2025.3.8(土) 帰国
00:08 Boeing777-300ER(77B)を機材とするTG682は、定刻に53分も遅れてスワンナプーム国際空港を離陸。席に着いてからしばらくはうつらうつらしていたものの、離陸と同時に目が冴える。
03:10 眠れたのか眠れなかったのか判然としない状態のまま覚醒していく。機は沖縄本島の上空に差しかかろうとしている。
03:38 朝食の供される旨のアナウンスと同時に機内が明るくなる。
03:40 予定到着時刻は日本時間で7時9分との案内がディスプレイに出る。
04:14 トイレにあったタイ航空の歯磨きセットで歯を磨く。
04:18 「羽田空港まで50分」のアナウンスが流れる。
04:58 TG682は定刻に3分おくれて日本時間06:58に羽田空港に着陸。以降の時間表記は日本時間とする。
07:20 入国審査場を通過。
07:45 回転台から荷物が出てくる。
07:48 税関を通過。
07:56 京浜急行品川方面高砂行きの急行が羽田空港第三ターミナルを発車。
08:41 その車両が都営浅草線の浅草に着。
巷間声高に叫ばれていること、つまり諸外国に比べて日本が貧しくなったとは、僕は思わない。しかし都営浅草線浅草駅の薄ら寒い景色はいったい、どうだ。地上に上がるエレベータは内壁の塗装がすり減って、惨めったらしいこの上ない。浅草という大観光地のひとつの玄関口であれば、もうすこしどうにかならないか、とは思う。
駒形橋の西詰めから吾妻橋の西詰めを目指して江戸通りを北上する。スーツケースを曳く手が寒さにかじかんでくる。東武日光線の特急券を買うための「東武ネット会員サービス」は2月に廃止になったときのう、バンコクで知った。新しいシステムには、そのときは登録が叶わず、特急券は確保できていない。
東武浅草駅で券売機の前に行くと、幸いにも09:08発の特急に空席があった。座席指定券を兼ねる特急券は、僕を最後として売り切れた。
下今市の駅前には客待ちのタクシーがあったため、これを使って11時すぎに帰宅をする。タイのタクシーの運転手は大抵、スーツケースの、トランクルームへの上げ下ろしをしてくれる。日本のタクシー運転手がそれをしないのは、日本にタクシーが導入されたときからの習慣だろうか。
4階に上がってスーツケースを開き、中味を出して仕分けをする。それから事務室へ降りて、通常の仕事に就く。
朝飯 “TG682″の機内食
昼飯 にゅうめん
晩飯 若布と「なめこのたまり炊」の酢の物、厚揚げ豆腐と小松菜の炊き合わせ、鶏つくね団子、鯛の煮付け、麦焼酎「こいむぎやわらか」(お湯割り)
2025.3.7(金) タイ日記(11日目)
目を覚ましたのは2時10分。幸いにも二度寝ができて、次に気づくと5時をまわったところだった。外はいまだ暗い。「ホーイッ、ホーイッ」と、いつもの鳥が啼いている。チェンライの川沿いのホテルで毎朝感じた疲れは幸い、今朝は無い。起きて、きのうチェンライからの機内で秀丸に書いたおとといの日記の下書きをWordPressに写す。
朝食の会場には8時に降りた。部屋に戻っておとといの日記を9時40分まで書き継ぎ、外へ出る。トンローからプロンポンまではBTSでひと駅。駅前のワットポーマッサージは10時に開く。ここで足の角質削りと足マッサージを組み合わせた60分の施術を受けつつ「続百代の過客」の上巻を、落丁部分と森鴎外の「独逸日記」を除いて読み終える。即、タイのセブンイレブンのエコバッグから「続百代の過客」の下巻を取り出し、これを読み始める。施術の代金は460バーツ。オバサンには50バーツのチップ。
マッサージ屋からはプロンポンの駅を使ってスクムヴィット通りを横断し、向かい側の高級ショッピングモール「エンポリアム」で、あれやこれや見る。それからBTSでトンローに引き返し、なじみの食堂にて昼食を摂る。
ホテルは安価だから、1泊しかしないにもかかわらず、午後にゆっくり過ごすべく、予約は2泊にしておいた。部屋に戻って先ずはシャワーを浴び、バスローブを着る。僕には家でも電車の中でも、いつまでもコンピュータにかじりついている悪癖がある。しかし今日は帰国日であり、そのあたりには重々、気をつける必要がある。よって先ずは荷作りをする。
