台風は東の海上に去り、雲の隙間から日が差し始める。
税理士スズキトール先生の息子さんで弁護士のスズキハルキさんとカオリさんの結婚披露宴に呼ばれ、午後より宇都宮へ行く。宴がお開きになる直前の、新郎父の挨拶が始まる場面では「先生、血圧など上がりはしないだろうか」と案じたが、実に立派なもので「ホントは挨拶の上手な人だったんだなぁ」と、大いに胸をなで下ろした。
帰宅して本日の日本経済新聞第32面の「日本語の散歩道」を読む。書き手は外山滋比古。「日本語はたくさんの人称代名詞を持ちながら、日本人は主語の無い文章を平気で書く」ゆえに「日本語は悪魔のことばである」と断じた古今の外国人の例を挙げている。
しかし英語でも新聞の見出しでは、主語を省く例に頻繁に遭遇する。そして僕においては、前出の外国人が言うところの「悪魔のことば」を使う日本人でありながら、主語のない文章を書くにあたっては常に、ある種の気持ちの悪さを感じている。
それはどうも、1982年に南の国を歩きながら毎日4,000文字ほどの日記を書いていた、主語がなければどうにもならない英語を対外的には使いながら同時に日本語の日記を書いていた、そのときの経験によるものではないかと考えている。
あるいは文章とは、いつ、どこで、だれが、なにを、どのように行為したかを明確に説明するものでなくてはならないと、僕が信じているからかも知れない。
土曜日の夕方にはホンダフィットを納車できそうだと男体自動車から連絡があったのはきのうのことだった。折しも台風が接近中であり、「使い初めの日から濡れ鼠ってのもなぁ」と思わないでもなかった。しかし早いに越したことはない。結局は先方の言う納期で了承した。
その、ハイブリッドの白い新車は予想よりも早く、2時15分に届いた。混み合う店舗駐車場から工場脇の空き地まで移動させただけで、以前のフィットとはまったく異なる新しさに驚く。そしてウチの商品も、そうありたいものだと考える。
一旦は工場脇に格納したホンダフィットを夕刻、そろそろ空いてきた店舗の駐車場に移す。ボディの横腹に太ゴシックで入れたウチのurlは、いつまで綺麗に保たれるだろうか。
「今夜くらいは断酒をしなくてはマズイのではないか」とはきのうから考えていたことだが、晩飯のおかずを見てそれを撤回する。そして食後に生のジンを飲む。
秋晴れという言葉もあれば秋雨という言葉もある。そしてこの10月は後者が勝りすぎた。今朝は珍しく山々の向こうに青い空が見える。その西北西の空から東南東へ向けて広く鱗雲が伸びている。
結婚の決まった社員は自分の相手を連れて挨拶に来る、そのふたりに当方は夕食をご馳走する、そういうことがここしばらくの習いになっている。来月には販売係のツカグチミツエさんがいよいよ結婚をすることになり、婚約者のシバタさんと共に夕刻に来社をする。
当初は事務室にて挨拶を受けることにしていたが「話はメシを食いながらでもできる」と、フランス料理の"Finbec Naoto"に電話をして早く行ける旨を伝える。
「最近の若い者は」というような慣用句がある。しかしウチの会社の若い人やその婚約者に限っては、生活態度も見識も僕よりずっと上である。今夜もそのことを明瞭に感じて9時前に帰宅する。
「レンホーは小泉進次郎とあーだねーこーだねーやってる場合じゃねぇべ、まず中国さ行って『あんたら、ちっとは襟を正さないとマズイよ』と、ビシーッと言わねぇとさ、どう思う、ウワサワさん」と話を振られて「えぇ、そうですね」と答えたりする。
「これからはインドだぞ、俺たちはククハチジューイチまでしか計算できねぇべ、インド人はキュウジュウキュウカケルキュウジュウキュウまでできるんだぞ」と話が飛べば「たとえ酔っていなくても、その暗算はできねぇわな」と静かにしている。するとすかさず「キュウセンハッピャクイチかな」と答える異能の人がいる。
そしてそういう会話の為されているのは季節料理「和光」のカウンターで、どこからか聞こえてくるのは小林旭の「自動車ショー歌」だ。楽で楽で仕方がない。
ところでインド人と数学との関わりについて、その一端でも知りたければ藤原正彦の紀行文「心は孤独な数学者」を読むべきだ。これは心に染みる名著である。
帰宅して辺見庸の随筆「水の透視画法」を下野新聞紙上に読む。そして10時30分に就寝する。
今月6日に数寄屋橋の交差点で撮った画像が"iPhone"に残っている。その、秋の風情から一転してきのうの銀座はまるで冬模様だった。しかし冬とはそれほど甘いものではない、人々はこれから更に厚いコート、そして襟巻きや手袋によって着ぶくれていくのだ。
そういえばきのう銀座の2丁目で、クラスと排気量を示すバッジにクリスタルをちりばめたメルセデスを見た。あれはスワロフスキの仕事だったのだろうか、もうすこしよく観察しておけば良かった。
