11月の晦日の夜が明ける。気温はいまだ低くない。とはいえ「いまだ暖房を必要としない」というほどの暖かさでもない。寒さはそのうち、いきなり来るのだろうか。
店の入り口の季節の書は「惜秋」から「冬耕」へと、しばらく前に掛けかえられた。電飾看板のうち、夕刻の暗さを察知して自動的に点灯するもの以外は、僕がタイマーを調整している。その、調整の頻度がこのところは繁くなってきた。晩秋あるいは初冬の夕刻は、そうと気づかないうち真っ暗になるのだ。
ホンダフィットのタイヤはいつ、スタッドレスタイヤに履き替えるべきか。「暮のうちに1度はかならず降るんだ」と製造係のフクダナオブミさんが言っていたのは、もう30年ほども前のことだ。ここ数年の雪は、年が明けてからいきなり、それも盛大に降るような気がする。
「以前、雨はある程度の範囲にあまねく降った。ところが最近はごく狭い範囲に一気に、それも大量に降る。原因? 分からない」とはカレン族のシームンが今年の秋に言ったことだ。日本の豪雪については、なるべく海の上に降っていただきたいものである。
「本当のワインで漬けた本当のワインらっきょうリュビドオル」のディスプレイが、クリスマスを思わせるものに変わった。言うまでもないけれど、明日から師走である。
いつ作ったか知れないほどむかしの"Suica"が机の引き出しから出てきた。1週間ほど前のことだ。下今市駅の自動券売機に差し込んでみると、残高は3,440円もあった。よってこれをおととい池袋駅の「緑の窓口」に持ち込んだところ、現金を払い戻すには220円の手数料が必要と言われた。
220円なら「ドトール」でコーヒーが飲める。しかし10分ほど列に並ばされたことを考えれば「だったら残額をゼロにして、また来ます」と、その場を去る決心はつかなかった。220円はまぁ、勉強代と思って諦めることにした。
昨年12月よりオフクロは酸素ボンベを曳いて歩くようになった。以降の外食は、オフクロの好む店がもっぱらになった。そしてボトルを預けてある店には無沙汰を重ねた。
今夕「ユタの店」を訪ねて「僕のボトル、まだありますかねー」と遠慮がちに訊くと、お店の女の人は「はい」とにっこり笑って身を伸ばし、棚の高いところから緑色のビンを降ろしてくれた。
"Suica"の払い戻しとは異なって、こちらのボトルについては得をした気持ちになった。そうして心やすらかに皮蛋や焼き餃子を食べる。
甘木庵でおとといの日記を完成させ、サーバに転送する。その余勢を駆ってきのうの日記を書くうち、朝飯のための時間を消尽する。よくあることだ。
本郷三丁目、日本橋、室町と移動をして、コーヒーのみを腹に入れる。
三越前から恵比寿までのもっとも合理的な経路は銀座線で銀座、そこから日比谷線に乗り換えて恵比寿と、iPhoneの乗り換え案内では示されていた。それにもかかわらず、なぜか半蔵門線に乗ってしまう。これまたよくあることだ。そして次善の策として大手町から丸ノ内線で銀座、銀座からは日比谷線で恵比寿に至る。
「やはり美味いよ」と僕が普段から感心しつつ食べている地元の品を集め、これを大晦日必着でお届けする「日光の美味七選」の内容が決まった。写真はきのうの午前に撮った。それを今日は恵比寿の「ベクトルエイチ」に持ち込み、ヒラダテマサヤさんが加工してウェブショップのページを更新する。
昨年の「七選」からひと品を減らし、今年はそこに「日光味噌梅太郎白味噌」の「たまり」を加えた。この「たまり」はこれまで売ることはせず、自家用に使ったり、あるいは特に乞われて知り合いに譲ったりしてきたものだ。この「たまり」により、お客様の新年の食卓が更に賑やかになれば幸いである。
「日光の美味七選」の発売をお知らせするメールマガジンは、12月1日の午前9時に発行を予定している。
日の暮れかかるころ外へ出ると、知らない間にひと雨が来て去ったらしく、街はしっとりと湿っていた。それでいて寒さはみじんも無く、肌に感じる空気は最高に心地良い。北千住では若干の飲酒活動をしてから下りの特急スペーシアに乗る。
数日ぶりの好天によるものだろうか、日光宇都宮道路から鶏鳴山のあいだに幾重も続く谷から、雲とも霧とも知れないものが湧き上がっている。そしてその、白く淡いものが日の昇るにつれて消えていく様を、しばらく見ている。このような、してもしなくても良さそうなことをするために、僕は早起きをしているような気がする。
文章に携わる人のツイートは、しばしば制限内の最大に文字数を合わせてくる。最大とはいえ140文字なら何とか読める。しかしそのような人がfacebookに場所を移すと、こちらは文字数を制限されないから長々と続ける。ああいうものを最後まで読み通す人はいるのだろうか。このところの僕の日記が400から600文字に収まっているのは幸いである。
初更より所用にて池袋に出る。そこから銀座に移動をする。そして若干のカウンター活動を経て0時すこし前に甘木庵に帰着する。
と、ここまで書いて今日の日記の文字数は全角にして366。ほぼ理想である。
きのうの朝、同級生のヤギサワエーイチ君とセトグチタカシ君から相次いで電話が入った。おなじ同級生のヤスハラノブアキ君が急な病から亡くなったという。ヤスハラ君は先月、オフクロの葬儀に参列をしてくれた。それから僅々、1ヶ月と少々の後の死である。
