夜に早く眠れば朝は早くから目が覚める。部屋の中のあれこれの輪郭が薄青く見え始めたら3時台も後半にちかい。4時になれば山や街の景色もずいぶんと明らかになり、異なる種類の鳥たちが一斉に啼き始める。夏の朝のすこし湿って、しかしなぜかある種の爽やかさも含んだ空気が好きだ。
事務室からコンピュータを持ち帰っていればコンピュータを開き、そうでなければ本を開く。その場所は居間であったり、あるいはおばあちゃんの応接間であったりする。窓の外をツバメが飛び、スズメも飛び、カラスが飛び、またトンビも飛ぶ。
社員のツカグチミツエさんが結婚をして、名字がシバタに変わった。シバタさんが新婚旅行から帰る日を待っていたこともあって、夏の繁忙を前にした食事会は、例年よりも遅れて今日になった。
事務室を改装して大きな楕円のテーブルを置いたら、ここに社員全員が集まって食事の摂れる空間ができた。僕は牛カルビの鉄板焼きなどにはあまり箸を伸ばさず、ほとんど野菜ばかりを食べる。
「オレは冷やしトマト、好きなんだよ、飲み屋に行ったら大抵、頼んじゃうよね」と言うと「あー、的確ですね」と製造係のタカハシアキヒコ君が答える。冷やしトマトの何が的確なのかは知らない。そして社員たちとあーだこーだと話をしながら芋焼酎のオンザロックスを飲む。
物忘れの激しい僕だが"6.29"という数字については、ここ数週間のあいだ、いつでも、まるで絵のようにくっきり思い出すことができた。社員に賞与をどれだけ支給するか、その算定日を今夏は6月29日と決めていたのだ。
午前にその仕事を行い、午後にお得意様からご注文の長い電話をいただき、するとその電話の内容はしごく喜ぶべきものだったにも関わらず神経はにわかに疲れ、居間に戻ってしばしソファで休む。
夕食を終えてしばらくすると、開け放った窓からの風が居間を通り廊下を流れ、洗面所から抜けてしごく涼しい。夜もなお暑い日はシャワーで済ませてしまう。しかし今夜の気温はそこまで高くない。
風呂桶に溜めた湯で入浴をし、窓からの風に身を任せて就寝する。
選挙とは、衆愚をどれだけ多く自陣に取り込めるかのゲームである。叱られるといけないから「例外もあるが…」とつけ加えようか。更に国によっては不正投票の可能性もある。
「お前、タイへ行こうとしているなら、選挙の結果も考えに入れておいた方がいいぞ」と、僕の日記を読んだらしい同級生のコモトリケー君が今朝、バンコクから電話をくれた。その電話と相前後してなじみの旅行社からは、成田チェンライ間の、魅力的な価格を持つ航空券の提案がメイルで送られてきた。
タイを騒乱させるに違いない7月3日の総選挙について、また夏の旅行の行き先について家内に伝えると「そういうところで無事に行動して、無事に帰ってくるのも子供の勉強のうち」と、コクのあることを言う。しかしもし首都の空港が暴徒によって占拠され、それが8月下旬まで長引けば、当方は出発をすることができない。
まぁ、とりあえずは航空券を予約しながら様子を見ることにしよう。
「第217回本酒会」に参加をするため、19時すぎに鰻の「魚登久」へ出かけ、21時前に帰宅する。
ルイ・アームストロングの"What a Wonderful World"が何ヶ月か前の"SoftBank"のテレビコマーシャルに使われた。それを見て「この期に及んでサッチモだよ」と長男は言った。世界中で使い尽くされた古い歌を今さらのように使う広告代理店を揶揄したわけではない、サッチモの大きさを静かに賛嘆したのだ。
先日ひとりでテレビを見ていたら、"SoftBank"のテレビコマーシャルから"Take the A Train"が流れた。そして「この期に及んでデューク・エリントンだよ」と僕は腹の中で言った。
池袋の中央コンコースから北口へ抜ける通路の左側に小さな本屋がある。活字を欠いてはひとりで酒を飲むことのできない僕は、しばしばここに立ち寄る。この店で発見した最良の書は小林紀晴の「写真学生」である。
先日ここの本棚から「ポートレイト・イン・ジャズ」を抜き出し開いたら、そこはたまたまデューク・エリントンのページだった。著者の村上春樹はこの巨人をどう扱うべきか戸惑っているようにみえた。僕の最も好む音楽はジャズだ。しかし聴き手としては、デューク・エリントンまではなかなか遡上しない。
終業後に大急ぎでカレーライスを食べ、町内の公民館へ行く。そして夏の行事についての話し合いに参加をする。青年会長や育成会長は気を利かせて冷えたビールやチューハイ系の飲料を差し入れてくれたが今日は断酒日と決めたため、それらには手を出さず21時30分に帰宅する。
ローマ字で表記すれば"Tachileik"という街がミャンマーにある。何と発音するのかは知らない。"Lonely Planet"はこれを「ターキレーク」と表し、また「地球の歩き方」は「タチレイ」と記す。しかしインターネット上で最も用いられている表記は「タチレク」である。
