雨は降っていないが冴えた天気でもない。よって朝食後は部屋で日記を書いたり本を読んだりして過ごす。そして昼になったのを潮に外へ出てパホンヨーティン通りを西へ歩く。
パホンヨーティンという名の通りはタイでは珍しくない。しかしてチェンライでは、このパホンヨーティン通りの構造が、街の地理の説明をややこしくしている。
市の東方にあるメンラーイ王の銅像から南下して西に曲がり、そのまま時計塔へ向かうのがチェンライのパホンヨーティン通りだ。しかし時計塔まで200メートルの交差点から真っ直ぐ南下して目抜き通りになっているのも、またパホンヨーティン通りである。とすればパホンヨーティン通りは市のほぼ中心で鉤の手に折れているのだろうか。
兎に角、そこがパホンヨーティン通りなのか、はたまたバンプラカン通りなのかは知らないが、クイティオ屋の「フイミン」に入る。席に着くと目の前のテーブルで、この店の息子らしい若者がワンタンを包んでいる。ワンタンをタイ語で何と呼ぶかは知らない。オヤジには「バミーナム」と注文しながらそのワンタンを指さし「サイ」と加えた。「サイ」は「入れてください」を意味するタイ語である。
「フイミン」を出て今度は市を南下する方のパホンヨーティン通りを下り、先日、地元の人に教えてもらったマッサージ屋"PAI"の扉を押す。
受けたのはタイマッサージの2時間コース。マッサージのオバチャンには術後に100バーツのチップを渡した。そうして3階から1階に降りて受付で1,000バーツ札を出すと、釣りが700バーツも戻ってきた。いくら田舎とはいえ、今どき2時間で300バーツのマッサージは破格に安い気がする。
"PAI"を出て市を南下する方のパホンヨーティン通りを、今度は北へ上がっていく。この通りの左右およびワンカムホテルのちかくには店の前で女が客を引くマッサージ屋が10数軒はあるだろう。しかしそういうところで2時間300バーツは無理だ。
北へ歩きつつ右から左へと通りを渡る。そして「パホンヨーティン通りが鉤の手に折れているなら、その折れ目はここ」という交差点からは東に歩き、ホテルに戻る。
僕は年賀状や暑中見舞いは書かない。書かないどころか返事も書けない。その罪滅ぼしは旅先でする。日の暮れかかるころ外へ出て「鉤の手」の角にある、先日も来た「ドイチャーンコーヒー」に入る。そしてここで3通のハガキを書く。
ハガキはホテルからも送れるだろうけれど、エジソンデパートの1階にある、郵便物取り扱いカウンターが便利だ。切手代はここ何年も変わらない、1通あたり15バーツだった。
日暮れどきに喫茶店で甘いものなど食べたせいか、20時を回っても腹が減らない。よって土曜日に市民による大宴会の開かれていた公園のあたりまで逍遥しつつ、僕には似合わない、ビヤガールもいるような店でようよう夕食を摂る。
3年前のことはよく覚えているから覚悟はしていた。シームンの家では夜が長い。原因のほとんどは僕にある。
酔って20時前に寝る。0時に目が覚める。布団に腹ばいになり、携帯用の灯りで本を読めば腰が痛くなるから闇に横臥して明るくなるのを待つ。その6時間がひどく退屈なのだ。
4時40分に一番鶏が啼く。5時40分にふたたび鶏がけたたましく啼き交わす。畑に出かけるらしくシームンの、オートバイのエンジンをかける音がする。いくらかうとうととしたらしい。時刻は6時20分になっている。窓の、反って完全に閉まらない木の扉から朝の光が差し込んでいる。「やれやれ」という気分で起きて服を着る。
水浴び場の向こうには、まるで泰西名画のような景色が広がっている。部屋に戻る途中で外に目を遣ると、シームンの奥さんが朝食の用意をしている。
やがてシームンが畑から帰ってくる。そして「コーヒーは飲むか」と僕に声をかける。「飲む」と答えると「砂糖とミルクが入ってしまうが構わないか」と僕の顔を覗き込む。「構わない」と僕は答える。
この家で客に出すコーヒーはネスカフェの、砂糖とミルクがあらかじめ混じって1杯分になっている袋入りだ。3年前にはそれを知らず「コーヒーは砂糖だけにしてください」と言って彼を困らせたことを彼は覚えていたらしい。きのうのタケノコといい今朝のコーヒーといい、シームンはやはりただ者ではない。
老父が庭先の七輪に起こした火にシームンが乾いた竹を足す。これ以上は煤の付きようもないほど黒い薬罐から湯気が勢いよく噴き出し始める。その薬罐のお湯で朝のコーヒーを飲む。すぐそばでは老母が鶏に餌をやっている。昨夜は鶏の騒がしい一時があった。訊くと「鶏を"separate"している」とシームンは答えた。"separate"とは何かの条件に従って鶏を籠に分けることだったと、今朝になって初めて知る。
きのうのいつ頃だったかは忘れたが「明日の朝はトーストにするか」とシームンに訊かれて「カオトム」と答えた。そのカオトムには鶏肉や鶏卵と共にレモングラスとニンニクと干し海老が煮込まれていた。お粥ひとつをとっても、タイのメシは一筋縄ではいかない。
メシの後は台所に隣り合った食堂に足を投げ出し、しばしゆっくりする。上がりがまちで眠る犬とおなじ、僕はナマケ者である。そんな僕を尻目に老父はきのう割いた竹を今朝から編み始め、間もなく鶏のための籠が完成しようとしている。僕もいつまで怠けているわけにはいかない。別棟のテラスで日記を書こうとして、しかしコンピュータのディスプレイが陽にさらされて、それがままならない。よって昼までは本を読んで過ごす。
遠雷が徐々に近づいてくる。「15年から20年くらい前までは、雨はある程度まとまった地域にあまねく降ったものだ。それが今では局所に集中して一気に降る。理由は分からない」とシームンが言う。集中豪雨の増加なら、日本もおなじことである。
昼飯のカオマンガイは彼の妻ではなく娘が作った。これが驚くほど美味い。バンコクの名店のそれなどは足元にも及ばない。この家では何を食べても美味い。大豆の見え隠れするナムチムも、唐辛子以外のものもたくさん含まれる香辛料も、可能であれば持ち帰りたいほど味が良い。「日本でこの家のメシが食えたらなぁ」と、つくづく思う。
ベランダで手仕事をする家族たちに別れを告げてトヨタの四輪駆動車に乗る。時刻は12時56分だった。降り始めた雨が、山を降りるにつれ強くなってくる。この雨がきのう降っていたとすれば、川旅はできなかっただろう。
街に出たら、なるべく品揃えの良さそうな薬局に寄るよう、シームンに言う。目指す薬局が見つかったころには、雨はもっとも激しさを増していた。クルマから降りるなり走ってひさしの下に飛び込む。身振り手振りで打ち身のことを伝え"plaster"と言うと、オバサンは"TIGER BALM"の貼り薬のある棚に僕を案内してくれた。見ると温湿布と冷湿布の2種類がある。迷わず"COOL"の方を選ぶ。冷湿布は2枚入りで50バーツだった。それをふたつ100バーツで買う。
雨は弱まりつつあるが、場所によっては人の膝まで水が上がってきている。商店などでは濁り水が店に入らないよう、店員が総出で土嚢を積んでいる。不思議なことに雨はそれから間もなく、いきなり止んだ。あるいはこちらのクルマが雨雲の真下から抜け出したのだろう。山からホテルまでは1時間とすこしの行程だった。
"Le Patta"の、やはり1階の部屋に入ってあれこれを整理する。整理とは、ベッドの上に豪華に並べられた不要の枕をクローゼットに仕舞い、机上のレターセットを見えないところに移し、テレビの主電源は切り、ベッドの両側に同時に点く明かりについては片方のコードをコンセントから抜き、というような行為を指す。
そうしてふと風呂場を見ると風呂桶が無い。フロントに行って事の次第を確かめると、今夜は混み合っていて、すべての宿泊客にバスタブ付きの部屋はあてがえないのだという。僕は無理を言う客ではない。納得をして部屋に戻る。そして山で着ていた服の洗濯を頼む。
羽田空港のコンビニエンスストアでは、200cc入りのボトルでしか焼酎は売っていなかった。買った5本は初日と3日目と4日目に1本ずつ飲み、きのうは僕が1本を飲んで、最後の1本はシームンにやった。よって日が暮れるまで待って、目抜き通りの酒屋へ出かける。ビールは腹が膨れる点において、食中酒としてはあまり好まない。
タイの田舎の酒屋としては豊富な品揃えの棚を見ていくうち、タイ製の米焼酎が目に留まる。しかし僕はラオカーオでは一度、失敗をしている。
「ラオカーオが欲しいんだけど、安物は匂いがイヤでね。ウォッカのように、澄んだ香りのものはないですか」と訊くと、なかなかのインテリ顔をしたあるじは僕が手にしたボトルを見て右手の親指を立てた。しかしその、鷲の頭をデザインしたレッテルの酒にはいくつかの種類がある。「どれがお薦めですか」と水を向けると、そのうちの1本を彼は指した。よってそれを棚から取ってレジの脇に置く。度数は40ディグリー、容量は700cc、価格は195バーツだった。
「シークラン」のメシにラオカーオと活字が加われば、この世は天国だ。そうして「小酌」とも言えない量の焼酎を飲み、パホンヨーティン通りをホテルへと向かう。
