さきおととい28日の掃除の際に取り出した、お稲荷さんの中身については次男がこれを洗い、それらはきのうの午前に僕が元の場所へと戻した。しかし同じきのうの午後から夕方にかけては「日光の美味七選」の荷造りに忙殺され、正月飾りのための時間は割けなかった。
今朝、社内を回ると店舗、神棚、水神、地神、そしてお稲荷さんには間違いなく鏡餅が置かれていたからひと安心をする。
本日の店舗は正月の需要により、午前の早い時間から賑わっている。2種のフリーズドライ味噌汁のうち「日光湯波」の方が売り切れる。よって「日光湯波」と「イベリコ豚汁」の詰め合わせについては、その内容を「イベリコ豚汁」のみのお徳用として取り急ぎ僕が袋詰めし、店舗に出す。誰もが忙しいため「○○ちゃん、ちょっと作っといて」などと言っている場合ではない。
国道121号線沿いの落ち葉は、学校の寮から帰省した次男により1週間ほど前に掃き清められた。今日は中国の赴任先から帰省した長男が、隠居の庭の枯れ草刈りをしている。万事が、1月1日の午前0時に向けて動いているような気がする。
ここ何年ものあいだに大晦日の晩飯として定着した、鴨鍋と蕎麦を今夜も食べる。そして21時前に就寝する。
朝のうちに"EB-ENGINEERING"へ行くと、オーナー兼職工頭のタシロジュンイチさんは既に、"BUGATTI 35T"の冷却液とガソリンを抜き始めていた。きのうは前を走るクルマのオイルを浴びてウインドスクリーンが汚れた。よってボディを含めての、その拭き取り作業も依頼する。
一昨年の「阪納誠一メモリアル走行会」では、およそ1.6キロを走るあいだに1リットルのガソリンを費消した。この事実を受け、昨年からは大量のガソリンを会場に持ち込むこととしたが、折からの降雪にて午後の走行が中止され、その残余は今年の3.11直後に大いに役立った。
今年も同様にブガッティの、80リットルは飲み込めるであろうガソリンタンクを満たした上で、ジェリー缶2本のガソリンを持参した。
コース上でガソリンが枯渇してはいけないと、きのうは小まめな残量確認をタシロさんに頼んでおいた。その結果、今年は極端に燃費の向上していることが判明した。一体全体、燃料の消費量がいきなり4分の1ちかくになるなどということがあるだろうか。このあたりについては今後、詳しく検証をする必要がある。そして余ったガソリンの一部をホンダフィットに移してもらう。
午後より「日光の美味七選」の荷造りに、製造部長のフクダナオブミさんと共にとりかかる。これが非常に手間のかかる仕事にて、17時になっても終わらない。集荷に来たヤマトのドライバーには、荷造りの完了しているもののみ持ち帰ってもらう。そして更に荷造りを続け、残ったものについては18時もちかくなるころこれを三菱デリカに積み、僕と次男がヤマトの日光営業所まで届ける。
店舗や事務室の柱飾りや熊手、また神棚の棒飾りなどは毎年、僕がこれを取り付けてきたが、今年は荷造りに忙殺されてそれができなかった。それらについては僕の見えないところで、誰かが代行してくれたのだろう。有り難いことである。
"Belstaff"の、分厚い木綿地にたっぷりとワックスを染みこませた重いライダーズジャケットを着てホテルの部屋を出る。昨年は雪に見舞われた「ツインリンクもてぎ」だったが、今日は首尾良く快晴に恵まれた。
朝日が斜めに差すパドックに、"EB-ENGINEERING"のタシロジュンイチさんが"BUGATTI 35T"をトランスポーターから下ろす。
タシロさんは続いてスカットル左側にあるポンプを何度も突き、運転席後部のガソリンタンクに空気を圧送する。次は運転席右下に敷かれたガソリンパイプのバルブを開ける。そして右側のボンネットを開け、キャブレターからガソリンをフラッドさせる。
カムシャフトに直結され、スカットルを貫通したディストリビュータ直下にある電気のスイッチをオンにすれば、エンジンを始動するための準備は完了する。ここでタシロさんははじめて車体の前に回り、クランクを回す。冬の朝の気温はさすがに低く、エンジンオイルは固い。すかさず僕は運転席に着き、クラッチを床まで踏み込む。それでもなおクランクは軽くならない。
そうするうち出走の受付とドライバーズミーティングの時間が迫る。次男と共にミーティングルームに入り、津々見友彦による規則説明を受ける。そしてピット戻ってクラス別の出走表を壁に貼る。
結局のところエンジンは、軽い押しがけにより轟然と目覚めた。僕は操縦席を降り、そこにタシロさんが乗り込んでパドック内を試走する。
走行については「50-60年代の一般車」「50-60年代のレーシングカー」「ヴィンテージ」「同乗走行」の4種に区別して、各々20分あるいは25分の時間が割り当てられている。「一般車」とはいえ本日の集まりの性格上、クルマの種類は限られる。
ヴィンテージクラスの出走は9時50分に開始をされた。我が"BUGATTI 35T"は今春、これまで鉄製だったガソリンタンクをステンレス製の新造品に載せ替えた。秋にはタペットのクリアランスを調整した。その作業を担ったタシロさんが、僕に先立ちコースへ出て行く。
本日、我々に許された出走時間は午前に65分、午後に65分の計130分だ。そのうち同乗走行の時間には次男や、2006年から来てくれているモモイシンタローさんを助手席に乗せ、あるいはタシロさんの操縦する助手席に僕が乗る。
