早朝の仕事を終えて食堂に戻り、ひと息ついてお茶を飲む。雪の残る静かな街に、朝日が昇りつつある。
今月の小遣い帳の、支出の数字を高い順にソートしてみれば、その最上部つまり支出金額の多いところには「個人で払うようなもんじゃねぇだろう」というものと「見栄を捨てれば使わずに済んだ金じゃねぇか」というものが3行に亘って並んでいた。それでも今月の小遣いは、予算の2割ほどは残るだろう。
2月に小遣いとして使うお金は、今月よりも更に少なくなる予定である。しかしいずれ、浮いたお金は赤字の月の補填分として投入されてしまうのだ。
買って何年経つかわからないボタンダウンのシャツが、そろそろ古くなってきた。今すぐに捨てても惜しくないほどの擦り切れようではあるけれど、それを気にしなければ、まだ1年ほどは着続けられる気もする。
それと共に、この銘柄のシャツを手に取って見ることができて、且つ売り場の人と話のできる場所について、僕は池袋の東武百貨店しか関知していない。シャツを買いにそこまで行くのも億劫なら、買ったシャツを家に持ち帰るのも億劫である。
よって多分「まだ1年ほどは着続け」る方向に気持ちは傾き、その分の出費も来年まで延ばせるのではないか、という気がしている。
どうせ夏はTシャツしか着ないのだ。春と秋はTシャツとセーターしか着ないのだ。冬はそれに"SIERRA DESIGNS"のマウンテンパーカを重ねて他のものは着ないのだ。マフラーはオフクロが"AIRFRANCE"の客室乗務員からもらった赤い毛布しか巻かないのだ。革靴は修繕しながら使えば一生のあいだ保つものが既にあるのだ。とにかく冷静になることだ。そして自分の癖や好みをいちいち振り返るのだ。
いたずらにものを増やすことはしない。昭和30年代の日本人のように、簡素に暮らすことが理想である。
「栃木県北部の山沿いは20センチの積雪」とテレビの天気予報が伝えても、実際にはどれほどの量が降るのか、その見当が付かない。
日光市は、栃木県の最北端と最南端の真ん中に緯線と平行に線を引けば、そのすこし北には位置するけれど、北部というほどの北ではない。更にその今市地区の中心部であれば、山沿いというわけでもない。
起床したときには普段と変わらなかった街に、いつの間にか雪が降り始めた。よって気休めかも知れないけれど、6時40分に外に出て店の駐車場に融雪剤を撒く。
金融機関を数える数助詞は何だろう、とにかくそれらを徒歩で4軒まわり、会社に戻ると午後になっていた。「なめこのたまりだき」の完成作業に忙しい製造係を除いた社員と僕は、14時30分に雪が小降りになったところを見計らって雪かきを始める。明日は晴れて、残った雪も融けるだろう。
閉店後は事務室に長男、製造係のイトーワセー君、「片山酒造」のカタヤマタカユキ社長とイーノマサヒロさん、そして僕の5人が集い、コンピュータによるスケデュール管理の勉強をする。それに引き続き、参加者の全員がウチの食堂で晩飯を食べる。「片山酒造」の、きのう絞ったばかりという「素顔」には「馬鹿なことを言うな」と嗤われることは覚悟の上だけれど、雪の香りがした。
カタヤマさん、イーノさん、イトー君を玄関先まで送ると、街は霧で覆われていた。地面と空気のどちらが冷たく、そしてどちらが暖かいのはか知らない。
電話が頻繁に鳴ったり「近くまで参りましたので、お寄りしました」などという営業係が訪ねてくる環境では決してできない精密な仕事をするため、朝から事務室を抜け出し自宅の食堂にコンピュータを持ち込んだ。
そうしたところ、こちらではパンフレットや他の宣伝媒体、あるいはウェブショップに掲載するための「たまり漬と日光味噌を使ったレシピ」の撮影が10時30分からあるとのことで、やはり仕事にならない。
折しも会社の用事で森友地区まで行く必要があたっため、その帰りに森友バイパスというのだろうか、大谷川沿いに延びる道の「ガスト」に入る。
僕はどうも飲食店に気を遣うところがあって、4人用のボックス席には着きづらい。10キーまで持ち込んでいるから狭いことは山々だけれど、2人用の席にコンピュータや便せんを広げる。そうしたところ後ろから「おや、ウワサワさん」と顔見知りに声をかけられた。正に「三界に仕事場無し」である。
それでも気を取り直して仕事を始め、途中でその仕事の手順に潜む問題に気づき、それに対する修正案を練り、つまりは大いに横道に逸れつつも、90分ほどですべてを完了する。
「レシピの撮影はいまだ続いているだろうから、その撮影風景を更に撮って"facebook"に上げよう」などと考えながら帰社すると、駐車場には既にして、撮影を終えて機材をクルマに積み込むカメラマンの姿が見えた。頭の中で右往左往を繰り返していた僕とは異なり、撮影の方は大いに合理的に進んだらしい。
僕が今日した仕事は来月の半ばには形になる。レシピの画像は、早ければ3月にも、紙の媒体に先んじてウェブショップに載り始めるだろう。どちらも大いに楽しみである。
「マンマシンの昭和伝説」という本が僕の本棚には大切に保管されている。著者は前間孝則だ。その前間孝則による講演会が、僕の所属する「日本クラシックカークラブ」により催される旨の案内が届いた。しかし日程が2月22日であれば、残念ながら僕は参加できない。
その日は日本橋髙島屋の地下1階で「老舗名店味紀行」の催されている最中で、ウチはそこに出店をする。僕は会社で留守番をしていなければならない。今回のような特殊な事情がなくても、一体に僕は、趣味に関することでは日曜日に会社を空けづらい。週末にこそ忙しい商売に携わっているからだ。
ちょうど1ヶ月前の12月28日に「ツインリンクもてぎ」で開催された「阪納誠一メモリアル走行会」では、125分間にわたって自分のほぼ全力でコースを走った。その最後にちかいあたりで、ブレーキの効きが、これまで経験をしたことの無い不思議な感じになった。ブレーキペダルを踏んである一定のところまで速度が落ちると、そこから先はまるでフェードしたようにブレーキが効かなくなるのだ。
