午後、あることを訊くため人に電話をしようとして、しかし相手の電話番号は携帯電話にしか残していなかったことに気づく。ところが肝心の携帯電話が見つからない。
夕刻になってもそれは発見できず、よって記憶を辿ってみると、この「置き忘れ」には何やら忌々しい気分の含まれていたような気がしてきた。そしてようやく携帯電話のありそうな場所を特定する。
昨夕、お茶や花を仏壇から下げて台所へ持って行くと、流しにはオアシスに差し込まれた花束があった。それがあると湯飲みなどを洗うことができない。よってその花束をオアシスごと持ち上げたら床にダラダラッと水がこぼれた。
その水を拭こうとかがみ込むと、ズボンのポケットに入れた携帯電話が圧力を受けてピコピコッと反応した。カメラのスイッチがオンになったらしい。そんな状態で床を拭くことはできないから立ち上がり、その携帯電話をポケットから取りだして調理台の上に置いた。以降、携帯電話はそのまま24時間ほどもそこにあった、というわけだ。
「○○さん、なんで家に電話してくるかなー、ケータイなら直ぐ出られるのに」という人がいたが僕は逆だ。「○○さん、なんで会社じゃなくてケータイに電話してくるかなー」である。携帯電話などいつもどこかに置き忘れて、だからいつも手元にはないのだ。
朝のテレビの画面にダウンパーカのアイコンが出る。と同時にアナウンサーは今日の気温の低さを説明し「ダウンパーカをお持ちの方は…」と、それを着て家を出ることを勧めた。
高城剛が光文社新書から出した「サバイバル時代の海外旅行術」は名著と言って良い。特にモバイルコンピューティングについての部分は秀逸である。
ところで高城はこの本の中で"Duvetica"のダウンパーカを推奨している。推奨の理由はそれほど具体的には書かれていない。「かっこいいってだけじゃねぇの?」と揶揄したくなる気持ちが僕にはある。"Duvetica"のダウンパーカは胸やポケットのジッパーがゴツく、それだけで街では大いに目立つからだ。
それではこのイタリア製のダウンパーカが欲しいかとみずからに問えば別段、欲しくはない。"UNIQLO"の、今冬の日本においては、まるで毛沢東時代の人民服のように風景を席巻しつつある「プレミアムダウンウルトラライトジャケット」の十数倍もする値段に二の足を踏んでいるからではない。北国の夜に歩哨に立つでもない僕にダウンパーカは必要ないのだ。
ここ数年ほどは、木綿のシャツとウールのジャケットの2枚を着ただけで、僕は1月の東京の路上で汗をかく。そして「学生のころはダウンパーカを着ても、暑さは感じなかったよなぁ」と、昔のことを思い出す。
「ダウンパーカをお持ちの方は…」と言っていたのは日本テレビ放送網株式会社の社員だ。「2010年11月の新橋にダウンパーカは必要ねぇだろう、やっぱ」と思う。
食べ物の好き嫌いがなくて良かったと最も感じるのは会席料理屋へ行ったときだ。会席料理屋では料理の内容は大抵おまかせで、自分であれこれ選ぶことはできない。
生魚が嫌い、川魚が嫌い、貝類が嫌い、漬物が嫌いというような人はさぞかし不便と思うが、そういう人は会席料理屋では嫌いなものは人にくれてしまい、鮨屋では卵焼きと胡瓜巻きと干瓢巻きだけを食べて恬淡としている。自分ではさほど不便とも感じていないのだろう。
このところ農協の直売所へ行くと、夏のあいだ姿を消していた葉物がふたたび現れ始めていて嬉しい。今朝は菜の花のような花をつけた「アスパラ菜」というシールの貼られた葉物を、商売の材料とは別に買ってきた。
香港で粥麺専家に入り、お粥だけでも構わないのだが、まぁ、他にも何かつき合うか、というときにはいつも「 (虫豪)油時菜」を頼む。「時菜」とは季節の野菜のことで、何が出てくるか分からないところは、大げさに言えば会席料理屋で感じる愉しさに通じる。
油通ししたアスパラ菜を(虫豪)油で味付けし、これをメシの上にぶっかけたら香港を飛び越えて、まるでタイのメシのような香りを放つのはなぜだろう。そして"KIRIN FREE"は、今の僕には「キリン一番搾り」よりもよほど美味い。
新しく作りたいハンコの原稿を持って三興社彫刻店へ行こうと日光街道を下る。そして蕎麦の「いとや」の前まで来ると「新蕎麦出ました」の張り紙があった。よって今日の昼飯はここの蕎麦にすることを決める。
昼すこし前に「いとや」を訪ね、なめこおろし蕎麦を注文する。その直後に、長い距離を歩いて移動することを趣味にしているような人たち14名が入ってきた。彼らの注文がすべて済むと、「いとや」の昼の蕎麦はそこで売り切れになった。時刻は正午を過ぎたばかりである。
午後、店に立っていると「湯波料理を食べさせる店、ありますか」とお客様に訊かれたため、かねてより店に置いている案内書をお渡しする。そして「いらっしゃる前にお電話なさってくださいね、店が開いているかどうか分かりませんから」と言葉を添えた。