この"BUGATTI 35T"を毎年のように走らせていたのは1980年代のなかばまでで、その後は1990年代の中頃に一度、日光サーキットでのイベントに参加をした記憶がある。それからほぼ10年のあいだ、この古いクルマは車庫で眠っていた。そして2006年12月から再びサーキットに戻り、以降の様子はこの日記の各年12月末の部分にある。
初めはオオエナガシさんと弟子のタシロジュンイチさんが、そして数年後からはタシロさんがひとりでこのブガッティに手を入れ続けてきた。その継続が実り、今年の"BUGATTI 35T"はこれまでで最高の能力を発揮している。
エンジンは、3速で4500回転まで回しても不安はない。ツインリンクもてぎのホームストレッチは短く、そこからトップの4速に上げるとほどなく信号下を通過し、第1コーナーが目前に迫る。鈴鹿サーキットでなら、4速の限界が試せるかも知れない。
ツインリンクもてぎの西コースでは、第1コーナーを常に3速3000回転で抜けること、西コースの、逆バンクの最終コーナーは常に3速2700回転以上で駆け上がることを来年の課題としよう。
毎年のことになるが、"BUGATTI 35T"は50台を超える参加車の中でもっとも長いあいだサーキットを周回した。そして日が西に傾くころようやくエンジンの熱を鎮め、帰路に着く。
次男に手伝ってもらい、神棚とお稲荷さんの掃除を朝からする。お稲荷さんを綺麗にするには水で丸洗いするのが一番とは、長い経験から僕が体得したことだ。現在の湿度で30日までおけば社はその中まで完璧に乾く。そうしたところで、乾拭きして事務室に保管しておいた中身を戻すのだ。
僕が常づね食べて「美味しい」と感じている日光の優れた産物を、各々のお店の人にお願いして集め、大晦日に40セット限定でお届けする「日光の美味七選」の注文をウェブショップ全体の注文からより分け、コンピュータ内のある場所に移す。そして注文者名、ヤマトの伝票番号、到着希望時間帯、必要なものについては備考までを、ひとつのフォーマットにまとめる。
12月30日に荷造り出荷するこのセットには年越し蕎麦が含まれるから、お客様のお手元には必ず大晦日にお届けしなければならない。本日午前に作成したフォーマットは、その荷物の追跡調査や到着確認をするためのデータベースである。
"EB-ENGINEERING"のタシロジュンイチさんが、国道121号線向かいの駐車場にトランスポーターを乗り入れる。そしてこれに次男と同乗する。出発は15時20分だった。そして16時30分に「ツインリンクもてぎ」に達する。
「ホテルツインリンク」のバンケットルームで開かれた「阪納誠一メモリアル走行会」の前夜祭では、今年は特に、東北地方の復興に役立てていただくためのチャリティーオークションが催された。
ここで酒の勢いも手伝って、僕は"TEAM LOTUS"の"CHAPMAN CAP"を落札した。ところがこれが席に届いてみればサイズは"XL"で、僕の頭にはバクバクだった。試みにタシロさんに手渡すと、タシロさんの頭には、これがまるで誂えたかのようにピタリと収まる。
というわけで、グランプリで優勝するたびコーリン・チャップマンが空へ向けて放り投げていた黒い帽子は、明日はタシロさんのものになっているかも知れない。
店舗外側の花を頼んでいるユミテマサミさんが、午前中に万両を届けてくれる。これと門松とが並べば、それはもう正月の風景である。正月の風景とはいえ万両は丈夫な植物である。お彼岸のころまでは保つかも知れない。
からだが酸素を欲しているのか、やたらと深呼吸がしたくなる。見たこと聞いたことはあるが経験したことのない酸素カプセルに入れば、気分もいくらかは落ち着くのだろうか。
ウチは新鮮な商品のみを販売することとし、繁忙期においても商品の作り置きはしない。そのため製造計画に少々の見込み違いがあれば即、売り切れが発生する。本日は地方発送に充当する「らっきょうのたまり漬」が足りなくなり、店舗からそれを補充する。すると店舗に売り切れの赤信号が点る。そのため荷造り場と店舗とのあいだを何度も行ったり来たりする。
明日すべきことも、いろいろとある。それらをメモにまとめ、夕刻に事務机の上に置く。
本日は次男の16歳の誕生日にて、次男の同級生タカマツヨッチの家に河豚を食べに行く。僕は、ふぐ刺しについては「どうぞ好きな人が食べてください」くらいのところだ。そして焼き白子や唐揚げのあたりから卓上に箸を伸ばし始める。鍋は嘴のところが好きだ。鰭酒は3杯を飲む。
鰭酒3杯を飲んだにもかかわらず、今夜はいつまでも眠気は訪れない。昼の興奮が残っているのだろうか。そして結局のところは、朝がちかくなるまで起きている。
深夜0時ごろに目を覚ます。喉の痛みはますます増し、唾を飲み込むことができない。そうして1時間ほどもじっとしていると、口のなか一杯に唾が溜まる。「寒いんだろうなぁ」と考えつつ意を決して洗面所へ行き、その唾を吐き出し口を漱ぐ。
ことし7月22日の夏風邪の折、ハセガワ薬局から処方された薬のうち「疼痛時または発熱時」と袋に印刷された頓服が丸々残っていた。これをホットミルクと共に飲み、ふたたびベッドに入る。
絹のパジャマを着ている。頭には、本酒会のビンゴで当てたクリスマスの、不織布による赤い帽子を被っている。そのパジャマと帽子が、頓服が効いてきたか、ふと気づくと汗に濡れている。よってパジャマを木綿のものに着替え、帽子は脱ぐ。
