年末のギフトも佳境に入ってきた。店舗にはきのうから、受付即日の出荷はできない旨の表示を出した。そしてウェブショップのトップペイジにも、受注から到着までの納期を載せた。
午前中必着と注文したにもかかわらず、いまだに商品が届かないとのクレイムが昼過ぎに入る。ヤマト運輸の扱い量が急に増えたに違いない。そういえばやはり本日の午前中必着と頼まれた商品見本のことが気にかかり、その足取りを調べてみれば、送り先はそれほど遠方でもないのに、これも届いていない。運送業者の苦労いかばかりだろうか。
午前の持久走大会で昨年より3人順位を上げた次男への褒美ということではない、ちと用があって夜7時前にフランス料理屋の"Finbec Naoto"へ行く。キノコの匂いがブンブン香るフォアグラと平茸のフランをスプーンで掬いながら次男に「どんぶり一杯食いてぇな」と声をかけると次男も「うん、食いたい」と、キノコ類はそれほど得意でないにもかかわらず、これをあっという間に平らげる。シャンペンの大瓶1本はするりと胃に収まってしまった。
早朝、コンピュータの中のどこからか木村伊兵衛の写真が出てくる。現在、東京メトロの各駅に貼られている「地下鉄開通80周年」のポスターを、酔った僕がどこかの駅で撮ったらしい。木村がこれをものしたのは1953年、題材は隅田川の花火大会。画面の下3分の1ほどに見える架線は東武日光線のものだろうか。
「デジカメのある今だったら、こんなの誰でも撮れるよね」と言う人がいたら、それは馬鹿げた見識の持ち主だ。湯島天神下の色町を中学校への通学路としながら将来の第一志望は箱屋、第二志望が役者だったという木村でなければ写し得なかった強烈な情緒が、この写真にはある。
便利が何を生み、ある程度の不便が何を生むか。写真に限らずむかしのものをためつすがめつ見るにつけ、懐古趣味に傾斜していく自分がある。
ここ数週間かけて作り直してきたウチのYahoo!ショップの、いわゆる移行作業を午前0時に行い、その後の1時間は経過を観察していたという報告のメイルが"Computer Lib"のヒラダテマサヤさんから入っている。それに対して確認した旨のメイルを3時30分に送る。
6時50分に次男と外へ出て日光街道を遡上し、今市小学校へ至ればスガタ先生が校門の車止めを外している。「当番ですか」と訊くと「いえ性分で」とのことにて、こういう人のいるといないとでは、組織の力は全然ちがってくる。
瀧尾神社から太鼓の音が聞こえてくるのは、若い禰宜が朝の務めを果たしているのだろう。この太鼓は7時に合わせて鳴らされるのかも知れない。僕はいくら丁寧にしても手紙は万年筆で書くが、禰宜から届くそれはいつも筆書きである。
「ヒラダテさんもスガタ先生もタナカ禰宜も、みんな真面目だよなぁ」と考えながら来た道とは異なる道を、朝飯の待つ自宅へと向かって走り出す。
いまだ大気に暑熱の残るころ、焼酎や泡盛をいただく機会があった。僕が焼酎やワインの在庫を切らすことはなく、おまけにそのころは、ある人に上げようと買い置いた焼酎が、その人のいつまで来ないまま結局は僕が飲むことになったりもしていた。
よって、いただいた焼酎や泡盛は、師走も近くなる現在まで温存されることになった。本日はそのうちの泡盛「多良川」を、晩飯のととのうまで生ですこしずつ飲む。
随分と以前、那覇の料理屋で琉球の宮廷舞踊というものを見て、クースーを飲む前から酔った気分になった。そのことを思い出しながら、更には那覇に住むシモちゃんという好人物のことを思い出す。そして「そのうち、シモちゃんと一緒にテビチが食いてぇなぁ」ということを思う。
澄んで鋭い「多良川」はもちろん、晩飯の用意がととのって後も飲む。
は、1970年代から80年代に活躍した作家、あるいは文化人と呼ばれる人たちによる一編あたり2ページ半ほどの随筆集だが、中で特別枠に収まっているのが野坂昭如だ。
18ページにわたる「アルコール依存症まで」は野坂による壮絶な報告で、特に僕の目を引いたのは「アルコール依存症を考える会」の会員だったからこそ書けたであろう以下のくだりである。
「二百数十人の酒歴をうかがったが、八割が十四、五歳から飲みはじめている」
「つまり二十歳未満からの飲酒はアルコール依存症になりやすい、そしてこの病気は不治であり、酒を止めたとことろで、あえてはっきりいうが、まともじゃなくなる」
