僕がチェンライに着いた28日の前夜は、大変な雨だったという。しかし以降は夕立さえほとんどなく、とても助かっている。そして夜が明けるとチェンマイには青空が広がった。
チェンライからチェンマイに陸路を辿るのは、街道筋の様子が興味深く、また景色が明媚なことによる。そしてタイ随一の観光都市にして「北方のバラ」と称されるチェンマイには、さほどの興味もない。今回も環濠の内側には足を踏み入れないまま、僕はこの街を去るのだ。
先にも書いたようにバンコク-チェンライ便はタイ航空のドル箱だから、いつも大きな飛行機が飛んでいる。そして今日も機材は"Boeing 747-400"。"TG103"は定刻に12分おくれて10:22に離陸。そしてスワンナプーム空港には定刻より8分早い11:22に着陸した。国内便は低い高度を飛ぶためか、機内は蒸し暑いままだった。
僕は空港からダウンタウンまでタクシーを使うことを嫌う。それはバックパッキングをしていた時代に、いろいろと面白くない目に遭っているからだ。
スワンナプーム空港12:13発のエアポートレイルリンクは12:40にパヤタイに着いた。空港と市中心部を結ぶ駅にもかかわらず、プラットフォームにエスカレーターを設置していないところがいかにもタイらしい。スーツケースを提げで階段を降り、BTSスクンビット線のパヤタイ駅に移動する。パヤタイ12:58発のBTSは13:01にシーロム着。ここでおなじBTSのシーロム線に乗り換えシーロム13:05発の、サパーンタークシンには13:16に着いた。
サパーンタークシン駅では、チャオプラヤ川とは反対方向の出口から地上に降りる。そうすればジャルンクルン通りの雑踏は目と鼻の先だ。
僕はホテルは、リゾートとして滞在するチェンライは例外としても、通常は公共交通を使うに便利な場所を好む。そして今回の宿はサパーンタークシンの駅から徒歩数分の距離にある"Centre Point Silom"を選んだ。
禁煙フロア20階の、チャオプラヤ川を望む料金の高い側ではなく、街側の安い部屋に入ると同時に貴重品は金庫に入れ、また衣類は仕分けして引き出しにしまう。昼食はちかくのクイティオ屋で摂った。
バンコクの気温はチェンライやチェンマイにくらべて随分と高い。昼食後はプールで泳ぐ間もなく同級生のコモトリケー君がロビーまで迎えに来てくれた。その足でクロントイへ向かう。
難しい環境にある子供たちに本を届けるなどの事業を続けている「クロントイ・シーカーアジア財団」の場所は、コモトリ君の運転手は教えられなくても分かっていた。ここで責任者のヤギサワカツマサさんにあれこれの話を伺いながらお茶をご馳走になる。また財団の建物で踊りの練習をする子供たちを眺め、図書館カーについての説明を受けたりする。
僕は併設の売店でモン族の手仕事によるポーチ12個を買った。僕のふところから出たお金の幾ばくかが、辺境やスラムに住む子供たちの役に立つなら幸いである。聞くところによればコモトリ君も年に何度かは、この財団に微力を尽くしているという。
日の暮れて後は宿にほど近いルブアアットステートタワーの、しかしタワーの屋上ではなく、直下の歩道にテーブルを広げた屋台にてコモトリ君と飲酒活動をする。下手な料理屋よりもここの屋台の方が、味はずっと良いのだ。
ただひとつの問題は、ジャルンクルン通りを北上したクルマがシーロム通りに右折しようとすると、そこの路面が逆バンクになっていることだ。この交差点を尻を振りながら抜けていこうとするクルマがアクセルやハンドル操作を誤れば、屋台の客は根こそぎ薙ぎ倒されてしまうだろう。
そしてネオンまばゆいバンコクにいながら21時30分に就寝する。
目を覚ましたら3時30分を過ぎたころだった。即コンピュータを立ち上げ、必要な画像を加工して日記を書き始める。今のタイ北部は5時45分あたりからようやく薄ぼんやりと明るくなってくる。その「薄ぼんやり」が朝の明るさになるまで窓の外を眺めつつあれやこれやする。
朝食を済ませ、部屋に戻って窓から庭を眺め降ろすと、プールには早くも数人の人影があった。いまだ東洋人の泳ぎたくなるところまで気温は上がっていない。彼らは多分、欧米人だろう。
午前、手配した乗合自動車の、運転手の後ろの席に収まりチェンマイへ向けて出発をする。水田は、西洋人にとってはかなり異国情緒を刺激されるものらしく、車窓いっぱいにそれが広がれば"rice terrace…"などと、しばし陶然としているが、当方は田んぼなど見慣れたものだから「へー」くらいのところである。
チェンライからチェンマイに南下する途中には、日光の金精峠に似た場所があり、そのような山道で小休止をしながら岩の上のトカゲに目を留めたりする。街道筋のメシ屋では汁麺は小さい方を頼んで別途、炒飯を追加した。
チェンマイには午後の中ごろに着いた。台風、あるいは北部に集中した降雨によりバンコクではチャオプラヤ川が今にも溢れそうな勢いらしい。しかしピン川の水位は、おととしのそれほどは高くなかった。
ホテルの部屋は「高層階の山側」と予約時に伝えてあった。その、ドイステープ山を望む事務机にコンピュータを立ち上げ、若干のfacebook活動をする。
日本を出るまでの数日間は忙しくて、床屋へ行くどころではなかった。夕刻ちかくにホテルのちかくを歩き、それらしい店を見つける。そして外にいたオバチャンに「髪の毛と髭、それに耳の手入れでいくら?」と訊くと「髪と髭で300、耳が200」とオバチャンは、静かで穏やかでゆっくりとした、つまりチェンマイのことばで説明をしてくれた。
当方はタイに入った瞬間からタイの物価に馴染むから、200バーツは邦貨にして2,000円に感じる。「耳に200は高けぇよなぁ」と躊躇う気持ちもあったが、ここはまぁ、オバチャンに任せてみることにした。
結果から言えば、耳の200バーツはすごく安かった。
先ずは耳の周りの毛を剃り、普通の耳かきで耳の中を掃除する。次は驚いたことに、耳の穴に発泡性の液体を入れて、その泡の音がピチピチ聞こえるところに丸めた綿を突っ込み、皮膚を入念に撫でながら、その液体を吸い取っていく。そして今度は前より小さな耳かきで仕上げをし、耳たぶのマッサージで締めたのだ。
耳鼻科の医者が聞いたら顔をしかめるような行為だが、また、髪と髭に対する技術は日本の方が数等も上だがとにかく、髪も髭も耳の中も綺麗になった。そしてオバチャンには100バーツのティップを上げた。
チェンマイといえばナイトバザール。しかしそのナイトバザールは、きのうのチェンライのそれと同じく、まったく賑わってはいなかった。地元の人に訊けば「今は雨季と乾季の狭間で、ハイシーズンではありませんから」とのことだったが、2010年のおなじ時期の人出は大変なものだった。
そして食事の後はそそくさと部屋に戻り、早々に寝る。
"Boeing 767-300"を機材とする"JL033"は、定刻から13分遅れて01:48に羽田空港を離陸した。
「睡眠薬? あるよ。いくつ欲しい?」と僕に訊くオフクロを見て「何合ほしいんだい?」と芸人仲間の頼みに応じた、ヒロポンを一升瓶で持っていたという柳家三亀松を思い出した。「あんた、デパスとハルシオン、両方のまないと効かないよ」とも、オフクロは言った。
7月のネパール行きの際に、オフクロの言いつけを守ってデパスとハルシオンを1錠ずつ飲んだところ、大げさに言えばその瞬間に眠りに落ちた。今回は午前1時すぎの出発であり、またきのうの朝の起床は4時だった。眠れないわけがないと高をくくってその薬を持参しなかったら案に相違して眠れない。そうして輾転反側するうち朝飯が配られ始める。