そのまま走り続ける僕も無謀ではあるけれど、1年に1度しかない機会を無駄にしたくない。よって「何かおかしい」と感じつつ結局は、黒と白の格子模様の旗が振られるまで走りきってしまった。
そうしてパドックに戻って足回りに目を遣れば、左の後輪に、車軸から放射状にオイルが広がっていた。"BUGATTI 35"のブレーキドラムは、1920年代当時では革命的とさえ言えるホイール一体型である。よくもまぁこれを油まみれにしたまま走行を続けたものだ。
「デファレンシャルギヤのオイルが中空のアクスルを伝ってホイールまで達した可能性が高い」というのが整備を担当するタシロジュンイチさんの見立てだった。
本日タシロさんの仕事場「EBエンヂニアリング」を訪ねてみると、左の後輪部分は既に綺麗に掃除をされていた。デファレンシャルギヤからのオイルの浸入に対しては、外科的な改造ではなくフェルトのパッキンで対処したいとタシロさんは言う。僕も改造は好まない。
そして"BUGATTI 35T"は今年も一段と、古典車として熟成の度合いを高めるだろう、多分。
自分の使い方が誤っている可能性も否定できないから「故障」と断定することはしない。"RICOH CX6"のピントがマクロでしか合わなくなった。"RICOH"の「CXシリーズ」のピントがマクロでしか合わなくなったのは2度目のことだ。以下は2013年8月28日の日記の一部である。
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結局のところシェムリアップには、マクロでしかピントの合わない"RICOH CX4"はメシ用として、風景一般用としてはおなじリコーの"GRD III"を持参した。そして不便をかこちつつ2台のカメラを使い分けた。
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いま使っている"RICOH CX6"は朝の景色を撮る際に無限遠の合焦が甘いと感じ、昨年10月に「リコーイメージングスクエア新宿」に持ち込んだところ、光量が不足している状況では合焦がしづらいと説明された。「CXシリーズ」では2度目となるマクロでしかピントの合わない現象については、来月にもまたリコーの専門家に意見を訊くことにしよう。
リコーのカメラは"GRD"の初代においてもっとも顕著だったけれど、具合の悪くなることが多い。具合の悪くなることは多いけれど、この日記を遡れば2006年2月26日から今日まで9年のあいだ、僕はリコーのカメラしか使っていない。
頻繁な故障を補って余りあるカメラを作り続けるリコーには、だから銀座のサービスセンターだけは閉鎖しないで欲しかった。むかしで言えば淀橋浄水場の近くとか、戸田の競艇場の2キロ手前とか、そういうところの現在の拠点は、僕には遠すぎるのだ。
きのう、否、今朝は1時ちかくの就寝だったにもかかわらず、いまだ暗いうちに目が覚める。すこし離れたところで充電中の"iPhone"を、布団から抜け出て見に行くと、時刻はいまだ5時だった。
しばらくゆっくりしてから風呂へ行き、からだを温める。きのうの夕刻は盛んに飛び交っていたカモメが、今朝は一羽も見えない。そして浴衣と半纏、足元には靴下を履き、ロビーに降りて朝食の時間まで本を読む。
帰りに立ち寄った那珂湊の魚市場には、今の季節を映した海の素晴らしいものがたくさん目に付いたけれど、安すぎて買えない。槍烏賊が発泡スチロールの箱に何十杯も入って1,000円とか、ワラサに近い大きさのイナダが1,350円とか言われても、食べきれるものではないし、食べきれない分を誰かに譲ろうとしても、もらう方も迷惑だろう。しかも今夜の僕はひとりで留守番なのだ。
自家用車を供出してくれた人のお陰で11時には帰社することができた。午後は銀行を回る。秋から年末にかけては週に2度もしていた釣り銭の両替も、今月は1、2度で済みそうな塩梅である。
晩飯には簡単なものを用意し、本を読みつつそれらを摂る。
半日より長く出かけるときに必要なものは、普段から袋に入れて事務机に仕舞ってある。準備はしてあっても中身の揃っていないことがある。それを防ぐため袋には、パスケースに納めた防備録が用意されている。
この必需品を詰め込んだ袋、コンピュータ、1日分の着替え、それらに今回は携帯用の読書灯を加え、ショルダーバッグに格納する。
本日は所属する組合の新年総会が、茨城県の海沿いの街で開かれる。自らがハンドルを握っての移動に僕は慣れていない。よってそのあたりについてはすべて人任せである。
当該の宿には15時よりも前に着いた。浴場の準備が整うまでは部屋でコンピュータを使い、あれやこれやしている。風呂に入って体の温まった後はロビーに降り、17時30分まで本を読む。
団体の新年総会は毎年きまって茨城県の海沿いの街で開かれるけれど、場所は一定しない。場所は一定しないけれど、宴会の料理は常に鮟鱇鍋である。
二次会では0時を過ぎるまで、参加者が専門とする分野の偏執狂的意見が交換された。僕は集団から離れて勝手に過ごすことを好む性格ながら、この組合の集まりは例外的に好きである。
今夜も僕は随分と知識を蓄えることができた。そして部屋に戻ってからは闇に携帯用の読書灯を点し「幻獣ムベンベを追え」を読む。
鬼怒川温泉の優れたイタリア料理屋「トラットリアカミーノ」の店主イバさんが、ガルムの材料をコーヒーフィルターで漉し、カーキ色のドロドロと山吹色の液体に分けている画像を"facebook"に載せていた。数日前のことだったけれど、この、賄いで試したら非常に美味かったという魚醤を客として行っても食べられるか、ということを確認しながら席を予約し、18時すぎにホンダフィットに乗り込む。
僕はヌオックマムの工場を訪ねて2011年にフーコック島へ行った。あるいはトゥックトレイの工房を訪ねて2013年にシェムリアップへ行った。「魚醤」と聞けば、その方面に自然と足が向くのだ。