「アルコール依存症が酒を断つと、常人でなくなるように思う」
「本来のなさりたいこととは、少しズレたところで生きている感じを受けるのだ」
詳しくは本文を読むしかないが、「酒は最もカジュアルなドラッグ」と表現する人もいる。「16歳でオートバイの免許を取ったら、中年以上の集まる走行会に入れ」と言われると同じく、中年老人の酒飲み諸兄は自らの身を以て、若い人に酒の飲み方を教えなくてはならない。反面教師で良ければ、僕にも教育の自信はある。
責任役員として秋季小祭に出席をするため、寒桜の咲く瀧尾神社へ行く。何人もの神官によりとりおこなわれた春の大祭にくらべ、本日の小祭は禰宜ひとりが担い、奏上される祝詞も簡素だったように思う。
お祭りが終わればすなわち直会にて社務所へ移動し、当番町春日町二丁目の婦人会が用意してくれた里芋とこんにゃくの田楽、けんちん汁、お新香などと共に御神酒をいただく。御神酒とはいえ小さな杯でいただいたのは1杯のみにて、2杯目からはコップでいくつやらかしたか知れない。
午後より帰社して仕事に復帰し、終業後は製造現場にて少々の作業をする。師走を目前にして、しかしその実感はまったく湧かない。
テレビがアメリカ産牛肉の危険性についてかまびすしく報道していたときには「吉野家の牛丼なんか食べないよ」と言っていた次男だが、内心は吉野家への大きな興味があり、ここ1ヶ月ほどは、その興味がマスコミによるすり込みを上回ってきたらしい。
よって今朝は北千住の吉野家にてメシを食う予定にしていたが、「先ず切符を確保しようぜ」と、北千住駅で東武日光線の下り特急券を買おうとすると、牛丼を食っても余裕のある9:11発は既に満席にて、しかし5分後の8:40発ならいくらか余裕もあるという。よって牛丼の予定は取りやめプラットフォームでおむすびを買う。吉野家なら日光市にもあるのだから、気に病むことはない。
10時30分に帰社して仕事に復帰する。夕刻の5時からは、春日町1丁目会計係として「日光市今市消防団第一分団第一部後援会」の忘年会に出席をする。消防車を保管する消防小屋の2階で開かれた忘年会は至極楽しく、会議を含めて90分で完了したところも良かった。
いなせとはどういう意味かと次男に問われたのは2、3週間ほども前のことだった。「いなせ」を辞書で引けば、ある種類の人たちの外観や行動の特徴が書かれているだろう。しかし実のところ「いなせ」とは自己犠牲ややせ我慢の表出ではないか。
「いなせ」とは何かを知りたければ小三治の「百川」よりも志ん朝の「火事息子」を聴くと良い。しかし生憎、壊れたりあるいは人にやってしまったりで現在ウチにはCDプレイヤーが無い。
「火事息子」は江戸の火消しに材を得た噺で、折良く11月はこの火消しの末裔が東京のそちらこちらで熊手を売っている。その様子を見ても「いなせ」を理解する手だてにはならないが、「まぁそういう難しいことは抜きにして、ちょっとお酉ぃさんに行ってみようぜ」ということになった。
次男と下り特急スペーシアに乗り、浅草駅には夕刻の5時45分に着く。改札口で待ち受けた長男と3人で先ず並木の藪へ行き、ざるをひとりあて1枚に、僕と長男はこれに常温の日本酒各1本を付ける。
ここの蕎麦は細くて長くてツルツルだから腕の短い、そして不器用な子供には食べづらいこと甚だしい。またつゆはとびきりの濃さときているから、ようやく箸に絡めた団子のような蕎麦をここへドブリと漬けては美味くない。食べ方の難しさに辟易した次男はそのうち蕎麦だけを口へ入れ、咀嚼の合間に猪口のつゆをちびりと含む手法を編み出した。
食べ始めから数分で席を立ち、歩道へ出ると折良くタクシーが来る。これに乗って国際通りを北上すると間もなく道は混雑してきたから千束五差路で降車し、お祭りの屋台が並ぶ裏道から大鷲神社へと近づく。
誤算といえば僕は浅草の酉の市には深夜しか来たことがなく、しかし本日はいまだ7時にもならない。歩道は今年飾った熊手を返しに来た人たちで立錐の余地もなく、警察官が特殊車両の上からマイクで群衆を誘導している。歩道の近くにいた別の警察官に状況を訊くと、鳥居までの100メートルに要する時間は120分との説明を受けたから熊手の購入はあっさり諦める。
それでも向かい側の歩道から神社正面に手を合わせ、参拝を済ませた気分で国際通りを、今度は徒歩にてもと来た方へと戻る。晩飯が藪のざるひとつで済むはずもない。浅草ビューホテル裏の「本とさや」を訪ねると10組待ちとのことだったから当方の名前と電話番号をノートに書き、六区へ移動してスマートボールを打つ。
