台風による強い風に煽られた雨粒がバラバラと大きな音を立てて降り続いている。枕頭の灯りを点け時計を見ると4時30分だった。そのまましばらく横になっているうち二度寝に入る。5時30分に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、キャベツの油炒め、ジャガイモ入りスクランブルドエッグ、茄子の塩水漬け、メカブの酢の物、納豆、メシ、ゴボウと豚肉と万能ネギの味噌汁。
本日は日光MGの前日にて、西研究所の西順一郎先生と戦場ヶ原の散策をする予定でいた。ところが先生からは9時前に、その計画を中止してドライヴをしようとの電話が入る。晴れても地面は乾かないから足許が危ないだろう、というのがその理由だった。もちろん否定する理由はない。
浅草を9時ちょうどに発った下り特急スペーシアは天候に影響をされたか、定時にすこし遅れて下今市駅に着いた。プラットフォームに先生をお迎えして会社に寄り、しばし休憩の後に日光宇都宮道路を北上する。いろは坂を上るのは、今月21日の切込刈込湖行き以来3度目のことになる。
きのうに引き続き湖畔の巨大な広葉樹の下を歩いて 「イタリア大使館別荘記念公園」 へ行く。随員が寝泊まりをした別棟の資料館を、きのうよりも丁寧に見る。設置されたテレビにより、各国貴顕紳士による中禅寺湖での舟遊び、東京アングリングクラブの湯川におけるフライフィッシング、地元の伝統行事 「水神祭」 という戦前に撮られた3本の短いモノクロームの映画は当時の本職によるものだろうが、編集の際に加えられたギターの伴奏がとても良い。
玉石を踏んで強風に白波の立つ水際まで歩いていく。そのむかしヨットが横付けをされただろう桟橋の向こうには、遠く入り組んだ岬と深緑の森が見える。右手にはようやく頂上付近まで晴れた男体山、左手には迅く流れる雲と台風一過の青空があった。桟橋を戻り、湖水を見おろす別荘の、玄関へと続く階段を上がる。
きのうと同じ案内人にパンフレットをもらい、40年前に馬の毛の詰め替えをしたという出来の良い椅子に座って、この別荘が夏の一時期しか使えないことを証明するような広い窓から木と空と雲と湖を眺める。2階に3つ並んだ部屋の真ん中は主寝室の前室で、歴代のイタリア大使の写真が飾られている。中でもっとも洒落た男は多分、1965年から2年半の任期を勤めたAlberio Casardだと決めて、その背広の胸のあたりをしげしげと見る。
いまや空は完全に晴れた。木漏れ日の道を戦場ヶ原まで走り、光徳園にて弁当にする。
西先生を霧降高原のメルモンテ日光へお送りして帰社すると4時だった。閉店まであわただしく仕事をし、5時45分に長男と共に三菱シャリオでふたたび研修会場のメルモンテ日光へ行く。西先生、前泊をするためバスで山を上ってきた10名の社員たちと共に夕食を取り、その後、我々に与えられたうちのもっとも大きな部屋で交流会をする。
10時30分に就寝する。
目を覚まして枕頭の時計を見ると5時30分だった。すぐに起床して事務室へ降りる。いつものよしなしごとをして7時に居間へ戻る。朝飯は、ほうれん草の胡麻和え、巻き湯波の炊き物、メカブの酢の物、納豆、茄子の塩水漬、メシ、シジミと万能ネギの味噌汁。
隠居で2泊をすごした3人の来客と長男を三菱シャリオに乗せ、中禅寺へと至る。「イタリア大使館にまだいらっしゃっていないとは信じられませんね」 とは友人のモモイシンタロウさんに言われたことだ。中禅寺湖畔の道を2度も迷いながらようやくイタリア大使館別荘記念公園にたどり着く。それは、野尻湖にある何百軒かの別荘のうち最も良い場所を確保した、同級生コバヤシヒロシ君の家の別荘 「国際村23番」 の規模を4倍にし、更に1億5千万円の経費を以て修復した感じのものだった。
設計者のアントニン・レーモンドによれば、食堂と居間と執務室をひとつにまとめた設計は、家をコンパクトにまとめる必要のある現在では当たり前のことだが、これが建築された1920年代には革命的なものだったという。広い窓の外には鉤の手に折れた桟橋と旗竿がある。その先には湖水と濃い森以外のなにものも見あたらない。母親が長くここの管理人を務めたという案内人によれば、火山岩地にもかかわらず目の前の岸にある石に限ってはなぜか丸く、裸足でも容易に歩くことができるという。なおこの別荘は2代前のイタリア大使が栃木県に売却をしたため、以降に着任する大使は観光客としてしかここを訪れることはできない。
華厳滝へ行き、金谷ホテルのコテイジで昼飯を食べ、小さなしかし優れたパン屋 「フゥ・ド・ボワ」 へ寄って帰宅する。しばらく仕事をした後、17:03発の上り特急スペーシアに乗る来客を下今市駅へ送る。
あしたから2日間は飲酒をすることになると思われるため、今月はすでに決められた8回の断酒を達成しているが、今夜も酒を避けることとする。トマトのオリーヴオイル和え、グリーンアスパラガスの豚肉巻き、ジャガイモとぶつ切りカマンベールチーズのグラタン、茄子の塩水漬にてワインではなく米のメシを食べる。
夕刻に次男が宿題の習字をしていたため、今夜は晩飯の時間がいつもより1時間ほどは遅くなった。9時30分に入浴し、冷たいお茶を飲んで10時に就寝する。
6時に起床して事務室へ降り、いつものよしなしごとをして7時に居間へ戻る。朝飯は、タシロケンボウんちのお徳用湯波と水菜の炊き物、ほうれん草の胡麻和え、胡瓜のぬか漬、納豆、めんたいこ、メシ、お徳用湯波と三つ葉の味噌汁。
終業後、長男と次男、来客3人と共に、家からもっとも近い温泉 「長久の湯」 へ行く。ここの露天風呂は広々として屋根が無く、小雨模様だがその雨の粒が水銀灯に照らされて美しい。目前に迫った茶臼山は広葉樹に覆われ、いまだ暮れきらない群青色の空を背にして静かだ。
今夜は隠居でバーベキューをする予定だったが雨が止まないため、店舗の大屋根に覆われた坪庭に炉を設置する。ようやく火をおこし、家内が以前より買い置いたカルビと、きのう国立の "neu frank" から届いたソーセージを焼く。"Chablis Premier Cru Les Vaillons BILLAUD-SIMON 1999" を飲む。"Castillo de Molina Cabernet Sauvignon Reserva SAN-PEDRO 1999" も飲む。生のキャベツをかじり、おにぎりを食べ、茄子の塩漬けをつまむ。
蝉の声はとうに聞こえない。夜明けに忍び寄る風は涼しさよりも寒さを感じさせる。「もう夏も終わりなんだなぁ」 と思う。ことし最後の花火をする。
居間へ戻ってビールを300CCほども飲み、10時に就寝する。
薄く開けた窓から玄関へ抜ける風の冷たさに目を覚ます。二度寝をして5時30分から 「使うリコーGR」 を読み6時に起床する。冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲みながら、水に恵まれた日本において水道水が飲めないとは、その都市がいよいよ死にかけているということなのではないか? と考える。また今夏の大手町の最高気温からして、そのうち都心では、夏には酷暑防護服と酸素マスクがなければ外出をすることもできなくなるのではないか? ということも考える。
声高に歩く韓国人と中国人、待合いの玄関にうずくまる猫、プラスティックの電飾看板にカチャカチャと爪を立てつつ地上の生ゴミを探すカラス、帰りそびれた日本人の酔っぱらいが薄目を開けたまま路上に眠る湯島の繁華街を抜け、上野広小路から地下鉄銀座線に乗る。7時すぎに浅草へ至り、いまだ開店前らしいとんかつ屋 「会津」 でオムレツの定食に納豆を加えこれを朝飯とする。9時すぎに帰社して仕事に復帰する。
来客と共に午後より日光を歩いていた長男を夕刻、次男を乗せた三菱シャリオにて「日光金谷ホテル」 まで迎えに行く。その足で清滝の 「やしおの湯」 へまわり、入浴して7時30分に計6人で帰宅する。
日本海側のどこかの港から届いた岩牡蠣、半生ポテトのサラダ、カレー味の和風だしに豚肉などを投入したカレー南蛮鍋。これにて焼酎 「山之守」 を飲む。
長男は9時30分に来客と隠居へ去った。僕は10時に就寝する。
秋眠不覚暁、6時に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをしきれず7時に居間へ戻る。朝飯は、メカブの酢の物、厚揚げ豆腐とオクラの炊き物、胡瓜のぬか漬、トマト入りスクランブルドエッグ、納豆、メシ、炒めた茄子とさらし玉ネギの味噌汁。トマト入りスクランブルドエッグがやけに美味いのは、生クリームを混ぜ込んだせいだろうか。
昨年の12月7日に亡くなった同級生ハセガワヒデオ君が18歳のときに作曲したファンファーレは、この4月より関係者が八方手を尽くして探してきたが、2ヶ月後の6月に図書館からオープンリールのテイプが、またその直後に男子部の資料保管庫から楽譜が見つかった。7月にはやはり同級生のサカイマサキ君とヤマシタヨシマサ君が自由学園の学園長室を訪ね、ジュウモンジテルオ学園長、ヤノヤスヒロ副学園長、体操のサトウシノブ先生にお目にかかり、これを今年の体操会のファンファーレとして使用する許可を得た。演奏するのは現役のオーケストラのメンバーで、ことによると長男もそこへ加わるやも知れない。ハセガワ君が長く知恵を絞り推敲を重ねた音の連なりは、果たして29年前と同じように秋の大芝生を晴れ晴れしく渡っていくだろうか。
下今市駅15:03発の上り特急スペーシアに乗る。北千住より地下鉄千代田線にて西日暮里に出る。山手線内回りのプラットフォームへ上がり、しかし自分が乗るべきは外回りのそれだったことに気づく。すんでのところで山手線を逃し京浜東北線にて日暮里へ至る。フォトメンテナンス・ヤスダの受付終了時間5時にかろうじて間に合う。
今月17日に入手した "LEICA M2" のオーヴァーホールを申し出る。店主のヤスダさんは47年前の金属のかたまりを受け取りガラス張りの修理室へ持ち込みつつ空シャッターを何十回も切る。こんどは裏ブタを外した本体を測定器具らしいものへ向け、また何十回も空シャッターを切る。そして 「写ることは写るけどね」 と、職人らしい物言いをした。「写ることは写るけれども良くない個所がある?」 と訊くと 「あります。それも、かなり悪い」 と断定をする。僕の手に渡る以前にこの個体はずいぶんとその内部をいじくりまわされているらしく、それにしては肝心のところの手入れは為されていないとのことだった。
