「親の実力はだんだんと落ちていき、それに反比例して子供の実力は増していく。そしてそれがあるとき交差して、あとは逆方向にその差は開くばかりだ」と、長男がいまだ幼いころ、手で空中に2本の線を示して説明したことがある。
次男はこの夏休みに身長を1センチ伸ばし、僕は同じ数週間に視力を急激に落として遠近両用メガネが手放せなくなった。
その次男は家内の作ったおむすびを持ち、"KAMOSHIKA SPORTS"のザックにテニスラケットを突っ込んで下今市駅11:00発の上りきぬがわ号に乗った。
初更、販売係のトチギチカさんが婚約者を伴い、結婚式の招待状を届けてくれる。
四半世紀ほども前までは、ある一定の年齢を過ぎても結婚しない人は、世間からあれこれ言われたものだ。今はたとえ結婚をしても結婚式は挙げない人が多い。金がないならせめて親しい人たちとメシくらい食べたらどうかと思うが、それすらしない。
そういう昨今の由々しき風潮に比しての、あなた方の行いは大層立派であると、若い二人を大いに褒める。僕は世辞の言えない質で、褒めるのは本心からのことである。
次男が夏休みの宿題のひとつとして観察してきた朝顔は、継ぎ足された3本の棒から更に上へと伸び、その先端は見上げるほどになってしまった。観察帳は本日、寮へ送る段ボール箱に格納されたから、朝顔は以降、勉強の対象ではなく、人の目を愉しませるためだけに育ち続けることとなる。
自由学園の男子部では入学をすると様々なものを自分で作る。教室の机や椅子の次には革袋を作るが、この革袋を次男は一学期中に完成させられず、裁断した革にかがり紐のための穴をいくつか穿っただけの状態で持ち帰った。
この制作もきのうあたりからいよいよ佳境に入り、午前に店舗外のベンチで仕上げをしていると「弁当でも入れるのか」と、お客様に訊かれたという。「いえ、聖書と賛美歌を入れます」と次男が答えると、お客様は「そうか」と言葉少なに返事をされたらしい。
明日は寮に帰る次男の希望を容れ、晩飯は焼き肉を食べに行った。夜、生のウイスキーを飲みながら
"Young Django" Stephane-Grappelli B000793C3Q \1,796
を聴く。
夜7時20分の空からは、小粒でまばらな雨が降っていた。傘を持参すべきか、あるいはその必要はないかとしばし考え、やはり傘を差していくこととする。
鰻屋の「魚登久」にて7時30分より「第183回本酒会」が始まる。出品酒のなかに喜久水酒造の「一時」があれば、大抵はこれを真っ先に飲むのが会の不文律である。本日の抜栓役にはオノノブトシ会員が選ばれた。
味についての表現をするとき「蓼食う虫も好き好き」という言い方はいささか客観性を欠くが、僕が非常に苦手とするお酒が高得点を記録したりする。本日の2本目、黄色みを帯びた古酒風情の高級品もそのうちのひとつにて、多分これは今回の上位に入るだろう。
賑やかな「魚登久」の入れ込みにいても、外からは激しい雷鳴が聞こえてくる。「まさかオレの傘には落ちねぇだろうな」と不気味な思いをしながら土砂降りの中を帰宅する。
1日のうちもっともお酒が欲しくなるのは夕刻で、そういえばむかし「黄昏の一杯」という本もあった。この一刻をやり過ごせば夜の9時や10時にアルコールへの欲求を覚えることは少ない。自分のこの習性を利用し、今月は15日から22日までの8日間に4度の断酒をした。これにより月に8日の断酒ノルマは残り1回となり、随分と気が楽である。
「週に2度の休肝日? 日本酒2合までならその必要はありません」という人があるが、この人は造り酒屋の社長だから、その言動はアテにならない。
昼についでがあってスーパーマーケットへ行ったら随分と立派な秋刀魚があったので、これを5尾買った。帰宅して次男に塩焼きにするかオリーヴオイルで焼くかと訊くと、案に相違してオリーヴオイルで焼いてくれという。
そういうおかずであれば、ワインは軽めの赤が良い。明日は酒飲みの会があるから、今月最後の断酒は晦日に持ち越すこととする。
「アメリカの大統領選はオバマがデフォールトで勝利だろう」
「アメリカはマチズモの社会だから当然、若い方のオバマが選ばれるだろうね、マケインは2期やったら80歳だもん」
「ところで伝統的に長老支配の地域って、あるじゃない。オレはいまふと思ったんだけど、聖職者が政治家を兼務していない地域の長老ってのはせいぜい30代から40代くらいでさ、それ以上の年配者は隠居してるんじゃねぇかな。つまり長老支配ったって、日本の基準からすれば極めて若いヤツが社会のトップに立ってる、ということだよ」