まるでドライアイスのスモークが焚かれたように煙たいこの焼肉屋の座敷へと上がれたのは、およそ40分後のことだった。さっさと半袖シャツ1枚になるまで服を脱ぎ靴下を脱ぎ、あとは食って食って飲んで飲んで9時に店を出る。
10時に甘木庵へ帰着し、入浴して11時に就寝する。
本郷龍岡町、神田神保町、上野黒門町と移動する。
神保町の"Computer Lib"でもらったカマボコの袋をぶら提げ黒門町を歩いていると、「インフルエンザ予防注射 受付中」という張り紙がある。そこが知らない病院でもなかったため、手渡された体温計で平熱を確認したのちに一発打ってもらう。
子供のころには注射を恐れ、これから逃げようと大騒ぎをした。しかしここ20年ほどの子供で注射に泣く例はほとんど見ない。煮沸消毒をしながらナマクラになるまで使い回したむかしの注射針にくらべ今のそれは鋭いまま一度きりで捨てられてしまうし、できるだけ痛みを感じさせない針の研究も進んでいるのだろう。
予防注射に付きものの「入浴は避けてください」という言葉は、今朝の病院では聞かれなかった。というわけで晩方に入浴はしたが、飲酒はさすがに自主規制をした。規制した分は、明晩にまとめて飲もうと思う。
"SHANTI CLUB INDIA"のメシの量は多いから、その3分の1ほどを隣席のマハルジャンさんに分ける。メシだけでは何だから、カレーのルーもそこにかける。それでも食後は腹ごなしのため散歩をする。途中、錦華通りの古本屋「がらんどう」で北井一夫展が開かれていることを知る。
店に入ると1960年代のものとおぼしき写真と共に、北井の写真集も売りものと非売品とが混在して数々ならべられている。その中に「これは」と思った1冊があり、手に取って開くと益々欲しい。しかし価格はプレミアのついたもので、しばし逡巡したのちこの購入を諦める。
酒やメシにはパーパーと金を遣う癖に、こういうところで財布の紐を締めるのはいけないと分かっていながら、そして後々後悔することが分かっていながらどうにも買えないのは、僕が変なところにケチなためだ。
初更"Computer Lib"の面々と神保町の路地を抜けたところで「今夜はティオペペから始めよう」と決める。
11月も下旬に入り、雨がちだった上旬とは打って変わった晴天が続いている。晴天は有り難いが、それに伴って朝晩の気温が急激に下がってきた。
始業して間もなく、日光市沢又地区のサイトートシコさんがおはぎを持ってきてくれる。春の彼岸にはこの餅はぼた餅と呼ばれ、秋の彼岸にはおはぎと呼ばれるそうだが、それでは春の彼岸でも秋の彼岸でもない今はこれをどう呼ぶべきか。
およそ言葉というものは、何かを表現する際にただひとつの、デフォールトで使われるひとつだけが存在すれば、その言語を習得しようとする人にはとても効率が良い。たとえば数助詞などはすべて「個」ひとつに統一し、人のひとりふたりも1個2個、紙の1枚2枚も1個2個と数えることと決めれば話は簡単だ。
話は簡単ではあるけれど、いわゆる文化というものが、その言葉の統一によって失われていくことは言うまでもない。
家族のための食器をひとりあたりプラスティックの皿1枚と統一する。米のメシもサラダも肉じゃがも一緒くたにしてここへ盛り、利き手に握るのは先割れスプーン一丁となれば食器洗いは楽になるだろうが、なにやら刑務所のメシが目に浮かぶ。
効率を成就させようとすれば統一はそのひとつの手法と成りうるが、ここまで書いてみればやはりデフォールトとはいかにも味気ない。
ぼた餅とおはぎについてはそのうち、春の彼岸にも秋の彼岸にも通用するデフォールトの呼び名ができるだろう。しかし僕としては、春の彼岸でも秋の彼岸でもない時期における、ぼた餅おはぎに続く第三の呼び名が欲しい。
ぐるりと見渡して南西から北東までの270度は晴れているが、山の連なる北西90度のみは雪雲に覆われている。6時40分ころ次男と外へ出て日光街道を遡上し始めると、空からあられのようなものが降ってきた。
「あ、雪だ」と、おおかたの子供の例に漏れず雪を望む次男が叫ぶ。しかしこれは降雪ではなく、日光の山に降った雪が風に飛ばされてくる風花である。雪が降れば嬉しがる次男の気持ちはよく分かる。僕でさえ、遊びに行った先の雪は好きだ。