東京から帰る夕刻にはどこかでカウンター活動をすることが僕の楽しみだ。ところが本日は利き酒の「本酒会」があるため、北千住駅17:12発の下りに乗らなくてはならない。「それに乗り遅れたら遅刻だからな」と自らに言い聞かせて午後を過ごし、いざ北千住駅のプラットフォームに立って時計を見たら、いまだ午後の4時だった。
よって改札まで行って先ほどハンコを押してもらったばかりの特急券を駅員に示し、16:12発のものに変更してもらう。利根川を渡ると車窓の外は早くも真っ暗になった。冬至の待たれる今日この頃である。
下今市駅07:04発の上り特急スペーシアに乗る。発車して20分くらいは電波状況が良くない。よってインターネットへはアクセスせず、データベースを開く。するとその片隅に、ヴァラナシとマドリッドのゲストハウスの名が各々1軒ずつ保存してあった。
徐々に思い出してきたが、そのゲストハウスの名は昨夜、酔いながら書いたものだった。「また泊まりたいね」ではなく「今後、ああいうところだけは避けろ」という意味において書いた。酔って書いたものとはいえ間違った情報ではないので、そのまま取り置くことにする。
昼飯を食べるため神保町を歩きながら「まるで奥日光みてぇに寒みぃな」と感じる。午後には雨さえ降り始めた。「そろそろ燗酒じゃねぇの」と、仕事をしながら窓の外を眺めて余計なことを考える。
コンピュータの周辺機器に壊れたものがあったため、夕刻に有楽町のビックカメラへ行く。そこからガードをくぐり外堀通りを横断して物欲の殿堂"LEMON"に立ち寄る。1年ほど前に目を付けた古い時計がいまだ売れ残っている。「まるでオレに買ってくれって言ってるみてぇじゃねぇか」という幻聴のようなものは無視するに越したことはない。
夜になっても雨は止まない。そしてホワイトアスパラガスの網焼きなどを肴に、しかし燗酒ではなく焼酎のお湯割りを飲む。
朝の霧が深い。視界は恐らく100メートル、といったところだろう。「身捨つるほどの祖国はありや、だなぁ」と、独り言ではない、腹の中でのみそう言って、仏壇に水やお茶や花を上げる。
ちょっとした考えがあって日中に「プリン体の多い食品」とGoogleに入れてみる。「コレステロールの多い食品」とも、Googleに入れてみる。「やっぱりな」と思うものもあれば意外なものもある。目の前に出されれば食べる、という程度のものもあれば、大好物のものもある。
ある店で鮟鱇の肝を勧められて「そもそも僕の肝臓が、アン肝のようなものですからね」と、やんわり断ったことがある。よくよく考えてみれば、アン肝は別段、不健康な状態の肝臓ではない。しかし人間の肝臓を不健康にする役には立ちそうだ。
Googleで見つけた「コレステロールの多い食品」の一覧表では、皮蛋のコレステロールが卵黄の半分以下の数値で表されていた。夜はその皮蛋で焼酎のオンザロックスを飲む。同時に肴とした牛すじ煮込みにどれくらいのコレステロールが含まれていたかは知らない。
午前に町内大膳のシバザキさんが来る。屋台まつりの食事飲料費として、シバザキさんには前金を渡しておいた。その前金だけでは足りずにシバザキさんは一部を立て替え払いした。シバザキさんの購買活動の一切をコンピュータに入れ、自前のコマンドを打ち込むと、最下行の数字と現金残高は1円の狂いもなく一致した。
僕は1ヶ月に1度、利き酒の「本酒会」に出席をする。僕はこの会の書記を十数年ほども務めてきた。書記の仕事は例会の採点表をデータベース化し、またそれを含む会報を書いて会員に送ることだ。例会のための酒を注文する酒長が退会してからは、僕がその係を代行している。
これまで本酒会の会計係を勤めてきたオチアイさんが業務多忙のため、当面は出てこられないことになった。とすれば誰かが会計係を肩代わりしなくてはならない。比較的出席率の良い会員にイチモト会長が声をかけたところ、しかし誰も手を挙げない。
冒頭に書いたように、会計係など楽なものだ。誰も手を挙げないとは情けない。「楽だと言うならお前めぇがやれ」と言われればできないこともない。しかしそういう問題ではないだろう。「だったら今後はオレと会長のふたりで本酒会をやるか」という話である。
空は晴れた。朝、事務室のシャッターの開スイッチを押すと、徐々に差し込む光の向こうに二人分の靴、二人分の脚が見えてくる。その脚の持ち主は社員ではなく、お客様だった。この時期には、道路が渋滞する前に山へ上がって紅葉見物をしようする人が少なくない。そして開店までの45分間に10名のお客様の相手をする。
