バンコクの夜が明ける。高層ホテルの影を映したチャオプラヤ川にはいまだ行き交う船もなく、青く澄んだ空は美しい。
昨夜おそくホテルに帰ってワイファイヴァウチャーを頼むと、フロント係は「お部屋で直接お繋ぎください、時間も、ご自分でお選びいただけます」と微笑んだ。よって彼の言ったとおりのことを今朝になってしてみると、画面にはいきなり日本語が現れたから大いに驚く。これは便利だ。
そして朝食から数時間は、日記を書いたり、本を読んだり、あるいは窓際の安楽椅子に足を延ばして外の景色を眺めたりする。
コモトリ君には、リバーシティの埠頭に11時10分に来ているよう言われていた。よってその数分前にそこへ出向くと、コモトリ君の乗る渡し船が、ちょうど上流から近づいてくるところだった。
舟は日差しの強い川面を更に下り、"Mandarin Oriental Hotel Bangkok"の、僕が1991年に3泊した旧館前を過ぎる。そしてサパーンタークシンちかくで折り返し、先ほどとは逆に川を上り始める。水上消防署の古色蒼然とした建物は、いまも使われているのだろうか。川沿いの一等地にこぢんまりとあるのは、どこの国の大使館だろう。
コモトリ君の家では冷たい水を飲んだり、大きな運搬船にクイティオナムトックの小舟が営業のため近づく様子を見下ろしたり、あるいはツイッター活動をしたりする。テレビのニュースでは男のアナウンサーがアユタヤの、そして女のアナウンサーがロンブリーの、それぞれ洪水被害の状況を伝えている。
僕は朝飯は多めに摂る。コモトリ君は「おめぇんとこの新商品、美味めぇな、あれでメシ、2杯も食っちゃったよ」と、正午になってもお互いの腹は減らない。よって13時を大きく回ったころにようやく地上に降り、コンドミニアムの専用船に乗る。
ヤワラーつまり中華街にもっとも近い船着き場は「サワディ」だった。そしてそこはその名に似合わず小さく汚く、我々は酔いつぶれた男を踏みつけないよう注意しながら混沌の街へと抜け出した。
ヤワラーは精進旬間を祝う「齋」の黄色い旗で、文字通りの満艦飾だった。通りには露店がひしめき、特にザクロ売りが目立つ。金行にあふれるのは買いの客なのか、あるは売りの客なのか。そうするうち、タイ語ではとても覚える気になれないほど長く、また発音の難しい名を持つ通称ジュライロータリーに出る。
この正円のロータリーに添って三日月のように湾曲した建物は健在でも、そこに多くの貧乏旅行者を集めたジュライホテルは、今はもう存在しない。
このロータリーから放射状に延びる道のうちオンアーン運河に向かうそれを進むと、1980年代のはじめに僕が定宿としていた楽宮旅社の跡に行き当たった。コンクリートパネルで覆われたシャッターの、その隙間から中をうかがうと暗い中に、かつて頻繁に昇り降りした木製の階段が確かに見える。
そしてそれをカメラで記録し、きびすを返した瞬間「あ、スワニー」と僕は声を上げた。頭の中で引き算をすれば最後は29年前、僕は毎日のように彼女の作るカオトムやカオパッやトムダオフーを食べていたのだ。そして思わず僕は「スワニー、変わってねぇな、写真、一緒に撮ろう」と口走った。
バックパッカーのための安宿街はヤワラーからカオサンへと移った。そしてそのカオサンはいまや巨大な観光地になってしまった。今年の夏休みに続いて次男とタイに裏を返すことがあれば、そしてバンコクに滞在をすることがあれば、その時には「気でも狂ったか」と言われても、この界隈に残った安宿「台北大旅社」を使いたい。
夕刻、涼しい風の吹き始めるころ、チャオプラヤ川に桟橋を突き出した料理屋"Yok Yo Marine & Restaurant"へ行く。ソーダで割ったウイスキーが喉に染みる。先ほどまで雷鳴のあった空はふたたび晴れ、入道雲が沸き立つ。川面はこのところの台風もあって、乾季より2メートルも高いという。
日が落ちて遊覧船が多く出ると、それらの立てる波が我々のテーブルを置いた、水上ゼロメートルの桟橋めがけて押し寄せる。そのたび我々はテーブルの下に脚を持ち上げ、お運びの女の子たちはキャーキャーと叫びながら空いた椅子に膝立ちして水を避ける。お掃除のオバサンがあたりをモップで拭いても、そんなことは賽の河原に石を積むようなものである。
コモトリ君の部屋に戻って"DVD"の"BUENA VISTA SOCIAL CLUB"を観る。そしてコンドミニアムの下から最終21:30発の渡し船に乗る。ホテルの名を告げると船頭はリバーシティではなく、シェラトンの専用桟橋に舟を着けてくれた。
昼より涼しいとはいえ全身は汗まみれである。入浴して荷物の点検をし、22時30分に就寝する。
旅行に出ると、普段以上に早く目が覚めるのはなぜだろう。午前0時までツイッター活動をしていたにも関わらず、今朝も5時に起床する。
洪水による渋滞に往く手を阻まれてはいけないと、定刻を前倒ししてリムジンタクシーを出してくれるようフロントに頼む。ホテル側は当方の希望を容れてくれたが、ピン川から数キロほど離れた市北東部に、交通の混乱は及ばなかった。
チェンマイではこれといったこともしないまま、早くも空港が近づいてくる。雨は降っているが、そう強いものではない。そして搭乗の始まるころには、南の方から青空が広がってきた。台風は去ったのだろうか。
ほぼ満席の"Boeing 747-400"は定刻に17分遅れて10:12に離陸。スワンナプーム空港には11:10に着陸した。チェンマイからバンコクの便は人気路線のため機内預けの荷物も多い。国内線到着ロビーで待つ同級生コモトリ君と行き会えたのは、着陸から50分後のことだった。
コモトリ君とはタニヤでクルマを降り、軽く昼食を摂ってから例の酒屋へ行く。円はそういつまでも高くはないだろう、インラック政権の公約によりタイはこれまで以上にインフレを亢進させ金利も上がるだろう、そう考えて奥のオバサンには多めの両替を頼む。
実際には、為替の先行きについては、ほとんど誰も当てることはできない。日本の金融関係者などは、かれこれ5年も前から「これからは円安ドル高です」と言い続けているのだ。
本日昼のレートは10,000円が4,060バーツだった。先月27日におなじ酒屋を訪ねて以来、バーツは円に対して5.3パーセント下落している。
チャオプラヤ川沿いのホテルに入り、着替えなどを済ませて目と鼻の先のリバーシティへ行く。そこから専用の渡し船に乗り、川を隔ててはす向かいにある、コモトリ君の住むコンドミニアムを目指す。そして22階のベランダから、チャオプラヤ川の上流、正面、下流、より下流にちかい方面を眺めて「バンコクにはまだ夏の雲がある」と言うと「でももう随分と、雲は高くなったよ」とコモトリ君は空を見上げた。そしてテレビは先ほどから、チェンマイの洪水ばかりを伝えている。