「モロッコヨーグルト」という駄菓子は僕が子供のころからあった。長男が小学生のころ町内の駄菓子屋「まんきん」でこれを買ったところ、ブラスティック容器の底には"MOROCCO"ではなく"MOYOCCO"の型押しがあった。製造元の「サンヨー製菓」を訪ねてその理由を訊いてみようか、とは長男と交わした冗談だ。まさかそれだけのことで大阪の西成までは行けない。
何種類もの有名ウィスキーのボトルにせっせと怪しげな茶色い液体を詰めている、その風景をいとも簡単に眺めることのできる国境の街、そこを西原理恵子と鴨志田穣が散策する文章をどこかで読んだ記憶がある。その街こそ"Tachileik"ではなかったか。
3月はじめのエレベータの大修理に際し、作業員の邪魔にならないよう大ざっぱに片付け、3月11日の地震でまたまた滅茶苦茶になった本の固まりの中に「アジアパー伝」を探して見つからない。そして表面上はふざけたものに感じられても実は非常に優れた内容を持つこのシリーズは、床の本の山ではなく本棚に格納したことを思い出す。そしてそのすべてを居間へ運ぶ。
"Tachileik"が実際には何と発音されるか、それを知るため次男と夏休みに現地を訪ねてはどうか。しかし"Tachileik"には、チェンライから90分ほどバスに揺られてメーサイまで行き、国境の橋を渡ればすぐに着いてしまう。だから「そんな楽な旅行はダメだ」と、すぐにこの案を却下する。
朝4時に起きれば色々なことができる。きのう「JAかみつが今市支店」で買った花を短く整え仏壇に上げる。仏壇には花と共に朝一番のお茶を上げる。そのお茶のおこぼれというかお流れというか、それは僕が飲む。きのうの暑さが幻想の中の出来事のように感じられるほど今朝は涼しい。
そういえばきのう用事があって足利銀行の通帳を記帳したところ、今月2日の日記に書いた減免措置により、携帯電話の会社から92,500円の払戻金が入っていた。高い生地さえ選ばなければ、これで三季用のスーツを誂えることができる。そして午前のうちに椎名町の「テーラー北原」へ行く。
昼前にいったん池袋へ戻り、家内と落ち合って、午後に自由学園へ行く。夏休み前の父母会に出席をするためである。父母会は場所を変えて全体会、そしてクラス会が行われた。朝の予報で伝えられた驟雨は、その場所の移動をちょうど避けるようにしてあり、だから持参した傘を使うことは一度もなかった。
父母会は大抵、東武日光線の最終に間に合わせるため中座をすることになる。今日はたまたま各線の連絡が良かったらしく、北千住には20時34分に着いた。
「30分あれば充分だ」と誘っても「そんなところは絶対にイヤだ」と家内が言うのでカウンター活動は単独で行い、21:12発の下り最終スペーシアに乗る。
朝、テレビのニュース番組を見ていると、夏休みには次男をまたどこかへ連れて行ってくれと家内が言う。高校1年生の次男が18歳を過ぎたらひとりでどこへでも行けるよう、今のうちに訓練しておこうというわけである。
訓練であればその旅行には厳しさや不便さが不可欠で、経費もなるべく削りたい。
ここ2年ほど僕が夏の終わりに行っている、タイ国内を北から南へ移動する旅行の場合、現地での飛行機の発着地が異なるから航空券は高くなる。春にベトナムで「次はハノイからホーチミンまで鉄道で南下とか」と言ったら「いいねー」と感に堪えたように次男は答えたが、これも航空券に難がある。
チェンマイ往復なら航空券の問題はない。しかしあの穏やかな古都にいても何の訓練にもならない。成田とチェンライの往復航空券を買い、チェンライから更に北を目指す、という案は悪くない。かつての僕の定宿「楽宮旅社」の無い現在のバンコクで「台北旅社」に逗留という手もあるが、そして自分が経験をしておいて何だが、これはさすがに教育に悪い。
アンコールワットは想像を超えて凄い。一生に一度は訪ねる価値がある。とすればホーチミンあるいはバンコクでプロペラ機に乗り換えてシェムリアップ。しかしあの広大な遺跡群は熱帯の森と共にある。気温35度、湿度は現地の人に訊くのも恐ろしい、そういうところを1日に15キロも歩いて1年しか経っていない僕は、とりあえず今は遠慮をしたい。
「どこかへ行ってしまえ」と家内に言われることは嬉しい。しかし次男を連れての旅行となれば、あれこれ頭を悩ますことになる。そして「行くとしたらどこが希望か」と、とりあえず次男にハガキを書く。次男の意見の容れられる可能性はほとんど無いだろうが。
今月8日から胃の調子をくずし、同日の夜から断食、おかゆ、うどん、たまに普通食という食事を13日まで続けた。このあいだ飲酒は一切していない。そして14日の午前にかかりつけの病院を訪ね、検査のための採血をしてもらった。