深夜便の飛行機に乗って「あさきゆめみし」状態のとき、いきなり朝飯の配膳の音で目を覚まされたりすると「不味いメシを食わすために、わざわざ起こさなくても良いよ」と、腹立たしく感じることが常だった。
ところが今回の"JAL & Soup Stock TOKYO"の朝飯は、僕がかつて経験した機内食のうちの最高のものだった。いまだ覚めきっていない舌と胃を喜ばせる上出来の朝飯。その内容は、フランスパン、トマトと鶏肉のクリームスープ、果物盛り合わせ、プレーンヨーグルト、そしてコーヒーまたは紅茶。
「新幹線の食堂車でステーキを食べる人が嫌いだ」と山口瞳は言った。機内食も同じと、僕は感じている。
バンコクの夜はいまだ明けていない。"JL033"は定刻より35分も早い、日本時間07:40、タイ時間05:40にスワンナプーム空港に着陸をした。
スワンナプーム空港での乗り換えには、時として1キロを超える歩行を要する。しかし次のボーディングまでには、パスポートコントロールや手荷物検査を加えても、1時間以上も余裕がある。その時間は会社からの連絡への返信や、ノートへの覚え書きの記入などに費やす。バンコクの天気は小雨。気温は27℃と、日本航空の機長には知らされた。
"Air Bus A300-600"を機材とする"TG130"は、定刻に37分も遅れて、日本時間10:52、タイ時間08:52にスワンナプーム空港を離陸した。しばらく飛ぶと機は雲の上に抜け、テーブルには強く日が差し込み始めた。よってザックから近藤紘一の「目撃者」を取り出し、1981年11月に書かれた「ASEAN偏重外交の落とし穴」の項を読む。
雲が切れると、地上は思ったよりも近いところにあった。白人ばかりを乗せた"TG130"は、定刻に18分遅れの日本時間11:53、タイ時間09:53にチェンライ空港に着陸をした。日本航空からタイ航空への、スワンナプーム空港での荷物の引き渡しが上手くいくかどうか心配していたが、僕のスーツケースは空港の別部屋に保管されていた。迎えのクルマも首尾良く来ていた。そしてチェンライの、今や見慣れた道を辿ってホテルに入る。
午後はタイ最北部のチェンライから更に田舎に入り、手入れの行き届いた家にお呼ばれをしたりする。また、お茶を振る舞われたりもする。しかし僕は基本的には、旅先ではひとり勝手にしていることを好む。午後の遅い時間にホテルへ戻り、およそ48時間ぶりに風呂に入る。そしてベッドに寝転び、晴れと曇りと夕立とを頻繁に繰り返す景色を1時間ほども眺める。
日が暮れてから出かけたナイトバザールは、土曜日にも拘わらず人の姿はまばらだった。晩飯には、今上天皇が国民の蛋白質摂取向上のため贈ったことをきっかけとしてタイに根付いたというティラピアの、そのまた仲間の柑橘スープ煮をおかずに米のメシを食べる。
顔を布でグルグル巻きにし、妙な格好で寝ている男をナイトバザールの外れに見かけ「まさか死んじゃぁいねぇだろうな」などと考えながら通りに出てトゥクトゥクを拾う。そしてホテルに戻って21時15分に就寝する。
目を覚まして枕頭の黄色い"iPhone 5c"を見ると時刻は4時を過ぎたところだった。よって直ぐに起床して事務室に降りる。
「気力の萎えたときが日記の続かなくなるとき」と言った人がいる。僕の場合には、気持ちが忙しいと日記が書けない。そうして24日以来途絶えていた3日分の日記を、製造現場での早朝の仕事をはさみながら一気に書く。
朝に事務室で仕事をするときには、シャッターを上げる。そして夜から朝に変わる景色を楽しむ。6時を回ったころに外へ出てみると、日光の上空には紺碧の空が広がっていた。
昼を過ぎて、タイ行きの、ここ数日のあいだ少しずつ用意した荷物を事務室に降ろす。今回は私物の量をできるだけ絞った。その結果、土産用の分厚い本3冊、文庫本1冊、人に頼まれた味噌2キロを含めても、コンピュータなどを除くすべては機内持ち込みできる大きさのスーツケースに収まり、重さは14.5キロに留まった。
そして下今市19:53発の上り最終スペーシアに乗り、羽田空港国際ターミナルには22:40に着く。
毎朝、窓を開けて眺めている日光の山々に、今朝は不思議な雲がかかっている。聞くところによれば、台風20号が列島の太平洋沖を北上中なのだという。今週末に予測されている晴れは、台風一過の晴れなのかも知れない。
アメリカから日本の関連会社に派遣されようとしているビジネスマンが、東京の仕事場を下見に来て「電話はかかり放題、人は訪ねて来放題。一体全体こんな環境で、どうやって仕事をしろというのか」と愕然とした。そしていよいよ出社すると、しかし自分の仕事場だけはガラスで仕切ってあり、電話や来客を制御する秘書も付けられていて安心した、という話がある。
僕はガラスの仕切りも秘書も必要としない。しかし電話や来客についてはどうにかならないか、と感じることがしばしばだ。そして今日は遂に、内線電話の通じない隠居へと逃げ出し、ここで心ゆくまで文字と数字に向かう。
電話がやたらと鳴ったり、あるいは「たまたま近くに参りましたので、お寄りしました」などと人の訪れる環境で効果的な勉強ができるだろうか。仕事も同じである。
そうして夜は「東北ゴールデンイーグルス」優勝の報に接しながら僕の知る限りテレビでその様子を中継するところは無く、早々に寝る。
1993年から始まった、日本酒に特化した飲み会「本酒会」から、僕にいつ声がかかったかを思い出すすべは無い。しかし1995年5月22日の「第24回本酒会」からは、僕の記録が残っている。
ウェブ上に残されたそれを見てみれば、それより前にも僕は別の文章を会報に書いた覚えがある。とすれば僕の「本酒会」への入会は、1995年のはじめごろだったのかも知れない。
本酒会の会場は月ごとに変わったこともあったが、今年は蕎麦の「やぶ定」、鰻の「魚登久」、そして蕎麦の「玄蕎麦河童」の3ヶ所を数ヶ月おきに回ることで定着している。
午後から雨が降り出す。その雨は傘を持たなくても済むほどの弱いものだ。しかしだからといって、傘をささなければ服はしっとりと濡れるだろう。
終業後に事務室にいて、外の様子に耳を立てる。雨はもとより弱いものだったから、その具合を耳で計ることはできない。そのうち壁の電波時計が19時を回る。「玄蕎麦河童」はウチとは大谷川を隔てたところにあって、それほど近いわけではない。「今が、歩いて行っても遅刻しない限界だわな」と考え、外へ出る。
雨は幸いにして収まっていた。そうして自転車に乗り、国道121号線の坂を下る。
ウチのウェブショップは1998年10月15日に、niftyに間借りする形で始まった。そのときのURLは https://member.nifty.ne.jp/tamari/ だ。もちろん今は影も形も無い。
その翌年1999年3月29日、自社ドメインによるウェブショップ https://www.tamarizuke.co.jp/ を開いた。niftyのものも自社ドメインによるものも、設計とデザインは当時の外注SEマエザワマコトさんが請け負った。現在のウェブショップが検索エンジンに対して抜群に強いのは、マエザワさんの基本設計によるところが大きいと僕は信じている。
2002年6月26日には、"ComputerLib"の中島マヒマヒ社長により買い物カゴが実装された。買い物カゴのどこが顧客に訴求したのかは不明ながら、この年は売上げが前年度比で3倍になった。
次の大きな改造は2009年5月12日に行われた。これは開店から10年を経ていささか古くさくなったデザインを、時代に合ったものにした。