先週末の「今市屋台まつり」に巡行した町内の彫刻屋台はその後、市縁広場に安置してあった。今日はそれを解体して蔵に収める日だが、僕は店が忙しくてその手伝いができない。作業をする人たちの昼食は、婦人会の作るカレーライスだ。よって朝のうちに婦人会のタケダミッチャンの家に、そのカレーライスに添えるための、ウチの漬物を運ぶ。
ミッチャンの家とは目と鼻の先の市縁広場では、屋台の解体が既にして始まっていた。
日中、ご近所より野生のなめこをいただく。「うーん、これは今夜、スパゲティにしようか、それともやはり鍋だろうか」と考えて、今日は屋台が片付きしだい、公民館で直会の開かれることを思い出す。
屋台の片付けができなかったなら、せめて直会の片付けをしようと考え、夕刻に公民館へ行く。そして反省会の最後のところに参加をし、片付けを終えていまだ閉店前に帰社する。
来春の成田ホーチミンの往復航空券をネット上で、というか旅行社の人とメイルのやりとりをしながら買った。航空会社は当然ベトナムエアである。なぜ当然か。チャイナエアは台北を経由するから時間がかかる、全日空では往復共に発着時間に不満がある、それに加えて何より僕は、航空会社はこれから行く国のものを使いたい、そういう理由によるベトナムエアである。
それにしても便利な世の中になった。成田ホーチミンの航空券はおろかベトナムの国内線も、またミニホテル、バンガローのたぐいまですべてインターネットで調べ、予約ができてしまう。旅において「便利」は「つまらない」の同義語である。しかし今の僕には「帰国日? 特にありません」という時間の余裕はない。旅のほとんどをあらかじめ決めておかなくては出発ができないのだ。
深夜、ドンムアン空港からミニバスに乗り、マレーシアホテルなどですべての乗客が降りた後は助手席に移動する、そして嫌がる運転手をタバコで手なずけながらヤワラーに浸透していった30年ちかく前のことが懐かしい。
そして「オレも随分と堕落したなぁ」と思う。
からだのあれこれを調べるための採血を、数ヶ月置きに受けている。今日は初めての看護婦さんに当たった。当方は丸椅子に座り、クッション入りの黒い台に左腕を差し出す。
すると看護婦さんは僕の左腕の、肘の内側をこすりながら「血管、細いですかー」と訊く。「血管を探りながら何度も針を刺されちゃ堪らねぇ」と、僕は代わりに右腕を差し出す。すると看護婦さんは「右利きですかぁ? 右利きの方は大抵、右腕の方が血管は出やすいんですよねー」と、その腕の内側を先ほどと同じように摩擦し、上腕部をゴムバンドで締め上げた。
「ちょっとチクッとしますねー」
「あれ、ちょっとしか出てこないですねー」
「もうすこし奧まで入れますねー」
「うーん、なかなか出てこないですねー」
「痛くないですかー、すみませんねー」
「あ、青くなっちゃった」
針を刺された腕から目を逸らし、窓の向こうの空を眺めている僕に、この看護婦さんは親切心からなのだろう、静脈から血を抜き取る作業の実況中継をしてくれるから「頼むから黙ってやってくれー」と、僕は腹の中で絶叫する。
口の中にペンチやドリルを突っ込まれて道路工事まがいのことをされても平気な僕だが、とにかく血管への注射だけは怖くて不気味でダメなのだ。
そして朝飯を抜いたからだに糖分を補給するため、クリームパンとカフェオレを買って帰社する。
恵比寿講は農業、漁業、商業の家でそれぞれ五穀豊穣、豊漁、商売繁盛を祈念するお祭りで、通常は10月20日に行われる。ウチでは毎年、新暦と旧暦のどちらを採用するかを勘案する。そして今年は新暦を採ることとした。
家内はきのうより料理の用意を始め、本日は居間の床の間を整えた。終業後にその床の間に恵比寿大黒の軸を掛け、神棚から降ろした恵比寿大黒の像やお札、幣束を安置する。鏡餅や尾頭付きの鯛、そして毎年変わらないお膳を供え、灯明を上げれは準備は完了だ。床の間へ向かって正座をし、手を合わせる。
そして恵比寿大黒に供えたものと同じ食事を摂れば、これは多分、昔の人にとってのご馳走なのだろうけれど、現代人の僕にとっても美味い。
夜、ツイッター活動をしながら不意に、新しい商品についてのアイディアを思いつく。
タバコは春夏秋冬に1本ずつ、年に計4本を吸うことにしている。しかし今年はいまだ2本しか吸っていない。カンボジアへ行くときにもタイへ行くときにも細くて短い"Davidoff Mini Cigarillos"と太くて長い"Romeo y Julieta"を1本ずつ持参した。しかし南の国のどこにいても、それらに火を付けることはなかった。
タバコを吸うと、その翌日とか3日後にふたたびタバコが欲しくなる。しかしそこで吸えばニコチン中毒患者への坂道をまっしぐら、である。
タバコは1年に4本と決めて、しかしきっちり4本を吸う年は少ない。酒についてはそれほど禁欲的ではなく、できることなら毎日でも飲みたい。ところで明後日にはからだの具合を測るための採血があり、検査の項目にはγGTPも含まれている。