記録的な豪雪の伝えられた金沢へ着いた途端、駅前に雪のない景色を見て落胆した。あれはいつのことだったかとこの日記を検索して、それが2001年1月下旬だから既にして7年ちかく前に行われたものと知る。いずれにしても、雪は旅先だけにあって欲しい。
僅々1週間前には上着を着る気さえ起きない暖かさだった。「冬は足早に」どころではない、気づいてみれば冬はいつの間にか瞬間移動をして自分の身にひっそりと寄り添っている。夜に雨が降れば、それはいずれ氷になるだろう。
朝の軽い運動のため、次男と日光街道を遡上する。瀧尾神社の脇まで来ると、幟の大竿を寝かせて保管している場所の低いトタン屋根に霜が降りている。自分の目で見るものとしては、これが今年の初霜である。
次男を丸山公園のテニスコートへ送って直ぐに帰社する。店舗の入口には今朝まで「冬耕」の文字を飾っておいたが、9時前にそれを「新らっきょう」の文字に替える。今夏収穫のらっきょうによるたまり漬は、実はひと月ほども前から蔵出しされていた。しかしお客様が召し上がって「なるほど新物だ」と納得される味に安定するまで、この模様替えを避けていたいきさつがある。
僕は料理はしないがレシピを思いつくのは得意かも知れない。ウェブショップに「お客様のお楽しみ」として置いた「四季のお味噌汁」や「たまり漬を使ったレシピ」のうち、風変わりなものについてはすべて僕の考えたものだ。
そして今夜のロールキャベツには特殊な細工を施してくれるよう家内に頼んだ。これを行えばそのロールキャベツは新宿某店のそれに似るはずと予想を立てたが、その目論見は見事に当たり、これを酒肴として本日届いた新酒1本を空にする。
本日の栃木県地方の最低気温は南寄りにある宇都宮市でさえ0度と昨夕の天気予報が伝えていたから、覚悟して日光市所野地区にある運動公園へ行く。今日は次男がお世話になっているテニスクラブの親子大会がここで開かれる。
朝の軽い運動は6時30分に済ませていた。ところが8時30分に集合した運動公園でも、なにしろ親子大会だから、普段はしない準備運動をすることになった。テニスコート4面の周囲を小学生と同じ速度で2周すると、寒気を直接に吸い込んだ気管支に「ちょっとやべぇな」という感触が忍び寄る。
僕と次男によるダブルスはオーオカ母娘ティーム、ホシ母娘ティームにストレート負けを喫し、リーグ戦のスレッドからは早々に外れた。残りの時間は他の試合を観たり、昼飯を食べたり、あるいは新聞を読んだりして過ごす。
子供のころより僕が体育において他より良い成績を上げ得たのは短距離走、走り高跳び、そしてこれはスポーツではないかも知れないが、意図的にある一定以上に上げた心拍数が平常時のそれに戻るまでの時間の短さ、この3つのみである。球技などは特に駄目だ。
次男が小学4年のときから、テニスの試合についてはあちらこちらに同伴をしたが、それも本日が最後になるだろう。午後2時に帰社して仕事に復帰する。
1980年当時、山手線の内側に唯一現存した味噌の醸造元「田中味噌醸造所」では、社員の昼食に味噌汁が用意された。その味噌汁に使われる味噌は大豆と米の粒が残る、いわゆる粒味噌だった。ここでの仕事を終えて2年後に家へ帰ってみれば、こちらでも社員のために作る味噌汁は粒味噌によるものだった。
味噌屋では社員の希望により粒味噌による味噌汁を用意する。しかして一般に粒味噌は受けない。消費者が求めるのは多く、大豆や米の粒を網に通した漉し味噌の方である。
数年前に自由学園明日館でバザーが開かれたとき、ウチの横にはチーズの「共働学舎」が出品をしていた。売場に立つ、そのころはいまだ学生だったミヤジマ君に家内が「お薦めはなーに」と訊くと「シントコ、ですかね」の答えが戻った。
「シントコ」は長期熟成型の硬いチーズで、これを入念に咀嚼しているとそのうち唾とチーズがグジャグジャに混じり、自分の口の中に牛のゲロのような香りが満ちてくる。誤解があるといけないから言い添えれば、これは褒め言葉である。「シントコ」はなぜか年間を通じては売っていない。売れ筋とは離れたところにある商品と思う。
ウチの漬物に対する人気アンケートを社員に実施すると、大抵は熟成期間が長く塩分の強い商品を選ぶ。僕にしても、好きなのは「しその実」や「ふきのとう」などの塩辛いものである。ところが一般に売れるたまり漬はなんといっても薄味の「らっきょう」で、その販売数は他を圧倒して多い。