「それほど効くもんでもねぇよなぁ」と、個人としては感じているタイマッサージを、今日は時間つぶしのために受けた。今日のオバサンの施術は気持ちの良いものだったが、まぁ、それだけのことかも知れない。
そして降り始めた雨の中、満を持して「タワンデーン」に向かう。「タワンデーン」とはビールの醸造施設を備えた巨大なビヤホールで、前から行ってみたかった僕と、コモトリ君の今夜の気分が一致したのだ。
平日のいまだ19時とはいえ「タワンデーン」の客席はほぼ埋まっていた。4種類あるうちのラガービールと料理を注文する。ステージでは既にショーが始まっている。
そのショーは客を飽きさせないよう工夫を凝らしたもので、その一部を抜き出しただけでも、非常に達者なバンドをバックにした、オニーサンの歌手によるスタンダードナンバー、オネーサンによるアメリカンポップス、別のオネーサンによるタイの演歌ルークトゥン、馬鹿にするなかれタイの伝統楽器による異常に格好いいジャズ、中国人のオネーサンによる中華歌謡、アクロバット、キャバレー風あるいは宝塚風のダンス、歌って踊れるコメディアン、この店の従業員による、自分たちこそ楽しくて仕方がないといった様子のダンス、店の創立11周年に感謝をしているような内容の歌唱、そして歌手とダンサーの入り交じったフィナーレ。
いやはや、この3時間以上に及ぶショーのすばらしさを何に例えようか。「バンコクを訪問するならラマ三世通りの"TAWANDANG"は決して外すな」と、僕は強く主張ししたい。
そして0時前にホテルに帰り、0時30分に就寝する。
気づくと照明を点けたままの部屋で、ガウンに着替えて、しかしベッドカバーの上で眠っていた。時刻は深夜0時。昨夕ホテルに戻って以降の記憶が曖昧だったため、念のためシャワーを浴びる。日本から持参した粉末のコンソメスープを飲み、きのうの日記を書き、本を読む。
4時から5時30分まで二度寝をして目を覚ますと、良く眠った朝のように気分は爽快になった。
日本を出るまでの1週間ほどは、あちらこちらに痛みのあるからだを手入れし、首から背中、左肘から手首、右膝に派手なテーピングを施した。そのテーピングのうち、首から背中にかけてのものを今早朝のシャワーの後に剥がしたら、その部分だけが日に焼けず、妙な具合になっている。
パラソルの下にいれば日焼けはするまいと考えたが甘かった。右膝のテーピングは特に念入りに、足首から太ももまで及んでいる。これを剥がせばタイマッサージのオバサンも後ずさりをするほどのまだら模様が現れそうである。
「シークラン」のキャベツの煮込みに豚肉の入っていなかった件につき地元の人に質したところ、やはり現在は仏教における精進の期間にあるという。この習慣はタイ語で「ギンジェー」。「ギン」は食べる、「ジェー」は野菜のことで、この時期に大雨が降ると野菜が高騰することまでその人は僕に教えてくれた。
タイでは国王や王妃の誕生日、選挙の投票日などには飲酒が禁じられる。昨月この街のセブンイレブンでレジにウォッカを差し出したところ「いまは酒類を販売できない時間帯」と、それを売ってもらえない経験をした。ギンジェーに重く取り組む人は酒断ちをする。更には魚を原料とするところからナムプラーを絶つ人までいるという。
朝食を済ませ、ソンテウよりはよほど高級な乗合自動車の席に収まる。クルマは新たな客を拾うためか、この街の郊外にある"Le Meridian Chiangrai Resort"に立ち寄った。諸処のハイテックなデザイン、コック川の水を引き込んだ庭園、社員たちの、いわゆるホテルマンとはかけ離れたスマートカジュアルな服装は、バンコクのメリディアンと共通のものだ。
しばし時間がありそうなので「来年はこちらに泊まらせていただくかも知れません」などと調子の良いことをフロントのオネーサンに伝え、ガーデンビューの部屋を見せてもらう。
チェンライからチェンマイに至る街道は多く屈曲した山道で、晴れていればその明媚な風光に目を奪われる。しかし今日の気候は安定しない。状況は曇り、洪水、そして晴れと、猫の目のように変わる。豪雨のため増水した川の底をバックホーで泥縄式にさらっている村、側溝を溢れさせ、消防ポンプ車の出動した街をいくつも過ぎる。
「チェンマイ市街も一部で洪水、ピン川沿いのホテルには客を迎え入れることのできないところも…」という情報が車内にもたらされる。今夜泊まる予定にしていたホテルに連絡を入れると、冠水のため駐車場からロビーに入ることが現在は困難だという。水は引きそうかと問えば、ますます増える可能性も否定できないとの答えが戻った。
ここで、ナイトバザールにちかいホテルでの宿泊を諦める。バザールも、それに隣接するアヌサーン市場も、今日は開かれるかどうか分からない。そして不本意ながらピン川からは遠く離れ、チェンライ市街を円環状に囲むスーパーハイウェイに面した"Chiangmai Grandview Hotel"に部屋を確保する。
チェンマイが近づくと、乗合自動車は早くも渋滞に巻き込まれた。渡りながら見たピン川の水位は、橋桁から人がぶら下がれば、その下半身は容易に川面に達するであろうすさまじさである。
ホテルに着き、案内された部屋のカーテンを開けると、目の前のドイステープ山は晴れて光っている。しかし繁華な通りまで足を延ばし、帰路を洪水に阻まれては明日の行動もままならない。そして今日、この街でしようとしていたすべてのことを諦める。
赤道に近いとはいえ、チェンライでもチェンマイでも日の出は遅かった。そして夜の訪れは早い。スーパーハイウェイから脇道に逸れたところにひっそりとある、靴下を履いていては滑って転びそうなほど磨き込まれたチークの床を持つ料理屋で早めの夕食を済ませる。
ホテルに戻ると、ラウンジではピアノ弾きがアメリカの古い流行歌を歌っていた。ここでは部屋に"wifi"の電波は届かない。よってそのラウンジの脇でツイッター活動などをし、0時に就寝する。
僅々数時間の睡眠にて午前3時30分に目を覚ます。きのうの日記を書いたり取引先にメイルを送ったりする。眠くはならないから、そのまま朝まで起きている。やがてコック川の彼方に朝日が上がる。
先月は自転車で街を回ろうとして、しかし強雨に阻まれた。今朝はプールで泳ぐ気にもならない涼しさにて、だったら先月できなかった街歩きをしようと決める。ホテルのプールサイドには4台の自転車があった。そのうちのマウンテンバイクを借りてドゥシット島を出る。