土産の「日光味噌粒みそ」をコモトリ君に手渡し、同時に買いすぎた酒類を預けたため、社員への土産やホテルで飲むためセブンイレブンで買った紅茶のティーバッグなどが増えたにもかかわらず、スーツケースの空間には余裕ができた。その面倒な作業を終えた後にはふたたびコンピュータを開き、今日の日記のここまでを書く。
さて、きのうの朝は迎えのタクシーがホテルに来ず、気を揉んだ。そして、そのようなときの危機管理にはかなり熱心な、取引先の社長のことを思い出した。その社長を見習ってフロントに降り、南部の生まれなのか産毛による髭を鼻の下に伸ばしたままの、しっかりしたオネーサンに空港までのクルマを頼む。高速道路の通行料金を含んで500バーツは安くないものの、ここでも取引先の社長を思い出して、鷹揚に頷く。
午後の時間はいまだ、たっぷりとある。しかしプールサイドに降りれば泳がなくても汗で水着が濡れる。そう考えて、以降は部屋で本を読む。窓の外の、数百坪ほどの空き地には、すこし前までは南国の木々があった。しかし今は整地をされて、土がむき出しになっている。ここに大きな建物が建てば、このホテルには一切、日が差さなくなるだろう。
天気予報は朝から40パーセントの降水確率を伝えていた。その雨が実際に降りはじめたのは、18時もちかくなるころだった。ホテルの、外の通りにもっとも近いところにいる駐車場係に傘を借りて、トンローの大通りを目指す。酔いすぎることを避けるため、エコバッグにラオカーオは持たない。
食事を終えて19時43分にホテルに戻り、部屋の鍵を開けようとして、しかしカードキーをかざしても緑の灯りは点かない。取っ手を動かしてもビクともしない。多分、フロント係がカードキーの有効性を切ってしまったのだろう。
部屋のある4階からエレベータで1階まで降りる。そして雨の中をメイン棟のフロントまで歩き、事情を説明してカードキーを復活させてもらう。そして雨の中を引き返して、ふたたび4階へ上がる。
復活させたはずのカードキーでは、またもや部屋の鍵は解除されなかった。即、ロビーのフロントへきびすを返して「まだ開けられない。急いで欲しい。当方はこれから空港へ行かなくてはならない」と、口調を強くしてみる。フロントのオニーチャンはカードのマスターキーを、ちかくにいた何係か分からない男の人に手渡した。その男の人と共に、またまた部屋の前へ。しかしそのマスターキーを以てしても、なお、部屋の鍵は開かない。男の人はその場を慌てて去った。
5分ほどすると、腰に大量の、しかし今度はカードキーではなく金属製の鍵を提げた施設係が来た。係はドアの、カードをかざす部分の下の、丸いフタを専用の器具でずらした。そして現れた穴に金属製の鍵を差し込んで回した。ドアはようよう、開いた。時刻は19時52分。施設係は詫びることなく無言で去った。まぁ、タイでは良くあることだ。
大急ぎでシャワーを浴び、それまでのTシャツから機内用の、すこし分厚いシャツに着替える。そしてバックパックを背負い、スーツケースを曳いてロビーに降りる。20時15分に予約をしたクルマの運転手は、既にして待っていた。施設係を大急ぎで呼んできた男の人が、僕のスーツケースをトヨタのSUVのトランクルームに入れる。この人には40バーツのチップ。
20:08 安心を象徴するような、いかにも頑丈そうなトヨタ車がホテルを出る。
20:19 センセーブ運河を渡る橋の上で少々の渋滞。
20:35 フワマークから高速道路”Si Rat Expressway”に上がる。
20:57 スワンナプーム国際空港に着。運転手には40バーツのチップ。
21:05 ボーディンバスとバゲージタグの双方が出力される機械でチェックインを完了。
21:12 バゲージタグを乗客みずからがハンドスキャナーで読み込ませて荷物預けを完了。
21:21 保安検査場を通過。
21:24 顔認証システムにて出国審査場を通過。
薬を飲むための水が欲しい。幸い、僕の持つプライオリティカードでも入れるミラクルラウンジがサテライトターミナルにもあったため、エスカレータを上がって受付にそのカードとボーディングパス、およびパスポートを出す。係のオニーチャンは会員資格を示すQRコードを見せてくれという。実は僕は、この会員登録にいつも失敗をして、スマートフォンにQRコードは出せないのだ。即、諦めてエスカレータを下る。