おとといこの新しいホテルにチェックインをしたとき、手渡された鍵は1階のものだったからすこし落胆をした。ホテルの部屋は高いところにあるほど好きだ。
しかし今朝になって最上階の3階まで上がってみると、このホテルに限っては1階がもっとも居心地が良いように思われてきた。階が上がるにつれ、ナイトバザールの裏側や雑草だらけの空き地が目の前に広がって感興を削がれるのだ。
ロビーからプールサイドへ出て直ぐのところにある我が"A102"の窓の景色は、実は中々のものなのかも知れない。そしてその坪庭のようなありさまを眺めつつ、午前のほとんどを日記を書くことに費やす。
昼は宿から歩いて2、3分のシリコーン市場へ行き、蜂蜜屋のとなりの食堂で席に着く。そして、現在いるタイ北部ではなくイサーンの代表的な料理ではあるけれど、鶏肉の炙り焼きやソムタムをおかずに蒸した餅米を食べる。「いちばん好きなタイ料理は」と訊かれたら、僕はことによると今日もここで注文した「トムセーップ」と答えるかも知れない。
膨れた腹を抱え、市場からナイトバザールの裏手を巻いて、ウィアンインなどのある目抜き通りへと出る。そしてパホンヨーティン通りとの角に位置する喫茶店「ドイチャーンコーヒー」の扉を押す。ここには学生や教師らしい客が多く、昭和の学生街に共通する匂いを感じた。コーヒーの味に関しては、日本の平均的なそれよりもタイのものの方が濃く、薫り高く、美味い。
カレン族の、3年前に知り合ったシームンとの約束の時間は13時30分だった。先ほどチェックアウトしたばかりのホテルに13時すぎに戻ると、シームンは既に四輪駆動車を駐車場に横付けしていた。そして挨拶もそこそこにクルマに乗り込み、10分ほど走ってコック川の船着き場まで連れてきてもらう。
雨期の水を湛えたコック川は、いくら遡っても川幅は狭くならない。そしてチェンライから55分を進んだところでようやく速度を落とし、未知の船着き場に接岸をした。そこで待ち受けていたシームンに導かれるままクルマを停めたところまで草を踏んでいく。
数分ほどもクルマを走らせると、そこには3年前に次男とも来たことのある温泉「ハーセン」があった。「えっ、温泉? 温泉はいーよー」と気の進まない僕に「折角だから」と答えつつシームンは先に立って歩いて行く。そしてあづまやのような個室に僕を案内して「大きな蛇口はお湯、小さな方は水。適当に調整して」と言うなりドアを閉めて出て行った。
「鉱泉浴に最適な時間は20~30分です」という壁の説明を読めば「何が何でも20分は辛抱しなくては」という気になる。そして水など足す必要もないほどぬるい湯に浸かり「そろそろではないか」と、脱衣籠に置いた腕時計を見ようとしてタイルの縁に立った瞬間、僕は足を滑らせ転倒した。
頭や腰の骨からタイルの床に落下しなかったことは幸いだったが、その代わり尻の上部を縁の角にしたたか打ち付けた。痛む部分に指を触れると何やら肉のえぐれた気配があり、血も出ている。「旅先で参ったな」と思いつつ、いつまで裸で立っているわけにもいかない。荷物からバンドエイドを取り出し、当該の場所に手探りで貼り付け服を着る。
転倒のことはシームンには告げずにふたたびクルマに乗る。峠の雑貨屋でビールを仕入れれば、シームンの住む村パクラは目と鼻の先に迫る。「あそこに広がっているのはレモングラスの畑、そこに植わっているのはウコン」などと教わるうち、シームンの家が見えてくる。
買ったビールの中の1本は栓が甘く、泡を吹いているので、これだけは直ぐに飲んでしまうことにする。飲む場所は、シームンの家とおなじ敷地にあって、彼の老父母が住む家の竹のベランダだ。
そうして午後の日の中で寛いでいると「ポミロは好きか」とシームンが訊く。ポミロと言われても不明のため、取りあえずは「好きだ」と答えると、シームンは笑いながら山の中へと消えていった。
しばらくして戻ったシームンが穀物袋から取り出したのはソムオーだった。僕はこの大ぶりの柑橘をタイ語でソムオーと認識している。「とすればポミロは"pomelo"だったか」と、ようやく気づく。晩飯が食べられなくなってもいけないため、ソムオーは半個だけにしておいた。
今日の昼すぎ、舟に乗ろうとする僕をつかまえて「晩飯には何が食べたいか」とシームンは訊いた。「肉は要らない、焼き魚と野菜炒めで十分だ」と僕は答えた。
晩飯の時間になると、タイ北部に特有のちゃぶ台にはプラーニン、この「ニン」は、タイの食糧事情を憂えた皇太子時代の明仁天皇がプミポン国王に50尾のこれを贈り、養殖を勧めたところから「仁」のひと文字をタイでの魚名に充てたいきさつによるけれど、このプラーニンの塩焼き、空心菜に似た野菜と鶏肉の炒め、噛むと少しぬめりのある野菜の炒め、そして姫竹の炭火焼きが用意された。
姫竹を除けば残りの3種は3年前に次男と泊まったときの料理に重なる。そのとき彼の妻と娘のちゃぶ台には竹の子の炒めがあった、そして僕はそれを所望して食べた。そのことをシームンは覚えていて、今夜は姫竹を加えたのだろう。大した記憶力である。
野菜を炒めた汁をかけて食べたりすると、タイの米はとても美味い。そして今夜もそのようにしてタイのメシを酒の肴にする。姫竹の炭火焼きについては、その香ばしさに圧倒された。山の採れたてを炭火で炙ったらしい雅味は、日本のどのような高級料理屋でも真似のできない美味さだと思う。
台所に立ったシームンは、今度は茹で上げたばかりのタケノコを持って戻り、それを魚の皿に添えてくれた。僕は随分とタケノコの好きな人間と思われたらしい。こちらのタケノコも美味かった。
そしてビールと焼酎に酩酊し、シャワーを浴びて20時前に寝室に引き上げる。
2日分の日記を溜めると少しく焦燥をする。そして午前のほとんどを、日記を書くことに費やす。昼から外へ出てパホンヨーティン通りを西に歩く。
昨年まであった、趣味の良い骨董民芸の店はきのうも今日もシャッターが降りたままだ。「いくら北部とはいえ、そこまで寒くなるんですか?」と思わず訊きたくなる冬物衣料を売る店の前を過ぎ、きのうの「シークラン」の数軒手前にある牛鍋屋「ロテイェム」に入る。
先ずは店先の鍋のうちモツばかりを煮込んだそれを覗き込んでいると「席へどうぞ。メニュがあります」と、英語の達者なオニーチャンに声をかけられたので言われた通りにする。そのメニュを開くとしかし、そこに僕の食べたいものは無い。
そこで、メモ帳には昨年から貼り付けてある、内臓を意味する「クルアンナイ」、もっともこのカタカナの通りに発音しても決して通じないけれど、そのタイ語による文字を見せたところ、オニーチャンは苦笑いをしてメモ帳ごと女将のところへ持っていった。女将の表情をそれとなく伺っていると、その文字を一瞥するなり彼女は「クルアンナイ」と声に出しつつそっけない顔をした。
僕は「だから」という顔で笑ってまた臓物鍋のところへ行き、「だから、この汁でセンレックナムを作ってちょうだい」と、オニーチャンに告げる。それにしても、ここまで英語が達者でありながらタイ語が読めないとはどういうことだろう。
「街なかにお薦めのマッサージ屋って、ありますか」と、「ロテイェム」に来る途中で地元の人に訊くと、オネーサンは南を指さし"PAI"と教えてくれた。それだけでは分かりかねるので更に詳しく確かめると、その場所はウィアンインホテルの先の飯屋ムアントーンから道を隔てた角、ということが分かった。
その小さな交差点については僕も見知っている。そして食後はそこまで歩き、その店が実際にあることを確認してからホテルに戻る。
きのうは「目撃者」の、493ページ「バカンスとクロコブタ・グズマニアのこと」から511ページ「マイナス1日ビナ」までを小一時間ほどで読んだ。そして今日はプールサイドに3時間ほどもいて、512ページ「熱帯に滞在し、酷寒と闘うこと」から565ページ「サイゴン陥落の原体験」までを読んだ。ここは近藤紘一が産経新聞のサイゴン支局から東京の本社に戻り、今度は同じインドシナでもバンコクに赴任した時期のことが主になっている。タイで読むには現実感のある、しかし書かれたのは1970年代だから懐かしさも伴う、とても美味しい部分だ。
日が暮れてしばらくしてからゴム草履を突っかけ、先ずはパホンヨーティン通りを西へ、そして金色の時計台からは北へ進んでタナライ通りに出る。土曜日の夜はここから東へ数百メートルほども賑やかな市が立つ。このサタデーマーケットの規模は、毎週これを開催し続けるだけの力がチェンライというタイ最北部の街、あるいは周辺の住民にあることが信じられないほどに大きい。
露天はタナライロードの両歩道とセンターラインに沿って3列に途切れず続く。東へ向かっても西へ向かっても、人はセンターラインの左側を一方通行する決まりである。
本体と鼻緒にそれぞれ好きな色を選べるゴム草履屋、京都のどこかにありそうな上品なサイズの団子を売る店、寿司屋、キティーグッズ専門店、鯛焼き屋、コムデギャルソン屋、アメリカのフライドチキンチェーンから店名を拝借したような揚げ物屋、枝豆屋、化粧品の試供品を売る店、涅槃屋など、興味をそそられる店だけを選んで写真に収めようとしても際限が無い。
