朝、銀行へ行って通帳記帳をすると、定額給付金は今月22日に振り込まれていた。定額給付金とは、自分が国に対して過去に立て替えてやったお金が戻ってきたようなもの、というのが僕の解釈だがさて、これは何に使うべきか。
このまま口座に残せばあれこれの自動引き落としにより霧消するのは目に見えている。よって給付された家族全員の分をおろし、帰宅して各自に手渡す。
財布に納めた自分の分は、意識せずにいれば、これまたすぐに雲散することは目に見えている。「2009年の定額給付金は何々に使った」と記憶に残るようなことに、この1万2,000円は充てようと思う。
ところで店舗はきのうから営業時間を1時間延長し、朝8時15分より夕方6時30分まで、お客様をお待ちしている。そして延長した閉店時間はゴールデンウィーク明けの来月7日より、ふたたび元の夕方5時30分に戻す。直近1週間の天気はおおむね良好のようである。
瀧尾神社のタナカノリフミ禰宜がこのほど宮司に就任した。それを神前に奉告し、併せて関係者に披露する会の開催を6人の責任役員が提案したとき、はじめ宮司は「あまり大げさなことは」と遠慮をした。
しかし社務所には先代が宮司に就任したときの、昭和30年代のモノクロ写真もある。歴史を途切れさせてはいけない。
奉告祭の開催が決まってからはさしたる問題もなく、昭和の日の空はめでたく晴れ上がった。
旧今市市旧市街の18町内から自治会総代、神社総代、神社世話人を迎えた宮司就任奉告祭は10時30分より執行され、滞りなく完了した。また栃木県神社庁長、関係各神社の宮司、日光市長、日光市議会議長、県議会議員などの来賓を迎えた祝賀会はブライダルパレスあさのにて正午より始まり、2時にお開きとなった。
先代が急に倒れた2006年の春以来、タナカノリフミ宮司には様々な試練があったことと想像される。瀧尾神社の、ますますの彌榮を願ってやまない。
山が痩せる前はもっと太かったけれど、今はこれくらいがせいぜいだと言いながら、包装係のアオキマチコさんがシドキをくれた。僕は、いまだ山が豊かだったときのそれを知らないから、今日もらったこれでも「へぇ」と珍しがる。
そういえば、今月18日の花見も25日の花見も、その酒肴にはもらった野菜が多く使われていた。買った野菜よりも貰った野菜の方が多くの場合に美味いのは、それが採りたてだからだ。
ところで巷間メキシコに端を発したと言われている豚インフルエンザは一体どこまで広がるのか。テレビでは、日本における流行時の行動規範を紹介していた。そのうちのひとつは、電車の中では隣の人と2メートル以上の間隔を開けろ、というものだ。
人と人との隙間を2メートル以上も空けなければならないとすれば事実上、電車に人は乗せられない。空港閉鎖、駅も閉鎖、日本中業務停止ということになってしまう。それではまるで、本で読んだり映画で見たりしてきた"SF"の世界ではないか。
「早く収束してくれねぇかなぁ」と、強く思う。
オヤジが僅々5週間の入院を経て亡くなったときには、分からないことが多くあった。その分からないことの中のひとつにつき、ウチを訪ねオヤジに線香を上げながら未知の僕にあれこれ教えてくれた人、つまり僕にとっては恩人ということになるが、その、僕よりも10歳は若いと思われる人が急に亡くなった。
誰も報せてこなければ僕はしばらくその死について知ることもなかっただろうが、その人の勤める会社の顧客名簿から僕が割り出され、本日の電話に繋がったものと思われる。
「たとい我、死のかげの谷を歩むとも」とは旧約聖書の詩編の一節である。「たとい」ではない、我々は常に「死のかげの谷」を、そうと気づかず歩いているのだ。
ここ数日、4月としては随分と寒い日が続いている。"mont bell"のダウンベストはとうにクリーニングに出し、タンスへ収めてしまった。よって今日は朝から"Patagonia"のフリースベストを着ている。
夜、毛糸の帽子と手袋を身につけ、自転車に乗って飲み屋の「和光」へ行くと「ウワサワさんが来たから」と、オカミが目の前に枯れかけたバラを出してくれた。バラの名前は"Princess Diana"だという。それを聞いて、むかしシンガポールのとあるラン園に行ったことを思い出す。