「フクダなんてもう70何歳でしょ」
「70何歳ってのは、いつ死んでも世間はそう不思議には思わねぇ年齢だからな」
「みずからの老害に気づかないトップ、それを苦々しく感じながら何もできない周囲。そういう組織は案外、多いかもね」
「トップの去就を決めるための人事権ってのは大切だな。自分が若けぇころに定年制の決まりを作って、でもいざ自分がその年になったら辞めねぇ、そんなヤツも少なくねぇぞ、きっと」
「自民党の定年制で遂に中曽根と宮沢が引退したとき、あの朝日新聞でさえ『例外はあってしかるべき』なんて寝ぼけたことを言ってたしね」
同級生ウタニ君の横浜の家へ泊まりに行っていた次男は夕刻に甘木庵へ戻り、待ち受けた長男と共に浅草へ来ることになっている。
疲れの出ないよう早めに帰宅するとしたらどこで何を食べるべきか、という数日前の問いかけに「例の串カツ屋とか」と答えたのは長男だった。
この「清閑PERSONAL」でもっとも更新の困難なコンテンツは"GOURMET"だ。1990年代には食べ物屋のことを書いたサイトも少なく、多くの人に知られていない店をここに書くこともできた。しかしインターネットの特性を活かした一般参加型の飲食店紹介あるいは批評ペイジが多くできて以降は「なにもオレが書かなくても」との思いが募り、現在はいまひとつ更新意欲が湧かない。
串カツの「光屋」を"GOURMET"に載せた2002年、この店の名を検索エンジンに入れてヒットするのは僕のペイジだけだった。しかし今やなぎら健壱の飲み歩き本にもここは紹介されている。
立ち食いながら100円で椅子を貸してくれる「光屋」のシステムは老人に配慮してのものだろうが、腰を落ち着けて食べたいときには僕もこの椅子を所望する。そして本日もそうしようとして念のため電話を入れると誰も出ない。当方は子供との待ち合わせに先んじて浅草に着いていたから店の前まで行くとお休みだった。
よって急遽メシの場所をちかくの焼肉屋に変更し、3人で1時間の飲食を為す。
所用にて横浜へ行く。中部地方の大雨により"JR"のダイヤは乱れに乱れていた。新橋駅のプラットフォームで東海道線の下り列車を待っていると、東京駅に着いて折り返す予定のその列車が、いまだ浜松町にいて東京駅を目指していると、アナウンスが伝えている。
横浜から東京へ戻るころにはダイヤは更に乱れ、電光掲示板には「大幅な遅れ」と「運休」のふたつの文言が目立った。すこし前の日記にも書いたことだが、ちかごろは事前に乗り換えを調べ計画を立てても、その通りにことの運ばないことが珍しくない。
夕刻より"Computer Lib"のヒラダテマサヤさん、マハルジャン・プラニッシュさんのふたりと神保町の「ランチョン」で飲み食いをする。ここはビヤホールだが僕は初めから終わりまで安い赤ワインを飲む。
他愛もない酒飲み話の中で、自分のもっとも好きな食べ物は何か、という話題が出る。ヒラダテさんの「鮨」は真っ当としても、マハルジャンさんの「やはり豚骨ラーメンですね」の答えには驚いた。そして僕はといえば「キクラゲ」なのだから、これもなにやら普通ではない。
キクラゲ、フカヒレ、ツバメの巣というような、いわば味のないものばかりを題材にした文章はなかったか、と頭をひねって思いつくことはできなかったが、吉行淳之介がこのあたりについての随筆を書いたら洒脱で面白いものができただろうと、酔った頭で考える。そしてもちろん「もっとも好きな食べ物」だけでは、人は生きてはいけない。
ウチから歩いて5分ほどのところにある"Chez Akabane"の杏仁豆腐は、いわゆる「甘くて美味いもの」のひとつの究極と思う。
甘くて美味いものを食べ尽くしてスレッカラシになった人がこの品物に触れればまた別の感想を持つかも知れない。しかし、どちらかといえば甘味をそう好まない僕にとっては、この杏仁豆腐の控えめな甘さ、柔らかな舌触り、白と透明のプルプルが口の中に彩なす変化とコク、季節ごとに選ばれる様々な果物の面白さなど、そのすべてに感心することしきりである。
本日の午後は、この店の杏仁豆腐ではなく餡蜜を食べた。蜜の味もクリームの味も名状しがたく美味い。"Chez Akabane"のお菓子は僕に、甘いものを前にしてワクワクしていた子供の頃を思い出させてくれる。
年末になったらこの店のフルーツケーキを食べてみたい。きっとブルゴーニュの赤ワインによく似合うはずである。