ワットプラケオを右手に見て南に進む。バンパプラカン通りに出て右折。西に進んでセンプーホテル先の右カーブでUターン。写真を撮っていると、ちかくの家の住民らしい、あまり人相の良くない男が「何処へ行くのか」と英語で訊く。「ただの散歩だ」と答える。「日本の英語教育は、いつまでも駄目なままだ」と感じるのは、まさにこういうときだ。タイではごく普通の人がごく普通に英語を話す。
バンパプラカン通りを、今度は西から東に向かって進む。水の緑色に濁った運河を見て「王朝時代の環濠の名残だろうか」と想像をする。時計塔を過ぎると道の名前はパフォンヨーティン通りに変わる。草の上で遊ぶ猫の写真を撮ったり、あるいは木陰で一休みをしたりする。
パフォンヨーティン通りが左にカーブするあたりで寺の裏道に入る。読経の声が聞こえる。そして「この、徐々に間隔の短くなる鐘の打ち方は、日本の浄土宗のそれと同じだなぁ」などと、知っていても大して役に立ちそうもないことに気づく。お寺の名前は"WAT SRIKIRD"。「地球の歩き方」も、また"Lonely Planet"も地図上の表記を間違えている。
王朝時代の、多分レプリカだろう、城壁の脇を過ぎる。いつもはクルマの窓から眺めるのみの、メンライ王の像を間近に見る。コック川南側の緑濃い道をたどってホテルに戻る。地図を見直し、9時30分からの1時間で7.5キロを走ったことを知る。
滝のような汗をシャワーで流し、しばしベッドでうとうととする。そして11時30分からプールサイドに出る。パラソルの下の安楽椅子は、肘掛けの具合が誠に読書に適している。「目撃者」は大いにはかどり、きのう成田空港を飛び立つときに開いたところから100ページ以上も進む。
今朝こそ「とてもではないが泳ぐ気はしない」と感じた気温だが、その後は30℃ちかくまで上がったのではないか。パラソルの下にいる限り風は暖かく、しごく心地よい。ときおりはサイドテーブルに本を置き、腹ごなしに泳ぐことを繰り返す。
静かさ暖かさ安楽さに身を任せ、バーからスムージーなどを取り寄せつつプールサイドには結局、3時間もいた。まさにリゾート、である。
大昔にカトマンドゥで借りた自転車は中国製の重いものだったが、若かったこともあるだろう、1日に数十キロを走って疲れることはなかった。ところが今日の午前の自転車は前傾姿勢を保たねばならないせいか、ひどく体力を消耗させるような代物だった。よって午後は「ママの自転車」風のピンク色の1台を選ぶ。
おかずメシ屋「シークラン」の、僕が愛して止まないキャベツの煮込みには残念ながら、いつもの皮付き豚三枚肉が入っていなかった。チェンライのメシ屋には今回、精進をあらわす「齋」の文字をあしらった簡易看板が目立つ。ことによると今は、仏教に関する「精進旬間」のようなものの最中にあるのかも知れない。
木造の古建築を改装した店舗の目立つタナライ通りは、またゆっくりと来たいところだ。"BAAN KHUN YOM HOTEL"は、街なかにありながらバンガロー形式が面白い。旧空港に通じるサナビーン通りにクイティオナムトックの店を見つけて興味をそそられるが、これを食べては晩飯に差し支える。
イスラム寺院脇のトライラット通りを抜け、ルアンナコン通りに入るころには、日差しは既に夕刻のそれになっていた。次男への土産であるインスタントラーメンと茶葉をセブンイレブンで買い、ホテルに戻る。自転車による本日の走行合計距離は13キロくらいにはなったかも知れない。
晩飯を食べてホテルに戻ったのが19時30分。その後の記憶はあまりない。
成田空港の上空は曇り。"TG643"は定刻より18分遅れて12:18に離陸をした。これは、次男と利用した昨月22日の同じ便と寸分違わない時間である。タイ航空の"Boeing 777-200"は、これまた前回と同じくバックレストにディスプレイを備えないが別段、不自由はない。
近藤紘一の、南の国へ行くときには必ず持参する「目撃者」の「ヘッドライン 1981年 バンコク」に含まれる「ブレム首相が全土掌握」と見出しを付けられた記事中の
「国王の権威が国民全体に見えない一体感をもたらし、それがこの国の『強さ』の源泉となっていることは否定できない。だが同時に…後略…」
の下りは見事に30年後つまり現在のタイを予見している。あるいはこれは近藤によらなくても、歴史を学んだ者にとっては外れようのない未来予測だったかも知れない。
僕は飛行機においては最後尾にちかい、席もまばらになったあたりの窓際が好きだ。しかし本日のこの便は満席、しかも僕のチェックインが遅かったため、横に3、3、3と並ぶ席の、こともあろうに真ん真ん中に押し込められてしまった。そこからたまに抜けだし非常口の小窓から外を眺めても、眼下には厚い雲が広がるばかりだ。
日本時間18:12、タイ時間16:12に機はスワンナプーム空港に着陸。バンコクの天気は曇り、気温は30℃。まさに「夏を追いかけて」の旅である。
国内線に乗り換える旅客のためのイミグレーションは前回、大量の乗客に対して2名の係官しかいず、狭苦しいところに長蛇の列ができた。ところが今日の乗客のほぼ全員はバンコクまでの利用らしく、また係官は5名も待機していたから即、タイ入国を果たす。
市中のメシ屋であれば、おかず2品にスープとメシを摂っても請求されない100バーツ、つまり邦貨にして250円の馬鹿高いアメリカーノを飲みつつしばし手足を伸ばしてから目と鼻の先の、チェンライ行きのゲートに進む。
"TG140"の"Airbus A300-600"は日本時間20:43、タイ時間18:43にスワンナプーム空港を離陸し、日本時間21:46、タイ時間19:46に、30日ぶりのチェンライ空港に着陸した。子供と一緒のときには質素を旨とするがひとりであれば遠慮はしない、いつもの"Dusit Island Resort Chiangrai"に入り、10分後に外に出る。そしてクルマで市中心を目指す。
雨に祟られた先月とは異なり、ナイトバザールの露店も、またそこに隣接するフードコートの客も、今日は随分と多い。伝統舞踊やフォークソングの披露されるステージに向かって右奥から11軒目、壁に"69"の文字の目立つ店のチムジュムは香草また香草の波状攻撃にて、香り野菜の苦手な人は即死しかねないタイの味である。
ホテルには22時30分に戻った。そして"wifi"の"voucher"をフロントで買い、しばしツイッター活動をする。そして入浴して日本時間02:00、タイ時間00:00に就寝する。
