次男の夏休みの宿題のこともあり、渡辺武雄による「古里百話 今市の懐旧」を開く。現在の街を歩く限り想像もできないが、日光周辺は戊辰戦争の激戦地であり、「今市の懐旧」にも、その記録は生々しい。
戊辰戦争といえば官軍、官軍といえば錦の御旗、である。錦の御旗のあるところには、かなりの確率でファッショが発生する。
都内のある百貨店は節電のため、全エレベータの半分を停めた。その百貨店を訪れた、病気の後遺症によりからだの一部の不自由になったある有名人は、そのエレベータの稼働状況につき「何だかなぁ」と、自身のウェブログで嘆息した。
今は収まりつつあるかも知れないが、3月11日の大震災からいくらも経たないころには、百貨店はじめ大きな施設への、いにしえの国防婦人会のような人からの「国の窮状に鑑みれば、まだまだ手ぬるい、更に更に節電すべし」という要請がひきもきらなかったという。しかしまた節電をすれば、前述のような問題も起きてくる。
利害や思想の背反する人々からの注文を右や左から受けて「どうすりゃいいの、このワタシ」と立ち往生をした関係者は、一体全体どれほどの数に上るだろう。
いま鈴原冬二のような政治家が世に颯爽と登場したら、民衆はいかにして彼を迎えるか。そして鈴原のぶっ壊れ版でよろしければ、市井のあちらこちらに結構いそうな気もする。
本日はオフクロの誕生日にて、夜は家族で日光市霧降の「グルマンズ和牛」へ行く。
ウチの駐車場で今月21日から行われていた町内のラジオ体操も、今日が最終日となった。町内の年齢別人口比率は国のそれを映す。育成会の行事にもかかわらず、今年のラジオ体操は毎日、子供よりも大人の数の方が倍以上も多かった。
ラジオ体操の最終日には、子供たちには何がしかのご褒美が渡される。僕が育成会長をしていた十数年前には「最終日に来ねぇヤツにはオマケ、やらねぇぞ」などと怒鳴っていたものだ。今では、最終日に来ない子供には、育成会長がいちいちその家を訪ねて褒美を配って歩くのだという。
子供の、人間としての価値は、むかしも今も変わらない。ただしその数が少なくなれば、そこに希少価値という、本来の価値とは何ら関係のない付加価値が生まれる。
「イリオモテヤマネコを保護するためには、西表島の住民を他の土地に移住させることも検討すべし」と言った学者がいた。「希少な子供を保護するため、与太話とエロ話しかできないオヤヂ連中は町内から追放せよ」などと言われないよう、我々も気をつけねばならない。
8月下旬の、成田からバンコク経由でチェンライ、そしてチェンライからバンコク経由で成田、というタイ航空のEチケットが旅行社より届く。
昨年、成田空港を日本航空で発ち、バンコクからはバンコクエアウェイズに乗り換えてシェムリアップ、という飛行機の使い方をしたとき、機内預けの荷物は確かシェムリアップまで"through"だった。あのときはなぜああも首尾良くことが運んだのか、今となっては何の記憶もない。
今回は成田からチェンライまで使用航空会社はずっとタイ航空なのだから"through"は当然と考えつつ、しかし一応は旅行社に問い合わせてみた。そうしたところ、少なくともタイ航空の場合、12時間以内の乗り継ぎであれば荷物は基本的には最終目的地受け取りとのことだった。
この"through check-in"は今回、往路よりも復路でこそ有り難い。往路におけるスワンナプーム国際空港での乗り換え待ち時間が1時間50分であるのに対し、復路のそれは6時間25分もあるからだ。
それだけの余裕があれば、空港から街へ出て晩飯を食べない手はない。しかしまた、何でもかんでもギリギリが好きという僕の性格からすれば、時間の管理には十全の緊張を以て臨む必要がある。帰りの飛行機に乗り遅れては、シャレにならないことが控えているのだ。
自分のちかくに専門的な知識や技術を有する人がいれば、僕はその分野についてはすべてをその人に任せて自分は何もしない。襖が破れれば経師屋を呼び、畳がすり切れれば畳屋を呼ぶ、それと同じように、これから手に入れようとしている"Let's Note N10"はどのようなスペックにすべきか、それを決めてもらうため外注SEのシバタさんを呼ぶ。
かつて僕は"Macintosh ?si"に英語のキーボードを合わせた。"Let's Note N10"のオプションには、ひらがなの表記の無い「ローマ字すっきりキーボード」がある。色はボディもキーボードも黒い「ジェットブラック」が好みだ。しかし「ローマ字すっきりキーボード」は白のみで、黒いこれは存在しない。
シバタさんは"Acer Iconia Tab"にスタイラスペンを走らせながら「コジマの方が安くつくんじゃないですかね?」と言った。そしてその場で「コジマNEW日光店」に電話を入れる。パナソニックのショップよりもコジマの方が価格は圧倒的に低い。しかしコジマにはジェットブラックの"Let's Note N10"は入らないという。
僕は数秒も考えず「それだけ違っちゃぁ、値段に転ぶしかねぇわな」とシバタさんに告げた。そしてシバタさんの運転するパジェロミニの助手席に収まって、10分後には「コジマNEW日光店」のフロアで係員の説明を聞いていた。出張時や家の中での移動を考え、ACコネクターの予備も注文した。
「オレの指はトラックポイントしか受けつけねぇんだよ」などとは、もう言ってはいられない。「早く来ねぇかなぁ、レッツノート」である。