売店で売っているペットボトルの水は70バーツ。街のセブンイレブンなら15バーツで買えるミネラルウォーターに70バーツは出したくない。このあたりの経済観念については自分でも不思議に思いながら、どうにもならない。今回の旅で使ったチップの合計は1,365バーツ。しかし空港の、市中の数倍もする水は、意地でも買いたくないのだ。
22:12 S105番ゲートに達する。
23:05 搭乗開始。
23:15 63Cの席の頭上にバックパックを格納する。
23:17 タイ製の睡眠導入剤”G nite”を、室乗務員にもらったコップの水で飲む。その足でギャレーの脇のトイレに入り、使い捨てカイロを腰に貼る。
朝飯 “La Petite Salil Sukhumvit Thonglor1″の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「東明」のバミーヘン
晩飯 “55 Pochana”のクンオップウンセン、カオパックン、シンハビール
2025.3.6(木) タイ日記(10日目)
最初に目を覚ましたのは、いまだ3月5日の22時48分。以降は短い眠りを幾度も繰り返した感覚があって、遂に6時を迎える。現在の川沿いのホテルに移ってからは、どうも早起きができない。目は覚めても、ベッドから起き上がる気力が湧かない。しかし今日ばかりは、そうも言っていられない。いよいよこの街から去ろうとしているのだ。
ようよう起きて荷作りに取りかかる。ラオカーオの4本はどうやら買いすぎだったらしく、600ccと250ccのペットボトルに移した各々2本がいまだある。これと、バンコク在住の同級生コモトリケー君から頼まれた「日光みそ粒みそ」の1キログラムの袋がスーツケースの容量を圧迫する。結局のところ、3日の夜に買った社員への土産はザックへ収めることとした。
朝食の会場には7時20分に降りた。そして「臓物全種類と生玉子入り」のお粥2杯を食べて、7時43分に部屋へと引き上げる。チェックアウトは8時3分。Tシャツ2枚の洗濯代は160バーツだった。
さて今朝の迎えは4日の日記に書いたタクシーの運転手に「3月6日、8時30分」のメモを渡して頼んでおいた。そのことは今朝、僕のスーツケースを玄関前に運んだベルボーイにも伝えた。ところが8時35分になってもタクシーは現れない。エーという運転手にもらった電話番号を見せると、ベルボーイは親切にも自前と思われるスマートフォンに、その番号を打ち込んだ。流れたアナウンスは多分「その番号は現在、使われていません」というものではなかったか。彼は念のためもういちどその番号を呼び出して、またもやおなじアナウンスが流れた。
ベルボーイは今度はフロントのカウンターに近づき、おなじ番号を固定電話から呼び出すよう、オネーサンに伝えた。しかし結果は変わらない。「タイではよくあること」とは思うものの、フライトの時間は10時15分であり、気が気ではない。その僕の顔を見てベルボーイは自信たっぷりに「心配には及びません」と確約をした。
十数分が経って、トヨタ製のセダンがポーチに横付けをされる。これまでの経緯をベルボーイから聞かされていたらしいオバチャンの運転手は、クルマの中から僕に視線を送って呵々大笑をしている。「助かった」である。親切にしてくれたベルボーイには50バーツのチップ。
08:58 タイではよく目にするところの、個人のクルマを流用しているらしいタクシーがホテルを出る。渋滞を気にしてか、オバチャンは一旦、空港とは反対側にハンドルを切った。
09:14 タクシーがチェンライ国際空港に着。料金は250バーツ。オバチャンには50バーツのチップ。
09:25 チェックインの列に並ぶ。
09:37 保安検査場を通過して、そのまま隣接の2番ゲートに入る。
09:43 搭乗開始。
10:00 58Kの席に着く。
10:25 Airbus A320-200(320/3201)を機材とするTG131は、定刻に10分おくれてチェンライ国際空港を離陸。いくらも経たないうちに「バンコクまで1時間5分」とのアナウンスがある。