朝になると、からだが随分と楽になっている。朝飯の豚の卵とじ丼が美味く、これをかなりの勢いで食べる。そして「メシがこれだけ美味くちゃ、仕事を休んでる場合じゃぁねぇわな」と、事務室に下りる。
午前にセキネ耳鼻科で診察を受けながら「ここで寝込むわけにはいかないので、注射とか…」と先生に水を向けると「その必要はない」と、あしらわれる。強い薬を使わないところが、ここの先生の良識である。
午後まで何不自由なく仕事をこなし、終業後は、本日出勤の社員たちとのミーティングに臨む。
からだの調子が良いと、酒が進む。からだの調子が悪いと、断酒ができる。本日はきのうに続いての断酒にて、うたた寝をすることもなく、遅い時間まで本やインターネットで調べごとをする。
「クリスマス前後の日本列島は大荒れ」との天気予報をテレビで見た気がする。しかし日光は快晴にて、事務室には朝日が差し込んでいる。
その、日の光を愛でていた朝方こそ調子も良かったが、昼前から背中に寒気を覚え始める。喉も痛くなってくる。「オレの喉のばい菌が染らないだろうか」と心配をしながら、ザルにひと盛りにした蕎麦を昼に次男と食べる。
この冬は、これまで"UNIQLO"のヒートテック、同じくフリースの2枚で足りてきた。しかし午後からは"mont bell"のダウンベスト、正確に言えば中に詰められているのはダウンではないからダウンベストでもないのだろうが、これを重ね着する。
喉の痛みはますます激しく、からだもだるい。よって終業後はすぐに風呂の用意をし、熱い湯に長い時間つかる。そのあいだに2度、イソジンでうがいをする。
子供のころ、学校で予防注射をしたときには決まって「今夜の入浴は避けるべし」と、保健室の先生に念を押された。今はそんなことは言われない。風邪をひいたときにも風呂には入るなと注意を受けた。これも、今の医学ではどうなっているのだろう。
ことし夏風邪をひいた折、セキネ耳鼻科の処方箋によりハセガワ薬局から処方された薬が首尾良く残っていた。その袋には「空腹時を避ける」と印刷されているが食欲はない。よってホットミルクと共にこれを嚥下し、早々に寝る。
おととい帰宅したときには既に咳をしていた次男を、セキネ耳鼻科に連れて行く。はじめは僕も満員の待合室にいたが、咳をする人がそこここにいたため、途中からクルマに戻って次男を待つ。その次男は「どこも悪くない」と先生に太鼓判を押され、喉に薬を塗られるでもなく、処方箋をもらうでもなく院外に出てきた。
日が落ちればクリスマスイヴにて、終業後に自転車で"Chez Akabane"に行き、予約しておいたケーキを受け取って戻る。
居間へ向かう途中でワイン蔵に寄る。シャンペン1本を棚から引き抜く。居間では「食卓に運ばれたばかりの鶏のソテーが冷える前に…」と、いささか焦燥しつつ栓を抜く。そしてグラスの中身を口に含み「やっぱモエは美味めぇな、今度から頒布会なんかで他のシャンペンを買うことは止めよう」と考える。
鶏のソテーにかけまわされている、トマトとブラックオリーヴのソースが美味い。「鶏モモの串焼きに、こんなソースを載せてくれる飲み屋はねぇかな」というようなことも考える。そして今日もまた、丸いチーズ1個をひとりで食べてしまう。
昼飯どき、幅の広いうどんの鉄板焼きを見て「そうか、次男の好物か」と合点をする。次男は昨夜、薄いスウェットパーカを着て帰宅した。2学期のあいだは1度も家に帰らず、当方も気が回らず、だから寮のロッカーに冬の服は一切、なかったのだろう。
「あした、冬の上着を買いに行こう」と家内が言うので「オレの、緑のマウンテンパーカ、なかったか」と口を添える。
「シェラデザインのマウンテンパーカほどすぐれた衣服を僕は知らない」と書けば、それはいささか大げさな物言いになる。しかし先日ある晩、湯島の天神下から切り通し坂を上がりながら時雨に見舞われ、だから即そのフードで頭を覆って「これほど気に入って長く愛用する服は、オレの人生には2度と現れないのではないか」と考えた。
シェラデザインのマウンテンパーカは初め、緑色を買った。それから数年を経たある雨の日に、屋根のない古いクルマをサーキットで走らせる機会があり、そのときこれを着用したところ水と油でドロドロになった。よってこれを家の洗濯機で丸洗いしたら随分と縮んだため、いまだ大人にはなっていなかった長男に譲った。
2代目のマウンテンパーカにも緑色を選んだ。他のコートを買おうなどとは一切、思わなかった。そして数年を経たところで、このパーカは忽然と姿を消した。
時間の管理能力に優れた人ほど安く物を買うことができる。卑近な例を挙げれば、乗り物の早割がそれにあたる。整理整頓の能力に優れた人ほど節約ができる。重複して物を買う愚を犯さないからだ。
マウンテンパーカが姿を消したままでは冬を過ごせないから、僕は3代目の、しかし今度は黒いマウンテンパーカを買った。そして数年を経たところで家のどこかから、見慣れた緑色のマウンテンパーカは発見された。
というわけで、冬の上着など買いに行く必要はない。緑色のマウンテンパーカは、これから何年ものあいだ、あるいは10年以上も次男に愛用されるかも知れない。
門松は、3日前の大安の日に届いた。いささか早いような気もしたが、クルマに乗って小倉町の交番前を通過すると、ここにも門松が立っていたから、まぁ、ウチだけが早すぎるわけでもないのだろう。
