「あれは2000年前の」 「こちらは3000年前の」 と、高速道路の間近に見える古代の陵墓につき現地ガイドのフーエイさんから教わるうち、線路番のいる踏切をわたって間もなく、西安の旧市街を長方形に囲む城壁の、小北門から市内に入る。
片側5車線のうち車道にはプラタナスの、歩道に沿ってはニセアカシアの並木が続いている。ここまで乗ってきたJL609便の機長によれば現地の気温20度とのことだったが、実際にはそれよりもいくぶん高いように感じられる。今回は 「栃木県味噌工業協同組合」 の、2年に1度の親睦旅行でここに来た。
「古都新世界大酒店」 にとりあえず荷物を置いた後、フーエイさんに薦められた 「楊貴妃の踊り」 を断って、西暦の年号がいまだ3桁のころ空海はじめ数千の日本人が学んだ青龍寺に行く。ここは唐代末の戦乱により寂れたが、1970年代に四国4県と中国との共同事業により再建され、現在に至るという。
寺の案内人と回廊を歩き階段を上り下りした先にある宝物館から向かって右の部屋に招き入れられると、香の香る中に座った男が鐘を打ち、入場券に 「四国0番札所」 と朱印を押す。「0番札所なんて聞いたことねぇな」 とニヤニヤしているうちは余裕もあるが、そこにズラリと並ぶ、法外な価格の数珠や掛け軸や筆を買わずに帰るにはかなりの根性が必要である。商品の価格は喜捨も含めてのものと言われれば、値切ることもしづらい。
我々が泊まるとは別のホテルのレストランで晩飯を食べ7時前にロビーを出ると、いまだ外は昼のように明るかった。フーエイさんによれば中国は利便性のため、全土で同じ時間を用いることにしたという。
「いつになったら暗くなるのだろう」 と考えつつ、この街にやけに目立つ 「足浴」 のうちの1軒に入り、瑠璃でも玻璃でもないプラスティックのコップで茶を飲み西瓜を食べながら、20歳くらいの女の子に足を揉んでもらう。足許から血行が良くなったか50分後には背中と額から汗が噴き出し、70分後に履いたブーツはずいぶんと緩くなっていた。
部屋に戻って9時すぎに散歩へ出る。「顔も洗うし按摩もする」 という意味の看板を出し、1間半ほどの間口すべてを濃いピンク色のアクリルで覆った店のやらかしていることは推して知るべしで、中から手招きする女をやり過ごして歩くうち、路上でカバブを焼く男を見つける。近づくと狭い厨房に茹で麺があったため、それを指さし食べる場所を身振りで訊くと、道の反対側にある車庫のようなところを小僧が示す。
卓上にはトイレットペーパーが、そして床には口の油をぬぐった後のそれが散らばる客席に着く。すべてを寒々しく薄ボンヤリと照らす蛍光灯は、南アジアの中華街にも共通のものだ。塩と油のきついうどんに混在するスパイスをプツプツと噛みつぶすたび口の中に広がる香りは、西域よりもはるか先のどこかを想わせる。うどんは4圓、ビールの大瓶は3圓だった。ちなみに先月下旬に両替したときのレートは1人民圓が約19日本円である。
ふたたび歩いてホテルへ戻り、入浴して11時すぎに就寝する。今朝は1時30分に目を覚ましたから、時差を入れれば23時間ぶりの睡眠ということになる。
朝から事務机に向かって紙にあれやこれや書き、これをコピーして社内の各部署に手渡して歩く。外へ出てバタバタと走りまわり、メモに従っていくつもの用を足す。
午後3時も過ぎたころにようやく明日から行く旅行の荷造りをする。何をいくつ持つべきかはコンピュータのデータベースにある。これをプリントアウトして各々をスーツケースへ納めるたび、いちいちチェックマークを付けていく。「旅の荷造りなど終業後にすれば良いではないか」 と言われそうだが終業後にはその時間にふさわしい仕事があり、更には 「第168会本酒会」 が控えている。
修学旅行にてきのうより東京に1泊した次男が燈刻、にわか雨の中を帰ってくる。国会議事堂やフジテレビや江戸東京博物館、あるいはディズニーランドの話を居間で聴きながら先ほど脱いだ靴下をふたたび履く。
7時20分に本酒会へ出かけて9時前に帰社する。事務室でショルダーバッグにコンピュータを格納し、自宅へ戻って入浴の後、10時前に就寝する。
瀧尾神社には毎年この時期、神社の所有林を視察する 「山見」 という行事がある。我が春日町1丁目が当番町だった昨年は動かし難い予定があって参加をお断りをしたが、特別役員となった今年は時間のやり繰りがつき、朝8時40分に境内へ行く。
神社は日光市の和泉地区と小来川地区の2個所に山を持ち、1年おき交互にそれらを検分する。今年は小来川の番にて、小来川郵便局の手前でバスを停め、いよいよ笹目倉山への登山道を往く。空はまさに5月の末にふさわしく晴れ、木陰の空気は寒さを感じさせるほどに爽やかだ。林道には大きな砕石が撒かれていたから "DOLOMITE" の登山靴を履いてきて良かった。
今年の当番町である春日町2丁目の人たちは口々に 「水菜だ」 「ウドがあるね」 「あぁ、タラノメ」 などと言い合って歩いていく。清流に素早く動く魚影はアイソのものだろうか。20分ほどで神社の持つ山へ達し、管理人の話を聴く。荒っぽく掘り返され崩れた崖はイノブタによるもので、彼らは鼻先で山芋を探り当て、これを食べるという。小来川地区のイノブタは美味いが、まさか山芋を食料としているとは知らなかった。
帰途、その庭園の規模や美しさにおいては京都の古刹も凌ぐほどの古峯神社に参拝し、鳥居の内側にあるお土産屋兼食堂の 「巴屋」 で直会となる。昼の酒は晩飯への食欲を殺ぐことは知っているが付き合いとなれば仕方がない。結構な量のビールと日本酒をこなし、2時ちかくに帰社して仕事に復帰する。