バンコクとチェンライのあいだを結ぶタイ航空機の機内は、前席と後席とのあいだが狭く、ひどく居心地が悪い。そのうえ前席の、中国語が表示されているスマートフォンを見ているオネーサンは、離陸前から背もたれを最大に倒して人の迷惑などお構いなしだ。その背もたれから引き出したテーブルにコンピュータを載せ、身をかがめるようにしてきのうの日記の下書きをする。
「バンコクまで1時間5分」なら着陸は11時30分のはずだ。しかし機は、スワンナプーム空港の北方で行ったり来たりを繰り返している。滑走路が混み合っているに違いない。快晴の日にもよくあることだが大気が不安定らしく、機は小刻みに、あるいは大きく上下する。飛行機は最も安全な移動手段と言われても、どうにも気持ちが悪い。
11:37 TG131は定刻より13分はやくスワンナプーム国際空港に無事着陸。
12:11 回転台から荷物が出てくる。
12:34 エアポートレイルリンクの車両が空港駅を発。
13:24 エアポートレイルリンクをパヤタイで高架鉄道BTSに乗り換えてトンロー着。
13:34 トンロー駅から徒歩にてホテル着。
ホテルは、トンローsoi10にあるビルの一室を会場とするバンコクMGに参加をするうち見つけたところだ。駅からちかく、清潔で、部屋は狭くてもバスタブを備え、お湯の出は良く、価格は安い。先ずはシャワーを浴び、スーツケースから必要なものを取り出す。今回のホテルは1軒目から今日の3軒目まですべてバスローブを備えていたから、持参したパジャマの出番は無かった。
冷房の効いた室内でしばしゆっくりしてからトンローの通りに出て、通り沿いのショッピングモールで少々の買い物をする。炎天下をしばらく歩いてホテルに戻り、ペットボトルに入れ替えたラオカーオ、チェンライのフードコートで不要にもかかわらず買う羽目になった”Sang Som”、そして土産の「日光味噌粒みそ」をIKEAのトートバッグに入れる。
トンローから乗ったBTSのスクムヴィット線をサイアムでシーロム線に乗り換え、サパーンタクシンで降りる。駅にほどちかいロビンソン百貨店の地下にあるスーパーマーケット”Tops”に入ったのは16時45分。
酒売り場の冷蔵庫の前まで来て、フランス産の白ワインに目を付ける。しかしタイでは、酒類は17時を過ぎなければ売買ができない。腕時計とiPhoneにて17時になったことを確かめ、支払いの列に並ぶ。オネーサンは自分の腕時計にチラリと目を遣ってからキャッシュレジスターの機械にあれこれの操作を加え、ボトルのバーコードを読み込んだ。代金は699バーツ。
コモトリケー君の住むコンドミニアムの舟は、17時10分にサトーンの桟橋に来る。現在の時間は17時5分。目と鼻の先とはいえ気が急く。僕の重い荷物のほとんどは酒、である。「バカみたい」である。
今は乾季だから、チャオプラヤ川の面は低い。よって浮き桟橋への通路は急な坂になっている。それを、足を滑らせないよう慎重に下る。目指す舟は上流から来てタクシン橋をくぐり、いくつかのホテルの送迎船が去ってから桟橋に着けられた。
前述のラオカーオと”Sang Som”は、次の訪タイ時までコモトリ君の家に預かってもらうこととする。そして買ったばかりのシャルドネ、およびコモトリ君のサントリーだかどこかの酒をIKEAのトートバッグに入れて外へ出る。
コモトリ君お勧めの食堂までは徒歩で20分ほどもかかった。タイ人なら決して歩かない距離である。料理はどれにもひと工夫が加えてあって美味かった。シャルドネのほとんどは、僕がひとりで飲んだ。
帰りは歩く気にも、また公共の交通機関を使う気にもならない。コモトリ君にGrabで呼んでもらったタクシーの運転手は小さなオバチャンだった。時刻は19時43分。目指すはトンローsoi1。
オバチャンは渋滞を避けるためだろう、チャオプラヤ川の西岸を南下し、やがて橋を渡った。いつの間にか眠りに落ちる。しばらくして目を覚ますとタクシーはナナの、スクムビットsoi13を南下している。なぜこんなところにいるのか。僕はオバチャンにiPhoneでGoogleマップを見せつつ「行きたいところはトンローのsoi1ですよ」と言う。タイ人らしく言い訳をするかと思われたオバチャンは笑って、スクムヴィット通りに出るとハンドルを左に切った。