すると「え、そうなんですか?」と怪訝な顔をされたため「もう1時35分ですからね」とお答えをした。そして、ここで止めておけば僕も「如才ない人」の範疇に留まっていられるのかも知れないが「美味しいものを召し上がりたかったら、下調べと予約は必須ですよ」と言ってしまう。
去年だったか一昨年だったか、やはりお客様から「日光に、本当に美味しいフレンチはありますか」と訊かれたことがある。よって僕は「はい、あることはありますが、本当に美味いフランス料理を出すような店は、午後2時35分には商売してませんよねぇ」とお答えをした。
そうしたらそのお客様は「だったら本当に美味しいイタリアンは、ありますか」と質問の方向を少々変更されたが当方の答えは先ほどと同じである。
本当に美味い物を食べたかったら、なぜそれなりの準備をしないか。それが僕には不思議でならない。
「日光の地野菜のたまり浅漬け」の材料を買いに、今朝も農協の直売所へ行く。毎日のように直売所に通うと、万事便利な世の中に暮らすうちいつの間にか失ってしまった、野菜の旬についての感覚が戻るから有り難い。
数日前より出始めた柚を横に眺めつつ、今日も商売とは別会計にて十字架植物系の葉っぱを買う。先日は油菜を買った。そして今日は冬菜である。これらの葉はおしなべて厚く、幾分かはゴワゴワしているが、おひたしにしても味噌汁の具にしても、僕はほうれん草などよりよほど好きだ。
おひたしには、僕はたっぷりの酢をかけまわす。するとそれはおひたしなのか、はたまた酢の物か判別のつかないものになる。そういう季節の野菜を肴に飲む夜のお酒が、大いに悪くないのだ。お陰で今月の断酒ノルマは、先月に引きつづき達成されそうもない。
秋季小祭が10時より行われるため、9時45分に瀧尾神社へ行く。時期からすれば新嘗祭とおなじく、これは収穫に感謝をするお祭りである。参道には各町内の自治会長や神社総代の大半が集まっていた。
手水を使った手を懐紙で拭いて定時に昇殿する。春の大祭にはいろいろと複雑な手順もあるが、小祭と呼ばれるだけあって秋の神事はごく短く終わる。10時30分には早くも直会の始まりである。
当番町朝日町の自治会長、宮司に続く責任役員の挨拶は、本日は僕が指名をされた。
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今となっては記憶も薄れがちではあるが、今年の冬はとても寒かった。春先、知り合いの農家からは、米のまともな収穫を諦める声も聞かれた。そして夏は一転して猛暑となり、初秋には強い雨により倒れる稲も多かった。
夏の奇水祭りにおける宮司の見立てによれば、秋には強めの台風があり、収穫は平年並みとのことだった。強雨はその見立てのとおりだったかも知れない。
ウチは日光の大豆と日光の米を用いて味噌を造っている。そのようなわけで穀物の出来には春先から心の細る思いをしてきた。しかしいざそれらが収穫され、味を見てみれば、これは平年と変わらない美味さで、大いに安心をした。
当番町朝日町による、多くの人を集める催しは今日で終わる。そしてことしも大晦日までつつがなく至って欲しい。
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という意味の挨拶をして以降は、仕事中ということもあり、ごく少量の日本酒を飲む。そして夜は「第210回本酒会」の例会にて6種の日本酒を飲む。
深夜ちかくにテレビのスイッチを入れるとちょうどニュースの時間で、月島の居酒屋にミシュランガイドの星が付いたと、アナウンサーが言っていた。「味泉」の名を思い浮かべると案の定、アナウンサーの口からもおなじ名前が出た。
この日記を遡ると僕は2002年の8月と2003年の9月にこの店を訪れている。甘木庵の最寄り駅である本郷三丁目から月島までは地下鉄大江戸線で僅々16分の距離だが、以降7年のあいだ無沙汰をしているにはわけがある。
「味泉」は素晴らしい店で、いつも大繁盛の大混雑だから、料理を注文してもそれが客の前に運ばれるまでには異常なほどの時間がかかる。オープンキッチンに立つオヤジを席から振り向いて仕事の進捗状況を見ようとすると、腰の低いオヤジは身を縮めて頭を下げる。
そんな具合だから今は「味泉」へは行っていない。あの「味泉」にミシュランの星など付いたら、これから一体全体どうなってしまうのだろう。
人に勲章を叙するとき、相手がそれをすんなり受けるような人物か否かを、担当の役所は前もって調べるという。「イヤダカラ」というような理由で断られたら役所のメンツがつぶれるからだ。
ミシュランガイドも事前に店の意向を訊くというような話もあれば、断っても載せられてしまうという話もある。いずれにしても星の付くまでが、客にとっての勝負である。
先週の土曜日より本日まで、我が町の「日光だいや川公園」では県内外から人気の蕎麦屋25店を集めて「日光そばまつり」が開催されている。
昼がちかくなると、国道121号線から会場までの渋滞を一瞥するなり正規の行き方を諦め通り過ぎてきたのか、ウチの店までいらっしゃって「裏道、ありませんかね」とお訊きになるお客様が増えてきた。