プロの好みと一般の選択のあいだにどうしてこのような乖離があるか。「プロは手間暇のかかる品を知っている、だからそれを選ぶのではないか」という推理は必ずしも当たっていない。あれこれ考えて結論は出ない。
「早朝いまだ暗いうちに起きて」といっても現在の日の出は遅いから、それほど早く起きなくてもあたりは充分に暗い。きのうにくらべて急に増した冬の気配を感じつつ蔵の中央に通った通路を奥へと進み、いくつかある冷蔵熟成庫のうち、らっきょうのたまり漬を保管する場所へ行く。
らっきょうは初夏に収穫されるがたまり漬は長期熟成型の漬物だから、すぐに漬かり上がるわけではない。また、漬物は工業製品ではないから何月何日何時何分に熟成が完了すると言えないところは、赤ん坊が何月何日何時何分に生まれるかを、医者やお産婆さんでさえ当てられないことに似ている。
漬物などの発酵食品には、その製造において原材料に人智は加えるけれども、完成するまでにはそれ以外の要素がかなり色濃く反映される。つまり味噌や醤油や漬物については、造るというよりも育てるという表現がよりふさわしい。
きのう蔵出しになった漬物と、今日漬かり上がった同じ種類の漬物の味が異なるところは人間の兄弟に共通する。似てはいても同一ではない。兄と弟が姿かたち性格まで一分の狂いもなく同じだったら却って不気味ではないか。
そして今初夏に収穫された新らっきょうの蔵出しは僅々数日の後に迫ったと、当のらっきょうの塩梅を見て知る。
保健所の講習に行くと、講義の内容は昨秋のそれと同じくノロウイルス一辺倒だった。食品製造業者よりも飲食業の参加が多いため、冬 を迎えるこの時期にはどうしても、魚貝類の危険性に言及することになるのだろう。
スクリーンに映し出された資料によれば、ノロウイルスによる中毒患者の数は2005年から2006年にかけて5倍に増えている。これでは厚生労働省も慌てないわけにはいかない。
厚生労働省の前身である内務省衛生局が1885年に設置されて以来今日に至るまで、味噌や醤油を原因とする食中毒はただの1件も発生していない。しかしもちろんウチのような味噌醤油漬物製造業においても、衛生は経営上もっとも留意すべきことのひとつだ。
それにしても、昨秋に続いて今回もしつこく生牡蠣の危険性について説かれ、ここまでされればたとえ無菌の生牡蠣を食べても「病は気から」 の条件反射により腹をこわしそうである。
如来寺の本堂に住職が書いたと思しき五七五があって、その17文字を覚えようとしてどうにも覚えられない。落ち葉が風にせわしなく舞っていてもその下には確固とした地面がある、という意味だけは腑に落ちた。それはさておき住職の文字は天野貞祐の墨跡に似ている。あるいは"CHATEAU FIGEAC"のエティケットにあるオレンジ色の商標を思わせて好もしい。
先日、晩飯を食べているところにヤギサワカツミ元本酒会員から電話があり、ワインをケース単位で買うことはあるかと問われた。あると返事をすると、12本入りの木箱はあるかと更に問われたから、あるにはあるが取り置いてあるのは捨てるに忍びないものばかりだから譲ることはできないと答えた。
長男の生まれた1985年も、また次男の生まれた1995年も、フランスではワインの当たり年だった。"FIGEAC"は1975年のものから9本を在庫してあるが、そのうちの1本も、いまだ飲んではいない。
昼から会席の「ばん」へ行ったっため、夜の7時をすぎても腹は減らない。腹が減っていなければ酒も美味くないからこれを幸いとして飲酒を避け、晩飯は軽くして早めに就寝する。
雨は上がった。外へ出ると店舗駐車場の紅葉も盛りを過ぎ、その下の苔には葉が落ちて吹き寄せになっている。二学期の始まりと共に休止していた次男との運動を今朝より再開する。運動とはいえ徒歩で日光街道を遡上して今市小学校へ至り、そこで準備運動ののち走って家まで戻る往復1キロほどの行程だから特にきついわけではない。
小学校の持久走大会が今月の晦日にあるという。自分のことを思い出してみれば6年生のとき、この持久走大会で47位に入ったことが非常な自信になった。47位とは大したこともなさそうだが、当時の今市小学校は1学年が7クラスを要していた。ひとクラス50人が7クラスで350人。大会は男女別に行われたから男だけで175人。気管支喘息の気味のある僕が、この人数の中で47位なら上出来である。