ひどい渋滞は、アソークを過ぎると幾分か収まった。トンローつまりsoi55の手前のsoi53に差しかかったところで左に折れるよう言う。次の丁字路が近づいたところで右に折れるよう言う。ホテルに着いたのは20時45分。スマートフォンに示された255バーツをオバチャンは僕に見せる。僕は100バーツ札3枚をオバチャンに渡して「おつりは要りません」と言葉を添える。
部屋は夕刻の熱気を溜めて暑かった。よって冷房を最大の風量で回し、シャワーを浴び、今度は冷房の設定温度を26℃、風量は最小に落として就寝する。
朝飯 “THE RIVERIE BY KATATHANI”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 “TG131″の機内スナック
晩飯 “ROD TIEW”の蒸し鶏、ピータン豆腐、オースワン、麻婆豆腐、クンオップバミー、Pour Le Vin Avoir la Pêche Chardonnay
2025.3.5(水) タイ日記(9日目)
目は覚めているものの、起きて日記を書く気にはならない。そろそろ旅の疲れが出てきた、ということでもないだろう。ほとんどプールサイドで本を読むしかしていないのだ。
きのう8時ころの朝食会場は、とても混み合っていた。よって今日は8時30分にロビーからレストランへの階段を降りる。南の国で飲み食いをするとき、屋内と屋外に席があれば、僕は必ず屋外で摂る。いま自分は南の国にいる、ということをできるだけ感じたいのだ。
朝食から戻って先ずは会社の、お金の入ってくる銀行口座からお金の出ていく銀行口座に資金を移す。それからおもむろに、既にして完成しているおとといの日記を公開し、きのうの日記に取りかかる。すべてをし終えると11時が過ぎていた。
プールサイドの寝椅子に仰向けになれば、頭上からは鳥の声、脇を流れるコック川からは、上り下りのモーターボートの音が聞こえてくる。「続百代の過客」の上編を読むうち、気温はますます上がる。目映いコンクリートの上をプールサイドバーまで歩き、冷たいものを注文して寝椅子に戻る。レッドチェリーを口にするのは何年ぶりのことだろう。よほどの超弩級でない限り、名所旧跡景勝地の見物は時間がもったいなくてできない。僕にとってもっとも有効な時間の使い方は、なにもしないことに他ならない。
寝椅子のパラソルでは遮れないところまで太陽が動いてきたら、ランナー風のあずまやに移動をして、ここでまた本を読み続ける。笹森儀助による「南島探検」の石垣島の部分を良い調子で読みながら「あれっ」と感じて確かめると、現在の218ページの次のページは既にして読んだ203ページだった。「乱丁か」と忌々しく感じつつ先へとページを繰ってみれば、204ページから218ページまで進んだ次はいきなり235ページで、乱丁に加えて219ページから234ページまでが落丁している。その失われている部分は森鴎外の「航西日記」で、だから続くおなじ鴎外による「独逸日記」は、後先を考えれば、これをいま読むわけにはいかない。仕方なくその先の、夏目漱石による「漱石日記」へと進む。そして15時にあずまやを去る。
ホテルからマッサージ屋”PAI”までの道のりは、およそ2.4キロメートル。30分あればたどり着けるだろうと、15時30分に部屋を出る。例のごとくロビーから数百メートルほども庭を歩いて外へ出る。崖下の大きく曲がった道を歩きつつ、ときおり後ろを振り返る。すると遠くからトゥクトゥクの近づいてくるのが見えた。どうやら客は乗せていないらしい。
僕の脇で駐まったトゥクトゥクは、かなりの古さ、かなりの傷み具合だった。「ナイトバザールのちかくまで」と伝えて返ってきた運転手の返事は60バーツで、これは2013年ころの相場である。車体の古さを気にしての、弱気な言い値なのかも知れない。
“PAI”のガラス扉にはタイ語の張り紙があった。僕はタイ語は読めない。しかしそこに”6″の数字があるところからすれば「本日の営業は18時から」ということなのだろうか。仕方なく僕の感覚からすれば二線級の”CHAMONPOND”まで引き返し、1時間のフットマッサージを受ける。料金は200バーツ、オバサンには50バーツのチップ。
きのうに引き続いて、ツバメの群れ飛ぶ下を歩いてジェットヨット通りに出る。そして小体な洋食屋の外の席に着く。料理は英語では”Chiken Parmidiana”、中国語では「芝士炸鸡排」とメニュにあるもの、またワインは白と赤とがそれぞれ1種類ずつしか無かったから、オーストラリア産のシャルドネをボトルで注文する。