その結果を本日午前に知る。γGTPが57なんてのは大人になって以降の最良値ではないか。「200以下にしてください」と言われ続けている総コレステロールは155、LDLコレステロールは91、中性脂肪は43。これほど良い数字は滅多に出るものではない。
「胃が不健康だと、血液は健康になりますね」と言うと担当の医師は苦笑いをし、胃腸を専門としている病院に紹介状を書いてくれた。
「折角、良い数字になったのだから」と、夜は地味目のメシを食べる。夜とはいえ空はいまだ明るく、そういうときの駅前飲み屋風メニュは殊に美味い。
"Shanti Club India"のカレーは僕の場合、山本益博が鮨を食うときのように、やたらと口へ放り込み、ろくに咀嚼もせず嚥下してしまう、そしてそれをほんの数回ほども繰り返せば皿の上のものは綺麗さっぱり無くなっている、そういうケモノめいた食べ方をすると美味い。
土用の丑の日であればいざ知らず「今日は夏至だから」と妙な理由をこじつけて夕刻に鰻の「魚登久」へ行く。この店の鰻重の場合、"Shanti Club India"のカレーとは逆に、重箱の中で蒲焼きとその下のメシをほんのすこし箸で分け、それをゆっくりと口へ運ぶ。そして「片山酒造」の粕取り焼酎「粕華」で舌の脂を洗い、また蒲焼きとメシをほんのすこしだけ口に入れる。そういう食べ方が美味い。
「片山酒造」の「粕華」が幾らするのかは知らない。「魚登久」に来たら僕は「品書きの値段でなくてかまいませんから、牛乳瓶1本分くらいの量をコップにください」と頼む。
西の空にはいまだ明るみの残る時間に外へ出ると、道は通り雨で濡れていた。強い夏の香りを感じながら数分を歩いて帰宅し、すぐに寝る。
きのう早寝をしたら今朝は、というか深夜より遅く朝には早い午前2時45分に目を覚ます。窓から望む「東京ドームホテル」には、その壁の最上部と、また中ほどに赤色灯が点滅している。「東京大学」はいまだ鬱蒼とした黒い杜だ。そういう景色を眺めながら冷たいお茶を飲み、本を読む。
日中の気温はうなぎ登りに上がり、また湿度も随分と高くなった。その環境のせいか無性にカレーが食べたくなり、昼は"Shanti Club India"の茄子のカレーを、まるで流動食のように口から胃へと送り込む。
どれほど前のことだったか、神保町での晩飯の席で僕は持ち合わせが少なく、若い人たちと一緒だったにもかかわらず、僕の払った金額は、皆で出し合った中の最も少ないものだった。よって今夕のメシはその全額を僕が払うこととして、神保町の交差点から「小学館」を目指す。
「予約をしたウワサワです」と告げると「七條」のオネーサンは開店前にもかかわらず、我々を店の中に入れてくれた。そして、若い衆を同伴しなければ決して食べきることのできない羊のローストなどを肴にビール2杯とワイン2本を費消する。
なかば朦朧としながら北千住に着くと、時刻は21時08分だった。21:12発の下り最終スペーシアに乗り、23時すこし前に帰宅する。
下今市駅の窓口で日光号の大宮までの切符を求めると、その料金は3,350円と告げられたから思わず「JRが絡むと高くなりますねー」と駅員に話しかけてしまった。
東武線のみを運行する特急スペーシアであれば、下今市から浅草まで2,620円。しかし利根川を越えたところでJRに乗り入れる日光号は、浅草より近い大宮まで730円も余計にかかる。
今月から車両が新しくなった、しかしコンピュータを使うには相変わらず適していないテーブルを持つ日光号で大宮へ行く。そしてあれやこれやして、午後遅くに池袋へ移動する。池袋での、日本人によるラオス紀行を読みながらのカウンター活動には、それほどの時間は要しなかった。
丸ノ内線で甘木庵へ戻って時計を見ると20時25分。シャワーを浴びて21時30分に就寝する。
堤智恵子のアルバム"Someone to watch over me"が抜群に良い。オリジナルの2曲に加えて古い、それは古いスタンダートナンバー8曲の計10曲で、彼女は3本のサックスを持ち替えている。そのどれもが良い。録音の技術によるものだろう、堤のサックスは、いまだ客の入る前のがらんとしたクラブで、誰に遠慮をすることもなく心おきなく、それは楽しそうに吹いているように感じられる。
堤のアルバムでは"MISTURADA Batida Nova"が良かった。"Someone to watch over me"は、それに続く快挙だ。
良いアルバムに行き当たれば僕はそれを複数枚手に入れ、子供にも送ってやりたいと考える。しかし"HMV"の楽天市場店には在庫が1枚しかなかった。その1枚を僕が購入してしばらく経つと、売り切れは「在庫あり」に戻ったが、その数はまたも「1点」である。これではまとめ買いの需要に応えられないではないか。