本日は、2002年から11年ぶりに一新した買い物カゴを以て、より大きく、より速度の高いサーバに乗り換えた。「2013年9月24日」という日は、上に書き連ねた日付と同じく、ウチのウェブページに長く記録されるだろう。
きのうから泊まり込んだヒラダテマサヤさんは、夕刻になっても、サーバの移転にともなうあれこれの作業を続けている。そしてその横で僕は、ウェブショップのリニューアルを知らせるメールマガジンを作成する。
ウチのウェブショップは、僕の触れる範囲内においては僕がこれを更新する。そしてそれ以外の部分については"Vector H"のヒラダテマサヤさんが制御している。サーバは1999年3月から神保町の"ComputerLib"の世話になってきた。しかし諸般の事情により9月末の転出を決め、この数ヶ月はその準備にかかっていた。
サーバの移転とは、皿の上のリンゴを別の皿に移すようなものとばかり考えていた僕に、実際にはショッピングカートを備えたすべてのページを作り直す必要があると、ヒラダテさんは穏やかな口調で僕に説明した。
僕の好みに従って増改築を繰り返してきた現在のショップについては、専門家によるコンサルティングを6月28日に受け、顧客にとってより使いやすいデザインや注文の流れを示唆してもらった。
ショッピングカートを備えたすべてのページとトップページのデザインについては、先のコンサルティングの内容を踏まえつつ、7月22日にデザイナーと打ち合わせをした。
ところで前出の「6月28日」とか「7月22日」とかの日付は、僕の仕事のスケデュールとしてノートやコンピュータに記録しているわけではない。その日の昼飯や夜に飲んだ店を覚えていて、それをこの日記で検索するのだ。
本日は午前中からヒラダテさんが来社をし、明日の移転作業に先立ちあれこれの環境を検査した。そして夜は長男も含めた3人にて飲酒活動をする。
日本語から数助詞が急速に失われている。紙が「1個2個」ならお銚子も「1個2個」だ。そのうち人も「1個2個」で数える時代が来るだろう。そういう僕も結婚式についての数助詞は知らない。今日はふたつの結婚披露宴が控えている。
招待状は2ヶ月以上も前に受け取っていたのだから、繰り返し確認をするべきだった。西池袋で10時30分の受付に対して下今市07:04発の上り特急スペーシアは早すぎた。中央コンコースから北口に抜けるところの本屋で新書1冊を買い、それを喫茶店で数十分ほども読む。
今日の気温は20℃台の後半くらいだろうか。しかし湿度の低いせいかスーツを着て街を歩いても汗はかかない。
マハルジャン・プラニッシュさんとナオコさんの結婚式には、7月14日に行われたカトマンドゥでのものに参列をした。今日は日本でのお呼ばれである。明日館の講堂で執り行われた式は真面目で簡素、また明日館での披露宴は上品で楽で心地よいものだった。
その披露宴がお開きになったのは14時30分のころだった。池袋から甘木庵に移動し、シャワーを浴びてシャツを換える。そして16時30分ごろ浜松町の世界貿易センタービルに移動をする。
「そんなに神経と体をいじめたら、人間、すぐに死んでしまう」と感じずにはいられないほどの仕事ぶりを不思議な偶然から知り、2009年から顔を出すようになった「鮨よしき」の店主ニシヅカヨシキさんとカズヨさんの結婚披露宴は、親戚、取引先、ひいき筋に囲まれて、あたたかく賑やかに続いた。
今日は途中で着替える必要もあったため、銀座にホテルでもとろうかとの考えもあったが、ウチは人の遊んでいるときこそ忙しく、帰宅した方が良いことは良い。そういう次第にて夜の披露宴会場「スカイホール」には、あらかじめ電話で時間の塩梅を訊ねていた。
「19時にはお開きの予定でございますが、なにぶんにも披露宴でございますので、延びる可能性もございます」という先方の説明に「20時くらいまで、とかですか」と問えば「そこまでは流石に…」とのことだった。しかし僕が会場で夫妻の見送りを受けたときには20時を数分まわっていた。
とはいえ浜松町は、僕にとっては交通の便が良い。地下鉄の駅から浅草の路上に出ると、昼にくらべて随分と湿度が上がっていた。汗をかき続けながら下り最終スペーシアに揺られ、23時前に雨の中を帰宅する。
きのうの夕方は自転車に乗って如来寺のお墓へ行った。そして既に備えてあった花に水を足し、水の減っていた茶碗を洗い、新たに水を満たしてきた。今朝は6時前にまたお墓を訪ね、きのうから用意しておいた花を花入れに足す。
鶏頭はその名の示す通り形は不気味で色もきつい。そのためどちらかといえば苦手な花ではあるけれど、夏の終わりあるいは秋の初めにこれを目にすれば「鶏頭の、十四五本も、ありぬべし」の句を思い出し、つい手が出てしまうのだ。
と、そんなことを書いていたら、鶏冠の味が脳によみがえった。ギザギザのある、文字通り雄鳥の頭の上にある鶏冠はナタデココのような食感で、面白く食べられる。しかし嘴の下から垂れ下がっている、あれも鶏冠というのかどうかは不明ながら、あの部分の脂には独特の匂いがあって、恐る恐る食べているような人は特に、吐き気を催すかも知れない。
と、ここまで書いてまたまた「あの花に鶏頭という名はふさわしくないのではないか、鶏冠とすれば自然なのに」と、今年の春にチェンライで見た、鶏の頭の丸焼きを思い出しつつ考える。
このところ昼夜の寒暖の差が大きいように感じる。日中は冷房が欲しく、そして夜は暖房が欲しい。窓を開け放って寝るなどは、もうとてもではないが、できることではない。それでも鈴虫は、いまだ鳴き続けている。
今月15日に"iPhone 5c"を予約した。そうしたところきのうdocomo shopから電話があって、20日の朝8時から商品の受け渡しが可能だという。
僕の携帯電話については2000年代の初めごろ、"N502it"を地面に落としたら、電話帳に登録した各人の、最初の電話番号以外のすべてが消えた。もうすこし詳しく説明をすれば、ある人の、会社の電話番号の次にその人の携帯電話番号が入っていたとすれば、会社の電話番号のみが残って携帯電話番号は消えた、ということだ。この現象が電話帳のすべての人に対して起きた。
いま使っている"NM706i"の電話帳では、前の機種から受け継いだ番号の頭には受話器のアイコンが付いているにもかかわらず、新たに入れた番号にはそれが付かない。docomo shopに相談に行ったところ、係の人はかなり時間をかけ、どこかに問い合わせもしてくれた挙げ句「原因は分かりませんねー」と申し訳なさそうに溜息をついた。
SoftBankで"iPhone"を契約したときには、他社の携帯電話からも移せるはずの電話帳が、docomoの"NM706i"からは移せなかった。
この電話帳の問題、そして今回の"iPhone 5c"の初期設定を解決するため、僕は外注SEのシバタサトシさんに声をかけた。
シバタさんと共に10時にdocomo shopへ行くと、待ち時間は90分と伝えられたから会社に戻り、シバタさんは僕の"NM706i"をコンピュータに繋いでデータの取り出しにかかったが、どうにもうまくいかない。そうして11時30分に再びdocomo shopへ行き、45分待ってようやく僕の番が来る。
あれこれするうち、携帯電話に設定された3つの暗証番号をオネーサンに訊かれる。しかし僕はそのすべてを覚えていない。3つのうち特に端末の暗証番号については、法人契約の場合、会社の登記簿謄本か印鑑証明がないと初期化できないとオネーサンは言う。シバタさんとは14時のdocomo shop集合を約して別れた。