きのう甘木庵に入ったとたん涼しかったのは、部屋の対角線上にある窓を長男がうすく開けて外気を取り入れていたからだ。風邪をひくことを懸念して、寝るときにはその窓を閉めた。本日は次男と「としまえん」のプールへ行こうとしていたが、きのうに続いての涼しさと雨の予報によりこの予定を変更する。
甘木庵から上野の山までは、ゆっくり歩いても不忍池を突っ切って25分あれば達することができる。特別展「黄金の国ジパングとエルドラード展」を観て、ついでに隣接する国立科学博物館も巡回する。
長男が小学校低学年のときに連れてきた国立科学博物館は、僕の子供のときのそれと変わりがなかった。ところが近年に大きな模様替えがあったらしく、むかし懐かしい展示品はフーコーの振り子だけになっていた。あの小さな干し首は一体どこへ行ってしまったのだろう。
「ユナイテッドシネマとしまえん」で本日から上映される「ラストゲーム最後の早慶戦」のティケットを、プール遊びの帰りに寄るつもりで数日前に買っておいた。よって昼過ぎに豊島園へ移動し、この映画を観る。途中で寝たにもかかわらず、次男の感想は「なかなか良い映画だったね」というものだった。
夕刻5時に「駒形どぜう」の前で長男やクマキーモトさんと落ち合い、総勢4人で晩飯あるいは飲酒を為す。「ふり袖たれ口しぼりたて原酒」はなかなかの濃い口にて、3人で4合ビン2本は飲み干せなかった。
二次会の"Gallery ef"で、僕は今年2本目の葉巻を注文した。これを吸い終えたところでひとりだけ早上がりをし、浅草駅20:00発の下り特急スペーシアにて帰宅する。
このところ次男をもっとも連れて行きたかった食べ物屋は「まぐろ人・雷門出張所」で、だから今日の昼飯は普段の半分ほどにしておいた。
下今市駅14:35発の上り特急スペーシアに乗れば浅草駅へは16:15に着く。そのまま件の立ち食い鮨屋へ行き、ふたりで何十個かの鮨を食べる。おととしまで鮨はマグロしか食べなかった次男が今日はそれを3個に留め、なめろうの軍艦まで試して「美味しいです」とは随分と進歩をしたものだ。
神田、浜松町、天王洲と移動して本日"Drumstruc"のコンサートがある銀河劇場の2階席に収まる。すべての椅子の上にはあらかじめジャンベが置いてあり、南アフリカ共和国から来た人たちと観客が一体になってこれを叩きまくる、というのが"Drumstruc"の趣旨である。
ほとんど90分のあいだジャンベを叩き続け、汗だくになったところでコンサートは終了した。短距離走のような単純な競技こそ人々を熱狂させるように、原始的な音が却って人の心の奥底を動かしたりする。
「お父さん、連れてきてくれてどうもありがとう、これで夏休み報告書に書くことがひとつ増えたよ」と次男は言った。
浜松町、東京、本郷三丁目と移動して9時すぎに甘木庵に帰着する。
長男が小学生のときには毎夏、新井薬師の「東京マリン」へ泳ぎに行った。はじめのころはラグビーパンツで泳いでいたが、ある年それを持参し忘れ、プール前の水着屋で"Ralph Lauren"の競泳用パンツを買った。
以降、泳ぐときにはずっとこれを使っていたが、ことしタンスから引っ張り出してみると、ゴムが固く結晶化して切れていた。よっておよそ十数年ぶりに水着を買うべくネット上を徘徊し、ようやく"amazon"に我慢できるものを見つけ、注文した。
ちなみに今様の、膝まであるブカブカの水着は僕は嫌いだ。何が悲しくて、あれほど大きな布を腰からぶら下げて泳がなくてはならないか、とここまで書いて、今日の本題は水着の話ではなかったことを思い出す。
そろそろ甘木庵に届きそうな水着の配送状況を調べるため"amazon"を開いたら「あなたへのおすすめ」としてアラン・カーデックの「霊の書-大いなる世界に」が表示されていたから「なにゆえに」といぶかしんだ。僕は家にいては仏壇にお茶を上げる前には決してお茶を飲まない。しかしそれはただの習慣に過ぎず、心霊研究の本を読むことなども決してしない。
1年に1度くらいはこういう腑に落ちないことが起きる、それが"amazon"の不思議なところである。
西の空には夜と判別しづらい暗さがあり、だから家の中を移動して東の空を見ると、その大部分を覆っている平板な雲の切れ目に薄い紅みが差している。西側の洗面所に戻って時刻を確認すると4時24分だった。