燈刻より遅く初更より早い時間に会席の 「ばん」 へ行く。麻ののれんのかかった引き戸を開けた途端、鮎の匂いに包まれる。昼酒により腹はそう減っていなかったが、最初の折敷きから 「あぁ、やっぱりここの料理は美味めぇや」 と感動し、以降もずっと美味くて仕方がない。最後のお茶漬けをスルリと飲み込み、葛きりにて締めてもなおもうひと品くらいはいける気分だった。
街の本屋を見れば、そこに住む人々の教養を計ることができるという。本屋を料理屋に置き換えてもそれは同じではないか。「ばん」 には永くこの街にあって欲しいと思う。
自分は走るのが苦手だから走る練習をしたい、ついてはその練習の相手は夏休みに帰宅する兄に頼みたい、というようなことをきのう次男が言ったらしい。しかし長男が夏休みに帰宅するかどうかは不明であり、第一、そういうことは思い立ったが吉日で、早く始める方が良い。次男にはかねてより、走り方はおろか歩き方からしてなってないからオレが教えてやると言っていた経緯があった。
着替えを済ませた次男と外へ出て日光街道を徒歩で遡上する。具合が悪いわけでもないのに足を引きずり、靴と地面のあいだで擦過音を立てる人がいる。江戸時代まで日本人は足を引きずって歩いていたというが本当だろうか。僕はこれが嫌いだから次男には音を立てずに歩けと言う。
今市小学校に達して裏道へ入り、今度は軽く走ることにする。次男はバタバタと音を立てて走る。「靴の裏全体で着地するからそういう音がするんだ、オレが走っても大して音は出ねぇだろう」 と注意をする。上半身の力を抜いて直立させ、腕を勢いよく振る。長距離は疲れるから嫌いだが、短距離なら僕は子供のころから得意だった。
帰宅して
「明日から次男は修学旅行だから、ちと奮発した晩ごはんを食べさせて上げよう」 と考えた家内がステーキを焼いたが、僕はこれを半分しか食べることができなかった。そのくらいでちょうど良いのである。
稀代の荷物嫌いでもコンピュータと本だけは別である。本はほとんどモーバイルに適した文庫本のみを買うが、文庫で出ていず、しかしどうしても読みたい本は背に腹は替えられないからハードカヴァーで買う。今月末からの数日間に読もうと手配した 「美の旅人」 もそうしたハードカヴァーの1冊で、配達されたこれを早速に開封する。
「本はほとんど古書で買う」 と数日前の日記に書いた。その例に漏れず "amazon" に出品する古書店から届いた 「美の旅人」 の表紙をめくると思いがけず著者のサインがあり、その右にはサインをもらった人の名も見える。しおり用のヒモは240ペイジと241ペイジのあいだに平たく収まり、それを動かした形跡はない。多分、この本はペラペラとめくられたことはあっても読まれてはいない。
「こんなに丁寧なサインをもらいながら読まずに売り飛ばすとはどういう了見の女だ」 と思うがなに、ブルーブラックの太字で書かれた伊集院静の肉筆をたずさえ炎天の雑踏を往くと思えば、それも旅の一興に違いない。
「年はとりたくねぇな」 と思う理由のひとつに視力の衰えがある。
今年2月に韓国へ行った。旅行に案内書や地図はつきものだが、ほとんどのガイドブックや地図は、いまや老眼鏡を欠いては読めない。それらの資料は多く戸外に広げて見るもので、しかしそのような状況で老眼鏡をかけたり外したりは面倒でできない。結局、ソウルの街を歩きながらガイドブックや地図を頼りにすることは一度もなかった。
今月の31日には西安へ行く。その翌日には敦煌へ飛ぶ。せめて行く前に街の地図くらい眺めるべきと考え "amazon" に検索をかけるが、西安と敦煌を対象とした 「地球の歩き方」 は今は無く、そのためもあってだろう、これの 「西安とシルクロード〈2005~2006年版〉」 には定価より1,000円も高いプレミアが付いている。
「そんなの馬鹿ばかしくて買えるか」 と意地を張って注文はしない。現地では自分の嗅覚がどこまで通じるか、それが今回の勝負どころだ、とも考えるし、「どうってことねぇよ、酒を飲みながら本を読むのにガイドブックなんていらねぇだろう」 と思えば、それはその通りである。
「商品を雑誌に掲載する件についてだそうです」 と事務係のコマバカナエさんが僕に振り返って言う。そういう話はおおかた宣伝広告かタイアップ記事の提案と思って間違いない。
宣伝広告については当方が効果ありと認めるもの、金銭的な効果はなくても心情的におつきあいしたいと思うもののみ受け入れるが大抵の場合にはお断りをする。タイアップによって作られた本は金銭のからんだ提灯記事の集積で、その内容を鵜呑みする人も多いのかも知れないが、僕はそういうものの一切を信用しない、だからこれもすべてお断りをする。
コマバさんにより取り次がれた電話の相手はしかし、僕が 「カッコイイじゃん」 と思う雑誌に、これまた僕が 「めちゃくちゃカッコイイじゃん」 と思う人の書いた紀行文の中でウチの漬物が取り上げられているものであり、すでにゲラもイラストもできあがっている、しかし製造元の許可がなければ掲載できないから連絡をしたと言う。一も二もなく 「よろしくお願いします」 と答えて受話器を置いて5分間以上、二の腕に立った鳥肌は消えなかった。
電話の中で僕はまた 「100冊、まとめて買わせてください」 と言ってみた。その雑誌が書店で売られるたぐいのものではないからだ。
一般の販路に乗らない雑誌の、100人のうちひとりくらいは知っているだろうけれど、あとの99人には知られていないような人の書いた紀行文に自社商品の取り上げられることがそれほど嬉しいかと問われれば、「だから嬉しいんじゃねぇか」 と答えるほかはない。雑誌は再来月の1日、しかるべきところに配置されるそうである。