生きていくとは、そこここに穴の開いた荒野を真夜中に歩いて行くようなものだと、このようなことがあるたび思う。僕のおばあちゃんなどは、その荒野を102年ものあいだ、上手い具合に穴を避けつつ往くことができた。一方ヤスハラ君は生まれて58年目にして、闇の中に足を取られてしまったのだ。
僕の記憶が正しければ、ヤスハラ君の家は、下今市駅の踏切を街側から越えて、今は"TUTAYA"のあるあたりにあったのではなかったか。小学生にしては遠い道のりを、僕は多分、自転車に乗って遊びに行った。一方、ヤスハラ君とウチで共に遊んだ思い出は残っていないけれど、あるいは来てくれたこともあったのかも知れない。
ヤスハラ君はいつもニコニコしていた。人をいじめることも、またいじめられることもなく、ただただニコニコしていた。ヤスハラ君が亡くなって、この世の善人がひとり減った気がする。
そうして18時よりヤスハラ君の通夜式に臨む。
オフクロの四十九日は12月2日と、如来寺から手渡された七七仕切表には記してある。しかし11月の末からクリスマスまでは年間を通じて最も忙しい。よって仕切り表の数字から1週間を早め、本日11時より満中陰の法要を行う。
天気はきのうまで晴れが続いていた。それが今朝からは一転して冷たい雨が降っている。しかし「よりによって」と恨みがましいことはいささかも考えない。今年最後の連休が晴れに終始しただけで御の字である。
昼飯におもむいた"Finbec Naoto"のひと品目はつぶ貝のグラタンだった。家のグラタン、「コスモス」のグラタン、そして今日のグラタンと、3日続きのグラタンは嬉しい。後に仕事が控えているためワインは飲めない、そのことのみが残念である。
テレビの天気予報は「ところにより12月下旬の寒さ」と伝えていたけれど、日光にその予報は該当しなかった。夜に至っては、雨により却って暖かい心地さえした。その雨の止んだ隙に目と鼻の先の仲町まで歩き、日本酒に特化した飲み会「本酒会」の第258回目に出席をする。
この日記を始めるはるか以前のある夏の夕方に、バーでドライマーティニ2杯を飲んだ。その、地下1階にあるバーから階段を上がって路地に出て、おなじ路地にある今度は焼鳥屋に入って瓶ビールを飲み始めた。肴はもちろん焼き鳥である。
ビールを半分ほど飲み進んだところで手元を狂わせ、瓶を倒した。読みかけの文庫本はページを開いたまま、しとどに濡れた。あの本は誰の書いた何という題名のものだったか。
兎に角、ドライマーティニのはかどる日は要注意である。
今夕は行きつけの洋食屋で席に着くなりドライマーティニを注文した。最初の1杯は驚くべき速度を以て僕の喉から胃袋へと下っていった。間髪を入れずにおかわりを頼んだ。その2杯目もサッと飲んだ。
次は流石にドライシェリーに変えて、今日の飲酒活動は計3杯で収まった。
自宅へ戻って食堂の椅子に座り、後のことは覚えていない。気がつくと丸テーブルに額を当てて眠っていた。時刻は23時になりかかるところだった。しばらく間を置いて入浴し、その後は寝室に直行する。
ドライマーティニのはかどる日は、やはり要注意である。
5時50分にはいまだ夜の空が、僅々10分ほどの後には朝のそれへと変わっていく、その不思議な様を眺めつつきのうの日記を書く。
日光市内から3軒、県内から6軒、県外から12軒、計21軒の蕎麦屋さんはじめたくさんの物産店を「日光だいや川公園」に集めて行われる「日光そばまつり」が、きのうから始まった。
この「日光そばまつり」にきのう昼ごろ出かけ、遂に会場にたどり着けず戻ってきてしまったという方が店に寄ってくださった。日光の、ゴールデンウィークの混みよう、紅葉狩りの季節の混みよう、また各種イベントの時の混みようについては、地元に住まない人にはなかなか想像しづらいのだ。
今朝は開店準備を整えてからホンダフィットに乗り「日光だいや川公園」を目指してみた。昼ごろには徒歩か自転車でしか近づけない「日光そばまつり」の会場には、店のある春日町の交差点から3分と少々で着いてしまった。
そしてそのままクルマを走らせ、会場に至近の駐車場を見に行った。するとその入り口には「満車」のプラカードを胸の高さに示す係員が、既にして立っていた。時刻は8時13分。そしてその駐車場からは早くも「そばまつり」の会場に向かって多くの人たちが歩いている。
相撲見物にしても芝居見物にしても、その前後に観音様へのお参りや吉原の素見あるいは登楼、また飲酒喫飯など、他の遊びを伴うことで、肝心の見物がより楽しくなったのではないか。
ことし遂に会場にたどり着けなかった人は、来年は数ヶ月前から市内の旅館を予約し、前夜は街のあちらこちらで酩酊をしてはどうか。そして翌朝は食事を済ませて即「そばまつり」の会場を目指すのだ。帰宅の途中で日帰り温泉にでも寄れば、肝心の「おまつり」が、より楽しくなること請け合いである。
遊びには、計画と余裕が絶対に必要なのだ。
早朝の仕事から上がる際に外へ出て新聞受けから今日の朝刊を取る。それを手に事務室へ戻り、折り込み広告のみを抜く。そして新聞の本体、それと、これは本体なのかどうかは知らないけれど「NIKKEIプラス1」も含めて食堂に持ち帰る。
「NIKKEIプラス1」のトップは「何でもランキング」で、今日の特集は「印象派の世界に浸れる美術館」である。