「クリスマスのころまでは忙しい」とは毎年、社員に伝えていることだ。今年も例年どおりになるかどうか。クリスマスを数日後に控えた現在の社内は、いまだ忙しい。
"RICOH CX4"の調子がこのところ良くない。撮影したものがモニターに表示されるまでに時間がかかりすぎる。また、シャッター速度が400分の1を超えても手ぶれ注意の表示が出る。「いつごろ買ったんだっけ」と、この日記を検索すると、購入からいまだ9ヶ月しか経っていない。「ということは、修理費はタダか」と、銀座にあるサービスセンターの風景を思い出しながら考える。
本日は冬至にて、これから昼の長さが漸増すると思えば嬉しくて仕方がない。そして夜は柚子湯に入る。
長男の、大学院の卒業式に着ようとして、ことしの2月ごろ"UNIQLO"の安売りで九百何十円かのジャケットを買った。その卒業式は、3.11の大震災のあおりを受けて中止された。宙に浮いたジャケットは購入から9ヶ月を経て、オヤジの七回忌に初めて袖を通すこととなった。
その、九百何十円かのジャケットではさすがに寒かろうと、今日はツイードのジャケットを着て上り特急スペーシアに乗る。そして、ひばりヶ丘、神保町、日本橋と歩く。
ジャケットの下にはワイシャツを着ている。ワイシャツの下には何も着ていない。首や胸元はマフラーに覆われているが、ジャケットのボタンの下で合わせが割れるあたりの腹は、外気とは木綿1枚を隔てるのみだからいささか寒い。
そして北千住にてチューハイの「ナカ」5杯を記録し、23時前に帰宅する。
繁忙とは案外、単調なものだ。若いころの12月といえば、1週間ずっと会社の敷地から出ないこともあった。
今でも12月ともなれば、来る日も来る日も様々なことが起き、その様々なことが全体として塊のようにして身に迫る。日中は細かいあれこれに逐一対応しながら、しかし夕刻に至ると、なにやら大きな塊を相手に神経や肉体を緊張させていたような、つまり単調な1日を過ごしたような印象が残る。
そして「まぁ、酒でも飲もうや」ということになる。
夜に長袖の、花柄のアロハを着て、フランス料理の"Finbec Naoto"に出かける。褒められたことではないも知れないが、僕が夜に訪れれば、そこがどんなところだろうと、まぁ、こう言っては何だけれども酒飲み場になってしまう。
今夜のワインはスイスイと進捗して「いやぁ、相手が酒飲みだと、やっぱり違うねぇ」と、大いに感心をする。
ポインセチアといえばクリスマス、という印象がある。しかしこの植物は寒さに弱い。氷雨や雪が当たれば即、その部分が黒変したり枯れたりする。店舗の入り口を飾るそれも、随分とくたびれてきた。正月用の千両を待つばかりだ。
「待つばかり」と書いたたろころで「松」の字が頭に浮かぶ。門松が届くまでに、もう何日もないはずだ。門松といえば鏡餅だ。ウチの鏡餅は「日光の美味七選」の重要な一角を担う和菓子屋「久埜」のものだ。押し迫ってからでは迷惑がかかる、早めに注文をすべく、そのことをポストイットに記して事務机の計算機に貼る。
「飲んじゃ日本酒がいちばん美味いわな」とは税理士スズキトール先生の言ったことだ。日本酒の美味いことは僕も知っている。しかし家で僕が和食に合わせるのは常に芋焼酎だ。
日本酒の美味さにくらべると、芋焼酎のそれはすこぶる難解である。にもかかわらず自分はなぜ芋焼酎を常用するか、そこのところがいくら考えても分からない。
今夜は珍しく、ワイン蔵から居間へ日本酒を運ぶ。そしてついハカがいって、四合瓶の4分の3を費消する。
子供のころ夏休みともなると、オフクロの木更津の実家には、あちらこちらからいとこたちが集まって、まるで寺子屋のように賑やかだった。その小学生の集団が、当時はいまだ泳げた木更津の海へ行き、帰りに街の食堂などに入ると「お昼時の食べ物屋さんは忙しいんだから、みんな同じものを頼みなさい」と、オフクロに言われた。
「商売家に迷惑をかけるな」「商売家の利益を減らすようなことはするな」ということが僕には身についていて、その習性というか考え方が"amazon"の、「1Clickで注文:お急ぎ便送料無料!」のボタンを押そうとする手をしばしば押しとどめる。
"amazon"では、以前は本の代金が1,500円を超えてはじめて送料が無料になった。しかし今では数百円の品にも、気づけば「送料無料」の文字がある。
数百円の本の粗利はどれほどだろうか、そしてそれ1冊を当方に届けるための送料はいかほどだろうか。"amazon"の薄利さ加減を考えると、どうにも数百円の本1冊のみを注文する気は起きず、他に抱き合わせで送らせられるものはないかと探し回り、それが見つからないから、結局は欲しい本も買わずに諦める。
「お急ぎ便送料無料」については"amazon"が積極的に展開していることだから、利が薄かろうが経費が余計にかかろうが、"amazon"としてはできるだけ多くの商品を売りたいのだろう。そして何も考えない人や、消費者こそ神と考えている人たちは、数百円の本を、1冊ずつ、飛び飛びに、その時々に「送料無料」で買って恬淡としていられるのだろう。しかし僕には無理だ。
というわけで僕はここ何日ものあいだ950円の「歩くソウル 2011-2012」を買えずに困っている。手に入れるためには「丸善」や「ジュンク堂」に、これを探さなければならない。