目を覚ますと部屋の中は墨色よりもいくらか明るい。「4時、あるいはそれよりすこし前だろうか」 と思いながら携帯電話のディスプレイを点灯させると時刻は3時55分だった。床から
「オシッコをして手を洗わない人が読んでたかも知れないんだよ」 との理由にて、子供のころよりオフクロには古書を買うことを禁じられてきたが、「真剣師小池重明の光と影」 を塀の中で読んでいた人が、オシッコをして手を洗う人だったか、それとも洗わない人だったかは知らない。
本はほとんど "amazon" で買う。送料の340円を払ってなお新品よりすこしでも安ければ、"amazon" で古書を買う。僕は本はほとんど古書でしか買わない。
午後、ちょっとした用事の途中で "TSUTAYA" に寄る。文庫の書棚を縦覧して目的の本はない。しかし予期せず、気になる本の散見される一帯があって、それは 「ちくま文庫」 の場所だった。そこから欲しい本のみ数冊を選び、おなじ書棚の左上にまとめて置く。そしてそれらの背表紙を目に焼き付ける。帰社したら "amazon" へアクセスし、古書で出ていないか検索する腹づもりである。
夕刻より芋焼酎 「山ねこ」 をソーダ割りにして飲む。
先月28日、現在の店舗内に入れ子のように開店したおむすびの 「結庵」 は順調に販売を続けているが、いまのところおむすびの作り手は家内しかいないため、手が足りないときには売り切れが頻繁に発生する。そのような状況において、今朝は9時の予約が入った。
9時前におむすびを完成させるとすれば仕込みは少なくともその90分前からする要があり、しかしその時間帯には、家内は今市小学校で読み聞かせをしている。というわけで今朝は僕が米を炊くこととし、きのう急遽、家内よりその炊き方を教わった。
「結庵」 では土鍋を直火にかけて米を炊く。ユビキタスなどとは無縁だから 「最初チョロチョロ中パッパ、赤子泣いてもフタ取るな」 といういにしえの教えに沿って炊くかといえば、そうでもない。「最初チョロチョロ中パッパ」 ということは、はじめは弱火で後に強火、ということだろうか。しかし家内が試行錯誤して編み出した方法は炊き始めから炊き終わりまでに幾通りもの火加減を用いる。
家内の伝授によれば 「最初はこれくらい、何分経ったら火はこれくらいにして何分、それが過ぎたら今度はこれくらいで、それから、、、」 と複雑きわまりない。「これくらい」 ではなくすべて数値で言ってくれなければ当方は何も理解できず、しかし火を調整するためのデジタル式プッシュボタンなどガスの五徳には装備されていない。きのう家内が火加減を変えるたび火の具合をデジタルカメラに納めたが、今朝は調理台に置いたコンピュータのディスプレイでそれを確認しながら米を炊いた。
米の蒸らしが終わるころに帰社した家内が早速、厨房に入っておむすびを作る。訊けば炊き具合は上出来とのことだった。学生のころ、同級生コバヤシヒロシ君の家が野尻湖に所有していた別荘ではコバヤシ君のお姉さんがアルミ鍋で完璧なメシを炊き、当方は大いに尊敬をしたが、「オレだって、いちど教われば同じことができるじゃねぇか」 と、教育の偉大さをあらためて知る。
昼に冷やし味噌ラーメンを食べるべく 「ふじや」 へ行く。壁に貼られた 「激辛味噌ラーメン完食者」 にウチの製造係タカハシアキヒコ君の名があることは前から知っていたが、張り出し横綱のように下にはみ出た別紙に今日はヨシノユーキとモリモトケーシューの二人が並んで見えたから 「おぉっ」 と目をこらす。
長男が今市小学校の野球部 「レイダース」 で二塁手をしていたとき、ヨシノとモリモトは投手と捕手のポジションを交代で務めていた。彼らの名を記した別紙はただの激辛ではなく 「激辛大盛り味噌ラーメン完食者」 の分野だったから 「馬鹿だなぁ、でもオレがその場にいたら、ラーメン代は出してやっていただろうな」 と思う。若い大飯食いのメシ代を持つことは、食が細り行く者に残された楽しみのひとつである。
燈刻に2階のワイン蔵へ行き、棚から "Meursault Geneverieres Olivier Leflaive Freres 1986" の最後の1本を引き抜く。「ブルゴーニュの古い白はどんどん飲んじゃおうぜ作戦」 も今日で終わる。残る白は1983年のディケム12本だが、これは更に置いても大丈夫だ。しかし1本をこなすにも数人を要するこのワインを飲む機会が、果たして訪れることはあるのだろうか。
羽田空港の混雑によりきのうの飛行機はいくらか遅れて着陸したが、そのうえ到着ゲイトは空港ビルの端の方だったから、京急線に乗り込むまでに要した時間は短くなかった。そうして都営浅草線の浅草駅に着いたのは20時30分だった。
手早くメシと酒を済ませるなら駅裏の串カツ屋 「光屋」 だと、そこまで歩いたら店は休みだった。仕方なくはす向かいの中華料理屋 「ぼたん」 に入ってチューハイと冷や奴を注文し、更にタンメンを追加した。タンメンの出てきたのは8時47分で、下り特急スペーシアの最終は21時ちょうどに発車する。
そういうギリギリをこなすことには慣れているが、しかしできればメシや酒はゆっくりやりたかった。
旧知のサトージローさんが "Classico Italiano" という名の料理屋を作り、招待状をもらっていたため、終業後に家族4人でその開店祝いに行く。次男はヴァイキングのテイブルから好きなもののみを何度も取り、「ここならまた来てぇや」 と上機嫌で言う。
帰宅して入浴し、すぐに就寝する。