1本5バーツのモツ焼きとイカ焼きを計9本買う。鶉の卵の目玉焼き12個を30バーツで買う。焼きそばを30バーツで買う。焼き餃子5個も30バーツで買う。セブンイレブンで缶入りのシンハビールを買う。そしてそれらを手に、週末を楽しもうとする市民で汗牛充棟の広場に空いた椅子を探す。
この広場のステージに登場するバンドの演奏と歌に合わせて市民たちは手を拍ち身を揺する。ピンクのブラウスと白く短いプリーツスカートを制服とする、地元のオバチャンによるダンス愛好会のみだった踊りの輪には次から次へと市民が加わり、その数は瞬く間に増えていく。
チェンライに来る機会があって日程を調整できる人は、ぜひ土曜日の晩を自由時間として予定に組み入れて欲しい。エメラルド仏も純白の寺院ワットロンクンも敵わない、このタイ版フォークダンスはチェンライ随一の見ものである。
日記書き、散歩、水泳、本読み、そして地元の人に交じっての飲酒活動と、今日は日本を発ってから最も僕らしい1日だった。西の端から東の端まで歩いたサタデーマーケットを、遠回りを厭わず律儀に西の端まで戻ってからホテルへの道を辿る。
きのう自転車で街を巡り、あれこれ調べた中にイスラム街のことがある。それは、そこにある広場で毎週金曜日に市が開かれるからだ。その市では納豆や漬物など、タイヤイの料理素材が豊富に売られると聞いていたから、僕は日本を出るときから、その市で買い物をすることを楽しみにしてきた。
ところがチェンマイではきのうの朝に引き続き今朝も、夜半からの雨に見舞われている。市は露天で開かれる。ホテルから市までは1キロ弱の道のりだ。そこまで行って、オバサンたちが雨の止むのを待っている姿を見て帰るのも情けない。そう考えて、楽しみしていた買い物を諦める。
「明日はチェックアウトですが、タクシーの手配はいかがしますか」と、きのうフロントのオニーチャンに訊かれて「僕はアーケードのターミナルから9時30分発のバスに乗る。ということは、タクシーは9時に頼もうかな」と答えた経緯があった。
8時45分にチェックアウトを済ませると、タクシーは既にして着いていた。4キロ弱の距離に対して200バーツのタクシーを使うことは僕の流儀ではない。しかし諸々の危険は回避する必要がある。そしてワンボックスカーという、僕の身に余るタクシーに乗ってナラワット橋を渡る。
スーツケースを曳きながらターミナルの中を抜けていくと、切符に書かれた21番のプラットフォームには、既にしてチェンライ行きのバスが停まっていた。早くもかなりの客が乗り込んでいたが、僕の指定した最前席は空いている。スーツケースを胴体に預けてタラップを上がる。数年前にチェンライからチェンマイまで、つまり今回とは逆の路線で使ったVIPバスとの違いは、車内にトイレとテレビが備わっているか否かくいらの差しかない。僕には2等で充分である。
9時36分に出発したバスは間もなく山間部へと入っていく。早朝の目覚めとバスの揺れによりうとうととし、目を醒ますと空は青く晴れ上がっていた。そしてどこかの集落に作られた大きめの停留所でバスは停まった。ガイドのオバチャンはマイクに向かってタイ語で何やらアナウンスしてから僕を見て「テンミニッツ」と勢いよく言った。僕は礼を述べ、他の乗客と共に休憩のためバスを降りる。時刻は10時50分。ちょうどこのあたりが行程の中ほどなのだろう。
チェンマイとチェンライの道中の過半を占める山道は、適度な屈曲と起伏を繰り返してとても快適だ。ここで小さなスポーツカーを操縦したらどれほど愉しかろうかと思う。
12時18分、道路の真上に"WELLCOME TO CHIANG RAI"の横断板が現れる。12時35分、郊外に設けられた"CHIANG RAI BUS TERMINAL 2"に着く。そして街の中心に位置する旧いバスターミナルには12時56分に到着した。長距離バスがここを終点にしてくれて大いに有り難い。
「こんな街の真ん中に、よくもまぁ、新規でホテルが建てられたものだ」と、その存在を知って驚かされた"Le Patta"が今回の宿だ。バスターミナルからは徒歩で5分くらいのものである。そうして南の国に特有の高い歩道を上り下りしながら真新しいホテルに至る。
きのうのことを教訓にして、今朝のメシは少なめにしておいた。シャワーを浴びたらすぐにまた外へ出てパホンヨーティン通りを西に歩く。チェンライのおかず飯屋は誰が何と言おうと「シークラン」で決まりだ。今日は幸いにも腹が減っている。そして店先のバットから3種のおかずを選び、メシは大盛りにしてもらう。
「シークラン、やっぱり好きだなぁ」と満足をしながら店を出る。そして時計台のロータリーからチェットヨット通りを北に歩き、市場に足を踏み入れる。服や布の売り場をジグザグに歩き、袋菓子屋を横目に外へ出る。そして歩道を左へ、左へ、更に左へ、またまた左へと巻いていく。
道を渡って今度は旧いデパートに入る。ここは冷房が効いていて気持ちが良い。しばし涼んでからふたたび通りに出る。
鶏の飼料屋、荒物屋、文房具兼スポーツ用品屋。カメラのバッテリーが怪しくなってきたから矢鱈に撮ることは控えたけれど、この街には大規模店舗に侵蝕されない商店がたくさん息づいている。
ホテルに戻り、シャワーを浴びたらプールサイドに出て本を読む。真昼の暑さが急速に引いていく。そして部屋に戻って今度はバスタブに湯を張り、からだを温める。
チェンライに入った晩はほとんど欠かさずナイトバザールを通り抜け、その奥にある露天のフードコートへ行く。そして地元のあれこれを肴に飲酒活動をする。ビールをチェイサーにして焼酎を飲むうち、それまで無人だったステージに若い踊り子たちが現れた。そしてその踊りの2曲目が終わったところで席を立ち、ゴム草履の足元に気を配りつつホテルに戻る。
この日記は"Weblog"ではない。またセキュリティを固めているため、国内でもあらかじめ設定した場所あるいは携帯電話からしかアクセスできない。「次の更新は10日6日になるだろう」と書いた23日の日記は羽田空港からサーバに上げる予定にしながらそれを忘れた。気づいたのはチェンマイに着いてからのことだ。
今朝、部屋のベランダで24日の日記を書きつつ「駄目で元々」と23日の日記をサーバに上げようとすると、これがすんなり受け入れられた。多分、昨秋に新しいサーバに乗り換えた、そのことが関係しているのだろう。
夜半からの雨の弱くなるのを待って、コンピュータをベランダから部屋の中に格納する。そしてプールサイドへの階段を降りる。このホテルは安藤忠雄の「住吉の長屋」とおなじく、雨の日には濡れながら母屋へ行く構造である。
客室は古く見えて、実は鉄骨と木を組み合わせた新しい建物だ。しかしロビーのある母屋だけは随分と古いらしく、その2階の食堂にいると、誰かが階段を昇り降りするたび床が揺れる。日本の旅館に泊まったときと同様に、今朝のメシもトースト4枚はじめ随分と量をこなしてしまった。
本日することは先ず、きのう訪ねて女将の留守だった床屋での散髪と耳掃除だ。ホテルから迷路のような道を辿ってロイクロ通りに出る。メタンガスの臭気を発するクロンに架かった橋のすぐちかく、センタラドゥワンタワンホテルのはす向かいに床屋はある。女将は僕の顔を見てとても喜んでくれた。女将の仕事は丁寧だった。代金は昨年の「髪と髭で300、耳掃除が200」から「髪が200、髭も200、おまけに耳も200」と、100バーツ高くなっていた。
その600バーツを支払いながら貸自転車屋の場所を訊ねると「ウチでもやってるわよ」と女将は外を指した。この床屋が旅行代理店を兼業していることは知っていたが、その後、オートバイと自転車の賃貸業も始めたらしい。よって早速に手続きをする。預かり金は1,000バーツ、自転車は1日中借り切っても50バーツだった。そしてロイクロ通りを西へ向かう。
一辺が1.6キロの環濠を東から西に越えて旧市街に入る。
カバン通りを往くと建物の間からワットチェディールアンがいきなり姿を現す。
ワットプラシン前からラーチャダムヌーン通りへと折れる。
そのラーチャダムヌーン通りで雨宿り。
アンコールワット周辺で見られる日干しレンガの塀を持つ邸宅前を通過。
ターペー門を西から東に脱すると、門前の広場はマーケットになっていた。
イスラム街でカオソーイイスラムを発見。
チャンクラン通りに抜けてイスラム街への入口を確認。
ロイクロ通りとラチャウォン通りの交差点で夕立に襲われる。
"PA KER YAW"では藍染めと手縫いの2種のタイパンツに物欲が湧く。
床屋"MAEPING CARRENT & TRAVEL"に自転車を返却。
今日は朝飯を食べすぎて腹が減らず、昼飯を抜いた。タイ人の1食は量が少ないから、地元の食堂で何か軽く食べることも考えたが、それをすると晩飯が入らなくなる。そして遂に夕刻になる。
日が落ちてからホテルを出ると、空に4つの明るいものが浮いている。「季節が違うけれど」と不審に思いつつ「ロイクラトン?」と、そばの空き地で椅子に座っているオジサンに訊くと首を横に振りつつ何ごとか言ってくれるが僕にはそのタイ語が分からない。申し訳ないので分かったような顔で礼を述べ、ターペー通りに出る。
