がしてくれるバーベキューならどうか。それなら好きである。
夏のギフトが忙しくなる直前に一夕、社員たちと食事をする。それをウチは何十年も前から続けて来た。そして今年は今日がその日である。
社員たちが何を整えようが僕は関知をしない。ただし「赤ワインが飲みたい」だの「白ワインが飲みたい」だの言う者がいれば、それくらいは僕のワイン蔵から供出をする。朝夕はいまだ肌寒い梅雨の最中であれば、僕の飲み物は焼酎のお湯割りである。
そうして店の駐車場ににわかごしらえしたテーブルにて社員たちと楽しく食べ、飲み、会話を交わし、そして日もとっぷりと暮れたころ、彼らが花火に興じる様を眺めつつ腰を上げる。
"RICOH CX6"が合焦しなくなっていることに気づいたのは、本日「日光ニコニコ本陣」で開かれるハワイアン舞踊ショー「H.N.K.O.L.2015」に出演される方々の写真を店の前で撮らせていただいたときのことだ。
この"CX6"の修理の歴史を辿ってみれば、以下の通りになる。
2014.1024(金) 無限遠で合焦せず(新宿のリコーに持ち込み)
2015.0209(月) マクロでしか合焦せず(新宿のリコーに持ち込み)
2015.0325(水) レンズ動作不良(浮間舟渡のリコーに持ち込み)
2015.0603(水) マクロでしか合焦せず(ピックアップリペアサービスを利用)
このカメラを買ったのは昨年の7月1日だ。保証期間は今日も入れて3日で切れる。よって即、リコーのピックアップリペアサービスをインターネット経由で申し込む。しばらくすると係の女の人から電話が入り、ヤマトによる集荷は火曜日になるというから了承をする。
「保証期間の1年以内に5回も故障するカメラを、よくもまぁ使うものだ」と呆れる人は少なくないだろう。リコーの"CX"シリーズは、調子さえ良ければ本当に使いやすいカメラなのだ。
それはさておきリコーのカメラ部門が利益を出していることについては本当に驚きを禁じ得ない。今回も含めれば5回も、リコーは僕の"CX6"に対して無償で修理や部費交換をしている。そして僕がこれまで使ってきたリコーのカメラで故障を繰り返した例は、この"CX6"に限らない。"RICOH GRD"の初期型もやはり、保証期間内にどれだけ修理に出したか、今となっては思い出せないほど故障は多かった。
「そんな経験をしながら、よくもまぁ、10年ちかくもリコーのカメラを使い続けるものだ」と呆れる人は少なくないだろう。
今回の修理を完了すれば"CX6"の保証は切れる。それからまた故障をしたらこのカメラは捨てる。そして現在は問題なく動いている"RICOH GRD IV"は温存して同じシリーズの、イメージセンサーをAPS-Cサイズに拡大した"GR"を買うかも知れない。
らっきょうを、通常の大きさに育つ数週間前に畑から掘り抜き、青々とした長い葉と白い髭根をその場で切り落とす。それをその日のうちに水洗いし、塩と酢で調製する。それが「旬しあげ生、夏太郎」である。
今年の収穫は今月の2日だった。畑には製造の社員が出向した。その「旬しあげ生、夏太郎」が本日、蔵出しをされた。店舗の入り口右にはきのうまでの「萬緑」に替えて「新らっきょう」の文字を掲げた。"facebook"にも告知を上げた。
「旬しあげ生、夏太郎」は、それほどたくさん作れるものではない。昨年は土日のみに販売をし、しかし1ヶ月を経ずして売り切れた。今年はそれほど引っ張らず、平日もお出しして、できるだけ早く消化することを決めた。
第1のロットは白いままで販売をするけれど、特別な品であれば、昨年と同じ形にこだわることもない。第2のロットは、ことによると「たまり」にすこし馴染ませてから蔵出しするかも知れない。
「スワンナプーム空港から羽田空港へ飛ぶタイ航空深夜便の、10月5日発の席は残り5」と昨年、馴染みの旅行社から伝えられたのは8月22日のことだった。1ヶ月半ちかくも先の航空券が払底しつつあることに僕は大いに驚き、翌日「残席3」のところで辛くも席を確保した。
「そのようなスレスレは繰り返したくない」と本日、くだんの旅行社にメールを書いた。「バンコクと東京の往復のみ先に確保し、国内線については後から頼んでも、代金はそう高くはならないだろうか」というのがその内容である。
メールによる返事を待ちきれず先方に電話を入れると「国際線と国内線の双方を同時に予約した方が価格としてはよほど有利」との答えが戻った。
タイ国内については、いざとなればバスや鉄道で移動しても構わない。しかし当方は昔はヤワラー、今ならカオサンに沈没しているバックパッカーではないから時間に制約がある。長距離の移動には、やはり飛行機を使いたい。
「飛行機を使わず、しかもそれほど長い時間をかけずに行ける、自分にとって好適な田舎があるだろうか」と、海外では都会より田舎の方が好きな僕はすこし調べて「やっぱりいつもの北だわな」との結論に達する。
眩しいほどの緑の山、赤い土を解かして悠々と流れる川、どこまでも青い空、そしてそこに浮かぶ白い雲。そのタイの最北部から更に山奥に入るかどうかについては、いまだ決めていない。