MG会場の 「伯耆しあわせの郷」 には9時前に入った。壁に張り出された自己資本のグラフを見て、第1日目の乱調をあらためて知る。強いはずのヨネイテツロー君が珍しくここまで落ちたのはバランスを欠いた経営をしたからであり、それと並んで転落した僕には、危機に際して落ち着きすぎているといういつもの欠点が出た。苦しみながら整えた会社でどのように闘っていくか、というのが本日の課題である。
第4期を終えるころ、つい先ほどまでは小雨を降らせていた空が急に明るくなった。僕は、マネジメントゲームのゲームは下手だが決算は早い。その決算を済ませて外へ出る。蛇行し、多くの州を持ち、水は清浄この上ない天神川を見おろす高台に立てば日本海は指呼の先にある。いちど大きく息を吸い、ふたたび会場へと戻る。
最終の5期において僕はすこし盛り返したが、その90の自己資本に対し、2002年11月のシンガポールMGに共に参加をしたナカニシショーイチローさんのそれは602に達したから、これはもしも第6期があるとすれば分社の数字である。ナカニシさんは今朝、会場の静かな一角へ座り、ひとり本日の経営について想を練っていた。それが見事に花を咲かせ実を結んだのだろう。
5期を終えての自己資本1位に与えられる最優秀経営者賞はそのナカニシショーイチローさんが、2位の優秀経営者賞はオカノタイッチャンが獲得した。タイッチャンは学生のころからMGは強かった。
最後の講義があり、800字ほどの感想文の3分の1ほどまで書き進んだところで西先生が 「それでは」 と会場を去ろうとしたから僕も慌てて荷物をまとめ、倉吉の方達に挨拶をしてヨネイテツロー君のゴルフに乗る。16:37発の列車で博多へ移動される先生を倉吉駅頭に見送り、当方は日本海を左に見てひたすら東へと進む。
ANA297便の時刻にはいまだ余裕があるとのことにて、ヨネイ君は空港近くの砂浜にクルマを乗り入れた。ハマナスが咲いている。波打ち際にはクラゲがいる。そういう小さな生き物を見て心が落ち着く。
羽田空港から直行した浅草には警察の特殊車両と救急車が目立ち、それらすべては赤色灯を点滅させていた。不穏な夜の空気は1970年代はじめの本郷から御茶ノ水にかけてのそれと驚くほど良く似ている。目を大きく開いてあたりを見まわせば、警察官の視線の先にいるのはヘルメットをかぶった学生たちではなく、三社祭を取り巻く群衆だった。
「この雰囲気は、ただごとじゃねぇな、なにかあったのだろうか」 と感じながら吾妻橋西詰めの横断歩道を渡る。
きのうは焼酎の4合瓶を空にした。ヨネイ君とふたりで飲んだからひとりあたり2合と思っていたが、よく考えてみればヨネイ君は主にビールを飲んでいた。ということは4合のうち僕のこなした量は3合ないし3合半ほどになったかも知れない。焼酎をこれだけやると、しかも風呂上がりにはビールも飲んだから、今朝の二日酔いは、いわば約束されたようなものである。
緑の森や谷に雨の降り注ぐ中、時には岡山県との境を越えながら峠を過ぎ、智頭町からゴルフを走らせること90分、ようやく倉吉市に着く。今日から2日間、各自の盤上へ5期分の経営を展開するMG(マネジメントゲーム)をするため僕はここに来た。
第1期、2期、3期と進んで気づくと5時がちかい。感覚としてはいまだ午後1時くらいの感じだが、MGは経営と決算に忙しくしているうち驚くほど早く時間が過ぎる。この時間の感覚こそいつものとおりだが当方の盤上は諸々あって冴えない。いまだ債務超過には陥っていないが資金がショートして国からの特別融資を受ける。明日はどうにかして自分の会社を浮上させなくてはいけない。その計画を練って7時30分に会場を去る。
倉吉駅ちかくの交流会場 「進」 は料理にも器にも普請にも店主の気持ちの行き届いた良い店だった。倉吉は小さな街だが優れた飲食店に恵まれているような気がする。この 「進」 で9時まで歓談し、あとはホテルへ戻って本を読もうと濡れた歩道を歩き始めたところ、主催者であるオカノミノルさんの会社 「丸十」 の若い人に脇腹を抱きかかえられ 「もう一軒、行きましょう」 と誘われる。
焼き鳥の 「とり甚」 もまた 「こんな店がウチの近くにあったら家族で来るだろうな」 と思わせる良い店だった。飲んで話し、あるいはつくねの作り方などを店の人に教わるうち、ふと壁の時計に目を遣ると11時を大きく回っていたから 「いつもならとうに寝てる時間じゃねぇか」 と正気に戻る。
外へ出ると先ほどまでの雨は止んでいた。0時にホテルへ着き、あれこれして1時ちかくに就寝する。
羽田を発っていくらもしないうちにANA297便はずいぶんと揺れはじめ、ようやくそれが収まったころ 「間もなく着陸のための降下に入ります」 とのアナウンスが流れた。しかししばらくすると機長から何ごとか伝えられた客室乗務員が受話器を横に持つ独特のスタイルで、鳥取空港の上空にかなり発達した積乱雲があるため、天候が回復するまでこれから10分ほど上空を旋回すると言った。
当方は時計を持っていず、携帯電話は荷物棚にあるから、その10分間を計ることはできない。そのうち客室乗務員はいまいちど受話器を持ち、更に10分間の旋回に入るが、なにも問題はないから安心するようにと続けた。
安心せよと言われても、着陸する場所に問題があり、機は20分間も旋回を続けている。2時間30分ほども前に羽田空港の書店前で遭遇した西順一郎先生と共にオレは日本海の藻くずと消えるかと考え始めたころ、機はようやく南に進路をとって高度を落とし始めた。
無事に着陸したが落雷が相次いでいるため機を牽引する車両が近づけないと、空港ビルの近くで更に10分間を待ち、一般ロビーに出られたのは結局、定刻より1時間も遅い6時前だった。