地面から上に向かって咲き、あるいは棚から垂れて咲く無数のランを見て歩くうち、日本のかつての宰相婦人の名を冠したランを見つけた僕は、その婦人の顔を頭に浮かべて「儀礼上のことだろうけどなぁ、女の名前を付けりゃいいってもんでもねぇだろう」と思った。
バラの名前が"Princess Diana"であることについては、特段の文句も無い。
「魚登久」でフワフワの肝焼きを食べ、う巻きを含む小さな酒肴の盛り合わせを食べ、鰻重を食べ、そして「片山酒造」のカストリ焼酎「粕華」を好きなだけ飲む。
急いで口に突っ込み急いで咀嚼し急いで飲み込んだ方が美味いものもあるが、「魚登久」の肝焼きや鰻重はゆっくり食べた方が、少なくとも僕には美味い。牛乳瓶1本分ほどの焼酎を生で飲むのも、ケチケチした感じでなくて良い。
自由学園男子部64回生の大部分は1985年の生まれだろう。この年フランスではブドウの出来が良かった。"ThinkPad X61"の"wine"というファイルを検索する限り、ウチのワイン蔵には同年のボルドー物が50本、ブルゴーニュ物が41本ある。
よって後輩たちには鰻を食べながら「次はワイン、飲みに来て。オレひとりじゃ飲めねぇから」と伝える。"Jean Gros"の"Clos des Reas"や"Richebourg"はマグナムだから、特にひとりでは飲めないのだ。
「散る桜 残る桜も 散る桜」と、良寛の辞世を引用して親族代表が挨拶したお葬式に先日、参列をした。それが絵画彫刻であっても陶磁器であっても音楽であっても、あるいは文字や言葉を用いたものであっても、優れた芸術には人の意表を突くところがある。
「あの良寛が詠んだんだから当たり前めぇじゃねぇか」と言われればそれまでだが、「散る桜 残る桜も 散る桜」とは、作ろうとしてもなかなか作れない句である。
うちの隠居の桜の中で最後まで花を残したしだれ桜の、その花びらもいよいよ少なくなってきた。夜、自由学園の男子部64回生たちと座敷の中から眺めてみれば、しかしそれでもその桜は幽かな明かりを受けて、いまだ庭の真ん中に白く浮かんで見えた。
おとといの夜9時30分ごろ、隠居から本酒会員を送り出して門を閉じる際に、長さ六尺五分、三寸角の木製のカンヌキを足の甲に落とした。"KEEN"の肉厚のサンダルのお陰で直撃は免れたが、それでも当該の場所には内出血による青あざができた。
よって患部にはその晩ののうちに「保身安油」を塗ってマッサージをし、乾けばまた塗ってマッサージすることを繰り返した。これは打ち身やねんざには本当に良く効く薬である。一升瓶状の小さなビンを赤ん坊マークの黄色い缶に納めたその意匠も面白いから、香港へ行くたび僕はこれを買う。
「香港へ行くたび」といえば「百徳食品公司」の豆板醤も、もう何年も前から切らしていて、しかしインターネットで検索してもどこにも見つからない。かくなる上はこれを手に入れた香港島の「九龍醤園」へ行くしかないが、香港は近いようで遠い。
幸い同級生のオギノヒロツグ君がこの春、彼の地に転勤になった。香港での同窓会が実現すれば、僕はふたたびこの豆板醤を手に入れることができるだろう。その際にはちと大人買いをしようと思う。
包装係サイトーヨシコさんが「ウチの庭にいっぱいあるの」と言いながらくれたコゴミの写真を事務室で撮り、そのまま加藤床屋へ行く。
椅子を倒され顔を剃られながらうつらうつらしていると、つけっぱなしのテレビのワイドショーから「草彅剛、公然猥褻の罪で逮捕」のニュースが聞こえてきた。
「逮捕とは穏やかじゃねぇな」と考えながら、椅子の背が元に戻ったところで鏡越しにテレビを見ると、「深夜3時の公園で裸になっても、人なんていないだろうから公然猥褻には当たらない」というようなことを鳥越俊太郎が言っていた。この人は一体、何年のあいだ報道の世界でメシを食ってきたのか。