それにしても一体全体、涼しすぎて半袖シャツを着る気のしない朝が8月にあって良いものだろうか。1991年、カトマンドゥで自由学園男子部9回生のタナカヒサオさんからいただいた、胸に"Asian Friendship Society"とプリントのある、良く言えば柿渋色の、悪く言えば茶色く薄ぼけた長袖のTシャツをタンスから出して着る。
きのうの日記に書いた、本職の手によりきっちり仕上がったひとつのシステムの原型は、12年前の夏に池袋の喫茶店でそのコードを手書きした。現在のウェブショップのデザインは丸山公園のテニスコートやウチの隠居でおなじく手書きした。
本日、事務係や家内からちょっとしたマクロの作成を頼まれたため「それは仕事場ではできねぇ、知ってるヤツのだれもいねぇ、電話もかかってこねぇどこかの喫茶店にでも行かねぇと」と言いながら数十分で仕上げる。
それでもやはり、空中に浮遊するあやふやなものを捉まえてくるような仕事は、日常から離れた方が良くできると思う。
「涼しいっすねぇ、いつごろから?」と、下今市駅10:40着の下り特急スペーシアに乗ってきた中島マヒマヒ社長が言う。「ここんとこずっとだよ、朝晩は寒くて、とてもじゃねぇけど窓なんか開けて寝られねぇんだから」と僕は憂鬱そうに答える。
「涼しい」という文字の字面は良くて、もし自分に娘がいたら「涼子」などという名前を付けたいほどだが、初秋の涼しさは寂しくてまったくうんざりする。
「オレがバンコックで泊まる宿は、窓にガラスがねぇの」
「四角く開いてるだけなの?」
「違う、刑務所みてぇに鉄格子がはまってんの。天井に扇風機があるんだけど、それが小さくて全然、効かねぇの。で、暑くて寝らんねぇの」
「へぇ」
「で、廊下にある汚ねぇ便所の臭いが部屋まで流れてきて、だから余計に寝らんねぇの。行きたかったら連れてってやるよ」
「いや、いい」
という会話を次男と交わしたのは、つい数日前のことだ。蚊の襲撃を避けるために寝袋に入り、汗だくになってそこから脱けだし、また寝袋に入り、ということを繰り返さざるを得ない楽宮旅社の夜の不快ささえ、秋の寂しさにくらべれば余程マシである。
外部からの4名による作業は夕刻まで続いた。
自作のシステムは数々あるが、1996年の夏に池袋の喫茶店でコードを手書きしたそのうちのひとつを、本職によるきっちりしたものにすることは数年来の懸案だった。そして昨年11月、「情報は発信するところにこそ集まる」の箴言どおり手に入れることのできたものを元に今年4月から準備を進めた仕事は本日ようやく完了した。
今後はこの知識を、それを必要とする人に広めていきたい。
本日の下野新聞第8面に「家計簿で出費を把握 物価に一喜一憂せず」という記事があり、その横に「羽仁もと子案家計簿」の写真が添えられている。よってこれを読み進むうち
「羽仁式家計簿は、日々のお金の出し入れを家計当座帳に記録する。中略 一日ごとに割当額が決まっているので、使いすぎれば差し引きマイナスの数字となって警告を発する」
との一節を見つけて大いに驚く。
自由学園に在学しているときには小遣い帳をつけることこそ薦められたが「羽仁もと子案家計簿」の記帳方式までは教わらなかった。
ところが僕が、この「清閑PERSONAL」の"BANYAN BAR"に「小遣い帳のススメ」として書くことになった1981年の小遣い帳は、正に羽仁式とおなじく1日あたりの予算を決め、日ごとに赤字になったり黒字になったりのレースを繰り返して月末に至る、というものだった。
教わりはしなかったが在学中のある日、学校の中のどこかで、羽仁式家計簿についての刷り込みのような経験を得たのかも知れない。それにしてもこの1981年の小遣い帳のつつましさに比しての、現在の自分のちゃらんぽらんな消費活動はどうだ。
あの日に戻ろうとしても無理なところはある。しかしちゃらんぽらんに見えて実はしっかりと制御されている、そういう経済活動が不可能かと自らに問えば、そのようなことは決してない、という答えもまたあることは確かだ。要はそれについて深く考えるか考えないか、やるかやらないか、だけである。
早朝4時20分から降り始めた雨は5時に上がった。おばあちゃんの応接間へ行って仏壇にお茶と水と花を供え、線香を上げる。ついでに自分のお茶も淹れ、本を読む。
6時に居間へ戻ってテレビを付けると「時事放談」に、半藤一利と共に民主党最高顧問の藤井裕久が出ている。
あるとき僕が浜松町方面から山手線で新橋に達すると、向かい側のプラットフォームにこの国会議員のひとり立つ姿が見えた。「随分と大きな人だな」との印象を覚えたのは、実際に背が高かったからなのかも知れないし、あるいは小顔のため余計そう見えたのかも知れない。