印象派といえば小学5年生のとき、ルノワールの絵の複写、およびこの画家の紹介文を、担任の先生が黒板の正面直上に掲示した。それはその場所に1年のあいだあったけれど、僕は大して関心を持たなかった。そしてその無関心さは、48年後の今に至っても変わらない。「ホテルの結婚式で出てくる古色蒼然としたフランス料理」といったおもむきを、僕はルノワールの絵に感じるのだ。
「ホヤはどうも食う気になれねぇ」と言う僕に「それは食いが足りねぇからだ」と示唆を与えてくれたのが年長の友人ヨコタジュードーだ。その教えを忠実に守って今やホヤは僕の好物になった。
とすればルノワールの絵についても僕は「見が足りねぇ」ということになるのだろうか。しかしこれに限っては「いくら見ても同じ」という気がしている。
1991年の春に、ネパールで扁桃腺を腫らせて38℃を超える熱を出した。このとき初めて「カルテは病院ではなく患者が保管する」ということを僕は経験した。カルテは誰の手により管理をされているのか、これを世界規模で調べると、どのような結果が出るだろう。
すべてのカルテを電子化して巨大なサーバに蓄積し、どの病院からも読み書きが可能になればとても便利と考えるけれど、そこには医師や病院の都合、個人情報の問題などが横たわって、近い将来の実現は難しいかも知れない。
「いつも漬物を送ってる先、そっちにリスト、あるでしょ」と、電話を下さるお客様が複数いらっしゃる。そのお客様のカルテは当方がお預かりをしている、ということだ。そしてそのようなお得意様のうち、特に大口のお宅へ本日、お送り先様の名簿をお届けする。
これから10日も経ずに師走とは信じがたい気温の高さだ。そして夜は「とちぎテレビ」の歌番組などを視聴する。
すこし大きめの地震があったときには、テレビでもない、ラジオでもない、インターネットの地震速報でもない、先ずは"twitter"に法人アドレスでアクセスする。フォロワーが2万数千人ほどもいれば、そのうちの誰かしかは、その地震の詳細を早くもツイートしてくれているからだ。
今朝の空は赤と青が縞状に入り交じって、まるで宮殿の緞帳のようだ。そこで"twitter"にアクセスすると、関東南部の空も不思議なピンク色だと、画像と共にツイートをしている人がいた。それからしばらくして先ほどとは逆の、北西に面した窓を開くと、こちらには日光の、先日の雪を一瞬で解かした山々が晴れてあった。
午後にほんの一瞬だが店が混み合ったため、事務室から店舗に移動して販売の補助をする。その混雑の去った直後に、自由学園でひとつ上のタカハシケータ夫妻が来店をしてくれた。紅葉については「東照宮のまわりは綺麗だった」とのことで、安心をする。
本日は2005年に亡くなったオヤジの祥月命日にあたり、僕は家内と朝のうちに墓参りをした。そして夕刻になりかかるころ、オヤジが亡くなって以来、一度も欠かすことなくこの日に線香を上げに来てくれる若い人の来訪を受ける。そうして窓の外が暗くなるまで、あれこれの話をする。
年末の繁忙期を目前に控えて、終業後は社員たちと自宅で晩飯会をする。僕は人見知りの引っ込み思案だから他所の食事会に出て行くことには熱心でない。しかし社員たちとのメシは楽しい。
そうして21時すぎに散会して後は入浴をして早々に就寝をする。
「半袖ポロシャツの上に長袖Tシャツ」の木綿の2枚重ねを、10月31日からは「ヒートテック長袖ハイネックシャツの上に長袖Tシャツ」の2枚重ねに替えた。そしてきのう11月18日からは更に「ヒートテック長袖ハイネックシャツの上にフリースの長袖ハイネックセーター」の2枚重ねに替えた。
稲畑汀子の「ホトトギス季寄せ」を繰ってみれば「ころもがへ」は夏5月の季語とされている。僕は「ころもがへ」とは夏と秋のふたつがあるとばかり考えていたけれど、そういうことではないらしい。
ところで僕にとっての「ころもがへ」はこの日記の冒頭にも書いたように、秋から晩秋にかけてこそ忙しい。まるで釣瓶落としのように寒くなっていくのだ。
味噌蔵のある庭から外の歩道へ散るモミジやイチョウの葉が多くなってきた。僕の目に付かないところでは、近所の方が掃除をして下さって、申し訳ないことはなはだしい。よって朝一番ですこしばかりの落ち葉掃除をし、数時間後に今度は大きなゴミ袋を携え戻ってみれば、僕が掃き残した分は綺麗さっぱり消えていた。
明日は朝一番から、ゴミ袋持参で現場へ行きたい。
日光、鬼怒川の山間部にずいぶんと遅れて、店舗駐車場のモミジが色づいてきた。ここ数日が見ごろだろうか。とここまで書いて「たかだか1本しかないモミジに『見ごろ』もおかしいか」と考える。
オフクロに線香を上げるため遠方から来てくださるご夫婦を、午後一番で下今市駅にお迎えする。そして仏壇に手を合わせていただいた後は、オフクロの晩年について、また亡くなる直前のことなどを、お話しする。
今夜は日光に泊まり、明日は足尾から「わたらせ渓谷鐵道」で大間々に抜けるというご夫婦をホンダフィットにお乗せし、先ずは東照宮の社務所へと向かう。そしてここで特別な参拝券を受け取り、杉の杜を縫うようにして続く、紅い手すりの階段の下までお送りする。