「オレみてぇな地元の人間は、平日に来るべきだったぞなぁ」と申し訳なく感じるほど「トラットリアカミーノ」はお客で満杯だった。そういう賑わいのなか"facebook"で見たままの、ガルムによるスパゲティを食べて、その旨味の強さにびっくりする。そして「ことによると、この日本で手作りされたガルムは、イタリアの一流品より美味めぇかも知れねぇ」と考える。
イバさんが味見させてくれた「カーキ色のドロドロ」は、僕の口には魚から作られたものというよりも、30年ほども前にある家で食べさせてもらった、ツグミの塩辛を思わせた。
洋の東西、地球の南北を問わず、しかもいまだ情報の行き来の無いむかしから、人は同じようなものを発明してきた。とても面白いことだと思う。
朝、日本経済新聞の朝刊を、見出しのみ拾い読みしながら繰っていくと、第30面に「日本ユニシス」の文字が見えた。社名が「日本ユニバック」だった時代から、この会社には馴染みがある。よってその「人間発見」という連載の本文を読もうとして、今週のそれに採り上げられているのが島田精一と知る。
島田さんは、僕からすればビジネス界の、仰ぎ見るような巨人だ。僕は通常、有名な人の名に敬称を付けて書いたり口にすることはしない。島田精一とは面識があるから例外的に「さん」を付けて書く。
島田さんとは湯島の洋食居酒屋で知り合った。島田さんは僕にその場で著書「仕事に必要な言葉」を下さった。
帰宅してその「仕事に必要な言葉」を一読の後、お礼と感想を手紙にして居酒屋経由でお送りすると、今度は別の著作「20代に必ずしておくべきこと」が届いた。こちらもすぐに読んで、当時は学校を卒業して修業に出ていた長男に手渡した。長男には正に時宜を得た贈り物になったと思う。
1週間続きの「人間発見」の、今日のところの最後の方に
「僕は気持ちがもやもやしたら、陸橋で電車が通過する時間を見計らい大声でカンツォーネを歌っています」
とある。著作の2冊目は、島田さんの住所を記した封筒に入って届いたから、その「陸橋」がどこにあるかは容易に想像が付く。今後、その陸橋を渡るたび、僕は島田さんのことを思い出すだろう。島田さんにいただいた2冊は、近いうちに読み返したい。
ある人の書いたものを初見で気に入ると、以降その人の本はほとんど手に入れて、絨毯爆撃のように読むたちである。高野秀行には「ワセダ三畳青春記」から入ったけれど、先ずは「幻獣ムベンベを追え」だろう。
文章を書いて売る人には申し訳の無いことながら、本はほとんど"amazon"の古書で買う。今回もいつものとおり19日の月曜日に「幻獣ムベンベを追え」と「巨流アマゾンを遡れ」を、それぞれ別の古書店に注文した。
そうしたところ前者を取り扱っていた「もったいない本舗」から、要約すれば以下のメールが届いた。
「当該の本を確認したところ、一部に折れがあった。"amazon"での商品説明に反するため、系列店で別の在庫を探したものの見つからなかった。瑕疵のある商品でも受け入れてくれるか否かの問合せなどするうち配達が遅れては却って顧客の迷惑になる。よって商品価格から30パーセントを減額の上、商品を出荷した」
商品価格124円、 送料および取扱手数料257円、合計たかだか381円の古書を売るに際しての、この誠実さを世界標準に照らせば、追随できる国民は地球上に皆無と僕は思う。
この誠実さを以て、日本はこれまで数々の危機を乗り越えてきた。この誠実さを以て、これからの荒波も越えて行けないか。しかし世界の中では誠実なだけでは通用しないこともあるだろう。難しい問題である。
ところでその「幻獣ムベンベを追え」は本日の夕刻に届いた。開封をしてみれば、この程度の「折れ」は上に重い本を重ねておけば数日で元に戻るたぐいのものだ。そもそも僕は本を大切に扱わない。いずれモツ焼きのタレやチューハイで汚れてしまうのだ。「幻獣ムベンベを追え」は、池袋の「男体山」か北千住の「加賀屋」で読みたい。
"MG"の2日目は、通常は9時30分から始まる。しかし「日光MG」は合宿形式のため、参加者は会場に泊まり込んでいる。その好条件を以て9時より西順一郎先生の講義が始まる。その、ほとんど大学の1単位分を使った講義を経て、第4期のゲーム開始を報せる電子音が鳴る。
僕はきのうの第3期で、創業期からすこし成長をした、こぢんまりとしながら調和の取れた会社を作った。第4期は強豪ひしめくA卓に上がる。「競合他社に潰されないためには会社を大型化するか、それとも…」と考え、第4期の経営計画では拡大とは反対の道を選んだ。
その第4期の結果は「首の皮一枚」という表現はおかしい、しかし何と言えば良いだろう、とにかく次期繰越利益はたったの1円で、第5期はB卓に落ちる。その第5期のメンバーは、イチカワアイさん、カワナベコージンさん、イツジエイスケさん、カタヤマタカユキさん、タケシトーセーさんという名人上手鬼巨匠のそろい踏みだった。
その第5期で僕は損益分岐点比率59パーセントの好成績を上げるも上には上がいる。それにしてもこの第5期は「スキー場で迎える夕方」を思い出させるような、心地よい疲れと充実感を僕に与えてくれた。
"MG"は、成績の良かった者が偉いというわけではない。たとえば製造係のイトーワセー君は、知的方面の投資は排除して人海戦術で乗り切るべく、定石からまったく外れた会社を作り上げた。これは安易な手法で勝ちに行くより尊敬されるべき"MG"の学び方である。実力を練り上げ更に運に恵まれれば、この戦術でもあるいは良い果実を得ることができるやも知れない。
ところで「毎回」というわけではないけれど、"MG"の開発者である西順一郎先生みずからがゲームに参加をされることも「日光MG」の特徴のひとつだ。たまたま先生と同卓で勝負のできた人たちは、正に「以て瞑すべし」である。
前にも書いたが"MG"は成績の良かった者が偉いというわけではない。しかしゲームであれば表彰のあった方が面白いし励みにもなる。ということで第5期が終了すると、ある一定の条件を満たした上で自己資本の高い順に3人が表彰される。