よって今夜は飲酒はおろか食事も控え、たっぷりの杏仁豆腐を食べる。
高校生のころ、体操会に備えて朝の練習をしていると、吐く息の白くなった記憶がある。体操会は毎年10月10日に行われていた。10月の初めに吐く息が白いとは、東京の西郊は今よりも随分と気温が低かったことになる。
同じく高校生のとき、10月に半袖のTシャツを着ていて「風邪をひくから長袖を着ろ」と言われたことがある。本日、僕は半袖のポロシャツを着ながらまったく寒くない。
夜になって、さすがに長袖のTシャツを着て自転車に乗る。そして小料理の「和光」へ行く。この店へ行くときにはいつも本を持参する。しかし大抵はカウンターに鈴なりの常連客がいて、そうすると僕は彼らと話をして本は読まない。今日はカウンターにふたりの客しかいなかったから、右端にちかい席に座って、真新しい本の表紙にゴシゴシと折りぐせをつける。
夏休みのころ、"BOSE"のCDプレイヤーが壊れたと、家内と次男が言っていた。「和光」から帰宅してそのプレイヤーにCDを入れると、それは易々と内部に呑み込まれてピアノの音が聞こえ始めた。すべての曲が終わってリモートコントローラーの"Stop/Eject"ボタンを押すとウンともスンとも言わない。そこで試しに電源コードをコンセントから抜くと、CDは静かに排出された。故障と思われた現象は多分、リモートコントローラーの電池が切れただけのことだったのだろう。
そして11時30分に就寝する。
町内の屋台の置いてある市縁広場に、朝9時30分に行く。僕は会計係であり、また1日を通して屋台まつりに参加することはできないから、半纏などは着ていない。屋台は町内の面々によって既に覆いを外されていた。区長や頭から簡単な訓辞があり、いよいよ日光街道へ出て行く。
それぞれの町内の屋台計10基は一旦、瀧尾神社脇の杉並木まで日光街道を遡上する。そしてここから一転して旧市街南端の追分地蔵尊まで日光街道を下っていく。僕は屋台と店とのあいだを行ったり来たりしながら、現場の人の要望を聞いたり、あるいは足りないものを手配したりする。
本日のお祭りのため、日光街道はウチの前の春日町交差点から小倉町までのあいだで正午から夜の8時まで閉鎖をされる。異なる町内が屋台の破風を接し、それぞれのお囃子がその技を競う「ぶっつけ」は、屋台まつりの華である。
夜8時を過ぎてようやく、市縁広場に町内の屋台が帰ってくる。そして来週末の片付けに備えて覆いがかけられる。気温は随分と下がり、人の吐く息は白い。参加者たちが町内の公民館へ移動をする。僕も共に移動をし、その直会の末席に連なる。
空は晴れた。朝、町内の屋台の安置してある市縁広場まで歩き、その保管状況を確認してから始業前の事務室に入る。
事務机の左の引き出しにポケットコンピュータを手探りしていて、"GEM"の英和/和英辞典を久しぶりに目にする。これは40年ほども前に叔母からもらったもので、奥付には「昭和44年11月1日/第5版 第1刷発行 定価1,400円」とある。叔母は更に版の新しいものもくれたが、こちらは使わず温存した。
この、革張りの小さな辞典は、1970年代後半から1980年代はじめにかけての旅行においては、常に僕の"SALEWA"のザックの中にあった。使いすぎて、革表紙のそこここから芯地が露わになっている。
温存した版の新しい方は長男にやった。そして「だったら次男にもやらなきゃ片手落ちだわな」と"amazon"にこれを検索すると、最新版とおぼしきそれは1997年の第7版だった。10年以上も前の版、そして価格にはプレミアが付いている。それでは今すぐに買う気はしない。まぁ、定価のものを気長に探してみよう。
初更、すっかり暗くなった市縁広場へ行く。屋台はシートを外され、中では大人と子供が入り交じって盛んに笛太鼓を鳴らしている。これはいわば「屋台まつり」の宵祭りである。春日町1丁目のお囃子は、年齢層の厚いところが強みだ。
そして小一時間ほどもそこにいて屋台の格納を手伝い、弁当と缶ビールをもらって帰宅する。
北千住の千代田線上りプラットフォームを歩いて行くと、その中ほどに歯医者の看板が見える。歯医者の電話番号にはフリガナが添えられ、語呂合わせになっている。しかしその語呂合わせには無理があり、僕はかれこれ10年以上もその看板を意識しながら、遂にその電話番号を覚えることができない。
会社でハイブリッドのホンダフィットを買うことにした。そして今朝、男体自動車の社長の持ってきた何枚かの書類にハンコを捺す。その際に、希望のプレートナンバーはあるかと訊かれて「別に無いです」と答えると、僕のような例は珍しいのか、なにか候補を上げるよう促された。