この階段を昇っていけば東照宮の表参道に出る、それは僕の大昔の記憶によるものだけれど、今もそれで正しいのだと思う。
そうして僕ひとりになったホンダフィットで山内から急な坂を降りる。昔の「日光小学校」、今の「小杉放菴記念日光美術館」の脇を過ぎれば、大谷川の渓を越えて「金谷ホテル」への上り坂が見える。そのあたりの木々の赤や黄色は、いわゆる紅葉シーズンに遅れて訪れた人の目をも喜ばせるに充分な色を、いまだ保っている。
風が冷たくなってきたとはいえ、厳冬期のことを思えば大したこともない。日光の錦秋は裾を引くようにして、次の連休くらいまでは見栄えがするだろう。
日記を書く際には、先ず画像の処理をする。今朝もきのうの画像を選ぶうち「ふじや」の餃子が存外によく撮れていたことに気づく。そしてウチの店では割と頻繁に経験をする、あることを思い出す。
「宇都宮の美味しい餃子屋さん、教えてください」と訊かれると「いやー、今から30キロも離れた宇都宮まで移動された上に有名店で行列をされるのは辛いでしょう。この近くでも、美味しい餃子は召し上がれますよ」と僕はお答えをする。しかしいわゆる「観光」のお客様は納得をされない。お客様は「美味しい餃子」よりも「餃子のまち宇都宮で餃子を食べてきた」という「物語」あるいは「体験」が欲しいのだ。
それを分かっていながら次にまた「宇都宮の美味しい餃子屋さん…」と問われれば「この近くでも、美味しい餃子は召し上がれますよ」と僕は繰り返してしまう。学習能力が低いのだろうか。
しかし「物語あるいは体験が欲しい」ということを、実は僕もしているのだ。ウォンウェンヤイの路上のチムジュムは美味かった。ラチャテウィーの繁盛店のそれは、僕には甘すぎた。来年はサパーンタクシンからジャルンクルン通りを南下した右側の空き地にあるムーカタ屋で焼肉と野菜のスープ煮が食べたい。「あんなとこに行ってもしょうがねぇ」と、現地に住む同級生コモトリケー君は嫌がるだろう、多分。
きのう2時前に起きたことへの反動か、今朝は6時前まで眠ってしまった。
紅葉見物のお客様は、随分と少なくなったとはいえ、いまだいらっしゃることはいらっしゃる。よってこの時期の販売個数の予測は難しい。
店に並べる商品のうち、特に新鮮さの求められるらっきょうについては、売り切れのないように、しかし余すこともないように、キャッチャーミットに直球を投げ込む気持ちで毎日、販売個数を予測している。そしてその数を朝から用意する。
本日は「らっきょうのたまり漬」のうち「超淡しあげ浅太郎」が予想外の売れ行きを示し、よって日中にいくらか追加分を袋詰めした。夕刻に至るとその残も十数袋になり、その十数袋もひとりのお客様がすべて購入されて「浅太郎」は売り切れた。 お客様は更に「浅太郎」をお求めになりたかった模様で、それも申し訳なく感じる。
普段は昼にしか行かない「ふじや」に今夜は珍しく出かけて行く。そして普段は昼にしか食べないあれこれにて燗酒を飲み、満腹を抱えて帰宅する。
目を覚ましてかなり経ってから枕頭のiPhoneを手探りし、画面を明るくすると、時刻はいまだ1時40分だった。4時台の目覚めを最適としている僕には、ちと早すぎる。よってしばらくのあいだ闇の中で静かにしていたけれど、眠気は訪れない。仕方なく、きのう寝る前に用意した服を床の籠から1枚ずつ拾い上げ身につけていく。
それから早朝の仕事まで、また早朝の仕事から朝飯までのあいだに数度、椅子に座ったまま眠りに落ち、そのつどすぐに気づいて目をことさら大きく見開くことを繰り返す。
地野菜を朝のうちに「日光味噌のたまり」で浅漬けにする「たまり浅漬け」には、夏のあいだは胡瓜を用い、秋から冬にかけては大根を使う。その大根が、このところ随分と立派になってきた。しかし葉も含めて太く大きく育つまでには、いまだ数週間は必要かも知れない。
「来年のカレンダーお分けします」という表題のメールマガジンを、フォーマットを変えつつ3通つくる。その3通とは自社ショップの古い登録者向け、次は同じ自社ショップでも、昨年9月に稼働を始めたシステムに変わってからの登録者向け、最後はYahoo!ショップの登録者向け、である。
「いま、これが旬です」とか「この味噌はこれこれ、こういう手順を踏んで仕込み、長期の熟成を経たすぐれた品です」とか「この漬物をこれこれのレシピで応用すると、こんなに美味しいおかずができます」などという文章を大きく引き離して顧客の反応を得るのが、毎年この時期に発行する「来年のカレンダーお分けします」なのだから、止めるわけにはいかない。
夜は町内の公民館に出かけ、年末から新春についてのあれこれにつき、役員たちと日程の調整をする。
半農半ギター製作の同級生ヤマシタアキヒコ君から、今秋に収穫されたコシヒカリが届いた。その段ボール箱を、窓から差し込む朝日に目を細めつつ開く。
15キロの米袋ふたつと共に入っていたのは、ハガキ大の2枚の紙だった。その一方には新米の炊き方についての解説が、そうしてもう一方には「草の種、虫食いの米などが今年も混じってしまっておりますが、ご了承ねがいます」とあった。
外の国を歩いていると、食べられないものを多く含む食べ物が珍しくない。それはたとえばクミンやフェンネルがジャリジャリと歯に当たる西域の麺であり、あるいは南国の、大量の香り野菜を含む汁であり、粥である。米に種や虫食いが混じっても、僕にとっては、どうといいうこともない。そしてヤマシタアキヒコ君の作る米は美味い。