身内が医者から 「かなり悪い」 と言われたら心臓に悪いが、機械の 「かなり悪い」 は 「必ず直る」 と同義にてどうということはない。「基本料金は3万、それ以上はいくらかかるか分かりません」 とのあやふやな見積もりに了承して預かり証にサインをする。ヤスダさんはからだから職人の固さを脱いで 「ありがとうございました」 と言った。
日暮里から池袋へ出ようと、来た電車に乗る。気がつくと王子に着いている。人はどこから来てどこへ行くのか? プラットフォームに降りて逆方向への電車に乗る。田端駅の跨線橋を渡りつつショルダーバッグから "M6" を出して数葉の写真を撮る。池袋駅の西口から今夜同級生たちが集まって真面目な話し合いをする店までスナップを撮りながら歩いていく。空は5時50分をすぎて急に暗くなった。
これまでまったく足を踏み入れたことのない地域の雑居ビルにようやく指定された店を見つける。「お刺身の盛り合わせでございます」 などというものに箸を伸ばしつつ、ウーロン茶のオンザロックスを飲む。週末の2日間に飲酒を為す都合上、今夜は断酒をしなければいけない。出席の返事をした者の9割が定時の90分後に集まる。最後のひとりが来たのは、それよりも更に150分後のことだった。
結論の出ないままに終電の時刻が迫る。話し合いは後日にまたその続きをすることとして、いまだ飲む者もいたがとりあえずの解散をする。中野坂上行きの丸ノ内線最終で本郷三丁目に至る。学生のときに利用した三和銀行は名を変え後に移転をしたが、0時すぎにその前を通りかかると空きビルは遂に更地になっていた。背後には東京大学の黒々とした森が見えるばかりだ。
甘木庵に帰着してシャワーを浴び、冷たい水を飲んで0時30分に就寝する。
3時30分に目を覚まして応接間へ行く。夜中から窓を開けたくなるような蒸し暑さはもうない。熱いお茶を飲みながら 「ベトナムデジタル紀行」 を開き、5時30分にこれを読み終える。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、鳥雑炊、めんたいこ、「はれま」 の 「やさい」、みょうがのたまり漬、しょうがのたまり漬、胡瓜のぬか漬。
午後、サイトウトシコさんと長男と次男が隠居の庭の草刈りと座敷の掃除をしに行く。庭とは庭師を頻繁に入れることのできる家、あるいは庭いじりの好きな人こそが持つべきで、ウチにそのようなものは必要ないとは僕の意見だ。樹木をすべて引き抜き飛び石を撤去し小川を埋めて一面の広場にしたらどれだけすっきるするだろうかと思う。
2時間ほどして様子を見に行くと、建物の縁側に接する10坪ほどの草がきれいに無くなり、屋内の畳も雑巾がけをされていた。次男は大きな剪定ばさみを持って、伐れるものを探している。その後ろ姿に向けて 「なんでも伐っちゃっていいよ」 と声をかける。すかさず長男が 「いや、それはまずいよ」 と、桃の枝に刃をあてがいつつある次男を押しとどめる。
帰宅して入浴し、9時30分に就寝する。
目を覚ますと居間の方でいまだ家内と長男の声が聞こえる。「この時間から目が冴えたら後が面倒だ」 と、ふたたび目を閉じて二度寝に入る。きのうの睡眠不足のせいか5時まで眠って起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。
朝飯は、メカブの酢の物、納豆、胡瓜のぬか漬、生のフルーツトマト、茄子の油炒め黒酢がけ、メシ、豆腐とワカメと万能ネギの味噌汁。
オフクロが写真屋から大量のカラー写真を持ち帰り、長男にスマートメディアを返却する。このスマートメディアには、オフクロと出かけた今夏の旅先で長男が "Minolta DiMAGE X" のSDからこまめに移し続けた画像の集積があったのだろう。"Olympus OM-1" から取り出したトライXはいそいそとベタ焼きに出したにもかかわらずデジタルカメラの画像を今日までプリントしなかったのは、これが長男にとっては 「創作」 ではなく 「ただの記録」 としての位置づけしか持たないものだからと推察される。
しかしその 「ただの記録」 には、寺院の石組みのひとつひとつ、路上に置かれた自転車のスポークの1本1本、料理屋に憩うサマーセーターの細かい編み目ひとつひとつの綺麗な色と高い解像度があって素晴らしい。「重いカメラにトライX詰めて、ピント合わせてシャッタースピード合わせて絞りを決めて、なにやらバカみたいですね」 と僕は言う。長男が 「フフン」 と笑う。
ランドローヴァーのディフェンダーにはむかし、極端にウィールベイスの短いピックアップがあって、これが本当にカッコ良かった。しかしてその乗り心地は同時代の8トントラックのそれに等しく、また夏は暑くて冬は寒い。銀塩写真を撮るとはいまや、このランドローヴァーのトラックをただ1台の自家用車として使うことに似ている。
かたやデジタルカメラはクルマにたとえるならばトヨタのヴィッツだ。安楽ではあるけれど、そこには所持する喜びもなければ使う楽しさもない。しかし一般道をA地点からB地点まで安楽かつ安全に移動するだけの用途を考えれば、古い英国製の4輪駆動車は現代の日本のファミリーカーの100分の1ほどの利便性も持たない。
ならばなぜ僕は1台のツァイスイコンタ、3台のM型ライカ、2台の1960年代製ニコン、1台のミノックス、1台のローライを所持するか? ここに人間の悲しさがある。
家内に日光の温泉 「やしおの湯」 までの道順を教える必要があって、燈刻に家族4人でホンダフィットに乗る。日光宇都宮道路の今市インターにちかい 「とんかつあづま」 に寄る。燗酒を頼むと1合が2合かと訊かれたため2合と答えると、2合徳利1本ではなく1合徳利が2本出てきた。突きだしの野菜の煮物、それからサラダを食べつつ待機する。
僕にこの店の 「ロース大」 を食べる力はもう無い。それは長男が注文し、次男は海老フライ、僕と家内はおとなしく串カツに決める。その串カツも家内は1本しか食べられなかった。
日光市清滝の 「やしおの湯」 には8時に到着した。子供の常として、次男はあちらこちらの風呂を行き来して落ち着かない。長男がサウナに入ると次男も入る。すぐにそこを出ようとした次男を長男が引き留めると隣に座ったオジサンが、おとなの肌と子供の肌とは性質が異なるから小さな子供をこのようなところで落ち着かせるのは可哀想だと意見を言い、オジサンの話はそこから更に続いて教育論へと発展したという。長男は大いに困ったが拝聴せざるを得ず、そして長男がサウナを去る際、次男を長男の子供と誤解したオジサンが発した最後のことばは 「元気に育つといいね」 だったという。
温泉からの帰路、日光街道を南下しつつこの話を聞いた僕はすこし感動した。「元気に育つといいね」 とは、何と深い思いに裏打ちされたことばだろうか。つい先ほどまでは明るく輝いていた命が一瞬の後には失われているということを、人は生きているうちに何度か経験する。この饒舌なオジサンには、当方の想像し得ない苦しい過去があるのかも知れない。
9時に帰宅する。牛乳を200CCほども飲んで9時30分に就寝する。
暗闇の中で目を覚まし、時計を見ずに着替えて事務室へ降りるといまだ深夜の1時30分だった。きのうしようとして終わらなかった仕事をし、いつものよしなしごとをし、"CHOTOKU@WORK 1964-2001" を読み終えて5時30分になる。シャッターを上げ外に出てみると、6月下旬の4時前の明るさしかあたりにはなかった。
寝室に戻って二度寝に入り7時前に起床する。朝飯は、めんたいこ、メカブの酢の物、ほうれん草のゴマ和え、トマト入りスクランブルドエッグ、納豆、メシ、タシロケンボウんちのお徳用湯波と万能ネギの味噌汁。
長男がフランスで撮ってきた写真の中で最も面白かったのは、閑居中のビクトル・ユーゴーがその木枠に自らツバメの絵を描いた鏡に向けてシャッターを切ったセルフポートレイトだった。しかしすべての写真を見れば、露出計の故障から勘で定めた露出がトライXのラティテュードの範囲を越えているものも少なくない。
"Olympus OM-1" の露出計を交換して2万、汚れたファインダーを清掃して1万とすれば、同じ3万円の支出で標準レンズ付きの完璧なOM-4を中古市場で買うことができるだろう。長男にそのことを言うと、壊れたままのOM-1で自分には充分だと答える。それならばセコニックの露出計をやると言えば、それもいらないと言う。だったらヨンサンハチロクのズームレンズが付いたニコンFをやるから使えと提案をすれば、やはり首を横に振る。長男はことほど左様に、小さなころから金のかからない子供だった。しかし故障を放置したカメラで失敗を重ねるのもつまらないことだと思う。
燈刻、ワイン蔵よりバキュバンにて栓をした "Chablis 1er.Cru Montee de Tonnerre William Fevre 1999" と、同じもので抜栓していないものを予備に居間へ運ぶ。そしてそれを飲みながら
アンドゥイユを含む2種のソーセージ、トウモロコシのバター炒め、ベイコンとグリーンアスパラガスのオリーヴオイル焼き目玉焼きのせパルミジャーノレッジャーノ風味。長男がフランスで買ってきたビン詰めトリップを使ったトマトスープが出てきたため、予備の白ワインは蔵へ戻し、代わりに密造のシードルを出してくる。2種のチーズにて締める。
入浴して後に寝室へ入るととても寒い。冷房機のスイッチを手で探るとオフになっている。寒さは10センチほど開いた窓から忍び込む冷気によるものだった。窓を閉めて10時に就寝する。
4時30分に目を覚ます。着替えて床の "CHOTOKU@WORK 1964-2001" を拾い上げ事務室へ降りる。この本は大変に面白く、残りペイジの漸減していくのがいかにも惜しい。ほんのすこしだけ読んでいつものよしなしごとをする。朝飯は、伊勢廣の焼き鳥の残りを刻み入れ煮込んだお粥、「はれま」 の 「やさい」、しょうがのたまり漬け、めんたいこ。
あれは1991年6月のことと明瞭に記憶しているが、同級生のヨネイテツロウ君と 「伊勢廣」 の銀座8丁目店へ行き、食べきれない分を折り詰めにしてもらったが、生来の荷物嫌いにて僕が 「これ、ホームレスにやっちゃおうか」 と提案をするとヨネイ君は 「ホテルに持って帰って食おうぜ」 と答えた。夜更けに冷蔵庫のビールの肴にした焼き鳥は、冷えていても充分に美味かった。伊勢廣の焼き鳥は冷えても美味い。しかし刻んでお粥の具にすると更に美味い。