同じ国会議員でも異様に小さく感じられたのは宮沢喜一で、このとき僕は原宿駅を背にした表参道で信号待ちをしていた。自分のクルマの運転席からふと首を右に振ると、メルセデスベンツのリアサイドウインドウに、この政治家の首から上だけが見えていた。
人の体躯の大小とは、なかなかテレビでは推し量れないものである。
夕刻、生前オヤジが親しくしていただいた方の、奧さんのお通夜へ行く。お通夜のあった晩には断酒をすることが近年の習わしになっている。今月5度目の酒抜きをして9時30分に就寝する。
幼いころ三島由紀夫は「怖い」という言葉は知りながら、その「怖い」が具体的にどのような事物を表すかについては理解していなかった。そうしたある日、皿の上にザラザラとうごめくエビを見て「なるほどこれが『怖い』と呼ばれる生き物だったか」と得心したという。
「美味い」という言葉は知りながら、その「美味い」が具体的にどのようなことを表すかについて理解していない人が「魚登久」の肝焼きを食べたら「なるほどこれが『美味い』と呼ばれる食べ物だったか」と膝を打つのではないか。
夜、かなり強い雨の中を歩いてその「魚登久」へ行き、肝焼きから始まるお決まりを食べる。1時間後に「かなり強い」どころではない雨の中を家に帰る。膝まで水に濡れたから素足にサンダルは正解だった。
すぐにシャワーを浴びて直ぐに就寝する。
きのうは初盆のお宅へ伺って鮎の塩焼きをご馳走になったり、あるいはうちのオヤジのところに線香を上げに来てくださった方の相手をしたりと、お盆の対外的なことをした。
本日は店舗の繁忙を手伝うかたわら、降って湧いたような仕事を効率よく片付け、自分へのご褒美として森永の「チョコモナカジャンボ」をセブンイレブンで買った。
"MORINAGA"のペイジでこの「チョコモナカジャンボ」の歴史を調べると、1972年に50円だったものが徐々に値上げされて8年後の1980年には倍の100円に達し、しかしその後の実に27年間は価格が維持されて今年ようやく120円になっている。
1972年からの数年間にはウォーターゲート事件があり、オイルショックがあり、円の変動相場制が始まった。「この激動期にくらべれば、1980年代後半のバブルが日本の消費者物価にあたえた影響なんてのは大したことなかったんだわなぁ」というようなことを、「チョコモナカジャンボ」の値段の移り変わりを見ながら考える。
僕の誕生日の今月16日に、オフクロは"Finbec Naoto"を予約してくれた。ところが5席のうちのひとつを占めるはずの長男は都合で15日に甘木庵へ戻るという。そのようなわけで今朝、オフクロが予約変更の電話をすると、運良く本日でも席は用意できるという。
よって初更7時にホンダフィットに乗り、鄙には希なこのフランス料理屋へ行く。
折角の誕生日なのだからワインは贅沢をしようかと考えたが、お金の出どころはオフクロのふところだから、そう生意気は言わないことにする。
赤ピーマンのコンソメジュレからおまけのハヤシライスまですべて平らげ、すこし酔って9時前に帰宅する。
折角の誕生日なのだから今年2本目の葉巻を吸おうと夕刻のうちは考えていたが、酔いのためそれも忘れて9時30分に就寝する。
朝、オフクロも含めて家族5人で如来寺のお墓へ行く。掃除は数日前に済ませてあったから、今朝は墓石のから拭き程度に留める。花は明日まで保つだろうか、オフクロは第二弾の花も用意したと言っていた。
僕と長男と次男が揃ったところで午後、特別養護老人ホーム「森の家」におばあちゃんを見舞う。見舞う、とはいえ「私がこれだけ長生きしたんだから皆も長生きだよ、頑張りなさい」とか「私の頭もまだまだそうボケちゃいないよ、だから皆も頑張りなさい」と逆に当方が激励されているのだから、どちらが見舞ってどちらが見舞われているのかワケが分からない。
夕刻に長男と次男が提灯を持ってお墓へ出かけていく。墓前に灯明をともし線香を上げ、灯明の火を提灯に移しかえてそれを自宅の仏壇まで運ぶ。オリンピックの聖火の周辺には叫喚や怒号があって賑やかだったが、お盆の迎え火は静かにほの明るい。
夜、仏壇から下げたものを晩飯の一部とする。
"Rakkio,saveur de vin authentique,rubis d'or"は、ひと粒食べただけで軽く酔う商品だから、店頭では特に申し出てくださったお客様にしか試食はしていただいていない。