米、お茶、塩、蒸留酒など、冷蔵の必要の無い食品や飲料が家に充分に保管をされていると、なぜか豊かな気持ちになる。あるいは気持ちが落ち着く。それは収穫の秋に食物を貯蔵した、何千年も前の人のデオキシリボ核酸が、僕に受け継がれているからかも知れない。
ウチから南東に数十メートルの距離にある証券会社の、タワー式の駐車場が、ここしばらくの工事で解体された。大きな建物だったので、これからは朝の眺めが随分とすっきりするように考えていたが、実際には、以前とそれほど変わらないことが分かった。
明けつつある紅い空を背にして見えるのは、左から証券会社の看板、角丸酒店のキリンビールの看板、スーパーマーケット「かましん」の看板、そして"NTT"のアンテナである。以前の眺めとそれほど変わらないのは、タワー式の駐車場の代わりに「かましん」の看板が見えるようになったからかも知れない。
オフクロの通夜葬儀には都合で間に合わなかったオフクロの弟が、昼前に予期せず遠方から線香を上げに来てくれた。当方としては充分なもてなしもできないまま、入れ替わりに今度はオフクロの友人母娘が、やはり遠方から来てくれた。こちらは早くから連絡をいただいていたため、共に昼食を摂ることができて良かった。
オフクロの弟にも、オフクロの友人母娘にも、申し訳ないやら有り難いやら、という気持ちを強く感じる。午前から午後まで暖かさが続いて良かった。
「会議」ということで19時に町内の公民館へ行くと、座敷の中央に固められたテーブルには、乾き物や焼き鳥やおでん、そして缶入りのビールやチューハイがあった。「一杯やりながら、先日の屋台まつりの反省をしよう」ということらしい。
豆腐屋のタシロケンちゃんは、小さなころから、お祭のときだけでは飽き足らず、平時においても新聞紙や段ボールによるおみこしで遊んでいた。そのケンちゃんも、今や高校生になった。そして今回の集まりでは、ことし参加した各地のお祭で学んだことを、自分の意見も交えながら大人たちに解説をした。その際の見識、態度には目を見張るものがあって、僕は大いに驚かされた。彼はお祭を抜きにしても、立派な大人になるに違いない。
昨年10月なかばの転倒を契機として調子を崩し、東京大学病院に入院したオフクロは、その後の検査で肺動脈性肺高血圧症と診断された。そして2ヶ月後に退院して以降は、日光の自宅から鬼怒川温泉の獨協大学医療センターに、月に1度ほど通って診察を受けてきた。
肺動脈性肺高血圧症は難病につき、獨協大学医療センターの主治医に勧められ、またその助けもあって、9月はじめに「一般特定疾患医療受給者証」を受けるべく申請をした。主治医によれば、病院や薬局の経費が助成されるこの証明書を県が発行してくれるかどうかは確約されたものではないとのことだったけれど、めでたく審査を通って薄緑色の受給者証が郵便にて届けられた。
「受給者証」は申請時に伝えられていた日より早くに届けられた。しかしそれよりなお早くにオフクロは亡くなってしまった。健康福祉センターに問い合わせると、死後であっても幾分かの恩恵は受けられるという。
そして本日、複数の役所を回って説明を聴いたり、あるいは申請書を提出したりする。
オフクロの死に間に合わなかったとはいえ、この「一般特定疾患医療受給者証」を発行するために働いてくださった方々には、ひとこと御礼を申し上げたい。役所の仕事が遅かったのではなく、オフクロの亡くなるのが早すぎたのだ。
毎週火曜日と覚えてしまえば忘れることはない墓参りに、朝のうち家内と出かける。オフクロの亡くなった10月15日から正確に数えた四十九日は12月2日と、如来寺から手渡された「七七仕切表」にはある。しかしそのころは年末ギフトの受注と出荷で大忙しになっている。よって四十九日の法要は今月25日に行うこととした。
オヤジが亡くなったときに建てた墓の、オフクロの俗名には赤い色が付けられている。これを黒に替えるのは四十九日のときなのだろうか。それについてはスドー石材のオヤジさんに、早めに確かめてみよう。
墓地の一角にある水場まで茶碗を持っていき、洗って水を満たして、それをまたお墓まで、そろりそろりと歩きながら運ぶ。濡れた手は冷たいけれど、11月の前半とあれば、いまだそれほど厳しいものでもない。
昨年、学校の先輩から教えていただいた「日本ケミファ」の「モイスポリア」のお陰で手のアカギレはほとんど消えた。
僕には頻繁に手を洗う癖があり、アルコールによる消毒も日に何度と知れず行う。しかし手を常に水にさらしているほどの過酷な状況にはないため、「モイスポリア」は朝の1回のみで済む。手のアカギレは多く、爪の生え際の両端に発生をする。よってここには特に念入りに擦り込んでおく。
昨冬から持ち越した「モイスポリア」は75ミリのチューブに半分ほどだった。よって新たに10本を"amazon"に注文したところ、10本用の箱にきっちり収まって届いた。これだけ用意をすれば、よもや今冬に枯渇をすることは無いだろう。
例幣使街道の杉並木の向こうから朝日が昇ろうとしている。視界を狭くしてその景色を集中して見ると、それはまるで錦絵のようだ。今週の天気は、おおむね良いに違いない。