会社にたまたまあった、3ヶ月以内に取得した登記簿謄本を持って14時に三たびdocomo shopへ行く。今度は待ち時間ほぼゼロにてカウンターに呼び出された。間もなくシバタさんもやって来た。
僕の手続きをしてくれているオネーサンは、"iPhone"に機種変更をする客は僕が初めてだという。"iPhone"のSIMカードは今回のものから随分と小さくなっている。本体の穴に突き刺してカードの入れ口を開く針がどこに入っているのか、それがオネーサンには分からない。そしてシバタさんがその仕舞われている場所を教える。
本体横のフタが開くと、黒く小さな枠が出てくる。そこにSIMカードを納めるのがこれまたひと苦労だ。あーでもない、こーでもないと試行錯誤を繰り返すオネーサンからシバタさんは本体とSIMカードを受け取り、太い指でパチンと填め込んだ。シバタさんはSIMカードの金属部分を指の腹で押さえていた。脂が酸に変わって金属を錆び付かせる心配はないのだろうか。
「siriはオンにしますか?」
「いえ、結構です」
「位置情報はオンにしますか?」
「いえ、結構です」
というようなやり取りを経てようやく、黄色い"iPhone 5c"は僕に手渡された。心配していた、"NM706i"からの電話帳のコピーもできた。そうして会社に帰り、シバタさんは動作確認を始めた。結果は上々。デザリングもサクサクと快適である。
今回の機種変更と同時に僕はdocomoのデータ通信端末"L-05A"を解約した。更にSoftBankの"iPhone4"を解約すれば、僕の携帯通信環境は"iPhone 5c"のみになる。大いに嬉しい。
ところで"NM706i"から"iPhone 5c"に入れた電話番号は、フリガナの部分がすべて飛んでいた。現在の電話帳がどのように並んでいるかといえば、コンピュータで文字正順でソートしたと同じく、ひらがなまたはカタカナによる50音順、アルファベットによるABC順、数字の少ない順、そして漢字は「阿」から始まって最後は「和」で終わっている。
500を超えるデータに逐一ふりがなを入れるかどうするか、というのが目下の問題である。
階段室の本棚およびその下の床、更には階段の一段一段。また居間の食卓の周り、そしてベッドの下の床。そのあたりに詰め込まれ、あるいは散乱した本をそろそろ整理しようと考えている。整理とは家の外に放逐する、ということだ。
それを実行するには、先ず自分の必要とする本を残し、それ以外のすべては古書として引き取ってもらう。古書店が「これはちょっと」と敬遠したものは紐で縛って資源ゴミとして収集業者に渡す。そのような一連の流れを実現する必要がある。
ここで「自分の必要とする本とはなにか」ということを考える。買って10年も読まなかった本でも十把ひとからげにすることはできない。買ってそのまま忘れている本、10年経ってもいまだ読む気力の勃興しない本、また勿体なくて読めない本が混在しているのだ。
「自分の必要とする本とはなにか」については難しい問題がある。「いまだ読んでいなくて、多分これからも読むことはないだろう」という本は「自分の必要とする本」ではない。一方「一度読んで、二度読むことはないと確信しているが捨てがたい」という本は「自分の必要とする本」なのだ、多分。
「世間的」と思われる価値の基準を元に「客観的」と考えられる方法によって必要な本を取捨選択することは僕には不得手だ。第一「世間的と思われる価値の基準を元に客観的と考えられる方法によって選ばれた本」など、僕の本棚に存在するのだろうか。
本日昼に「大貫屋」の入れ込みで日本経済新聞の第40面を開くとそこに「競馬オッズ板 歴史探訪」という、タンメンを食べながら読むにはまことにふさわしい記事があった。
「世界初の競馬オッズ板は、1913年にオーストラリアの鉄道技師ジョージ・ジュリアスにより開発された」という意味のその記事を読みながら「なるほどー」という感動を禁じ得なかった。というのは、パーソナルコンピュータの歴史はマサチューセッツ工科大学の鉄道模型クラブから始まった、ということを僕は随分と前に読んでいたからだ。その
「ハッカーズ」 スティーブン・レビー著 工学社 ¥2,575
の裏表紙には「1994.1008-1015」という数字がある。上下2段組622ページの本を遅読派の僕が8日間で読み切ったとは異様な速さだ。そしてこの本を再読する可能性は無いと思われるものの、しかしこの本を手放す気には、僕はなれない。
一体全体、僕の本は整理されるのだろうか。
「太っている女の人ほど太って見える服を好む」という、マーフィーの法則めいたことを唱えた人がむかしいた。膨張色によるシャネルスーツまがい、などというものがそれだ。あるいは日常においても、自分が気にしている個所を隠そうとするデザインが却ってその部分を目立たせる、ということもある。
「太っている人ほど太るような食べ物を好む」という事実をしばしば目の当たりにする。インカムを付けた店員が威勢の良い声を出しながら客の背中と背中の間をすり抜けていくようなチェーン系の居酒屋で、大勢による飲酒をする際になどには特に良く気づかされることだ。
「鳥唐揚げ、バターコーン、チーズ入りメンチカツ、あと鉄板ステーキね」などという注文風景を眺めながら「君、そんなもんばっかり食ってたら死ぬぞ」と腹の中では思うものの口には出さない。否、口に出したこともある。そのとき返った答えは「人間、いつかは死ぬ」というものだった。まぁ、それはそうだ。
長男の作った肉じゃがを夜に酒の肴にする。ジャガイモのポクポクという食感は、蒸かしジャガイモの時には気にならないものの、これが肉じゃがになった途端、なぜか疎ましい。紫芋は外観はジャガイモそのもので、しかし熱を通すとサツマイモのような香りを淡く漂わせ、食感はジャガイモよりも里芋に近い。
肉じゃがも、芋が紫芋なら食べられる。そして「芋を食ってりゃ人間、長生きできるだろうか」と考え、しかし「そんなことは分からねぇ」と、早くに世を去った人たちのことを想う。
僕が携帯電話をいつ持ち始めたかの記憶は無い。1990年代の初めには、我が町では携帯電話の契約は小倉町のNTTで行われていた。理由は不明ながら当時NTTの窓口では、携帯電話のメーカーを明らかにしなかった。「Dは三菱でFは富士通でPが松下ですか」などと訊くと「まぁ、そのあたりは…」と係の人は苦笑いをしながら言葉を濁した。
最初に持った携帯電話は型番に"D"の付いた、円筒形に近いコロリとした形のものだった。バッテリーの保ちの良さを求めて切り替えた次の機種は松下製だった。
それ以降の機種は型番を辿ることができる。ノキアの"NM502i"、NECの"N502it"、モトローラの"M1000"、そしてノキアの"NM706i"は1台目を落として破損させ、現在は2台目を使っている。
携帯電話については、同じ会社の製品を機種変更しながら使い続けることを僕はしなかった。他の会社の機種に買い換えるたびメールの打ち方などが変わり、混乱することも多かったが、そんな苦労よりも新奇なデザインや小型軽量さやスマートフォンとしての機能に興味が傾いた。
2年ちかく前に、docomoが"iPhone"を出すと日本経済新聞が報道し、これは「世紀の誤報」とされたが日経の内部では「しかし、docomoはいずれ"iPhone"を出す」と意気軒昂だった。そして今月10日、Appleはdocomoが"iPhone"の扱いを始めることを発表した。
先週末、ドコモショップに"iPhone 5c"を予約した。色は黄色。僕は"iPhone"では音楽を聴かず、動画を保存することもないから容量は小さい方の16GBでも十分すぎる。SoftBankの"iPhone"とdocomoの通信端末は、これを期に解約する。