集団で騒いでいたなら不思議もないが、ひとり素っ裸で大声を出していたとすれば当然、覚醒剤の摂取が疑われる。午前3時に逮捕された者の家宅捜査が朝のテレビの放送中に終了しているとは思われず、よって草彅をこの時間に弁護するのはいかにも脇が甘い。
草彅の家宅捜索は結局のところ午後4時から始まって30分で終了したという。薬物の使用を疑っての捜索がたかだか30分で終わったということを、我々はどう解釈すべきか。壁のコンセントの空洞から本の1ページ1ページまで調べ上げれば、それだけの時間で終わるわけがない。
それはさておき違法な薬が関係していなかったとすれば「素っ裸で騒いだくらいで、とんでもねぇ社会的制裁を彼は食らうんだろうなぁ、気の毒に」という同情も、僕はまた禁じ得ない。と同時に「酒は最もカジュアルなドラッグ」と誰かの言ったことも、酒飲みは肝に銘じる必要がある。
飲んでも飲んでも酔わない酒がマッコリで、草彅は今後、マッコリだけを飲んだらよいかも知れない。一生マッコリだけ、というのもつまらないだろうが。
気温は午前のうちから初夏を感じさせるところまで上昇し、そうすると昼飯には冷たい麺が食べたくなる。
「これ、東京にあったら行列必至ですよね」と言ったら「いやぁ」とオヤジさんが謙遜した「ふじや」の冷やし味噌ラーメンは、早くても5月の連休にならなければ出てこない。
そうしたなか所用にて銀行へ行く途中に「糸屋」の前を通りかかると、しかしこの店の前の黒板には「冷やかけ山菜蕎麦」の文字があった。よって11時40分に、その冷たい麺を食べる。盛り蕎麦を食べても涼しくならない身体が、冷やかけであれば涼味を増すところも、この蕎麦の良いところだ。
いまだしだれ桜のみは充分に花を残している隠居にて夜「第191回本酒会」を行う。
流行っていた占い師が突然の災禍に巻き込まれたりする。自分の近未来予測もできない人が、他人の将来について忠告や助言を与え続けてきた、ということだ。それもお金を取って。あるいは「先生」などと呼ばれながら。
そういう次第にて僕は占いは信じない。しかし家内はこれを信じるらしく、2006年と2007年には、僕にとっては絶好調の年だから思ったことは何でもした方が良いらしい、しかし2008年と2009年には、暗剣殺だから新しいことは何もしない方が良いらしいと言った。
その暗剣殺の入りの2008年に僕は随分と研究開発をし、また社員はじめ周囲の方々に助けられた結果、それがこの春に新商品として目白押しに出てきた。新商品が出るならお客様にはそれをお知らせする必要がある。よってこれらの品々を掲載するパンフレットの準備は今年1月に始めた。
ウチくらいの規模の会社のパンフレットがどれほどの手をかけて作られるかは知らないが、とにかく今回は第5稿まで検討が行われ、その第5稿に最終的な修正を加えてきのうようやく校了した。
新しいパンフレットは今月末日に納品されるという。
高等学校のころからたびたび遊びに行かせていただいていた近所のお宅のお葬式に昼前から行く。
先週の火曜日以来、お祭りへの神社の役員としての出席、町内にあるお宅のお通夜、そのお葬式、お祭りの直会、今日のお葬式と、この1週間には5回もスーツを着た。僕にとっては滅多にないことである。
午後、役員会議のため瀧尾神社へ行き、5時30分に帰社する。
夕食の後はすぐに寝てしまうが本日はこれまた滅多にない例外にて、食卓で11時まで、コンピュータを使った仕事をする。
「あたみ館」2階の南東に面した部屋で目を覚まし、枕頭に置いた携帯電話のディスプレイを見ると5時30分だった。7時の朝飯までにはいまだ90分もある。よって直ぐに着替えて徒歩で隠居へ行き、きのうの酒肴の残りを自宅へ運ぶ。
花見に参加した同級生たちは朝食の後に来店して買い物をしてくれ、ノリマツヒサト君のホンダ車に乗り合わせて帰京の途に就いた。当方はそのまま仕事に復帰する。
当番町川原町による傘抜きの儀に出席をするため、夕刻5時すぎに会場の「ブライダルパレスあさの」へ行く。
総鎮守瀧尾神社春の例大祭において、渡御の行列は、装束を整えた子供の金棒引きにより先導される。金棒引きは神の宿る者とされ、この金棒引きが背負った花笠を外すことにより大祭は幕を閉じる。