ナカニシショーイチローさんのメルセデスで倉吉へ向かう西先生と別れ、当方はヨネイテツロー君のゴルフで智頭町を目指す。ヨネイ君の経営する会社の最も新しいガソリンスタンドで給油をするころには雨も上がり、青空さえ見えてきた。初夏の空は目まぐるしい。
7時ちかくにヨネイテツロー君の自宅へ着き、奥さん手製の肴により飲酒を始める。先日、三宮の東急ハンズに300円均一で売られていたため買いあさったというLPのうちジョージ大塚の "IN CONCERT!" を思いがけず聴く。「山口真文って、こんなに良かったっけ」 などと話しながら気が付くと0時が近い。
床に固定されていないバスタブをヴェランダに運び出し、これに湯を満たして露天風呂とする。ふたたび降り始めた雨が、からだの湯面からはみ出た部分を容赦なく叩く。風流はおよそ5分間で中断し、ビールを飲んで1時ちかくに就寝する。
目を覚ましたのは多分、3時のころだったと思う。
を読むうち4時30分になったことを確認し、起床して事務室へ降りる。
顧客名簿の更新、およびその中から夏期ギフトの案内書の送り先を抽出するというふたつの仕事は、電話や来客により作業を中断せざるを得ない昼には行えない。省力化のため、一度この仕事をマクロで組み上げたこともある。しかしそれを使ってようやく気づいたことだが、途中でその時期にふさわしいアイディアを付け加えたり、あるいは諸所で見直しを行ったりすることがこの仕事には以外と大切で、とすればやはり、すべてをコンピュータに任せるわけにはいかないとの結論に達した。
年に何度かするこの作業に2時間をかけ、残りの時間できのうの日記を作成する。
明日からの2泊3日は鳥取で過ごす。その間は毎夜、飲酒を為すことになるだろう。よって今夕は酒を遠ざけ、メシ2杯を食べる。
新しいウェブショップのデザインを今月24日までに決定したいとは "Computer Lib" のヒラダテさんがメイルで言ってきたことで、なんとも気が急いて仕方がない。大枠は13日の日曜日にテニスコートのベンチでメモにしてあったが、これを、誰が見ても分かる形にしなければならない。
そう考えつつ動かずにいたきのう、「あした来て欲しい」 という降って湧いたような商談が東京で発生したから 「だったらコンピュータリブにも寄って、目と耳から入る情報を提供しよう」 と、今朝は3時に起きてウェブショップのサイトマップや図面を何枚も手書きした。
下今市駅7:46発の上り特急スペーシアに乗り、書類に目を通したり、あるいはうとうととしているうちに利根川を越え荒川を越え、やがて隅田川を渡る。
商談を済ませ、昼過ぎに中央区から千代田区へ移動して神保町の真ん中にある矢野ビルの4階に達する。今早朝に準備した図面をひと目見るなりナカジママヒマヒ社長が 「こんなのダメですよ」 と言う。ところがしばらく静かにしていたヒラダテさんは 「今様で、僕は良いと思います」 と反対の意見を述べる。
ことデザインに限っては、複数が時間をかけて意見を出し合い、それぞれが手を出しいじくり回したものよりも、ひとりの天才のスケッチによるものの方がはるかに優れていることが多い。今回の問題はひとえに、僕が天才でも何でもないところにある。
結論の出ない話は後回しにして、デザインよりも更に重要なことについて意見を交換し、しかしふたたびサイトマップやデザインのことに戻る。今夜、甘木庵に泊まれるならスケデュールは楽だがそういうわけにもいかない。「オレ、北千住発5時12分に乗らなきゃいけねぇんだよ」 と最後の一声を発し、後は電話とメイルで調整していくこととする。
「革靴でコンクリートの上を走りたくはないわな」 と思いつつ北千住駅構内を走り、危ないところで17:12発の下り特急スペーシアに間に合う。指定席に着いた途端に吐き気を覚えるが、それをどうにかなだめて外を見る。そして 「あしたも早起きしなくちゃな」 と考える。
終業後、製造現場と事務室を行ったり来たりして仕事をしているところに家内が来て 「電話、おかしいでしょ」 と言う。当方は先ほどから、外部へアクセスできない "ThinkPad X60" を裏返して無線LANのスイッチなどを点検していたが、指摘されてはじめて机上の電話機を見ると、外線ボタンのすべてが赤く点灯している。
以前、この症状が出たときには主装置の電源が落ちていた。そこでコンセントを点検してみると、こちらは問題がないらしい。家内は電話機のマニュアルを取り出すが、こういうときの僕は常に他力を頼る。携帯電話から113を回すと、故障係に繋ぐとアナウンスがあって後はいつまで経っても無音が続く。仕方がないのでNTTの担当者に電話をすると、既にして7時も過ぎているところから留守番電話が応答するのみだった。
「よほど緊急の用のある人は携帯電話にしてくるだろう」 と家内を納得させて自宅へ戻る。お客様からの電話に当方の留守番電話が反応しない点、およびお客様からのファクシミリが入らないことについては申し訳なく思う。
しかし夜9時すぎのテレビのニュースにて、電話の不通はウチだけのものではなく、東京23区、神奈川、千葉、埼玉を除いた関東甲信越から北海道までのほぼ全域にわたる通信障害によるものと報されたから、すこし安心して廊下にある電話機を見ると、外線ボタンのすべてはいまだ赤く点灯したままだった。
2時30分に目を覚ましても、枕頭の活字を拾い読みしたり、あるいは灯りを落としてひと休みしているうちに4時30分になってしまう。