「日光そばまつり」会場までの裏道がないわけではない。しかしそれは田んぼの畦道に毛の生えたようなものであり、とてもでなはいが口では説明しきれない。また付近の地図もない。クルマとクルマが鉢合わせをすれば、どちらかが長い距離を後退しなければならないような幅員であり、またそのようなところにクルマがあふれれば、付近の住民が迷惑をするだろう。
「日光そばまつり」は人気の催しで、下調べもなしにいきなり昼ごろ来ても会場へは達しがたい。来年はぜひ、市内の旅館に前日から泊まり込んで、早朝の会場入りを目指していただきたい。もっとも行き当たりばったりの人は、次の機会にもまた行き当たりばったりの行動を繰り返すのが常である。
「日光そばまつり」の開催中、日光市今市地区の旧市街では「日光"焼き"そばまつり」が行われている。仕事の合間を縫って会場を訪ねてみれば、長い行列の出来ている店もある。時間のない当方は行列のない店ふたつから各々1人前の焼きそばを買い、これを昼飯とする。行列のない店の焼きそばは美味かった。
忙しい季節にはなかなか飲み屋へ行くことができない。よって夜は録画しておいた吉田類の「酒場放浪記」を視て、これをカウンター活動の代償行為とする。
ある晩、ある飲み屋に、顔見知りのオヤジがかなり酩酊して入ってきた。オヤジはカウンターの、僕のちかくに座るなり「酒、くれー」と言った。オヤジの状態を見たオカミは燗酒を1合徳利で出した。するとオヤジは「バカにするんじゃねー、もっとデカいので出せー」と叫んだ。
とんだ狼藉者と思われるが、このオヤジは普段より愛嬌のある人物により、僕も他の客たちもオカミも不快感は覚えていない。そしてオカミは如才なく「あら、飲めるの?」と、徳利を大きなものに換えた。
結局のところオヤジは猪口で1、2杯を飲んだだけで更に酩酊した。やがて「タクシー、呼べー」と大声を上げ、歩いて数分の距離をタクシーで帰宅した。
本日夕刻、ついでもあってスーパーマーケットの肉売場を歩きながら200グラムをすこし越えるほどの牛ロース肉を買った。そしてこれを焼いて晩飯にしたところ、3分の2までは食べられたが、それから先へはどうしても進めない。
「余った肉は後日、オムレツの具にでもするか」と考えつつ冒頭の、大徳利を出せと威張りながら猪口で1、2杯しか飲めなかったオヤジを思い出した次第である。
「電波時計が3分進んだままとは、どういうことだろう」とは今月8日の日記に書いたことだ。先週の金曜日に、この時計を買った銀座の小さな店を訪ね、状況を説明すると「多分、バッテリーの消耗でしょう」と、電池を交換してくれた。電池代は1,575円だった。
金を貯めようとして貯められない僕が何とか窮乏しないでいられるにはいくつかの理由がある。そのうちのひとつは高価な時計に興味を持たないこと、また別のひとつは酒を好んでも外ではほとんど飲まないことだ。これについては死守しないといけない。
それにしても先日「銀座教会」の"LEMON"で、ある珍品時計について質問をしたときの、店員の生き生きとした表情は忘れられない。自分の専門分野を語る嬉しさは、学者だけに限らないのだ。
ところで今月はシャンペン15本を大人買いした。「外で飲むことを考えたら安いものだ」とは、僕の言語的免罪符である。
きのうは「三州屋銀座店」の後にもちと寄り道をし、更なるカウンター活動にてカクテルを4杯ほども飲んだため、北千住に至るころにはかなり酩酊していた。そして今朝になって"ISKA"のギヤバッグを開けると、見慣れない雑誌が入っている。
しかしその表紙を一瞥して疑問は氷解した。表紙が丸ごと自由学園のクッキーだったのだ。
北千住駅構内の本屋でこれを目に留め、直ぐに買ってバッグへ入れたのだろう。
僕は11年前に、このクッキーについてウェブペイジに書いている。そしてそれはいまも読むことができる。身びいきで言うわけではなく、このクッキーは本当に美味い。
そして「酔ってはいても、愛校精神は発露するもんだねぇ」と、その表紙を改めて眺めながら自画自賛をする。
満席でもないのに、注文しようとする客は「ちょっと待って、ひとりでやってんだから」とオバサンに言われ、それからしばらくは放置される。
客はそれを知っているから放置されてもしばらくは食いつなげるよう、3、4種の肴を一度に頼む。そしてそのため厨房とお運びのオバサンはますます忙しくなる。「三州屋銀座店」における見慣れた風景だ。
やがてオバサンは「ちょっと待って」ではなく、がらりと戸を開けて入ってくる新規の客に「支店、行って」と言うようになった。そう言われた「客になり損ねた人」の中には、大人しく従う人もいるし、また時にはピシャリと音も高く後ろ手で戸を閉めて出ていく人もいる。
「ひとりで接客をしているから客を待たす」ということは「複数でやれば客を待たせない」ということだ。放置されなければ客は一度に多くの注文を口にすることもなく、厨房とオバサンの作業は平準化する。より多くの注文を受けることもでき、満席でもないのに客を断ることもなくなる。オバサンを複数雇用しても、その人件費を補ってあまりある粗利を確保することができるのではないか。