金棒引きの子供たちは本日の会場においては、半纏姿の頭の案内にて正面へ進み、町内三役によって背に負った傘を外された。宮司のタナカノリフミさんは重責を担う川原町の面々を安心させ、また励ますため「これにて当番町の責任の6割は果たしていただけたと思う」とスピーチをする。
当番町の仕事はこの後、神社林の視察の仕切り、夏の八坂祭の執行など、まだまだ続く。これらの諸行事も昨年に続き、つつがなく、楽しく、粛々と行われることを希望する。
自由学園男子部35回生の花見をウチの隠居で引き受けてくれないかと、同級生のサカイマサキ君から打診されたのは、いまだ新年の余韻の残るころのことだった。それを受けて僕がその日時を決定し、35回生のメイリングリストに情報を流したのが3月はじめ。
そして本日午前、電車組とクルマ組が相次いで日光に集結する。集結するとはいえ同級生は全国に散らばっているから、そう多くが来るわけではない。
ゴルフをする4人は午前の早いうちにピートダイゴルフクラブへ向かい、昼前に着いたふたりと僕は蕎麦を食べに「報徳庵」へ行く。
普段は年中無休で忙しくしているが、本日の午後はずっと隠居にいて、あれこれ話をしながらゆっくり過ごす。
ゴルフ組が上がってきたときには、あたりは既にして薄暗くなりかけていた。希望者を募って市内の長久温泉へ行き、戻って後は、家内とサイトートシコさんが事務室に降ろしてくれた食べ物を手分けして隠居に運ぶ。
明かりを灯した庭には薄墨色の紗をかけたように、しだれ桜が霞んでいる。五十音順にいけばアカギシンジ君、イリヤノブオ君、カゲヤマカズノリ君、サカイマサキ君、ニシタニサダアキ君、ノリマツヒサト君たちと楽しく飲食をする。桜はこれから1週間ほどは保つだろうか。
あたりを片付け食器を洗い、11時すぎに宿泊場所の「あたみ館」へ移動してすぐに寝る。
午前、栃木県産の大粒のらっきょうが納品される。本物のワインで漬けた本物のワインらっきょう"rubis d'or"の原材料である。間髪を入れず下処理を施し、摂氏5度の冷蔵庫に保管する。
終業後、子供のころから優しくしていただいた、近所の方のお通夜に出かける。ここ数年、お通夜に列した晩には飲酒を避けることにしている。これは別段、何かの思惑があってのことではない。クルマで出かけ、クルマで帰ってそのまま晩飯を食べて寝るだけのことだ。
そして今月5回目の酒抜きをして9時30分に就寝する。
およそ四半世紀ほども使ったゼロハリバートンのトランクがある。ゼロハリバートンの歴史の中で、キャスター付きのトランクとしては、これは過渡期の品物だ。既成のトランクにおざなりに付けられた小さなキャスターは直ぐに壊れた。
それから20数年間は、キャスターの壊れたままこれを使っていた。空港では手押しのカートを借り、ホテルではベルボーイが運んでくれるから、キャスターが壊れたままでもどうにかこうにか使ってくることができた。
しかし考えてみれば、このトランクはその中身と共に、壊れた車輪をも常に運んでいることになる。馬鹿ばかしいことこの上ない。
よって数日前にこれを"EB-ENGINEERING"に持ち込んだ。そして「このぶっ壊れたキャスターをむしり取って、ホームセンターあたりで売ってる、台車に使うような車輪を付けられますか」と、主のタシロジュンイチさんに訊いた。
トランクはそれから数日の後に届けられた。その底に壊れたキャスターはなく、代わりに「台車に使うような車輪」がブラインドリヴェットによって取り付けられていた。
「これがダメになったら、今度はサスペンション付きの車輪を付けましょう」と不敵に笑ってタシロさんは帰った。
サスペンション付きの車輪を備えたゼロハリバートンのトランクを、白いルンギーのベルボーイがホテルの回廊を押していく、そういう風景を僕は想像して、しかしすぐに打ち消した。行き先がインドであれば、このトランクはいかにも大きすぎる。
所用にて先ず川崎市へ行き、次いで板橋区に回る。北千住から溝の口までは半蔵門線を介して一直線に繋がり、乗り換えの必要はない。二子玉川で車両のドアが開けば、吹き込む風は乾いて涼しく、あるいは乾いて暖かく、初夏の高原のそれを思わせた。