最高のサックスを吹くにも関わらず、なぜ堤智恵子のアルバムは"amazon"でジャケット写真付きで売られるほどのメジャーさに達しないか。まぁ、売れる売れないには、演奏以外のあれこれも関係してくるのだろう。
夕刻に東京より来客があり、週のうち何度かは夜の営業もする蕎麦の「河童」へ行く。そして帰って"Someone to watch over me"を2回聴く。白眉はずばり"The way you look tonight"である。
2日間のマネジメントゲームを終えると、朝から夕刻までスキーをしたときと同じほどの疲れを覚えるのが常だ。今回のそれは更に神戸まで出かけているわけだから、近場のものよりはよほど堪えるはずだ。しかしなぜか僕は元気である。昨夜は御徒町から甘木庵までの1.5キロを、コンピュータを含んだ決して軽くない荷物を携え歩きさえした。
その理由をつらつら考えれば、それはひとえに睡眠時間の確保と飲酒量の少なさによると思われる。ネオンきらめく三宮の巷にあっても、夜9時に寝ていれば体力は保てるのだ。今回は「てっちゃんMG」主催者側の、サラリとした接客が有り難かった。
そして今朝10時前に帰社し、しかし午後には三菱デリカを操縦して鬼怒川温泉に移動する。そして複数の団体が合同しての勉強会に15時から参加をする。更には夕食を挟んでの交流会であれこれ話すうち、ときは午前0時を越えて翌日の1時30分に達してしまった。
昨夜、甘木庵に戻ってから今朝までの睡眠時間は僅々2時間30分である。よっていまだ終わりそうにない交流会を中座し、割り当てられた部屋に戻ってバッタリ寝る。
タオルもパジャマも2人分、ベッドのサイズは畳2枚分、枕の数は計5個という部屋で5時45分に目を覚ます。昨夜チェックインをするときに現金払いと伝えたところ、すこし多めの1万円を預けて欲しいとフロントの人は言った。とすればこの部屋に朝食を付けても料金は1万円に満たないことになる。「東京でも、そのくれぇで泊まれたらなぁ」と思う。そして西先生、イリエセーコさんとの3人で食べた朝食は上出来だった。
僕の第4期のゲームは上から数えて3番目、下から数えて4番目のC卓で開始された。そしてその結果、きのう三宮へ出る前に立てた経営計画より売上金額は低かったものの、予想外に固定費が抑えられ、自己資本はヴェトナム語の「バーバーバー」まで伸びた。経常利益の、期初における見込みは100円。期末に達した実際の値は98円。ここまでの接近は、マネジメントゲームを始めて初の経験である。
しかしまぁ、僕の進撃もここまでだった。同一市場内の競合相手にはつい遠慮をしてしまう、売上金額が損益分岐点に近づいたと予想されると、つい鞭を振るう手が鈍る、そういう悪癖にて「あと1個売っていれば黒字だった」という、僕のゲームにつきもののことが今回も起きて第5期は終了した。
戦い済んで日が暮れて、いや日はいまだ暮れていないが、研修室から社屋内を歩いて行ける工場の見学や、あるいは記念撮影などを経て「てっちゃんMG」は最後の講義を迎えた。
講義の後は大急ぎで感想文を書き、西先生、イリエセーコさんと共に住吉の駅まで送っていただく。明日に堺市でのマネジメントゲームを控えた先生とは大阪で、そしてイリエさんとは新大阪で別れた。
「のぞみ」と「ひかり」の乗車時間の差は、実際のそれよりも大きく感じられる。東京駅には21時20分に着いた。山手線で御徒町まで移動し、夕食を摂りながら甘木庵まで歩く。
ウチが主催する「日光MG」に参加してくださる方々の地元で開催されるマネジメントゲームには、できるだけおじゃまをさせていただきたい。しかし実際には難しいこともある。今年の2月1、2日に行われた「第21回日光MG」の参加者中、もっとも遠方から来てくださったのは「カネテツデリカフーズ」のタカハラヤスヒコさんだった。この時期の神戸であれば何とかなる。
「第2回てっちゃんMG」は、六甲アイランドにあるカネテツデリカフーズ本社の研修室で午前10時前に始まった。「てっちゃん」とは昭和20年代、当時の副社長だった村上忠雄氏の幼児期の面差しをキャラクター化したもので、現在も重要な意味を持つものだ。2日間で5期分の経営を盤上に展開するマネジメントゲームは今回、ひとつの市場を形成するテーブルが6卓、計37名のほど良い規模で行われようとしている。
マネジメントゲームについては、僕は経験年数こそ長いがゲーム運びは上手くない。ゲーム前の挙手によれば今回は初心者が多い。ゲームは上手くないが、初めての人たちが次の機会にも喜んで参加してくれるような種まきをしようと、僕は考える。