エリヤフ・ゴールドラットが日本に来ることがあれば、ぜひ「三州屋銀座店」で酒を飲んで欲しい。
「三州屋銀座店」の美質は何かと問われれば「いろいろあるけれど、急かされないところかなー」と僕は答えるだろう。急かされない代わりに、オバサンもなかなか来てくれないわけだが。
製造係タカハシアキヒコ君の、裾も袖先も伸びきり、元の紺色は褪せていまや水色になってしまったスウェットシャツを見て先日「それ、良いなぁ」と褒めた。バカにしているのではない、心底褒めた。
高校3年生のとき、同級生フカミカズヒロ君の、南禅寺ちかくの家に何日か泊めてもらった。フカミ君とお兄さんヤスヒロ君の部屋を隔てる襖には、その真ん中にいくつもの穴が開けられ、その穴を、兄弟が共同で使うオーディオだか無線機の電線が貫通していた。
襖に穴を開けてしまうのも凄いが、端ではなく真ん中に開けてしまうのだから更に凄い。そして僕は心から「すげぇ」と感心した。
使って使って使い込んですがれたものは、珍重するに足る風情を持つ。しかし僕は道具を可愛がりすぎるため、腫れ物に触れるように接して、結局、それはいつまでも新しいままであることが多い。
ところがここに例外がひとつある。"ZERO HALLIBURTON"のトランクだ。
"ZERO HALLIBURTON"は優れた会社だが、ことキャスターについては競合他社に出遅れた。そしてとりあえずの方策として、小さなキャスターを旧来のトランクにリヴェット留めした。僕のトランクは、その時代のものである。
「とりあえずの方策」による品は、すぐに行き詰まる。キャスターは大して使わないうちに動かなくなり、以降はずっと、この大きなトランクをキャスターの壊れたまま使ってきた。
昨年ふと思い立って、この壊れたキャスターをすこし大きなものへと、クルマの修復を本業とするタシロジュンイチさんに頼んで換えてもらった。 そしてそのキャスターは2度の旅行に耐えて3度目にへし曲がった。どこかの空港で放り投げられ、キャスターを下にして斜めに落下したのだろう。
「あんまり直してると、そのうち新品が買えちゃうんじゃないですか」と電話口で笑うタシロさんを呼び、「今度はトランクの内側と外側に鉄板カマしてさ、そこにもっとデカくてもっと丈夫なキャスターをボルトで固定しちゃうんだよ」と提案した。
それが本日できあがってきたため、当該の部分を検分する。「またキャスターが壊れたら、今度はボルト留めですから、簡単に交換できますよ」とタシロさんは言った。
トランクを持ち上げると、キャスターの重みでそちらの側がすこし下がる。本体に不釣り合いなほどキャスターは大きいわ、どこの空港で突起物にぶつけられたのか穴は空いているわの"ZERO HALLIBURTON"だが、ここまで使い込むと新品には容易に換えづらい。
この"ZERO HALLIBURTON"は、僕の道具の中では珍しく侘び寂びを備えている。だから僕はこれを見るたび、何だか嬉しくなるのだ。
ハロルド・メイバーンのCDを聴くたび「ピアノ、下手だよなぁ、これでよくピアノでメシ、食っていられるよなぁ」と思う。「ミスタッチするようなところじゃねぇだろう」というところで隣のキーを叩く。「鍵盤よりも指の方が太てぇんじゃねぇか」と質したくなるくらい、隣のキーを叩く。
それでいてなぜ僕はハロルド・メイバーンのピアノを聴くか。それはこのピアニストの、良く言えば「解釈」、悪く言えば「好き勝手」の中に、ほんのすこしの叙情性があり、その、砂山に埋もれた一粒の真珠のようなものに行き当たりたいために聴くのかも知れない。
ところでアルバム"DON'T KNOW WHY"の中の"My Favorite Things"におけるハロルド・メイバーンの外れぶりは凄い。「君、そんなところまで行っちゃって、一体どうやって本線に戻すつもりなんだ」と、誰もが心配するようなところまで、まるで思慮に欠けた子供のように飛び出しながら強引に元に戻ったかと思えばまた飛び出そうとする。ハロルド・メイバーンのCDを買うには、少しばかりの思い切りが必要である。
"THERMOS"は日本では「サーモス」と、そのウェブペイジにも書いてある。しかし山に登る人は"THERMOS"を「テルモス」と読む。テルモスの中空タンブラーの保温性は凄いと仲間のひとりが言いだし、共同購入してから10年は経つだろうか。そして僕はこのタンブラーを使わないまま玄関奧の薄暗い隙間に突っ込みっぱなしにしてきた。
きのう今日の山の白さにふとこのタンブラーのことを思い出し、いよいよ箱の封を切った。そして焼酎のお湯割りに使ってみれば、しかしその保温性は普段使いの、雲仙焼きのコップと大して変わらなかった。
よって食後にはこのタンブラーを入念に洗い、玄関奧の薄暗い隙間にふたたび戻す。
四半世紀ほど前の数年間は決まって、12月30日に奥日光でキャンプをした。冬のキャンプは雪の上に張るのでテントは汚れず、そのテントの中で湯豆腐を肴に燗酒を飲むことはしごく楽しかった。