燈刻、家族と連れだって旧市街南端にある追分地蔵尊の二十三夜祭へ行く。6時より、ことしは市長も参加しての、彫刻屋台からお菓子やTシャツなどを投げるガラマキが始まる。寺事務所にて線香を購いそれを大きな石の地蔵に供える。1度はじめてしまうと次の年も頼まなくては気が済まなくなる、自分の手形と写真付きの色紙を次男は今年も申し込む。テントの下で色紙に手形を押し、高輝度ランプに照らし出された屋台の前でポラロイドによる写真を撮ってもらう。この1年ごとに送金するシェアウェアのような商品は、小倉町青年部の大発明だ。例弊使街道の並木に並ぶ屋台や小倉町婦人部の売店にてあれやこれやと買物をし、傘を差すほどではない雨の中を帰宅する。
「正嗣」 の餃子、鶏とポテトのフライ、焼き鳥、焼そば、おでん、チーズボールを晩飯にして飲酒は避ける。
入浴の後、 牛乳を200CCほども飲みながら "CHOTOKU@WORK 1964-2001" を読む。10時に就寝する。
何時かは知らないが暗闇の中で目を覚ます。1年に1、2度の大運動をした翌日にて、もっと眠るべきだと必死で二度寝に入ろうとする。首尾良くふたたび眠って6時に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。
朝飯は、山菜と湯波とコンニャクの煮物、タシロケンボウんちのお徳用湯波とコマツナの炊き物、細切り昆布の薄味煮、めんたいこ、納豆、メシ、シジミと万能ネギの味噌汁。
今朝から家内は、16日に訪ねたばかりの "Finbec Naoto" へ行くことを決めていた。燈刻、家族でホンダフィットに乗る。今月のはじめに東京のいとこたちが来た際、おばあちゃんを囲んでの記念写真から撮り始めたエムロクの "T-MAX400" が一向に減らないため、今回はデジタルカメラと共にこの銀塩カメラも持ち込んで床へ置く。
1皿目と2皿目は先日と同じもの、3皿目は豚のロースト。ワインはスパークリングワイン、シャルドネイ、メルローの3杯セットを注文する。燃料の少なくなった飛行機がアイドリングにちかいエンジンの回転を保って注意深く飛ぶように、このセットの1杯ずつをすこしずつ慎重に飲む。
先日とは異なる3種のチーズ、ブラックチェリーのタルトとラズベリーのシャーベット、エスプレッソにて締める。
帰宅して入浴し、生のジンを飲みつつ "CHOTOKU@WORK 1964-2001" を読む。田中長徳の文章の質はそのときどきにより乱高下するが、この本のそれについてはすこぶる出来が良い。10時に就寝する。
3時30分に目を覚まし、"CHOTOKU@WORK 1964-2001" を読んで5時30分に起床する。事務室へ降りるが日記を書くまでの時間はない。ウェブショップの注文にざっと目を通し、きのうの画像をコンピュータへ取り込んだのみにて居間へ戻る。家内は弁当を作るのに忙しいため、自分の朝飯は自分で用意をする。その、茄子の甘辛炒め、生玉子と納豆、メシを腹へ詰め込み、6時45分に三菱シャトルに乗って家を出る。
目の前の大橋ガソリンスタンドで燃料を入れるついでに、この店の責任者ヤマコシさんの質問に応えて今日の切込刈込湖行きを伝えると 「湯元から歩くのは大変だんべ、金精道路の管理事務所があったとこにクルマを停めれば楽なんだよ」 と言う。そのことばを反芻しつつヤギサワカツミ本酒会員宅へ向かう。
ヤギサワ会員は約束の7時ちょうどに自宅ちかくの歩道へその姿をあらわした。日光宇都宮道路を清滝まで走り、いろは坂を上がって30分後に中禅寺湖畔に出る。金精道路に入り、ヤマコシさんの言っていた管理事務所の跡地を探すが見つからない。湯元まで引き返して公営の駐車場にクルマを停める。それまでの靴を往年の "Dolomite cristallo" に履き替える。青い空が薄い雲を透かして見え隠れする絶好の天気だ。
8時に歩き始めると即、左手に湯元温泉の源泉が見え始める。あたりは熱湯の湧く湿地帯というおもむきにて、湯気の立つ水たまりに手を触れたヤギサワ会員はその熱さにアッと驚いて思わず腕を引いた。「切込刈込湖」 という案内板に従って行くとほどなく道は階段状になり、これを5分ほども登る。後ろからヤギサワ会員が 「ウワサワさん、そのペースじゃ予定の半分でゴールに着いちゃいますよ」 と注意をする。速度を落として更に5分ほども歩くと金精道路が見え、なんのことはない、我々が引き返した地点のすこし先に管理事務所の跡地はあった。
金精道路を横断して広葉樹の小径に入るが、やがて1,600メートルの森林限界を越えて植物の相が変わってくる。急登を重ねて小峠に出る。ここで息を整えるための小休止をし、木の根の突きだした起伏のある道を辿ると、湯元から2キロとすこし歩いたところで樹間に刈込湖が見えてくる。砂州には顔に当たるほど大量のトンボが飛んでいた。
刈込湖の南岸を東へ進むとやがて湖は水路のようにくびれ、その先でふたたび広がるとここが切込湖になる。ゆるやかに上り下りする林間の湿った土の道を2キロほど行くと、やがて目の前が開けて巨大なすり鉢状の涸沼に出る。我々のほかには誰もいず、鳥の声以外には何の音も聞こえない。むかしは沼だったのかも知れない低地にはいまだ若緑の草があって空の光をさかんにはね返している。ここは日光山中に残された不思議の場所だ。
この涸沼の南から東を巻いていくと、やがて 「山王峠まで0.6キロ 所要時間30分」 の立て札が見えてくる。「600メートルで30分ってのは、よほどの登りでしょうか?」 と訊くと 「そうでしょうねぇ、きっと」 と、針金のように細い体をしながら一向に疲れた様子を見せないヤギサワ会員は軽く受け流す。この、涸沼から山王峠までの長い登りにて、僕はついに 「すこし休みます」 と足を停めた。ところがヤギサワ会員は 「ウワサワさん、ここを上がりきれば大休止でコーヒーが飲めますよ」 と、どんどん先へ進む。まるで赤河原から仙丈岳へ至る途中の八丁坂を行くようだ。クルマの音が聞こえ一般道のガードレイルが見えてようやくホッとする。
山王峠の見晴台でヤギサワ会員の入れたコーフィーを飲む。大量の汗を吸ったTシャツを脱ぐと、高原の秋風によりたちまちのうちに肌が冷えていく。着替えを持ってこなかったことを後悔しつつまたそのシャツを着る。
光徳までの2キロほどは丸太の階段、急坂を一気に下る行程にて、膝を壊す危険はあるが太ももの筋肉や心臓や肺はしごく楽になる。それにしても、我々が早足で下る2キロの道を、光徳側から登ってくる人もいるわけで、彼らの脚と心肺の強さにはただ恐れ入るばかりだ。山の中の急坂を何キロも登り続ける、そこにどのような面白さがあるのだろう? 人の趣味は様々だ。
観光バスやクルマによる観光客が大勢でソフトクリームを食べている光徳牧場には11時15分に到着した。光徳園のテイブルに弁当を広げ、早めの昼飯にする。
アストリアホテル前から12:05発の湯元温泉行き東武バスに乗り、あっという間に今朝のスタート地点へ至る。クルマで中禅寺湖まで戻り、おととし同級生ウィルソン君の長男がひとめ見るなり "Oh funny shop!" と叫んだパン屋 「フゥ・ド・ボワ」 にて十数個のパンを買う。
日光街道を南下して1時30分に帰宅する。本日の切込刈込湖行きは、毎年9月にMGのため日光へいらっしゃる西順一郎先生が、昨年までの戦場ヶ原の散策も良かったが切込刈込湖にも興味があるとのことにて、厳冬期に山スキーで現地を訪ねた経験のあるヤギサワカツミ本酒会員に下見の案内役を頼んだというのがそのいきさつだ。しかし本日の急登に次ぐ急登を考えれば、先生にはやはり戦場ヶ原の平坦な木道こそが無難だろうと決め、その旨をメイルにて先生に送付する。
燈刻、モロヘイヤのたたきとマグロの刺身にて中島酒造場の吟醸酒 「高尾」 を飲む。これみよがしの派手な味造りをしない穏やかなお酒は好きだ。町内の塚田屋さんからもらった山菜と湯波とコンニャクの煮物、同じくおこわ、長男が帰宅の際に買った 「伊勢廣」 の焼き鳥にて、更にこの八王子のお酒を飲み進む。
入浴後、僕にしては珍しくビールを500CCほども飲み、10時に就寝する。
4時に目を覚ます。"CHOTOKU@WORK 1964-2001" と茶葉入りの急須と湯飲み茶碗を持って応接間へ行く。台所にて湯を沸かしつつ、薄く開いた窓から朝の空気を部屋へ入れる。田中長徳が1960年代、70年代、そして現代の写真と共に数十台のカメラについて蘊蓄を傾けていくこの本がすこぶる面白い。4時30分、東の空の朝焼けを台所の窓より "Olympus Camedia C-700 Ultra Zoom" にて撮す。
5時30分に事務室へ降りていつものよしなしごとをする。7時にエレヴェイターを上がり洗面所の窓を開くと、北西の空には夏のものとも秋のものとも分からない雲があった。朝飯は、胡瓜のぬか漬、生のトマト、クラゲと胡瓜の中華風、刻みオクラのかつお節かけ、細切り昆布の薄味煮、納豆、メシ、大根と万能ネギの味噌汁。
あれやこれやとして夕刻に至る。北西の夕焼けを見て 「あしたはあの山の向こうに行くんだなぁ」 と考える。
生のトマト、枝豆、タシロケンボウんちのお徳用湯波と小松菜の炊き物、トウモロコシの天ぷら。経師屋のカンちゃんがどこかで釣ってきた鮎は、塩焼きにして皿へ並べてもなお水の中を泳いでいるようだ。
これらを食べて飲酒は為さず、入浴して9時30分に就寝する。
2時に目を覚まして 「眼の狩人 戦後写真家たちが描いた軌跡」 を4時まで読む。初夏に小林紀晴という写真家かつ名文家を知ったことに端を発して、これまでに何十冊の写真や写真家に関した、あるいは写真家による本を読んだかは不明だが、この大竹昭子による、多くは1960年代に世に出た写真家へのインターヴュー集は、その中でも指折りの面白さだ。
二度寝に入って6時30分に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、刻み昆布の薄味煮、茄子の油炒め、納豆、大根おろし、胡瓜のぬか漬、メシ、豆腐とワカメと万能ネギの味噌汁。ダシに使った昆布を醤油で煮直し、無料の酒肴として供する蕎麦屋がある。刻み昆布の薄味煮は、この蕎麦屋の再生品に似て僕は嫌いではない。夏の辛い大根おろしを混ぜた納豆もとても美味い。
日中、あさって一緒に奥日光湯元の切込刈込湖へ行くことになっている本酒会のヤギサワカツミ会員が、所属する山岳会 「宇都宮渓嶺会」 のフォーマットによる山行計画書を持参してくれる。ヤギサワ会員の装備には不測の事故に備えたツェルトも含まれていた。僕はこれからトレッキングシューズを洗わなければいけない。