店の入り口右側に掲げた季節の書は5月からずっと「萬緑」のままだ。もはや「萬緑」でもあるまいとは思うけれど、次に控えている「氷水」には、いかにも早すぎる。夏6月の季語「梅桃」あたりがあると、本当は助かるのだ。
"SAINT JAMES"の、素肌にウールを触れさせたくない僕にも平気な素材によるセーターは、冬が過ぎても春が過ぎても、食堂のすぐ手の届くところに置いている。すこしばかり蒸し暑い日があったとしても、梅雨明けまでは油断はできない。
終業後にテレビのニュースを見ると、日光市に、これからずいぶんと強い雨の降るようなことを伝えていた。よって月にいちど開かれる、日本酒に特化した飲み会「本酒会」の今月の会場「やぶ定」には、傘を持ちながら行く。
「本酒会」ではいつも、客観的価値の確立した酒、新進気鋭の杜氏による酒、いわゆる愛好家のあいだで話題になっている酒を飲む。「本酒会」で飲む酒と、僕にとっての美味い酒は、決して一致をしない。そのあたりがまた、酒の面白さなのかも知れない。
22日の夏至から2日を経てようやく、目に見えるところで朝日が昇る。"NIKON D610"で撮った画像の情報によれば、真東ちかくの山から太陽のほぼすべてが姿を現した時刻は4時29分だった。
東京の最高気温は28℃、雨の降る確率はほとんどないことを、テレビの天気予報は伝えていた。よって上は半袖のTシャツ1枚、下はタイパンツ、しかし足元だけはしっかり革靴を履いて下今市09:35発の上り特急スペーシアに乗る。
あれこれして夕刻に至る。冬至のころは17時でも夜だ。しかし現在は19時がちかくても夕刻である。
おおかたの日本人はビールを好む。それに対して僕がビールを飲む機会は年間でも指折り数えるほどしかない。それは僕が、アルコール濃度の低い酒を大量に飲むことを好まないことによる。
焼酎とソーダの配合比を店側が握って離さない飲み屋へは行かない。焼酎とソーダが店側により配合される飲み屋でも、焼酎のみを追加することができるなら行かないこともない。
夕刻に入った店でチューハイを頼むと、ビールの中ジョッキによるそれが目の前に置かれた。ひとくち試して焼酎のみ注文できるかと訊くと、小ジョッキに6分目ほどのそれを、店の人は手渡してくれた。
中ジョッキのチューハイ2杯と小ジョッキに6分目ほどの焼酎すべてをかなりの速度で飲み干し、浅草橋の街に歩き出す。
角をひとつ曲がり、更にすこし歩く。そして都営浅草線に乗って帰宅の途に就く。
事務机の左の壁に提げたカレンダーをヒラリとめくり、来月のそれをチラリと見ることが増えてきた。1日から14日までは総鎮守瀧尾神社の夏のお祭「八坂祭」についてのものが目立つ。そしてその14日間には勿論ほかの、忘れてはいけないことも書き込んである。
統計を取ったり、その数字をグラフにしたりしているわけではないから本当のところは知らないけれど、このところ出たり入ったりが多いような気がする。出たり入ったりとはお金のことではない、僕自身がどこかへ出かけたり、また戻ったり、ということだ。その出たり入ったりに押し出されるようにして、6月のうちに行かなければならないところに行けなかったりする。
きのう22日は夏至にもかかわらず太陽は顔を出さなかった。23日の今日はおばあちゃんの祥月命日にて、朝、雨の中を墓参りに行った。明日の天気はどうだろう。東京へはそろそろ、半袖のTシャツ1枚で出かけたいのだ。
そして21日の夜から陰干しにしていた黒いスーツを晩飯の前にタンスに仕舞う。
僕に何かを説明しようとしたり、報告をしようとしたり、決済を求めようとしたりする4人が同時に事務室にいて、それに重なるようにして電話もかかってくる。やりかけの仕事を中止してそれらすべてに対応をしている最中に、またまた別の仕事が発生する。
そのような状況から解放されてふとメーラーを回すと"Beachfront Hotels for Under $100"という表題の、海外のホテル予約サイトからのものが他のメールに混じって届いた。酸欠気味の脳を復旧させようとそのhtmlメールを開き、更に"Click here to find your deals"と書かれたボタンをクリックする。
と、ディスプレイには白砂青松の「松」を「椰子」に替えた海沿いの景色が広がった。そして不思議なことに気づいた。バリ島にあるホテルにもかかわらず、宿泊料は米ドルやインドネシアルピアではなくタイバーツで表示をされるのだ。過去に僕がそのような設定をしたことがあったのだろうか。
あれこれあって昼飯の時間が遅れたため、夜になっても腹が減らない。よって簡単な肴をあつらえ、生のウォッカを飲んで早々に寝る。
ミヤシン宮嶋眞一郎先生の思い出を指折り数えれば6つある。それらすべてを挙げては日記が長くなるからここには2つを選ぶ。
1972年の遠足は辛かった。自由学園の遠足は山登りである。富士山などは大抵は5合目から登るものだ。しかし我々は馬返しから歩き始めた。8合目の小屋に泊まって翌朝、残雪期にもかかわらず地下足袋を履いた先生はいち早く頂上に達し、後から登り来る生徒たちひとりひとりと握手を交わしていた。