隠居の桜の老木が歩道の上まで枝を伸ばしている。その落ち葉が濡れたアスファルトに彩りを加えて美しい。しかしこれを美しいと感じる人がどれほどいるかは不明だから始業して間もなく、本日は事務係のコマバカナエさんがこれを掃きに行った。秋はいよいよ深い。
小学生のとき、個人として勉強を教えていただいていたナガシマリサブロー先生のお宅へ伺候すると「一日不作、一日不食」とか「今、自分は何をするべきか」という墨書が書斎や居間に目立った。
先生はすこしく左傾をしていらっしゃった。しかしこれらの張り紙が、共産国のスローガンに影響されてのものだったかどうかは知らない。多分、そうではないだろう。そして僕はといえば、それらのスローガンを眺めつつ「オレの家はまだ気楽で良かった」と思った。
それほど重大なことに臨むものでもなければ、僕だって「今、自分は何をするべきか」ということを考えないわけではない。
書記として参加をしている利き酒会「本酒会」の11月例会は21日にあり、出欠の届けはその1週間前までにしなければいけない。つまり例会の日時や場所を報せる会報の作成については、そろそろ締め切りの時期である。
今朝は5時に事務室へ降りて「今、自分は何をするべきか」と考え「そうそう、会報」と思い出した。
たかが酒飲み会の会報とはいえ頭の中で800文字をでっち上げるには、それなりの引き出しとまでは言わないがタネが必要である。ようようそのタネを見つけて会報を書き、印刷し、綴じ、折り、封筒に詰め、宛先のタックシールを貼って6時30分に居間へ戻る。
湯島天神下の「シンスケ」でカウンターに着くと、正面右手上にテレビがある。僕の知る限り、このテレビのスイッチは相撲中継のあるときのみ入れられる。開店直後、いまだ客のまばらな店内で観る十一月場所には格別の感がある。
頼む酒肴はとりあえず温泉玉子と湯波刺しで、あるじに叱られるといけないから目立たないよう素早く湯波刺しの器に温泉玉子を投入し、箸でぐるりとひと混ぜして口へ運ぶ。こちらの味にもまた格別のものがあることは言うまでもない。
小降りになった雨の中を夜、イタリア料理屋の"Casa Lingo"へ行き、かけつけのグラッパをパッと飲む。
トリッパのミラノ風と牡蠣のグラタンの本体はもちろん食べるが、器に残ったそれぞれの赤いソースと白いソースを混ぜ合わせ、これをフォカッチャに十二分に含ませ肴にする。グラッパのお代わりが3度に及んだのは、ネピオーロによるそれの美味さもあるが、ぐちゃぐちゃになったフォカッチャの働きも、もちろんある。
本職が丹精した個々の料理を混ぜて食ってしまうオレはとんだ狼藉者かと考えて結論は出ない。結論は出ないにしても、あまり行儀の良くない行いであることは分かっている。そしてまた別の場所にあっても、自分はまた同じことをしてしまうのだ。
朝の9時には霊岸島にいた。10時からの仕事は意外や早く終わり、11時30分に亀島川を渡る。浅草駅12:30発の下り特急スペーシアに発車の5分前に乗り、席にザック、携帯電話、デジタルカメラを置いて手洗いに行く。
1980年、82年と、アジアの南方を旅していた。広大な亜大陸を北上しながらある町で日本へハガキを書き、それを郵便局に持ち込んだ。局員が切手に消印を押すまでその場を離れずにいたのは、そこまでしないと郵便物が宛先に届く保証はないとの常識が、当時の旅人にはあったからだ。
いわゆる新興国が日本を超える経済力を有したとき、それぞれの国の民度も同時に日本のそれを超えるのかどうなのか。無人の席に置かれた荷物は、持ち主の戻るまでそこにあるのかどうなのか。
対する日本の民度は昭和の終焉と共に落ちるばかりではないかと、霊岸橋から浅草までくっついてきたらしい靴底のチューインガムを見ながら思う。
目を覚ますのは深夜の2時30分、ということもあれば早朝4時ということもある。数日前の朝5時に着替えてテレビのスイッチを入れた。チャンネルはちょうどNHKに合っていた。古今亭志ん五が「付け馬」をやっていた。志ん五は志ん生に弟子入りし、志ん生の死後は志ん朝の弟子になった人だ。二ツ目のころは与太郎噺ばかりをしていた。
この「付け馬」を最後まで聴いて事務室へ降り、新聞のテレビ欄を調べて初めてこの番組が「日本の話芸」というものであることを知った。「日本の話芸で、なぜ志ん五なのか」と不思議に思ったが当方は噺家ではない、噺家には噺家の苦労があるだろうから軽々な批評はしない。