いろいろな人が来て、いろいろな話をして、あちらこちらから電話やファクシミリを受け取り、あちらこちらに電話をしたりファクシミリを送る。そうしているうちに日が暮れる。「眼の狩人 戦後写真家たちが描いた軌跡」 は昼飯の後に読み終えた。きのうどこかの古書店から届いたばかりの
燈刻、"Chablis 1er.Cru Montee de Tonnerre William Fevre 1999" を抜栓する。枝豆とリガトーニのオリーヴオイル和え、ソフトサラミと赤パプリカとレタスのサラダにて、この白ワインを500CCほども飲む。
入浴して "CHOTOKU@WORK 1964-2001" をすこし読み、9時30分に就寝する。
4時に目を覚まし、「眼の狩人 戦後写真家たちが描いた軌跡」 を読んで5時に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、胡瓜のぬか漬、刻みオクラのゴマ和え、大根おろし、ピーマンの油炒め、細切り昆布の薄味煮、納豆、メシ、大根と万能ネギの味噌汁。
製造現場が盆休みだった3日間に溜まった地方発送の受注残は、きのうと今日の2日間にて出荷が完了した。店舗の客足にはいまだ夏休みの余韻があるが、それも徐々に少なくなっていくだろう。長男はきのうから甘木庵に行った。
家内の仕事が長引いたため、そしてきのうだか今日、僕が「最近、中華料理、食ってねぇなぁ」 とひとりごとのように言ったことを家内が憶えていたため、家内は既にして食べたことがあるが僕は初めての 「中国料理」 という名の中華料理屋に行く。それにしても 「中国料理」 という名の中華料理屋とはややこしい。しかし 「中国料理」 という名のフランス料理屋よりはややこしくないかも知れない。
20歳のころにはワインとビールばかりだったが、この5、6年、ビールは暑い盛りにもほとんど飲まない。頼んだ汾酒は、中国風に茶碗に注がれて出てきた。
この店の最大の難点は、廃業したファミリーレストランをそのまま中華料理屋として使っているところで、高い天井やむかしは洒落ていたらしいシャンデリアがかえって 「うらぶれ感」 を増幅している。お客の数も少ないため 「大丈夫かなぁ」 と思いながら注文した五目豆腐は悪くなかった。ごく普通の餃子に続いて、やはり 「材料は長く在庫したものではないだろうか?」 と心配しつつ注文したイカとワケギの炒め物は、意外やと言っては叱られるがやはり美味かった。
次男が頼んだ牛肉の汁麺に、香港の中華系百貨店の地下食料品売り場の香りを感じる。そういえば家内から分けてもらったジャージャー麺は、尖沙咀のミラマホテルのコーフィーショップで1982年に食べた京都炸醤麺を僕に思い出させた。「この店の建物ががらんどうの元ファミリーレストランではなくて、せいぜい10坪くらいの賑やかな中華屋だったら、自分はもっと頻繁に来るだろうなぁ」 と思う。
帰宅して入浴し、9時30分に就寝する。
目を覚ますといまだ2時前だった。床から 「眼の狩人 戦後写真家たちが描いた軌跡」 を拾い上げて応接間に行く。窓を薄く開け夜気を招き入れる。そして熱いお茶を飲みながら5時までこの本を読む。
事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、茄子の油炒め黒酢がけ、メカブの酢の物、胡瓜のぬか漬、納豆、オクラのゴマ和え、メシ、豆腐とワカメと万能ネギの味噌汁。
昼前、「ワタシ、ライカはたくさん持っておりますので」 という人から "LEICA M2" のボディを手に入れる。製造番号は932978だから僕が生まれた2年後の1958年製で、価格は驚くほど安かった。
M型ライカのデザインで1個所だけ 「ここにあるのは邪魔だな」 と感じるのがフィルム巻き戻しレヴァーだ。また僕はセルフタイマーを使わない。だからセルフタイマーを省き、フィルム巻き戻しスイッチにレヴァーではなくボタンを用いた "M2" の初期型は僕の最も好きな外観を備えたM型ライカということになる。
更にこの個体の細部を見ていくと、軍艦部にライカメーターを脱着した際の擦り傷はあるが、「ブツケ」 や 「落下」 による打ち傷はない。なお、カメラをホールドしたとき必ず右親指の当たる裏ぶたの一部に塗装落ちがある。これらは、このカメラが丁寧に、しかし惜しげなく使われたことを示している。悪くない。
コストを度外視したその光学系から、M型ライカの白眉は "M3" だと思う。 "M2" はその光学系を簡略化し、タイマーを省き、自動復元式のフィルムカウンターを手動復元式にするなどした廉価版だが、 "M3" のファインダーにはなかった35ミリのブライトフレイムが加えられたから、35ミリのレンズが好きな僕にはとてもありがたい。
"M4" は "M2" の後継機で、フィルムの装填と巻き戻しが簡単になった以外に目新しいところはない。
"M5" は露出計を内蔵したが、なによりあの大きなボディと間の抜けたデザインが好きではない。
"M6" は従来のM型のデザインを踏襲しつつ露出計を内蔵したところに価値がある。
"M6 TTL" は "M6" の電気系統とファインダー内表示にマイナーチェンジを加えたもの。
"M7" は絞り優先の自動露出を採用したが、自分はライカにそこまでの利便性は求めない。
というわけで珠玉の "M3"、理想の仕様と使いこまれた歴史を持つ "M2"、そして1985年から普段使いにしてきた "M6" の3台が揃った本日にてライカの収集は打ち止めにする。以降は撮る方に専念をしよう。ここで思い出すのは 「写真の腕と、その人の使うカメラの値段は反比例する」 との箴言だ。
閉店後も事務室で仕事を続けていると、社員通用門の外で販売係ハセガワタツヤ君の大きな声がする。「しょうがねぇな騒がしくて」 と思いつつ何ごとか見に行くと、社内を流れる川のグレッジングからライターを落としてしまったのだという。高価なものかと訊くと、値段はそうでもないが亡くなった伯父さんの形見だという。深い川の底に手を伸ばし、ハセガワ君はようやく真鍮の金色がむき出しになったジッポのライターを拾い上げた。
燈刻、数日前にサイトウトシコさんが今市市小林地区の農産品直売所にて入手してきた3匹のカブトムシに、バナナによる食事を用意する。こんな田舎に住みながら、農協の世話にならなくてはカブトムシが飼えないのだから情けない。
きのう行った "Finbec Naoto" のパンドカンパーニュ、フランス土産のソーセージやレヴァーペイスト、トマトとオクラと玉子のスープを晩飯にして飲酒は避ける。
9時前に入浴し、パジャマを着て横になる。窓は薄く開いてあるが、からだが徐々に汗ばんでくる。「汗をかいて気持ちが良い」 と言う人がいるが、汗をかくことのどのあたりが気持ち良いのか、それが僕には分からない。汗をかいたら普通は気持ちが悪いのではないか? パジャマを脱ぎ捨て、シーツの上にバスタオルを広げて素っ裸で就寝する。
3時に目を覚ます。「まだ起きるには早いな」 と考えそのまま静かにしている。眠った記憶はなかったが、家内に声をかけられ起きると4時だった。着替えて蔵に入り、その後7時まで蔵と事務室を往復する。朝飯は、胡瓜と蕪のぬか漬、山椒煮、きのうの残りの天ぷら、「はれま」 の 「やさい」、「味芳」 のジャコ、「丸赤」 の 「極辛塩鮭」 によるお茶漬け。
製造部門は14日から盆休みに入り、本日までの3日間に稼働しているのは包装と販売の部門のみになっている。そのためきのうに引き続き、僕は事務室、製造、包装、店舗と各部門を渡り歩く。また、お盆中に使いたいという地方発送の予約分を荷造りする。きのうにくらべて客足はかなり退いた。
次男は長男の監督により、1日に2枚がぜいぜいだった算数のプリントを10枚もこなした。本人は鼻高く、家内と長男と共に買物に出かけた。ひとり居間に残って 「眼の狩人 戦後写真家たちが描いた軌跡」 を読む。
本日は僕の誕生日にて、オフクロが晩飯をおごってくれるという。オヤジとオフクロをクルマに乗せて "Finbec Naoto" へ行く。南西に大きく開いた窓から、すでに着席をしている家内と長男と次男が見える。
「人の金だからこの際、高い酒を飲もう」 というようなよこしまな考えを僕は持たない。フルボトルで4,000円の発泡ワインを注文する。トマトと茄子のゼリー寄せを添えた茹でた車エビ、ホタテ貝とタラバガニの何とか包みシャンピニョンソース、鯛のパン粉チーズ焼きオマール海老ソース、自分で選んだ3種のチーズにて、その辛口の白ワインを飲む。
この店には食事の最後に口あるいは腹の具合を整えるため、小さな無料のカレーライスが準備されている。これまでそれを食べたことがなかったそれを、本日はいまだ胃袋に余裕があるため所望する。デザートの桃のコンポートは最初そのまま食べ、半ばを過ぎてよりここに発泡ワインを注ぎ入れスープのようにしてまた食べる。エスプレッソにて締める。
帰宅して後、入浴を済ませた次男が脱衣所より天花粉を持ち出し、居間まで運んだところでそれを器ごと畳の上に落とす。当の本人はさも重大な誤りを犯してしまったような顔をしてその場に立っている。僕は子供のころ、ささいな粗相でひどく叱責をされイヤな気分になった記憶が鮮明なため、自分の子供に対しては、同じような場面で叱ることはしない。
「その粉をチンコに付けろ」 と次男に言う。畳にこぼれた粉を手に握り、次男は嬉しそうにそれを股間に塗る。「早く寝なさい」 と家内が言う。これは次男の気持ちにそぐわない発言にて、次男は股間ばかりが白い、しかし日焼けによって黒くなった体をぎくしゃくと動かし、やがてパジャマを着始めた。それを押しとどめて僕は天花粉を次男の両脇に付けてやる。ふたたび家内が 「早く寝なさい」 と言う。
次男としては、いまだからだに付ける天花粉の量は足りていない。しかし先ほど粗相をした事実を以て、家内に返答をすることもできない。逡巡、反省、希望、欲求。次男の顔とからだに様々な表情があらわれる。
「首の下にも粉を塗れ」 と僕は言う。次男は喜び勇んでパジャマを脱ぎ、心ゆくまで気持ちよさそうに天花粉をたっぷり載せたパフで首を叩く。その様子を見ていた長男が、息もできないほど激しく笑いながら次男の得意満面の顔を自分のデジタルカメラで撮影する。
9時30分に就寝する。