板に角材を打ち付けただけの、階段ともハシゴとも呼べない滑りやすいステップを踏んで僕も遂に先生の前に進み出ると、先生は笑って右手を差し伸べた。余裕のある生徒はそこで手袋を脱いだ。疲労困憊の僕にその余裕はなかった。そして白い軍手を嵌めたまま僕は先生の素の右手を握った。
先生はそれからほどなくして、15歳の僕などは知るよしもない理由にて学園を去った。
何年か経った春だったか初夏だったか、学園からひばりヶ丘の駅に向かう途中の手作り教会の前で、先生の歩いていらっしゃるところに出くわした。長く目を患っていらっしゃった先生の視角は多分、そのころには筒の中から遠くを眺めるほどに狭まっていたように思う。
黙ってすれ違えば先生はお気づきにならなかっただろうけれど、僕はお声がけをし、しばし世間話を交わした。
先生は92歳を以て4月27日に帰天をされた。そして本日、そのお別れの会に臨むべく、会の始まる1時間前に羽仁吉一記念講堂に入る。
夜の明ける気配を感じて鳥は啼く。鳥が啼き始めてもあたりはいまだ暗い。それからしばらくしてようやく、部屋のカーテンが朝の青みを帯びてくる。そうすると僕はいても立ってもいられない気持ちになって起き、服を着る。
そして午前3時38分の東の空へ向けて"NIKON D610"のシャッターを切る。レンズは"NIKKOR AF-S 24-85mm f/3.5-4.5G ED VR"の最短、ISOは800まで上げた。絞りは3.5でシャッタースピードは4分の1秒。脇を絞って重いカメラを持ち、しばしば息を止めるので、脳に届く酸素の急に減っていくことが実感される。
日光の地野菜を朝のうちに「日光味噌のたまり」で浅漬けする「たまり浅漬け」の原材料を手当てするため「JAかみつが今市農産物直売所」に出かける。通路を進みつつ棚にズイキの出ていることに気づく。これは僕の好物にて、浅漬け用の胡瓜とは別に、しかし即、買い物カゴに入れる。
八坂祭についての町内の話し合いは、今月11日が青年会の、そして今夜は役員会のそれが公民館にて開かれた。それに出席をして2、3の意見を述べた後、小雨降る日光街道を徒歩で下って飲酒活動へとおもむく。
"iPhone"のメモに、あれこれ雑多なものが溜まりすぎている。早くに目覚めたことを奇貨として、これら数十の覚え書きを、その内容をいちいち調べてからではあるけれど、片端から消していく。
"iPhone"のメモには、各々の1行目が見出しとして表示をされる。最新の、つまり最上段には先週土曜日の20時33分に残した「異国トーキョー」の文字があった。タップをすると
異国トーキョー
せつない
清少納言以来の伝統
切なさを愛でるって…
という4行があらわれた。高野秀行の「異国トーキョー放浪記」を飲み屋で読みながら入力したものだろう。
「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、誰も知らないものを探す。そして、それをおもしろおかしく書く」とは、高野秀行がことあるごとに語る自身のモットーだ。コンゴ奥地の湖に怪獣を追い、ミャンマーでは反政府系の少数民族と共にケシの汁を採取しながら阿片中毒になり、謎の独立国家を訪問すべくソマリアに潜入する。そのような濃い紀行文を書き続ける高野だけれど、これまで読んできた中では、僕はむしろ、彼の軽いものに漂う切なさが好きだ。
「異国トーキョー放浪記」では特に、スーダンから筑波大学に留学した盲目の秀才マフディに巨人阪神戦を観せるべく東京ドームへ連れて行く「トーキョードームの熱い夜」が何とも言えない。
今夜もこの本をたずさえ飲み屋へ行き、しかしひと文字も読まないまま帰宅する。そして入浴して21時前に就寝する。
有名な人が来店してくださった折「先生からサイン、いただいて差し上げましょうか」などと、お付きの人が気を利かせてくださることがある。そのようなときに僕がどう返事をするかといえば「要りません」のひとことである。
有名な人のサインが欲しいか欲しくないかとみずからに問えば欲しくない。だから「要りません」と答えるわけだけれど、振り返ってみれば、僕は先方の気持ちを斟酌していない。自分の気持ちしか考えていない。僕のこのような素直さ、正直さには、ことによると「障害」の気味が含まれているやも知れない。
昼もちかいころ店の内外が賑やかになった。間もなく販売係のサイトーエリコさんが「たいめいけんの息子さんがお買い物に見えています」と事務室まで報せに来てくれた。普段の僕であれば「あっ、そう」くらいで席も立たないところだけれど、「たいめいけん」なら途切れ途切れにしろ、四半世紀以上も前からオムレツを肴に白ワインを飲ませてもらったりしてきた店だ。
よって外へ出て三代目のモデギヒロシさんに挨拶をし、販売係のハセガワタツヤ君に、その様子を写真に撮ってもらう。モデギさんの笑顔には流石のものがあるけれど、笑っているつもりの僕は、どう見ても渋面である。