僕の携帯電話の電話帳は"N502it"を落としたときにおかしくなり、"NM706i"からSoftBankの"iPhone"には、移せるはずのデータがなぜか移せなかった。今回の"iPhone" 5c購入に当たっては、外注SEのシバタサトシさんに初期設定を頼もうと考えている。
朝はやくからNHKのニュースを見ている。このところの気象庁は、数ヶ月前の失敗がよほどこたえたのか、その後は「数十年に一度の災害の起きる可能性」という警報を、しばしば出すようになった気がする。
関西の、あちらこちらの風景をテレビが伝えている。大津の街の舗装道路を濁流が洗っている。嵐山では桂川の川面が渡月橋の下端に迫ろうとしている。地元の人の話では、携帯電話への緊急警報が夜を徹して鳴り続けたという。
「お祝いのものは午前中に届けなければ」と、町内からの敬老の日の祝金を、春日町1丁目5組の組長として、各戸に配って歩く。それに要した時間は数分のことだったが、傘を差していたにもかかわらず、シャツもズボンも着替えを要するほどに濡れた。
「今日は開店休業だ」とばかりに社員たちは打ち揃って社内各所を掃除し始めた。その範囲は、社員が出勤してくる通路から工場の裏木戸まで及んだ。僕がアルコールを噴霧して布拭きしても綺麗にならなかった事務室裏の壁も、社員たちによって真っさらに水洗いされた。
その過程で警備保障の端末に水が入り、警備会社から人の駆けつけることもあったが、壁や通路が洗い清められたことにくらべれば、どうということもない。
強い風と雷雨は午後の中ごろには収まった。明日は快晴になると思う。
この夏休みと二学期の間に、高校3年生の次男はクラスで宮城県へ行き、あれこれ手伝いをしてきたという。
その内容は農地の草取り、仮設住宅の除草と看板作りと縁台作り、住民とのタッピングタッチによる交流、グループホームの花壇作り、保育所のグランド整備、あるいは十三浜における、帆立貝の養殖に必要な道具の完成、そしてワカメの養殖に使うロープの掃除など、多岐に亘った。
活動の最終日に、彼らは漁師の奥さんサトーノリコさんにワカメをいただき、それが回り回ってウチの台所にもやってきた。
十三浜のワカメは肉厚と聞いていたが、今朝の味噌汁の具になった、そのシコシコシャキシャキの歯応えを味わいながら「なるほどー」と、大いに感心をした。食感オタクは分厚い海藻が好きなのだ。
そして夜に至って、今度はそのワカメの酢の物を食べる。こちらのワカメには根に近いあたりが多く混じり「これはワカメではない、なにか他の、しかし更に上出来の海草なのではないか」と大喜びをしながら、しかし一気に食べては勿体ない。すこしずつ大切に「ひやおろし」の肴にした。
開け放った窓の外からは、種を特定できない、複数の虫の声が入り交じって聞こえてくる。季節外れの湿熱は、台風が近づいているせいかも知れない。
気がつくと扇風機が停まっている。寝るときに1時間のタイマーを設定したから当然のことだ。枕元に携帯電話を手探りして時刻を見れば、いまだ午前1時台だったらゲンナリする。
きのうの就寝は21時台だった。とすれば4時間ほどしか眠れていないはずだが眠気は訪れない。よって直ぐに起床し、2日ばかり溜め込んだ日記を書き始める。
午前3時ごろにやおら空腹を覚える。やがてその空腹感はどんどん強くなっていった。1、2分も歩けば東京大学構内のコンビニエンスストアに行くことができる。しかしそこで売られているものを食べる気分ではない。
水のみを飲んで、日記の作成から仕事に移る。冷房を欠いては夜でも額に汗の浮かぶほど、東京は9月のなかばに至っても蒸し暑い。やがてツクツクボウシが一斉に鳴き始める。
コンピュータに向かったまま朝飯の機会を失う。そして午前も遅くなったころに外へ出る。
ここ1年ほどは、家と下今市駅とのあいだは自転車で往復している。しかし今回は鬼怒川温泉駅から東京に直行した。そういう次第にて帰りは特急スペーシアを下今市駅で地元線に乗り換え、上今市駅で下車する。こうすれば家まで歩いても下りばかりで楽なのだ。
帰宅して入浴の後、なにかの拍子でコンピュータを開いてしまう。そして短かった睡眠時間を余計に縮める。
ウェブショップから僕のこの個人ページまでをも含めてサーバーを替えるとは、今月の日記には既にして2度ほど書いたことだ。「清閑PERSONAL」については何の面倒も無いが、ウェブショップの、購入ボタンの付いたページすべてと、その奥の目に見えない部分はすべて一新する必要がある。
僕のスケデュール管理によれば、今月10日には購入ボタンの付いた数十ページを完成させ、以降はトップページのデザイン変更に移ると記してある。しかしその予定は3日後の今日になっても達成されていない。
"VECTOR H"は9時30分が始業のところ、社長のヒラダテマサヤさんにはきのうのうちから無理を言って、今朝は8時に会社を開けてもらうことにした。甘木庵を朝の6時台に出て仕事に向かうなどは、今回が初めてのここと思われる。
恵比寿に達したのは7時45分だった。日比谷線のプラットフォームから長いエスカレータを上って駅ビルの真ん中を突っ切る。動く歩道スカイウォークの上を早足で歩いても、ガーデンプレイス側の出口までは8分もかかる。
きのうの鬼怒川温泉とくらべれば、東京はまるで別の国のように蒸し暑い。"VECTOR H"では昼食を挟んで夕刻まで根を詰める。インターネット上に設けられた作業場で僕の要望を読み取り、それをページに反映させて「対応済み」と返信するデザイナーはさぞかし、神経をすり減らしていることと思われる。
そうして空の暗くなりかかるころに神保町へ移動し、若干の調べごとと飲酒活動をする。
神保町から甘木庵の距離は絶妙あるいは微妙なものにて、歩くことの嫌いな人は即、タクシーを捉まえるだろう。しかし僕はそれはしない。富士見坂から駿河台坂を上がり、お茶の水まで達したところでひと駅のみ地下鉄に乗る。そして本郷三丁目からふたたび歩き出す。「三原堂」のディスプレイは十五夜だった。
甘木庵に帰ると同時にシャワーを浴びる。そして扇風機のスイッチを入れて即、就寝する。
タケシトーセーさん、カワナベコージンさんとの3人部屋で目を覚ますと、外は既に明るくなっていた。稠密な日程による旅行やMGの最中には、日記を書くことに割ける時間が少ない。おまけにからだや頭も疲れているから、できることなら横になって休んでいたい。その気持ちを振り切ってロビーに降り、おとといの日記を書く。
日光MGの2日目は、第4期の経営計画から始まった。実現性の低い、高い目標を立て、それに向かって邁進することを楽しむ人がいる。僕はそのような性格は持ち合わせないものの、固定費400円、経常利益100円、付加価値単価16円の商品を32ヶ売る強めの計画を今朝は立てた。
そして上から数えて2番目のB卓へ上がってみれば、カタヤマタカユキさんの会社は堂々の布陣を構えていた。そのカタヤマさんに追いつくためあれやこれやして固定費を積み重ねつつ、付加価値単価16.9円の商品を29ヶ売る。売上げは経営計画の960円にすこし足りない902円だった。予想外にかさんだ固定費に阻まれ経常利益は計画に遠く及ばない13円。
この虎の子の経常利益を特別損失に帳消しされ、おまけに配当6円を期初に支払ったから自己資本は前期に比して6円安の323円に落ちた。ただし902円の売上げは参加者30名中の2位にて、これを以て第5期のA卓が確定する。