日光はもはや、シャワーだけでは済まされない、風呂桶に湯を張ってからだを暖めなければ風邪をひきそうな涼しさになった。昨夜は入浴をしたものの居間でブラウジングをするうち足下から体幹部まで寒さがしのび上がり、よってふたたび湯に浸かり直した。
今朝は5時に目を覚まし、晴れた空が夜にちかいところから朝にちかづくまでを、熱いお茶を飲みながら眺めていた。それでも時間をもてあまし、自分の服の一部を仕舞ってある、風変わりな壁のへこみのふすまを開けると、似たようなシャツが3枚も見つかって、人間の購買行動について深く考えたつもりになったりする。
下今市駅18:52発の上り特急スペーシアに乗る。
おととい銀座に出た折、数寄屋橋ちかくの「マツモトキヨシ」正面の太い街路樹が、その中程から大きく裂けている様子を見た。家内によれば、それは台風15号の強雨強風によるものとのことだった。そして今夜は銀座まで足を延ばすなどはせず、北千住で小酌を為す。
明朝は湯島、西日暮里、日暮里、成田空港と鉄路をたどり、正午発のタイ航空機に乗る。チェンライのホテルには"wifi"があるから"gmail"の巡回とツイートくらいはできるだろう。タイのホテルの"wifi"使用料は時間あたり200から250バーツ。カンボジアの同2ドル、ヴェトナムの基本無料にくらべると、ちと高い。
朝早くに家内と甘木庵を出て東海道線で鎌倉へ向かう。先月13日に亡くなった伯母の遺骨、白木の位牌、写真そして家内の実家の家族と共に、今度はクルマで東京に引き返す。
麻布の山の上の禅寺で、伯母の四十九日の法要に連なる。「お盆に亡くなった人の四十九日は、お彼岸のころに来るのか」と、これまで考えもしなかった、しかし当たり前のことに気づく。雲と雲のあいだに青い空が見える。スーツを着ていても汗はかかない。
昼食の会を催した「高輪プリンスホテル」の庭には、いまだ蝉が鳴いていた。しかし暑さ寒さも彼岸まで。「東京でも、もう半袖は無理かなぁ」という今日の寂しさである。
浅草駅16:00発の特急に間に合い、就業時間中に帰社する。そして夕食は摂らず、早々に就寝する。
旅行の荷物は8グループに区分けしてコンピュータに保存してある。持ち物の総数は100以上に及ぶ。それらすべてを旅先に持参するわけではない。来週はじめから行くタイの場合には、レインコートやシュラフ、蚊取り線香や虫除けスプレー、ヘッドランプや手袋、洗剤や洗濯用ロープなどは持たない。
そしてコンピュータからプリントアウトしたA4の紙3枚を赤いボールペンでチェックしつつ、100には達しないものの100ちかくの品をトランクに入れていく。一体全体100もの持ち物は何かと問われれば、消化薬、解熱剤、リップクリーム、歯ブラシ、歯磨きペースト、バンドエイド、うがい薬と、薬箱の中身だけでも10数品にはなってしまうのだ。
荷造りについては夜間にすこしずつ作業をし、きのうようやく完了した。あとは空港宅配の業者にこれを手渡すまでだ。そういう次第にて朝、これを居間から事務室へ下ろし、邪魔にならないところに安置をする。
荷造りが済んでしまったということは、旅の楽しみの最初の部分が早くも終わってしまったということだ。谷口正彦の「冒険準備学入門」を読むまでもなく、旅の楽しみの多くは、その準備段階にある。
朝、日光には台風一過の空が広がった。これからしばらくのあいだ日本列島は快晴続きだ、と思った。ところが時間が経つに連れ雲は広がりあたりは暗くなり、午後には土砂降りになる。
その土砂降りをはじめは夕立と勘違いし「15分もすれば収まるだろう」と決めつけていたが、いつまでも止む気配はない。今日は所用にて、14時12分発の東武日光線上り快速に乗る必要があった。駅には自転車で行こうと決めていた。しかしこの強雨に自転車は無理だ。
クルマで送ってもらった下今市駅のプラットフォームにベルが鳴る。「こんな雨の中を、良くもまぁ定刻に発車できたものだ」と感心をする。列車が日光街道をまたいで田園地帯に入ると、田んぼを縫って蛇行する川には恐ろしいほどの濁流が泡立っている。
今年は、しその実こそ昨年に増して買い入れることができたが、茗荷についてはさっぱりだった。来年は十全な買い入れができるよう、今から段取りをしておこうと思う。
町内の飲み会から帰り、翌朝、デジタルカメラのデータをコンピュータに移すと僕の、口を開けて寝ている画像があったりする。早寝早起きだから夜には弱い。夜の飲み会では、その途中で畳に横になってしまうことがままある。
自分が発言などしなくても「ひとこと言いたい」面々の会場に多く存在する総会などでも寝てしまうことが少なくない。膝の上の書類を床に落とし、その音に驚いて目を覚ましたりする。
その名は忘れたが大阪の古刹に参禅をしたときには、座禅のひと単位は何分になるのだろう、その時間内に例の棒というか板というか、それで2度も背中を叩かれた。座禅の最中に眠って叩かれ、ふたたび眠ってまた叩かれた、というわけだ。
日本酒に特化した飲み会「本酒会」の今月の例会はウチの隠居で月見をかねて、ということだったが台風15号の風雨は半端なものでなく、会場まで酒や料理を運ぶことができない。よって急遽、会場を事務室に移し、19時30分に会を始める。
本日は10名が出席の予定だったが、そのうち消防団員の3名は大雨に伴う見回りに出動し、今月の「本酒会」は結果として小ぢんまりした集まりになった。
会場が自社ともなれば、どこかの総会や参禅会とは違って眠るわけにはいかない。会員の引き取った22時以降に仕出し弁当の箱を捨てたり、あるいはアルコールをテーブルに噴霧して拭き清めたりする。
そしてその後もあれやこれやして0時30分に就寝する。
銀行から僕に宛てて届いたハガキの、個人情報保護のため糊付けされた部分を剥がすと、それは定期預金の満期が近づいているという報せだった。
僕あてとはいえこれは個人のものではないだろう、ボランティアで会計係を務めている団体の、イベントあるいは万一の事態に備えた預金に違いないと考えつつ、それにしてはハガキにその団体名がない。
この預金は誰のものかと、折良く来社した銀行員にそのハガキを見せて問えば、これは上澤卓哉個人のものに他ならないと言う。
「なぜいつもこれほど金がないのか」と日記に書いたのは今月13日のことだ。それから僅々1週間後の思わぬ慶事である。「しかし」と僕は考える。