それから30分ほどもすると今度は、オートバイの雑誌「モトチャンプ」の取材のため、三栄書房のご一行がお立ち寄り、お買い物をしてくださった。カメラマンの方がおっしゃるには、幼稚園のころからウチのたまり漬を愛用してくださっているという。
今回の取材に供されたオートバイは"KAWASAKI Ninja 400"と"KTM RC 390"の2台だろうか。二輪のある生活が楽しいことは僕も知っている。フェラーリを買う金がなくても落胆をすることはない、オートバイを買えば良いのだ。「モトチャンプ8月号」は、かならず手に入れようと心に決める。
女子高生のアルバイトが製造現場を横切るなり「若いっちゃ、いいなー」と、製造係のヒラノショーイチさんは感に堪えたようにつぶやいた。20年以上も前のことだ。ヒラノさんは彼女たちの溌剌とした姿に見惚れたのだろう。
僕もむかしの自分について「あのころは良かった」と思い返すことがある。姿かたちについてのものではない。記憶力においてのことだ。
中学2年の11月25日だったか、その数日あとだったか、とにかく夜のテレビニュースを見ただけで僕は三島由紀夫の辞世2首を覚えて今も忘れない。
30代のなかばころまで僕は2ヶ月に1度の割で高熱を発した。そのたびかかりつけの耳鼻咽喉科へ行き、抗生物質を静脈に注射してくれるよう無理に頼んだ。飲み薬などでは下がらない熱だったのだ。
ある日、やはり喉を腫らせて診察室に入ると、先生の姿は見えず、代わりに大学病院のインターンらしい人がいた。僕の喉の奥を診たその若い医師はカルテに、いつもの先生の筆記体ではなく、ずいぶんと大きな活字体で記入を始めたから、その文字は明瞭に読み取れた。
若い医師は僕の喉の略図を描き、そこに"EITERPFROPF"と注釈を付けた。ドイツ語の、未知の単語を数秒目にしただけで覚えられたのだから「若いっちゃ、いいな」以外の何ものでもない。
海外へ出るたび「オレの英語も何とかならねぇか」と感じる。「何とかならねぇか」と感じつつ日本に帰って、次の出発までにいくらかでも勉強をするかといえば、しない。
外国語による会話を上達させる最上の方法は文章を覚えることと、多くの実践者は語っている。まったくもって、その通りである。
「そろそろ重い腰を上げようか」と考えつつ「自分の今の記憶力はいかほどだろうか」とも思う。きのうの日記の「皮膚の表面」は、脳にも少なからず起きているのだ。そう考えつつ、しかしamazonに英会話の教則本1冊を注文する。
みずからの老いを僕は皮膚の表面で知る。
1年のうち、6月から8月までの3ヶ月間は、かかとからアカギレが消える。ところが昨年からは、それが7月から8月までの2ヶ月間に縮んだ。
今年のいまだ寒いときには、朝、目を覚ますと口角が乾いて切れていた。そのままでは痛くて口を開くことができない。よって起床すると同時に、岸惠子をはじめとするフランス女のように、唇から大きくはみ出す形で、しかし僕の場合には口紅ではない、リップクリームを塗りたくった。
メシはできるだけ薄着で食べたい。身につけるものが少ないほど、落ち着いて食べられるのだ。
朝飯の前に脱いだ靴下を食後に履こうとして、かかとの硬さが気になった。よってゾーリンゲンの鉋で角質をそぎ落とすと、6月なかばのこれから初秋までは、アカギレはできないような感触がかかとに感じられた。
口角が乾燥して切れることについては、梅雨に入ってからの、いつとは知れないうちに治っていた。
僕が南の湿熱を好むのは、その自然が肌に合っているからに違いない。
夜にテレビを観ていると、女剣劇で名を成した浅香光代の、いわゆる「終活」の様子を報せていた、というか映していた、というか、こういうときの言葉の使い方を僕は知らない、とにかくやっていた。
その中で僕の興味を特に惹いたのは着物の処分についてである。「3億円はかけた」と浅香の言う大量の衣装の、専門家による査定は450万円。それに対して「有り難い」と浅香は感激の面持ちである。
3億円が450万円なら98.5パーセントの下落。それでも浅香は「有り難い」と喜んでいるのだ。ここで僕は、ある未知の人のウェブログを思い出した。
「着物道楽だった母親が亡くなったため、タンスの中身を処分したら二束三文にしかならなかった。母親が生前に費やした数千万円は一体全体、何だったのか」という呪詛がその内容だった。今夜のテレビ番組に照らせば「なるほど」と納得せざるを得ない。
ちなみにそのウェブログの書き手は定年退職を機にヨーロッパの有名ブランドによるスーツ数十着およびネクタイ数百本を捨てたという。亡き母親を恨みつつ、自分も同じ穴のむじなに違いない。
古峯神社の庭に「翠滴」という茶室がある。茶室だけに小さな建物だけれど、そのかたわらの、茶席に呼ばれた客の待つ東屋は更に小さく、中国の古い水墨画から抜け出てきたような枯れ具合が素晴らしい。
モノの大半を遠ざけ、そういうところに棲むことが僕の理想である。もちろん、無理な話である。