神奈川県に特有の小さな丘を登り、また丘を下り、数時間前は西へ西へと進んだ鉄路を今度は東へ、また北へと移動する。
北千住に達したのは午後6時25分にて、ここが思案のしどころである。次の下りは19:12発、その次は20:12発になる。
普通であれば直近の19:12発に乗るだろう。しかしそうすれば実質的な飲み時間は30分以下になる。1日仕事をしたのだから、お酒くらいはゆっくり飲みたい。ところが僕は活字を欠いてはひとりでの飲酒ができない。家から持参した本は昼のうちに読み切ってしまった。
よって駅構内の本屋に入るも読みたい本はない。結局はパッと飲んでパッと帰る道を選び、19:12発の下りに乗って9時前に帰宅する。
きのう町内役員および組長により店舗犬走りに張られらた縄には、朝のうちに幣束を提げた。同時に祭り提灯も出す。顧客用ベンチ脇の季節の文字は数日前より「春隣」から「麦笛」にかけ替えられている。
春の例大祭に出席をするため黒いスーツを着て、朝8時40分に瀧尾神社へ行く。9時の花火が打ち上げられると同時に本殿前での祭祀が始まり、やがて当番町の面々、来賓、我々責任役員は昇殿して、屋内での祭祀に参加をする。祝詞の奏上が無事に済むと、旧今市市の旧市街に御輿を巡行させる一行は宮司と共に神社を出発する。
5分の後、来賓と責任役員、当番町の接待係は社務所へ移動して直会が始まる。春の日が静かに過ぎていく。当方はいまだ仕事があるため、神事に付きもののお酒は計算しながらすこしずついただく。
午後より小雨あり。渡御の行列はその行程を少し短縮して、本日のお祭りは無事お開きになった模様である。
居間の窓から遠目に眺めるだけではその細かいとこまで分からないから、隠居に出かけて桜の花を見る。
国道121号線に面した染井吉野は早くも花びらを散らせ始めた。しかしその枝のうち歩道に張り出した部分は昨年の春に伐ったから、散る花びらの量も昨年ほどではない。
庭のほぼ真ん中にあるしだれ桜は、今が見ごろだろうか。もっとも満開の花びらの近くにはいまだ紅色の堅いつぼみが目立ち、ということはこの木の花は、ある程度の時間をかけながら次々に開いていくものと思われる。
庭の奥の、今は葉ばかりが目立つ山桜はやはり昨年の春に、大胆にその枝を落とした。ここから更に育って巨木になると、なにかあったときには塀を壊して重機を入れないことには処理しかねると、植木屋に脅かされたからだ。
その山桜と2メートルと離れていないとろこにも直径35センチの染井吉野があり、これは知らぬ間に実生から育ったのだろう、山桜を残してこちらは根元から伐った。
そしてここまで書いて思い出したが、庭の南の角にも直径20センチの桜が松の幹に接して育っていたため、これもおなじ昨年春に伐採した。
こうして隠居の桜は昨年よりも2本減ったわけだが、あっても気づかなかっただけに、それが消えても格別の違和感は無い。
ところで僕の好きな春の季語といえば、なんといっても「夏近し」である。
「桜の花などは、アメリカでは石けんの箱に印刷されるほどの、つまりとりたてて大したものではない」というような文章が、僕が高等学校のときの英語の教科書にあった。そのときはボンヤリ読み流したが、いま考えてみれば、大したことのないものを、わざわざ自社の商品パッケージに使う会社があるだろうか。
あるいは「石けんの箱に印刷されるほどの」とは、アメリカにおける慣用的な比喩だったのかも知れない。
それはさておき僕はやはり桜の花が好きだ。そして居間の窓からは隠居の桜の、染井吉野は八分咲き、山桜は五分咲きの様子が遠目に分かる。しかし、しだれ桜は味噌蔵の甍に阻まれて見えない。
瀧尾神社の八坂祭を明後日に控えて午後3時より、会所となる春日町一丁目公民館の飾り付け、および町内の家々の前に出された赤柱への縄張りをする。
ついこのあいだまでの寒さを忘れてしまいそうな、ここ数日の暖かさである。