やがて届いたそれは、鶏のフライの上にトマトソースとチーズを載せ、オーブンで焼いた典型的な洋食で、僕の舌を悦ばせた。次にこの街に来るときには、この店にもかならず足を運ぶことにしよう。
ふたたび目抜きのパフォンヨーティン通りに戻り、客待ちのトゥクトゥクに声をかける。ホテルまでの料金は100バーツ。部屋に戻ってシャワーを浴び、多分、19時台に就寝する。
朝飯 “THE RIVERIE BY KATATHANI”の朝のブッフェ其の一、其の二
晩飯 “surf & turf”のチキンパルミジャーナ、JACOB’S CREEK CHARDONNEY 1984
2025.3.4(火) タイ日記(8日目)
「夜が明けると共に鳥の啼き始めるのは、日本でもタイでも変わらない」と、先週土曜日の日記に書いた。しかし今朝は4時30分に「ホーイッ、ホーイッ」という例の声を聞いた。いつか地元の人と一緒にいるときにこの声に気づいたら、鳥の名を訊いてみることにしよう。
それにしても今朝は疲れていて、これまでのように起きて日記を書く気がしない。空が明るくなり始めるころにようやくベッドを降りて、先ずは水、次は持参したインスタントのコンソメスープを飲む。
このホテルの庭で朝食を摂るのは2019年以来、6年ぶりのことだ。コック川の下流側には朝日が見え、鳥は啼き、8時から集中する客の数に対して人員が不足している以外は、言うことはない。部屋に戻ってしばしベッドで休憩。以降は部屋からの眺望を楽しみつつきのうの日記を書く。
プールサイドには11時すぎに降りた。そして寝椅子で本を読む。その上に広がるパラソルで太陽の直射を防げなくなってからは木造のあずまやに移動をして、ふたたび15時まで本を読む。対岸の一部が荒れ、倒木が水に浸かっているのは、昨秋の洪水によるものだろうか。
2017年までは街までの2キロメートル弱を苦にしなかった。それ以前は、往復の4キロメートル以上を平気でこなした。しかしこれが加齢というものだろうか、炎天下の歩行は、いまやまったくしたくない。しかし18時のシャトルバスを待つつもりもない。
意を決して帽子をかぶり、首には麻のタオルをマフラーのようにして外へ出る。ホテルの敷地から出て崖下の道を歩いているときに、向かい側からタクシーが来た。手を斜め下に差し出す合図をすると、窓を開けた運転手はUターンをしてくる旨を腕で示す。この街に流しのタクシーやトゥクトゥクはほとんど見ない。上手い具合に拾えたものだ。
この街にメータータクシーはいない。いや、いないかどうかは不明ながら、僕は遭遇したことがない。1980年代のバンコクのタクシーと同じく、料金はすべて相場、あるいは交渉によって決まる。マッサージ屋”PAI”までの料金は100バーツ。ふと思いついて、あさっての朝8時30分にホテルへ迎えに来るよう頼む。ちなみに運転手の名前はエー。電話番号も受け取った。
さてその”PAI”は今日は満員。よって2日目に訪ねた”CHAMONPOND”の扉を押す。足マッサージ1時間200バーツの料金は”PAI”と同じながら、タライのぬるま湯で足を洗ってくれる古風さ、また客質の点からも、できれば”PAI”を使いたい。今日、僕の右で足マッサージを受けていた男は終始、スマートフォンから中国語の音声を消さずに動画を見ていた。
“CHAMONPOND”からワンカムホテルの手前まで来て賑やかな声に空を見上げると、そこには大変な数のツバメが飛び交っていた。正に夏、そのものである。
サナムビーン通りでの飲酒喫飯を終えて、ふたたび盛り場に戻る。そしてきのうとおなじく、そこからすこし外れたところで客待ちをしていたトゥトゥクに声をかける。料金は100バーツ。
ホテルに戻ったのは19時ごろ。ロビーのエレベータ前にはドゥシット時代からのオジサンがいた。このオジサンは、お土産屋で売っているような少数民族の服を着て、ただエレベータの「開」スイッチを押すだけのためにここにいる。しかし僕はこのオジサンの姿を認めるとなぜか嬉しくなって、日に一度はチップとして20バーツを手渡す。AI時代に淘汰されないのは正に、このオジサンのような人ではないか。