さしたる用事もなかろうに、否、人間ではないのだから、さしたる用事もないのにからだを動かすはずはない。何羽ものツバメがウチの庇をめがけて飛び込み、鋭く方向を変えては離れていくことを朝から繰り返している。
人に何かを訊かれて即答できることが僕には少ない。しかし好きな花と訊かれれば「桜」、好きな鳥と問われれば「ツバメ」、好きな酒と畳みかけられれば「ワイン」と、間髪を入れず答えることができる。桜とツバメとワインには、何かおなじ通奏低音のようなものが流れているのだろうか。
おととい、先おとといと、3食のうちの1食を繁忙のために抜いた。今日の昼もすんでのところでそのような事態に陥りかけたけれど、辛うじてカレーパン1個を腹に収める。とんだ災難によりメシの機会を失えば心も萎えるけれど、光に向かって進むような仕事によるそれであれば、どうということもない。
ひばりヶ丘から19時すぎに乗った西武池袋線は、椎名町と池袋のあいだで長く停まった。その渋滞は、おなじ椎名町と池袋のあいだで15時12分に発生した人身事故によることを、車内の電光掲示板で知る。
池袋から山手線で西日暮里、そこから千代田線に乗り換え北千住で下車して10歩ほどを進むと、今しがた僕の降りたドアの付近が騒がしい。振り向けば、目を大きく見開いたまま倒れて動かない男が見えた。ちかくのひとり二人が懸命に抱き起こそうとするけれど、頭のみをタラップから外にはみ出させて男はピクリともしない。
「どうなることか」と様子をうかがううち発車のアナウンスが流れた。「車掌もまさか、プラットフォームに人だかりのあるままドアを閉めることはないだろう」とは感じたけれど、世の中には「間」ということもある。
すぐちかくの壁に赤い非常停止ボタンが見えた。ためらうことなく僕はそれを押した。感触は軽かった。と、その途端プラットフォームの端から端までけたたましい警報音が鳴り響いた。人混みをかき分け駅員が近づいて来た。僕は手を挙げ、男の倒れている場所を彼に示した。これでもう、急病人の首の千切れることはないだろう。
警報はようやく鳴り止んだ。そして後顧の憂いなくA4出口への階段を昇る。
自由学園で昼の食事当番をするため、家内はきのうのうちに甘木庵へ行った。よって今朝のメシは僕の自製である。
鶏の卵を売ることをなりわいとしている人に言いつけたら怒っていたけれど「あなたの体に玉子は百害あって一利無し」と、僕よりよほどコレステロール値の高そうな医者に注意をされたことがあるから目玉焼きは焼かない。
冷蔵庫を開ければおかずは何かしらある。それらのおかずがすべて冷たくても、メシが温かく、味噌汁が熱々ならば、僕の場合に限ったことかも知れないけれど、朝飯に対する満足度の低くなることはない。
トマトとピーマンという、味噌汁の具としてはすこしく荒唐無稽なものを冷蔵庫の野菜室から拾い上げ、刻み、そして味噌汁の具にする。「ピーマンを食うヤツは人と思えませんね」と、僕の作った鉄板焼きのうち、ピーマンの香りのするタコのバターソテーを慎重に避けつつ顔をしかめた年少の友人がいたけれど、僕の最も好む野菜は、ことによるとピーマンかも知れない。
僕の昼食時間は13時30分から14時30分と決められている。ところが今日はその時間に「昼飯なんて食っちゃいられねぇ」という仕事が発生した。3食のうち1食でも抜くとは僕には希なことだけれど、面白い仕事のためならいささかの痛痒も感じない。
夜は文庫本を持って飲み屋へ行き、その文庫本は読まないまま、しばしゆっくりする。
午後に2件の来客面談をこなすと、夕刻にはいつもよりたくさんの酸素を脳が求めていた。それは僕の脳のクロックが遅いとか、容量が少ないことを意味している。
「鉄道絶景の旅3時間スペシャル・絶景列車でたどる奥の細道紀行」の取材を受けたのは先月9日のことだ。ゲストの渡辺徹が芭蕉に倣って深川を発ち、松島へ至る旅行番組である。ディレクターから説明された要旨は「栃木県がらっきょうの産地であることを一般に紹介したい」というものだった。
その放映は本日の19時から21時55分まで。チャンネルはBS朝日ではあるけれど、総鎮守瀧尾神社の八坂祭についての話し合いが、おなじ19時より町内の公民館にて開かれる。よって番組は家内に録画予約をしてもらった。
「お祭の話し合いは1時間ほどで終わるだろう、そうしたら残った仕事を片付けてから飲み屋へ行こう」と考えていた僕の計画は、しかし会議の長時間化によりもろくも崩れた。
降り始めた雨の中を走って22時ちかくに帰宅し、そのまま即、就寝する。
所用にて文京区役所へ行く。東京の街なかで、強雨や雪ならともかく、当方はその必要もないのに登山靴を履いている。格好が悪いと恥じる気持ちはないけれど、普通の靴にくらべれば脚への負担は少なくない。
よって用が済んでのちは区役所の、春日通りを隔てて向かい側の停留所にて、茗荷谷の方から降りてきたバスに乗る。本郷の高台へ向けて直進するかに思われたそのバスは、しかし春日町の交差点で左折をし、次の交差点を右折しながようやく本郷を目指した。