第2期から第4期までを振り返りつつ自己評価と衆目評価をつき合わせるビジネスパワー分析を経ていよいよ、第4期に第1位の売上げを達成したオザキナツさんが、第5期へ向けてサイコロを振る。その結果は固定費1.2倍の2市場閉鎖だった。付加価値の高い商品を少しだけ売ることを好む僕には逆風である。
その逆風の中で臨んだ第5期はしかし、しごく楽なものだった。理由は6名中の、オザキナツさん、カワナベコージンさん、カタヤマタカユキさんの3名が製造と販売の能力を高めて安値による大量販売を目論み、僕とタケシトーセーさんはその反対に高値の少量販売を目指し、その隙間をヌマオアキヒロさんが狙い、というわけで、期初から期末に至るまで競合はほとんど発生しなかったのだ。
「こんなに楽で良いのだろうか、勉強には刻苦が必須なのではないか」と、楽の好きな僕でさえ疑問を持つ第5期の最終手は「教育成功」で、楽の屋上に更に屋を重ねる結果となった。
MGは、いくら成績が良くても来期へ向けて最低3ヶの戦略チップ、そして最低10ヶの在庫を持たなければ表彰されない。「教育成功」を引いて労せず5ヶ160円の売上げを上げた僕の在庫は6個に落ちたため、オザキさんとタケシさんから計4ヶの材料を調達した。
MGは勝ち負けを重要視する勉強ではないが、ゲームであれば表彰のあった方が張り合いがある。第5期終了時の自己資本第1位はタケシトーセーさんの512円で最優秀経営者賞を、第2位は僕の同496円で優秀経営者賞を、第3位は家内の同448円でやはり優秀経営者賞を与えられた。なお第5期に2,185円の最高売上げを記録したカワナベコージンさんの自己資本は388円で、これは次点となった。
僕の自己資本第2位はひとえに、運の良さと人に助けられたことによる。
日光MGの最終部分は常に慌ただしい。原稿用紙2枚ほどの感想文を書き上げる前に、先生からは「そろそろ」と、締めの挨拶を促される。遠方から参加の方々は上りの電車に間に合うべく、感想文を提出するなり走るようにして会場を去る。
教材の片付けは参加者の方々や社員が率先して行ってくれるので有り難い。「古河MG会」からお借りした道具4組は、オザキナツさんが自身の"Jeep Wrangler"で運んでくれるという。
帰宅される方々を「一心舘」の前で見送って後は、希望者8名による早め夕食を森の中のイタリア料理屋で摂る。
今回は明日の仕事に備え、西先生やタケシトーセーさんと共に僕も、鬼怒川温泉駅19:25発の上り特急スペーシアに乗った。車中できのうの日記が書ければ時間の使い方としては上出来だったろうが、疲れとワインによる酔いにより春日部あたりまではうつらうつらする。
甘木庵へは北千住から千代田線に乗り換える経路がもっとも合理的だ。しかしそれではあまりに残心に欠ける。浅草から銀座線に乗り、神田駅に達したところで西先生にご挨拶をしてタケシさんと共に下車する。下りの新幹線の時間が切迫しているタケシさんとはJRで東京駅まで行き、そこから僕は丸ノ内線にて本郷三丁目に回る。
甘木庵には22時すぎに着いた。そしてシャワーを浴びて即、就寝する。
今回の日光MGに際して、遠方から参加の方々は、日光市今市と日光市鬼怒川温泉に別れて前泊をされた。僕と長男は8時30分にJR今市駅前の「熱海館」に三菱デリカを横付けし、ここに「今市組」をお乗せする。
今市旧市街から鬼怒川温泉までは15キロほどの距離で、30分もかからず達してしまった。MGの開始時間にはいまだ間があったため、鬼怒川に架けられた「鬼怒楯岩大吊橋」に寄り道をする。吊り橋からは上流右岸にある盾岩の、そのまた上にあるという展望台までは、土砂崩れのため歩くことはできなかった。
10時に「第26回日光MG」が始められる。MGの第1期はベテランも初心者も、同じ手順を踏んで資金繰り表から決算書までを完成させる。この部分は脚下を照顧しつつ進むべきところで、すこしばかり何かを知っていたとしても、決して先走ってはいけない。
MGは参加者各自が経営者となり、2日間で5期分の経営をゲームの形で盤上に展開する。僕のMGの経験は今年で22年目になる。しかして自分でも呆れるくらい、僕はゲームが下手だ。その理由は数々あるが、今回の第2期終了時の会社は、僕のものとしては例外的に均衡を保っている。
第2期の売上げトップは日光市から参加のヌマオアキヒロさんだった。そのヌマオさんが、第3期の固定費の倍率や市場制約を決めるべくサイコロを振る。ヌマオさんには第2期にリスクカードが頻出していたような気がする。ヌマオさんはそのリスクをどのようにかいくぐり、いつの間に商品を売っていたのだろう。
MGでは、売上げの高い順に5~6人がひとつの市場を形成し、商戦を繰り広げる。僕は先の第2期においては一定以上の売上げを記録したが、市場活性化のため上には上がらず、最小規模のE卓に降りた。そのE卓における第3期末の僕の会社は、いまだ無難なところを維持しつつも、しかし到達自己資本は329なのだから、そう大したものではない。
そしてここで突然、第4期はB卓へ上がるよう先生から告げられる。ゲームの上手下手は、このあたりにも現れる。僕はE卓に居残るつもりでいたので、B卓への備えは一切していなかった。「詰めが甘い」と言われれば、その通りである。
第3期の売上げ第1位は、千代田区丸の内から参加のカワナベコージンさんだった。カワナベさんは好々爺のような顔をして、腰を低くしながら、しかし期末には「マーケットシェア30数パーセント」などという成績を上げている。ひとつの市場に6社が存在すれば、1社あたりの平均シェアは100÷6で16.7パーセントになる。そこで「30数パーセント」なら平均の倍で、これはなまなかな数字ではない。
今回の日光MGは、鬼怒川温泉のホテル「一心舘」で行われている。温泉街はたまたま「月あかり花回廊」というイベントの最中にあった。よって夕食後はみなで外へ出て、その会場を散策しながら護国神社に至る。神社は前衛華道のようなオブジェで飾られ、オカリナのコンサートが開かれていた。そのオカリナによる"Yesterday"は、ビートルズのオリジナルよりよほど僕の心に響いた。その理由については知らない。
ホテルに戻って後は参加者全員が一室に集まり交流会をする。交流会にはアルコールも出るが飲み会ではない。そして僕はその会のお開きになる0時前に会場を引き上げ、温泉に浸かって0時30分に就寝する。
目を覚ますと部屋の中は既に薄明るくなっていた。起きて時計を見ると5時が目前だった。夏至ちかくの3時50分ごろの明るさが、今は1時間ちかく遅れてやって来るような気がする。ベッドに戻って本を読み、しばらくしてからまた窓の外を眺める。今朝の女峰山は、うすぎぬのような雲をまとって淡く霞んでいる。
台所からピーマンが香っている。と考えていたら、その香りはピーマンではなく獅子唐のものだった。僕が子供のころとは異なり、ピーマンも獅子唐も年間を通じて食べられるようになった。しかし香りは夏のものがやはりひときわ高い。
秋の茗荷は粒が大きい。しその実の買い入れは先週に完了した。これからお彼岸前後までは、茗荷の買い入れと仕込みの日々が続く。日光地方に強雨のないことを祈るばかりだ。
明日からの日光MGを前に、西順一郎先生は11時40分に下今市駅に到着された。日光MGは年に2回の開催だが、秋のそれに際しては、先生は早めにいらっしゃって日光の散策をされる。その案内役は昨年までは僕が務めたが、今年からは長男にその役を譲った。本日の晴天は大いに好都合である。
終業後は遠方から、あるいはまた日光市内から日光MGに参加をされる方々と、西先生を交えてささやかな交流会を持つ。その場の会話は賑やかだが僕の心は静かに落ち着いている。そして23時過ぎに帰宅して、以降の記憶は無い。