部屋に戻ってシャワーを浴び、19時台に就寝する。
朝飯 “THE RIVERIE BY KATATHANI”の朝のブッフェ其の一、其の二、其の三
晩飯 「ジャルーンチャイ」のパッマクーワ、ムーグローブ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.3.3(月) タイ日記(7日目)
目を覚ましたのは1時30分のころ。いつも通りである。しかし今日ばかりはそのまま寝転がってTikTokを眺めたりしているわけにはいかない。早々と荷作りを始める。
ラオカーオはいまだ3本が残っている。その体積と重さを減ずるための空のペットボトルは家から500ccのもの1本、別途、往路のタイ航空機の中で支給されたミネラルウォーターの350ccのもの2本を、後生大事にクローゼットの上の、天井にちかい棚に置いておいた。それがなんと、きのう、部屋掃除のメイドに捨てられてしまった。
そういう次第にて、3本のラオカーオのうち2本は、きのうの夜から頑張って飲んだ部屋のミネラルウォーターの空きボトルに移した。しかし1本は、瓶のままスーツケースに収める。
04:38 IKEAのトートバッグにこの2日間の洗濯物を入れて部屋を出る。
04:45 ホテルから徒歩2分の”Neko wash & dry”で洗濯機の設定を完了。冷水による30分間の洗濯は、深夜料金にて30バーツ。きのうおとといより気温は明らかに高い。
05:14 ふたたびコインランドリーへ行く。洗濯機には「あと1分30秒」の表示が出ていた。それが止まるのを待って、洗濯物を備えつけのカゴで乾燥機まで運ぶ。乾燥機の料金は昼とおなじ50バーツ。
05:52 みたびコインランドリーへ行き、既にして止まっている乾燥機から洗濯物を取り出して、ホテルに戻る。
06:25 とりあえずの荷作りを完了する。洗い上がったばかりのTシャツ2枚は生乾きながら、仕方がない。
07:30 朝食会場に降りる。プールサイドの景色を楽しむため、ロビーや食堂のある1階と部屋のある2階との行き来は、エレベータではなしに、かならず階段を使う。
気温の上がる10時にプールサイドに降りて「続百体の過客」の上巻を読む。時代は江戸の最後期から明治の初期に入り、きのうまでとは異なって、ページの捗ること疾風の如くだ。理由は、ドナルド・キーンの採り上げるいにしえの人の紀行文が、国内から国外へと場所を移したことによる。
活字を追えば時を忘れるから、iPhoneのアラームを11時30分に設定しておいた。それが鳴ると同時に寝椅子から降り、バスタオルを指定のカゴに入れて、部屋に戻る。シャワーを浴びて服を着て、サンダルはスーツケースに納めたから靴下と革靴を履く。11時50分にチェックアウト。正午に予約したタクシーは11時59分に、ロビーの玄関に横付けをされた。
2009年からたびたび使っている、以前はドゥシットアイランドリゾート、現在はザリバリーバイカタタニと名を変えた川沿いのホテルには十数分後に着いた。タクシーの料金は200バーツ。運転手には40バーツのチップ。
僕がここに直近に泊まったのは、コロナ前の2019年9月。ホテルの名は既にしてザリバリーバイカタタニになっていた。その内装の近代的になったこと、またプールサイドの充実振りには特に目を見張った。しかし人はとかく変化を嫌う。「良くなくなった」という声も聞かないではないけれど、僕はその意見には与しない。
部屋までスーツケースを運んでくれるベルボーイがあれこれと説明をしてくれるので「ここには何度も泊まっています」と伝える。「いちばん最初は2009年」と続けると「それではドゥシットの時代から」と問われたので「はい」と答える。ベルボーイには50バーツのチップ。
移動用のズボンを普段のものに穿き替え、革靴をサンダルに履き替える。そうしてこの街に入って3日目に調べておいたちかくの食堂を目指す。「ちかくの」とはいえ、ホテルの敷地を出るには、広大な庭を数百メートルほども歩く必要がある。食堂から戻ったらシャワー。朝は肌寒くても、日中の暑さは日本の盛夏と変わらない。
午後はプールサイドに降りて本を読む。そのうち日除けのパラソルだけでは太陽の直射を避けられなくなって、ランナー風のあずまやに逃げ込む。木製の椅子の座り心地は悪くなかった。なにより川風が心地よい。まったく極楽ではあるものの、旅の中日はとうに過ぎているのだ。