「人間は情けねぇよなぁ、テントの中でストーブ焚いてよー、動物はこの雪ん中でも動き回っているんだぜ」という、そのときのヨコタジュードーの言葉は今でも覚えている。そして日光の山に雪が見えると、いつも決まってその「人間は情けねぇよなぁ」を僕は思い出す。
とにかく冬の夜のキャンプは「湯豆腐に燗酒」「水餃子に燗酒」「おでんに燗酒」である。フランスパンに赤葡萄酒などとしゃれ込むと、とんだしっぺ返しを食うのだ。
ここ1ヶ月ほど右の肩が痛い。朝、シャツを着ようとして腕を水平にすると右肩の中心部に痛みが走って、それ以上のところまで上げることができない。そして「ひょっとして、これがいわゆる五十肩というものだろうか」と考える。
「五十肩なんてもんは外科で注射を1本、打ってもらえば治る」と、むかしオヤジが言っていた。しかしそういう方法で痛みを解消するについては気の進まないものがある。
どれほど前のことだったかと調べてみると1998年1月、僕は仲間内で京都へ行った。僕はその旅行の幹事のようなものだったが、出かける2日前にぎっくり腰を起こした。ぎっくり腰は通常、2日間では治らない。
よって街の外科医を訪ね、二の腕に注射1本を打ってもらうと「その瞬間から」と言っても過言ではないほど直ぐに痛みは去った。痛みは去ったが僕は何やら不気味なものを感じていた。どう考えても不自然である。
右肩の痛みはとにかく、圧すとか揉むとか鍼を打つとか、そういう方法で治したい。
30分ものあいだ1本の電話も入らない。「どうしたことか」と不思議に感じていると、番号の異なる電話2台がいきなり鳴る。そういうときに限って事務係は留守で、店は混雑している。製造現場からは商品の出来映えを見てくれなどという要請があり、荷物を届けに来た運送屋は「ハンコを押してくれ」と伝票を持って立っている。
世の中のあれこれはなぜ、いきなり大挙して押しかけてくるのか。鳥は夜が明けると同時に啼く。雨が降っていれば雨の上がったと同時に啼く。人間の意識下あるいは生理にも、その鳥と共通する何かがあるのかも知れない。
大挙しての押しかけに阻まれて、数日前よりしようとしていることができない。「だったら人も来なければ電話も鳴らない夜にそれを行えば良いではないか」と、もうひとりの自分が言う。
今夜は生憎と飲酒を為してしまった。よって数日来できないでいる作業は明日の夜に持ち越そうと思う。
おととい社内的披露宴を行った販売係のツカグチミツエさんは、きのう新居に引っ越しをし、その初の晩飯はトマトのパスタだったという。それを耳にして何だか悔しい感じがしたので、僕も晩飯はスパゲティにしてもらうことにした。
終業後にワイン蔵へ行くと、バキュバンで栓をした白赤各1本のボトルがあった。その白ワインの方はグラスに注ぐと1杯に足りず、また赤ワインの残量を見ても、1晩に摂取するアルコール濃度としてはいささか心許なかった。
よって白ワインを注ぎきっていまだ隙のあるところを"BEEFEATER"のジンで満たす。白ワインとジンによるカクテルがあったかどうかについては知らない。それでもこの飲物はなかなか美味かった。その、白ワインとジンのまぜこぜを干して後は赤ワインに移行する。
美味いスパゲティが皿にてんこ盛りになっているのは嬉しい。「食っても食っても無くなりそうにない」というところが嬉しい。しかしそれもいずれは少なくなり、その、スパゲティの漸減に反比例して腹の満たされてくるのも嬉しい。
そして一服盛られたようにして直ぐに眠ってしまう。
日光の地野菜をたまりで浅漬けにする「たまり浅漬け」の材料を手に入れるため、今朝も農協の直売所へ行く。浅漬けの材料は、今朝は大根と決めてカゴへ収め、他に何かないかと歩く。そうするうち枝付きの唐辛子を見つけて、これも買うことにする。
唐辛子は口に入れるためではなく飾るために買った。そして事務室の流しの下から銅製の花瓶を取り出し、ここに唐辛子を投げ込む。花瓶は店舗の奧の、絵や壺の飾ってある棚に置いた。イタリアの国旗を持ち出すまでもなく、赤と緑の相性は悪くない。
連雀町の「まつや」に、あるオジサンを見かけることがある。オジサンの顔は、僕と長男がかつてお世話になった英語の先生に似ている。オジサンはなぜか決まってトイレちかくの卓に着いている。そしてトイレに近づく客があると「いま空いてるよ」「いま入ってるよ」と、逐一トイレの混み具合を教えてくれる。
オジサンは常連らしく、普通の客には供されない形つまり酒を蕎麦猪口で飲んでいる。そして肴はすいとろであることが多い。
今夜のメシは蕎麦と聞いたとき、僕は真っ先にこのオジサンのことを思い出した。そして蕎麦には鳥わさとすいとろを添えるよう家内に頼んだ。
実際には、蕎麦には鳥わさとすいとろだけでなく温泉玉子も付いていた。そして僕はこの晩飯だけでは足りず、ドーナツにレヴァーペーストを塗りつけて食べ、またチーズも食べた。「まつや」のオジサンなら、こんなゲテな晩飯の仕方はしないだろう。