今回の最優秀経営者賞は、渋谷から参加のサイトーミカさんが自己資本718円で、優秀経営者賞は川崎から参加のイチカワアイさんが自己資本699円で、そしてもうひとつの優秀経営者賞は伊豆から参加のタケシトーセーさんが643円で、それぞれ獲得をした。第1期開始時の資本金300円を、彼らは揃って5年後に倍増させたということだ。
ちなみに僕の名は「ことがら表彰」の「PQ区間賞」の第3期のところに小さく記されていた。このあたりがまぁ、僕の実力である。
いくら優れた教育システムとはいえ、自社の人間だけでしている分には"MG"の効果も限定的だ。市内は元より遠方から「日光MG」に参加してくださる方々には本当に頭を下げ御礼を申し上げたい。
第5期の後に催されるところから仲間内では「5.5期」と呼び習わされている軽い打ち上げを経て、折しも降り始めた雪の中を、路上で、東武日光線下今市駅で、またJR日光線今市駅で、社外から参加してくださった方々をお見送りする。今回の学びをこれからの半年間に活かしていきたい。
"MG"はマネジメントゲームの略で、参加者ひとりひとりが自分の会社を持ち、2日間で5期分の経営を盤上に展開する。ゲームとはいえ、定刻の10時からいきなりゲームに突入するわけではない。第1期はルールの説明と共に"MG"とは何か、ということが講師により懇切に語られる。"MG"の第1期は、書道における墨をすることに似ている。ボウルにドボドボと注いだ墨汁では書道にならないのだ。
第2期が始まる直前、資金繰り表の余白に僕は、材料購入、完成投入、教育投資と、三手目までの定石を書き込んでおいた。そして一手目こそ定石のとおり材料購入をしたけれど、二手目はすこし外して機械の能力を上げるアタッチメントを買った。三手目に完成投入。そして四手目はこれまたゲームの開始時には思いも寄らなかったことだけれど、宣伝広告に投資をした。滅多に無いことである。
その第2期には埼玉県から参加のシバハシマナブさんが28人中の売上高最高を記録し、第3期における固定費の倍率や市場の制約を決めるべくサイコロを振る。
第3期の僕は、創業期からすこし成長をした、こぢんまりとしながら調和の取れた会社を作った。予期しなかったことだけれど、この会社による売上高766円は、第3期の全体における最高の数字になった。
借り入れ可能枠は一気に拡大したけれど、僕は大きな会社を好まない。第4期の経営計画では、製造能力も販売能力も第3期のまま拡大しないこととし、運転資金のうち、材料購入と完成投入に必要なもの以外はすべて、戦略費につぎ込むこととした。明日の勝負を待つばかりである。
"MG"では、大切なことがそこここにちりばめられている。というか、教え合いや助け合いが自然に現れてくるのだ。そして夜の、お互いの話を聞き合う交流会にて日光MGの1日目を締める。
「第29回日光MG」が明日から2日間の日程で始まる。遠方から参加の方々は、本日の昼前から続々と日光入りをされる。よって朝飯までにきのうの日記を書いてしまう。そして更には今日の日記も、はじめの数行は朝のうちに書いておく。MGの最中は忙しくて、日記どころではないからだ。
"MG"は参加者のひとりひとりが経営者になり、盤上に2日間で5期分の経営を展開する。その前夜祭は「第1期」の前に行われるところから「0.5期」と呼び習わされてきた。今回の「0.5期」の会場は居酒屋や料理屋ではなく、ウチである。
日光MGにいらっしゃる方々のほとんどは、浅草駅17:00発の特急きぬ127号にお乗りになり、下今市駅には18:41に到着をされた。それらの方々を長男とふたりしてホンダフィットと三菱デリカにてウチまでお連れする。また日光市内のMG実践者は、三々五々、様々な方法でウチにいらっしゃる。
その「0.5期」には私用により挨拶のみで帰る人、これまた私用により遅れてくる人などが入れ替わり立ち替わりする場面はあったけれど、概ね15人ほどが集まってくださり、19時から23時40分のころまで歓談の時を持った。
"MG"はマネジメントゲームの略である。そして僕はこれを始めた1991年以来今日に至るまで一貫してゲームは不得手としている。明日明後日のことについては何も考えていない。
東京は日光よりも東にある。当然、日の出も早い。
千代田線の湯島駅から07:00発の下りに乗れば、北千住で朝飯を食べても東武日光線の始発特急には悠々と間に合う。しかしまぁ、どうせ暇にしているのだから早めに出るかと、甘木庵の扉を後ろ手に閉める。時刻は6時40分だった。
切り通し公園を左手にしながら切り通し坂の途中に出る。ここで湯島天神の大鳥居に目を遣ることはほとんど無い。坂を下りながら"iPhone 5c"で写真を撮るうち、結局のところは07:00発の千代田線で北千住に向かう。
9時すぎに帰社して先ず、20日と21日の休みを伝えるメールマガジンを書き、3つのシステムから送信する。おなじ内容のメールマガジンを、細かいところを変えつつ3通も作成することは合理性に欠けるけれど、まぁ、仕方が無い。
朝の明るくなり始める時間が早くなったとは、いまだ感じない。しかし夕刻の日の延びたことについては明瞭である。17時を10分15分ほど回っても西の空が明るくて、今日はいささか驚いた。
夕食後は早々に入浴をして早々に就寝をすることが常だけれど、今日に限っては、きのう本棚から取り出したばかりの
「ワセダ三畳青春記」 高野秀行著 集英社文庫 ¥605
を最後まで読む。遅読派である僕が、たとえ文庫本とはいえ2日で1冊を読み終えるのは異例のことだ。もはや子どもではない年代から大人になるまでの期間限定の自伝として、これは小林紀晴の「写真学生」と並ぶ傑作である。
東武日光線下今市駅の跨線橋は、昨年のクリスマスのころに、エレベータを装備したものが完成した。その新しい跨線橋を歩きながら、北側の、いずれは取り壊されるだろう古い跨線橋を望む。
西日暮里駅の、山手線内回りのプラットフォームに、可動式安全柵の設けられたことを知る。池袋駅の、西武池袋線の自動改札機に、中国の地方都市で見かけるような色彩の、電飾の組み込まれたことを知る。そうしてひばりヶ丘に至る。