夕刻、たまたま店にいたとき、小さな女の子を連れたお母さんがこれの試食を希望されたため、お出ししたところ「とても美味しい」とおっしゃり、ひとつお買い上げくださった。
"rubis d'or"を試食されて美味しいとおっしゃってくださるお客様は多い。しかし販売に至らないこと度々なのは、その価格による。本物の材料、上質の材料を使えばそれは価格に反映される。このあたりが作り手としては悩ましいところだ。
「アテオ、半端じゃなくおいしいですよ」とはあるワイン屋からもらったメイルにあったひと言だ。複数のワイン屋から届くメイルマガジンは、すべてひとつのフォルダに入れてデータベースにしている。「購入後、そこの店長から半端じゃなくおいしいと言われつつオレは一体全体このワインを何年のあいだ蔵に寝かし続けてきたのだろう」と、そのデータベースに当たると、件のメイルは2000年7月8日のものと判明した。
本日は晩飯前に長男が帰宅することもあって、これの6本のうちの1本を抜栓して静置し、小一時間の後に飲んでみればなるほど美味い。美味さにも色々あるが、このワインにはブルネロの分かりやすい美質の上に、更にミントのような爽やかさがある。
「今がピークだ、バンバン飲んじゃうか」と考えながら食後のチーズを食べる。
つい数日前に小耳に挟んだことだが、今現在の気温と湿度からすると、あのバンコックよりも東京の不快指数の方が上を行くのだという。
それでも当方は東京より400メートル高いところに住んでいるから、夏のさなかにもそれほどの不快を感じることはない。「今年はクーラーを使わず扇風機だけで済みそうだ」と考えていたところ、しかしやはりクーラーは入れてくれとの要請が家族よりあり、先日は空調室にある10個のバルブを開けたり閉めたりした。
ところがそれから幾日もしない今朝、家内が「なんだか涼しくなっちゃったね」と言うので「やだなぁ」と返事をする。夏が過ぎていくことは、僕にとってはイヤなこと以外のなにものでもない。
どうにかして夏が盛り返してくれないか、そう考えている昨日今日の涼しさである。
日光市大室地区の高お(雨冠の下に口を横に3つ並べてその下に龍)神社には、人に知られる前から良質の水がこんこんと湧いている。あるいはこの湧き水に神の存在を確信した古代人が、この地に先ず小さな祠を祭り、やがてそれが神社に発展したのかも知れない。考えてみれば確かに、この地区の下流には日光市の中でも特に美味い米を産する土地が広がっている。
この高お神社の御神水と我が瀧尾神社の御神水を合わせ、以て水という宝を枯らすことなく維持していくための環境に思いを致そうとする「日光奇水まつり」の第1回が本日は奉ぜられるため、これに責任役員として列する僕は午後4時に上布の着物を着る。
高お神社の御神水三斗六升五勺を載せた御輿は5時に追分地蔵尊を出発した。行列は猿田彦を先頭として五色の旗、太鼓、稚児、神職、氏子総代がこれに加わる。
高お神社と瀧尾神社の氏子に担がれた御輿は日光街道を遡上しながら盛大に水をこぼす。沿道でこれを見守る観衆はその水をからだに受け、御利益をいただく。御輿はやがて瀧尾神社の参道を進み、遂には宮入をする。
高お神社の水と瀧尾神社の水を合わせる「水合わせの儀」から始まった儀式が稚児による水まきにより無事に完了するころ、あたりは夏の闇が訪れていた。複数の神社が協力してお祭りを行うとは、全国にも例のないことだという。
瀧尾神社の、ぼんぼりの焚かれた境内にて直会の席に連なる。日本のお祭りに日本酒は付きものだが、今夜は唇を湿す程度のお清めに留めて後は冷たいお茶のみにする。そして9時前に帰宅する。
都会の大会社では多く、本日から17日まで、お盆の9連休に入る。
ただの仮定として、自分にまとまった休みが取れればなにをするかと考えてみる。僕ならまず間違いなく海外へ行く。「国内でも良いところはいくらでもあるではないか」と言われれば、それはその通りなのだが、気分を放埒に解放させようとすれば、足は自ずと海外の雑踏あるいは海辺へと向かう。
気分を放埒にではなく自堕落に解放させようとすれば、都会の、ある一定規模以上のサウナ風呂でのんびりすることが随一だ。
皇室の深刻なニュースを大きなテレビが報じている食堂で、サウナ風呂から上がったばかりの、どう見てもまともではない数人が騒いでいる。その男たちに向かって小柄な老人が「貴様らそれでもニッポン人か」と叱声を飛ばす。すると数人のうちの安岡力也に似た男が「何だと、このヤロー」と、お仕着せのガウンの袖をめくり上げてみせる。老人は言葉を失い、悔しそうに視線をテレビに戻す。