日光の上空には久方ぶりの青空が広がった。北海道にはこの夏、30日以上も欠かさず雨の降ったところがあったという。日光にはまさかそんなことはなかったものの、晴れた空はやはり気持ちが良い。
すべてが首尾良く運べば今月の24日には、ウェブショップから僕のこの個人ページまでもがサーバーの移転を果たす。これを機にウェブショップには、目に見えるところにも見えないところにも改善の手が入っている。その、目に見える部分の一角に使う「しその実のたまり漬のアイス」の画像を事務室にて撮影する。
他の諸々については職業写真家の撮ったものがあった。しかしアイスクリームだけは、その皿盛り画像が無かったのだ。素人の撮影では当然、画像の質は落ちるけれども数ヶ月のあいだはこれでしのぐつもりである。
夜は家族4人で食事をしに出かける。
「料理屋では鶏肉を避け、他の素材によるものを注文した方が、客にとってはトクだ」と、アンソニー・ボーディンは書いている。しかしいま"Finbec Naoto"のメニュに載っている「地鶏のポピエット・ポルト酒の香り」は美味い。蒸して炙った鶏肉は、ナイフで切り取る場所ごとに味が変わる。「ニワトリの美質」ばかりを舌に感じる。
そして仕上げには生のウィスキーまで飲んで帰宅し、入浴して早々に寝る。
何時に目を覚ましたかの記憶はない。4時30分ごろ居間に来てテレビのスイッチを入れる。NHKは、というか他のチャンネルも同じだったかも知れない。とにかく2020年の夏季オリンピック招致レースにおいて、マドリッドとイスタンブールと東京の、どの都市が勝つかの、リオデジャネイロからの中継を映し出していた。
結局のところは東京が選ばれて、テレビはあらかじめカメラを設置しておいた、東京のあちらこちらに場面を切り替えた。先ずは渋谷の交差点で騒ぐ若い人たちの風景だっただろうか、それが六本木のどこかの店に変わると、そこには「グロービス」の堀ちゃんが、なぜかマイクを握って登場した。
「グロービス」といえばきのう大きな広告が日本経済新聞に載っていた。それと今朝の堀ちゃんの雄叫びとのあいだには何か関係があるのか、あるいはただの偶然なのか、というようなことについては僕は知らない。
朝飯のあいだは五月蠅いのでテレビはつけない。そしてオリンピックとは何の関係も無い、ホテルなどでベッドの裾に敷かれている、帯のような布についての話をする。
僕は知らなかったがあの布は、靴を履いたままベッドに上がる人が、靴でベッドカバーを汚さないためのものだと、家内と長男が教えてくれた。そこで「ガイジンって、そんな野蛮なことをするの」と驚くと「そうだよ、その野蛮人の風俗習慣を、日本人は幕末以来、今に至るまで一生懸命マネし続けているんだよ」と長男が言う。
チャーリー・パーカーには靴を履いたまま眠る癖があったと、どこかで読んだことがある。それは彼のアルコールや薬物による中毒、あるいはだらしない性格に拠るものとばかり考えていた。しかし僕は齢57にして初めて、靴を履いたままベッドに上がるのはガイジンにとっては常識であることを知った。
そうして朝飯の会話の記憶も新しいうちに今朝の日本経済新聞を開いてみれば、その第13面に「欧化という熱病」という見出しが見えたので「へぇ、偶然」とばかりに、その記事を読むことに10分ほどを費やす。
商売柄というか何というか、朝の味噌汁の写真が見苦しくなく撮れたときにはfacebookページの「今朝のお味噌汁」というアルバムに、その画像を載せている。今朝もまぁ、まともなものが撮れたため、開店50分前に事務室へ降りたところでカメラの中身をコンピュータに移す。
そうしたところ、きのうの夜までに撮った画像はコンピュータに吸い込まれたものの、今朝のそれはフォルダのどこにも見当たらない。リコーのカメラは"SD"が入っていない状態でも内蔵メモリの容量分は記録できる。よって「ことによると」と、そちらを調べるものの、やはり今朝のメシの画像はどこにも無い。
買って2年4ヶ月を経た"RICOH CX4"は、何度も落下させたことが原因だったのか、先月17日を以てマクロでしかピントが合わなくなった。シェムリアップには、その壊れたカメラを持参して不便をかこっていた。
修理にいくらかかるか分からない"CX4"に見切りを付け、その後継機である、しかし最新機種ではない、更には「展示品」だった過去を持つ"RICOH CX5"を買ったのは、シェムリアップから帰国して後の先月28日のことだ。
その"RICOH CX5"は3日後の31日に届き、そしてそれから僅々3日後の9月3日、僕はその"CX5"を港区三田のお寺の玉砂利の上に剥き出しで落とした。
「オマエ、精密機械をそれだけ落とすとは、物を大切にする気持ちに欠けているんじゃねぇか」と問われれば、それは違う。僕は物を大切に思うあまり、特に精密機械については、まるで腫れ物に触るように柔らかく握る。その握り方があまりに緩いため、電話、カメラ、音楽の再生装置など種々のデジタル機器を僕は頻繁に落下させるのだ。
「あーあ、買って1週間でぶっ壊れかよ」と自らに呆れつつ試しにそこら辺のものを撮ってみれば、その画像は間違いなくSDに記録されたので胸をなで下ろした。
僕はデジタルカメラは頻繁に落下させるが、ニコンやライカのフィルムカメラはいまだ一度も地面に落としたことはない。「扱うときには必ずネックストラップを首にかける。そうすれば落とすこともねぇんだわな」とは分かっているが、デジタルのコンパクトカメラを首から提げる気はしない。
そして近いうちにまた、僕は"RICOH CX5"を地面に落としてしまうのだろう。「死ぬしかないわね」と叱咤する、オスギだかピーコだかの声が幻聴のように聞こえる。
早朝の仕事を終え、5時20分ごろ居間に戻る。
何塗りと呼ばれている物なのか、何彫りと特定されている物なのかは知らないが、とにかく菊のような花と、菊のそれとは思われない形の葉を縁に彫り込んだ、なかなか感じの良い朱塗りの座卓にコンピュータを置いて電源を入れる。
"Let's note CF-N10"の、ハードディスクの働きを示す黄緑色の丸いランプが、ダルマのような形で点滅する。そこでケースから遠近両用メガネを取り出しかけてみると、その、ダルマのように見えていたランプは正円になった。
「いやぁ、メガネっちゃ大したもんだよなー」と感心し「それにしても、乱視を補正するメガネってのは、何年くらい前にできたものなんだろう」というようなことを考える。
今月2日の夜から3日の明け方にかけて、腰の何ヶ所かを蚊に刺された。羽音を立てない小さな蚊が、甘木庵のどこから侵入したかは知らない。
3日の夜から4日の朝にかけては、腰から脚にかけての右側ばかりを数十ヶ所ほども、今度は自宅のベッドに寝ていて刺された。やなり羽音などはまったく聞こえない、小さな蚊によるものだ。
おととしのチェンライ西北部の森の中や、あるいは今年のシヴァプリやプノンバケンの山道では、蚊に刺されることは皆無だった。「いかにも」といった場所に蚊はいず、逆に都市の真ん中や日光で季節外れの蚊に襲われるとは、僕の皮膚はどのような巡り合わせになっているのだろう。
今朝までは液体の薬を塗っていたが、丸く赤く膨らんだ場所のかゆみは一向に去らない。よって夜は2階の倉庫まで出向いてスーツケースに残置した薬箱から萬金油を取り出し居間に戻る。そしてこれをからだのあちらこちらに塗ってパジャマを着る。
軟膏はベタつくところが気に入らないが、蚊に刺されたことによるかゆみには、僕の経験範囲内での判断ではあるけれど、萬金油がいちばん効くのだ。