ウチの電話番号は日光の2番だから「だったら0002かなぁ」と言うと、その場合にはゼロは入らず「・・・2」になるという。そして僕はそれを了承した。
今朝、開店前に店の駐車場を見回っていると、日光街道を1台のメルセデスが下って行った。ナンバーは「・・・6」だった。三点リードでもない中黒の羅列は間が抜けて見えた。そして午前9時を過ぎたころに男体自動車に電話をして、「・・・2」を「3535」に換えてくれるよう頼んだ。「3535」はすなわち「味噌味噌」である。
「3535」が「味噌味噌」では、北千住の歯医者と同じく、分かってくれる人は少ないだろうか。
断酒はおとといしたばかりだが今夜は商用twitter"@Uwasawa"の、まぁ、ある理由による天王山だ。よっていかにも白ワインの欲しくなる晩飯に負けることなく"KIRIN FREE"を飲む。
会社の坪庭に朝顔が咲く。この朝顔に毎朝のようにたかって、その花びらを食べているキリギリスがいる。キリギリスは明るい緑色で、からだは流線型だ。そしてふと「日本でもタイでも、この手の虫は食わねぇな」と気づく。
日本人はイナゴを食べる。タイ人はイナゴもコオロギも食べる。しかし明るい緑色に流線型という、この種のバッタは食べない。先人が試して不味かったのだろうか。
それはさておき「ナマコを最初に食べた人は偉い」ということを良く耳にする。しげしげと眺めてみれば、エビやカニの方がナマコよりもよほど不気味な外観をしていると僕は思う。
しかしある生物学者は「人は森に棲んでいた。森に棲めば昆虫を捕食する。エビやカニは昆虫に似ている点において、古代人はその姿を不気味とは感じなかっただろう、そしてナマコについては、やはり違和感を禁じ得なかったのではないか」と講義したという。
そう言われれば、そのような気がしないでもない。そしてナマコを怖がるタイ人は多い。
20年ほども前のことだっただろうか、夏に大谷川で遊んでクレソンを採った。そしてそれを束にしてムシャムシャと食べた。随分と食べ進んでからふと茎の部分を見ると、虫の卵らしい白いものがビッシリと付いていた。
今日もらった野生のクレソンは綺麗だった。そしてそれを見るなり「今夜はステーキを食べよう」と決めた。
会社の健康診断で血圧その他に良くない数値が出た。後に送られてきた紙には「要再診察」とあった。よって思い当たる病院を訪ね、医師の質問に答えながら診察を受けたところ「1週間に7日も酒を飲むなんて、あなた立派なアル中ですよ」と、吐き捨てるように言われた。
その医師は太りすぎて胴囲は明らかに1メートルを超えている。「こんなヤツに言われたくねぇ」と、その直後より1週間に2度あるいは1ヶ月に8度の断酒を始めた。いまコンピュータを開いてその日を調べてみたら、それは2002年5月26日のことだった。
そうして昨月まではそのノルマを守っていたが、一方「人はいずれ神の定めに従って死ぬ」と家内は言う。
そう聞けば僕は「節制してもしなくても、所詮、自分の寿命は制御できねぇわけだな」と、今月はちとタガが外れて1度しか断酒をしていない。「それではやはりまずかろう」と、今日は素麺をソース焼きそば風にしてもらい、これを晩飯として飲酒を避ける。
僕は日常においてはほとんど目覚まし時計を使わない。予定した時刻に目が覚めないとマズいことが起きるときにだけ使う。今朝は午前3時30分にアラームを設定した。実際に目覚めたのは午前2時だ。トクをしたのか損をしたのかは知らないが、余った時間は本を読むことに充てた。
いまだあたりの暗いうちに事務室へ降り、年末ギフトへ向けたダイレクトメールの送り先を特定すべく、コンピュータを起動する。この作業は精密な手順を要する。「こちらヤフー正規代理店の…」というような電話がかかったり、あるいは「近くへ参りましたのでお寄りしました」というような予告なしの来客のある日中には決してできない。そしていまだあたりの暗いうちに作業を完了する。
しばらくして外へ出て市縁広場まで散歩をする。散歩とはいえ歩いた距離はたかだか200メートルに過ぎない。朝飯を食べるため自宅へのエレベーターを上がり、西北西に向いた窓を開けると、街は晴れたが山は曇っている。
そして、早くも1日分の仕事をしてしまったような気分になる。
「マーケティングとは」との問いに「つまらない商品に金や智恵を結集して、売れる商品に仕立て上げてしまう技術」と答えた人がいた。皮肉な意見と言わざるを得ない。しかしまぁ、その人は世の中の裏側をいろいろと見てきたのだろう。
夜、ひっそりとした闇に暖かそうな明かりの漏れるフランス料理屋"Finbec Naoto"へ行く。僕はいつもここでは4,000円のコースしか食べない。それより上の価格帯では腹が苦しくなりそうだからだ。そして初っぱなの、小さなグラタンを見ただけで、もう嬉しい。