手首の内側には、親指の側と小指の側に、それぞれ骨による小さな突起がある。右手の小指側にあるその突起が、どこかに打ちつけたわけでもなければ、怪我を負って細菌が入ったわけでもないのに、なぜかきのうから強く痛む。
夕刻、"Let's Note N10"のスペックをどうすべきか、"Win7"上でMy Tool"を動かす場合の問題点、既存のアプリケイションのうちヴァージョンアップした方が良さそうなものなどをボールペンで大学ノートに書き出しながら、先ほど説明した手首の骨がノートに当たってひどく痛む。痛む手首をかばうと、今度はヒョロヒョロとした情けない字しか書けない。
「ペンとノートを使ってまともな字が書けないなら、キーボードでコンピュータに記録すれば良いではないか」という意見は当然ながら、紙にペンで書きたいときもあるのだ。
手首の骨は痛むが、ノドの痛みはほぼ去った。よって夜はシャンペンを抜き、茹でたアスパラガスを肴にこれを飲む。
自分の使うコンピュータは「これ1台きり」の"ThinkPad X61"の具合がこのところおかしい。具体的に言えば「ワイヤレスネットワーク接続」の表示が出ているにもかかわらず、メイラーは回らずブラウジングはできず、サーヴァとも繋がらない。
外注SEのシバタさんを呼んで見てもらうと「あぁ、無線がぶっ壊れ加減ですね」と言う。当面は"docomo"の通信端末で凌いでも、いつまでそうするわけにもいかない。次のコンピュータは何にするか。
トラックポイントは今でも革命的に使いやすい仕組みだ。だから僕は1995年以来ずっと"ThinkPad"のみを使い続けてきた。現在の"ThinkPad X61"は2008年3月の購入で、以来3年4ヶ月間の故障知らずは、僕の長い"ThinkPad"歴の新記録である。
しかしスカスカ、ガタガタが設計に織り込まれていた"AK47"ならいざ知らず、"lenovo"になって以降の"ThinkPad"の工作精度の低さには我慢がならない。トラックポイントからは離れがたいが、このあたりがひとつの潮時ではないか。
そう考えて、遠く博多のカワイナデシコ氏にfacebook経由で相談をした結果、次の機種は"Let's Note N10"にほぼ決めた。ナデシコ氏が僕にこのパナソニック製のマシンを薦めたわけではない、ナデシコ氏とのやりとりが触媒となって、レッツノートに僕の気持ちが傾いた、ということだ。
遅くも再来週の今ごろまでには、軍用車両のように無骨な、あのマシンを僕は手にしているに違いない。いつまでも"docomo"の端末では、勝負にならないのだ。
1982年2月、夜のバンコクから"Air Lanka"の飛行機でコロンボを目指した。白ワイン、赤ワインと飲み進んでそろそろ食事を終えようとするころ、客室乗務員たちは、今度はコニャックのフルボトルを抜栓し、乗客に勧めはじめた。
酒を大盤振る舞いしてくれる航空会社が、むかしは少なくなかった。このときの航空券は、マレーシアホテルちかくの"J Travel"で買った安物である。
ビジネスや、それ以上のクラスのことは知らないが、いま飛行機に乗ると、客室乗務員の押すワゴンに装備される酒の種類は、むかしにくらべて極端に少ないように感じられる。そして現在の僕は飛行機の中では飲酒をしないから、それで特段の不便もない。
不便がないといえば、からだの具合の悪いときには飲酒への欲求が湧かない。そしてこの感覚は多分、明日の夜になっても変わらないだろう。だから月に8回の断酒ノルマについては、今月は特段の不便もなく達成することができるにちがいない。
元気で腹を空かせて牛肉の赤身肉を、ほとんどメシの代わりに食べる。レタスと玉ネギとトマトのサラダや、重めの赤ワインで体制を立て直し、今度は赤身肉ではなくキョロキョロとした脂の部分を口に入れて咀嚼する。そしてまたサラダ、そしてワイン。
こういうことをしていると、血中の脂肪濃度は益々高まり、またγGTPの値もおなじく上昇の一途を辿る。
かたや夏風邪にノドを腫らし、食欲もなく、まして酒を飲む欲求もなければ血中の脂肪濃度は急下降し、γGTPは上がりようもない。
両雄並び立たず。いやこの言葉をここで用いるのはおかしいけれど、からだ全体を健康に保てる人とは、よほど克己心の強い人か、カロリーの高い食事や酒は元々好まない人、あるいは幸運にもその双方の性向を持ち合わせた人くらいのものではないか。
僕はほぼ年中無休で仕事をしているから、世間の人の働いている平日の昼日中にたまたま遊ぶようなことがあっても、何の罪悪感も持たない。しかし台風以来の寒さから本来の夏に戻りつつあるちょうど良い気温の中、乾いたシーツの上に寝ている今日の状況については、気が咎めて仕方がない。
酒を欲するからだに、一刻もはやく戻りたいものである。
きのう処方された薬は、うがい薬、感染症治療薬、消炎解熱薬の3種類だった。そのうち消炎解熱薬の袋には「疼痛時または発熱時、空腹時を避ける、6時間以上間隔を空ける」とあった。
疼痛とはどれくらいの痛みを指す言葉なのだろう、連続の服用に際して6時間以上空けよとは「できれば飲まない方が、からだのためには良いぜ」ということなのではないか。そして昨晩はこの消炎解熱薬を敢えて飲まなかった。そして今早朝に眼を覚ますと昨日に増してノドが痛い。