そういう人たちのすぐ近くにいて、当方は東京スポーツを読みながらハムエッグを肴にビールを飲んでいる。「あぁ、楽だ、楽だ」と、精神が解放されていく。しかしこのような自己慰安をしなくなってから数十年が経つ。
夜、自転車に乗って日光街道を下っていくと、今夜は商店街のお祭りにて、街のそこここに数人の路上ライブからビッグバンドまで、あるいは蕎麦の屋台などが並んでいた。
シバタヒロシさんが朝8時に事務室へ来て、隠居の樹木の剪定状況について説明を始める。よって「現場へ行きましょう」と、ふたりで外へ出る。
僕は、いわゆる「造った庭」というものが好きでない。維持に経費と手間がかかる、ということもあるが、その問題を除いたとしても、芝でも砂利でもなく、雑草の真ん中に大きな広葉樹が1本だけ、そういう簡素な庭が好きである。
隠居はいわゆる「造った庭」で、これは自分の好みに合わないが、とにかく昔からあるものは仕方がないので、ある程度は手を加える必要がある。
外の歩道にまで枝を伸ばしていた桜の老木は、思い切ってその枝が落とされていた。松などの針葉樹も、随分とすっきりした。藤棚の繁りすぎた葉は、明日以降に剪定されるものと思われる。
自分でも気づかなかったが、庭の南の角に、松と桜が接触して育っている。松と桜のどちらが先に植えられたものかは知らない。多分、松の根元から実生の桜が芽生えたのだろう。桜の木の直径は既にして25センチほどになっている。「ヒロシさん、この桜、根元から伐っちゃいましょうか」と、提案をする。
自分が好きだからしだれ桜を植えろ、実のなる木が好きだから桃を植えろ、鉄線の棚を作れ、バラの生け垣を作れ、縁側に差す日の光が強すぎるから更に桜を植えろと、隠居に木を増やすことしか考えないオフクロがいなくなったら、僕は元からある木もふくめてそのあらかたを撤去し、ここを丸刈りのような広場にしてしまうかも知れない。
「お中元は、お盆を過ぎてから差し上げるものではない」という常識は一体いつごろから世に定着したのだろう。東京のお盆は7月で、田舎のそれは8月である。しかし近ごろは田舎でも、お中元は東京のお盆に合わせて7月の上旬にやりとりをする。
ところで東京のお盆は7月とのことだが、東京や東京の近郊にお墓を持っている人は、この7月にお墓参りをするのだろうか、首都圏のお寺は7月に忙しくて8月はヒマ、とは聞いたことがない。
東京の会社はその規模の大小にかかわらず、お盆休みをするのは8月で、これは田舎のお盆と同じである。一体全体「東京のお盆は7月」という定説に、実体はあるのかどうなのか。
立秋が来て、今日も乳茸をいただく。贈り物に付けるのしは、今日からお中元でも暑中見舞いでもなく残暑見舞いになる。夏の好きな僕としては、残暑にはなるべく長く続いて欲しいと思う。
空がどこか居直って、あるいは安心して自分のなかのすべてを解放しているような感じの雨が、大量に途切れることなく降っている。雷鳴の大きさ、いつ果てるともないしつこさは、きのうのそれの比ではない。枕頭の携帯電話を見ると、時刻は0時30分だった。
朝に目覚めて北西の空、つまりそれは日光連山の方向だが、そちらを眺めると山の向こうに小さく青空が覗いている。きのう今日の悪天候も、そろそろ収束に向かいつつあるのだろう。
日中に2種の乳茸をいただく。乳茸といえばその色は通常明るい褐色だが、今日いただいたうちの片方はくぐもったココア色で、これは気のせいかも知れないが、傘から吹き出る白い粘液も、心なし多いように思われる。こちらは特に「ビロード乳茸」と呼ばれて珍重されているのだという。
夜、その乳茸を含めた肴にて焼酎のソーダ割りを飲むうち、ソーダだけが余ってしまう。これを余らせれば気が抜けるから、すべてを飲みきってしまう必要がある。よって家内にはハムエッグを追加してもらい、これにてつい焼酎を飲み過ぎる。
本郷台地は北から舌状に伸びた尾根のようなもので、東には谷中千駄木根津の、西には小石川春日町の、南には神田の低地がある。
この、舌状台地の南端ちかくで深夜、激しい雷の音に目を覚ます。雷は東と西の、ほぼ水平のところから強く鳴り響いている。当方の耳と同じ高度に雷雲のあるわけはないが、東と西の谷のすべてにどす黒い雲がみっちり詰まったありさまを頭に浮かべる。
5時30分に起床すると、数時間前までの強雨は台風によるものではないから台風一過の青空もなく、外にはじめじめとした朝があるばかりだ。