カリフラワーのクリームに手長海老とウニを浮かべ、コンソメジュレで覆った冷たい品は、橋爪功のようなメートルドテルのいる都会の店だったら、これだけで5,000円は取りそうだ。鱧のフリットの外側のカリカリと中身の柔らかさ、牛頬肉のネチネチした栄養成分とボリュームはどうだ、そしてオマケのサラダ、イチジクの甘いコンポート、締めのコーヒー。これで4,000円とは、どういうことなんだろうね。
"Finbec Naoto"は、冒頭の「マーケティング」とは6万キロほども隔たった料理屋だ。「みんな、金つかうなら、こういうところで使えよ」と、僕は声を大きくして言いたい。
この三連休が秋の行楽シーズンの、事実上の入り口と思われる。ウチでは店舗駐車場に交通整理のための人員を配置した。これからクリスマスまでは、行楽客の需要が年末ギフトの需要に引き継がれ、高原状態のような繁忙が続く。
そういう繁忙の端緒ではあるが、本日は、10月17日に行われる「今市屋台まつり」のための、屋台の組み立て日でもある。僕は町内では会計係としての仕事がある。春日町1丁目では伝統的に、会計係は同時に大膳の仕事も手伝わなくてはならない。よって朝から町内を行ったり来たりする。
一方、屋台は8時30分にその台車部分を屋台小屋から引き出され、組み立てが始まる。僕はここに8時50分から参加をした。台車が完成したところで、これを市縁広場まで押していく。一方、2台のトラックが屋台蔵と広場のあいだを往復し、屋台の主に彫刻部分を輸送する。
屋台の組み立ては頭、大工、我々のような手伝いが、記憶と写真資料、長老の意見を参考に行う。台車部分にはやがて柱が立てられ、徐々に彫刻がはめ込まれていく。
彫刻屋台は巨大なパズルにて、どこか1ヶ所に齟齬があれば、そこから先へは進めない。よしんば進んでしまった場合には、間違えたところまで戻って仕事をし直す必要がある。
彫刻の、破風への取り付けには特に注意を要する。その場所は高く、取り付けられる彫刻は重い。本番になれば地上からは見えなくなってしまう棟木にまで彫刻がはめ込まれる。屋台前面最上部を閂のように貫通する鉄の棒には「安政六年未六月吉祥日 若者中」 の彫り込みがある。安政六年は万延元年の前年である。
僕は市縁広場と店とのあいだを自転車で往復し、その双方で仕事をする。
夕刻が迫るころ、屋台の屋根のぐるりに吊された提灯への通電試験が行われる。そして組み上がった屋台を帆布とブルーシートで覆い終えたときには、あたりは完全な夜になっていた。
屋台の準備に参加した面々に夕食代わりの弁当と缶ビールを配り、市縁広場の入り口にポールを立てて、本日の任務を完了する。
本日は自由学園の体操会だが天気予報は「東京は雨、午後からはますます雨」と伝えている。どこかのニュース番組のアナウンサーはご丁寧にも「今日の運動会、何とかなるんじゃないかとお考えの学校は、思い直した方が」などと言っている。家内は昨日の夜から弁当を用意している。
その弁当を持って東武日光線の下今市駅へ行く。体操会を予定通り行うのか、あるいは中止するのかについては、学校のウェブペイジに午前7時に告知が出る。上り特急スペーシアの発車は07:04。特急券を買ってから体操会の中止を知り、その時の時刻が07:04を過ぎていれば特急券は無駄になる。
"iPhone"は持っているが通信速度は低い。よって長男に電話をし、甘木庵で学校のウェブペイジを確認してくれるよう言う。ところが7時を1分すぎても長男からは何も言ってこない。
よって取り急ぎ特急券2枚を買い、入場券で既にプラットフォームに入っている家内のところまで跨線橋を走っていく。発車数十秒前のスペーシアに乗り込んだところでようやく長男からの電話が入り、サーヴァーが混み合って学校のウェブペイジにはアクセスできないという。そしてスペーシアはプラットフォームを離れた。
東京オリンピックの開会式を10月10日と定めたのは、統計上、晴れる確率の高い日だったからと聞いたことがある。しかしこのところの天気は過去の統計や確率に沿わないことが少なくない。
2時間40分後に自由学園に達し、受付を済ます。雨はもちろん降っている。開会の10時になって、体操会はいつもの大芝生ではなく、男子部は男子部、女子部は女子部と、各部に別れて行われるとのアナウンスがあった。よって当方は男子部に移動をする。そしてここで傘を差したまま中等科体操や高等科体操などを見る。雨が徐々に強くなる。
昼食のため用意された男子部の食堂で次男を待つがなかなか来ない。ようやく姿を見せた次男は食事の係として、弁当を予約した生徒にそれを配っていたという。