起床してエレヴェイターで階下へ降りながら、早くも腹が減っていることに気づく。昨夕の鰻丼はどこへ消えたのだろう。次男もだんだん僕に似てきて朝7時前には 「朝ごはん、なに?」 と訊き、週末の午前11時には 「昼ごはん、なに?」 と訊き、夕刻5時には 「晩ごはん、なに?」 と訊くようになった。これでもまだ僕よりはマシである。僕は
午前、気がつくと店舗に牡丹が飾られている。カラリと晴れれば暑く、しかし肌に湿気を感じることのない今の季節に、牡丹はよく似合っているように思われる。
頭を使いすぎると脳が糖分を欲するという。頭を使いすぎたかどうかは不明だが、午後にいたってひどく花林糖が食べたくなる。しばらくは我慢をしていたが2時間後、遂にスーパーマーケットの 「かましん」 へ自転車を走らせ、花林糖2袋を買って戻る。事務机で一葉茶を飲みながらそれを食べるうち止まらなくなり、320グラム入りの袋の中身の3分の1ほどをむさぼってようやく落ち着く。
「この前、ひとつばっかり大事に食べてたから」 と、サイトートシコさんが農地の土手からノビルを大量に採ってきてくれた。これを晩の酒肴とすると、2、3個を食べたところで急にからだが熱くなり、ハゲ頭にみるみる汗が滲んでくる。「エジプトの奴隷がお上から支給されたってのはニンニクとか玉葱じゃなくて、このノビルだったんじゃねぇか」 というようなことを考える。
いくらニンニク葱エシャロットのたぐいが好きでも今夜のノビルは食べきれないため、半分は明日に回すこととする。
丸山公園のテニスコートで球拾いのかたわら、ときおりベンチに戻って新しいウェブショップの設計をする。これが事務机でするよりはるかに進捗したから 「たまには仕事の場所も移すべきだわな」 とつくづく思う。
10年以上も前のことになるが、背中に "VERSACE" と大きく刺繍した白いジャージの上下に "adidas" のサンダルを履いた人がクロコダイルのクラッチバッグから札束を取り出したり、真っ黄色のシャネル風スーツを着た女の人が新しい職場の面接を受けたりしている池袋北口の喫茶店で長大なマクロを書き、ずいぶんとはかどった覚えがある。
公園のベンチや池袋の喫茶店でさえそうなのだから、これがバイタクの後席に座ってホーチミン市の中華街を流しながらだったら、あるいはカシュガルに今も残るというカスバの路地を逍遙しながらだったら、どれほど仕事が進むだろうかと考える。
いつもの週末と同じく次男と丸山公園のテニスコートへ行く。やがて日差しは強くなり、それに連れて気温も上がる。普段着を半袖のTシャツとテニスパンツに着替え、試合の様子などを見る。テニスコートに隣り合った野球場の芝は目にまぶしいが、木陰に置いた椅子に座ると風は涼しいよりもむしろ寒い。朝の長袖シャツをふたたび着て昼飯を食べる。
午後の早い時間に帰社して仕事に復帰する。その仕事には、目の前の扉が次々と開いていくように難なく進んでいくものもあれば、頭の中にフワフワと飛ぶ蝶をなかなか手に捕らえられず、いつまでも形にならないものもある。
夕刻、車庫に行くと、まさかありはしないだろうと思っていたシートベルトの切れ端が工具箱の奥に見えたから驚きかつ喜ぶ。簡便、軽量、洗えてすぐに乾き、盗まれても惜しくない旅行用ショルダーバッグの部品として、シートベルトの切れ端は使う。このバッグの問題は、乞食坊主の頭陀袋よりも粗末なその見た目にある。同行者の顰蹙の表情に気づいたら、ベルトのみ外して普通の 「スーパーの袋」 に戻してしてしまえば良いだろう。
カレーやけんちん汁が前夜よりも翌朝において断然、美味くなっているという経験はいつもしている。ところが筍ごはんにおいてそれを感じるのは今朝が初めてだ。「きのうは酒を飲みながらのメシだったから舌が鈍っていたに違いない」 と家内に訊くと、家内も筍ごはんはきのうの炊きたてより今朝の方がずっと美味しいという。
開高健の 「新しい天体」 に、「ナレ」 が 「饐え」 にまで進んで食べられなくなった鮨のことが出てくる。発酵系の材料はなにひとつ使っていないに筍ごはんにも、ある種の 「ナレ」 が起きたのだろうか。この味を再現しようと試みてもそれは無理だ、食べ物と我々との関係は所詮、一期一会に過ぎない。
夜、飲み物はお茶にするか酒にするかと訊かれ、それまでは飲酒を為すつもりでいたが、わずか数秒の逡巡にて今夜は断酒をすることに決める。
なぜ断酒をするか、第一に、米のメシは酒よりも美味い。第二に、酒に合いそうなおかずはメシにも合うから今夜のおかずはメシにも美味いはずだと考えた。第三に、今月の末から行く旅行先では飲み続けになるだろう、であれば、月に8回の断酒ノルマはできるだけ早くに達成し、なお来月へ繰越せるだけの断酒実績を1回でも2回でも積み上げれば後が楽だと計算をした。2、3秒のあいだにも、僕はこれだけのことを頭にめぐらすのである。
朝、ある病院に書類を送る必要が生じたため、電話をしてファクシミリの番号を訊くと、ファクシミリはあるが紙が切れているので書類を受け取ることはできないという。一体全体、弾を持たずに塹壕から飛び出せる兵士がいるだろうか。
用事があって午前、日光宇都宮道路を南下していくと、サイレンを鳴らしつつ料金所に差しかかった救急車がスイスイ流れる "ETC" の方へは行かず、一般ゲイトに並んだ車列の最後尾に付く。それを見て 「ウチのクルマはどうでもいいけど、救急車は "ETC" 対応にすべきだわなぁ」 と思う。
雷雨の予報もあったが涼しい風が強く吹いたのみにて夕刻まで雨はなかった。と、ここまで書いたところで一天にわかにかき曇り、激しい雷雨になる。時刻は6時05分。白衣を着て製造現場へ行き、数十分の作業をして事務室へ戻る。雨は止んだらしく、外からは道を往くクルマが水を撥ねる音のみ聞こえる。雷も徐々に去りつつあるらしい。