菊坂下からバスは弥生町に進路を取り、当方の思い描く地域から急速に離れていく。バスはやがて本郷通りを横断し、坂下の根津へ向かおうとする東大農学部前の停留所で停まった。僕は「もはやここまで」と下車をする。
本郷通りを三丁目に向かって歩き、東京大学の正門から構内に入る。法文2号館のアーケードを抜け、三四郎池の森、育徳堂を左手に進む。医学部2号館本館の角から付属病院前、そして龍岡門を抜けてようよう甘木庵に戻る。後楽園から本郷三丁目までのひと駅を丸ノ内線に乗り、そこから歩いた方がよほど楽だったけれど、まぁ、仕方がない。
昼すぎに春日通りに出て、またまた懲りずに来たバスに乗る。それは御徒町まで直行する錦糸町行きではなく上野公園行きだった。よって広小路の交差点を左折した、つまり鈴本のちかくで降りて御徒町まで歩く。
午後は駒込で長男と待ち合わせ、5時間ちかくもあれやこれやする。そこから北千住に出ると時刻は19時を回っていた。自分ひとりなら帰りの特急は21時13分発を選ぶところだけれど、今夜ばかりは大急ぎで飲酒活動を済ませ、20時13分発のスペーシアを使って22時前に帰宅する。
「赤坂にはかなり強い雨が降っている。この雨は昼ごろまで続く。通勤には雨靴が必須」というようなことを、屋外で大きな傘をさしたオネーサンがテレビのニュースで伝えている。よって登山靴を履き傘を持って下今市、北千住、恵比寿と移動して外へ出てみれば、時刻はいまだ9時40分にもかかわらず、雨は上がっていた。
ウチのギフト商品のうちの一番人気「たまてばこ」の簡易版が、今月から売り始められた。この「おうちたまてばこ」を、ガーデンプレイスちかくに事務所を構える外注SEヒラダテマサヤさんに、ウェブショップに登録してもらう。長男の撮った急ごしらえの画像は、来月にも職業写真家による綺麗なものに差し替えられるだろう。
ウェブショップの、自分の手に負えないところは以前は神保町の"Computer Lib"に、同社のヒラダテさんが"Vector H"を立ち上げてからは彼に任せてきた。どちらの会社も昼食難民を避けて昼休みは11時30分に始まる。本日もその時間に駅ちかくまで坂を下り、少なくない量の米飯を定食の「こづち」にて腹に収める。
夕刻に御徒町で次男と待ち合わせ、鮨屋へ行く。前を通りかかるたび満員のその店には、いまだ晩飯の時間には間があるためか、客は僕と次男のふたりだけだった。しかし間もなくひと組のカップルに続いて3人の、日本語を話さない人たちが入ってきた。訊けば香港からの旅行者だという。
鮨屋に英語の品書きは無い。3人組は冷蔵ケースの中やカップルの食べる鮨を指さしての注文である。そのうちその3人組のひとりが"Crab leg roll"と言うので一瞬、虚を突かれた顔をすると、iPhoneに納めた画像を彼は僕に示した。差し出されたディスプレイを注視しつつ「それは蟹の脚じゃなくて蟹の脚に似せたカマボコだよ」とは僕も言わなかった。店にその種類のカマボコは無く、板前は代用として海老を酢飯と海苔で巻いた。
3人組を含めて写真を撮ると「それをエアドロップで自分のiPhoneにコピーしてくれ」と頼まれたけれど、そのようなことを僕はしたことがない。僕の"5C"を次男に手渡すと、次男はほんの数秒にて彼らの求めることを完了した。
御徒町から甘木庵までは歩いて帰った。雨さえ上がってしまえば空気の感じは梅雨入り前と変わらない。夜に冷えることを避けて窓は閉めて寝る。
家内不在につき、あれこれ忙しい。本日すべきことは、きのうのうちに箇条書きして事務机に置いた。最初の仕事は7時30分から始まる。しかし先ずは朝飯つくりである。
ハムエッグを焼こうとして途中で止めたのは、カロリーが高そうだからだ。そして冷蔵庫からめぼしいものを取り出し、さかづきほどの小さな器に盛っていく。ゴボウ天はオーブンに入れ、納豆の薬味として玉葱を刻む。夜の飲み屋で冷や奴を注文することは皆無だけれど、朝のそれは大好きだ。
食事を済ませて事務室に降りる。
箇条書きした本日すべきことは午前中に集まっている。それらをひとつずつこなすあいだに不意の来客などあり、時間のやり繰りに苦労をする。昼には冷やしではなく熱い方のラーメンを食べる。
午前にくらべて午後は楽だった。
終業後、19時がちかくなってから自転車で日光街道を下り、飲み屋の「和光」へ行く。焼酎はオンザロックスではなく、お湯割りにしてもらった。
「トマトは熟していない緑色のものこそ美味い」ほか、貴重な情報を3つばかりカウンターの常連から仕入れる。その常連のひとりに「明日のナデシコ、何時っからでしたっけ」と訊かれてiPhoneを"ISKA"の信玄袋から取り出す。「なでしこ カナダ 試合開始」とgoogleで検索をしつつ「テレビは10時30分からだそうです」と、情報のお返しをする。
貴重な情報については帰宅して即、メモに残した。関東甲信越は本日、梅雨入りをしたらしい。そして入浴をして早々に寝る。
関東地方に梅雨入り宣言はいまだ出されていない。しかしおとといまでの天気はきのうから一変した。