嵐山光三郎の「東京旅行記」 に「鮨屋で魚の産地を訊く人があるが、魚なんてのはそこいら辺に泳いでいるんだ、それで良いじゃねぇか」というようなことが書いてあった。僕も自分が客の立場であれば、まったく同感である。
ある人にワインを戴いた。そこにはワインをくださった人による、A4のリポート用紙にびっしりと書き込まれたそのワインの解説があった。自分がワインを飲む立場に立てば、僕は解説には興味がない。飲んで気に入るか気に入らないか、感心するか感心しないか、それだけである。
というわけで夕食に添えられた徳利の冷酒についても、その銘柄を店主に訊くことはせず、ただ黙って飲んだ。僕の経験からすればそれは新潟県南西部のものと想像されたが、それももちろん、口には出さない。
今朝は家内が忙しかったため、味噌汁はフリーズドライになった。この品物は日光産の大豆と日光産の米、それに純国産塩を用いた、ウチのもっとも高級な味噌「梅太郎(白味噌)」とタシロケンボーんちの徳用湯波、それに、試食に試食を重ねて決めた国産ほうれん草によるもので、だから不味いわけがない。
この味噌汁については2杯飲みたいところを1杯で我慢して、7時15分に事務室へ降りる。
午前、先月30日に額装を頼んだ宇都宮の「たまき」から店主のタマキヒデキさんが来て、その絵を所定の場所に取り付ける。店舗奥の壁にはこれまで川上澄生の版画があった。そこに今日からは今井アレクサンドルの「ゲージツは暴発だ」というような油絵が飾られる。「こんなことしていてホントに良いのか」と考えないわけでもないが、いざ収まってしまえば今井の絵も大いに悪くない。
そして「突拍子もない人間も、その落ち着きどころを得れば、同じようなものかも知れねぇなぁ」と思う。
なお、今井によるもう1枚の絵「七福神」は事務室の、ウェブショップの注文を受ける机の上に飾られた。10年前に手に入れた、今井の「十字架」も置きたいところだが、あれは畳2枚分の大きさがあるから、ここには収まらないのだ。
「早く形にしなくてはいけない」と昨年の暮から考え、準備も整えながら、しかし手つかずでいたウェブショップの仕事については、なぜかおとといから急に勢いを得て、これを完成させてしまった。ウェブショップには別途、新商品の登録を行う必要もあり、そのうちの最も手のかかるところは本日、自分の担当する部分のほとんどを仕上げる。
春休みに次男が持ち帰った「まとめ」にはざっと目を通してあったが、今夕はこれを丁寧に読み返す。
自由学園の中等科と高等科では、学年の締めくくりとして、机の上のことだけではなく生活や労働も含め、学んだことのすべてを書き残す。各教師はそこに評価や励ましの朱筆を入れてくださり、また担任はその最終ペイジに細かな示唆や来年への展望を書いてくださる。
次男の「まとめ」はその表紙の質、リボンの色、自ら筆で書き込む文字、教師に捺していただくハンコまで、僕の時代のそれとまったく変わっていない。
次男の性格は愚直かつ人や集団を好むところで、僕とは対照的である。「まとめ」の最終ペイジまで至って「不器用なりに、よく頑張ったなぁ、しかしそう感心するオレって、親としてちと甘いのだろうか」とも思う。
本日、次男は11:35発、僕は14:35発のそれぞれ東武日光線上りに乗ることとしていたが、だったら父親も子供とおなじ電車に乗って、浅草で鮨を食べさせてやってくれと家内が言うので、自分の予定を3時間早める。
墨堤の桜は散る寸前の華やかさで、あたり一面が春そのものだった。新仲見世、仲見世にはまっすぐ歩けないほどの人出があり、また鮨屋のカウンターの半分以上はフランス人で埋まっていた。
寮に帰る次男とは池袋まで行動を共にし、そこから神保町へ移動する。
"Computer Lib"では無駄なく素早く仕事をし、夕刻6時に同社を出る。今日の仕事に関係したヒラダテマサヤさん、ハットリヒロシさんと駿河台の坂を上がり、本郷の「栄児家庭料理」で晩飯を食べる。
酔って暖かな外気の下に出たのは8時30分だった。湯島まで歩いて15分、北千住まで地下鉄で15分とすれば、ちと忙しいスケデュールだ。よって天神下まではタクシーを使う。
21:11発の下り最終スペーシアに乗り、11時前に帰宅する。