池袋にある明日館の講堂が耐震工事中のため、自由学園同学会の新年総会は、今年は東久留米市の自由学園で行われることになった。男子部の今年の還暦クラスは33回生。、我々35回生の2歳上のクラスだ。
在学中は優等生だったにもかかわらず、本日のお祝いには来ていない人がいる。在学中はどうしようもない生徒だったから、本日もまた来ていない人がいる。在学中は模範的な生徒だったから、今日も律儀に来ている人がいる。在学中は不良だったけれど、卒業して以降は学園に大いに貢献をするようになって、当然のことながら本日も来ている人がいる。
懇親会はむかしの東天寮、今のしののめ寮で開かれた。
1972年、残雪期の富士山に馬返しから入り、8合目の「富士山ホテル」で眠った翌日は登頂の後、御殿場駅まで徒歩で下る厳しい遠足を「持ち物はパジャマのみ」という超人的軽装でこなした33回生のミヤジマチヒロ君と記念写真が撮れて、僕は嬉しかった。
懇親会が18時にお開きになって以降は同級生オギノヒロツグ君の、グランド前にある家に集合して同窓会を行う。そうして楽しく歓談をするうち時を忘れ、気がつけば22時になりかかるところだったから慌てていとまを告げる。
ひばりヶ丘から本郷三丁目まで来ると、寒さは随分と和らいでいた。23時ころに着いた甘木庵では1時間ほど本を読み、0時すぎに就寝する。
僕の妹の誕生日は1月16日つまり今日である。しかし実際に産まれたのはそれより10日を遡った1月6日だったという。命名が遅れたため市役所への届けも遅れた。法律により定められた期限内に届けが出せなければ罰金の発生することがあり、それを避けるため実際より10日遅く産まれたことにしたと、オフクロに聞いたことがある。
そのときは「へー」などと返事をして納得をしたけれど、出生届には医師や助産師の記入した出生証明書が必須である。その出生証明書にもまた、実際より10日遅れの日を書いてもらったのだろうか。むかしは結構、いい加減なことがまかり通っていたのかも知れない。
相続を経験するのは、オヤジ、おばあちゃんに続いてオフクロが3度目になる。2度も経験しながら細かいことは忘れている。相続には、亡くなった人の産まれてから死ぬまでの謄本が必要だという。オヤジやおばあちゃんは地元生まれだけれど、オフクロは木更津の生まれである。
よって先ずはスーパーマーケット「かましん」1階にある市役所の出張所へ行き、説明を受けると共に、他市町村に謄本を請求するための書類をもらった。その書類に必要なことを記入し、必要なものを添えて本日、郵便局から木更津の市役所へ向けて投函をする。
オヤジの相続の時に参ったからこれだけはしっかり記憶していることだけれど、謄本は1部や2部でなく、まとまった数を請求した。日光市の職員も木更津市の職員も、あれこれ親切に教えてくれて助かった。古い謄本は、来週中には届くだろう。
年に1度くらいは、安くない買い物がしたくなる。「安くない買い物」とはいえ何もリシャールミルの"RM039"とかフェラーリの"250GTO"が欲しいということではない。襟のない革ジャンパーが欲しい。
先日、本屋でそれを特集しているムック本を見つけたから、いそいそと棚から抜き出しざっと眺めてみたけれど、自分の頭の中にあるデザインのそれは見あたらなかった。
デザインに留まらず、革ジャンパーは、サイズもおろそかにすることができない。僕はいわゆるオーダーメイドが好きだ。そして革のジャンパーを、仮縫いを繰り返しながら仕立ててくれる店も知っている。注文はいつでも可能だ。
しかしここで我に返ってよく考えてみる。自分の思い描くデザインの、そして自分の上半身にちょうど良いサイズの革ジャンパーが手に入ったとして、それを自分は着るかどうかについてだ。
結論としては、着ない。
革のジャンパーには手ぶらが似合う。しかし自分が手ぶらということは、先ず考えられない。理想の革ジャンパーが完成しても、自分がそれを着る機会はほとんど無いのだ。
だから今回は、革のジャンパーは作らないと決めた。決めたけれど、発作的に注文してしまうこともあるやも知れない。そして出来上がってきたものが気に入らず、誰かにやってしまうということも、またあるかも知れない。
「15日の風に当てるなって言うんだから」と、年が明けてしばらくするとオフクロに急かされた覚えがある。正月の飾りは1月14日までに片付けろ、ということだ。
お飾りを売るタカハシカズヒトさんが朝のうちに軽トラックを乗り付け、先ずは門松が店の前から外された。それを合図のようにして、社内の各所、家の中の各所からあれこれの飾りを外す。
年末になると毎年「謹賀新年」の書を下さる方があった。その書は店舗の大黒柱にセロテープで留め、すると人に触られて破損をするから次の年もいただく、ということを繰り返していた。しかしそれではあまりに申し訳がない。そしてある年、思い切ってその書に裏打ちを施し、額に納めた。
以降「謹賀新年」の書は毎年末に袋から取り出し店舗に掛け、年が明けて14日になるとふたたび袋に入れて倉庫の、日差しの避けられるところに保管をしてきた。
本日、店舗の決められた場所からその書を外し「謹賀新年」の下に描かれた絵を、初めてしげしげと眺める。そして絵に添えられた「草庵老樹開花呼春」という文字を目で追いつつ「ソーアンロージュカイカコシュン」と声に出して読んでみた。
絵に描かれた老樹は梅と思われる。緩やかな階段を昇ると草葺き屋根の小さな門がある。その門をくぐり、右へ左へと小さな坂道を往くと、草葺きの庵があり、人影が見える。そしてまた「ソーアンロージュカイカコシュン」と、口に出してみる。
その「草庵老樹開花呼春」の文字を検索エンジンに入れてみると、特に何も出てこないから中国の古い言葉でもないようだ。それでも「ソーアンロージュカイカコシュン」と繰り返してみれば、何とも味わいが深い。
店舗入り口の季節の書は「賀正」から「春燐」へと掛けかえられた。そして「このまま一気に春になれば良いのに」と思う。