第三者による説諭説明を自分なりに咀嚼し、良かれと思って下した判断が裏目に出る、幼稚園のころから今に至るまで、僕が何百何千と繰り返してきたことである。
水で手を洗っただけで寒さにからだが震える。生野菜は食べるために体力気力が要るらしい、晩飯のサラダは見るだけで食べない。そして早々に、寝室に引き上げる。
「私が熱を出すと、おばあちゃんは大根をおろしてガーゼに包み、これを私の足の裏に当てて包帯で巻いてくれます。大根おろしはやがて私の熱を吸収してパリパリに乾きますが、おばあちゃんは『もったいない』と、これを食べてしまいます」という投書をむかしラジオの深夜番組で聞いたことがある。
昨晩、街を歩いているとフラフラというかフワフワというか、妙な心地がした。そして甘木庵に戻って体温を測ったら37.8℃もあった。
きのうが1学期の終業式で、所沢でライブを聴いてからというか観てからというか、甘木庵に来るという次男が玄関の扉を開けたのは、23時も近くなってのことだった。清瀬と秋津のあいだの事故により、西武池袋線が一時、不通になっていたのだ。
次男とは夕食を共にすることとしていたが、僕は発熱、次男の帰宅は23時ということで、約束の食事は取りやめ、次男は本郷三丁目の駅ちかくで求めたハンバーガーを夜食とした。
今朝、次男と日光に帰宅してから僕は早速、セキネ耳鼻科で診察を受け、ハセガワ薬局で処方してもらった薬を飲んだ。情けないことこの上ない。そして午後にたっぷり4時間の昼寝をする。
体温が通常のそれを上まわると無性に、水を張ったたらいに足を漬けたくなる。そうすれば熱は急激に下がるがまた、寒気を覚えてブルブルと、からだの震えの止まらなくなることを僕は知っている。よって先般、膝を痛めた際にオカムラ外科から手渡された湿布薬を足の裏に貼る。これが存外に心地よく、23時ごろに就寝する。
大型の台風は紀州の南端をかすめるようにして太平洋上に去った。なぜか気温は急に下がり、これまで窓を全開にし、パジャマあるいは素っ裸で薄掛けもかけずに寝ていた僕はノドを痛めた。「熱が出るようなことがなければいいが」と考えつつうがいをし、アスピリンを飲む。午前5時。針葉樹を蓄えた日光の里山には朝日が差している。
日本ならさしずめ日本海側にある国内線の空港、という規模のチェンライ空港から迎えの四輪駆動車に乗り、暗い後部座席でザックの中を手探りして「もしかすると」と悪い予感を覚えた。ホテルの部屋に入ってザックの中身すべてをベッドの上に広げ、そして「やっぱり」と、飛行機の中にメガネを置き忘れたことを確信した。昨秋のことである。
メガネは結局、仕事のできる複数のタイ人の連携により無事、僕の手に戻った。そして「こんなこと、二度と繰り返せねぇぞ」と反省をした。
機材にもよるが飛行機には、前の席の背もたれにフックの設けてある例が多い。メガネを取り戻したその晩のうちに記録したのだろう、僕のメモ帳には「機内で使うあれこれは、透明または半透明の袋に入れ、またその袋には内容を期した紙を貼り付け、目の前に吊し置くべし」という意味の文字がある。
以来数ヶ月、僕はその透明あるいは半透明の袋をあちらこちらで探した。そして釣具のなかに格好と思われるものを見つけ、インターネット上の大きな釣具屋からそれを購入した。リュックサック、ショルダーバッグなどの袋物の好きな僕の、これは息抜きのようなものでもある。
ところが"SHIMANO"のその箱形で透明の、それが「しっかり作ってある」ということなのだろうが、ビニール製の割にはいささか柔軟さに欠ける、そのケースに触れて「いや、本当は、畳んだり丸めたりすれば小さくなってしまうようなものが理想なんだよな」と感じた。そしてたどり着いた結論は「自作しちまえば良いんじゃないの?」という、「だったら最初から、そうしておけよ」というものだった。
本日、ラミネート加工による丈夫な透明袋を社内に探し、その上の方に複数の穴を開けて細いザイルを通した。袋の面には「めがね、メモ帳、ボールペン、薬、本、カメラ」とフェルトペンで記したディスケット用のシールを貼り付けた。そして「釣具入れなんて、わざわざ買うことは無かったよなぁ」と考えつつ、目論見通りに完成した自らの工作品を眺めて少し嬉しい気分になった。
所用にて夕刻より東京に出る。
「大型の台風が接近中」というニュースかまびすしい朝のテレビだが、日光地方はいまだ距離に余裕のあるせいか、降る雨は静かだ。
"BUGATTI 35T"のガソリンタンクは通常、ボディ後部のフレームに、2本の木骨を介して安置される。"EB-Engineering"のタシロジュンイチさんは「2本だけでは不十分」と、その部分を更に強化した作業報告書をきのう持ってきてくれた。
そして今日の午後は、オリジナルの2本の木骨のあいだに鳥居型に組んだ、新しい木骨の画像をメイルに添付して送ってくれた。これを受けて僕はタシロさんの工房を訪ね、ボディの底部を観察し、次の作業として、ブレーキランプのスイッチとその配線を、ガソリンパイプの途中に新設した、フィルターとは離して設置するよう注文する。
工房の外に出ると風は強く、雲は駻馬のように走っているが、雨の気配はない。そして帰社して仕事に復帰する。
チェンライ市中心部、ナイトバザール至近の小さなホテルをインターネット上に発見した。「こんなとこ、知らなかったよー」と、これまたインターネットを介して予約しようとしたところ、当方のメイルが先方では迷惑メイルとして処理されてしまうらしく、どうもことが上手く運ばない。