午後に自転車で訪ねて予約を済ませ、名刺をもらっておいた料理屋「フアンペン」まではトゥクトゥクで100バーツだった。値切れば値切れただろうけれど、僕はそのようなことはあまりしない。そして見慣れた丁字路に差しかかると店は真っ暗だった。「予約したのに」といぶかしむ僕を乗せたままトゥクトゥクがすこし進むと、果たして昼に使う簡素な客席は灯は落とされ、しかし奥の、まるで客間のような席からはさんざめきが聞こえてきた。
細い通路を進みつつ、迎えに出たボーイに予約してある旨を伝えると、彼は直ぐに僕を案内してくれた。席には昼に僕が自分の名などを記した藁紙が"RESERVED"という札を重石として置いてあった。僕は安心をし、すこし嬉しくなった。
「フアンペン」の料理は、これまでタイでは経験したことのない量の少なさだった。「上品な盛りつけ」ということなのだろう。結局のところ5品も注文をし、僕はそれらすべてを平らげた。ところでこの店はいまや観光地化し、客のほとんどは中国人、そこに白人が少々、そして日本人は僕のみと思われた。
外に出ると複数台のトゥクトゥクが客待ちをしていた。このようなときには視線を一点に定めず、ぼんやりと佇むことが肝要だ。ひとりの運転手が気さくに声をかけてくる。それに僕は「タノン、ロイクロー、カイカイ、ナイッパッサーッ」と応える。運転手の言い値は「ホックシップバー」だった。僕は頷き、彼の客になる。
「こんなところで襲われたら一発でアウトだ」という感じのひとけのない暗い道を歩いて宿に戻ったのは20時45分のころだっただろうか。そしてプールサイドのバーで生のアマーレット1杯を飲んでから部屋への階段を上がる。
"Boeing747-400"を機材とする"TG661"は、定刻の00:20に7分遅れて0時27分に羽田空港を離陸した。席に着いて直ぐに飲んだデパスとハルシオンが効き始めていたため、離陸時のエンジンの轟音が収まる前に眠りに落ちた。スチュワーデスに熱いおしぼりをすすめられて目を醒ましたのは、それから4時間後のことである。
4時35分に配られた朝飯は、ちかごろのタイ航空のそれにしては僕の口に合った。4時52分にダナンの上空を通過。そして機は定刻の04:50より55分も早く、日本時間5時55分、タイ時間3時55分にスワンナプーム空港に着陸をした。
これまでの経験では、日本からの乗客は、スワンナプーム空港の見取り図でいえば右端にちかいゲートから飛行機を降ろされた。しかし今回は反対に左側からの進入だったため、国内線に乗り換える旅客のための入国審査場には直ぐに行き着いた。しかし係員は一人もいない。
空港職員らしいオニーチャンに声をかけると、オニーチャンは自分の腕時計の"5"を指して「ファイブ」と答えた。現在時刻は4時35分。あたりにはひとつしかない木製の固いベンチに腰かけ、ひと息を着く。
入国審査官がブースに入ったのは5時7分だった。そしてパスポートに入国のハンコを押してもらい、先へと進む。
スワンナプーム空港に着陸直前の機長のアナウンスによれば、バンコクの現在の気温は27℃、天気は曇りとのことだったが、滑走路には夜半からの雨が残っていた。そして夜が明けてくる。
チェンマイ行きの飛行機の席に着くころには頭上に青空が広がってきた。タイでは雨期にあっても昼は晴れることが多いのだ。
"Boeing777-300"を機材とする"TG106"は、定刻の07:55に5分遅れて8時ちょうどに離陸をした。積乱雲の林立する空をひと飛びして、チェンマイ空港には定刻の09:15より20分以上も早い8時54分に着陸をした。
チェンマイの空港から発ったことはあっても着いたことは今回が初めてだ。市中心部へのタクシーは専用のカウンターで申し込むと、ガイドブックやネット上のページには書かれていた。そしてそのカウンターは確かにあるのだけれど、どこにも人がいない。スワンナプーム空港に引き続いて職員らしいオジサンに訊くと、国際線到着ロビーの方を笑顔で指す。
国際線到着ロビーも途切れようとするあたりで、出口の外にタクシー乗り場を見つける。大きな看板には160バーツの文字があった。白い制服を着た集団のひとりが僕に声をかける。よってホテルの、胸ポケットから取り出したバウチャーを見せると運転手はあたりの仲間に場所を訊ね、しかる後に僕に先立ち歩き始めた。
タクシーは工事用の車両や駐車中の乗用車に行く手を阻まれつつ細い道を辿ってようやく、今回の宿"MANATHAI VILLAGE"にその鼻先を突き入れた。
一部は旧い、そして一部は新しいもののランナー様式を模したこの宿は、ホテルというよりも、富豪が田舎に持つ避暑用の邸宅のようなおもむきだ。そしてボーイが部屋にスーツケースを運び入れると同時にシャワーを浴び、ロビーというよりは旅館の帳場のようなフロントに戻る。
明後日はチェンマイに移動をする。その切符はグリーンバスの、ロイクロ通りの出張所で求められると、ウェブ上に探し当てたページにはあった。よってフロントのオネーサンに頼んでメモ帳の電話番号に電話をかけてもらうと、この番号は現在、使われていないという。よってウェブ上にあった出張所の場所まで出かけてみることにする。
結論からすれば、当該の場所にそのような施設は見あたらなかった。そのあたりで商売をしている人に訊いても「さて」と首をかしげるばかりだ。特段、珍しいことではない。であれば次は昼飯だ。
メシはできるだけ、地元の人の日常に密着した店で食べたい。そういう店が見つかるまでは、汗が額や背中を濡らしても、ゴム草履の鼻緒が足に食い込んでも行動は止めない。そうしてようやく、ターペーロードのソイ1入口に面した服市場の脇にクイティオ屋を発見する。
センヤイナムで腹が落ち着いたら、本日の義務はパスの切符の購入を残すだけだ。ロイクロ通りの出張所が不明となれば、長距離バスの切符は現在いるところから4キロちかく離れたアーケードバスターミナルまで行って買わなければならない。そして多分「100バーツ」などと言ってくるだろうトゥクトゥクは使いたくない。
お堀の内側に沿った道をターペー門からすこし上がったあたりに古いソンテウが停まっていた。荷台には"DOI SUTHEP"と書いた札が貼ってある。しかしチェンマイ随一の観光地ドイステーップに用はない。話しかけてきた運転手に首を横に振ると「どこへ行く?」と諦めない。「アーケードバスターミナル」と答えると交渉が始まった。そして50バーツで話がついて僕は彼の客になった。気分としては「助かったー」である。
「帰りも乗るなら待ってるけど」という誘いを断り、ソンテウを降りてターミナルの中に入っていく。
明後日の午前にチェンライまで2等バスで行きたい旨を伝えると、ガラスの向こうのオバチャンはコンピュータのディスプレイを僕に見せながら、プルダウンで9月26日を選んだ。9時30発の2等を希望するとオバチャンはその便の、何というか四角い窓にチェックを入れた。するとディスプレイには座席の表が広がった。僕は最前列の窓際を指定した。プリンターから出力された切符に緑の蛍光ペンと赤いボールペンを走らせつつオバチャンは僕に要点を説明した。そして切符に名を書けとボールペンを差し出した。僕がそこにサインをして一件落着である。
バスターミナルに接してソンテウのたまり場がある。そこに近づき「ナイッパッサー」と告げると「いま直ぐにか」とオジチャンが気さくに訊ねていた。「いや、待てるよ」と答えると、オジチャンはしばし考え込んでいる。あたりには待ち客数人がいる。行き先を同じくする客が溜まるまで待って出発するソンテウもあったことに気づいて"nearby ナイッパッサー"と言い添えると、しかしオジチャンは英語が不得意そうだ。
すると、オジチャンと同じ白い制服を着たオバチャンが「カイカイ、ナイッパッサー」と助け船を出した。僕は喜んで「チャーイ、カイカイ、ナイッパッサー」と笑いながら答えた。チャーイは「はい」、カイカイは「ちかく」、ナイッパッサーは「ナイトバザール」を表すそれぞれタイ語である。
5人の客を乗せたソンテウはナコンピン橋を渡ってしばらく走り、ターペー通りとチャンクラン通りの交差点に停まった。乗客のひとりが「ここがあなたの降りる場所だよ」というような顔をする。なるほどここなら「カイカイ、ナイッパッサー」である。
「ということは、ワローロット市場が近いわな」と、ソンテウを降りたところから北に歩き、ワローロット市場とトンラムヤイ市場を繋ぐ歩道橋の階段を上がって、2階からワローロット市場に足を踏み入れる。「なるほど、チェンマイパンツは薄地のものが120バーツ、厚地になると129バーツか」などと現地価格を調べながら、何年も停まったままのエスカレータを自力で降りる。
食料品の店ばかりが集まる1階には豚肉の加工品を売る繁盛店などもあったが、旅行者である僕には手が出ない。そしてチャンクラン通りを南に下り始めると、今朝チェンマイに入ってから4、5軒ほど覗いた両替屋の中で最も良いレートを出している店が目に付いた。手持ちのバーツは十分だけれど、円がドルに対して更に下落をすれば、円からバーツへの両替はますます不利になる。よってこの"V.C.CURRENCY EXCHANGE"で10万円を29,620バーツに替えておく。