盤上の形勢を一瞥しただけで、将棋をする人は指し手の力量を理解する。見る人が見ればすぐに僕の実力の割れる内容にてゲームは第2期、第3期と進み、窓の外は夕刻を知らないまま、いつの間にか暗くなっている。
マネジメントゲーム1日目の夜は常に、西順一郎先生による"strategy accounting"の講義から第4期の経営計画へと進む。この経営計画の策定が済む前に、今夜の飲み会への参加を打診される。先週の水曜日から調子を崩して飲酒への欲求などどこにもない日々を過ごしていたものの、ここ1、2日は快方に向かいつつある。
六甲アイランドから三宮の繁華街に着いたのが何時のころだったかは、時計を確認していなかったので定かではない。とにかく雨の中を歩いて居酒屋に集合し、2時間ほどの交流をする。そして夜に弱い僕はひとりだけ会を中座し、サブローバスにてホテルへ戻る。
サボテンしか育てられない人のことを昨日の日記に書いた。育てるといえば動物も厄介だ。それほど厄介でないのは爬虫類の類だろう。蛇なら1週間ほどは放置しても平気らしい。だったら昆虫はどうか。
内田百閒の「サラサーテの盤」に、チゴイネルワイゼンに誘われたように踊る蜘蛛のことが出てくる。その蜘蛛は栓をした瓶の中に数ヶ月ほども幽閉されていたという。それが本当だとすれば、蜘蛛は蛇以上に飼い易い。もっとも書いた本人は百鬼園で、それも「サラサーテの盤」とくれば、これは本気にしない方が良さそうだ。
東武日光線、地下鉄日比谷線、山手線、東海道新幹線を乗り継いで、夕刻と夜のあいだの神戸に入る。そして上出来の夕食をいただき、三宮の繁華街のホテルに入ってすぐに就寝する。
「ウチはサボテンしか無理だ」と言った人がいる。窓辺に植物を育てようとしても、つい水遣りを忘れ、ふと気づくと枯れているのだという。僕の場合、身近に草花を育てようという気はハナからない。
しかしながら先日ある会合にてプティトマトの、プランターというのもおこがましい、袋入りの育成セットをもらってしまった。そのままどこかに置き放てば邪魔になり、しかし捨てるのもなにやら気が引ける。
よってこれを事務室からほど近い工場の壁の張り出しに置き、説明書に従って、大げさに言えば苗床作り、播種、水遣り、間引きと続けるうち、2本の芽が育ってきた。「ご趣味は」と訊かれるようなことがあれば、しばらくは「はい、プティトマトの栽培です」と答えようかと思う。
夜7時の南東の空には夏の雲があり、北西の空には夕焼けがある。6日間も断酒をしたため、今夜から飲酒の練習を始める。
2008年の秋に「はち巻岡田」で燗酒を飲んでいた。奥の席にはお婆さんの数人連れがいて、彼女たちは小さなお茶碗でごはんを食べていた。何をおかずにしていかかは知らないが、僕にはその小さなお茶碗が、しごく慎ましやか且つ上品に見えた。
今の僕には、そのお婆さんたちが食べていたほどの量の食事がちょうど良いらしい。そして朝は小さなお菓子とホットミルク、昼は少量の蕎麦、夜は指圧帰りに寄ったコンビニエンスストアで求めたいくつかのケーキ、それにホットミルクをメシというかメシ代わりとする。
ステーキを食べさせる店で「ヒレの100グラム? 向付じゃあんめぇし。サーロインで、最低でも250グラムはねぇとなぁ」と若い気になって食べきれず、残余を持ち帰って翌日のオムレツや炒飯に使ったことがある。僕はもう、大メシは食えないのだろうか。
「でけぇステーキにたっぷりの辛子をのっけて、ブルゴーニュの赤とガンガン行きてぇなぁ」と思う。
甘木庵を出て東京大学龍岡門から本富士警察まで。ここから春日通りを左折して切通坂を下り、湯島天神下を左折。不忍通りをほんのすこし経由して左折。岩崎の屋敷の石垣を左に眺めながら無縁坂を駆け上がって甘木庵。どれほどの距離か測ったことはないが、このコースを走った日々があった 。いまだ1970年代のことだ。
ようよう甘木庵の玄関に飛び込み、籐の安楽椅子に倒れ込んで、激しく打つ鼓動が平時の心拍数に戻るまでの時間を記録してみると、それは一昨日よりも昨日、昨日よりも今日と、その数字は驚くほどの速さで短縮されていった。
こうなると面白くなって翌日も、そのまた翌日も記録を伸ばすために走り続けたかといえば、僕は苦行マニアではないから4日目からは走ることをやめた。
今月8日の朝に胃の不調に気づき、もう直ったのではないかと11日の朝に通常のメシを食べてまたまた具合を悪くした。それでまたメシを抜いたり、あるいはメシの量を通常の数分の一にして、もちろん酒も抜いて今日で4日目。
いま血液検査をすれば、僕の血中の脂肪濃度やγGTPは、かなり良好な値を示すに違いない。更に、血圧については毎朝晩に測っているからよく分かる、このところの血圧は正常というよりも明瞭に低い。「酒を抜いた翌朝は血圧が低くなる」と、かかりつけの医師は言うが、僕の統計に限ってそのようなことはない、ただしメシを減らせば血圧は確実に下がる。