メルセデスにもフェラーリにも興味はない。パティックフィリップ、バセロン、ブレゲの類いにも興味はない。書画骨董は好きであっても高いものは買わない。バッグなどは次々とウェブショップに注文しながら届けば気に入らず、社員にやってしまったりするが、いずれ大した値段のものではない。
それではなぜ僕はいつも空の財布を逆さに振ってピーピーしているか、それは、形のないものに金を遣ってしまうからに他ならない。
そして「現金にしたら一瞬で消えますからね、そのまま入れときます」と、銀行員には伝えておく。
先月のお盆の時期に次男を、ふたつ上級のイワシゲジュンノスケ君が訪ねてくれた。翌朝、東照宮に向かおうとしているイワシゲ君が肩から提げていたのは"FREITAG"の"HAWAII FIVE-0"だったから思わず「旅行でマメに使うもの入れるのに、それはホントにちょうど良いよね」と声をかけた。
僕は、メシなど日記用の画像は"RICOH CX4"で撮る。しかしゲージツ写真は同じリコーでも"GRD"で撮る。これら2台のカメラ、メモ帳、ボールペン、文庫本、メガネ、サイフ、携帯電話を入れて、"HAWAII FIVE-0"はゆるくもきつくもない。また、無理をすれば500mlのペットボトルも、ここに追加で入れられるかも知れない。
"HAWAII FIVE-0"の、ふたを留めているマジックテープの粘着力は強すぎず、その内側の貴重品入れについても、ジッパーは軽く開閉する。本体内部には、僕の嫌いな仕切りが最低限しか無く、だからこのショルダーバッグは今のところ、僕にとっての最強の旅行用手荷物入れである。
今の為替の状況なら、これを日本で買う手は無い。僕は昨年のちょうど今ごろチューリッヒの"FREITAG"に"HAWAII FIVE-0"を注文し、それは5日後に配達をされた。今月、東京のあるウェブショップに注文したCDが出荷の8日後にようやく届けられたことを考えれば、チューリッヒから日光まで5日の納期は驚異的な高速度である。
日光にはいまだ夏の日差しがある。「涼味在中」と墨書した白麻の暖簾は、いつ焦げ茶色の三季用のそれに掛けかえるべきか。「暑さ寒さも彼岸まで」であれば、いずれこの1週間か10日のうちがその時期になるのだろう。
きのうからテレビに不具合が出ている。見えていた画面がフワーッと消え音声も途切れ、時には電源まで落ちてしまう。放っておくと元に戻るが、しばらくするとまた消える。よって夜は録り溜めておいた「酒場放浪記」を観る。
案内役の吉田類は、いつも黒系の服を着ている。シャツは常に、上半身の筋肉にぴっちりと張り付いている。スカーフやセーターにはラメ入りの素材が目立つ。常連たちと言葉を交わし杯を交わし、上機嫌で店を出た吉田の今夜のパーカは見る角度により、波にもまれる夜光虫のように時折、光る。
そして「ラメを用いた衣料品に特化したウェブショップを作れば案外、流行るのではないか」というようなことを考える。
きのうは20時30分に就寝した。今朝は午前1時30分に目が覚めて、以降は日が昇るまで眠れない。夜更かしのあまり昼夜の逆転する人がいる。僕はどちらかといえば早寝のあまり、昼と夜とが逆転している。
しその実の買い入れの繁忙により中止をしていた「たまり浅漬け」の製造を今日より始める。そのための材料を農協まで買いに行く。夏野菜から秋野菜への移り変わりは、今年はいつごろ見ることができるのだろう。
夕刻ちかく、東の空に入道雲が立ち現れては消え、するとどちらからともなくまた次の入道雲が湧き上がる。気温は高く湿度も高く、空にツバメの飛ばないことが不思議に思える陽気である。
22時ごろに長男が帰宅をする。そして勤務先から打診されたという、海外駐在についての相談を受ける。家内が気持ちを訊けば「自分としては行きたいよ」と言う。であれば命と健康を大切にしながら職務を遂行するまでのことだろう。
長男と話すうち午前2時になる。24時間以上を起きているとは、そうないことだ。シャワーは夕刻に浴びていた。よって即、寝室に入ってベッドに横になる。
ちょうど1年ほど前のこと、バンコクからチェンマイまで飛んだタイ航空機内に、僕はメガネを置き忘れた。親切なタイ人、機転の利くタイ人、職務に忠実なタイ人たちのお陰でメガネはその晩のうちに僕の手に戻ったが、以降、機内へ持ち込む荷物の整理整頓については、ちと神経質になっている。
20代のころは数十日にわたる旅行でもデイパック、あるいはサブアタックザックに収まる量に持ち物を制限した。しかし55歳ともなれば、どこへ行くにもTシャツ半ズボンそしてジョギングシューズというわけにはいかない。
このところは、機内預けには"Zero Halliburton"のスーツケースを、そして機内持ち込みには"Gregory"のデイパックを使っている。このデイパックの中身に統制を加えることにより持ち物の紛失を避けようというのが、昨秋からの僕に課せられたひとつの命題である。
"Thai"と表紙に書かれた"Campus"の5号ノートを開き、後ろの1ページに大きな楕円を描く。この楕円はすなわちデイパックを表す。大きな楕円の中には小さな円や矩形を描く。これはすなわちスタッフバッグのたぐいを表す。そしてその小さな円や矩形の中には更に、グループ分けした持ち物を書き入れていく。
1.パスポート、航空券、入出国カード、日本円の財布、現地通貨の財布、携帯電話
2.メモ帳、ペン、カメラ、メガネ、常備薬
3.コンピュータ、通信端末
4.本
5.ゴム草履
つまりデイパックを開けばそこに5つの袋が入っていて、上記がきちんと区分けされた状態を保ちましょう、というわけだ。特にメガネを含む2.については、その中身を箇条書きしたシールまで貼った。僕はこれら5つの袋の集合体に「五大陸」と名を付けた。「ゴム草履のどこが大陸か」と問われても困る。とにかく整理整頓、である。
次男が小学生のころテニス部の大会に付き添うと、夕刻ちかく、成績優秀者を表彰するときに至って表彰状を手渡す係の、たとえば大会委員長などは大抵「皆さん、とても立派なお名前をお持ちですので、名字のみ読み上げさせていただきます」と前置きを述べるのが常だった。
立派な名前を持った子供を表彰するに当たっては名字のみを読み上げる、訳の分からない理屈である。要は、今の子供の漢字による名前は、もはや老人にちかい年齢の日本人にさえ読めない例が多い、ということだ。
昨年から今年にかけて、ウチでは4人の社員が結婚をした。そのうちの2組には、めでたいことに今年中に子供が生まれる。そして僕は彼らに「暴走族のティーム名みたいな名前はつけない方が良いよ」と助言をする。