そこから5分ほど歩いたロイクロ通りの、昨年9月に世話になった床屋を訪ねると、生憎と女将は不在だった。残っていた従業員に明日の彼女の出勤を確かめて店を出る。このところ忙しくて床屋に行けなかった僕は、そろそろ髪と髭を切りたいのだ。
ホテルに戻ってシャワーを浴び、ベッドで休みながら日の傾くのを待つ。そして日の落ちるころに細い道を辿ってアヌサーン市場へ行き、鱸の柑橘蒸しと烏賊の香り野菜炒めを肴に焼酎を飲む。
ナイトバザールを歩いてホテルに帰り着くころには、脚はかなり疲れていた。今日は10キロほども歩いたのではなかったか。そしてバスタブにぬるま湯を溜め、手足を伸ばす。
ここ数年の恒例として、この秋もタイへ行く。これまでは大抵5泊の日程だった。今年はそれを1週間ほど延ばして11泊にした。タイでは何をするということもない。本を読み、メシを食い、散歩をするのみだ。そこに劇中劇のような小旅行が加われば言うことはない。
近藤紘一の「目撃者」を買ったのは、恐らく四半世紀ほども前のことだ。「ふたたびインドシナへ行くことができるまでは、ただのひと文字も読むまい」と決めて僕はこれを棚に封じた。
「ふたたびインドシナへ行くことができ」たのは、1982年3月から数えて実に27年目の2009年8月のことだった。以来、おばあちゃんの初彼岸のあった2012年を除いては毎年この「目撃者」を現地で読み進み、しかし文字を追うことの遅い僕は昨年ようやく全766ページ中の490ページ目「せめて五分刈りくらいには」に達した。今回はそこから何ページを繰ることができるだろう。
メシについては、話題の店を訪ねることはしない。地元の人に交じって食堂のメシを食う。名所旧跡を観て歩くことはしない。炎天の野山に歩を散じられれば満足だ。「タイにいて、ただ、好き勝手にしている」ということが、僕にはひどく愉しく感じられてならない。
ところでこの日記は大きな会社が管理運営する"Weblog"とは異なり海外からの更新はできない。明日の日記を上げられるのは、10日6日になるだろう。
晩飯を食べるときにはディナージャケット、煙草を吸うときにはスモーキングジャケット、狩りをするときにはハンティングジャケット、そして旅をするときにはトラベラーズジャケット。だから自分もトラベラーズジャケットが欲しい、と物欲に駆られたことはない。冠婚葬祭でもないかぎりスーツを着ない僕は、背広型のジャケットは肩の凝る感じがして好きでないのだ。
徒歩で国境を越えるような旅はここ数十年していない。しかし出入国の際にパスポートやボーディングパスを格納できるシャツがあれば便利と考えたことはある。そしてそれは先おとといの19日に完成した。
"amazon"で購入した"United Athle"の長袖Tシャツを「イオン今市店」のリフォーム屋「マジックミシン」に持ち込み、左胸にはパスポートが完全に隠れる、右胸には差し込んだEチケットの控えやボーディングパスの先端がすこし顔を出す、そして両脇には"iPhone"やメモ帳を収めて落ちない深さのポケットをそれぞれ付けてもらった。
このTシャツを僕は明日の夜から試すつもりでいる。役に立つのか、あるいはパスポートやボーディングパスはこれまでどおり背負ったザックに収めてもさほどの不便は無いのか。
「どうでも良い試み」と言われれば、まぁ、その通りである。
午前3時台の後半に目が醒めると「今朝は首尾良くいった」という満足感を覚える。これが2時台ではいかにも早すぎ、4時台だとすこし損をした気分になる。5時台に入ると寝過ごしの感が募って仕方がない。もっとも早くに起床をしても、大したことをしているわけではない。
「朝の空は、日の昇る直前がもっとも美しい」と断言をして、何やら中華思想の持ち主のように思われてもいけない。だから「朝の空は、日の昇る直前がもっとも美しいように感じる」と、すこし曖昧に書いておく。
現在の「朝日の昇る直前」は5時20分を過ぎかかるころだ。その空を、食堂の椅子に着いて眺める。証券会社の、バブル時代の遺産とも言うべき立体駐車場の真上に旧暦8月28日の月が出ている。
1980年代後半のことだったか、真冬に雲竜渓谷を目指したことがある。早朝、凍りついた雪の道を足早に登りながら「本を書くとしたら、題名は何にする?」と年長の友人ヨコタジュードーに訊かれて「月に向かって、です」と僕は答えた。向かう先の濃い藍色の空には星と月が光っていた。無論、それから数十年を経た今に至っても「月に向かって」などという題名の本は書けていない。
5時30分を過ぎると太陽が昇り始める。それと同時に空が青さを薄めていく。特別な空が普通の空に変わっていく残念な時間である。
目を覚まして枕の下に手を入れ"iPhone"を取り出すと、時刻は4時を過ぎていたから「今日は遅せぇな」と感じる。「遅せぇな」とはいえ、いつもより遅い目覚めを呪っているわけではない、長く眠れたことを喜ぶ気持ちの方がむしろ強い。
いつもは起きて真っ先にする、仏壇に水とお茶と花を供えることは後回しにして製造現場に降りる。そしてこのところ続いている朝の仕事から上がって後に仏壇を整える。
きのうはタイ行きのための荷造りをしながら寝てしまった。その続きに手を付ける。
"RIMOWA SALSA AIR"の34リットル版は、辛うじて機内に持ち込むことのできる大きさだ。そしてこのスーツケースの片側すべては着替えによって占められた。
南の国ではすこし歩けば汗まみれになる。よってシャツは日に2枚は欲しい。おなじホテルに泊まり続ければ洗濯を繰り返しつつシャツを着回せる。しかし今回は延べ6軒のホテル、否、中には山小屋のようなところも含まれるが兎に角、移動日に濡れた衣類は持ちたくないから洗濯の回数は限られる。必要と予想されるシャツの数は7枚になった。
このところは深夜便を使うので機内で本は読まない。近藤紘一の分厚い「目撃者」は、だからスーツケースに格納をする。薬は保険と考え、使わないと思われるものまで持つから容積を食う。タイではコンセントにアダプターを必要としないことがほとんどではあるけれど、今回は初めてのホテルに泊まるのでアダプターは持つ。
ビールはアルコール度数が低い上に腹が膨れていけない。ラオカーオは焦げ臭のあるテキーラに似て食中酒にはそぐわない。よって空港のコンビニエンスストアで焼酎を買い、それもスーツケースに収めなくてはならない。
しかし「今回は機内持込サイズのスーツケースで行く」との制約を先ず決め、その決定に従って荷造りをすることは、なかなか楽しい行いでもある。そして当日に身につけるもの以外はすべて準備を完了して朝食に臨む。
このところは寒暖の差が激しい。いまだ暗いうちに起きて食堂へ行くと妙に寒い。見まわすと、夕食後に空気を入れ換えようとして空けた窓がそのままになっている。それを慌てて閉めて床暖房のスイッチを入れる。
朝の時間は瞬く間に過ぎていく。仏壇にお茶と水と花を上げるだけでも、諸事丁寧に行えば20分はかかる。むかしの酒席ではないけれど「お流れを頂戴しとうございます」という感じで僕もお茶を飲む。
コンピュータを起動し、"facebook"を開こうとすると
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アカウントが一時的にロックされています
このデバイスからのログインは初めてのようです。アカウントのセキュリティを確保するため、セキュリティに関する質問に回答してください。
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と、「このデバイスからのログインは初めて」ではないにも拘わらず、画面に表示されることがこのところは多い。次に現れる
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ご本人確認を実行してください。
本人確認を行ういずれかの方法を選択してください。
◎テキストでセキュリティコードを受け取る
◎セキュリティのための質問に回答
◎友達の写真を特定
◎クレジットカード番号の最初の6桁を入力してください
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のところでは、以前は「友達の写真を特定」を選んでいたが、答えるたび次の「友達」が現れて手間を食う。 よって今は「セキュリティのための質問に回答」のラジオをクリックする。これなら1回のみの回答で先へ進めるのだ。
夕食の後はエレベータ前の空き部屋でタイ行きの荷物を用意しながらいつの間にか寝てしまう。そして家内の、実家の墓参りから帰宅した気配で目を覚ます。
甘木庵に泊まった翌日の"Vector H"での作業は、社長のヒラダテマサヤさんには無理を言って、通常より1時間ほど早くに作業を始めてもらう。約束の8時30分にはいまだ間があったため、ガーデンプレイスに接する歩道のベンチで時間調整をしながらヒラダテさんにメールを送る。するとそれに対する返事は「お待ちしています」だったから「もう出勤していたのか」と、仕事場への階段を昇る。