2時に目を覚まし、3時まで
朝飯は、納豆、揚げた茄子とピーマン、茄子のぬか漬、メカブの酢の物、メシ、豆腐とワカメと三つ葉の味噌汁。
8時15分の開店から10時ころまでは、やはり雨の影響だろうか客足は多くなかった。それから昼にかけてはいつものお盆らしく忙しくなるが、客単価が低いのだろうか、店舗の混雑ぶりに比してのレジに蓄積されていく売上金が伸び悩む。販売の仕事からときおり抜け出して蔵へ入り、製造の仕事をする。袋詰め部門へ行って品だしと在庫の状況を責任者のサイトウヨシコさんに確認し、ふたたび店舗へ戻る。
お盆中は地方発送を行わないが、前々から申し込みのあった期日指定配達については毎年、僕が荷造りをすることになっている。本日出荷すべき荷物は少なくないにもかかわらず、社内のあちらこちらを渡り歩いて3時すぎにようやく荷造り台に臨む。ヤマト運輸には、集荷時間をすこし遅らせてくれるよう、事務係より連絡を入れてもらう。
5時に居間へ行きすこし休む。長男は同級生たちと葛西臨海公園にて朝を迎え、浅草駅7:30発の始発で帰宅していた。半袖シャツにパリの旧植民地街で買ったスカーフのみの服装では、さすがに8月とはいえ寒かったという。そういえば東京では何十日ぶりかで夏日が途絶えた。僕はできれば、年間300日ほどは夏日の続く場所で暮らしたい。
5時15分に店舗へ戻る。本日の営業成績は午後からの好調子に助けられて、ほぼきのうのそれに肉薄するほどの結果を得た。
燈刻、冷や奴、もらった山椒の佃煮、もらったシジミの炊き込みご飯にて焼酎 「山之守」 を飲む。ハマグリの吸い物、もらったチタケのおこわ、もらった天ぷら、こちらは家で作った茄子と豚肉のたまり醤油炒め。この皿については次男がほとんどすべての豚肉を拾って食べたため、僕は豚の脂を吸った茄子だけを酒肴とする。
食後、次男に乞われて花火をする。入浴して牛乳を200CCほども飲み、10時に就寝する。
目を覚まし、枕頭の灯りを点けると2時20分だった。居間のテレビをつけると間もなくアテネオリンピックの開会式が始まる。いまだ時差ぼけの残る長男が起きだし、ソファでそれを見始める。僕はおばあちゃんが使う応接間に移動して窓を薄く開き、夜気を入れながら 「僕とライカ」 を開く。
吉原の客が花魁を、格子の奥に並ぶ本人を見て選ぶ式が禁止され店先に写真が掲示されるようになった時代、ちょうど日の出の勢いにあった女優・栗島すみ子に似せた写真をつくってもらえないかと楼主たちから相談を受けた木村伊兵衛が持ち前の腕を生かしてよい稼ぎを上げ、しかしその売掛は現金を拝む前に同じ吉原で右から左へ消えてしまったとのヨタ話を徳川夢声との対談で披瀝しているところが、僕にとってのこの本の白眉だ。また日本でビショフと、フランスでブレッソンやドアノーと写真を撮り歩いた思い出話も興味深い。
3時30分にこれを読み終える。空の色は7月初めのそれにくらべて悲しいほどにいまだ暗い。4時に蔵へ入り、7時前まで蔵と事務室のあいだを行ったり来たりする。朝飯は、ほうれん草の油炒め、蕪と胡瓜のぬか漬、刻みオクラのゴマ和え、メカブの酢の物、納豆、メシ、豆腐と万能ネギの味噌汁。
朝から駐車場にあるクルマから一部のお客様が、「もういいかしら?」 と開店前の店に入っていらっしゃる。これより夕刻まで店は1日中にぎわった。 「毎日これくらいの売上があったら嬉しいよねぇ」 という成績を残し、定刻を15分すぎて店を閉める。
中学高校の同級生だったゴーダサトシ君は今秋よりアメリカの大学へ進むが、その送別会を今夜おこなうという情報がやはり同級生のアイカベタクト君より伝えられたため、長男は急遽、東京へ行くことになった。ところがお盆の最中にて上り特急スペーシアの切符は18:52発のものしか買えなかった。そうなると当然、晩飯を食べてから列車に乗ることになる。次男が 「肉、肉」 と言う。調理をしている時間はないため焼肉屋の 「大昌苑」 へ行く。
焼酎のボトルが並んでいる棚に、僕の名のある真露と田苑の2本を見つける。いつか自分のボトルを発見できず、もう1本を頼んでこれが重複したのだろう。「ジンロは金の無いときに入れたんだな」 とつぶやいてオバサンに 「よーく言うよ」 と返される。
レヴァ刺し、タン塩、オイキムチ。オイキムチを注文する前に 「今日のはどう?」 と訊くとオバサンは言いづらそうに 「うーん、ちょっと酸っぱい」 と答えるが、僕と長男はむしろその方が有り難い。ちなみに家内は乳酸発酵した伝統的な漬物よりも、調味液で浅漬けにされた非発酵系のそれを好む。
ナムル、ホルモン、ミノ、カルビ、石焼きビビンバ。6時40分になったため家内が長男をホンダフィットにて下今市駅へ送る。僕と次男は締めのテグタンラーメンを食べつつその帰りを待つ。
7時30分に帰宅し、入浴して8時に就寝する。
首尾良く3時30分に目が覚める。「首尾良く」 とは本日より1週間、朝4時に蔵へ入ってする仕事があるからだ。即、事務室へ降り、4時を迎えて蔵へ行く。5時30分からはいつものよしなしごとをして、6時30分に家族5人でお墓参りに行く。
ウチの墓は特殊な形式で砂地が多い。この砂に野良猫なのか飼い犬なのかは知らないが動物がクソをする。最初はただのゴミかと思い素手で拾ったらこれがクソだったため、以降は汚れついでに、はじめから明瞭にクソと分かっているものも素手で拾い捨てる。
鮨は手で食べなければいけない。しかし自分は、自分の手がどれほど汚いことをしてきたかを知っている。だから自分は鮨は食べない、と随筆 「パイプのけむり」 に書いたのは團伊玖磨だ。僕がクソを拾ったのは左手で、僕が鮨を食べる手は右手だから、墓地に散らばったクソを思い出しつつも僕は鮨が食える。
朝飯は、なめこのたまり漬入りスクランブルドエッグ、納豆、メカブの酢の物、厚揚げ豆腐と蕪の葉の炊き物、胡瓜と茄子のぬか漬、メシ、タシロケンボウんちのお徳用湯波と三つ葉の味噌汁。
本日葉月13日は迎え盆にて、夕刻に墓を訪ねて灯明を上げ、この火を提灯のロウソクに移して家まで持ち帰ることになる。閉店時間を迎えても客足が途切れないまま、気が付くと長男と次男は連れだってお墓へ行ったらしい。定刻に20分遅れて店が閉まる。日光街道を歩き下って古刹 「如来寺」 の参道に入る。家へ戻る途中の長男と次男には、寺の門を過ぎてすぐのところで行き会った。
次男が持った提灯の火を仏壇へ移し、お盆初日のつとめを無事に終える。仏壇の飾り付けは長男の手によって昼のうちに為されていた。居間へ戻り、次男が餃子を作り始める。僕がウェブペイジの更新だけは飽きずにするように、次男は餃子作りだけは飽きずにする。僕は餃子作りは好きでないためシャワーを浴びる。
メシ、トマトと玉子とレタスのスープ、春雨サラダ、スープ餃子、焼き餃子。牛乳を400CCほども飲んで晩飯を締める。
8時30分に就寝する。
2時30分に目を覚まし、3時30分まで 「旅するカメラ」 を読む。3行読んでは眠りに落ちて、夢の中で4行目を明瞭に読み、しかし次に目を開いて実際の4行目を見ると、さきほど夢の中にあらわれた一節とは当たり前のことだが異なるものがそこにあるということを何度も繰り返す。いつの間にか二度寝に入り5時にまた目を覚ます。同じ本を開いて5時30分にこれを読み終える。
事務室に降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、夏の柴漬け、ジャコ、胡瓜と蕪のぬか漬、茄子とチタケの炒りつけ、塩鮭、「はれま」 の 「やさい」 によるお茶漬け。
午後、次男を連れて丸山公園の市営プールへ行く。そして木陰に敷いたタオルに寝ころび
レンジファインダーカメラの定石として、カメラの背部に向かって左側にあるファインダーは右目で覗くことになっている。カメラの左側にはみ出した左目は開いたまま前方を見る。すると左目は現実の風景を、そして右目はファインダーを通して写真に写る範囲を見ることになる。ファインダーの倍率が等倍なら問題は無いが、僕の "M6" のそれは0.75倍のため、どうにも左目と右目のあいだに違和感がある。
それから僕は、顕微鏡にしてもポジフィルムを微細に見るためのルーペにしても、片目で覗く道具にはすべて左目を使うクセがある。だからカメラのファインダーも左目で覗きたい。ちなみにこのとき右目はつぶらない。「オレはだから、左目で風景を捉えつつ右目でその一部を切り取るというレンジファインダーカメラの大きな利点を無視した、常道に反する使い方をしているんだわなぁ」 という劣等感が、エムロクを持つときには常につきまとってきた。
ところがこの 「僕とライカ」 の96ペイジで、女優の北原三枝に木村伊兵衛がライカ "M3" を向けている写真を見ると、なんとこの名人はファインダーを右目で覗いてはいるが、実際の風景を見るはずの左目は固く閉じられている。104ペイジの 「ビュアーでネガのピントを確かめる木村」 との説明がある写真でも、木村は右目でレンズを覗き込み、左目は目尻に深い皺が寄るほど固く閉じている。「木村は右目だけを使う人だったのか」
あの木村伊兵衛が片目だけでライカを操っていたとは、この本の写真を見て初めて知ったことだ。「オレもあんまり気にしねぇようにしよう」 と思う。
成田空港発14:30発の高速バスに乗った長男とオフクロが宇都宮からのタクシーで帰宅したのは、首都高速の渋滞もあって夜の7時になった。
シジミの潮汁、茶豆、ウズラ豆、ちらし鮨にて焼酎 「山之守」 を飲む。
入浴して牛乳を400CCほども飲み、10時に就寝する。
5時に目を覚ます。「ライカとモノクロの日々」 を開いて5時30分にこれを読み終える。文庫で200ペイジに満たない写文集は、さすがにごく短い時間にて最終ペイジへ至ってしまう。起床して事務室へ降り、いつものよしなしごとをして7時に居間へ戻る。朝飯は、夏の柴漬け、メカブの酢の物、刻みオクラのかつお節かけ、キャベツの油炒め黒酢がけ、納豆、メシ、タシロケンボウんちのお徳用湯波とワカメと万能ネギの味噌汁。
手塚治虫のマンガで、鉄腕アトムがピラミッドに入っていくと、蟹の形をしたロボットが襲ってくるというものがあって、これを僕は子供のころ、桜木町の松谷医院から借りだし大いに楽しんだ。12年ほど前に神保町のマンガ専門古書店にてこの本についての質問をすると、係のオニーチャンはただちに書名を言い当てた後、現在は在庫のない旨を述べた。僕は係のプロとしての能力を高く評価したが、在庫のないものは仕方がない。代わりに 「復刻版のらくろ漫画全集・全10巻」 の自宅への送付を依頼した。