今日から三浦海岸へ行く長男と次男に先立ち、甘木庵を出て北千住駅7:40発の下り特急スペーシアに乗る。9時すぎに帰社して仕事に復帰する。
次男の、土曜日から泊まりに来ていた同級生ウタニ君を送りがてら午後、東京へ行く。ウタニ君を乗せた新橋駅16:50発の東海道線熱海行きが発車するのを見届けてから、当方は山手線にて有楽町へ移動する。
今の子供は足が大きい。次男は身長150センチほどだが夏休みに帰宅した折、たわむれに足の裏を合わせてみると、その大きさは僕の足と同じになっていた。春の入寮時に持参した靴はすべて小さくなり、足が痛むと言うのも無理はないと、銀座2丁目の"ABC MART"へ行き、"MERRELL"の表革のモカシンを買ってやる。
落雷の影響からダイヤの乱れた有楽町線により約束の時間に遅れた長男とは、銀座一丁目の交差点で落ち合った。
3人で中華料理の「天龍」に入り、皮蛋と餃子を注文する。次男は水だが僕と長男は白乾児を飲む。他に何が食べたいかと次男に訊き、しかし次男の答えるものは僕と長男の好みには合わないから結局は頼んでもらえない。次男は餃子の他には紅焼海参のタケノコと椎茸のみを食べ、ジャージャー麺で締めた。
店を出ると、暗く垂れ込めた雲からは相変わらず雷鳴が低くとどろいている。それでいて雨は降らないから、ずいぶんと蒸し暑い。「磯の匂いがする」と、長男が言う。海からも風が湿気を運んでいるのだろうか。
数寄屋橋まで歩き、エビチリを頼んでもらえなかった次男には好物のジェリービーンズを買ってやって丸ノ内線に乗る。
本日は春日町の納涼祭にて、朝9時に町内の公民館へ行く。青年会員が会社から借り出したトラックに諸道具を積み、春日町公園へ運ぶ。ここで僕は帰社し、後の手伝いは次男と、きのうから泊まりに来ている次男の同級生ウタニ君に任せる。
昼にその納涼祭へワインを持ち込み、お囃子を聴きながらあれやこれやを昼飯にする。
炎天の下で作業をしたりメシを食べたりすれば、それなりの汗をかく。日中に2度のシャワーを浴びてはいたが、更に晩飯の前に、クルマで5分ほどの「長久温泉」で露天風呂に入る。
帰宅して次男の好物のカレー南蛮鍋を食べたら、またまた汗が噴き出した。よって花火ののち本日3度目のシャワーを浴びる。
今週の木曜日は早くも立秋と家内より聞き「いやだなぁ」と思う。1年でいちばん寂しいのは、夏の終わりのころである。
朝、社員用駐車場から会社へ近づいてくる包装係のアオキマチコさんを見て、てっきりヘチマを携行しているものと思った。ところが事務室へ入るなりマチコさんは「これ、カボチャ、食べますか」と言う。「食べますか」と訊かれれば当方は「いらない」と答えるわけもなく、数人分に切り分けたのち、そのひとつをもらうこととする。
午後おそくに電話をしたところ「7時までに来ていただければ」とのことにて、店が閉まり次第とり急いで、鬼怒川に簗を設けた「船場亭」へ行く。川風の爽やかに吹き込むこの店に来るのは何年ぶりのことだろうか。木製の橋を渡り、その簗の突端まで降りて、冷たい水に足を浸したりする。
鮎の塩焼きをはじめ、あれやこれやと注文をする。締めにとろろメシを食べ、更に盛り蕎麦を注文したりする。
「船場亭」とは目と鼻の先にある「東照温泉」の露天風呂につかり、帰宅してすぐに就寝する。
開高健による、戦闘が去った後のジャングルの様子を描いた文章の中に、「森はにぎやかだ」というような一節のあったような気がする。秋元啓一と九死に一生を得たときの経験によるものなのかも知れないし、あるいは作家の日常の記憶によるものかも知れない。
インドシナの森におけるそれにはくらべるべくもないが、ウチのまわりでも複数種の鳥たちが、明け方からかまびすしく鳴き交わしている。
学校から持ち帰った瓢箪を腐らせた次男は代わりに朝顔を手に入れ、この観察を理科の宿題とした。その朝顔が、苗に添えられた写真とおなじ紫の大輪を、今朝は咲かせている。
昼に次男を瀬尾地区の「いちもとサイクル」に送る。
夕刻を過ぎて空がようやく群青色に染まるころ「日光夏の花火」が始まる。洗面所の窓から見ると、花火は以前よりも随分と、その打ち上げ場所を大谷川の上流に移したようだ。
夜9時、いまだ人の引ききらない大谷橋をホンダフィットに乗って渡り、「イチモトサイクル」へ行く。次男は本日、ちかくの子供たちと9時間にわたるバーベキュー大会に参加をしていた。
一体全体9時間もなにをして遊んでいたのかと不思議に思うが、自らを振り返ってみれば、長時間を遊び続ける体力気力が当方には残っていないだけのことと納得をする。