そうしてウェブショップに関わるあれこれを分析し、これから数日のあいだに、あるいは来月初めまでに修正すべき個所を特定する。
「東京都写真美術館」では7月19日から岡村昭彦による写真展が開かれている。これを観たいと考え、また恵比寿には毎月のように来ているにも拘わらず、どうにも縁が無い。そして今日も帰りに美術館の入口まで近づいてみれば、大規模な改修を行うため今月24日から約2年間の長い休館に入ることが示してあった。
最後のチャンスは次に東京に来る23日だ。しかしその日に時間が取れるかどうかは分からない。
あたりが薄暗くなりかけるころ池袋に移動し、若干のカウンター活動を経て帰宅の途に就く。
上野、秋葉原、日本橋。この経路は落語「黄金餅」で、金兵衛が西念の亡骸を下谷山崎町の長屋から麻布絶口釜無村の木蓮寺に運ぶ道筋に重なる。その一部を地下鉄で、また一部は徒歩で辿ってふたつの所用を済ませる。
日本橋、京橋、尾張町と、ふたたび金兵衛の足跡を地下鉄と徒歩で辿る。数寄屋橋から数寄屋通りへと足を踏み入れるころには空の色は夕刻の色から夜のそれへと変わっていた。数寄屋通りを西へ、そこから右に折れてコリドー街へと入る。
そして土橋からは「新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして」と語られる金兵衛の道筋を逆に辿りつつ見番通りを今度は東に歩く。
「古いクルマをいじってると、新しいフェラーリに得意満面で乗ってる人を見ても『あっ、そう』くらいしか感じなくなってくるんだよね、傲慢になっちゃいけないけどさ」と、古典車修復のバンノーセーイチさんがむかし言ったことを「鮨よしき」の鮨を食べるたび僕は思い出す。
そしてまた今夜もそのことを思い出しつつ冷えた日本酒を飲み、22時前に甘木庵に着く。
決算に伴う在庫金額算出のため長男を製造現場から貸してくれるよう、製造係のフクダナオブミさんに頼んだのは数日前のことだった。「去年は隠居でやったんですよね」とフクダさんは言ったが僕は覚えていなかった。電話や突然の来客を避けて隠居に避難したものと思われる。
昨年はその仕事を通して長男が問題に気づき、それを今年1月の、モリモトシゲオさんによる"THEORY OF CONSTRAINTS"の研修を通して社員全員に考えてもらった。そして以降はその研修で得た知識を元に改革を進めてきた。
今年は茗荷の買い入れが続いているため、隠居に逃げるわけにはいかない。そういう次第にて事務室で僕のコンピュータの中身を長男のそれに複写し、そこに長男が今期の数字を入れて行く。
在庫の金額は、数量さえ入れれば一瞬で算出できるようシステム化、と言えば大げさだが随分と前に僕が作ってある。そのフォーマットを今回は長男が10年前に遡って整理統合をした。この整理統合には先日の「日光MG」で知り得たことが活きている。
とにかく改革、改革、改革、である。改革は急がず、否、ときには急ぎながら、休まずに続けて行きたい。
先月の31日にして以来途切れていた早朝の仕事も、今朝で3日連続となった。この仕事を社員に頼まれると即、iPhoneにアラームを設定する。しかし実際には、そのアラームよりも数時間は早く目を覚ますのが常である。
製造現場での作業を終えて4階の自宅に戻ると、空は既にして明るくなっていた。その明るさに引かれるようにして、本棚のある、廊下ともいえない狭い空間を窓辺まで進む。朝焼けの彼方に高原山が霞んで見える。きのうの予報ほどには、今日の天気は良くならないだろう。
昨週末の寄り合いでの申し渡しに従い、8時前に町内の屋台庫へ行く。屋台の修復を目的として組織された職人集団「無垢の会」の面々は、既にして屋台庫前に集まっていた。僕はイワモトミツトシ自治会長と共に屋台庫に入り、上下に長いシャッターを上げる。
春日町1丁目の、安政6年6月に作られたと思われる彫刻屋台は、長いあいだ舗装路を引き回され、車輪はかなり痛んでいた。その車輪が新しい鉄枠を与えられ、木部は磨き上げられて、今朝は届けられた。
「無垢の会」の面々は次々と屋台の下に潜り、どの車輪をどの車軸に填め込むべきかを調べ始めた。春日町1丁目のオノグチショーイチ頭も、今日ばかりは「無垢の会」に下駄を預けている。10月18日に催行される今年の「日光屋台まつり」には、我が町内はこの新しい車輪を以て臨むのだ。
作業が佳境に入るころ、iPhoneに設定しておいた8時50分のアラームに急かされ帰社する。
ウチから鬼怒川温泉までは、夜ならクルマで15分ほどで行ける。その林の中であれこれを肴に白ワインで晩酌をし、帰宅して早々に入浴、そして就寝をする。
きのうに引き続いて早朝の仕事に従う。その仕事から上がって4階の北西に面した窓を開けると、女峰山の山肌の赤いところが朝日を受けて鮮やかだった。よって食堂へ行きカメラを取って戻る。するとその赤い山肌を覆い隠すように、山頂部分から雲が急速に降り始めるところだった。
日中はそれほど気にしていないから気づかないだけなのかも知れないが、朝の雲の動きには一瞬の油断もならない。まるで風林火山の勢いである。
日光の地野菜を、その朝のうちに「日光味噌のたまり」で漬ける「たまり浅漬け」に用いる胡瓜は、盛夏の直前にもっとも安い値を付けていた。そのころに比べると、現在の価格は3倍である。
今日はその「たまり浅漬け」にまとまった予約が入ったため、これを作る家内は朝から忙しく立ち働いている。
昨年のこの連休は台風に見舞われ、特に月曜日は開店休業だったと、社員が口々に言う。それを受けて昨年当日の日記を見てみれば、なるほどその日は販売係も店を離れて社員用通路の水洗いをしたと書いてある。
今日明日の天気は幸いに悪くない。いつの間にかシルバーウィークと呼ばれるようになったお彼岸の連休まで、この調子が続いてくれることを希望している。
きのうの夕刻、先ず包装係のヤマダカオリさんに朝の仕事を頼まれた。その1時間数十分後には、製造係のアオキフミオさんに、おなじ仕事についての念押しを受けた。そういう次第にて、今朝はしばらくぶりに製造現場へ降り、ひとしきり作業に従う。
4階の食堂に戻ると時刻は5時20分だった。北東の空には藍と青と水色、そして薄いオレンジ色が混じり合っていた。その風景を、むかしであれば「フィルムに収めて」とても書くところだが、今は何と書くべきか知らない、とにかくその色の混じり合いを撮ってふたたび食堂の丸テーブルに着く。
「そうだ、地図」と、ふと思い出して、仏間兼応接間に接する廊下というか凹みというか、本棚のある空間まで歩く。そしてそこから2冊を取り出し、事務室に降りる。
先ずは「地球の歩き方タイ」の最新版から、チェンマイとチェンライの部分のみ背表紙ごと切り離す。更にはその背の部分をビニールテープで補強する。次はおなじ「地球の歩き方」からチャオプラヤ川の船の路線図を切り離し、旅行中に携帯するノートに貼る。「歩くバンコク」の昨年版からはバンコクの地下鉄と高架鉄道の路線図を切り取り、これも先ほどのノートに貼る。
海外旅行のガイドブックとしては、都市から離れ地方へ行くほど「地球の歩き方」より"Lonely Planet"の方が役に立つ。しかし近視、遠視、乱視の混じる僕には"Lonely Planet"のモノクロの地図はどうも見づらい。「地球の歩き方」の色つきの方が良く読めるのだ。
そうして今朝の工作の結果を持って4階へ戻り、それらを取りあえずは本棚に格納する。
今月の下旬からタイへ行く。コンピュータに保存した一覧を確かめつつ家のあちらこちらからあれこれを集めれば、すべての持ち物は数十分で整う。本日はそのうちの衣類のみを網の袋にまとめた。
一覧に従ってタンスや衣装ケースからTシャツやポロシャツを取り出しつつ、結局は使わずに終わるだろうと思われる、ふたつの、しかも新品の衣服のあることに気づく。ひとつはパジャマ代わりの半袖Tシャツとショートパンツのセットであり、もうひとつは夏用の薄いセーターだ。
翌日のためのTシャツとトランクスを着て寝れば、旅行中にパジャマは要らない。木綿のセーターは、既にして持っているのに何となくまた買ってしまった。整理整頓の行き届いた家に住む人は、しばしば新品でもモノを捨てる。しかし僕にそこまでの根性は無い。
片付いた家に住みたければ、物欲を滅失せしめるべく自らを統制しなくてはならない。家族の誕生日にモノをプレゼントすることも今後は止める。そういうときにはメシをおごる。メシなら消えて無くなるからモノは増えない計算である。
「アイフォンシックス、買うんですか?」と販売係のハセガワタツヤ君に訊かれて「買わない。オレはアイフォンフリークじゃないしさ、今度の、大きくなるでしょ、それもイヤだわ。あとオレ、画像も音楽も入れないから容量も要らないんだよ、だから今のも"S"じゃなくて"C"だし」と答えたのはきのうのことだ。