胃を壊して食欲をなくすと体内各部の数値は健康的なそれに近づく。絶対矛盾的自己撞着だかマーフィーの法則だか知らないが、何やら面白い。そして夜、風呂の脱衣所で測った体重は62キロだった。この4日間で2.5キロ減った勘定である。"Body Mass Index"によれば、この値は僕の身長に対して適正中の適正らしい。
"Google"に「天洋酒店」と入れて検索ボタンをクリックすると、秋田県能代市にある酒屋がヒットする。このトップペイジ最下部に、店主アサノさんのメイルアドレスがある。「目に青葉」の季節になると僕は「鯛やウニや姫竹は、もう能代の市場に上がってますか」というメイルをアサノさんに送る。
アサノさんは秋田の地酒、それも自分で試飲して納得したお酒のみを扱う酒屋で、魚や山菜を商っているわけではない。ただし「いまお薦めのお酒3、4本といっしょに送ってください」と頼めばふたつ返事で、秋田県北部の海山の旬を見定めてくれる。そしてその鯛とウニを姫竹は本日午前にクール宅急便で届いた。
僕が胃の調子をくずしたのは今週の水曜日で、以降は自重をしていたが、今朝ひさしぶりに普通の朝飯を食べたら、これが予想外にガツンと来て昼飯は抜くこととなった。
そうして満を持して夕食の卓に着き、アサノさんがお酒に同梱してくれたあれこれを肴に…と言いたいところだが胃を慮ってお酒はとりあえず冷蔵庫へ収めた。今夜は秋田の海や山を思いながら、酒ではなく女子供のように米のメシを食べる。650円の姫竹、1,600円の男鹿天然真鯛、ワンカップの器にパンパンに詰まって2,300円のウニ。炊きたてのメシと共に、いと美味し。
味噌についてのメイルマガジンを書く。ウェブショップの、味噌汁のレシピを紹介したペイジ「四季のお味噌汁」に手を加える。味噌の販売量は夏に少なく冬に多い。しばし僕は「夏こそ味噌汁」と考えている。だったら冬についてはどうなのか。もちろん「冬は当然、味噌汁」である。
と、こういうことを書きながら本日のメシについては、夕食のたまり浅漬けとほうれん草のピーナッツ和えに少量の味噌が使われたのみにて、味噌汁に縁はなかった。
スパゲティをフォークに一巻き口にして、それが予想を超えて美味かったりすると「皿の上の麺がいつまでも無くならなければいいな」と思う。そして「明日あたり、肉味噌のスパゲティが食いてぇな」と思う。しかし不調だった胃は「きのうよりはいくらかマシ」というところだから、いまだ油断は禁物である。
きのうの朝に胃の調子をくずし、以降の食事は以下になった。
6/08(水)朝 普通食
6/08(水)昼 抜き
6/08(水)夜 おかゆ
6/09(木)朝 おかゆ
6/09(木)昼 うどん
6/09(木)夜 普通食
その結果、この2日間で体重が1.5キロ減った。
「私、こんどこそ痩せるわ」と言いながらウォーキングの途中にコンビニエンスストアでロールケーキを買ってしまうオバサン、「僕、痩せるためにゴルフ、始めたんですよ」と言いながら日本橋から新橋までタクシーに乗ってしまうオジサン、そういう通称「痩せるんださん」は参考にして戴きたい。
間食をしないから、メシの前にはいつも腹を空かせている。今朝も起きたときにはもう空腹で、朝飯が待ち遠しかった。
今月から店に出し始めた「カレーひしお」を、バターを染ませた食パンに塗り、熱で溶ける系のチーズを載せてオーブンで焼くと美味い。その「カレーひしおバターチーズトースト」をサクサクとこなしたところまでは、いつもと変わらず調子は良かった。
ところが同じくチーズのたっぷり載ったホットドッグを3分の1ほど食べ進んだところでいきなり胃が重くなった。しかし残すのは勿体ないと、そのすべてを咀嚼し嚥下してしまうと、からだはにっちもさっちもいかなくなった。
昼を挟んで2時間ほどのあいだに粉末の胃薬を1包ずつ2回飲む。それがまったく効かないので、今度は錠剤の胃薬を午後の遅い時間に飲む。昼飯は食べる気もせず抜いた。
僕は風邪を疑ったが「疲れて胃の後ろが凝ってるのよ、指圧に行けば必ず良くなる」と家内は言う。しかし指圧は受けず、白粥を食べて早々に寝る。この2日間はほとんど遊んでいたようなもので、疲れることは何ひとつしていない。64.5キロまで増えた体重を落とすには、絶好の機会かも知れない。
いつでもどこでも大きなテーブルが好きだ。池袋の、大きなテーブルを備えた喫茶店で、何枚もの帳票にボールペンでコーディングを書いてひとつのシステムを作った1990年代前半の思い出は、こう言っては大げさかも知れないが、僕には大切なものだ。