ところで「まつや」の品書きにすいとろはない。オジサンの肴は、ことによると「そばとろの蕎麦抜き」なのかも知れない。
このところずっと晴れの日が続いている。そして今朝も空は快晴だ。
現在、店の入り口右側に出してある季節のことばは「秋惜」で、これをそろそろ「冬耕」に換えようとしていまだにできていない。頭の中の"to do"リストには他にも「いまだにできていない」ことが目白押しである。
販売係ツカグチミツエさんの社内的披露宴にて夜、社員たちと居酒屋の「蓮」に集合をする。高橋義孝による「正月がめでたい理由」よりもなお、人と人とが結婚をすることはめでたい。皆で食事をし、お酒を飲む。ケーキカットがあり、プレゼントの贈呈があり、記念写真を撮影する。
ウチは味噌醤油漬物という伝統的な商品を作りながら社員の平均年齢はかなり低い。よって今回のような席は、今後も適度の間を置いて続いていくだろう。
朝日を浴びた秋の野山が、どのような絵画よりも美しい。そういう景色を目の当たりにして思うのは「写真になんか撮っても無駄だ」ということだ。現実に勝る写真の無いわけではない。しかしこと今朝の景色に限ってはカメラに納めても無駄だ。そしてその野山から視線を30度ほど右に振り、日光の山の上に流れてきた雲を撮る。
店舗駐車場の紅葉がいよいよ限界まで色を濃くし、ハラハラと葉を散らし始めた。国道121号線を走るバスが赤信号で停まると、その左の窓際に座った乗客はかならずこの紅葉をじっと見る。この紅い色が目にはよほど綺麗に映るのだろう。
11月に入ってから1日しか断酒をしていない。酒を飲み続けるとからだが内側から膨張してくるような感覚がある。酒を断つにはいきなりメシを食べてしまえば良い。そのメシも、酒をあまり飲まない地域の影響を受けたものが良い。
そして同級生コモトリケー君が9月にバンコクで手渡してくれたカオソーイの素によるカオソーイを食べ、飲酒は避ける。カオソーイの素で作ったとはいえその外観は本物には似ても似つかない。しかしココナツミルクやバイカパオの香りは紛れもなくカオソーイのそれだった。
新聞を読んでいて、たまたま書評に行き当たる。週刊誌はほとんど読まないが、たまたま読んでいて書評に行き当たる。「この本は読む価値、無いよ」などという書評はない。読めば数冊は買いたいものの出てくるのが書評というものだ。
しかしその逐一を注文していては「買いはしたものの、いまだ読まない本」が積み重なるばかりだ。よって書評にはサラリと目を通し、欲しい本があってもメモには残さない。メモに残さなければ大抵は、数時間もすれば本の名も書いた人の名も綺麗サッパリ忘れてしまう。
本の名は綺麗サッパリ忘れてしまうから都合がよい。ところが写真集の名はなぜか忘れない。そしてきのう読んだ週刊朝日の書評が荒木経惟の「チロ愛死」を褒めていたことはいまだ覚えている。
荒木経惟は好きな写真家だが、彼の撮った猫の写真、空の写真、女を縛って天井から吊した写真には興味が無い。アラーキーの写真集は、個人的には一に「東京は、秋」、二に「10年目のセンチメンタルな旅」、三四が無くて五に「遠野小説」で、だから「チロ愛死」も僕は買いはしないだろう。
しかし「本屋で立ち見くらいはしてみるか」と思わせるのが書評というもので、だから僕もどこかの本屋で「チロ愛死」に行き当たれば、ペイジを繰ってみることくらいはするかも知れない。
上り特急スペーシアの始発は7:04発だ。よって6時50分に家を出れば楽勝と考えていた。そして朝飯を食べ、事務室へ降りてザックにコンピュータなどを入れていると、しかし壁の電波時計は6時53分に達した。"Trippen"の靴紐を締めている時間はない。サンダルをひっかけザックを背負って外へ出る。
家の玄関前から下今市駅まで徒歩で8分という記録を僕は持っている。今日の持ち時間は11分だからまぁ、間に合うだろう。そう考えて二宮神社まで来たところで"JUNGHANS"の腕時計を見ると7時になっている。すこし焦って小走りになる。特急券を求める時間は無いだろう、とりあえず手持ちの乗車券を自動改札機に通せば問題はない。
そうして背中に薄く汗をかきつつ駅に達すると、改札口の頭上の時計は案に相違して、いまだ7時ちょうどを指していた。自分の時計が電波時計ながら3分進んでいたことを忘れていた。それにしても電波時計が3分進んだままとは、どういうことだろう。
特急スペーシアが北千住にすべり込む直前に、千代田線が車両故障により止まっている旨のアナウンスがある。よって日比谷線、銀座線、半蔵門線と辿って都心に出る。
「楽で楽で仕方がない。なぜか? 北千住で、サンダル履きで、酒、飲んでるから。」という画像付きツイートを夕刻、"iPhone"からツイッターの個人アカウントに上げる。サンダルとはいえ僕のは"KEEN"の"YOGI"だから、高橋伴明の「TATOO<刺青>あり」で関根恵子の昔の情人の履いていた、女物のそれよりは洒落ていると思う。