07:04発の上り特急スペーシアに乗るべく下今市へおもむく。直前にこの駅を利用した先月24日にくらべて随分と、エレベータを備えた跨線橋の工事が進んでいる。これが完成すると同時に、現在の跨線橋は取り壊されるのだろうか。
日中は恵比寿に、日の暮れるころは銀座にいる。そしてその銀座で2時間ほどのカウンター活動をする。上半身には長袖のシャツ2枚を重ねたのみだけれど、1枚でもこと足りるほど気温は高い。
新橋から銀座線に乗って20時30分ころ浅草駅に達すると、その地下通路に、裏に灯りを仕込んだ、これもポスターと呼ぶのだろうか、とにかく雪に神橋の景色が目についた。僕は日光は、真夏と、そしてこのポスターの真冬が一番、好きだ。夏の日光には輝きとかぐわしい香りがあり、そして冬の日光には清浄と静かさがあるのだ。
「日光は紅葉の時期が最高と、ほら、このガイドブックにも書いてあるではないですか」と主張して止まないアメリカ人ヒッチハイカーを冬の湯元でクルマに乗せたことがある。世界中のどこへ行っても「先ずは地元民の意見に耳を傾けよ」と、僕は言いたい。
「日光の美味しいごはん屋さんを教えてください」というメールを午前、長男が受け取った。差出人は勉強仲間のサトーミフユさん。きのう四国を出て箱根に一泊し、これから日光へと向かいつつあるらしい。今夜のホテルは先日、九州のカワイキブンさん一家も泊まった中禅寺湖畔の「星野リゾート界日光」。いろは坂を登り切った先である。
更に問えばサトーさんが列車で日光に着くのは19時過ぎ。しかし中禅寺行きのバスは18時30分に最終が東武日光駅前を出てしまう。タクシーを頼めばとんだ金額になるだろう。
ここまで聞いて「だったら晩飯、みんなで食おうぜ」と僕は決めた。
僕と家内はホンダフィットを、長男は三菱デリカを19時すぎにJR日光駅前に乗り付けた。駅はしばらく見ないうちに整備をされて、とても良い感じになっていた。そして19時18分に、サトーさん母娘を改札口にて迎える。
結果として、今夜はサトーさん母娘と交流ができて良かった。いろいろと貴重な話も聴くことができた。サトーさん母娘は長男が三菱デリカで山の上まで送り届け、僕と家内は食事の場所からそのまま帰宅した。
ところで「日光駅はかの有名なアメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライト(1867-1959)により設計され」という記述が、アクセス数のかなり多かろうと想像されるページにある。
JR日光駅がライトの設計によるとの証拠は残されているのだろうか。僕からすれば、どこをどう見ても、JR日光駅はライトの"idiom"には拠っていないのだ。目利き、あるいは歴史家の意見を求めたい。
"amazon"では古書しか買わない。しかしたまには例外もある。前回は昨年11月に出版された"CAR GRAPHIC"の「追悼小林彰太郎」号だった。そして今回は「小林彰太郎名作選1962-1989」で、奇しくもカーグラフィックの本が続いた。
目次を一見して奇異に感じたのは、現在の編集者による文章の選定についてだ。「1962年4月号から1989年4月号までのCAR GRAPHICに掲載された試乗記から、印象深い記事を選りすぐった」と前書きにあるにもかかわらず、小林彰太郎が終生愛して止まなかったランチアが、50台中に1台も選ばれていないとは、どういうことだろう。
「小型のランチアを一言で形容するなら、それはイタリアの宝石だ」と静かに、理知的に、蠱惑的に、あるいは神秘的に始まる"Lancia Fulvia Sport 1.3s"のリポートは、小林彰太郎によるすべての文章を読んだわけではないけれど、僕の最も記憶に残るものである。
そして今日のところは1974年6月の「アルファロメオ8C 2300」のみを読んで、他のページは後日へとまわす。
この時期の服選びは難しい。家にいれば寒暖の差により着替えもできる。しかし出かける際の服には慎重にならざるを得ない。それは僕が、汗をかくことと荷物の増えることを嫌うからだ。
日光から北へ行くことはほとんど無い。出かける先は多く東京である。日光の外気温に適した服装で出かけると、北千住から地下鉄に乗り換えた、その車内で汗をかく、先ずそれが嫌だ。汗をかくことが嫌なら服を1枚脱げば良い。しかしそうすると今度は荷物が増える。それも嫌だ。
あれこれ考え"UNIQLO"の「ウルトラライトダウンコンパクトVカーディガン」を欲しいと感じた。奇しくも今朝の新聞には、その安売りを伝えるチラシも入った。そうして午後、銀行へ行くついでに"UNIQLO"の日光店に寄った。そこで目的の品を試着し、脱いでハンガーに戻し、しばし考えた。
真冬に出かけるときは、ヒートテックのハイネックシャツにモヘアのセーターを重ねる。"montbell"のダウンベストを着て"Sierra Designs"の"Mountain Parka"をコート代わりにする。この4枚を以てしても東京で寒さに震える日が年に1度くらいはある。しかしたったの1度である。そしてそのような日のためには既にして"asics"の今は無きブランド"MESCALITO"の薄いダウンジャケットを持っている。