同じく池袋の「男体山」ではいつ頃から飲み始めたか定かでないけれど、僕が座るのはいつも1階のカウンターだった。それが今夕に限っては「お二階へどうぞ」と言われ、狭い階段を上がってみれば、そこには嬉しいことに最高で10人はこなせそうな大テーブルがあった。
その大テーブルに着き、届いたチューハイを飲むと、僕の好みからすればそれはいささか薄い。「焼酎の生をグラスでもらって、それを足せばいいですかね」と店の人に訊くと「だったらボトルごと買っていただければ、その方がずっと安いですよ」と言う。よって2杯目からは四合瓶の「金宮」とソーダとを自分好みに配合し、それを何杯も干す。
四合瓶は底から4分の1ほどが残った。勘定を頼み、そのまま階段を降りて駅へ向かい、山手線に乗ったところで「あれ、ボトル、持ち帰るの忘れちゃったよ」と気づいても、もう遅い。
"iPhone"では"Google"に音声で文字を入力することができる。昨年、銀座の松坂屋別館へ行ったら"mono shop"が見当たらない。そこで"Google"で松坂屋の代表電話番号を調べ案内のオネーサンに訊いたところ、"mono shop"はとうのむかしに撤退したとのことだった。そしてその場所には現在"A & F"がある。
アウトドア系のザックやバッグが気になって仕方がない。そして今日の夕刻にもこの"A & F"を訪ね、あれやこれや見る。畳めば小さな固まりになってしまうデイパックに興味を惹かれたが、小さく畳めるパックは背面にパネルを持たないから中に入れる物によっては背負いづらい。僕もそれなりの授業料は払っているのだ。
そのまま外へ出て中央通りから花椿通りに入ったところで後ろから「ウワサワさん」と声をかけられる。
自由学園で3年下のゴーダタカシ君には、彼の香港駐在時代に僕のオヤジと長男が世話になり、僕もまた沙田競馬場の北側にあったクラブで酒をご馳走になった挙げ句に土産まで持たされ、更には九龍サイドへのタクシー代まで出してもらった経緯があった。しかし僕はそれ以降は無沙汰を続けて気づけば幾星霜、である。
そして本日、ようやく僕の方から「銀座で鮨でも」と、8丁目の「よしき」で待ち合わせたのが、そこへ至る前に首尾良く出くわした、というわけだ。ゴーダ君とは旬のあれこれを肴に旬の日本酒を飲み、21時に解散する。
ホンダフィットで道路を走りながら隠居のシャクナゲをチラリと見て、それが満開になっていることは知っていた。実際に庭に足を踏み入れることなく車窓から、というところが情けない。そして今朝、道路掃除の途次に塀の外から近寄ってみれば、それは既にして盛りを過ぎていた。
工場の、3月11日の地震により崩落あるいは全体的にずれてしまった屋根瓦は数週間前に復旧した。隠居の塀の瓦もきのうまでに復旧した。そして今日から瓦屋さんは、屋上にあるエレベータ機械室の瓦を直している。
機械室はウチの屋上に、まるでペントハウスのようにあって、これが特殊な揺れ方をしたのだろう、やはり熨斗瓦が右へ左へとはみ出して、それを抑えるかまぼこ形の瓦が苦しそうにしていた。それを発見したのは「念のため」と、ここへ登ってみた僕で「こんなところまで直さなきゃいけねぇのか」とため息が出た。しかし安全対策は怠れない。
屋上には立派な足場が組まれた。修理するのは猫の額ほどのところである。「念には念を」という仕事ぶりである。
今夏パリへ去ってしまう今井アレクサンドルから個展の案内が届く。今井のハガキにある絵はいつも良い。そして「これと同じの、描いてよ」と言っても今井は描けない。これには秘密があるのだ。
自分の絵がハガキになれば、その絵が良く見えるのだ。そして今ごろはとうに人手に渡ってしまったのではないか思われる絵がハガキにあれば、そちらの方がよく見えるのだ。あまり気にしない方が良いと自らに言い聞かせながら、やはり気になってしまうのだ。
次男は来週の月曜日から遠足へ行く。自由学園の遠足は登山である。男子部高等科の今年の遠足は八ヶ岳の縦走だという。「頑張ってください」で終わる葉書を書き、朝のうちに投函をする。
自由学園に在学しているとき、1年のうちで何が最も気分的な圧力になっていたかといえば、それは遠足である。僕は前穂高岳の登攀といった、いささかの危険は伴うけれども歩行距離はそれほど長くない、という遠足は苦にならなかった。ゲンナリしたのは南アルプスの八丁坂や馬鹿尾根である。
縦走は、やがて登らなくてはならないと分かっていながら下らなければならない、それを繰り返すところが心理的にきつい。
長男は明日から海外へ1ヶ月の出張をする。「頑張ってください」で終わるメイルを書き、夕刻に送る。
築地魚市場の場内にあって、いつも「スッ」と入れた「高はし」が行列の店になってしまったことに気づいたのは2007年の3月だった。客の数が増すに従って無知無遠慮なクレームも増えていったのだろう、店の前には、僕の常識からすればしごく真っ当な、しかし日本の客商売に鑑みればいささか過激な5ヶ条の注意書きがあった。