自宅へは戻らず、午後に購ったオールドファッションドグラスを事務机に置く。そこにダブルの "Macallan 12 Years old" を注ぎ、いまにも凍りそうなソーダで満たす。トランペットはリー・モーガンの "Speedball"、夏のウイスキーはハイボールで決まりだろ、やっぱ。
今年2月24日にソウルの 「クラウンホテル」 地下にある汗蒸幕サウナへ行った際、マッサージのオバサンが僕のかかとをツルツルにしてくれた。小槌で割るにも難渋する古い鏡餅のような僕のかかとをどのようにして綺麗にしたのかとオバサンに訊くと、オバサンは硝子瓶に立てかけた棒を指さし、近づいて見ると、それはヘンケル社製の小さなカンナだった。
かかとの角質を落とすには普通、様々なヤスリが用いられるが、これは皮膚を削る効率が極めて低いから僕のように気短な者は面倒になり、つい使う頻度も落ちてくる。ところが日曜大工の道具を考えてみても、ヤスリよりはカンナの方が対象を削る速度は高く、処理された面も滑らかである。
韓国のオバサンが使っていた人体用カンナは帰国後に "google" で見つけたが、見つけた途端に安心して注文はしなかった。しかし 「薫風自南来」 のころとなり、アカギレの心配も薄らいだところから数日前にこれを発注し、届いた日の晩からさっそく使い始めて、あらためてその威力を知った。
しかしラッシャー木村の額に刻まれた深い溝のようなものが僕のかかとにはあり、だからいくら皮膚を薄く削っても、時期が来ればアカギレは確実に、同じ場所にできるのだ。アカギレは、僕の手指やかかとにとっては、いわば季節ごとに訪れるなじみのようなものである。
かつては 「今市銀座」 と呼ばれた相之道にある "Johnny's cafe 638" でギネスビールをノドの奥に送り込み、ラーメンの 「ふじや」 へ移動して冷やし味噌ラーメンをウメ割り焼酎の肴にする、というのが僕の夏の課題で、こういう課題ならいくらあっても苦ではない。
苦ではないのだが家族がいない夕べにしかこの計画は実行できず、そういう日があっても季節が夏でなければ 「ふじや」 に冷たいラーメンはない。というわけで本日は昼に 「ふじや」 へ出かけ、毎年5月の連休あたりから出はじめる冷やし味噌ラーメンを食べる。
何年か前のことになるが 「ここの冷やし味噌ラーメン、東京にあったら行列ですよね」 と言ったら店主のマルヤマさんは 「いやぁ」 と謙遜をした。いま考えてみれば、ラーメン屋の行列というのは味の良さだけではできない。それを食べようとする側の幻想や思い込みも必要で、それを醸成するのが、一見すれば客観的と思われて実際のところはずいぶんと曖昧な 「評価」 というものである。
湯島の天神下で長い行列を作っている人は、これからの季節には熱射病に注意をする必要がある。それよりも切通坂を上がって本郷消防署前の 「神勢。」 へ行ったらどうか。この優れたラーメン屋に行列の無いのは本郷七不思議のひとつである。
「髪に寝癖ができるようになったら、それが床屋へ行くときだ」 とは年少の友人チョーヤさんの言ったことだ。僕にもそのようなところがあって、つまりチョーヤさんも僕もおなじ坊主頭なわけだが、チョーヤさんがバリカンで坊主にするところ、僕は鋏で坊主にしてもらっていて、そこのところがすこし違う。
何年か前、加藤床屋のオヤジさんに 「どうせ坊主なんだから、バリカンでやっちゃってもいいんじゃねぇかな」 と提案をしたところ 「まだ早かんべ」 と、言下に断られたことがある。本職からすれば、バリカンによる坊主と鋏によるそれとのあいだには雲泥の差があり、「若い衆や年寄りじゃあんめぇし」 ということなのだろう。
何週間か前から寝癖のできるほど髪が伸び、しかし繁忙に阻まれてこれを刈ることができなかった。連休の過ぎた本日になってようやく時間を確保し、加藤床屋の開店一番に行く。つけっぱなしになったテレビのニュースに入れる我々の茶々については、ここに書けないほど下らないことではないが、まぁどうでも良い。
パラノイアのように丁寧な90分間の仕事を受け、コーヒーをご馳走になって帰社する。
朝、生まれてこのかた聞いたこともない音が外でするため事務室の格子戸から外を見ると、田植えに使うらしい農業用の車両が国道121号線を、春日町の交差点から今市インターチェンジ方面へと走っていくところだった。その車両の前輪はチューブを内蔵しないゴムのかたまりのようであり、後輪は水陸両用車のそれのような鉄の水かきが直接アスファルトに触れている。ナンバープレートは見えない。
何ともいえない音を立てながら移動していく車両を運転しているオジサンは一体、どこから来てどこへ行こうとしているのか。いくら車輪に水かきがあるとはいえ、田植え機でタヒティまで達することは不可能と思われる。
オヤジが生前 「偉い男だね」 と言ったことのあるイワタさんの名が今朝の下野新聞のおくやみ欄にあった。夕刻、社員を集めてのミーティングを済ませて後、イワタさんのお通夜に行く。お通夜の晩と町内に会議のあった晩は酒は飲まないこととしているため、本日を今月2度目の断酒日とする。
5時46分15秒にインターネット上の古書店で買い物をすると、自動送信ではない、店主みずからの打ったメイルが6時03分08秒に届き、そこには
「画面の説明にもございましたとおり、コンディション可、昭和51年初版、帯無し、カバーに約35ミリ幅の欠損、約25ミリの破れ等かなりの使用感、本体全体にかなりキツいヤケとシミあり、中は問題なし、の商品です。ときおり商品到着後、傷みがあるとは知らなかったと言われる方がいらっしゃるため、失礼ながら確認のメールを差し上げました」