景色をそのままの色で観たいから南の国でもサングラスはかけない。街の音に触れていたいから歩きながら音楽を聴くことはない。"iPhone 5c"のイヤフォンは、外箱と共に事務室の棚の高いところに置かれたままだ。
「関心がない」とつぶやけば「それでどうする、森羅万象には積極的に関わらなければ」と人に諭されそうなことではあるが、無関心は無欲に通じて気が楽だ。
夜は家内もいなければ長男もいない。オフクロの晩飯は昼に長男が作り置いた。そういう次第にて自分は外へ飲みに行こうと一旦は考えたけれどもそれを翻し、冷蔵庫にあるもので晩酌を完了する。
ほどほどの湿気を含んだ空気が山の緑を濃くしている。この時期に穏やかな天気が続いてくれて有り難い。
「ミョウガは、はー、9月の10日っからだんべー」と、長男が盆過ぎに訪問したときに断言したというフクダニイチさんが、その予言どおり、8時すぎに軽トラックを乗りつけてきた。「まーだ、あるよ」というニイチさんの言葉に大いに期待をする。
しその実は本日の15時までにほぼ満足できる量を集めて買い入れを完了した。ミョウガは昨年の記録によれば9月の19日まで買い続けている。今年は多分、明日から今週末までが勝負になるだろう。
先月はワインを飲む会に誘われ、今日は「獺祭」を飲む会に誘われた。いずれも断った。その理由をつらつら考えてみれば以下のようなことになる。
1.社交性の欠如。
2.家で飲む、あるいは自分の好き勝手に飲む酒がもっとも美味い。
3.家族がいるにも拘わらず外へ出ていくことに気が進まない。
晩飯は長男が作った。「このワイン、美味しいねー」と、オフクロが言う。おなじ蔵の更に美味いワインがいまだ数本はある。飲みごろを過ぎる前に惜しまず飲んでしまうことが肝要と知りながら、それがなかなかできないのだ。
この日記は初め"HTML"つまり"HyperText Markup Language"を手書きしていた。それを"Dreamweaver"に換えたのは多分、2007年7月のことだ。このウェブページ作成のためのツールが昨年からときどき壊れるようになった。
壊れ方にはふたつあって、ひとつはファイルが読みに行けなくなるものだ。たとえば画像を収めたフォルダが見つけられなければ文字と画像を紐付けできなくなる。更にはテキストファイルを読みに行けなければ文字すら書けなくなる。
昨夏のシェムリアップでは画像ファイルが読めなくなった。よって現地では日記の文章のみを書いて、画像はデスクトップのフォルダに一時保管をしておいた。そして帰国して外注SEのシバタサトシさんに不具合を治してもらってから、文章と画像を紐付けした。
もうひとつの壊れ方は"FTP"つまり"File Transfer Protocol"が効かなくなることだ。これは先月に2度も壊れたから、2度目のときにはシバタさんに頼んで復旧方法をコンピュータ内に保存してもらった。
そうしたところ、この故障が今日も発生した。しかし今回は先の復旧方法があったから、9月7日の日記は慌てず騒がずサーバへ転送することができた。
厄介なのはひとつ目の、ファイルを読みに行けなくなる故障である。SEを呼べない環境で、つまり昨年8月にシェムリアップで起きたことが今年も繰り返されるなら、タイの北の方にいて、僕は少々の苦労をすることになるだろう。現地では大して、否、まったく忙しくないことが、助けといえば助けである。
台風14号は太平洋沖を北東に進み、関東地方には影響を及ぼさないらしい。しその実の買い入れは今日が初日である。先月から始めた茗荷の買い入れは、いよいよ佳境を迎えようとしている。
東方の里山から日が昇る。食器棚の電波時計に目を遣ると、時刻は5時22分になりかかるところだった。
しその実の買い入れを報せるハガキには「8時30分から」と、窓口の開く時間が書いてある。それでもその数十分前には、もう来てしまう「いつもの人」がいる。当方も数十分を待たせるわけにはいかず、予定を前倒しして検品と計量を始める。
しその実は放置すると熱を持って黒変する。そうなっては商品にすることができない。よって計量を終えたしその実はすぐに工場内に運び入れられ、異なる3つの水槽で順次、流水により洗浄をする。それをこれまた間髪を入れずに脱水し、塩に漬ける。
この時期のウチの中は、我々には「蔵」と呼び習わされている工場から事務室を越えて店に至るまですべて、しその実の香りに満たされる。香り野菜の好きな僕は子供のころから、この時期のこの香りにうっとりしてきた。
茗荷に比べればしその実の買い入れは短期勝負で、明後日には完了する。それまではせいぜい、この香りを楽しむつもりだ。
本日は旧暦の8月15日、十五夜である。月見団子は長男が作った。みたらしには醤油ではなく「たまり」を使う。今夜のそれは日光産のタチナガハとコシヒカリによる「日光味噌梅太郎白味噌」のものだから殊に美味い。
月見の団子は少しの量しか作らない。一瞬で食べ終えてしまう切なさが、今の季節には似合うのだ。
このところの気温の移り変わりをグラフにすれば、上下に細かく蠕動を繰り返しながら、しかし全体としては確実に下げてきているのだろう。それが今日の昼前には急激に上がり、真夏のそれにはとうてい及ばないものの、僕ごのみの蒸し暑さになった。
14時すぎに「古河MG研究会」の面々が来社してくださる。彼らはきのう「塩原グリーンビレッジ」でバーベキューをしながら宿泊し、その帰りにわざわざ遠回りをしてお寄りくださったのだ。
「古河MG研究会」に、我が「日光MG」は機器をたびたびお借りしている。本日いらっしゃったうちのストーヤスユキさんは、今回の「日光MG」に、寸暇を惜しまず1日目の夜に駆けつけてくださった。皆さんにはいつも、大いに有り難さを感じている。
「浅太郎の残りが4袋」と販売係のハセガワタツヤ君が報告に来たのは14時35分だった。よってこの時間からでも増産をするよう伝える。ハセガワ君はそのまま製造現場へと走り去った。
結局のところ本日の売上金額は、昨年同日のそれより12.6パーセントだけ高かった。このような日の夕刻には、普通の男であればビールが飲みたくなるのだろうか。僕が日本にいてビールが欲しくなるのは、年にせいぜい1度くらいのものである。
案の定、2時台が3時台に移りつつあるころに目を覚ます。そのまま闇の中で横になっていても仕方がないので直ぐに起床する。
「日光MG」の最中には毎早朝に帰社して事務仕事をこなす他、昨秋からにわかに動きの鈍くなったオフクロの部屋へ行って声をかけたりしていた。そういう次第にて日記も書けなかった。よって今朝の早すぎる起床を奇貨として、おとといまでの日記を完成させる。
夕刻にふと思いついて"UNIQLO"のページへ行く。そしてウィンドブレーカーを検索すると価格は消費税込みで3,000円台だったから「ユニクロにしちゃ高けぇな」と感じた。
家内が留守のため晩飯は長男が用意をした。そしてサンマの塩焼きを含むそれらを食卓に並べると「サンマは今年は高いらしいね、これ、いくらだった?」とオフクロが訊く。「安かったよ、150円」と長男が答えると「やっぱり高いね、サンマは普通、100円でしょ」とオフクロは続けた。
それを横で聞きながら「3,000円台の服を売って高いと思われるユニクロも、150円で高いと言われるサンマも、どっちも気の毒だわな」と感じる。
ところで今年のサンマについては確かに、新聞やテレビは「高い」と騒いでいた。しかし「安くて状態も良い」とウェブ上に書いている鮨屋のオヤジもいる。夏の入りには高くて、今になって安くなってきているのだろうか。
いずれにしてもサンマについては、僕は1尾150円でも異常な安値と感じる。秋にはサンマばかりを食べていたい。
ここしばらくは20時に入浴して2時台、3時台に起床する昼夜逆転が続いていた。それが「日光MG」の諸々により2日は0時すぎ、3日は1時すぎ、そしてきのうも0時ちかくと、就寝時間が後ろにずれ込んだ。そのお陰かどうかは不明ながら、今朝は5時50分まで眠ることができた。
店を開けるため、裏玄関から事務室へと続く通路に出ると、きのう「日光MG」の会場「晃陽苑」から社員たちが持ち帰ってくれた研修機器その他が整理して並べてあった。毎年1月と9月に開催される「日光MG」の準備や片付けは、このところ随分と楽になってきた。次の「日光MG」では、社員全員が今より更に手分けをして、その任務を全うしてもらおうと考える。
「日光MG」の最中には、僕は早朝に会場から出社して、注文や問合せに返信を送る。これらに加えてファクシミリによる注文、また研修が開けるのを待っていてくださったお客様からの電話による注文を一気に処理するため、明けの1日は忙しくなる。とても有り難い。
夕食を済ませると、いくらも経たないうちに睡魔に襲われる。昼夜逆転をこの3日間で修正できたと考えたのは甘かった。寝不足に加えて脳を激しく使ったことが影響しているのだ、多分。そして入浴をして早々に就寝する。
「日光MG」は、参加者が会場に泊まり込む合宿形式を採っている。よってある程度は時間を自由に案分できる。通常の2日目は9時30分に開始のところ、9時に変更された。早く始めて早くに終われば、特に遠方からの参加者が楽になる。