「こうなったら手紙で頼むしかないか」と考えはじめたころ、ようやく気を利かせた先方は、今度は本来のものに予備のGmailのアドレスを添えて返信をくれた。以降のやりとりはサクサクと進み、夏の終わりの3泊を確保する。
チェンライでは、コック川の中洲にあって、街まで歩けばそれだけで汗だくになる高級ホテルにしか泊まったことがなかった。一歩外に出れば目の前は大衆食堂やバスターミナル、という未知のホテルはどんな塩梅のところだろう、今から楽しみである。
チェンライでは何をするか、本読み、メシ食い、日記書き、散歩、そして夜は飲酒。どこへ行っても僕のすることに、そう大した違いはないのだ。
朝の4時30分に目を覚ます。テレビのスイッチを入れると、女子ワールドカップ日本対アメリカ戦の後半が始まるところだった。前半の得点は0対0。
そしてその後半の45分、日本は点を獲られて追いつき、延長戦も点を獲られては追いつき、PK戦では自滅しつつあるアメリカに神経を乱されることなく優勝を遂げた。「愛と幻想のファシズム」の筆はいささか荒かったが、「我々はサッカー場に奇跡を見に行くのだ」という村上龍の言葉には一点の誤りもない。
「ウワサワ君のお父さんは西域に住んでいる人に似ているから」と、中国滞在中に、長男が現地の関係者から「桂花茶餅」という土産を持たされてきた。パッケージにはなぜかタージマハールの絵と共に「清真」の文字がある。豚肉の成分を含まない、イスラム教徒向きのお菓子なのだろう。
これを午後のひとときに食べてみれば意外や、と言っては失礼かも知れないが、甘さは淡く、黒ごまの香りが利いてなかなか美味い。そして「楼蘭のあったところよりも、もっと西の方まで行って、器のかけらでも拾って来てぇなぁ」というようなことを考える。
三連休の中日も過ぎようとしている夕刻に、客足の少なくなった頃合いを見計らって戸外に出る。するとあたりには木の焦げたような、つまりサウナ風呂に入っているときに感じるような香りの熱風が吹いていた。そしてその熱い風に、白麻のノレンが静かに揺れている。夏好きの僕には、ただただ心地よいばかりだ。
修業先の仕事で中国に5週間ばかり出張していた長男が帰国し、1週間後の本日午前に帰宅する。
中国での仕事は厳しかったらしいがそのことには大して触れず、現地の賄いオバサンの作るメシは大層美味かった、出発前に学んだわけでもない現地語は何とか通じた、通じないときには筆談をすればこと足りた、というところから、更に仕事の深部に及ぶ話を、昼飯や晩飯のとき、あるいは晩飯の後に長男から聞く。
この出張中の経験により長男は中国という国と、その人民を、大いに気に入ったらしい。たとえ仕事で行くことがなくなっても、そうなればなったで、今度は個人で訪ねるようになるだろう。
「石毛直道が中国のメシについて書いた本、やるよ」と長男に言う。中尾佐助の「料理の起源」も本棚にあったような気がする。しかしこちらについては、見つけ出す自信は無い。
中国はあまりに広すぎてとらえどころがない。旅をするには一点集中か、そうでなければ 長大な時間を確保する必要がある。そして「そういえば石毛直道の本は他に『魚醤とナレズシの研究』もあったな」と思い出す。
自由学園に通信簿はない。集まった生徒を前にして、各教科の担当教師が授業の内容、採点の基準、クラス全体の様子、また生徒個々の成績、来学期以降の展望などを述べ、生徒や親はそれをメモに残す。その成績報告会に出席をするため、朝8時40分に正門から学園内に入る。
成績報告会の、次男の通う高等科1年の部は1時間と少々で完了した。仕事に必要なものを購入しながら浅草に至り、15時すぎに帰社して仕事に復帰する。
きのうの東京は暑かったが今日はそれほどのこともなかった。日光へ戻ればそれ以上に涼しいのは当たり前のことだ。いや、当たり前ということはないか。亜熱帯に位置する都市と東京の気温の逆転する昨今である。東京と日光の気温が逆転しても何ら不思議はない。
今日は持参した活字すべてを読み尽くして焦燥しながら電車移動をした。「さて家に帰れば本が読めるぞ」と意気込んだが、夜は酔ってばったりと寝る。
月が明るい。洗面所へ行き時計を見ると、いまだ午前1時を過ぎたばかりだった。日光では真夏でも朝晩は涼しい。ところが今夜に限っては、部屋の窓と廊下側の戸を全開にしても、熱を帯びた夜気は凪いだように動かない。
おばあちゃんの応接間に移動し、窓を開け放った上に扇風機を回す。そしてきのうの日記を書いてしまう。それでも眠気は訪れない。コンピュータの上に載せて居間から持ってきた「アジアパー伝」5部作の4番目「もっと煮え煮えアジアパー伝」を開く。
このシリーズを読み直してみて、自分にふたつの記憶違いのあったことに気づいた。
「鴨志田穣と東南アジアを歩いてみて、もっとも食事の美味しかった国はラオス」と西原理恵子が言っていたように思い込んでいた、その国はラオスではなくミャンマーだった。鴨志田穣が西原理恵子と歩いた国境の街はタチレクあるいはポイペトとばかり思っていたが、鴨志田が同伴したのはタイ人の女の子で、当該の地域はタイのパダンブサールとマレーシアのパダンブサールとのあいだに横たわる、非干渉地帯のことだった。