各部で同時進行された体操会は、割愛された種目もあって、あっという間に終わった。自分の特に力を入れてきた体操が雨のために中止された生徒には、今年の雨への無念さと思い出が特に強く残るだろう。
記念講堂へ移動してウィンドオーケストラの演奏を聴き、相変わらずの雨の中を帰路に就く。そしていまだ会社の営業している時間に帰社する。
店舗駐車場の一角に紅葉の木がある。この紅葉の下にジョウケンボウの出ていることをきのう、包装係のサイトーヨシコさんが気づき、家内に報せたという。キノコについては製造係のフクダナオブミさんも詳しい。彼に見立てを頼んだところ、間違いなくジョウケンボウだと保証したという。
開店前にその紅葉のところへ行ってみると、なるほど小ぶりのキノコが銭苔をかき分けるようにしてたくさん育っている。日当たりの良い場所だけに硬くなるのも早いと、出勤したばかりのフクダナオブミさんが言う。
「ジョウケンボウ」を"Google"で検索しても、キノコの名前としては現れてこない。ことによるとこのキノコは、非常に狭い範囲でしか食べられないものなのかも知れない。
そういう次第にて夕刻にこのジョウケンボウを収穫し、夜はキノコ鍋にする。秋はいまだ中盤を迎えたばかりだ。しかしこういうものを食べていると、なぜか秋の深まった気がしてふと、窓の外を見たりする。
ウェブショップのトップページ上部には、きのうまで「社長のツイッター」「社長の仕事日記」「社長のごはん日記」と、3つのボタンが並んでいた。そのうち「ごはん日記」はこの10年のあいだ滞りなく書けてきた。ツイッターはそれこそいくらでも書ける。しかし「仕事日記」だけは初めからどうにも書けないでいた。理由は分からない。
書けないものを無理に書くことは健康に悪い。よって「社長の仕事日記」は開設から僅々1年半にて閉じることにした。
その他にもウェブ関係の作業があれこれあって、神保町の"Computer Lib"に朝から詰める。ひとつの商品について12文字、28文字、56文字、180文字、44文字、108文字、34文字、90文字、16文字、36文字の各文章を用意せよ、というような仕事については僕が請け負う。それに決まりを付けてしまえば、それからしばらくは閑ができる。すずらん通りの「内山書店」へ出かけて地図を買ったりする。
北千住で1時間ほどカウンター活動をし、9時前に帰宅する。
「よく思い切りましたね」と近所の人に言われるほど隠居の木をたくさん伐ったのは一昨年のことだっただろうか。そのとき残した木々が今夏、さすがに茂りすぎてきた。しかるべき筋に相談すると「秋になってからの方が良い」と言われた。そして今、隠居には植木屋が入っている。
国道121号線を隔てた店舗向かい側の駐車場に松の木がある。昔そこに「東郷」という料理屋のあった名残だ。隠居の木々と共に、この松の剪定も植木屋には頼んだ。午後になるとその松の根元には、雪で作るかまくらほどの葉が積み重なった。
夕刻に銀座へ出て、鹿部というところのウニを食べる。そしてその香りを聞きながら「フランス人のオバサンが食べたら喜ぶんじゃねぇかな」というようなことを考える。そのオバサンとは30年ほども前に一緒にメシを食べたことがある。彼女の齢から推し量れば、今はもう生きていないかも知れない。
本郷三丁目まで戻って交差点を渡る。「三原堂」のショーウインドウには日本の秋と共にハロウィンの飾り付けがあった。甘木庵に帰着して財布の中身を数えると残金は2,926円。というわけで明日の行動資金として長男に1万円を借りる。
15年前には"hierarchy"などという言葉は知らなかった。"consensus"という言葉は25年ほど前に流行り、政治について語ることの好きな人は当時、この"consensus"をやたらに使った。前者については階層とか序列、後者については意見の一致とか総意と言えばよい。なぜわざわざ外国語を使うか。
ところで五目そばを食べるときにはいつも"hierarchy"という言葉が頭に浮かぶ。
目の前に五目そばがある。麺の上には鳴戸巻き、かまぼこ、叉焼、半割のゆで玉子、キクラゲがあり、澄んだスープにはキャベツとニラが沈んでいる。これなら七目そばと呼んでも良いかも知れない。
そして僕は鳴戸巻き、かまぼこ、叉焼、ゆで玉子、キクラゲの順に食べていく。麺とスープとキャベツとニラについてはひとつふたつと数えられるものではないから、順番は関係なく食べる。鳴戸巻きからキクラゲへの流れは、自分にとっての"hierarchy"の低い順から高い順への昇順である。
それにしても「大貫屋」の五目そばは端正だ。日本の美について理解する能力のある外国人が遊びに来たら「大貫屋」へ連れて行って、この五目そばを食べさせてやりたいと思う。