山本夏彦の「私の岩波物語」を読み終えてのちはこれといって読みたいものを特定できず、寝台の下には10冊ほどの本を重ねてあれこれ拾い読みをしてきた。しかし本日夕刻、本の散乱する階段室へ行き、あたりをざっと見まわしたところで
「びんぼう自慢」 古今亭志ん生著 小島貞二編 立風書房 \不明
が目に飛び込んでくる。「あぁ、これでまた数日のあいだは活字に困ることもない、これも志ん五のお陰か」と考えつつカヴァーの失せたその古本を持って居間へ戻る。
ノロウイルスが猛威を振るった、あるいはノロウイルスに関連するニュースがマスコミを賑わせた昨冬、保健所の研修に出席する機会があった。そのときの講師によれば、ベニテングダケが毒キノコと認められているように、牡蠣もそのうち毒貝に分類されるやも知れないとのことだった。
ここまで脅かされれば大抵の人間は怖じ気づく。
冬のフランス料理屋に生牡蠣があれば、僕はこれを注文しないことはなかった。しかしあの保健所の研修以降、生牡蠣はただの一度も食べていない。せっかくの季節が来ても、口にするのは焼き牡蠣、蒸し牡蠣、炒り牡蠣、牡蠣フライなど火の通してあるもののみである。
本日は繁忙期を前にしての会社の食事会があった。ロース大、ヒレ大、盛り合わせ大など、とにかくなにがしかの「大」でおひつを次々と空にしていく社員と共にいて、僕は牡蠣フライを肴に焼酎のお湯割りを飲む。
先日、社員とのミーティングの最中にふと頭に思い浮かぶことがあって、スーパーマーケットから買ってきた刺身をそのままの器、つまりプラスティックや発泡スチロールの皿に載せたまま食卓へ供する者はいるかと訊いたところ、意外や多くて驚いた。
僕の感覚からすると、刺身はおろか納豆あるいは宅配のピッツァまで、買ってきたまま届いたままの器でこれを食べることは信じがたい。なぜ自分はそれをしないかと問われれば、それはすなわちイヤだからで、なぜイヤかといえば気が進まないからだ。
店舗駐車場の掃除をしていてときおり、飼い犬をお連れのお客様が持参の器に水を満たし、クルマの外でそれを飲ませている場面に出くわす。そのペット用の水飲みと、スーパーマーケットのプラスティックの皿にどれほどの差があるか。
しかしここで販売係ヤマダカオリさんが「買ってきたままのお皿を使い捨てれば、洗剤を使わずに済みますから地球には優しいですよね」と発言したので意表をつかれ、「なるほどそういう錦の御旗を持ち出されたら反論のしようもねぇや」と納得した。
いや、納得はしていないが人は色々、家も色々である。そしてまた「地球に優しい」「人に優しい」という言葉には、僕はかかなりの胡散臭さを感じでいる。
1950年代から60年代にかけては茶の間に、国道121号線から日光宇都宮道路今市インターへの取付道路がウチの土地を削って引っ越しを余儀なくされた1970年代後半以降はおばあちゃんの居間に移された「百味皆宜」の扁額は、その文句もまた鑿の跡も好もしく、これをしばしば見られることを日々嬉しく思ってきた。
50年間も見慣れた額だったが本年6月、これを自宅へ死蔵するのも勿体ないと考え、手塚工房のテヅカナオちゃんに頼んで裏面に穴を穿ち金属を埋め込み、店舗の梁に取り付けた。自分の目からすればなかなかの味わいだが、世俗的あるいは金銭的価値はないと認めての加工である。
ところが先日、あるお客様がこの「百味皆宜」を見上げて「セキノコウウンは私の先生です。日展の審査員を務めていた人です」と、おっしゃった。漢字で書けば「関野香雲」と教えられ、検索エンジンを回すと落款は「関野宰印」と説明されている。ふたたび店へ行き、脚立に乗って確認すれば間違いはない。
やはりこの額は、おばあちゃんの居間から持ち出すべき品だったらしい。「手塚工房」の金具が効いているから、よもや店から外へと知らないうちに運び出されることはないだろう。
スポーツにも物づくりにも商売にも短期決戦というものがある。デイタベイスを充分に持っていても、デイタとは過去の実績や経験則を示すものに過ぎず、だからそれを使って未来を予測しようとするとき、その精度には避けて通れないバラツキがある。そして短期決戦においてはそのバラツキが更に大きくなる。
4日間の「日光そばまつり」へは、昨年と一昨年の記録から売れ数量を予測し、これに基づいて会場へは商品を搬入している。しかし昨日の昼には、物によっては売り切れも間近であると、現地にいる販売係トチギチカさんより電話が入った。