「手帳ごときに何をそんなに喜んでいるのか」と嗤われそうだが、18年ぶりに買った、いまだひと文字も書き込んでいない来年の手帳の机上にあることが嬉しい。さてこの手帳のペンフォルダーにはどんなペンを差し込もうかと考えて、いまだ決めかねている。
研究開発は青色で、宣伝広告は赤色で、教育研修はオレンジ色で、息抜きは緑色でメモしていこう、などと考えているわけではないが、まったく考えていないわけでもない。複数の色で文字を書き込もうとしても、ペンフォルダーには1本のペンしか入らない。
「MARK'Sのバネ式のフォルダーを手帳に増設すれば良いではないか」という意見もあるやも知れない。しかし手帳が肥大化することは避けたい。「4色ボールペンを使えば問題は一挙に解決じゃないですか」とは誰もが考えそうなことだ。
しかし僕は3色ボールペン、4色ボールペンの類が好きでない。どれか1色だけが早々とインクを消耗させて、しかし替え芯が見つからないとか、それほど使わない色についてはインクが固まって出てこないということが多いからだ。
そして今朝も、青と赤の固まってしまった3色ボールペンをお湯に浸し、全色を復旧させようとして数分間を費消する。
このところ何だか気分が良い。事務机の上が整っているからだろうか、いまだ真っさらな来年の手帳がその机の上に置かれているからだろうか、あるいは雨の続いた10月から一転して、今月は晴れの日が続いているからだろうか。
新製品を目白押しに出すことができて、しかもそれが良い評価を得ているせいかも知れない。1週間ほど前に納車されたハイブリッドのフィットが望外に良いクルマだったからかも知れない。
そして今日は次の新製品を試作して、その経過を観察するよう、製造係のフクダナオブミさんに手渡す。
「もしも早朝に目を覚ますことができたら、日光の紅葉の具合を調べてこようと思う」とは、3日前の日記に書いたことだ。
本日、闇の中に目を覚まし、しばし布団の温もりを愉しんでから枕頭の携帯電話を見ると4時19分だった。ちと早すぎるが起床して事務室へ降りる。
5時19分にホンダフィット乗り込みエンジンをかけると、速度計の下部には現在の外気温が「4℃」と表示された。家から2キロのところにある今市インターから日光宇都宮道路へ上がり、数キロを走ったところでアラームが鳴る。速度計には「温度低下に注意」という文字が見える。そして外気温の表示は「3℃」に変わった。
5時37分に馬返しから第一いろは坂に入る。他県ナンバーのクルマ1台を追い抜くと、坂を登り切るまで他にクルマは1台もいなかった。5時50分に中宮祠に着く。外気温は2℃。中善寺湖畔の広葉樹はおしなべてほとんど葉を落としていたが、明けつつある空を背にした山は綺麗だった。
それにしても寒い。そして朝飯までには帰宅したい。よってきびすを返すようにして下りの第二いろは坂へ向かう。東南東から朝日が昇り始める。時刻は6時だった。中の茶屋のあたりから紅葉の具合が良くなってくる。いろは坂を下りきる直前でクルマを止め、朝日を浴びた男体山の写真を撮る。
帰路は日光宇都宮道路には乗らず、日光市内を走る。神橋付近から大谷川の下流を望めば河畔の木々は黄色く、あるいは紅い。日光街道を下りつつ、正面から差し込む朝日を避けるためサンバイザーを降ろす。そして6時38分に帰宅する。
このところの連日の晴れには、先月の長雨の取り返しを取っている感がある。
「18年ぶりに手帳を使う、その手帳に記す初めての文字は何にするか、18年ぶりともなれば記念的行為とすら言える、遊びの予定などは記しづらい」と、きのうの日記には書いた。
明窓浄机の保てない性格にて、事務机の上には届いたまま何ヶ月も開けていない郵便物、"amazon"で買ったまま読まない本、棚から出したまま仕舞わない資料、引き出しから出したまま元に戻さない文房具、処分しても何ら問題のないメモなどが積み重なっている。これを「18年ぶり使う手帳を置くにふさわしい環境にしよう」と決めた。
「掃除とはゴミの移動だ」とむかし"Nifty"の"Patio"に書き込んだのは新潟のシミズノブさんだ。「なるほど上手いことを言う」と、オフの機会に僕はその発言を褒めた。そうしたところ「それを最初に口にしたのは京都大学霊長類研究所の誰それだ」と、シミズさんは答えた。「誰それ」の部分は失念した。
僕の机上の諸々がどこかに移動しただけでは人に迷惑がかかる。封筒はいちいち開いて中身を確認し、本は自宅へ持ち帰り、必要のない書類は資源ゴミの棚へ片付けた。これではやはり「ゴミの移動」だろうか。そしてとにかく僕の机は清々とした。この状態をできるだけ長く保ちたいと思う。
終業後、これから繁忙期に入るに当たって社員たちと豚カツの「あづま」へ集合し、共に夕食を摂る。銀座のある居酒屋の牡蠣フライを「東京で3本の指に入る」と言った食べ歩きの権威がいる。「あづま」の牡蠣フライはその店のそれを遙かに凌ぐ。
店舗駐車場のモミジは、数日前までは葉の2、3割が紅くなっているのみだった。ところが今朝、掃除をしながら何気なく顔を上げると、同じ木のほぼ全体が紅葉している。そして「来るときには何でも急に来るものだ」という箴言めいたことばが頭に浮かぶ。