"Panasonic Store"を差出人とする「ポイントサービス規約の改定およびサービス休止について」というメールが届いた。いわゆる「ポイント」についてはきのう日記に書いたばかりだったから「またポイントかよ」と腹の中でつぶやきつつメールに添えられた文字リンクをクリックしてみる。
僕は"Panasonic Store"の会員にはなっているけれど、買い物はしていないからポイントはゼロだった。そんなことよりも、いま使っている"Let's note CF-N10"の、電源スイッチの接触が徐々に衰えてきている点について、これを修理しようかどうしようかと考えているところだった。
自分とコンピュータとの関わりが一覧できるページを開き、そのうちのハードについてのみ抜き出してみた。
1992.0414 MYTOOL LXN20
1994.0805 MYTOOL α?NOTE
1995.1016 ThinkPad 530
1997.0305 ThinkPad 535
1999.0524 ThinkPad 535X
2000.0816 ThinkPad 240X
2001.0927 ThinkPad s30
2002.0820 ThinkPad s30
2003.1017 ThinkPad X31
2004.1227 ThinkPad X31
2006.0823 ThinkPad X60
2008.0325 ThinkPad X61
2011.0804 Let's note CF-N10
これによれば"Let's note"は2011年8月4日の購入だから、東芝のハードディスクを壊して"SanDisk"の"Solid State Drive"に換装する大手術を2013年の末に受けたりもしたけれど、稼働は歴代でもっとも長い。
3年5ヶ月のあいだ使い続けても、このコンピュータには特に不満は感じていない。電源スイッチが死ぬ前に修理をし、延命を図るのが得策だろう。パナソニックは1990年代から秋葉原に工房を持ち、修理は迅速である。この工房のある限り、自分はコンピュータはパナソニック製を使い続けるような気がする。
むかし社用車を買ったところ、その自動車会社の営業係が僕を接待するという。「そんな余裕があるなら、むしろクルマの値段を下げてください」と応じると、値引きと接待は話が別と説明された。何となく理解はできたけれど、僕は仕事がらみの酒を嫌う。接待は結局のところ受けなかった。
1990年代のはじめから使っている"docomo"のポイントは、これまで何かに替えたことがない。案内のメールに促されて調べた結果、現在のそれは10,000を超えていた。
ポイントに興味は無いけれど「2015年5月に失うポイントは…」などと目にすれば「流しては損」という気にはなる。よってポイントと交換できる食べ物のカタログを取り寄せてみた。
僕はこの手のカタログではいつも素材ばかりを選ぶ。端的に言えば肉である。肉、それも有名ブランドや高い部位を避ければたくさんの量が食えるのだ。そして今回も、さして有名でない産地の腿肉を選んで貼付の葉書に記入した。
僕の本来の希望は「接待不要」とおなじく何かをもらうことではなく、懐から出て行く貨幣を減らすことだ。「交換されないポイントは通話料の値引き分として充当します」というサービスを、"docomo"は僕のような顧客向けに始めてくれないだろうか。
「昨年は2月15日から4月1日まで47日間もラーメン屋から遠ざかっていた」と、きのうの日記に書いた。検証は小遣い帳で行った。その小遣い帳の、2014年の1月から12月の範囲に「ラーメン」で検索をかけ、「店名」でソートしてから同じく「店名」で小計をする。導き出された結果がこの画像である。
それはさておきラーメン1杯あたりの量について。
僕のこども時代、つまり1960年代には、ラーメンといえば澄んだスープのいわゆる東京風ラーメンと、せいぜい湯麺くらいしか知らなかった。そのときまでほど良かったこれらの量が劇的に増えたのは、それから数年後の、札幌ラーメンの関東席巻による。
ところがこのところの東京には、またほど良い量のラーメンが目立ってきた。その中には本郷の「神勢。」のように麺を無料で増量してくれる店もあるから、大食いの人も片腹の痛い思いはしなくて済む。
僕としては、量の少ないラーメンは大歓迎である。現在のギトギト、ゴテゴテ、ドロドロも、そのうち収束していくのではないだろうか。そして待ち望んでいるのは「東京風ラーメン」の復活である。
昨年の、いまだ寒いころから春にかけて3つの奇病に取り憑かれた。2月8日に発症したのが「腹減らない病」と「酒欲しくない病」である。
コンピュータの、あれこれ記録しているページを開くと、酒は毎日でも欲しい僕が、2月9日から25日までの17日間も飲酒をしていない。2月12日の日記によれば、優れた飲み屋の綺羅星のように連なる北千住へ行きながら、こともあろうに「サイゼリヤ」で、フレッシュチーズとトマトのサラダ、パンチェッタのせフォカッチャ、プリンとティラミスの盛り合わせ、ジャスミンティーなどというものを晩飯にしている。どうもまともではない。
「腹減らない病」と「酒欲しくない病」にすこし遅れて、しかし一時は重複して現れたのが「ラーメン欲しくない病」である。
そこで今度は小遣い帳の、2014年の部分に「ラーメン」で検索をかけてみる。するとこちらは2月15日から4月1日までの47日間も、ラーメン屋から遠ざかっていた。正に異常事態である。
4、5年に1度の頻度で発症する「腹減らない病」が、2014年においては「酒欲しくない病」を伴って、そして後には「ラーメン欲しくない病」も併発したのだ。
「酒欲しくない病」は歓迎できても「腹減らない病」は何やら気持ちが悪い。しかし4、5年に1度の頻度であれば、今年はまぁ、そのことに限ってはつつがなく過ごせるだろう、多分。
タバコは春夏秋冬に各1本と決めている。なぜ吸うか。強烈なドラッグにもかかわらず、それを国家が法的に許可している、その異常性が面白いから吸う。なぜ1年に4本と決めているか。それ以上をこなすと中毒になるから欲しくても我慢をする。