「アジアパー伝」は4番目の「もっと煮え煮えアジアパー伝」の途中から、その行き先あるいは行動の場所が東南アジアを離れ、それと共に文章の質も変わっていく。よく言えば文章が静かになっていく。悪く言えば文章から感じられる色彩の種類が減っていく。
午後、暑熱の初台にて所用を済ませる。以降は甘木庵に戻って汗に濡れたシャツを着替えたり、あるいは自らの悪癖により、街で登山の道具を見て回ったりする。そして夜は銀座に移動をする。
その銀座で小酌を為している最中に、小さくない地震を感じる。心配をした同級生から電話をもらう。震源地は栃木県の近くらしい。家に電話をすると、細かい文言は忘れたが、とにかく"busy"というような表示が出るばかりで繋がらない。
熱帯夜にて、甘木庵では窓と玄関を開け、素っ裸で寝る。
3時に目を覚ます。顔を洗ったりあれこれすれば30分ほどはすぐに経つ。そしてテレビで女子ワールドカップの、日本対スウェーデン戦を観る。「我々はサッカー場に奇跡を見に行くのだ」と村上龍は言ったという。その通りだ。奇跡だけに、点の入るのは大抵、僕がテレビの前から席を外したときである。
朝からすることが多くてあたふたとする。9時に花火が上がる。八坂祭の渡御行列の、瀧尾神社からの出発を報せるものだ。町内役員としては会所に詰めて行列を迎えなければならないのかも知れないが、それが忙しくて果たせない。一行が春日町の交差点まで来たところでようやく、その姿を見る。
訓練あるいは脳に刺激を与える目的によるものだろうか、世話になっている老人介護施設から、おばあちゃんが家に帰ってきた。こういう機会は滅多にないことにて、おばあちゃんと店で記念撮影をする。
また「脳への刺激ということであれば」と、日光街道を隔てて向かいのハガさんに、炎天を気にしながら、おばあちゃんを連れて行く。「元気?」とおばあちゃんが声をかけると、ハガさんのおばあちゃんは「あらー、こんなにちゃんとしてるとは思わなかったよー」と、かまちから走り降りるようにしてウチのおばあちゃんの頭を正面から抱え込み、耳と耳を擦り合わせて喜んでくれた。
おばあちゃんは「魚登久」の鰻重をすこしばかり食べ、一休みしてからまた、施設へと戻った。人も101歳ともなれば、これは大変な修行を経た高僧あるいは流離して帰還した貴種のような存在である。おばあちゃんにはなるべく元気で長生きをしてほしい。
夜になってテレビのスイッチを入れると「日本人は外国人からどう見られているか」といゔ番組を流していた。その番組を最後まで見たかどうかは覚えていない。とにかくきのうに引きつづいて21時に就寝する。
朝4時を過ぎると鳥が啼き始める。夏もいよいよ本番に入ったか、蝉も鳴き始める。本日は妹の祥月命日にて朝、家内と如来寺へ墓参りに行く。きのうのうちにオフクロが生けたらしい色とりどりの小菊に、白百合などを加える。
午前、本日出勤の社員ひとりひとりに賞与の計算書を手渡しながら面談をする。それを済ませて、蓮田の優れた製麺会社「岩崎食品工業」のウェブショップ「翁の郷」から取り寄せたつけ麺を食べる。これがきしめんよりもよほど幅広のところもある変わったもので「こういうとんがった作品、好きだねぇ」と感じ入る。
午後は早くも、年末のギフトに向けた仕事をする。その最中に雑誌社から、紙面に載せたいので明日の午前着で商品を送ってほしいとのファクシミリが入る。「オレが断ったら、このタイミングからまた、他社に企画書を送るのかよ」と、いささか呆れながら掲載を了承する。
今朝、農協の直売所で買った甘唐辛子を散らしたカレーライスを食べて飲酒は避ける。そして21時に就寝する。
朝。味噌蔵の甍の向こうには萬緑の山、そのまた向こうには青い空がある。朝食の卓にはアメリカ製のシロップがある。そしてそのラベルには"Aunt"の文字がある。英語圏の商品名や小説などの題名には「お爺さん」や「お婆さん」よりも「オジサン」や「オバサン」が多いように感じるが、統計学の方面から調べたわけではないから定かではない。
夕刻、南東の空に大きな入道雲が立つ。それから数十分後の北西の空には、水色にオレンジを流したような雲があらわれる。
社員が婚約をすると、あるいは結婚をすると、そのふたりを自宅に呼び、出前の鮨で食事会をする。社員は普通、社外の人と結婚をするから、食事会は顔合わせの色合いが強い。今回は僕の知る限りはじめてのことだが、製造係のタカハシアキヒコ君と事務係のコマバカナエさんが結婚をした。
そのコマバさんは生の魚を好まない。よって食事会の場所は会席の「ばん」と決め、そこで一夕の清遊をする。
ところでなぜ今日の日記の表題は"DESIGN"か。それは「ばん」の6番目の皿を見るなり「きゃー、これは料理というより、入念にデザインされた何かだよ」と感じたことによる。
今日もまた、朝から夏の快晴である。
6月のいつごろだったかプチトマトの育成セットを人からもらい、捨てるのも忍びないからマニュアルに従って苗床を作り、種を播き、水を遣って、更には間引きまでした。そのプチトマトがいよいよ育ち、そろそろ植え替えの時期だろうかという先週に3日間、会社を空けた。
僕がいない間は、炎天に置かれたこの小さな植物に水を遣る人もなく、しかし2本の緑は健気にも枯れずにいた。よって本日、昨秋までは菊の植えられていた植木鉢の、土もそのままにプチトマトを植え替える。目を凝らせば花の落ちた後に、緑色の小さな実らしきものが見える。果たして収穫まで、この2本の茎は生き続けることができるだろうか。