結局のところ目的の品は買わず、手ぶらで帰ってきた。「3,990円の現金を減らさずに助かった」というよりもむしろ、整理整頓の行き届いたタンスに服を増やさずに助かった。
太りたくなければ食べなければ良い。心地よい空間で暮らしたければ不要の物を買わなければ良い。しごく単純な理屈である。
早朝の仕事の後は、大抵、きのうの日記を書くか、あるいは空を眺めるかしている。しかし今朝に限っては、コンピュータの電源を入れることはなかった。新聞が面白すぎたからである。
新聞は、読まない日はほとんど読まない。しかし今朝は日本経済新聞と下野新聞の、すべての活字とまでは言わないまでも、すべての紙面に目を通した。特に興味深かった記事は、日本経済新聞第20面の「日銀相場に賞味期限」だ。
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「何だこの大量買いは」。証券各社のトレーダーたちがいぶかったのは10月31日の寄りつき直後のことだった。海外ファンドとみられる投資家が、ある米系証券を通じて1万6250円の日経コールオプション(買う権利)に約6800枚の買い注文を業者間市場で出した。想定元本で1千億円に相当する大口買いだ。
他の証券会社は一斉に売り向かったが、数時間後の日銀の追加緩和策にひっくり返った。「やられた、すぐ先物を買え」。
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「貴様、それでも日本人か」と叱りつけたい気分だ。
おととい"amazon"に注文したバンドエイド計120枚が午後に届く。これだけあればひと冬は保つだろう。手のアカギレは「日本ケミファ」の「モイスポリア」のお陰でほとんど発生しなくなった。しかし足のアカギレは相変わらずのための措置である。
オフクロが亡くなって僅々10日後の先月25日、甘木庵に溢れる、否、溢れてはいない、その内圧で押すも引くもできないほど引き出しに積み重ねられた衣類を大きなゴミ袋に10個ほど処分した。その「片付け」がオフクロの怒りを買ったか翌26日に僕は「あわやギックリ腰」という事態に襲われた。
28日に県南まで電車で出かけて治療を受け、しかし翌早朝に洗面所で顔を洗おうとすると「きのうより悪くなったんじゃねぇか」という痛みと緊張が腰にあって、前にかがむことさえできなかった。
翌30日からはさすがに漸次快方に向かい、今日あたりはほぼ通常の状態に戻ってきた。ただし28日の治療において背中の全面に施されたテーピングは、いまだ剥がさずにいる。
大きなゴミ袋に10個ほど処分したとはいえ、オフクロの衣類や持ち物、買い溜められたまま変質し、使えなくなった諸々については、その何倍もの量が、いまだ甘木庵には存在する。これからの繁忙を考えれば、それらの片付けは来年に持ち越されるだろう。
一方、甘木庵の何十倍もの量に上る、日光の自宅に溢れるオフクロの衣類や持ち物、また買い溜められたまま変質し、使えなくなった諸々については、賽の河原に石を積むような作業ではあるけれど、週に2回ある「ゴミの日」にコツコツと処分していこうと考えている。
レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を描いたテレビの番組で、ダ・ヴィンチが川の流れに手を差し入れ「時間」というものを説明する場面を見たことがある。
時間は絶え間なくやって来て途切れることはないけれど、人の活動する時間には節目というものがある。
道を往くクルマを人とすれば、その節目、あるいは「為すべきこと」は、電柱や道路標識のように次々と現れて、しかも人の場合には、それらをひとつひとつ片付けなければ先へは進めない。否、片付けなくても進むことはできるけれど、何かと禍根を残すことになるから、やはりすべきことは、できるだけ高い次元で処理していかなければならないのだ。
11月に入れば大晦日は指呼の距離にある。そしてすべきことは具象、抽象の別なく、いまだ目の前に大量に積み上がっているような気がする。端から粛々と手を付けていこう。
夜は、オフクロの死去に当たってお世話になった隣組の方々と、ささやかな食事会を催す。
6時を前にして、青い空に赤味が差してくる。きのうの朝の、ほぼ快晴にちかい空も綺麗だったけれど、雲が良い具合にたなびく今朝の空も、変わらずに美しい。宇都宮証券の避雷針に留まって動かないのはカラスだろうか。
その、カラスの見える南東側の窓から北西に移動し、洗面所の磨りガラスによる窓を開ける。
ウチのあたりでは、東照宮に背を向け日本橋の方角へ行くことを「下がる」と言う。僕の住む日光市今市の旧市街は、日光市日光の旧市街から東南東に5、6キロほど下がったところにある。僅々5、6キロでも紅葉の具合は著しく異なる。東照宮周辺の紅葉がウチのちかくに降りてくるには、いまだ1週間や10日はかかるだろう。
きのうウチから平時の4倍以上、つまり4時間強をかけて中禅寺湖畔のホテルに辿り着いたカワイさんは、今朝は情報を得て早めに出発し、東照宮は余裕をもって参拝できたという。そして既に購入してあった夕刻発の切符を前倒しし、午後には東京でのんびりしていたらしい。東武線の特急に許された「1回だけなら無料で乗車変更可能」の仕組みはとても有り難い。