店舗の外壁で、季節の書「冬耕」が朝日を浴びている。社内の神棚や要所を飾るお札や幣束は、総鎮守瀧尾神社から、きのうヤギサワミツグさんが届けてくれた。店内のショーケースには、ワインらっきょう"rubis d'or"が、クリスマスのリボンを巻かれて並んでいる。
街のスーパーマーケットにクリスマスソングの聞かれないのは、3.11の震災に対しての、これも自粛なのだろうか。
夕刻、いまだ西の空の赤みをその面に映す、鬼怒川のほとりの料理旅館に入る。そして僕にとっては本年最後のものと思われる忘年会に連なる。日本人ばかり24名の集まりだったが、日本酒を飲む者は僕も含めて3名のみだった。
注いで注がれて、注がれて注いで。僕は席を回って酌することを好まない。日本酒を飲む3名がほぼ隣や向かいにいたのは幸いだった。
帰宅して後は甘いものを肴にコニャックを飲み、早々に就寝する。
「restaurantとcanteenの違いは何ですか」と、高等学校何年生のときかは忘れたが、同級生が英語のアカギヒデヤ先生に質問をした。先生は1、2秒ののち「帽子をかぶったまま食事のできるところがcanteenでしょうか」と、お答えになった。
ビデオに撮っておいた「酒場放浪記」の鶯谷「ささのや」編を夜に観る。鶯谷といえば中村不折であり、正岡子規である。その子規庵に、いつものハンチングを頭に載せたまま吉田類が上がり込んだから思わず「バカ、帽子、脱げ」と、突っ込みを入れる。
「canteenは帽子をかぶったまま食事のできる施設」とはアカギ先生の、アメリカにおける経験から導き出された解釈だろう。その圧倒的影響力により世界中の行儀を破壊し続るアメリカ人の真似を、日本人がすることはない。日本人ならたとえcanteenででも、帽子は脱ぐべきと僕は思う。
いわんや、いやしくも俳句の愛好会を主催する吉田類が子規庵に帽子のまま、などは、アメリカ人にも嗤われかねない暴挙、である。
「朝日新聞」の朝刊1面に「牛レバー内にO157 生食禁止の可能性」の大きな文字がある。何年ほど前のことだっただろうか、保健所の講習に出た際に、係官がかなり露骨なことばを使いながら「牡蠣はそのうち生食が禁止されるかも知れない」と言っていたことを思い出す。
1980年8月、僕はアメリカの西海岸で、古いクルマのレースや博物館を訪ねながらカーメルに寄った。この街で、駐車違反を取り締まる係は電気カートに乗っていた。閑静な並木道の料理屋に入ると、真夏にもかかわらずメニュには生牡蠣があった。気味悪がる同行者を無視して半ダースを注文し、僕は5個、同行者は1個を胃に収めた。その晩、同行者は下痢を起こして5回も便所に通ったという。そして僕の腹には何の変調も起きなかった。
若竹煮、きぬかつぎ、ホタルイカの釜揚げ、小鰭酢…料理屋の品書きにこれらを見ると、僕はそれを頼まずにはいられない。冬のフランス料理屋に生牡蠣があれば…こちらも右へならえ、である。
渋谷の河豚屋で、こっそりと禁制の部位を食べていたことを、団鬼六はみずからの本に書いている。レバ刺しも生牡蠣もそのうち、こっそりとしか食べられないものになるかも知れない。
先月、仕事の合間に須田町の"patagonia"で見たときには「こんなに薄いのに、随分と高けぇな」と食指の伸びなかった"Houdini Full-Zip Jacket"だが、"patagonia"の公式ページを調べてみると、これほど多くのレビューを集め、そしてそのほとんどが5つ星という商品は他にない。
よって検索エンジンで安い店を探して注文し、するとそれはすぐに届いた。よってその、カゲロウの羽のように薄いパーカを着て夜の街に出る。そして小酌のための店へ移動しながら、その性能を試験する。
「いきなり寒くなっちゃったですね」とは、12月に入るころから街で聞かれ始めた挨拶だ。しかし1月2月のことを思えば、いまの気温など大して低くもない。あるいは年が明けても、それほど冷え込まないまま春になってしまう可能性も少なくないのではないか。
四季のある国では、季節ごとの差が際立たってこそ、文化や経済の活動もより盛んになると思うがどうだろう。
残業した社員が家に帰るころ、僕も外へ出て会津西街道を北上する。「北上」とはいえ長い坂を下って大谷川にいたり、長い橋を渡って大谷向町に至る。そして「玄蕎麦河童」にて、僕が書記を務める、日本酒に特化した飲み会「本酒会」に出席をする。
本日飲んだお酒の中で特に印象に残ったのは「新政酒造」の「崑崙」だった。やわらかくまったりとしながら抜栓時に二次発酵を起こしたような感触を舌に残すそれは、決して訪れることのできない西方を思わせて不思議な味わいだった。しかしもしこのお酒の名が「崑崙」ではなく「シャングリラ」だったら僕の感想はどうだったか。
その名によりお酒の味わいが変わるとすれば「オレの舌も大したことはない」と言えるかもしれない。あるいは「人は舌だけで酒を飲むものではない」とも、また言えるかも知れない。
中国に赴任して2ヶ月ほどを経た長男から突然、昼ごろに電話が入る。勤める会社の社長から「たまには家に電話を入れろ」と言われてのことだという。
通じさせようと思えばいつでも通じると、実は思い込んでいるだけなのかも知れない携帯電話というものがあるから、長男が赴いている土地の名はおろか住所も知らずに平気でいる。ひと昔の人からすれば、これはかなり奇妙なことに違いない。