"MG"では、期ごとの売上金額により5人ないし6人がA卓から順に振り分けられる。ひとつの卓がひとつの市場である。「今期の成績は犠牲にして来期に賭ける」という第3期の戦術により、僕は最低卓のF卓に落ちている。そして第4期が始まる。
「経常利益は普通は50円、もうすこし頑張ろうと考える人は100円」と、第4期の経営計画では説明される。僕はここで150円の経常利益を目論んだ。結果から言えば、損益分岐点比率が58パーセントで経常利益は219円。自己資本は前期末の264円から一気に341円まで上がった。来期への備えが十全かどうかは、いまだ来期の競合他社を見ていないので分からない。
昼食を挟んでの第5期。C卓へ上がってみれば、競合他社はおしなべて僕と同じような陣形を整えていた。相手がどれほど強くても、互いの戦術が異なれば勝負はそれほど厳しくはならない。
「激戦になるだろう」と冷や汗三斗で臨んだ第5期は、頭こそ忙しくて脳が酸欠になりかけたけれども、なぜか強いぶつかり合いはなかった。イーノマサヒロさんが安価な市場への大量販売に舵を切ったことが大きかったかも知れない。
戦いが済んで僕の損益分岐点比率は72パーセント。経常利益は195円で自己資本は396円。特別損失が続出しなければ400円を超えていたところだが「捨てる神あれば拾う神あり」ということもゲーム中にはあった。欲をかきすぎてはいけない。
商売は上手くいったが伏兵は決算だった。引っかかってつまづいて、第5期の僕の決算順位は35位。これは参加者中の最下位である。
"MG"は、成績の良かった人が偉いというわけではない。それでもゲームであれば、表彰のあった方が面白い。ということで第5期が終了すると、自己資本の高い順に3人が表彰される。
今回の最優秀経営者賞は、秋田から参加のチバヒトシさんが自己資本698円で、優秀経営者賞は九州から参加のカワイキブンさんが自己資本696円で、そしてもうひとつの優秀経営者賞は東京から参加のヤナギダトシマサさんが625円で、それぞれ獲得をした。第1期開始時の資本金300円を、彼らは揃って倍以上にした、ということだ。
ちなみに僕の名は「ことがら表彰」の「昇り竜」の末席に小さく記されていた。僕においてはこのあたりが自分で考える「上品なところ」である。
原稿用紙に2枚ほどの感想文を書きながら、ニシジュンイチロー先生に促されて締めの挨拶をする。社員だけの"MG"では、大きな学びは得られない。外部から参加してくださった方々には、本当に、厚い感謝の気持ちが、僕には、ある。
研修機器その他の会社への持ち帰りは社員に托した。僕と家内と長男は手分けをして、外部から参加の方々を駅や打ち上げの会場にお送り、あるいは案内する。日光宇都宮道路の今市インターちかくで早めの夕食を摂り、更に時間の余裕がある方々にはウチの食堂で2次会をしていただいた。
"MG"を主催するということは、長男はさほど感じないらしいけれど、僕には心の負担が中々に大きい。それを無事に乗り越え、ひと安心をする。来週にはしその実の買い入れが控えている。そこに茗荷の買い入れが重なっている。それらについては多く社員の仕事だから、僕に特段の苦労は無い。
第28回「日光MG」が始まる。第1期はルール説明。そして全部原価による決算、引き続いてマトリックス決算書を使っての直接原価による決算を行う。昼食を挟んでルールの説明。この部分は初心者もベテランも心を静め、紙の上に丁寧に鉛筆を走らせる。
よって参加者ひとりひとりが経営者になり、2日間で5期分の経営を盤上に展開する"MG"においては、第2期が自身の裁量による初めてのゲーム、ということになる。
"MG"の世界に名人上手鬼巨匠の4人がいるとすれば、秋田のチバさんは確実にその一角を担う人である。僕は"MG"をしてきた年月こそ長いけれどゲーム運びは下手だ。本日の第2期はたまたまチバさんが僕の、麻雀でいえば「上家」にいる。そうであればこの期はひとつチバさんと同じことをしてみようと考えた。
第2期初の定石は先ず材料購入。次は完成投入または教育チップの購入。ところがチバさんは教育チップの代わりに研究開発チップを買った。よっていぶかしさを感じながら、しかし僕も研究開発チップを買う。チバさんの次の一手も研究開発チップの購入だった。その直後に僕はリスクカードを引く。
そのリスクカードを裏返してみると、それは実は「1個10円で5個まで購入可、または広告チップを1枚20円で2個まで購入可」のラッキーカードだった、僕の現金残高は55円。そして過去の経験に照らして「材料を1個10円…」の方を選ぶ。ここで僕の手持ちはショート寸前の5円。「これであなたはもう、チップは買えない」と、同卓のチバヒトシさんがニヤリと笑う。
チバさんは次の手も研究開発チップの購入だった。この期に及んで僕はチバさんの今朝の戦術からは離れ、自分の道を往くことを決める。第2期の僕の損益分岐比率は111パーセント。自己資本を期初の283円から264円に落とす。
第3期は僕の"MG"によくあるところの「今期の成績は犠牲にして来期に賭ける」という展開にした。これは王道を歩めない者の窮余の一策だから多用すべきものではない。僕は下手ゆえに、この策に助けを求めなくてはならないのだ。第3期の損益分岐比率は148パーセント。自己資本は第二期からちょうど100円落ちて164円になった。
"MG"は時間を決して無駄にしない。昼食のときは「なぜ来たか」、夕食どきには「今日は1日」というテーマに沿って全員がスピーチをする。それに加えて今夜は九州から来てくださったカワイキブンさんによる、データベースソフト"MT"の解説があった。
第4期の経営計画が完了すれば場所を移しての交流会となる。そしてその交流会は日付が変わって以降も続いた。
雨の予報が出ていたにもかかわらず、日光は晴れた。
明日から2日間の日程で開催される研修「日光MG」に先乗りをされる方は三々五々、みずからの好みに従って日光を楽しむ。あるグループは観光コースを辿り、ある人は地元の仲間を訪ね、あるいはまた僕と共に日光の、普段はあまり行けそうもない場所を観ようとする。
それぞれが別の方法で日光入りしたニシジュンイチロー先生、イチカワアイさん、シミズタカヒロさんの3名を引率して11時すぎにホンダフィットの鼻先を足尾へと向ける。
トロッコ電車には10分待ちで乗ることができた。この電車は勾配のある場所を過ぎたところで先頭の気動車を切り離し、坑道の中には自走で入っていく。これに乗るのは3回目のことだが、気動車の切り離しが前回もあったかどうかについては覚えていない。
坑道内を歩いて外へ。江戸時代に足尾が生産していた銅銭の博物館を経て駐車場に戻る。遮断機ごしに松木渓谷を眺め、足尾砂防ダムちかくに見つけておいたテーブルで昼食を摂る。
そこから本山地区に入り、鉱山神社の参道へと足を踏み入れる。後にアニマ賞に輝く写真を横田道場のヨコタヒロシさんがものした場所は、鳥居に向かって右手奥の住宅である。その木造の建物は随分と以前に崩壊した。共同浴場の跡地を確認したところで一気に下界へと戻る。
きのうの下見が功を奏してなかなか良い案内ができた。皆さんにも満足していただけたようで良かった。3名の方々は「東照宮晃陽苑」にお送りをした。そして会社に戻り、以降は研修のための準備に従う。
「日光MG」には頻繁に来てくださるカワナベコージンさんのたっての希望により、前夜祭は報徳二宮神社至近の「陶」で行われた。20名を越える方々には賑やかに交流をしていただけてひと安心をした。そして前泊組の方々と共に22時前に「東照宮晃陽苑」に入る。
「「日光MG」の前日は渡良瀬川の上流を見てみたい」とのニシジュンイチロー先生の意向を受け、これまで幾度となく訪れている足尾ではあるが、念のための下調べを行う。
12:25 ホンダフィットにて日光市今市487番地を出発
12:50 古河財閥の迎賓館「古河掛水倶楽部」は土、日、祝祭日のみ開館
13:00 坑道へ向かうトロッコ電車は朝から夕方まで15分おきの運行
13:20 わたらせ渓谷鐵道の通洞駅
13:23 「コニュニティカフェさんしょう家」は本日が定休日
13:26 わたらせ渓谷鐵道の足尾駅
13:31 足尾駅13:31発の上り桐生行き(愛称たかつど)に遭遇
13:40 明治23年12月28日に竣工した古河橋(独国ハーコート社製)
13:44 鉱毒による廃村の無縁仏が合祀されている龍蔵寺
13:48 以前は奥まで行けた松木渓谷も現在は数キロ手前で遮断機に阻まれる
13:55 足尾砂防ダム
14:08 本山鉱山神社には上澤梅太郎商店寄贈のつくばいもあるが今は近づけず
14:10 1978年には138世帯477名が暮らしていた本山の共同浴場跡
14:22 わたらせ渓谷鐵道の幻の終点に続く廃線
14:24 わたらせ渓谷鐵道の起点は桐生、現在の終点は間藤
昼食時の出発、そして現地では調査に忙しかったため「内藤食堂」のソースカツ丼や「栄山」の酸辛湯麺などの足尾名物は食べらなかった。そして14時57分に「ガスト日光店」にて「晩飯までのつなぎ」のようなものを腹に入れる。