僕よりもずっと年長の人たちが壮年期に"gorgeous"を目指したとき、それはたとえば薪をガスストーブに置き換えた疑似暖炉やホームバー、あるいは狭い部屋にロココ調の家具を詰め込むといった、無理な形による欧米の真似として具現化された。
そして僕より若い年代の人たちが"luxury"を目指した場合には、決して低くない確率を以てヤンキー系に行き着く。スワロフスキをちりばめたホイールの、一体全体どこが"deluxe"なのか。
というわけで、日本人が上質を目指すなら伝統に回帰するのが一番と考える今日このごろ、だわな。
店舗正面右側の季節の書は「萬緑」から「秋惜」に変わった。本来であればこれらのあいだに「鬼灯」が入る。「何かと忙しくて」とは言い訳だが、今夏はそれができなかった。
秋惜しむ、とはいえ気温は高く、青く光る空にはいまだ入道雲がある。
午後の工場内で、しその実をカゴから洗浄槽へ移しつつ「これは良いね」と、製造係のアオキフミオさんが言う。「あぁ、それは」と、僕はそのしその実を持ってきてくれた人の名と、その人の畑の場所をアオキさんに告げる。まぁ「ジャングロのリシュブールです」というようなものだ。
夕刻に駐車場を見回ると、70歳以上の人がクルマを運転するときにはこれを車両に添付することが望ましとされる、四つ葉のマークが落ちている。いずれ、しその実を納めに来た農家の軽トラックから剥がれ落ちたものだろう。
落とし主が見つからないときには、これを銀座の8丁目あたりに持参して、黒塗りの"Maybach"にでもこっそり貼ってやろうと思う。
啄木並みとまでは言わないが、なぜいつもいつもこれほど金がないのかと不思議に思う。貧乏神でも憑いているのではないか、とすればこれを払うにはまじないくらいしかないのではないか、と思う。
随分とむかしのことになるが、四つ折りにした紙幣を小さな財布から取り出したところ「そういうお財布は、風水からすると良くないのよ」と言われたことがある。
「稼ぐ人はなぜ、長財布を使うのか?」という本には現在、"amazon"で96のカスタマーレビューが付けられている。つい先日は、今年の初夏から自社の製品を売りに売ったという人と食事をする機会があり、そしてこの人は、型押しではあろうけれど、鰐皮模様の黒い長財布を持っていた。
「だったらオレも、長財布さえ使えば金が稼げるのだろうか」と検索エンジンに当たり、あれこれ探してみたが、食指の延びるものはひとつもなかった。
長財布には収納のための細工を凝らしたものが多く、これが先ず気に入らない。一体全体「12枚のカード」など持つ人がいるのだろうか。中には簡素な作りのものもあるが、その場合には硬貨用の財布を別に持つ必要があり、それは面倒だ。
長財布を持つ人がお金を出す際には大抵、財布を立てて手帳のように開く。そしてその姿はひどく爺くさい。もっとも「小さな財布から硬貨をつまみ出すおまえの姿は、ひどく貧乏くさいぞ」と言われれば返す言葉もない。しかしながら、である。
尻のポケットから長財布をはみ出させている姿は見た目に美しくくない。内ポケットに長財布を入れるためにわざわざ上着を着たり、長財布を格納するためにわざわざバッグを持つなどは絶対矛盾的自己撞着である。そして「やっぱりオレに長財布は無理だ」という結論に今回も達する。
その納入者をコンピュータのデータベースに登録しはじめた1993年から名簿に名前のあるフクダトシコさんが今朝、しその実を持ってきながら「これ、珍しいでしょ」と、葉にまだら模様のあるススキをくれた。よってこれを即、好きな青銅製の花瓶に生け、店舗の飾り棚に置く。
そして「富士山には月見草はよく似合うらしいが、ススキも中々ではないか」と考える。なぜここに富士山を持ち出すかといえば、飾り棚の壁には今井アレクサンドルによる富士山の絵があるからで、しかしその絵も含めた写真を撮らないのは、僕の怠慢による。
子供のころ、十五夜にはおばあちゃんが必ず、庭に面した廊下というかサンルームというか、そこに小机を出して団子とススキを飾った。しかしその後、この行事は年により、したりしなかったりして今に至っている。今年はフクダさんにススキをもらったことを奇貨として、それのみで十五夜の飾りは良しとする。
夜になって家内が「良い月が出ている」と言うが当方は酔っていて窓辺に寄る気もしない。そして早寝をする。
青い空と白い入道雲が戻ってきて嬉しい限りだ。しかしすべての人が喜んでいるわけでは勿論ない。
しその実を持ってくる農家の人に「まーったく暑くてたまんねぇ」とぼやく例が少なくない。もっとも「雨だーつっちゃぁ愚痴を言い、晴れたらこんだぁ暑ちいって文句を言い、まったく人間っちゃ勝手なもんだわな」と、苦笑いをする人も中にはいる。
からだのあちらこちらに疲れ、あるいは痛みがある。「ふくらはぎの内側を指で押して痛みを感じるのは、足首の運動が不足して血流が滞っているから」とは先日、整体の"mana"で言われたことだ。足首をどれほど回せば運動が足りるのか、それは実際に回してみなければ分からない。
タイの古式マッサージは、時間の7割を脚への施術に割く。僕がタイへ行きながらこれを受けずに帰ることが多いのは、"mana"の先生の指圧の方がよほど効くからである。
夜に居間の畳に座り、右手の窓から南西の空を見上げれば、随分と丸く大きな月が上っている。虫の声は随分と静かになった。そしてベッドの脇に扇風機を運ぶ。
農家の人たちからしその実を夢中で買っていると、しその実を入れてきた米袋にでもたかっていたのだろう、緑色の芋虫が僕の腕に移って、更にどこかへ行こうとしていたりする。そのような時には、僕はその芋虫を、まるでまれ人のように愛で、そして飽きれば坪庭の緑の陰にぽとりと落とす。この先、その芋虫が成虫になるかどうかは知らない。
しその実の買い入れは15時で締める。僕はシャワーを浴び、汗を流す。そして扇風機を回してしばらく休む。
そういうときにふとYahooオークションを訪ねてみれば、四半世紀ほども前に買い、手持ちのアロハの中ではもっとも気楽に使っている僕のパタロハとおなじ"BLACK BANANA"が2着、それぞれ38,000円と53,000円の即決価格を付けられている。そして「モノの値段なんてもなぁ、どこでどうなるか分かったもんじゃねぇなぁ」と呆れる。
僕のパタロハは「かえって風が入って気持ちいいや」と、第2ボタンの外れたまま何年もそのまま着続けている。裾のスペアボタンを付け替えれば、これもやはりそれくらいの値段で売れるのだろうか。馬鹿みたいなはなしである。