とあるので
「早速の連絡に感謝します。本は読めれば良いのであって、当方、白い手袋をして稀覯本をなでまわすたぐいの者ではありません。すみやかにお送りいただければ幸いです」
と返信を送る。
今朝のこの本が300円、ところが他店では「状態良」 のものに4,500円の値を付けている。外観上の欠陥により安くなっている本や、同じくエティケットのシミや破れによって安くなっているワインは当方、大歓迎である。本は読めさえすれば、ワインは中身がまともに保たれてさえあれば何の問題も無い。
きのうとおなじく朝からテニスコートへ行き、午後の早い時間に帰社して夕方まで仕事をする。
長男が帰宅したため 「古い白はどんどん飲んじゃおうぜ作戦」 を実行することとし、ワイン蔵へ "Meursault Geneverieres Olivier Leflaive Freres 1986" を取りに行く。その際 "Moet & Chandon Brut Imperial" の最後の1本を発見し、これも4階へと運ぶ。先ずシャンペンを飲み、次に 「10年前に飲んでたら美味かったよねぇ」 といつも心の中で繰り返すことになる白ワインを飲む。
枕頭には時計も携帯電話もないから現在時刻は分からない。買ったまま読まない本が山ほどあるにもかかわらず、30年ほど前に手に入れこれまで2度は読んだと思われる
を三たび読み始める。
連休中だから商売は当然、忙しい。しかし次男につきあって連日、朝からテニスコートへ行く。
バングラデシュからイベリア半島まで、つまり南アジアの東部からアラブの色濃いヨーロッパ南西端までの地域において、僕の顔が現地に溶け込んでしまうことは過去に実証済みである。ところがその顔が連日のテニスコート通いで黒く焼け、するとその溶け込める度合いは更に強まった感があって、だから今月の末から行くシルクロードの入口あたりでは、カバブ屋の店番くらいは務まるのではないかと思う。
問題は、そのようなところまで出かけながら4日か5日で帰らなければならないことで、名所旧跡の見物も高級料理屋のメシもいらない、昼間は木陰の寝台で本を読んでいられれば良いのだし、夜は迷路の奥の小さな店で羊の汁麺を食べながら赤い葡萄酒が飲めればいいのだ、ただし時間だけは贅沢をさせてもらえないか、6ヶ月でも7ヶ月でも飽きるまで。
朝から次男と丸山公園のテニスコートへ行く。数十分で気温が上がってきたため、長袖のシャツを脱いで半袖のTシャツに着替える。家の前から鬼怒川温泉へと続く国道121号線は朝から混み合っていた。4連休の初日とあれば店舗も繁忙だろうと、10時前に帰社してあれやこれやする。
子供のころには振り替え休日など無かったから、5月の連休が暦の具合で3連休になることでもあれば、それは前の年の5月から小学校では話題になり、我々はワクワクしてその日を待ったものだ。今年は4月の終わりから5月の上旬にかけて9連休の会社もあるという。休みが多いほど人は楽しいのだろうか、無理をして遊んでいる人もたくさんいるのではないか、あるいは無為に日を送っている人も少なくないのではないか。無為はそう悪いものでもないが無理は心を痛める元になる。
無理に過ごすに9日間は長すぎる。しかしどこかへ逃げ出すためには同じ9日間では短すぎる。いや、坐禅や歩行によりその脱出を頭の中で行えば、人はいつどこにいても自由かも知れない。
日は更に照りつけてきた。木綿の長ズボンを脱いで短いテニスパンツに穿き替える。そしてまたテニスコートへと向かう。
室内はいまだ暗い。しばらくして枕頭に置いた携帯電話のディスプレイを見ると、時刻は2時をまわったばかりだった。きのうは10時をすぎて就寝したから4時間も眠っていないことになる。「絵具屋の女房」 を開いてこれを読み終えたり、あるいはうつらうつらしているうちに部屋の中が墨色から紺色へ、紺色から群青色へと変わっていく。
4時30分に事務室へ降り、かねてより考えていたあれこれに基づいて、あちらこちらへメイルを送る。朝の空気を吸うため外へ出ると夜来の雨はいましも上がろうとしていたが、今日これからの天気がどうなるかは分からない。
午前10時を過ぎたころ、早朝にメイルを送ったあちらこちらの社長やヲタクや営業部長から次々と返信が届いたり、あるは電話が入ったりする。それらすべては前向きな、あるいは当方の希望をより満足させるものだったから 「今のオレは運が良いに違いない」 と単純に考える。
日光の山に雪が増えている。山に登らなくても、5月の連休における中禅寺湖畔から上は雪がないだけで、樹木の様子は冬と変わらない。それを僕は20歳のときに知った。
きのうから一転してときおり小雨の混じる肌寒い天気になった。しかし人には慣性、身も蓋もなく言ってしまえば惰性がつくから、きのう脱ぎ捨てた長袖のシャツには腕を通す気がせず、朝から半袖のポロシャツを着る。販売係のトチギチカさんに 「寒くないですか」 と訊かれて 「寒くないよ」 と答えるが、よくよく考えてみると寒くないこともない。
薄着の人間とは暑がりなのではなく、服などできるだけ着たくないのだ、すくなくとも僕や販売係のハセガワタツヤ君はその部類にて、たとえ気温が低くても半袖半ズボンで震えていることがある。そういう人たちに旅をするとしたらどちらの方面がよろしいかと問えば、多くは南を目指すのではないか。
ここまで書いて 「そういえばヤスダミナミなんて歌手がいたなぁ、オレが買ったアルバムのタイトルはたしか "SOUTH" だった」 と、大昔のことを思い出す。