長男はこの暮の、帰宅できるであろう日を告げて電話を切った。
当方の仕事は相変わらず忙しく、今夜のメシは遂に宅配ピザになった。とはいえ宅配はさせない、そう遠くない店のピザであれば、できるだけ出来たてを食べたいからこちらから受け取りに行き、急ぎ戻ってワインと共にそれを食べる。
食後、おとといから取り置いている12月11日の「朝日新聞」書評欄を読み直す。新聞や雑誌の書評には、これに触れるたび欲しい本が数冊はあらわれる。しかし買わない。あるいはせいぜい"amazon"の「ほしい物リスト」に納めるのみにとどめる。
僕の本棚には読もうとして読めないままになっている本がたくさんあるのだ。「そのようなものを更に増やしてどうする」という気持ちが、注文ボタンをクリックしようとする指を押しとどめるのだ。
1991年4月、僕はカトマンドゥで扁桃腺を腫らし、38℃を超える熱を出した。市北部にある大きな病院を訪ね、診察を受けると共に薬の処方箋をもらった。極彩色の溢れるバザールで指定の薬2種を買い、しかし何かを胃に入れなければそれを飲むことができない。
そのとき泊まっていたホテルは食堂が改装中で、調理場は屋上に移されていた。その屋上でメニュを検分し、選んだのが"tomato egg drop soup"だった。そして今朝も別段、からだの具合が悪いわけではないが、おなじスープを飲む。
1991年4月のことに戻れば、インド製の強力な薬のお陰か、僕の高熱は翌朝には治まっていた。そして早くもレインコートを着て、バクタプールの強い雨の中を歩きまわった。薬の残りは大切に保管し、帰国後にすこしずつ使った。
"tomato egg drop soup"を飲むたび僕は、高熱を発し困惑していたカトマンドゥでのことを思い出す。それにしても、あの薬は強力だった。病気は治すが命は縮めるたぐいのものだったのだろうか。
幼稚園のころ、オフクロに連れられて教会のクリスマス会に行ったことがある。まわりの大人や子供たちはおしなべて楽しそうにしていたが、僕は「あー、はやく帰りたい」と憂鬱だった。
小学生のころ、オヤジの所属する団体の、会員の家族も招待される、牧場でのリクリエイションに参加をしたことがある。午後のひとときだっただろうか「七面鳥…赤くなったり青くなったりで色鉛筆」などという謎かけくじ引きの輪を離れて僕はひとり牛舎に入り「牛の口に手を突っ込んでも噛まれることは決してない」ということを発見したりしていた。
真面目な団体や、内実については詳らかではないがとにかく外づらは真面目、というような団体を苦手とする僕の体質は、子供のころからのものである。
町内役員の忘年会は、真面目な集まりでも、また内実については詳らかではないがとにかく外づらは真面目な集まりでもないから、18時前からいそいそと公民館へ出かけ、あれこれ話しながら3時間も楽しく飲み食いをする。
今朝のメシは事務室でのおむすびだった。1905年5月27日、日本海海戦初日の、帝国海軍の朝飯もおむすびだったと仄聞するが、真偽については知らない。とにかく日光には、きのうとは打って変わって晴朗な空が広がっている。
この時期のウチは、外から見える部分つまり店舗は静かでも、製造係と包装係は忙しい。頻繁に鳴る電話により、事務係は発送伝票を作成する作業がなかなか進まない。そして僕は頻繁に、それぞれの現場を見に行く。
このところの晩飯は、外食と鍋のあいだを行ったり来たりしている。外食とはいえ会社を出る時刻が20時を過ぎれば、個人営業の店の中には仕舞いはじめるところも出てくる。もとより、晩飯のために遠出をしている場合ではない。
そんなことよりも先ず、仕事のあることに感謝をすべきだ。僕の年末がヒマあれば、かなりの寂しさを覚えるだろう。寂しいだけなら良いが、仕事とは畢竟、経済活動である。
そういう次第にて夜はおでんの鍋に安い鴨肉を投入し、これを焼酎の肴とする。
目を覚ますと薄闇に、外を走るクルマの、路面の水を切る音がする。「雨か」と考えつつ服を着て部屋の明かりを点け、廊下の明かりを点け、仏壇のあるおばあちゃんの応接間の明かりを点ける。
仏壇に水とお茶と線香を上げ、ふと気づいて先ほど顔を洗った洗面所に戻り、窓を開ける。外には、日が昇ればすぐに解けてしまうほどの雪が積もっていた。そして目をいくぶん遠いところへ向けると、里山の雪は、街なかのそれよりもかなり多い。いよいよ冬の到来、である。
「はい、明日出荷、明後日必着でうけたまわります」」と、電話による地方発送の注文を受けているうち、受注メモが箱に積み重なったことは、きのうの日記に書いた。そのメモが発送伝票に転記され荷造りの現場に運ばれ、本日夕刻の17時20分になっても、いまだ残っている。ヤマトのドライバーは後の仕事もあるから「お待ちしても5時半ですね」と言う。そしてここで荷造り係の残業が決まる。
18時を回ったところで荷造りの完了した荷物を僕は三菱デリカに積み、ヤマトの日光営業所に持ち込む。話はドライバーから通っていたらしく、営業所のオネーサンは甲斐甲斐しく、クルマの荷物を営業所内に運び入れてくれた。
暮のギフトも佳境に入ってきた今日このごろ、である。
"facebook"経由で忘年会への誘いがいくつか入っている。年末の、地元以外での飲み会に僕が出ることはできない。