「しその実の手当てが忙しくて今月はどこにも行けねぇから、年初来一番の、金を使わずに済んだ月になるかも知れねぇな」と夜に考えつつ居間でコンピュータをインターネットに繋ぎ、なぜか新しいアロハ2着を買ってしまう。
「ご趣味は」と訊かれるようなことがあれば、しばらくは「はい、プティトマトの栽培です」と答えようかと思う…と日記に書いたのは6月14日のことだ。そのプティトマトには毎朝、会社の駐車場の掃除を終えたところで水遣りをしている。
それから3ヶ月を経て当該のトマトはどうなったかといえば、枯れた葉を剪定した数日前よりにわかに実を膨らませ、、それら大小の入り交じった様子は鶏の腹中にある卵を思わせる。
それにしてもこのトマトは赤くならない種類なのだろうか、黄色く甘く香りの強い実はこれまでに3個を食べた。葉をほとんど無くしたこれからも、更に実を大きくしていくのかどうかについては分からない。
月曜日からきのうまでに買い入れたしその実の累計量は、昨年の同期間にくらべて63パーセントの増となった。会社の粗利総額も、それくらい伸びて欲しいものだと思う。しその実の買い入れは今日も明日も、そして来週も続く。
朝飯は食べたが、午前10時には早くも腹を空かしている。そしてユミテマサミさんからもらったスイカを、外へ出てしその実買い入れ用のカゴの脇で食べる。昼にステーキを食べたにも関わらず、夕刻17時には空腹を覚えている。
深夜、というか正確には9月10日の午前3時に目を覚ますと、前夜に飯を食べたはずが、またまた腹が減っている。好きなだけ食べても太らないのは、食べたものがすぐにどこかへ消えてしまう体質によるものかも知れない。
教科書、筆記用具、定期乗車券のみを持って学校へ行くことが学生のころにはままあった。昼飯は学校で用意されるから、財布を持つ必要はないのだ。携帯品を最少に保つ癖が僕にはある。
17時30分から18時30分のあいだに所用が発生した。ウチの閉店時間は18時である。よって会社の施錠を事務係のコマバカナエさんに頼む。
空が暗くなってからホンダフィットで帰社して悪い予感を覚える。案の定"ISKA"の信玄袋に玄関の鍵は入っていなかった。携帯電話はあっても、家の中には誰もいない。幸いなことに財布は持っていた。よって徒歩にて小倉町のセブンイレブンへ行く。活字を欠いてはひとり酒のできない質にて週刊誌を買う。
小料理の「和光」の戸を開けると、カウンターにはこの店の常連のうち今夜は4人が座っていたから、結論からいえば週刊誌は必要なかった。
僕は長時間の飲酒をしない。ハシゴもしない。日光街道を徒歩で遡上し、20時すぎには家に着いてしまう。これまた所用で神奈川県まで出かけた家内の帰る気配はいまだない。仕方なしにホンダフィットに乗り込み、窓を開け、靴下を脱ぎ、椅子の背を倒して安楽な姿勢をとる。
そしてそのまま寝入り、23時になってようやく家内に発見をされる。
空は快晴にちかく、日光の山々の頂上にのみ、すこし雲がかかっている。「久方の」の枕詞さえ浮かぶ、今朝の明るさである。「秋はこうじゃなくちゃなぁ」と思う。とはいえ「まだ夏のままでも良いんだぜ」とも僕は言いたい。
この時期の製造現場には、しその実と同時に茗荷も納入される。これらの下処理により現場の手の足りなくなることを予想して、他の部署からの応援については、既に段取りがされている。コンピュータの初期設定と同じく、食べ物の下処理も、入念な考えと手順に拠らなくてはならない。
先月に続いて今月下旬にもタイへ行くなら、年末のダイレクトメール用の挨拶文は、今月中に納品されるよう準備を整えてくれと、事務係のタカハシカナエさんに言われる。僕は発破をかけられなくては動かない人間である。その文章を夕刻までに完成させ、成文社印刷にメールで送る。
頸椎のふたつばかりが右にずれたような感覚が今朝よりあり、首の、左右への動きが狭い角度に限られてしまっている。「整体しねぇと無理だな」「床屋にも行かねぇとな」「手入れに来いって歯医者からハガキが届いてから、そろそろ2ヶ月くらい経つんじゃねぇか」「自動車運転免許証の更新もしなくちゃよー」と、メモ代わりに日記に書き付ける。
近畿地方に甚大な被害を与えた台風12号はようやく去り、またその後に続いた13号も、北海道の近海に消えた。空は晴れ、気温は上がり続けている。
東は宇都宮の手前、西は日光の手前、南は鹿沼の手前、北は鬼怒川の手前から、しその実は順調に集まっている。世間話の嫌いでない僕は、農家の人たちとあれこれ話し、笑い、のどを渇かせてちかくの自動販売機に冷たいお茶を買いに行く。
刺身のつまの穂紫蘇を思い浮かべて欲しい。茎から実を指でしごき取ることを飽かずに続け、それを10キロ、20キロの量にして米袋で納品する農家の老人を、僕は畏敬しないわけにはいかない。タイ北部の山中で、赤土の尾根一面に陸稲を植え、トウモロコシを育てて黙々と動いていた農民しかり。労働は、原初のそれに近づくほど尊さを増すような気がする。
「まるで夏に戻ったようだ」と、青い空や、そこに湧き上がる白い雲を見て僕は喜ぶ。しその実の収穫は、いまだ始まったばかりだ。
きのう21時30分に就寝をしたお陰か、今朝は4時30分に目を覚ます。きのうそれを読みながら眠り、ベッド下に落としたままだった本を拾い上げる。そしてその続きを読む。
たまり漬をふりかけのように刻んだ試作品を納豆に混ぜ、それをメシに載せて口へ運びながら「これ、かなり美味いよな」と言うと「美味しいわよ、だから私、このところパンは控えて、ごはんばっかり食べているじゃない」と家内が返す。そして、いま冷蔵庫で熟成中の販売用の品は、この試作品をかなりの水準で超えて美味くなることを僕は知っている。
その、たまり漬によるふりかけにも用いられているしその実の、近郷の農家からの購入を今朝より始める。半世紀前から今に至るまで、しその香りはずっと、僕にとっての夏の終わり、秋の初めの風物詩だ。本日は昨年の初日にくらべて23パーセントも多い量が集まった。9月はこのしその実に平行して茗荷の買い入れも行う。
夜、吉田類の「酒場放浪記」に、所沢の「百味」という店が紹介される。「はて、オレが自由学園に通っているころ、茹でた豚足が30円だった飲み屋とおなじ名前だ」と注視していると、やがてオヤジだか店の人が出てきて、以前はひばりヶ丘で商売をしていたと語ったから「やっぱり」と腑に落ちる。
「百味」の店名は、1日100人のお客に店の味を味わってもらえるよう願って付けたという。現在の「百味」は僕の知るころの数十倍の面積になっていて「大したものだなぁ」と感心をする。しかし所沢では、僕は飲みには行けない。