今日からは読む本がなくてつまらない。いや、無いというわけではない、階段室に出れば10年前、20年前に買って読んでいない本が床にまであふれている。正しくは今すぐに読みたい本が無いということだ。
きのうまでの数週間は鴨志田穣の「アジアパー伝」全5巻を読んでいた。はじめはおちゃらけた紀行文、軽く読み流せる娯楽本とばかり思っていたが、鴨志田穣とは実に大した男だ。最終巻「最後のアジアパー伝 」の文章の透明さ、静かさは尋常でない。
2002年4月29日の日記に「10日間の休暇が与えられたら近藤紘一の『目撃者』を携え南アジアの陋巷へ潜り込むだろう」と書いた。6月に行くカンボジアは全行程5日間だから、この大部の本を読みきることは恐らくできない。「だったら鴨志田穣の『遺稿集』を持って行こうか」と考える。
次男は明日、寮に戻る。入学して1年間を無事に乗り切ったお祝いとして、夜は"Finbec Naoto"へ行く。
田中長徳の日記をウェブ上に閲覧していたら、そのきのうのところに「2009年 世界の汚いホテル トップ10」という文字があった。こういうことには興味を持つ性分だからリンクをたどってみれば、そのアジア部門の第1位はバンコックの"First Hotel"だった。僕なら御の字のホテルである。
かつてのバンコックにおける僕の定宿で、中華街の今は無き「楽宮旅社」などはホテルではなく木賃宿であるから「汚いホテル」にさえ選んではもらえない。上は旅社から下は農家の納屋まで、僕は海外ではいろいろな場所に泊まってきた。何十年を経ても強く想い出されるのはそういう、窓にガラスもはまっていない安宿ばかりだ。
バンコックでは旅社、中級ホテル、高級ホテルの3階級を試したことがある。その宿泊代を数字で比較すれば1:10:100となる。つまりオリエンタルホテルの旧館に1泊する値段で旅社には100泊できる。1泊2日の豪華な旅行と100泊しての酒と散歩と読書の日々との一体どちらが楽しいか。どちらが楽しいかを瞬時に決められなくなったときから僕の気持ちは老い始めるのだ。
「清明」とは二十四季節のひとつで、ちょうど今ごろの日を指すらしい。
「ホトトギス季寄せ」を繰ってこのことばを見つけることはできなかったから検索エンジンを回してみれば、清明とは清浄明潔の略にて、暖かい風もうららかに万物が萌え出づるころ、ということだという。
清浄明潔といえば我が春日町1丁目における3月の自治会費が本日すべて納入され、会計係としてはようやく平成20年度の決算をすることができた。金銭出納帳の数字は次期繰り越し現金と一致して、気分はしごく清浄明潔である。
数年前には当番町に際しての会計を任され、昨年からは町内の会計を任された。年間を通じて総鎮守瀧尾神社の祭典を仕切る当番町の会計は、仕事は単純だが預かる金額が金額だから責任は重大である。町内の会計は、扱う金額こそ当番町会計ほど大きくないが、こちらは仕事の内容が細かいから別のところで神経を遣う。
町内の仕事はそれが重要なものでも、できるだけ早くから若い人に振るべきだ。当番町の重責も、長老の経験と智恵、若い人の体力気力技術があれば、担う負担は大幅に軽減される。会計係が電卓しか使えないとなると、これはちと辛い。
先日"amazon"に出品している2軒の中古CD屋から、"SOIL&PIMP SESSIONS"の"PIMPIN'"と"PIMP MASTER"を、それぞれ買った。これらを2週間ほど置いた後にケースを開けてみたところ、それらの中身はどちらも"PIMPIN'"だった。中古屋に"PIMP MASTER"を売った人にも、またその中古屋にも多分、誤りはあっても悪意はなかったと思う。
むかし、いまだCDなどなくLPの時代に、1枚のレコードに2枚のライナーノーツが入っていて「珍しいこともあるものだ」と感じたことがある。しかし今回のことは、それとは比べものにならないくらい希な例だろう。
購入して数週間を経てのクレームはつけづらい。よって2枚ある"PIMPIN'"の片方は長男にやろうと思う。