昨年は年明け早々に"Davidoff"の"Mini Cigarillos"を吸ったような気がする。「気がする」とは、そのことを"facebook"には上げたけれど、この日記には書かなかったため確認ができないのだ。"facebook"はタイムラインの検索機能を持たないところが不出来である。
2本目は6月7日にウブドゥで吸った"MAGNUM"だ。そして昨年は結局のところ、年明けと6月の、計2本しかタバコは吸っていない。余分の2本を翌年に繰り越すことはしない。ジャンキーにはなりたくないからだ。
今年の1本目はおとといの「ピースアロマロイヤル100s」だった。残った19本は近場のジャンキーにくれてしまおう。今年の2本目がいつになるかは知らない。
「だらしない」と言われればその通りではあるけれど、オヤジやおばあちゃんやオフクロが亡くなっても、いわゆる喪中葉書は一切、送ってこなかった。当然、その死を知らない方々からは故人に年賀状が届く。本日はオフクロ宛のそれに対して、オフクロの晩年の様子や当方の連絡不行き届きを詫びる文章を書き、各々に向けて投函する。
会社の新年会については、今年はどこかのお店を使おうと考えていたけれど、結局は昨年に引き続いて自宅で行うことになった。17時の閉店と同時に男子社員は机や座布団を休憩室から仏間兼応接間に運び、女子社員は箱から食器を出す。
新年会は同時に、遅い表彰式を兼ねた。先ず、表彰状だけは昨年のうちに手渡してあったサイトーヨシコさんに勤続20年の、同じくタカハシカナエさんには勤続10年の、それぞれ副賞を贈る。
こちらもまた遅れに遅れてしまったけれど、昨年9月に開催した「日光MG」で、社内自己資本第1位に達したヤマダカオリさんには技能賞を、並み居る強豪に伍してA卓入りを果たしたタカハシアキヒコ君には敢闘賞を、また社内自己資本第2位を記録したセオヨーコさんには殊勲賞を、それぞれ贈る。
これから彼岸までは、会社の仕事は「種まき」に類するものが多くなってくる。時間を活かしつつ、これから2ヶ月のあいだ働いていきたい。
朝4時に目を覚ます。家にいれば着替えて食堂へ行き、仏壇に供えるお茶を淹れるところだ。しかし甘木庵ではその用事はない。茶葉がどこにあるのかも知らない。電気ポットでお湯を沸かし、先日東京大学構内の"LAWSON"で買ったばかりのインスタントコーヒーを飲む。
どうにも手持ち無沙汰のため、身支度を調え外へ出てしまう。そして本郷三丁目から大江戸線で築地市場に出る。休業日の場内を通り抜け、新大橋通りをジグザクに歩く。本願寺の背中から、日がようやく昇り始める。
恵比寿で数時間ほども仕事をし、日比谷線で北千住へ向かう。そして13:42発の下り特急スペーシアで帰社する。
「スコッチ、すこっち飲みたいな」と、昨年の春ごろだったかヤナギバヤシヒロシさんが"facebook"に上げた。それに対して「スコッチ、すこっち飲みに来てください」と返してから8、9ヶ月は経ってしまったように思う。
そのヤナギバヤシさんを、今夜はようやく家に招くことができた。そして非常に興味深いお話を数時間ほども聴かせていただく。
よりによって雨の予報が出ている。雨が嫌いなのではない、傘を持つと荷物が増える、その不合理さが気持ちに引っかかるのだ。
所用にて午後の中ごろ大井町へ行く。雨が降っている。駅前の横断歩道を渡りつつ"SIERRA DESIGNS"の黒いマウンテンパーカのフードをかぶる。それだけでは足りずに"GREGORY"の黒いザックから"mont bell"のオレンジ色の傘を抜き出して開く。
強風のため、しばしば傘が上へ下へと煽られる。ジーンズが、裾から太もものあたりまで湿ってくる。そのまま1キロちかくを歩く。
用を済ませて外へ出ると、雨はまるで夕立のように強くなっていた。しかし風は収まり加減だった。冬の雨はいつもなぜか、心を落ち着かせるなにかを持っている。
どれほど遠回りになるかは知らないけれど、雨に濡れないよう、駅の外を歩かずに済む経路で乗り換えをしながら湯島に至る。そして地上に出ると、雨はすっかり上がっていた。
冬の雨上がり、ことに夕刻のそれはとても気持ちが良い。寒くなく、空気は湿り気を帯び、そして景色は美しい。天神下で小酌を為し、切り通し坂を上がって関電工の跡地に至る。先ほどまでは濡れていたアスファルトが、早くも乾き始めている。
甘木庵には21時すぎに着いた。そしてシャワーを浴びて即、就寝する。
駅伝はロマンティックだ。「メロス」ばりの超人たちがたすきを繋ぎながら長い距離を走り続けるのだ。正月はテレビで箱根駅伝をずっと観ていたい。しかし当方には仕事があるから、それはできない。
オリンピックの競技に駅伝を採用することはできないか。距離の半端さがマラソン選手の育成を阻害する、というならオリンピックの駅伝に限っては、ひと区間の距離を42.195キロにすれば良い。
オリンピックの競技に駅伝が採用されたなら、スタートはギリシャのマラトンだ。そこからアテネまでの36.750キロに少々の回り道を作って42.195キロにする。2区の走者は開催国で待ち受け、飛行機で運ばれたたすきをかけて、1区でついた順位と時間差に基づいて走り始める。10人がたすきを繋げば総距離は421.95キロ。ゴールは開催国のメインスタジアムだ。
マラソンの自国代表に漏れた選手たちは、駅伝の選手として復活できる。マラソンには番狂わせが多発する。マラソンの選手より駅伝の選手の方が良い走りをしてしまうことは充分に考えられる。新しい英雄の誕生である。
オリンピックの競技に駅伝を採用することはできないか。「それほど観たいなら、おめぇが段取りしろ」と言われても僕にはできない。誰かが実現してくれることを、僕は待っているのだ。
「ちょっとアカギレができ加減だな」くらいに感じていた左かかとの外側が、目を覚ますと強く痛んで起きる気力を萎えさせる。時刻はきのう、おとといと同じ2時台だ。闇の中に身を横たえたまま「むかしの人は大変だったよなぁ、大した薬も絆創膏も無くてなぁ」と考えるうち「オマエには良薬やバンドエイドがあるではないか」と言う声が身の内から聞こえたから、バネ仕掛けの人形のように飛び起きて身支度をする。