それから4年と3ヶ月を経た今朝、その「高はし」へ行ってみると、店の前からは行列も注意書きも消えていた。過激な注意書きを恐れて客が減ったのか、一時の流行が去って馬鹿馬鹿しいクレームも少なくなったので注意書きも外したのか、それについては知らない。
もっとも今朝はあの「大和寿司」にも、待ち人はひとりもいなかった。今日の築地がたまたまヒマだったのか、あるいは3月11日の大地震以降の影響がこのようなところにもあらわれているのか、これについても僕には分からない。
夏用のスーツを誂えるべく、午後の遅い時間に「テーラー高原」で採寸をしてもらうと、昨年にくらべて4センチも胴回りが増したとタカハラシンタローさんが言う。よって「あー、原因は多分、きのうの晩飯と今日の朝飯です。すぐに縮みます」と言っておく。
先日、僕の携帯電話に10万円を超える請求があった。「多分ベトナムがらみだろう」と考え営業所へ行くと、オネーサンは僕の情報を呼び出したディスプレイを見ながら「そうですね、お使いになってますね」とのことだったから僕も「はぁ、やっぱり」と、そのまま帰ってきた。
先週末に帰宅した長男にこのことを伝えると「おかしいな、1回くらいは減免措置を受けられるはずだけど」と言う。よって週が明けると同時にふたたび営業所を訪ねた。
「それでは本部に問い合わせてみますね」と、オネーサンはカウンターからどこかに電話をし、受話器を持ちながら「出かけた国」「出かけていた期間」「その国でどのような使い方をしたか」について訊ねた。
結論から言えば、今回のベトナム滞在中に発生した使用料10万円弱から海外パケットし放題の日数分を減じた額が「今回1回限り」の条件つきとはいえ払い戻されることになった。大いにめでたい。
そして今朝は神保町の"Computer Lib"に来て「そういえば」と気づいたことがあった。先般ここで行われたセミナーの参加費を1万円札で支払ったところ「盛況にて釣り銭が枯渇した」とのことで、その分を貸して帰ってきたのだ。それを言うと「そうでしたか、スミマセンでした」と、マヒマヒ社長は自分の財布から相当額を返してくれた。元はといえば自分の金だが、これまた携帯電話の場合と同じくトクをした気分になった。
そういうお金を貯金箱へでも入れれば僕も大したものだ。しかしそうはいかないところが悲しい。夕刻より銀座へ出て結局のところ、7丁目にボトルをキープしてしまう。ボトルとはいえコニャックではなく焼酎だったが。
社員たちと製造現場で残業をするうち午前0時を過ぎてしまった。残った仕事はまた明日にすべきとの暗黙の了解が各々に行き渡るころ、コヤマデンキのコヤマアキラさんが通用口から顔を出して僕に笑いかける。
防蝕用の塗料を塗ったコンクリートの床を、通用口まで一直線に歩く。外にはいつの間にか少なくない雪が積もっていた。そしてコヤマさんは"Hart"の白いスキーを履いていた。僕もその場でスキーを履き、日光街道と芝崎新道のあいだの細い道を、コヤマさんと北西へ向かう。
深夜の空は暗く、しかし月明かりによるものか雪面は明るい。今市小学校の校門から瀧尾神社へ向かって勢いよく飛び出せば斜面は予想外にきつく、おまけに圧雪は寒風にさらされて凍っている。とっさに僕は斜面に対してスキーを直角にした。しかしそこに雪はほとんど無く、スキーは荒れた氷の上をガリガリと滑っていく。
坂下つまり日光街道の手前で止まれなければ、そして深夜といってもそこに走るクルマがあれば、僕はそれに跳ねられ死んでしまう。そう恐れてもスキーは滑り続け、そのまま日光街道に飛び出し、そして対面の歩道と思われるところでようやく止まった。
この難所をどう乗り切ったか、コヤマさんはいつの間にか僕の横に来てニコニコと笑っている。我々はそこからまた急斜面を下り、上今市駅の踏切を渡って更に雪の中へと浸透していく。
と、そこに見慣れた路地があらわれ僕は「あ、あのモツ焼き屋のところだ」と気づいたが、あたりには深閑と眠りに就いた街があるばかりだ。するとコヤマさんは「こっちです」と案内しながら更に細い路地へと左に折れた。なるほどすこし先の左側には僕にも覚えのあるモツ焼き屋が見え、コヤマさんは「こんばんはー」と声をかけながら店の中へと入っていった。
店の前で"LANGE"のスキー靴をビンディングから外し、ひと息つくと、この店に飼われている、スピッツと柴犬をかけ合わせたような、あるいは小さなチャウチャウのような犬が「遊んでくれ」とばかりに盛んに尾を振る。
目を覚まして枕頭の時計を見ると時刻は午前1時25分だった。そして「面白い夢だたなぁ」と、その夢を頭の中に反芻しながらふたたび布団の中へと顔を埋める。