この 「のらくろ」 のお陰で、長男は小学2年生のときには既に旧仮名遣いを読むことができた。その下地があれば、枕草子でも徒然草でも、とにかく筆書きのものでなければさらりと読めることを僕は自分の経験から知っている。ただし長男にこの古いマンガを買ったのは、そういう将来への準備のためではなく、純粋に僕の 「買ってやりたい病」 という病による。
それはさておき長男はあまりモノを欲しがらない性質のため、この 「買ってやりたい病」 はなかなか癒されることがない。いま長男に買ってやりたいものは "Voigtlander BESSA R2" の "COLOR-SKOPER 35mm F2.5 P?" 付き、あるいは "CONTAX G2" の "Planer 35mm F2" 付きだが、長男のことだからいま貸してある、露出計の壊れた "Olympus OM-1" を 「これで良いよ」 とこれからも使うかも知れない。
僕のオヤジも 「買ってやりたい病」 の持ち主にて、次男には 「宿題が終わったらなにか買ってやるよ」 と言い置いていた。次男は何でも欲しがる性質ゆえ、ゲイムソフトは買ってもらいたいわ、しかし勉強はしたくないわの絶対矛盾的自己撞着をなんとかやりくりして昨日、とりあえず義務としてあった宿題を終えた。そして本日、遂にビーダマンのゲイムソフトを買ってもらって帰宅し、居間へ戻るまで待ちきれずに事務室でその箱を開ける。
いまだ明るい夏の夕刻に、次男は早速これを自分のゲイム機にセットする。ほとほと感心をするのは、およそどのようなソフトを買っても、子供たちはマニュアルを読まずにいきなりゲイムを開始する、あるいは開始できることだ。よほど設計の基盤が考え抜かれているのだろうか。
生のフルーツトマト、アサリの酒蒸し、茄子とチタケの炒りつけ、厚揚げ豆腐と蕪の葉の煮びたし、豚肉とモヤシとニラの油炒めにて焼酎 「山之守」 を飲む。
入浴して牛乳を200CCほども飲み、9時30分に就寝する。
4時30分に目を覚まし、「東京ニコン日記」 を開いて5時に最終ペイジへたどり着く。全733ペイジ。これは良い写真集だ。3,600円は安い。しかし 「それにしても田中長徳ってのは文章の推敲をしない人だなぁ」 とは思う。
起床して事務室へ降り、いつものよしなしごとをして7時に居間へ戻る。朝飯は、オクラのおひたしかつお節がけ、メカブの酢の物、キャベツの油炒め、夏の柴漬け、生のフルーツトマト、納豆、メシ、豆腐とワカメと万能ネギの味噌汁。
食後、次男をホンダフィットに乗せて、きのう広葉樹の幹に焼酎と甘い汁を塗りつけた雑木林へ出かける。クワガタムシが蝟集しているはずの木には、蛾と毛虫が数頭いるばかりだった。近寄ると当方の気配を察して蛾が一斉に空へ向かって上っていく。その風景を見て、奥本大三郎の紀行文を思い出す。「もう、クワガタムシを捕まえるには遅い季節なのかも知れないね」 と次男に言いつつクルマへ戻る。「なにくそ、捕れるまで工夫を続けて頑張るぞ」 という粘りのなさが、子供のころからの僕の大きな欠点だ。
終業後、事務机にて
降りたシャッターの向こう側ではいよいよ日光街道を遮断しての盆踊り大会が始まるらしく、スーパーマーケット 「かましん」 横に置かれたやぐらからの歌声がスピーカーを通して聞こえてくる。家内と次男が外へ出て行く。社員のうち盆踊りに参加をする者たちを、家内は激励するのだろう。露店でなにやら買ってもらうところに、次男の目的はある。僕はそのまま事務室にいて、2冊の本を読んでいる。
数十分後に居間へ戻る。露店にて求めた焼そば、ポテトフライ、鶏の唐揚げ、イイダコのたこ焼きにて、米のメシを食べる。デザートには、やはり露店にて購入したベビーカステラを食べる。これが意外や美味い。
入浴して冷たいお茶を飲み、10時に就寝する。
何かの気配に目を覚ますと、いまだ8日の午後11時45分だった。しばらくして二度寝に入り、次に気が付くと3時30分になっている。5時に 「ライカとその時代」 を読み終えたため、数日前より仕事の合間などに開いていた
5時30分に起床して事務室へ降りる。いつものよしなしごとをして7時に居間へ戻る。朝飯は、きのうの焼そばに目玉焼きを載せたもの、メカブの酢の物、しょうがのたまり漬、シシトウの炒りつけ、納豆、メシ、タシロケンボウんちのお徳用湯波と胡瓜の味噌汁。このところ玉子を食べ過ぎているので、目玉焼きは家内に譲る。
「ムシキング」 という、虫同士を闘わせるコンピュータゲイムが流行っているらしく、次男がさかんにこれをしたがって仕方がない。暗くなってより、特別に調合した甘い汁と焼酎を持ち、次男とホンダフィットにて自宅から数キロ離れた山へ行く。そしてブナだかナラだか知らないが、1本の広葉樹の幹に持参した汁と焼酎を塗る。当方の目論見が外れなければ、明日の朝にはここにクワガタムシが蝟集していることになる。
「B級じゃねぇか」 と言われようが、出汁にカレー粉を混ぜ込んだスープに玉ネギ、キャベツ、エノキダケ、厚揚げ豆腐、シイタケなどを投入した鍋で、更に豚肉をしゃぶしゃぶにするというカレー南蛮鍋は美味い。「これ、冬になったらまたやってよ、からだが温まるから」 と言う次男に 「ハハハ、今日みたいに、夏に温まるのもまた悪かぁねぇけどなぁ」 と答える。
今ごろ森の中で虫たちが舐めているかどうかは知らないが、それと同じ麦焼酎 「山之守」 を飲む。
入浴して牛乳を300CCほども飲み、9時に就寝する。
4時30分に目を覚ます。「ライカとその時代」 を読んで5時に起床する。西の空は晴れているが、太陽が上がったばかりの東の空には幾分かの雲が残っている。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、夏の柴漬け、納豆、メカブの酢の物、茄子の油炒め、ほうれん草のゴマ和え、メシ、タシロケンボウんちのお徳用湯波と万能ネギの味噌汁。
9時に春日町1丁目公民館へ行き、倉庫から机や椅子、テント、鍋釜のたぐいを出す。カワナゴヨシノリ青年会長の会社のトラックで数往復しながらそれらを春日公園に運ぶ。春日町1丁目の納涼祭はいつも、1年で最も暑い8月のはじめに行われる。
テントを張り、ドラム缶を真ん中から切ったバーベキューの炉を設置したところで10時30分になる。いったん帰社して昼まで仕事をする。東京から僕のいとこの家族が来て、その中にはおばあちゃんから数えれば4代下のやしゃ孫までが含まれるため、デジタルカメラではなく "T-MAX400" を仕込んだライカのエムロクにて記念撮影をする。「おばあちゃんの葬式用の写真もついでに撮っとくか」 と提案をして、家内に 「やめなさい」 と注意をされる。
昨年のボジョレヌーヴォーを3本提げ、次男の手を引いて春日公園に戻る。焼そば、かき氷、牛のかたまり焼き、ソーセージ焼き、公民館長イケダツトムさんが春先に植えたトウモロコシも焼く。「トウモロコシがあって醤油がないっちゃあんめぇ」 とカミムラヒロシさんが言うため、木陰に停めてあった自転車を無断借用して会社へ行き醤油を調達して戻る。
炭火の上で回転する肉のかたまりをそぎ切りにするため "GERBER" のナイフを腰に下げていったが、炎天下に熱い炉のまわりで世話をしてくれるひとたちのナイフのお陰を以て、これは無用の長物となった。
葡萄棚に隣接した大人の席、タープの下の子供席、パラソルの下の酒飲み席などに別れ、春日町1丁目の人たちと招待客たちは、夏の昼をゆっくりと過ごしている。僕はそのうちの子供席にて次男と昼飯を食べる。
葡萄の木に登っている隣家のユザワヨーちゃんに次男が 「ちゃんと食べないと夏バテするよ」 と注意をする。ヨーちゃんがなにやら、あさってたくさん食べるから問題はないのだ、というようなこと言っている。近くに呼んで詳しいことを訊くと、来週の火曜日から勝浦のホテル三日月でヴァイキングを食べるから、今日は遊んでいてもかまわないのだという。ヨーちゃんの小学校1年生の弟がそばに立っている。 「ホテル三日月のお風呂には韓国人の女の人がいるから、垢すりをしてもらうといいよ」 と教えてあげる。
スイカ割り、プール遊び、そのプールでのウナギつかみ捕り大会。まだまだ出し物は続くが、午後の仕事があるため帰社し、後かたづけには参加をせず夕刻に至る。外で雷が鳴る。その音とウチの建物がたまたま共振をするのか、事務室の窓がまるで地震の最中のようにガタガタと揺れる。
カワナゴヨシノリ青年会長より、6時から 「市之蔵」 で直会がある旨の電話が入る。炎天下に結構な量のワインを飲んだため、断酒はしないまでも家で静かにメシを食い早くに寝てしまおうと計画をしていたが、とりあえずは出かけることにする。家内に 「すぐに帰ってくるから」 と言うと 「早く帰ってこなくても良いよ」 と返される。このまま3年ほど帰らなかったらどうなるだろうかと考える。
「酒の飲めるからだじゃないんですよ」 と断りつつ 「市之蔵」 の入れ込みに上がる。壁の棚からチューハイグラスを取り、手伝いの女の人に渡して 「これで生ビールね」 と注文をする。このチューハイグラスの生ビールを2杯とオールドファッションドグラスの焼酎オンザロックスを1杯だけ飲み、鰹のたたきやエシャロットの醤油漬けなどを軽くつまんで7時20分に帰宅する。
入浴して 「ライカとその時代」 をすこし読み、8時30分に就寝する。
4時30分に目を覚ます。「ライカとその時代」 を読んで5時30分に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、目玉焼き、茄子とシシトウの油炒め、ワカメとさらし玉ネギのかつお節かけ、夏の柴漬け、メシ、炒めた茄子の味噌汁。この、油の浮いた味噌汁が僕は大好きだ。
昼前に外注SEのカトーノさんが来て、数日前に届いたばかりのスキャナー "EPSON GT-X700" をセットアップし、かつその使い方を説明してくれる。僕はインストールだのマニュアルを読むだのということが大嫌いで、だからいまだにコンピュータについては初心者以下のところがある。カトーノさんの説明に従って、大学ノートに自分専用のマニュアルを作成する。自分のことばで書いたマニュアルであれば、僕はこれを読んで理解することができる。
夕刻に洗面所から外を見ると、西から北までのおよそ150度くらいの視野に夕焼けがある。場所により大気の具合は異なり、また空を背にした森や山の姿も様々なため、目の前に広がる景色はひとつかみにできるものではない。それにカメラを向けると、写真の数はたちまち数十枚になった。適当なところで切り上げ居間へ戻る。