夜の8時を過ぎて、いきなり涼しい風が吹き始める。「あぁ、雨が来る」と考えたが雨はついに降らず、泡の酒に酔って就寝する。
僕が子供のころは町内に雲霞のように、まぁ雲霞に喩えては語弊もあるかも知れないが、たくさんの子供がいた。瀧尾神社の八坂祭は、子供の間では「おてんのうさん」と呼ばれ、子供御輿のまわりは、それに触れることさえできない子供たちであふれていた。
今も思い出すのは小学生のころ、御輿の先棒を担ぎながらドブの割れたフタに足を突っ込み怪我をしたことだ。擦過傷を負った脚には町内のお母さんが赤チンを盛大に塗ってくれた。
あのときの子供たちは一体、どこへ行ってしまったのか。子供御輿の巡行も、今は大人に手伝われながらの1日のみになってしまった。その子供御輿、青年御輿、それに仲町の青年御輿までが、午後の遅い時間にウチの駐車場に来てくれる。御輿は"portable shrine"であり、"God scatter from it"である。有り難く請じ入れて小休止をしてもらう。
18時よりファミリーレストランの"Parrot"に直会の席が用意される。子供も大人も集まって、ハンバーグステーキやらビーフステーキにメロンソーダやウーロン茶、ハイボールや生ビールで乾杯をする。八坂祭は14日の木曜日まで続く。戸外の空気はいまだ昼の風をはらんで熱い。
朝から快晴である。このような天気を先日"Twitter"に画像付きでつぶやいたところ「もう梅雨明けしてるんじゃないですか」という返信を秋田の方から戴いた。しかし梅雨が明けたようなことは、いまだ公式には聞いていない。
店舗入り口の季節の書は、今は「萬緑」である。のれんは三季用の茶色いものから夏用の白麻のものにかけ替えられた。八坂祭のための提灯は、僕の留守中に製造係の誰か若い人が出してくれたらしい。
八坂祭に臨んでは町内公民館に祭壇を設ける必要がある。今朝はその準備のため僕も手伝いに行くはずが、繁忙に紛れてすっかり忘れてしまう。手伝いの役員に支給する昼食代を大膳のシバザキトシカズさんが請求に来たところで、そのことをようやく思い出す。
町内の祭壇に上げる日本酒、これは町内用と個人用の双方になるが、大急ぎで酒屋に手配する。また、お賽銭を上げてくれた町内の人については、その氏名や社名を祭壇に掲示する関係上、家内に頼んで半紙に書いてもらう。
夕刻に遠雷が聞こえ、それと共に夕立ではない、静かな雨が降ってくる。そしてようやく気象庁より関東地方の梅雨明けが宣言される。
夏の葉山研修センターで部屋の窓を開けると蚊が侵入する、それについては昨年たっぷりと学習した。その学習をすっかり忘れてきのうは夕刻の入浴後に窓を開け、湘南の海風を楽しんだ。そして深夜から明け方にかけては昨年と同じく、蚊の羽音と吸血攻撃に晒されてほとんど眠れなかった。このことを来年の同時期まで覚えている人がどれほどいるだろか。
そのようなわけで寝不足にもかかわらず起床は早い。窓の外には太い松の木があり、その梢の先に江ノ島が見える。
マネジメントゲームの2日目朝は大抵、"strategy accounting"の講義から始まる。そしていよいよ第4期の開始である。僕は同じ市場を形成するB卓の面々それぞれの会社や現金残高などを見渡し、この期をどう乗り切ろうかと考えて妙案は浮かばない。「何が何でも優勝したい」と、きのう一緒に飲んだイチカワアイさんは言う。僕はせいぜい「帰りは北千住でモツ焼きが食いてぇなぁ」くらいのところである。
今回のB卓は西先生のお考えによるものだろうか、通常よりもひとり少ない5名の編成となった。人数か少なければゲーム中の意志決定の回数はより多くなる。チャンスとリスクの数は増大し、ゲームの展開も忙しくなるが、それを厭う者はまずいない。そして僕はこの第4期で損益分岐点比率72の好成績を上げた。経常利益は166。そして来期はまたA卓だ。
マネージメントゲームが粛々と進行することはない。ゲームの最中には幸運なこともあれば不運なこともある。マネジメントゲームは数十秒に1回の高頻度で意志決定をし、その結果が自らの、幸運や不運も含んだ経済活動、また競合他社や市場の状況に連動する。このあたりがマネジメントゲームの醍醐味と言える。
自分の第4期の成績は、どのような因果関係から導き出されたものか、それを検証するビジネスパワー分析をし、小休止の後に第5期が始まる。A卓6名中の3名は何のことはない、おととい一緒に飲んだメンバーである。
この期に臨んでは第4期の期初と同じく、現在のままの規模の会社で行くか、あるいは設備投資をするか迷った。そして結局はサトーマサヒデさんによる「清閑ちゃん、それは大型だよ」のひと言によりアタッチメント付き小型機械を売却し、大型機械を購入する。
第4期で自己資本を300超にしたお陰で借り入れ可能枠が増えた。しかも第5期の最初に引いたカードは「独占販売」だった。これにより資金力はより増大し、2巡目のカードで大型機械を買う。数十分後、最後の意志決定直前に人を営業所に集中させる。そして一気に7個を売り切る。
戦い済んで日が暮れて、否、いまだ日は暮れていないが僕の成績は損益分岐点比率61、自己資本評価はS++。これは僕の場合、数十年に1度あるかないかの椿事である。
マネジメントゲームは別段、強い者が偉いわけでもなく、自己資本を伸ばす速度に比例して学びも大きいというわけでもないが「ゲームであれば数字による評価のあった方が面白かろう」くらいの意味合いによる表彰式がある。