「はい、明日出荷、明後日必着でうけたまわります」と、電話による地方発送の注文を受けながら、紛失を避けるためオレンジ色の紙を用いたメモにペンを走らせる。そのメモが、みるみるうちに箱に溜まっていく。注文の電話を切ると即、次の電話が鳴る。ウチの会社に忘年会はない。年末はひたすら、お客様の需要に応えるのみ、である。
年末はほとんどどこへも出かけず、会社の敷地内で1日が完結してしまうことも少なくない。よって夕暮れどきから深夜まで飲み歩き、ハシゴをするうちポロポロとサイフからお金の出ていくようなことはない。しかし先日は、治療を受けている歯医者で金冠を頼んだ。これはちょっとした出費になるだろう。
どこにも行かずただ仕事をしていると、ついネット上で買い物をしてしまう。それも、気に入ったセーターを色違いで買うようなことを僕はしてしまう。注意しなくてはならない。
集合写真を撮るため集めた「日光の美味七選」の品々のうち、「松葉屋」の刺身湯波、「三たてそば長畑庵」の蕎麦、「晃麓わさび園」の生わさびを昼に食べる。
蕎麦は12月30日に打ったものを、お客様には翌日にお届けする。つまりお客様は作られてから1日を経た蕎麦をお召し上がりになるわけだが、僕は敢えてそれよりも条件を厳しくし、2日を経た蕎麦を食べてみた。
茹でたての蕎麦がざるに盛られて居間へ運ばれるなり、あたりには濃い蕎麦の香りが漂って、思わず「おぉ、すげぇ」と声が出る。「三たてそば長畑庵」の蕎麦には繋ぎに鶏卵が用いらている。それが、蕎麦の艶と舌触り、そしてのど越しを素晴らしく良くしている。
、「松葉屋」の刺身湯波は、いつもと変わらずの美味さ、そして蕎麦と刺身湯波の風味を劇的に引き上げるのが「晃麓わさび園」の生わさびだ。
「日光の美味七選」は明日の昼に、メールマガジンによる告知を以て限定40セットの販売を始める。いつ売り切れるか分からないので、数日はコンピュータに張り付いている必要があるだろう。
僕が普段から食べて「美味しい」と感じているもの、地元で、その姿勢を僕が実際に見ているお店の優れた品々を、各々のお店の人にお願いして集め、大晦日に40セット限定でお届けしている「日光の美味七選」の、今年の集合写真を撮る。
その内容は「松葉屋」の刺身湯波、「三たてそば長畑庵」の蕎麦、「晃麓わさび園」の生わさび、「一秋庵久埜」の栗きんとん、"Chez Akabane"の生チョコレート、「洋食金長」のステーキソース、ウチからは「浅漬けらっきょう浅太郎」と「おばあちゃんのホロホロふりかけ」、そして「このセットをご注文くださった方々へのプレゼント」としてお入れする「片山酒造」の原酒というものだ。
昨年はメールマガジンで告知をしたところ、ごく短い時間で完売となり「メールを見落としていた、何とかもう1セット工面してくれ」というお客様もいらっしゃった。年末の忙しい時期に個人が身を削って作っている品だけに「そこを何とか」と言われても、どうなるものでもない。
春日町1丁目の青年会がソウルへ行ったのは2007年2月のことだった。あのときは総鎮守「瀧尾神社」の1年間の祭礼を仕切る「当番町」を無事に勤め上げた慰労の意味があった。このところその青年会にまたぞろ韓国行きの話が持ち上がり、今夕の忘年会の席で、その日程を詰めていく。今回の名目を幹事役のユザワクニヒロさんに訊ねたところ「新年会をかねて」とのことだった。
日本から最もちかい外国は韓国だ。そして僕は齢50を過ぎるまで、この国に足跡を印し得なかった。2007年の2月に行けて良かったことの随一は、同国の国宝認定第1号にして、翌年2月に焼失することとなる「南大門」に間に合ったことだ。
来春のソウル行きの日程は未定ながら「あちらに行ったら、オレは何をしよう」と考える。まぁ、散歩、本読み、メシ食い、酒飲みといったところだろうか。町内青年会の旅行はメシ時に集合するだけで、残りの時間はすべて個人に委ねられる。僕のような、勝手気ままにしたい者にとっては好都合きわまりない。
料理が好きではなく、だから料理に身の入るわけでもなく、しかしメシは食っていかなくてはならないから身過ぎ世過ぎで飲み屋をしている、そういうオバサンの店に、何かの拍子に入ってしまうことがある。そしてそういうオバサンの店には大抵、ハムエッグがある。
ハムエッグなどというものを飲み屋で出すとはとんだ了見違いだ、とは思うものの、目には見えない、理屈では分析できない強い力に吸引されるようにして、そのハムエッグを頼んでしまう。そしてそれをチューハイの肴にする。いとわろし。付け加えれば、この場合の「わろし」は枕草子の時代とおなじ褒め言葉である。
盛り場にあるサウナ風呂で人知れず酒を飲む。これほど精神を慰撫する行為があるだろうか。そしてサウナ風呂の食堂にも大抵、ハムエッグがある。ここでも僕はまた、それを頼まずにはいられない。
お客様から注文の電話が入る。その内容をメモに残す。メモを発送伝票に起こす前に次の電話が入る。この繰り返しにて、メモばかりが箱に溜まっていく。残業をしてもメモはなかなか減らない。
そういう次第にて、夕食にはハムエッグを用意するよう家内に伝える。
料理の下手なオバサンの飲み屋で「スパサラ」などというものを壁の品書きに見つけ、これを頼むと、茹でたスパゲティにマヨネーズを加えてグジャグジャに混ぜただけ、というようなものが出てくる。そしてこれがなかなか悪くなかったりする、というようなことも家内には伝える。