先日「ホトトギス季寄せ」を開いて「手帳買う」という季語を調べた。そして「日記買う」はあっても「手帳買う」は無いことを知った。
1990年代の初めまで、僕の業務日報は3年連続日記だった。1980年代から使っていたコンピュータを棄て、1992年に別のコンピュータ、この場合のコンピュータとは「ソフト」と同義語だが、これを使うようになってからは、3年連続日記への記帳がピタリと停まった。と同時に手帳も持たなくなった。
以降、データベースはコンピュータのみとなり、手帳代わりの忘備録は、そこいらへんのメモの端書きやポストイット、といような紙ぺらになった。その紙がどこかに紛れてしまえば約束や思いつきも同時に雲散霧消した。そして「忘れてしまうくらいの約束は、いずれ重要なものではなかったのだ」と割り切った。
あちらこちらから会合や商談の電話が入る。当該の日に自分の予定が空いているか否かは、机上の小さなカレンダーを一瞥して判断をする。おなじ日に予定がいくつも入ると、その小さなカレンダーには文字があふれ、何やら忙しいような気になって心も忙しなくなる。
よってここ20年ちかく使ってこなかった手帳を復活させることとし、先日"amazon"に「超整理手帳」を発注した。これが届いてみれば、今年は11月15日から記帳ができるようになっている。
さて、この18年ぶりの手帳に初めて記す文字は何にするか。18年ぶりともなれば何やら記念的行為という気もする。そして「それが飲み会や忘年会の予定じゃマズいだろう、やっぱ」と考える。
今年は夏の終わりごろより「猛暑の影響により」ということばが、なかば慣用句のように世に定着した。
「猛暑の影響により、野菜が大暴騰」
「猛暑の影響により、花の市場が大混乱」
「猛暑の影響により、秋物の衣料が大不振」
「猛暑の影響により、消費者の動向に大異変」
そして僕は、テレビや新聞でこのようなニュースに触れるたび「ホントに猛暑の影響かよ」と、頭から信じることはしなかった。
9月の初頭より、ウチは近隣の農家からしその実の買い入れを始めた。そして「今年は猛暑でどうしようもねぇ、しその実も全然、実ぃ、付けねぇ」という意見を耳にした。しかし買い入れを終了してみれば、その総量は昨年のそれを大幅に超えた。どこが「全然、実ぃ、付けねぇ」なのか。
数日前より、ウチの店舗駐車場の紅葉が色づいてきた。「今年は猛暑の影響により、紅葉の色が汚い」という意見が近所ではもっぱらだ。しかし先のしその実のことを考えれば、これも怪しいものである。
「もっともらしい話こそ疑ってかかれ」である。今年の紅葉は案外、綺麗なのではないか。もしも早朝に目を覚ますことができたら、みずからの目でそれを見てこようと思う。
おととい納車されたハイブリッドのホンダフィットには連日、乗っている。これは面白いクルマだ、どこが面白いか、自分の中のこれまでの文化を破壊してしまうところが面白い。
ハイブリッドのフィットにも、これまでとおなじく目の前には速度計がある。ただし今度の速度計の真ん中には、いまクルマがエンジンで走っているのか、モーターで走っているのか、あるいはエンジンとモーターの双方で走っているのかの区別が表示される。
街中でおとなしく走っている分には、回転計はほとんど1,000回転のすこし上を保ったままだ。黄色や赤の信号を見て徐々に速度を落とし、横断歩道の手前などで停まるとエンジンも停まる。信号が青に変わったところでブレーキから足を離せばエンジンは即、始動する。そしてそれらのすべては静かに素早く行われる。
街中から郊外に出て速度を上げても、時速60キロ程度であれば、回転計はやはり1,000回転のすこし上を保ったままだ。そうしてそのような計器をチラチラ見ているうち、良く言えば自分の節約意識が、悪く言えば貧乏性が刺激され、そのままできるだけ低回転を保って走ろうとするのだ。
「隣のクルマが小さく見えま~す」というテレビCMを覚えている人もいるだろう。いま検索エンジンに当たったら、これは1970年正月に始まった日産サニーの宣伝だった。大阪万国博覧会の開会を2ヶ月後に控え、日本は正に現在の中華人民共和国のような躁状態にあった。自分の家、家電製品、クルマのサイズ、世間的な影響力、経済力などすべてが「隣」よりも大きければ鼻が高いという時代だった。
それが、それから40年後の現在、ハイブリッドのフィットを運転してみると、どうだろう、隣のメルセデス、隣のBMW、隣のフェラーリが、こう言っては何だが、おしなべて阿呆に見えるのだ。そしてそのことに気づいた僕は更に考えを進めて戦慄した。
ハイブリッド車は運転する者を草食系にする。そして隣の肉食系が、総身に知恵の回りかねる阿呆に見えるのだ。ハイブリッド車はまるで去勢薬のようなクルマだ。ハイブリッド車がこのまま日本に増えて行くにしたがって日本の出生率はますます下がるのではないか。
ハイブリッド車は原油は節約してもやがて国を衰退させる、そんな気もする「ハイブリッド車に乗って2日目の僕」である。