この2日間のゲームで最も高い自己資本628を達成したイチカワアイさんには最優秀経営者賞が、また同452の僕、同419のコモリユータさんには優秀経営者賞が手渡された。最後は同卓にいたから分かるがコモリさんの第5期はリスクカードの嵐にて、あれを凌ぎきった精神の強さは賞賛に値する。
表彰状には「居並ぶ強豪をなぎ倒し、抜群の業績を上げられました」の文字がある。しかし別段、人をなぎ倒さなくても自己資本を高みに導くことはできる。そしてその方法は、ここには勿体なくて書けない。
そして西先生の最後の講義を聴き、原稿用紙2枚ほどの感想文を書いて第4回葉山MGは無事に終了した。その100分後に当初の目的どおり北千住でモツ焼きを食べチューハイを飲み、22時前に帰宅する。
きのうの飲み会のメンバーが、きのうの飲み会のメンバーのひとりイチカワアイさんのクルマに乗って銀座から葉山へ移動する。そして「LR小川会計」主催の葉山MGの会場に入る。一旦は途切れた湘南MGが葉山MGと名を変えて復活したのが4年前。湘南MGの好きだった僕は以降ずっと、これに参加をし続けている。
2日間で5期分の経営を盤上に展開するマネジメントゲームは今回、4卓というこぢんまりした規模で開催される。少人数のMGもまた良し、である。
マネジメントゲームにおいては、僕は経験こそ長いがゲームは下手である。ゲームが始まれば売上金額の高い順に降順ソートされる最高位のA卓に「せめてルール説明のあいだだけ」と周囲に言い訳をしながら座る。
ゲームの本番は午後の第2期から始まる。その結果は損益分岐点比率107。僕の宿痾である「あと1個、売ってれば黒字だったのに」の始まりである。しかし売上金額だけは今回の参加者中の上位6名に入り、A卓に居残りとなる。
そのA卓の激戦地で第3期のゲームに臨む。期を終えての損益分岐点比率は110。「あと2個、売ってれば黒字だったのに」という、前期と似たものになった。ここで自己資本は当初の300から238まで下がり、市場をB卓に落とす。
しばしの息抜きは葉山研修センターから海までの散策で、我々は森戸大明神の裏山に登ったり、また砂浜まで降りたりした。江ノ島の灯台には、何時のころから灯がともるのだろう。
今日は珍しく時間に余裕があって、夕食の前に入浴をする。その余勢を駆って、いまだ西順一郎先生の講義が残っているにもかかわらずビールを飲み始めるようなオニーチャンやオネーチャンもいる。そして夕食の後は、明朝に控えた第4期の経営計画を立てる。そして別室へ移動し、今度はサトーマサヒデさんによる、マイツールの「TM(total matrix)特集」の実技演習を見学する。
葉山MGの勉強あるいは交流は部屋を移してまだまだ続く。しかし僕は極端な早寝早起きだ。よってひとり宿泊部屋へ戻り、早めに寝る。
2000年の3月に香港へ行った。その香港で何をしていたのか、今となっては記憶も曖昧だが、とにかくシャツ屋「利工民」のオヤジのことはよく覚えている。
「利工民」は有名なシャツ屋で、僕は尖沙哨から地下鉄で旺角まで行き、徒歩ですこし下って上海街の店を訪ねた。「利工民」のシャツは糸の番手により秋蝉、光華、藍鹿、金鹿と等級が上がり、最上級の金鹿になると値段も二の足を踏むようなものになるが、とにかく僕は意を決して金鹿牌のそれを買うことにした。
僕はシャツは大きめのものを好む。それをオヤジに伝えると、しかし彼は「これしかない」と、自分が見立てたサイズ1着のみをショーケースの上に出して見せた。僕は本職の言うことに弱い。まして相手は胡麻塩頭の中国人である。僕は大人しく引き下がって、その1着を包んでもらった。
今朝は4時前から起きて、おばあちゃんの応接間で本を読んでいた。曇っているせいか、あるいは夏至も過ぎたせいか、10日ほど前のおなじ時刻よりもあたりは暗い。しかしそれから2時間が過ぎると、夏の空は素晴らしく晴れ上がった。そしてその空を見るなり僕は「利工民」のオヤジのことを思い出した。
「あれはまだあるのだろうか」と、恐る恐る箪笥の引き出しの奧を探ると、当該のシャツはシワだらけになりながら色褪せもせずに見つかった。そして多分11年ぶりに、このシャツに袖を通す。
30℃を軽く超える神保町を、実のところは下着に過ぎないこのシャツを着て歩く。シャツは風にバタつくくらい大きな方が効率よく汗を蒸発させそうな気がする。「利工民」の「金鹿牌」は僕の上半身にピタリと吸い付いて、しかしなぜか異様に爽やかだ。僕は「香港5000年の歴史かぁ」と腹の中で賛嘆し「でも5000年前の香港は多分、まだ原始時代だったわな」と考え直す。
夕刻より銀座に出る。そしてその白く高価なシャツを汚さないよう気を遣いながら、タケシトーセーさん、イチカワアイさんと夏のおでんを食べる。
電話でご注文をくださるついでに「この前イタリア、行ってきたのよー、暑くてねぇ、日傘さしてたら『そんなの持ってる現地人はいない』なんて娘に叱られちゃって」と、ヨーロッパ南部における直近の気象について教えてくださるお客様がいらっしゃった。日陰は涼しいとのことでいらっしゃったから湿度は低いのだろう。
ウチでは窓を開け放して眠ると涼しすぎて風邪をひく恐れかがある。よって夜の窓は、せいぜい数センチの隙間を空けるくらいにしている。しかし日中はもちろん、晴れれば常に30℃超えである。