冬物のうち"SAINT JAMES"のセーターだけは仕舞わず、いつでも取り出せるところに置いてある。きのう今日の朝方は、その深緑色のセーターを着ないではいられない肌寒さだ。
「きのう」という言葉が更に続く。きのう名古屋の"auto gallaria LUCE"から案内のハガキが届いた。浮谷東次郎の展覧会の報せである。なんとあの"Kleidler K50"も展示をされるという。
「がむしゃら1500キロ」は東次郎が中学生のとき、その50ccのクライドラーを駆って自宅のある市川と大阪を往復した記録で、これは紀行文学、冒険文学の世界に燦然と輝く金字塔である。展覧会にはぜひ行きたいけれど、名古屋はいかにも遠い。
自分用のクルマは死ぬまで買わないと決めている。身辺に物は増やすまいと決めた2013年の晩秋以降は特に、その思いを強くしている。
よって4月2日に販売の開始された"HONDA S660"には大いに興味をそそられるけれど、もちろん買わない。しかしこの小さなスポーツカーについてのテストおよび中嶋悟、大祐親子による試乗記を載せたカーグラフィック7月号はきのう街の本屋で買った。
僕のクルマに対しての興味は極めて狭い範囲に留まる。"HONDA S660"以外では「ドイツ徹底取材」の"BMW 2002tii"の部分にのみ目を通したカーグラフィックは本棚の空間を節約するため、明日にも人に譲ってしまおうと考えている。
今朝の「NIKKEIプラス1」の「何でもランキング」は「小説で読みたい名作のSF映画」だった。子どものころから僕はアニメーションつまり動画は好まなかった。マンガ、劇画のたぐいはすべて絵と文字で読みたかった。理由は分からない。
小説は素晴らしく、しかし映画化されたそれはどうしようもなくつまらない作品を、僕はひとつだけ経験している。ヘイウッド・グールドの「カクテル」だ。
今朝の「小説で読みたい名作のSF映画」の第1位には「ブレードランナー」が選ばれている。原作はフィリップ・K・ディックによる「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」だという。「1位」に魅了されてこの小説を僕が"amazon"で買い物カゴに入れるかといえば入れない。小説は20年ちかくも読んでいない気がする。
ところで今、前出の「カクテル」を"amazon"で検索すると、直下の「この商品を見た後に買っているのは?」にただ1冊、アンソニー・ボーディンの「キッチン・コンフィデンシャル」が現れたから僕は腹の中でニヤリとした。
ここ2、30年のあいだに読んだうち、特に思い出に残る、特に面白かった本を指折り数えてみれば、左手はグーの形になるけれど、それを追う右手は不器用なチョキ、といった形のままで止まる。「キッチン・コンフィデンシャル」は、その折られた指のうちのひとつなのだ。
「次の夜から欠ける満月より、14番目の月がいちばん好き」と荒井由実は歌った。僕なら「次の日から昼の短くなる夏至よりも、その1日前がいちばん好き」ということになる。
起きてしばらくして本棚のある廊下へ行く。その奥に置いた防湿庫からカメラを取り出し、すぐ横の窓を開ける。そして今まさに明けていこうとする北東の空へ向けてシャッターを切る。画像ファイルには04:18の時刻が記録された。
7時30分に事務室へ降りてシャッターを上げる。事務机に着き、左の壁に提げたカレンダーを見る。
「できるだけ人の迷惑にならないように」と配慮をされた、あるいは「できるだけ多くの人を呼び込もう」と企図された催しは週末に集中する。しかしウチの仕事は週末こそ忙しい。そこに世間一般とのずれがある。「どうにかならねぇか」と考えても少数派の当方にはどうすることもできない。
郵便で届く会議の日程が、ことごとく僕の出張や来客面談と重なっている。「どうにかならねぇか」と考えても、まさか自分の都合に多数派を従わせるわけにはいかない。
「私に用事があるなら深夜0時に来てください」と言った経営者を知っている。膝を詰めての商談であればそれも可能だろうけれど「僕を呼ぶなら会議は朝の4時から始めてください」などと発すれば「気でもふれたか」と遠ざけられること必定である。
2時台の過ぎるころに目を覚まし、3時台の始まるころに起床する。闇の中でチェストからポロシャツを取り出し、それを頭からかぶろうとすると、1番上のボタンが留められている。洗濯物にそのようなことをする習慣は家内にはない。不思議に感じた瞬間、日本では聞いたことのない香りが鼻孔に届いた。
それで思い出したのは、昨年秋のことだ。
チェンライ、チェンマイと陸路をたどり、そこからは飛行機でバンコクまで南下をすると、ホテルのクリーニング代がやけに高い。溜まった洗濯物は結局、同級生コモトリケー君の、チャオプラヤ河畔に建つコンドミニアムに通ってくる、掃除のオバサンに手渡した。日本では聞いたことのない香りは、そのオバサンの使う洗剤のものだったのだ。