紅葉見物の観光客は、明日から漸減するだろう。そして来週の月曜日には、平時の日光に戻っているに違いない。そして寒さはますます増していくのだ。
「連休の中日に当たる日曜日は、雨、風、共に強い」と予報では散々おどかされていた。しかし目覚めて起きて廊下に出てみると、空は快晴を予感させる群青色に満ちていた。
今日は勉強仲間のカワイキブンさんが博多から一家で来日をされる。この「来日」とは「日光へ来る」を意味する特殊用語である。とにかく「文化の日」を含む三連休に日光へ来るとは、山笠の日に博多へ行くに等しいから、案内には万全を期す必要がある。
8時20分、品川に宿泊中のカワイさんに電話を入れると「乗る電車は決めているが切符はいまだ買っていない」と言う。よって予定の北千住ではなく始発の浅草に可能な限り早く行き、席を確保するよう助言する。
「北千住ではなく始発の浅草に」とは、座席指定のある特急が満席の場合、早い者勝ちの快速に席を確保するためだ。
品川から浅草までタクシーで急行したカワイさんは結局、予定の「けごん7号」が満席だったため、次発で所要時間が15分だけ多くかかる臨時特急「きりふり275号」に乗って12時21分に下今市に着いた。背もたれの直立した「きりふり」でも、席が確保できただけ御の字である。
僕は下今市駅でカワイさん一家4人を出迎え、ホンダフィットに鮨詰めになって先ずは目と鼻の先の「トヨタレンタカー日光」に案内をした。列車の切符と異なり、こちらはしっかり予約してあったレンタカーに乗り換えた4人を先導して先ずはウチに来ていただく。
「けごん7号」で11時09分に着いていれば、地元の蕎麦屋で昼食を摂ることも可能だっただろう。しかし正午を過ぎればめぼしい店には行列ができる。よってお昼はウチで召し上がっていただくことにした。
そうして14時00分、ウチの店で買い物をしてくださったカワイさんの操縦するトヨタ車を先導して東照宮へと向かう。無料の拝観券は、イワモトミツトシ春日町1丁目自治会長から既に入手済みである。
日光街道で日光へ向かおうとはハナから考えない。国道121号線は日光宇都宮道路の今市インターから鬼怒川へ向けて渋滞をしている。よって「ヨゼフ幼稚園」から「磯部建設」の脇を抜ける裏道を辿り、国道121号線に出て「みとや寿司」を左折する。
この、大谷川に沿った快適な道は、しかし霧降大橋の手前ですこし渋滞をしていた。ここから日光街道と大谷川のあいだを北上する狭い道に入れば、神橋手前の交差点でにっちもさっちも行かなくなるだろう。そう考えて霧降大橋を渡り、渡りきったところで左折をして北上するも「日光小学校」の手前で"creep"、つまり虫が這うほどの速度でしか進まない本物の渋滞に巻き込まれた。
東照宮は左手前方1,000メートルの杜の中にある。しかし車列は遅々として進まない。時刻は14時35分。東照宮は16時で閉まる。よってホンダフィットを降りて後ろのカワイさんに声をかけ、今日のところは早めにホテルに入った方が良さそうであることを伝える。
Uターンをして日光宇都宮道路の日光インターまで先導し、カワイさん一家とはそこで別れた。カワイさんの宿は中禅寺湖畔の「星野リゾート界日光」で、ということは渋滞の最大の難所「いろは坂」を上る必要があるのだ。
宝殿の交差点から日光街道を下り始めると、日光の旧市街つまり東照宮の方面を目指すクルマが延々と続いていた。フェラーリの"F430"などは「ゴボゴボ」とあえぎながらの"creeping"である。渋滞の最後尾は野口の「晃麓わさび園」を過ぎ、地酒の「野口商店」まで達していた。
「いろは坂」の途中で日没を迎えたカワイさんからは、18時15分ころホテルに着いた旨の連絡があった。ホテルの人によれば、予約客の半数が、いまだ姿を見せていないらしい。カワイさんには上出来の料理とお酒、そして温泉にて、今夜はゆっくりお休みいただきたい。明日の朝は窓の外に、素晴らしい景色が広がっていることだろう。
夜、テレビ東京の「秋の日光すごろくの旅」というテレビ番組を観ていたら、平町のアベさんが出てきた。アベさんについては「おっとりとして腰の低い人」としか認識をしていなかったけれど、中禅寺湖で高速艇の操縦士をしているとは知らなかった。
芸能人のティームが二手に分かれ、東京スカイツリーを「振り出し」に、サイコロを振りながら公共交通機関を使って「あがり」の日光湯元まで珍道中を繰り広げるこの番組を企画をした人は、鉄道やバスのダイヤを睨みながら、随分と楽しく仕事ができたのではないだろうか。
それはさておき僕の日記を読んでくださっている方が今夏、日光へいらっしゃって、僕が常々「自分が日光へ来るなら、こんな旅をするがなぁ」と書いていたことを実行された。
すわなち泊まりは街の旅館、温泉は地元の人の通う銭湯形式の露天風呂、朝食は旅館で摂るとして昼食は街の蕎麦屋やラーメン屋、夕食は街の飲み屋や洋食屋というものだ。ここに戦場ヶ原の散策を加え、一家で日光を満喫してくださった。
振り返ってみれば、僕はタイでも同じような旅をしている。自分のからだを非日常の場所へ運ぶだけで、あとは特別なものごとなど何も要らない。非日常的なところで日常的なことをする、そういうことがとても愉しい、あるいはそこはかとなく嬉しいのだ。そしてその理由については深く考えたことはない。