「見た目に限れば、どのような女の人が好みなんですか」と、ある人に訊いたところ「えー、髪の毛が短くて、唇は薄くて。この、唇が薄い、という点については譲れないところなんですが、あとは胸が小さいことですね」と言う。
「つまり肉体からはできるだけ女っぽさを排除した感じが好き、ということですね」と確かめると「そーなんですよー」と、相手は感に堪えたように息を吐いた。
僕の本棚、本棚の下の床、また食卓やベッドの周りには一体全体、何冊の本が収まり、積み重ねられ、あるいは散乱しているか、その具体的な数については知らないが、そこに女の人の書いた物は極端に少ない。多分、全体の1パーセントにも満たないだろう。
僕の読む本にはなぜ女の人の書いた物が少ないか。それは、女の人の書く文章が多く、僕の性に合わないからだ。「性に合わない」をもうすこし具体的に説明すれば、慣用的表現の多用により「僕にとって」陳腐に感じられる個所が目立ってウンザリする、ということになる。
「女の書く本が読めないとは女性蔑視ではないか」と問われれば、そのようなことはない。僕は男とは寝られないが別段、男を蔑視しているわけではない。
そういう「女嫌い」の僕が読んで「つくづく面白い本だぞなー」と感心したのが
「新書七十五番勝負」 渡邊十絲子著 本の雑誌社 \1,260
だ。これは「面白い本を紹介する面白い本」である。女の書いた本であるにもかかわらず僕が辟易しないのは、その文章が女っぽくないからだろう。
僕はこの本をもう1冊買って、本を読むことを好む甘木先生に進呈するかも知れない。活字中毒にとっては宝石箱のような本だ、これは。
朝4時45分に起床し、久しぶりに早朝の仕事に就く。工場の屋内を貫通する塩化ビニール製の太いパイプが、屋根からの水を音を立てつつ運んで雨の降っていることを僕に教える。
9月といえば先ずは、しその実の買い入れが重要な仕事として春より予定されていた。その開始日は本日にて、事務室の前には竹のカゴがいくつも並べられた。近郷の農家の納めてくれたしその実は即、工場内に運ばれ、三連の水槽にて素早く三度洗いされる。
子供のころから毎年この時期になると会社には紫蘇の香りが満ち、香り野菜の好きな僕はうっとりした気分になる。あるいはその「うっとり」の何割かは、紫蘇の揮発成分による酩酊なのかも知れない。
夜はトンレサップ湖ちかくの魚醤工場で手に入れたトゥックトレイによる、豚肉と水菜の鍋を食べる。カンボジアの鮒鮨味噌とでもいうべきプラホックも、またこのトゥックトレイも、生の状態ではとんでもない匂いを発している。しかし熱を通せば不思議なことにむせかえるようなクサヤ臭は柔らかくなり、ただただ旨味を感じさせるものになる。
そうしてこの鍋の中身を肴にカンボジアの焼酎を飲み、それを干して後は日本の焼酎を飲む。生の焼酎も、ゆっくり少量を飲めば、いきなりストンと眠ってしまうことはない。
日本国の政権が民主党から自由民主党に変わっても景気の上向いた実感は無い。とすれば絶対数が減ったのだろうか。東京のタクシーの話である。
甘木庵から神保町までタクシーで行こうとする。龍岡門のちかくから乗ったのでは、いずれその先の信号で引っかかる可能性が高いから、タクシーは春日通りまで出て拾った方が、多少は金銭の節約に繋がるだろうと考える。
そして春日通りを横断し、消防署前通りを南下するあたりで「そろそろ」と後ろを振り向いても、先ほどまでは頻繁に見かけたはずのタクシーが、今度はまったく来ない。
そうするうち本郷通りを横断し、すると行く先には神田川河畔の木々が見え始める。そこまで来れば、もうタクシーを使うなどは馬鹿馬鹿しい。御茶ノ水駅前から「山の上ホテル」の裏を経て神保町まで歩いてしまう。
本日10時すこし前に地下鉄南北線の白金高輪に至る。2番出口から地上に出て後ろを振り返ってもタクシーは来ない。「そうであれば」と魚籃坂下まで歩いてしばらく待っても、やはりタクシーは来ない。
9月とはいえ晴れ渡った空には入道雲が立ち上って目に眩しく光っている。気温は30℃を軽く超えているだろう。当方はネクタイを締めスーツを着て、おまけに背中にはコンピュータや普段着を入れたザックを背負っている。
このあたりの地理にはいささか詳しいこともあってタクシーは諦め、桜田通りを横断して幽霊坂を上り始める。
「グランドプリンスホテル新高輪」の裏手から伊皿子の交差点を経て田町の駅前に抜ける道は高輪の鞍部を縦断していて、これは江戸時代には、訳あって東海道を使えない人のための裏道だったという。その曰く因縁のある道まで幽霊坂を登り切る手前を左に入ればそこは「実相寺」の境内で、むかしお世話になった方の告別式に、10時45分より連なる。
それにしても"Atok"は「魚籃坂」も「伊皿子」も変換しない。僕がどこかで金をケチったせいだろうか。
家内にせかされ6時45分に居間を出る。計4個所の鍵を開けて社員通用口から外へ出る。自転車で駅へ向かい、改札口を通ってプラットフォームに立てば、時刻はいまだ6時55分だった。
ウェブショップの、自分であれこれできないところは外注SEのヒラダテマサヤさんに任せている。日比谷線の恵比寿駅には9時35分に着く。ここから長いエスカレータを上がり駅ビルの構内を突っ切り歩く歩道に最後まで乗って恵比寿ガーデンプレイスの間近に至る。ヒラダテさんの仕事場の呼び鈴は9時45分に押せたから、今日の到着時間は予定通りだ。
ウチのウェブショップは今月24日にサーバを乗り換える。「乗り換え」という文字のみ見れば、それはひとりの人間が山手線を総武線に乗り換えるような風景が頭に浮かぶが、それほど単純なことではない。サーバを乗り換えようとすれば、ウェブショップは、そのほとんどを作り替えなければならない。
平舘さんの事務室に置かれた、すっかり熔けてしまったチョコレートで脳に糖分を補給しつつ夕刻まで根を詰める。そして五反田でしばしの飲酒活動をする。
五反田から甘木庵までは、山手線を東京で丸ノ内線に乗り換えるのが最上と、酔った頭で考えた。しかし気づけば電車は御徒町に停まっていた。ここから歩けば甘木庵までは2キロの距離がある。よって秋葉原まで戻って総武線に乗り換え、お茶の水からは丸ノ内線で本郷三丁目に至る。
そして21時前に就寝する。
雲というものは、ひとときもじっとしていない。そのことを最も強く感じるのは朝だ。早朝には電話もなく、人の訪問もない。それだけに、数分おきあるいは十分おきに空を眺めることができる。雲は昼にも激しく動いているのだろうけれど、その時間には空を頻繁に眺めることなど望めないのだ。
今朝の西北西の空も、窓を開けるたびその姿を著しく変えていた。しかし今朝はいつになく雲の動きが激しい。そして「日中に大きな天候の変化でもあるのだろうか」と、何とはなしに考える。
驟雨は13時40分に始まり、14時に収まった。しかし雷鳴は雲の中で鈍く、19時ちかくまで続いた。
下今市19:53発の上り最終スペーシアに乗るべく、19時30分ころ長男の運転するホンダフィットで駅まで送ってもらう。しかし前売りで切符を買った当該のスペーシアは、券売所の壁からそれを示すプラスティックの板が外されていた。
窓口の駅員に訊くと、どこかで車両に落雷があり、列車は新栃木までしか運行していないという。当方は今夜、甘木庵に泊まろうとしているのであり、新栃木まで行ってもどうにもならない。
そういう次第にて手持ちの切符を明朝1番のものに変更してもらう。長男は既に帰ってしまった後だからスーツまで詰め込んで膨れた"Gregory Day & Half"を背負って徒歩で家まで戻る。