南の国の洗剤や消毒液の匂いが僕は大好きだ。その香りは日本では、沖縄のホテルのリネン類からも感じることができる。それはなにがしという銘柄のもので、どこそこへ行けば売っていると教えてくれる人がいれば、僕はその店までの足労を厭わないだろう。
ところで前出のオバサンには、今年は少し甘えの度合いを高くして、メシを食べさせてはくれないか、というようなことを頼んでみたい。オバサンの家が運河に突き出ていたりすれば、それこそ気分はJim-Thompsonである。
自分の好きなことを絞り込んでいくと、最後には以下が残る。
南の国で気ままにしていること。
おかずを肴に酒を飲むこと。
活字を読むこと。
これらがいちどに満たされれば、すなわちそれが僕の天国、ということになる。
「活字を読むこと」については、家ではさほど求めない。複数の、あるいは大勢の知らない人のいる中で、つまり電車や船や飛行機でどこかに運ばれているとき、公共の建物のロビーなどに座っているとき、あるいは食堂や飲み屋で飲酒喫飯をしているときにこそ欲しくなる。
おとといの夕刻と夜のあいだに特急スペーシアの中で読んだ、高野秀行による「異国トーキョー漂流記」の第一章「日本をインド化するフランス人」の最終部分は静かに哀しく透明だった。そして「この気分はどこかで味わったことがある」と、座席の背もたれを、それまでよりすこし傾けながら記憶の奥を探ってみた。
そうして思い出したのは、小林紀晴の「写真学生」である。あるいはラッタウット・ラープチャルーンサップの短編集「観光」の中の特に「カフェ・ラブリーで」である。
「異国トーキョー漂流記」を次に読むのはいつになるだろう。第二章「コンゴより愛をこめて」のページを開くことが、今から楽しみでならない。
僕のコンピュータの画像専用フォルダには、更に小さな"2014.0615"と日付のあるフォルダが納められている。このフォルダの中にあるのが、らっきょうのたまり漬に半年ほども先駆けて蔵出しする「旬しあげ生、夏太郎」の画像だ。
この画像は昨年、職業写真家に撮らせながら、遂に使うことなく終わった。経費をかけてまで撮影をして、なぜ使わなかったか。それは、この画像を用いてウェブショップに載せるほどの量が作れなかったからだ。
通常の大きさに育つ数週間前に早採りをして塩と酢で調製する「旬しあげ生、夏太郎」は、昨年は土日のみの販売だったにもかかわらず、1ヶ月を経ずして売り切れた。
本日は、今年の「旬しあげ生、夏太郎」のためのらっきょうを収穫するため、高根沢町の御料牧場ちかくに広がる畑に、長男を含む4人が朝から出向した。
僕は4人に2時間ちかく遅れて10時30分に現地に着いた。そして靴を長靴に履き替え畑に入り、彼らの写真数十枚を撮ったのち、短い時間ではあったけれど、彼らとおなじ作業に従う。
らっきょうは、畑から引き抜くなり先ずは白い髭根をできるだけ短く切る。次は地上で育った緑の長い葉を、これまたできるだけ短く切る。その姿に整えてはじめて、通気性のある袋に保管をされる。らっきょうは、畑から食卓に上るまでのあいだだけをとっても、とても手間のかかる食べ物なのだ。
薄曇りとはいえ、ときおり日の差す今日の空の下で、朝から夕刻まで収穫にいそしんだ社員たちは、内勤の社員が帰宅するころ、各々の顔に充実感をみなぎらせて、ようやく会社に戻ってきた。
「旬しあげ生、夏太郎」は、今月下旬に蔵出しの予定である。
日本に消費税法が施行されたのは1989年のことだ。この税金は当初の3パーセントから1997年には「福祉を充実させる」という名目にて5パーセントに、そして2014年には8パーセントにまで引き上げられた。
この26年のあいだ我が上澤梅太郎商店は一貫して内税による販売を通してきたけれど、原材料、資材、設備、消耗品、修繕などすべての費用は当然のことながら外税で請求をされ、そして支払ってきた。
「消費税内税は、もはや限界」と考え始めたのは今年3月のことだ。その2週間後にはいよいよ腹を固め、6月1日からの消費税外税化を決めた。
ウチにとっての本日6月1日は、大げさに言えば自動車が右側通行から左側通行へと改められた1978年7月30日の沖縄のようなもので、その日に会社を不在にすることについては不安が伴うけれど、僕は恵比寿で5時すぎに目を覚ました。
そそくさと朝飯を済ませると時刻は6時20分。コーヒーでも飲みながらきのうの日記を書こうとしても、開いている喫茶店は見あたらない。いつものスカイウォークではなく今朝は裏道をたどり、あるいは坂を登って加計塚小学校角の交番に達する。
朝7時の作業開始という、IT業界に対しては無理な要請を、"Vector H"のヒラダテマサヤさんにはしてあった。そしてその7時にヒラダテさんの会社に入り、自社ショップ、Yahoo!ショッピング、amazonの3ヶ所に出している商品すべての、価格の外税化を開始する。
夕刻には次男と末広町で待ち合わせ、本人の希望によりカレーライスを食べる。次男は未成年のため飲酒はしない。よって彼との晩飯はすぐに終わる。徒歩で甘木庵へ戻る次男とは、そのカレー屋の前で別れた。そして浅草19:00発の下り特急スペーシアに乗り、21時前に帰宅する。