料理の下手なオバサンの飲み屋やサウナ風呂で食べるハムエッグは、とんかつソースとマヨネーズをグリグリとかけまわすと、なぜかしみじみと美味い。それを家の食卓に再現しようとして、しかし家ではどうしても、侘び寂のあるハムエッグは再現できない。スパサラについても同じである。
料理の下手なオバサンの飲み屋は、よほどの行幸に恵まれない限り、これに遭遇することは難しい。内田百鬼園や江戸川乱歩や寺山修司の本を開くとページとページのあいだに脚の突っ込める裂け目があり、その裂け目から彼らの世界に入っていく。そうるすと、彼らの描く街には僕の目指す飲み屋がある、そんな気もする。
「日はまた昇る」のブレットが一度に何杯のドライマーティニを飲んだか、その記憶はないが、とにかく、このカクテルのはかどる晩は、なかば酔いながら「危ねぇぞ」と、役にも立たない警戒が脳の片隅に点滅する。
昨夜のドライマーティニは4杯を数えた。「コスモス」のレシピは知らないし訊きもしない。あるいはジンを1合ちかくは飲んだかも知れない。それにしては今朝の目覚めは爽やかだった。そして店の犬走りに柄杓で飲む仕込み水がヤケに美味い。ドライマーティニのお陰である。
その店は、午前中から明瞭に客単価が高い。それはひとえに、大口のお客様の多いせいだろう。そして店舗、事務室、製造現場、包装部門などを行ったり来たりする。
午後2時もちかくなるころ。昼のカレーうどんを食べようとした途端に館内電話が鳴り、店に呼び戻される。何事かとエレベータで1階に降りてみれば、それは常連のお客様から僕に指名がかかったためで、有り難いことと感謝をする。
日曜日にもかかわらず、社内の3つの部署は残業をした。正月までひと踏ん張り。いや、ひと踏ん張りを何回かは繰り返す必要があるだろう。
「東日本は大荒れ」と、テレビの天気予報は言っていた。しかし日光には、穏やかな雨の降るばかりだ。店舗駐車場の一角には紅葉の葉が、僕には知り得ない幾種類もの苔の上に吹き寄せられている。
犬走りを飾るポインセチア6鉢は冷たい雨に濡れないよう、いつもの軒先から奥へとずらして今朝は置かれた。初冬の今、紅い色はどこにあっても目に嬉しい。
「雨で、しかもこんなに寒いと、江戸村はちょっと…、このちかくに健康ランドみたいなところ、ありませんか」と、午前のいまだ早い時間に、お客様から観光案内を頼まれる。「健康ランドのように何でもそろってはいませんが」と、地元の日帰り温泉をお教えする。
午後にふと気づくと日が差している。「大荒れ」については外れたが「午後から晴れ」の予報は当たった。そして驚くほどの速度で気温が上がっていく。
夕刻も暗くなってから街に霧が出る。濡れて冷えたアスファルトに暖かい風が吹き付けているのだろうか。水銀灯やクルマの尾灯を霞ませる夜の霧には何とも言えない風情がある。この冬は、いつごろから本当の冬になるのだろう。
夕食時にドライマーティニ4杯を飲み、早々に寝る。
店舗とは国道121号線を隔てて向かい側にある社員用駐車場から、包装係のアキザワアツシ君が横断歩道を歩いてくる。そして出社するなり「雪が降ってきました」と言う。
雪はいくら厚く積もっても、それが、自分の遊びに行った先のものであれば嬉しい。自分が仕事をする場所に降る雪の場合には、それが、雪かきを必要としないほどの量である限り嬉しい。今朝の初雪は白いものが、たまにフワフワと落ちてくるくらいのところで止んだ。
紅葉の盛んなときにくらべて店は随分と静かになった。そのかわり、商品を作りながら地方発送の荷造りも担う製造現場は大忙しになっている。そして社内の各部署では、部署ごとの繁忙に合わせて残業をしている。
そのような中、特に事務係は毎日の残業続きで、その後に控えた僕の晩飯は日を追って簡単なものになっていく。僕は「これだけ」というメシが嫌いではない。おむすびと日本酒だけ、とか。仔羊の西域風あぶり焼きと白酒だけ、とか。そして今夜は肉豆腐鍋にて焼酎のお湯割りを飲み、早々に寝る。
いよいよ12月になってしまった。
1991年には、11月から12月にかけて毎晩、仕事に失敗する夢を見続けた。60日間も仕事についての夢を見ながら、それが成功ではなく失敗に関するものばかりとは、ちと異常である。精神に重いものの、のしかかっていた証拠だろう。
翌1992年の暮になると、その夢見の癖は一切なくなった。理由は分かっている。スケデュールをコンピュータで管理するようにしたからだ。
コンピュータは数多くのことを劇的に変えてしまう。「人類の三大発明は、火と内燃機関とコンピュータ」と西順一郎は言った。まぁ、そうなのかも知れない。
高島屋のお歳暮カタログ「見事を贈る」の6ページに「味噌蔵で一年、円熟の味」と題されて「たまり漬」が紹介されている。らっきょう、らっきょう(栃木県産つぶより)、らっきょう(ピリ辛のピリ太郎)、大根胡瓜茄子つめあわせ、だんらん(各種きざみあわせ)、しょうが、にんにく、ふきの8点セットで、送料込みの5,000円。内容に特段の不満がない限り、買い手にとってはかなり得な価格設定である。
そのため、普段ウチの商品をお買い上げくださっている方々の自家用としても、かなりの数のご注文をいただき、とても有り難い。
困った夢は、1992年以降には見ることもなくなったが、それでも12月が過分に繁忙なことは間違いない。気を引き締めていこう。