昼に自宅へ戻って洗面所の窓を開けると、市内には雨が降っているにもかかわらず、西北西の空には見事な青空と入道雲がある。雨は冷や麦を食べるうちに上がり、南の空にはこれまた派手に光る青空と入道雲の見えるばかりだ。
夕刻の空には、西から東へと長大な雲が連なっている。夏の空は見飽きることがない。遠い地方からの「梅雨、上がっちゃったんじゃないですか」との問い合わせもあるが、今のところ気象庁は何の発表もしていない。
とにかく空や雲を眺める限りにおいては、夏は最高の季節である。そして今日も早々に就寝をする。
何ヶ月ものあいだ、右や左から圧力を加えると鈍痛を感じた右膝が、きのうは正座をすると内側から膨張するような違和感を覚えるほどに痛くなった。よって「半月板がすり減ってますだの、水が溜まってますだの言われたらイヤだなぁ」と考えながら朝一番でオカムラ外科へ行く。診察の結果は「飲み薬も必要ないほどの軽微の関節炎」とのことで、湿布薬のみ受け取って帰社する。
底の薄いドライヴィングシューズを1年あまり、社内で常用していたことが以前にあった。膝痛の原因は、かなりの確率で、この靴にあったと僕はにらんでいる。たとえ短い距離しか歩かないにしても、靴はおろそかにしてはいけない。
かかってきた電話に応答して受話器を置くと、すぐにまた電話が鳴るという、贈答時期に特有の状況にいきなり事務室が巻き込まれる。有り難いことだ。終業後に南東の空を見ると、見事な入道雲が出ていた。
神経も肉体も疲れてシャワーを浴びると、そのまま外へ出る気もせず、お菓子を食べ冷たい牛乳を飲む。いまだ空は明るい。やがて静かに雨が降ってくる。清少納言が夏に「雨など降るもをかし」と書いたのは、暗くなってからの雨のことだったのだろうか。
そして雨の音を聴きながら早々に寝る。
本好きの子供を育てようという、ある種の教育熱のようなものがある。子供のころから活字中毒で、一体全体どれだけの本を読んできたか知れない僕からすれば、本など読んでも何の役にも立たない。
読書好きの子供が長じてひとかどの人物になったとしたら、それは読書の効用によるものではなく、生まれつきひとかどの人物になる可能性を持ったその子供が、たまたま本を読むことが好きだっただけのことだ。
「オレみてぇに本だけ読んで寝転がってるヤツより、本なんか読まねぇ代わりに家庭菜園とか日曜大工とかする人の方が、生産性の点においてはよほど上だぜ」と家内に言うと「だったらパネルクイズアタック25に出て、あこがれの地中海クルーズ、当ててきてよ」と、妙な要請を受ける。
ここまでの会話を経て感じたことだが、あのクイズ番組の司会は、やはり博多華丸に継がせるべきだったよなぁ。
日本経済新聞の、今朝の"NIKKEIプラス1"は「通勤におすすめのリュック」という特集だった。この手のものには大いに興味をそそられる質だから早速、そのあちらこちらに目を通す。
ところでリュックサック、ショルダーバッグ、手提げ鞄の3通りの使い方のできる3ウェイバッグについて、これをリュックサック以外の形態で使っている人を見たことがあるだろうか、僕はほとんど無い。ほとんどの人がほとんど使うことのない部品を、たとえ微量であっても体力を使いながら延べにすれば何百回何千回と持ち運ぶ3ウェイバッグ。考えてみればつくずく不思議な存在である。
「通勤におすすめのリュック」の記事の下の方に、必要な機能のひとつとして「小物などの分類収納性」の文字がある。僕がザックを選ぶときの大きな条件のひとつは「小物などの分類収納性の一切無いこと」である。ペンフォルダー、カードフォルダー、傘入れなどの機能は一見便利そうに見えて、実際のところは母親の手出し口出しと同じく、ただの迷惑である。
「通勤におすすめのリュック」の記事を頭から最後まで読んで、この中に自分の欲しい商品があったといえば無い。機能を加えていった先にあるのがビジネス用の鞄なら、体力の消耗や行動の制限を避けるため機能をそぎ落として商品に至るのが山用のザックで、僕がどちらを選ぶかは説明するまでもない。
そして記事を読み終えた後はトレイルランニング用のザックなどをウェブペイジで事細かに調べ、「また何か買うのか」という顔を家内にされるのだ。
「これは紛失をするわけにはいかない」と考えたから整理整頓の苦手な僕も、そこいら辺に散らさず本棚に格納し、よってすぐに見つけることのできた「アジアパー伝」全5冊を、先月の26日から読み直している。僕は本は読むそばから忘れる質だから、再読しても新鮮である点は、おなじく先月に再々読した開高健の「ベトナム戦記」と変わりない。
鴨志田穣はアルコール中毒の果てに動脈瘤破裂、最後は腎臓癌により42歳で死んだ。西原理恵子は自身のマンガにより鴨志田のどうしようも無さを描き、それだけを見れば本当にどうしようもない人間なのだが、しかしその著作「アジアパー伝」は、植村直己の「青春を山に賭けて」、浮谷東次郎の「がむしゃら1500キロ」、小澤征爾の「僕の音楽武者修行」と並ぶ、僕が子供に読ませたい本の筆頭である。
内容からすれば沢木耕太郎の「深夜特急」と同じほど売れて良いシリーズと思うが、まぁ、一般の評価がどれほどのものかについては、僕は知らない。
その熱く揺れて、しかし平明に澄んだ「アジアパー伝」の2冊目「どこまでもアジアパー伝」の最後のところを夜に開き、これを読み終えて寝る。