本日の下野新聞朝刊第1面に「たばこ税収 戸惑う自治体」という大きな見出しがある。「たばこ離れが進み、税収は落ちるはず」とする県内の自治体は23市町。それに対して4つの市町では「増税率が高いので、たばこ離れを補うのでは」と、税収が増えることを予想している。
何ヶ月か前の日記にも書いた記憶があるが、今般の40パーセントの値上げによって、たばこによる税収が増えるのか減るのか、これは興味深い試みだ。
「今ある商品をこれだけ値上げすれば、販売個数はこれだけ落ち込む。利益率からすれば値上げ後の粗利総額はこれだけ上がる、あるいは下がる」ということを予想する数式がある。しかし僕はそのようなものを信用しない。消費行動をする人間の心理は数式では計算できない。またその心理を左右する世の移り変わりは更に予想しがたい。
下野新聞には是非、各市町における1年後の、たばこ税収の増減について報道してもらいたい、あるいは日本経済新聞あたりが、日本全体におけるそれを報道してくれても良い。
終業後は社員たちと事務室に集まり、食事会を行う。併せて9月の「第20回日光MG」を以て期数100期を迎えた社員6名に記念品を贈呈する。
「ジャズと蕎麦は短いほど良い」と、いソノてルヲがむかしスイングジャーナルに書いていた。短い蕎麦のどこが良いのか、並木の藪の蕎麦は長いぞ、まぁそれはさておき、その対象が日記となれば、これは短い方が良い。この日記もせいぜい600文字に収める努力しよう。
本はほとんど"amazon"に出品されている古書で買う。数日前に単行本1冊を注文してふと気づいたことだが、340円だった送料が250円になっている。これは購入者にとっての僥倖なのだろうか、はたまたそう喜ぶべきことでもないのだろうか。
これまで"amazon"に古書を出品していた人は、340円から"amazon"が手数料を差し引いた金額と、自分が運送業者に支払う金額との差額をも利益としていたはずだ。その340円が250円に値引きされれば古書店の得られる「サヤ」も、それだけ減ることになる。
送料は安くなって商品の値段は上がる、そういうことが今後"amazon"の古書には出てくるのではないか。世の中、トクするばかりというようなことは、そうそうありはしないのだ。「1円」という値付けの古書が僕は好きだった。それが今後は激減するかも知れない。
と、ここまで書いた本日の日記は全角換算で464文字、ツイッター換算では493文字である。
シェムリアップへ行った6月と同じく、チェンライからバンコクまで南下した9月も、お金はそれほど使わずに済んだ。僕は日本にいる方が、財布を軽くしてしまうのだ。
自作の小遣い帳を費目別に"Total with Control"つまり小計してみると、僕の場合「本」と「食」の金額が突出している。南の国を歩いている限り、本も写真集も買わなければ万を超える飲食もしない。9月19日の昼飯はおかず2品にメシ2皿とスープ1椀で75バーツ、邦貨にして208円だった。
もっとも、そうして残ったお金も次月には雲散霧消してしまう。どこでどう消えてしまうのか、まぁ、その大方はメシと酒だろう。
初更7時より町内の公民館にて、日光屋台祭りについての最終会議がある。よって終業後はきのう残った柿の葉鮨5個を食べ、会社の通用口から外へ出る。
2004年の6月には、ウェブログなどはなかったのだろうか、あっても、そうは世に広まっていなかったに違いない。あるいはウェブ日記そのものが、いまだ珍しい時代だったのかも知れない。その2004年6月にこの日記が新聞の取材を受けたとき、記者は「毎日、15分くらいで書いちゃうんですか?」と僕に質問をした。
先月、同級生コモトリケー君のバンコクの家で"ThinkPad"のキーボードを叩いているときにも「15分くらいで書いちゃうの?」と訊かれた。
この日記の1日分は、まさか15分では書けない。しかし先月25日から30日までのそれは短文だったこともあり、本当に15分以内で完成させていた。まぁ、それくらいが日記の作成に割く理想の時間ではある。
と、ここまで書いて「『ではある』という言葉遣いを山口瞳は忌み嫌ったなぁ」と、むかし何かで読んだことを思い出す。山口瞳は忌み嫌ったかも知れないが、上記の「ではある」については、僕は大した違和感を持たない。
そしてふと"amazon"でこの作家の「血涙十番勝負」を検索して、これが既にして古書でしか買えなくなっていることを知る。"armchair fisherman"とは読書の中で釣りを疑似体験する釣り師のことだ。僕は将棋は指さないが将棋の本を読むことは好きだ。
ところでこの「血涙十番勝負」を僕はどこかの飲み屋で紛失している。2度目を読み返している最中だったから1度は通読している。血涙に加えて汗のにじむ好著である。