次男の勉強机に 「ライカとその時代」 を広げてスミルノフを飲む。
晩飯は、ポテトフライ、フランスパン、青カビのチーズ。フルーツトマトのオリーヴオイル和え、衣にハーブを混ぜ込んだホタテ貝のフリット、炒めたベイコンとアスパラガスの目玉焼きのせ。今夜はうっかりして、目玉焼きの上にパルミジャーノレッジャーノを振りかけることを忘れてしまった。2年前のボジョレヌーヴォーを飲む。
入浴して牛乳を300CCほども飲み、9時30分に就寝する。
夏、甘木庵に泊まると翌早朝の涼風が心地良い。これは風がアスファルトの表面をではなく、東京大学構内の濃く繁った銀杏のあいだを抜けてくるからではないかと思う。心地良い割には4時に起床し、キッチンで冷たいスポーツ飲料を飲みながら 「ライカとその時代」 を読む。
6時前にシャワーを浴び、着替えて早めに玄関を出る。普段とはすこし違う道を歩いて上野広小路へ下り、地下鉄銀座線にて浅草へ至る。駅事務所へ顔を出して、きのう、きぬ126号の座席番号125に置き忘れた携帯電話を受け取る。考えていたよりも簡単に事が済んで時間があまる。駅を出て記憶をたどりながらフォクトレンダーのサーヴィスルームを探すうち、それがカメラ修理のハヤタ・カメララボ内に併設されていることを知る。
いつも朝飯を食べるトンカツ屋の 「会津」 は、7時になれば引き戸が看板でふさがれていても入ることができる。しかしいまだその7時にならないため吾妻橋の東詰めまで歩いていくと、赤く塗り直された欄干や街灯が、ところどころに晴れ間は見えるがしかしそのほとんどはいまだ黒く重たい雲を背景にしてとても映えている。「なんとかだまして使えるだろうか?」 とショルダーバッグから "Canon IXY DIGITAL Li" を取り出してスイッチを入れると、昨夕と同じく 「バッテリーを交換してください」 のメッセイジがあらわれて消える。「まぁ、こんなもんだわなぁ」 と深い感慨を憶える。
炒めたウインナーソーセージを添えた目玉焼きとポテトサラダをおかずにメシと味噌汁の朝食をとる。座席番号301という、まるで乗客がダルマになってしまいそうな壁に直面した席に座ってきゅうくつな思いをしながら9時すぎに帰社する。
カメラの画像をコンピュータへ移してみると、きのうイタリア料理屋 "Prego Pacchetto" で撮った画像15枚のうち13枚は手ぶれやピントの合っていない失敗品だった。2分の1秒でもシャッターの切れる "Olympus Camedia C-700 Ultra Zoom" とは大違いだ。「接写能力が高いというから買ったのに。こんどは手動でISOを増感してみるか」 と考える。
1週間ほど前から "MAP CAMERA" に頼んでおいた "ARTISAN & ARTIST" のコードバンのストラップが、夕方になって3冊のカメラ本と共に届く。早速これをライカのエムロクに取り付け首から提げてみる。一瞬 「燕尾服を着たカメラマン」 ドクター・ザロモンの気分になるが、僕のエムロクは実際には、散歩のつれづれに野良猫へレンズを向けてみるくらいのところがせいぜいだろう。ザロモンはアウシュビッツのガス室で死んだ。
18:38着の下り特急スペーシアに乗る家内と次男と迎えに下今市駅へ行く。
家内にはあらかじめ今夜の断酒を伝えてあった。「おつな寿司」 のお稲荷さん、「菊乃井」 の穴子鮨、卵焼き、次男の好きなおこわ、夏の柴漬けにて冷たいお茶を飲む。
入浴して牛乳を200CCほども飲む。「ライカとその時代」 をすこし読んで9時に就寝する。
目を覚ますとスペーシアは北千住に停車中だった。降りようとする人の姿が車内に見えないことから、そろそろ発車の時間と思われる。ショルダーバッグと、そこに乗せたデジタルカメラや文庫本をそのまま持ち上げ、プラットフォームに出た瞬間、背後で列車の扉は閉まった。そしてその扉の閉まる音を聞きつつ 「携帯電話はバッグの上じゃなく窓枠に置いたから、車内に忘れたかも知れねぇな」 と思う。事実、バッグをまさぐっても服のポケットを調べても、携帯電話はどこにもなかった。いつもいつもこういうことをやらかして、しかしその癖の収まることはない。
駅事務所へ行き、ことの次第を説明する。駅員が浅草駅に連絡をする。どうやら列車が浅草に到着するまで、ここで待たなくてはいけないらしい。
そのとき 「釣り銭泥棒!」 という声と共に、チェックのシャツにコットンパンツ、デイパックを背負った坊主頭の私服警官が、背は低いが屈強な体つきの男を連行してきた。警官はそのまま奥の部屋に犯人を連れ込み尋問を開始したが、その怒鳴り声は部屋中に響き渡っている。駅員はちらりと僕の顔を見て苦笑し、取調室のドアを閉めた。
携帯電話を発見したとの連絡が浅草駅から入る。書類に必要事項を書き込み、地下鉄千代田線のプラットフォームへ急ぐ。5時15分の待ち合わせに3分おくれて家内と次男と合流する。
"Prego Pacchetto" にはいまだ6人の客がいるだけだった。5種の貝のガスパチョ仕立て、白レヴァーのパテ、穴子のパン粉焼きなどにてフラスカーティを飲む。次男はニョッキ入りのスープ、ニンニクと唐辛子のスパゲティに続いて牛バラ肉のステーキを食べている。ダブルサイズのエスプレッソにて締める。
6時40分に家内たちと別れて明日館への道をたどる。婦人之友社の角を曲がったところで夕焼けの綺麗さに気づく。それに向けて "Canon IXY DIGITAL Li" のシャッターを切る。30メートル歩いて明日館の芝生に立つと目の前が開け、そうすると西の空は先ほどよりもずっと 「写真を撮る気にさせる」 色と雲の形をあらわにした。もう1度カメラを取り出し電源スイッチを入れる。「バッテリーを交換してください」 という白い文字がディスプレイに見え、やがて消える。
同学会本部委員の会議に出席をし、10時前に甘木庵へ帰着する。次男は既にして眠っていた。シャワーを浴びて冷蔵庫を開けると、お茶もビールもない。あまり好きではない甘いスポーツ飲料を飲み、11時に就寝する。
4時に目を覚まし、「撮るライカ」 を5時まで読んで起床する。空は晴れてはいるが、それほど暑くなる気配はない。季節はいよいよ秋へ向かって傾斜の度を強めていくのだろうか。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、きのうの日記を作成する。
日中、おばあちゃんが地方発送をする同じ机で孫とおぼしきふたりが、もらった販売促進用うちわのロゴを様々な色で塗りつぶし遊んでいる。思わず近寄り 「いーねー、写真、撮らせてー」 と、この風景をスマートメディアに記録する。
店舗の閉まる時刻は午後5時30分だが、今日はそれを過ぎても客足が途切れず、結局6時ちかくになってようやく店じまいをする。計算をしてみれば、本日はこの25分間で売上の5パーセントを稼いだことになる。
「撮るライカ」 を自転車のかごに入れて日光街道を下る。「市之蔵」 の店先の鉢から壁の上方へ斜めに張られた縄に、8本のアサガオがツルを巻き付けている。もう咲き終わったのか、これからも咲くのかは知らない。アサガオは朝に咲く花だから、飲み屋の客がこれを愛でることはないのではないか。
あずけてある焼酎 「無双」 をソーダ割りにする。豚肉のダンゴ、ヒメタケの炊き物、タカナの漬物が運ばれる。続いてタコブツ、そして甘エビ。この店では飲むお酒さえ指定をすれば、黙っていても次々と皿小鉢が出てくるから面倒がなくて良い。しかしながら定番のメニュや黒板に書かれた季節の料理に欲しいものがあれば、もちろんそれを注文をすることもできる。
「チダイ蒸し物」 との文字が黒板にあるため 「皿に昆布を敷いて、その上で蒸すの?」 と訊くと 「違うの、バターを使って洋風にするの」 というのでこれを頼む。仕入れたばかりの形の良いチダイは4尾か5尾もあって 「それ、頼む人がいなかったら、お客にタダで食わすようになっちゃうじゃん」 と心配をすると、店主は 「そうなんだけどね、魚屋さんに良いものがあるとつい買っちゃって、ダメヨねぇ」 と笑う。
そのチダイの洋風蒸しは美味かった。僕の食べ終えた皿を見て店主が 「スゴイッ! キレイッ! アタマが無い!」 と賛嘆をする。あまりに綺麗に魚を食べる女はかえって不気味に見えるとは山口瞳がどこかに書いたことだが、その 「あまりに綺麗」 とは、どの程度のことを指すのだろう? 梅胡瓜にて締める。
帰宅して入浴し、「撮るライカ」 をすこし読んで9時に就寝する。
蚊の羽音とからだのあちらこちらの痒さに目を覚ませば、いまだ日付の変わらない午後11時だった。「チョートクのとうきょう散歩カメラ」 を読むうちに二度寝に入り、今度は3日の午前1時に目覚ます。またまた同じ本を開き、しかし200ペイジを超えるB5版の写文集を、ずっと同じ姿勢で読み続けるのは楽でない。寝室を出て次男の勉強机の灯りを点け、熱いお茶を飲みながら3時に最後のペイジを読み終える。それにしてもいまだ3時だ。
事務室へ降りていつものよしなしごとをする。9月1日からの日光MGにつき案内書を整え、ペンにてひとこと加えるものについてはそれを書く。また関係方面のpatioにこれをアップする。
午前の早い時間、数日前に注文をしたスキャナ "EPSON GT-X700" がヤマト運輸にて届けられる。これを置くと事務机には、乱雑に未処理の書類を重ねておくような空白は一切なくなった。それも悪いことではない。
「一週間前にご連絡をするというお約束だったんですが、事務と現場の連絡が悪くて、急に今日、工事をさせていただくことになったんですがよろしいでしょうか?」 と、ウチの敷地内に東京電力の電柱を立てる会社の現場監督が来る。「パンツを脱いで便器に座ってからクソをするのが本来の手順ですが、急に便意をもよおししかも便所も満員のため、いまここで着衣のまま洩らしてもよろしいでしょうか?」 と許可を求められて拒否できる人間はなかなかいない。
監督と共に電柱を立てる予定の場所へ行くと、そこには無断駐車のクルマが5台あって、とてもではないが工事のできる状況ではない。「今日の夜、あのクルマがいなくなってから立ち入り禁止のロープでも張って、あしたまた来たらいいんじゃないですか?」 と提案をするが、もとよりそれほどの余裕があるわけではないだろう。電柱工事車1台、土砂運搬車1台、交通整理係2名、工事関係者数名の陣容と道路使用許可証を揃えてしまって、これから今日1日どうするつもりだろう? 「まぁ、いいようにやってください」 と言って事務室へ戻る。