夜、寝る前に携帯電話のディスプレイを見て、夕刻6時すぎに不在着信のあったことを知る。きのうの同じ時間帯にも、別の不在着信があった。その時間には、社員が帰宅した後の製造現場を見回ったりしているため、携帯電話は事務室に置いたままなのだ。白衣のポケットに入れた携帯電話を作業台にぶつけて壊してから、僕は製造現場には携帯電話を持ち込んでいない。
日中に不在着信のあることもある。クルマの運転中には対応できないところから外出に際して携帯電話を持参しなかったり、事務机の中で鳴る、握りこぶしの中に捉まえた蝉の声のような着信音に、事務室の誰も気づかないことにより、そのようなことが起きる。
なぜ握りこぶしの中に捉まえた蝉の声のような着信音を、他の、もっと目立つ音に変えないかといば"NM706i"のデフォールトがそれであり、自分には「デフォールトのままが最も渋い」という美意識があるからに他ならない。
「ヨーロッパの電車の中で他人の携帯電話が気にならないのは、ほとんどすべての人が着信音をデフォールトにしているからだ」ということを、スイスの保険会社に勤める後輩がむかし、あるメイリングリストに書いていた。
日本の着信音については、北島三郎の「与作」とか一節太郎の「浪曲子守歌」とか舟木一夫の「銭形平次」を設定するオジサンがいたり、葬式の席で派手なサンバを鳴らし、その止め方を知らずにオロオロするオバサンがいたりと、とにかく野放しの状態である。
「デフォールトのまま音量だけ上げたら良いではないか」という意見もあるやも知れない。しかしそうすると"NM706i"ではメイルの着信音も同時に大きくなり、それは避けたい。
僕の携帯電話は主に、ウェブショップに注文のあったことを知らせるために使われている。僕に音声での連絡を取ろうとするときには携帯電話ではなく、会社の代表にかけていただくのが最も確実な方法である。
学生のころオフクロに、日本橋の「瀬津雅陶堂」で"GILBERT and GEORGE"の写文集"DARK SHADOW"を買ってもらった。墨流しによる布の装丁は1冊ずつ模様の異なるもので、数冊の中から僕の選んだ1冊には、限定2,000部のうちの3桁の通し番号があった。
今は無きセゾン美術館で彼らの展覧会が開かれたとき、僕はいまだ小学生だった長男を同伴した。いま検索エンジンで調べると、それは1997年の催しだった。"GILBERT and GEORGE"の作風は"DARK SHADOW"のころから大きく変化して、僕の感覚からすれば、もはや前衛とも呼べない代物になっていた。
それはさておきその展覧会の出口で僕は"GILBERT and GEORGE"のキーホルダーを買った。その直後から使い始めたこれはだから、12年間も保ったことになる。
まだまだ使えそうなこのキーホルダーに見切りをつけたのは、ポケットやリュックサックの中で鍵が他のものがぶつかり合って、あれこれ傷つけてしまうことが多くあったからだ。
僕は12年ぶりにキーホルダーを換えた。新しいそれは、チロリアンジャケットのような素材の中に鍵を収めてしまう式の"ABITAX"の品物だ。これを果たして僕は、"GILBERT and GEORGE"のキーホルダーと同じく、12年ものあいだ使い続けることができるだろうか。布製なだけに12年は無理、という気もする。
白衣のハンガーをフックに掛けようとしても、タバコの踏みつぶされた吸い殻を拾おうとして地面に手を近づけても、銀行のオネーサンから通帳を受け取ろうとしても、指先にパッチンパッチン静電気の火花が散る。
金属に触れる前に、たとえば木のような導電率の低いものに先ず触れておくとショックが少ないと、いつか観たテレビは伝えていた。しかし周囲に木のようなものは一切無い、という環境は案外多い。それに、預金通帳を受け取る際の指先にも静電気の火花が散ることまでは予想できない。
僕のかかとには9月から翌年の5月までアカギレがある。この、かかとにアカギレのあるあいだは指先に静電気の火花が散る。湿熱の東南アジアに住めばこのようなこともないのだろうが、東南アジアに住もうとしても、そのきっかけがない。