更に夜、「淑樺的台灣歌」を聴く。そして午前0時に就寝する。
ひと昔より更に3年を遡る1998年、僕はこの「清閑PERSONAL」に「小遣い帳のススメ」という文章を載せた。
僕の普段の小遣い帳は、予算はおろか前月繰り越しも今月入金も、また次月繰り越しもない、ただ「使ったお金の記録」で、そう大したものでもない。しかし海外で記帳するそれには前回の繰越金も今回の両替分も、また次回への繰越金も含まれるから、国内仕様より幾分かは高級である。
小遣い帳は、コンピュータに自作したものを使う。数字と必要事項を入力し、キーボードに"RUN"と打ち込んでエンターキーを2回叩けば現在残高が算出される。そして先月下旬のタイへの旅行においては、帳面上の残高と現金残高とのあいだに18バーツの差額が発生した。
8月27日の15時すこし前、チェンライ空港の両替所では1万円が3,830バーツだった。同日の22時ごろ、バンコクのスワンナプーム空港では1万円が3,690円まで落ちていた。夕飯を前にして、僕がタニヤの酒屋で日本円少々をタイバーツに替えたときには、1万円は3,885バーツだった。
とにかく18バーツは邦貨にして約50円。この使途不明金がいつ、どこで発生したかについては、いまだにナゾのままである。
ここ数日のテレビの話題は、もっぱら台風12号についてのものだ。既に死者まで出しているこの台風の接近に伴い、ある自治体などは万単位の住民に避難勧告を発令したという。製造係タカハシアキヒコ君と事務係コマバカナエさんの結婚式に日を合わせたような荒れ模様に、僕はきのうから用意した靴を別のものへと替えた。
そうして時には雨の激しく打ち付ける中をクルマに乗り、宇都宮の結婚式場まで移動をする。と、なぜか雲間から青空が顔を出し、日差しまで漏れ始めたから「不思議なこともあるものだなぁ」と、そのまぶしさに目を細くする。
キリスト教による結婚式に引き続き、披露宴会場に入る。席に着き、乾杯の前の白ワイン飲むうち早くも、祝辞を述べる者としての指名を司会のオネーサンより受ける。そのお祝いの言葉を完了させ「日光MG」直前からの、精神の重石をすべて下ろす。
新郎や新婦の友人たちによる挨拶、歌、出しものを見聞きしていて、また会場の雰囲気に身をひたしているうち「ほとんどすべての人は、オレよりもちゃんとしてるよなぁ」という実感が沸々と湧いてくる。
会場の、庭に面した大きな窓からカーテンが取り払われると、三日月から3日を経た月が空に出ていた。その空に向けて幾発もの花火が打ち上げられる。ほとんどすべての人は僕よりもちゃんとしているわけだから、タカハシアキヒコ君とコマバカナエさんの今後にも、僕は何の心配もしていない。
社員のほとんどが本日の結婚式に招待をされていたため、長男はその穴埋めとして店に呼び戻されていた。帰宅後、その長男が先般、中国へ出張をした際の写真を見せてもらう。そしてあらためてシャンペンを抜く。
この日記はクラウドではない。サーヴァのセキュリティは強固で、登録してある以外のアドレスから更新しようとしても、それはできない。よって海外にいるあいだはもっぱらローカルつまり自分のコンピュータに日記をため込み、帰国してから徐々にサーヴァへ上げていくことになる。
タイから帰って後はかなりの繁忙にて、8月30日以降の日記はまったく書いていなかった。それを今日は仕事の合間を縫って書き続け、ようやくきのうの分までを完成させる。
今日のメニュにはどう考えても白ワインだろう。しかし僕のワイン蔵には現在、白ワインの在庫がない。シャンペンならあるが、現在の体調を鑑みれば、ちと避けたい気分だ。よってお盆に開栓して以降は低温に保ってきたどぶろくを食卓へと運ぶ。
そしてこのどぶろくを飲みながら「タイの料理屋には、酒類の持ち込み料を請求しない例が少なくない」という、先日コモトリ君に教えてもらったことを思い出す。そして「今は白ワインの手持ちがねぇから、成田あたりで買っていこうかな」と考える。
問題は、バンコクでチェンライ行きの飛行機に乗り換える際の、係官の対応である。「100ミリリットルを越える液体はすべて、こちらのゴミ箱にお願いします」などと言われたら元も子もない。昨年、成田空港の免税店のオネーサンに確認をしたところ「航空会社の規則は予告なし変更されることもございますし」と言葉を濁した。
「だったらウチを出るときからシャンペンをトランクに入れていくか」である。グラスまで持参するマメさは、さすがにないが。
「日光MG」に参加をし、後泊をしたイチカワアイさんには午前中よりウチの会社を見学していただき、昼前に東照宮の社務所まで道案内をする。きのうの夜の雨はそれほど強いものだったのだろうか、茶色く濁った大谷川の水量は怖くなるほど多く、そしてその流れは疾かった。
9月には、しその実と茗荷の買入れに、それらの下処理が重なる。しその実は日光近郷の農家から直接に仕入れるが、茗荷は青果業者が一気に納入をする。その青果業者には見本を持参してもらい、きのうまではマネジメントゲームをしていた製造係のフクダナオブミさんと検品をする。
自分の決めたことではあるが、先月は23日から27日まで次男とタイに行っていた。子供と一緒であればリゾートで安楽に過ごすなどはしたくないと、その行程には2泊3日のトレッキングを入れ、特にその1日目は運動量の多いものになった。
28日の早朝に帰国し、同日の午前中から仕事に復帰した。29日は翌日に研修を控えた西順一郎先生および参加者のひとりイチカワアイさんと戦場ヶ原を歩いた。そして翌30日から2日間は「日光MG」の主催者として、34名の研修に神経を注いだ。
指折り数えればたった9日間のことながら、これら日々は、僕にとっては中々タフなものだった。
僕は春夏秋冬に各1本ずつの葉巻を吸う。今年の1本目は、いまだ寒いころに吸った。そして2本目はきのうの夜に吸った。"Davidoff Mini Cigarillos"を根元まで吸ったせいか、本日は気分が優れない。痰が絡んで咳をするたび頭に響く。
午後に至ってビタミンB2、B6、C、それから「こんなの飲んでも大丈夫かよ」と思われる、ソウルのお土産屋で売っているような朝鮮人参エキスを飲む。取引先のお母さんのお通夜に夕刻より参列をする。そして夜は整体"mana"にてからだの凝りをほぐしてもらう。
帰宅して入浴はせず、飲酒もせず、画鋲と絆創膏を組み合わせたような置き鍼を腰と背中に大量に貼って、21時30分に就寝する。