なぜ売り切れの懸念のあるようなギリギリの数しか商品を準備しないかといえば、ウチが常に新鮮な商品のみを販売しようとしているためで、しかしいまだ日も高い昼に商品を切らせてはお客様の迷惑になる。
急遽、三菱シャリオに追加の品を載せ、大谷川沿いのバイパスなど大渋滞でいつ着けるか知れない、瀬川地区の、まるであぜ道のような裏道を辿って不足の品を届ける。会場の入口には昼休み中のアキザワアツシ君が待機をしていた。
昨年と一昨年のデイタがそれほど役に立たないのは、夏の酷暑により今年の紅葉が遅れ、そのためここへきて観光客の数が一気に増しているためと思われる。よって数日前にはじき出した本日の販売予定数量を今朝は大幅に上方修正し、その品を三菱デリカに積んでハセガワタツヤ君は7時50分に会社を出発した。
店舗駐車場前の電光掲示板は、その1時間ほども前から日光宇都宮道路の渋滞を伝えている。
朝、次男を今市小学校のテニスコートへ送り、徒歩で帰宅する途中カトーさんの奥さんに呼び止められて、大量のキノコをいただく。カトーさんの趣味は自分の山をあれこれ丹精することで、バーベキューのための設備などは、レーザー水準器を用いて石を組むほどの凝りようである。
僕は食感オタクだから鳥獣魚類の内臓、貝、キノコのたぐいは大好きだ。フランス料理屋のメニュに内臓を用いたものがあればこれを注文せずにはいられず、鮨屋では「貝、ぜんぶ」と頼んだこともある。気さくなイタリア料理屋のバットにキノコのマリネがあれば、お店の人には第一番にそれを指名する。
カトーさんにいただいた、いまだ森の冷気を留めてしっとりと湿ったクリタケ、ヒラタケ、なめこ、椎茸をどうして食べようか、と考える。今夜は予定があるため、これらは明日以降に大喜びで食べていこうと思う。
「自由人」は自由学園最高学部の学生が編集発行する独立採算制の季刊誌だ。創刊は僕より十いくつ年長の先輩が学生のころだから1960年代のことと思う。先日家内が学園へ行った折、この99号と100号を買って戻った。季刊誌が40年間に100号では計算が合わない。途中に抜けがあるのだろう。
僕の事務机右の本棚には1997年の夏号があって、これが79号だから、以来10年間に21号の発行であれば、ここでもやはり計算は合わない。
それはさておき99号の奥付によれば、編集責任者と発行責任者は長男が務めている。数年前に聞いたところでは、長男はこの本の制作ではなく経営の面を担いたいとのことだった。どこかで路線の変更があったらしい。なおこの99号は内容と共に装丁にも極限の簡素さを求めたのか、表紙の「自由人」は羽仁吉一の見慣れた墨跡ではなく明朝の活字になっている。この99号は数日前にすべてを読んだ。
99号に続いて首尾良く出たらしい100号の編集と発行の責任者は長男の同級生ふたりがそれぞれ担い、長男は「1万円もらったら」という表題に沿って書き手だけが交代していく続き物の作者として現れる。編集部から託された1万円を握って九段下の「寿司政」を訪問するのが今号の企画で、冒頭の数行をちらりと見ただけで漱石の"idiom"が濃い。従って勿体なくて読めない。
今未明はこの部分を残して他のところはすべて読んだ。空はいまだ暗い。
本日より4日まで「日光だいや川公園」で「日光そばまつり」が開かれる。これについては数日前に、あるお客様より携帯電話のメイルが入った。かいつまんで言えば「上澤梅太郎商店にクルマを置かせてもらい、イヴェントの会場まで歩いていけるか」というのがその内容だった。
「ウチから会場までは4キロちかい距離がある、歩いて歩けないことはないがすこしく苦労である、日光市役所は今年の人出を9万人と見込んでいる、臨時駐車場は早くから満杯になり、シャトルバスは渋滞で動かなくなる、週末であれば遅くも8時30分には現地入りして散歩でもしているのが安心だ、会場の住所はこれこれだからgoogleマップで調べて欲しい」
旨の案内をお送りすると「ワクワクしてきました」との返信が戻ったが、その後に検索エンジンを回すと、果たして日光市役所のウェブペイジにはこのイヴェントについての詳細な情報があった。
ウチでもこの催しには店を出す。本日は販売係のハセガワタツヤ君とサカヌシノリアキ君がこちらを担当するため8時前に会場入りをした。今週の天気は尻上がりに良くなるらしい。