そんなことをするうちに、バスキアの絵はがきが長男より届く。「このハガキはポンピドゥセンターの書店で買ったものです」 との文字がある。消印は "St Lazare" だが、エールフランス機をイベリア航空機に乗り換えるためにしかパリの土を踏んだことのない僕は、そのサンラザールがどこにあるのかも知らない。
そういえば先日、街でバスキアのTシャツを着ている若い人を見かけた。「バスキア、好きなの?」 と声をかけようとしたが、変なオジサンと思われてもいけないのでやめておいた。それから数日後にどこかのウェブペイジで、ウォーホールやバスキアのTシャツをこの春にユニクロが大量に売ったことを知った。「よかった、やっぱり声なんかかけなくて」 と思う。本日 "amazon" から届いた
それにしても、この20年のあいだにM型ボディ50台、レンズ100本を報道の現場で使いつぶした著者による実践的ライカ論は面白い。それもべらぼうに面白い。「これは良い本に行き当たったものだ」 と静かに興奮する。
冷蔵ショウケイスに丸まったようなイカの足を見つけ 「これ、どうやって料理するの?」 と訊くと 「塩胡椒して焼くの」 との答えがショウケイスの向こう側から戻る。「いいね、それ、ちょうだい」 と注文をする。並べて串焼きにされたそれはイカではなくイイダコだった。僕は食感オタクだから頭足類、貝類、ゾーモツ、コラーゲンの系統は大好きだ。続いてイカ納豆を頼むと納豆が品切れのため、エシャロットに方向転換をする。この店に来ればほとんど顔を合わせることになる同級生のアキモッチャンから、刻んだ唐辛子と大葉を練り込んだ味噌がまわってくる。悪くないこれを舐めながら最後の1杯を飲む。
勘定を告げる声が 「1,350円」 と聞こえる。いかにも安すぎるため聞き直そうとしたが、「センサンビャクゴジューエン?」 と声に出して、しかし本当の値段がそれよりも高くては申し訳がない。5千円札を出すと3,650円のお釣りが戻った。酔ってはいるが僕の耳に間違いはなかったことになる。
東郷町の通りを遡上しながら 「一晩の遊び代が1,350円じゃぁ、ちと少ねぇなぁ」 と考える。「ラーメン食うと、よけいに腹が出ちゃうんだとなぁ」 と思いつつ如来寺前の公衆便所脇に自転車を停めると、もう引き返すことはできない。「みはと」 の引き戸を開ける。僕はここへ来るたびに小栗康平の 「泥の河」 で田村高廣がオヤジをしていた川っぷちの食堂を思い出す。
注文したウーロンハイに、味の素をたっぷりとかけた胡瓜と大根の浅漬けが添えられる。
「味噌ラーメン」
「今日は野菜がないから味噌ラーメンができないんだよ」
「じゃぁタンメン。あ、そうか、野菜がないからタンメンもできないか」
「そう」
「じゃぁ普通の醤油ラーメン」
「はい」
そうするあいだにも単独、アヴェック、家族連れと、次々に客が入ってくる。このマニアックな店を愛好する市民は少なくない。結局は醤油ラーメンで正解だったのかも知れない。その懐かしい丼の風景に "Olympus Camedia C-700 Ultra Zoom" を向け、2分の1の速度でシャッターを切る。
帰宅してシャワーを浴びると8時だった。「撮るライカ」 を読んで9時に就寝する。
4時に目を覚ます。川本三郎の文章、武田花の写真による優れた日和下駄 「私の東京町歩き」 はいまの気分にはちと叙情的に過ぎる。またこの本は昨年の1月に読んでいる。きのう "amazon" からリンクしているどこかの古本屋から届いた
田中長徳がこの原稿を "POWER BOOK 3400C" に仕込んだワードプロセッサによって書いたのか、あるいは紙にペンで書いたのかは知らないが、ほぼすべてのペイジに存在する誤字脱字の数は尋常ではない。「この写真集に編集者は存在していないのだろうか?」 と考え奥付を見るとそこには 「編集 タスクフォース1」 の文字が見える。「珍本」 としゃれのめすにはあまりに無責任な仕事ぶりだ。
また東京書籍から出された 「ライカを買う理由」 ではなかなかの筆の冴えを見せている田中長徳が、ここでは1年に101編つまり3日に1編の締め切りがよほど忙しかったとみえて、書き飛ばしたらしい文章には推敲の跡もなく、意味不明の個所も少なくない。しかしまぁ、そのような重大な欠陥を補って余りあるあれこれがこの写真集のそこここに見えて、だからペイジを繰る手が重くなるわけではない。
5時に起床して事務室へ降り、いつものよしなしごとをして7時に居間へ戻る。朝飯は3種のおにぎり。鎌倉の実家へ行く家内と次男を下今市駅まで送る。
去る6月10日の下野新聞にこの 「清閑日記」 が紹介されたお祝いだと、ある人が観葉植物の鉢を下さった。それは一見していわゆる 「金の成る木」 と呼ばれるものと思われるが定かではない。とにかくその葉は元気に繁って、しかし鉢は小さなままだから、戸外へ出すとほんの微風にもバランスを崩し倒れてしまうようになった。
2階の倉庫ですこし大きめの鉢を見つけ、隠居の地面から土を採取してこれに入れる。観葉植物は小さな鉢の中にビッシリと細根を巡らし、容易に取り出すことができない。ようやく植え替えが済んだときには全身に大量の汗をかいていた。そしてあらためて 「すこし大きめの鉢」 を眺め、それが旬日を経ないうちに 「すこし窮屈な鉢」 になってしまうことを認識する。
いまだ昼のように明るい夕刻に、自転車に乗って日光街道を下る。文字通り昼行灯になってしまうためか看板に灯りはなく、のれんも掃除の途中というあんばいだったが、「市之蔵」 の引き戸を開けてカウンターに座る。
あずけてある焼酎 「無双」 を、今日はソーダ割りにする。茄子とチタケの炒りつけ、おろぬき大根の葉のおひたしが運ばれる。枝豆とオクラとイカの天ぷらが珍しい。店主が僕に背を向けてピーマンの肉詰めを作っているので 「オレ、それ大好きなんだよ」 と言ってひとつもらう。
1975年、三重県尾鷲市にある自由学園の演習林で晩飯当番になったとき、僕はこのピーマンの肉詰めを作った。肉の側を下にしてフライパンへ並べ、蓋をかぶせて蒸し焼きにするという料理法をそのときには知らず、天ぷらのように煮立てた油に投入したそのピーマンの肉詰めはやたらと油をしたたらせていたが、同級生や上級生たちは日中に激しい労働をこなしたためか、何も言わずにペロリとそれを平らげた。
秋刀魚の塩焼きを注文し、合いの手に胡瓜と茄子のぬか漬をつまむ。春日町1丁目のアンザイさんとカトーさんが、ふたりだけで数日後にクルマで出かける青森への旅行について打ち合わせをしている。我が町から青森までの距離は、我が町から大阪へのそれとそう変わりないのではないか? しかも晩飯は行く先々の飲み屋、寝る場所はクルマの中、帰路は東北地方の日本海岸と太平洋岸をジグザグに縫うコースだという。大いに感心をする。
「ホタテの焼いたのちょうだい。仕上げに白いゴマ振って」
「ゴマ? だったらバターは使わない?」
「バター? いや、食い物はからだに悪いほど美味めぇんだ、バター載っけて。あとマヨネーズも」
「マヨネーズも? はい、わかりました」
生ホタテの醤油バターマヨネーズ焼きを、口から汁と脂を飛び散らせながら一瞬のうちに片づける。チビチビと食べるところに酒肴としての意味があるわけだから、このひと皿は酒肴としては失格ということになる。しかしバターと醤油の誘惑には勝てない。メシを所望し、貝殻に残った汁をダラダラーッとかけて今夜の締めとする。
帰宅してシャワーを浴びても8時にはならない。「チョートクのとうきょう散歩カメラ」 を2ページほど読んで就寝する。
4時30分に起床して事務室へ降りる。いつものよしなしごとをして7時に居間へ戻る。先日までの青い空と入道雲はどこへいってしまったのか心配になるような、どんよりとした曇り空が窓の外にはある。
朝飯は、茄子とチタケの炒りつけ、茄子の塩漬け、メカブの酢の物、納豆、プティトマト入りスクランブルドエッグ、菜の花の塩漬け、メシ、油揚げとワカメと万能ネギの味噌汁。
日曜日の午前中は丸山公園の市営プールへ連れて行くと、きのうから次男には約束をしていたが、今朝の曇り空にてその計画は中止にした。ところが9時30分ころより屋根に夏の日差しが射しはじめたため、やはりプールへ出かけることにする。
10時にホンダフィットを走らせて大谷川まで来ると、すでにして花火大会の準備が整いつつある。そのまま橋の上を過ぎて、プールで読むべき何の活字も持参しなかったことに気づくが、それだけのために引き返すことはできない。
空はいつの間にか晴れ渡り、蝉の声もかまびすしい。公園の駐車場から遊歩道を通ってプールの受付に2枚のシーズン券を差し出す。次男と共に長いスラーダーを1回すべり、小さなプールを泳いで縦断し、あとはずっとひとり木陰にて過ごす。そしてときおり雲の写真を撮ったり、あるいは寝そべった目の直近にある知らない植物をしげしげと見たりする。
夜7時になって、ようやくあたりが暗くなる。花火大会の始まりを、その音で知る。春日町の交差点から大谷川を目指して歩き、10分ほどで河畔へ達する。「みとや寿司」 の駐車場には河床のような桟敷ができていた。どのような理由によるものかは知らないが、花火の打ち上げは昨年よりもずいぶんと上流で行われている。次男はそのようなことよりも、露店での買物が気になってしかたないらしく、売り切れたら困ると、そればかりを言う。僕も別段、花火に格別の興味があるわけではない。
いそいそといま来たばかりの道を引き返し、鶏の唐揚げ、わたあめ、餅ポテト、かき氷、焼そばを買う。片山酒造の社長が生ビールを売っていたのでこれも買いたいところだったが、生憎と今日は断酒を決めていた。その代わりにサイダーを1本だけ購入する。帰着した店舗の駐車場はいつの間にか見物客の駐車場になっていた。
自宅4階の洗面所で手を洗いながら窓を開けると、ここからでも充分に花火を望むことができる。数年前にカトーノマコト本酒会員が発した 「獅子座流星群? テレビで見られますよ」 の名言を思い出す。露店で買った諸々、生麺製造業の福島商店で買った焼そばを食べ、サイダーを飲む。お盆が過ぎたら、昨年オフクロがノルマンディーから持ち帰った、現地の人がそこいらへんの空き瓶に手詰めをしたシードルを飲もうと思う。
入浴して本は読まず、9時30分に就寝する。