アカギレには「ハクシン」という、岡山の薬屋による軟膏が効く。バンドエイドは「キズパワーパット」の「大きめサイズ」が、軟化すると靴下の内側に付着する難点はあるけれど、今のところは一番だ。とにかくこの組み合わせを以て、5月まではアカギレをしのいでいかなくてはならない。
来る日も来る日も快晴というわけにはいかない。しかし年末から年始にかけての空模様は、概ね良好である。日の出は冬至から2週間ほどしてようやく早くなるらしい。とすればそれは明日あさってあたりから、だろうか。何とも楽しみなことだ。
年始めの商売は、むかしは成人の日の15日まで、しかし今はせいぜい三が日、あるいは最初の日曜日までが賑わう日々で、以降は「玄冬」ということばの似合う静けさが彼岸まで続く。しかしこの時期には仕込みがあり、諸々の下ごしらえがあり、また出張販売がある。冬の寒さを奇貨として、春以降の準備に専念したい。
店舗のキャッシュレジスターに釣り銭などを補給するうち16時30分を過ぎる。本日は組長を集めた町内の新年会が開かれる。役員の集合時間は16時30分だ。そしてすこし遅刻をしながら公民館へ駆けつけ、その席に連なる。
朝7時30分に事務室のシャッターを上げる。複数の社員の出勤したところで東武日光線の下今市駅へ行く。案の定、10:35発から夕方までのほとんどの特急に赤い「満席」の印が出ている。今日は広尾の知り合いのアパートで母親に会う、他にもあれこれ用事がある、よって午前中には東京に着いていたいというイニゴー君のために、09:35発の特急券を買う。
新年を迎えるにあたって、大晦日のうちに準備しておくべきことのうち、2、3について忘失をしていた。先ずは元日の休みを伝える留守番電話の録音をし忘れていた。二つ目は、初売りは2日であることを報せる看板を出し忘れていた。三つ目は「岩本京染店」で新調した暖簾を、旧いそれと交換することを忘れていた。
留守番電話と看板については、もうなにもできない。暖簾のみ、朝一番で事務室前に提げる。何年ものあいだ日の光や雨風にさらされ続けて来たそれにくらべると、新品のそれは鮮やかな上に、随分と大きく重く感じられた。
イニゴー君は、僕と次男で下今市まで送る。間違いを避けるため、次男はプラットフォームまでイニゴー君に付き添った。昨年9月に来日した彼は、3月まで東京に留まって仕事をするという。年末年始の純日本風の体験が、良い思い出として彼に残れば幸いである。
夜は家族4人で"Finbec Naoto"へ出かける。そして正月限定のカレーライスあるいはハヤシライスを食べる。
目を覚ましてしばらくしてから枕の下のiPhoneを触り、明るくなったディスプレイに目を遣ると、きのう入浴前に懸念をした通り、時刻は午前2時を過ぎたばかりだった。闇の中で無為に過ごしていても仕方がない。服を着て食堂経由で応接間へ行き、カーテンと仏壇の扉を開く。
今朝はカワムラコーセン先生が、新年の生け花を仕上げに来る。それと時を同じくして「出発が早いんだよねー」と年末のうちから予約をして下さったお客様が年始のための品を取りにみえる。そういう次第にて、通常は8時15分のところ7時20分には店を開けてしまう。
きのう社内各所の神仏に供え、今朝は凍っているお雑煮を回収する。大晦日までに製造係の用意してくれた「福袋」を、大きな台車に載せて次々と店に運び入れる。初売りのお客様に差し上げる「お年賀」も、しっかり揃っているか点検をする。それからすべての照明のスイッチを入れる。
大晦日から元日にかけて長男が下ごしらえした牛肉のたまり串焼きは、初売りの恒例になった。列島の日本海側では大雪が、そして神奈川など温暖な地域にも、少なからず雪の積もっている新年にもかかわらず、日光の空は晴れ、道路は乾いている。それがとても有り難い。
夜、イニゴー君に「スキヤキという料理は知っていますか」と聞くと知らないという。よって大晦日の朝に霧降高原まで行って受け取ってきた「グルマンズ和牛」の肉を鍋で炒りつけ、醤油ではなく「日光味噌梅太郎白味噌」のたまりを割り下としたすき焼きを家内に作ってもらう。
そうしたところ、イニゴー君と次男は、常識を越える速度で、更には異常な枚数を平らげた。そしてひとを息つくと「「これは日本で食べた、もっとも美味なもののうちのひとつです」と腹を撫でた。そう言っていただければ、こちらも調理のし甲斐があったというものだ。
当方の年末年始は忙しく、イニゴー君には大したもてなしもできなかったけれど、今日は長男の友人が東照宮に連れて行ってくれて、大いに助かった。と共にイニゴー君も、日光に来るまでは知らなかった世界遺産に触れることができて嬉しかったのではないだろうか。
そして今夜も早々に入浴をし、早々に就寝をする。
正月早々寝過ごして、5時58分に起床する。仏壇にお茶や花や線香を供えてから外に出て新聞受けから新聞を取り出す。食堂へ戻ってそれを読むうち2015年の初日が昇る。「一年の計は元旦にあり」という言葉が苦手である。正月早々尻を叩かれているような気分になるからだ。
元旦には先ず家族揃って墓参りをする。帰宅してからは、仏壇、神棚、お稲荷さん、水神、地神の5ヶ所にお雑煮を供える。"At last we can eat breakfast"と、食堂に上がるエレベータの中で言うと、我々と共に正月の行事につきあってくれていたイニゴー君はニッコリと笑った。
お雑煮を食べて後は瀧尾神社に昇殿して初詣をする。そこから追分地蔵尊に回って初参りをする。ふたたび帰ったら大人は酒を飲み、未成年者は神社の参道で求めた焼きそばなどを食べる。僕は普段は望むべくもない昼風呂にゆっくりつと浸かり、昼寝をする。
空がいよいよ暗くなりかかるころ製造現場に降りる。大晦日に包装係のヤマダカオリさんから言われたことに気をつけながら、明日の初売りの準備をする。
身の内には朝の酒、昼の酒がかなり残っている。その状態から更に夜の酒を飲む。深夜に目を覚ますことは明白にも拘わらず、20時すぎに入浴し、すぐに就寝する。