ところでこのホテルとナイトバザールのあいだ2キロメートル強を往復しているシャトルバスの時間は、ホテル発が17:00、18:00、20:00、21:00、22:00。ナイトバザール発は、各々の15分後だった。しかしチェックインのときに求めた現在の時刻表では、合理化なのだろう、17時の便が消えていた。仕方なく18:00発のそれに乗って街へ出る。片道の料金は60バーツ。
先ずは200メートルほどを歩いてマッサージの”PAI”へ。本を持参し忘れたのは痛かった。フットマッサージを1時間。オバサンには50バーツのチップ。車道から50センチメートルほども高い、ウィアンインホテル前の歩道を歩いてナイトバザールの入口まで戻る。時刻は19時20分。
これまでより2時間30分ほども遅い到着により、黄色い椅子とテーブルのフードコートは満席に近かった。ステージにも人がいて、僕が席に着いたときには、歌手がひとりギターを弾きつつフォークソングを歌っていた。彼が去った後は、聞き慣れているいつもの曲に合わせての、民族衣装を着た5名の女の人による踊りが始まる。ちかごろこの踊りを見ていなかったのは、僕の夕方の時間が以前にくらべて早くなったから、ということにようやく気づく。
食後はナイトバザールで社員へのお土産を買う。買い物は得意でないものの、布製品を売る店のオジサンは、2割ちかく安くしてくれた。おなじ品物が、首都の空港の制限区域内では”SPECIAL PRICE”などと札を付けられて、数倍の価格で売られているのだ。
盛り場を外れたところで客待ちをしていたトゥクトゥクのオジサンに声をかける。どれだけ吹きかけてくるだろうかと身構えていたものの、オジサンの言い値は2017年の秋とおなじ100バーツだった。勿論、地元の人は、それよりずっと安く使っているだろう。
部屋へ戻ってシャワーを浴び、以降のことはよく覚えていない。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「カオソーイタオゲーエック」のパッガパオムーカイダーオ
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのチムジュム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.3.2(日) タイ日記(6日目)
鳥の声に気づく。時刻は6時21分。「うかうかしている場合ではない」という気持ちになる。目を覚ましてから何杯目かの、しかし淹れたばかりの紅茶を慌ただしく飲む。半袖のTシャツ1枚では寒かろうと、木綿のセーターを首に巻く。そうして2階の廊下からプールサイドに続く階段を降りて外へ出る。
道のあちらこちらでは、人々の朝食のための屋台や露店が開店の準備に取りかかり、あるいは既にして商売を始めている。チェンライ病院をはじめとする病院群をひとまわりして戻ると30分が経っていた。
10時を過ぎたところでプールサイドに降りる。「百代の過客」が昨秋ほど捗らないのは、上巻にくらべて下巻が面白くない、ということではない。20時に寝れば夜中のうちに目を覚ます。以降はこの日記を書いたりして朝まで起きている。だからプールサイドでは本を腹の上に伏せたまま眠ってしまうことが度々あるのだ。
今日もそうして小一時間ほども眠る。子供の声が聞こえてくる。目を開けると隣の寝椅子には8歳と3歳ほどの白人の姉弟がいた。母親は「静かに話せ」といういうようなことを子供たちに言い続けている。僕は「気にすることはありません」と、その母親に顔と身振りで示す。
室町期から江戸後期までの日記や紀行文を集めた「百代の過客」の下巻は13時1分に読み終えた。それをしおにプールサイドから上がり、部屋に戻って外出の用意をととのえる。
自転車を借りて、先ずはきのうのフードコートへ行ってみる。南の国らしくその場所は開け放たれていたものの、日曜日だからだろう、すべての店は閉まっていた。そこできびすを返してパフォンヨーティン通りを北へ進み、途中で左に折れてジェットヨット通りに入る。そして行きつけの汁麺屋の脇に自転車を駐める。
タイ北部の麺料理「ナムニャオ」について、チェンライを幾度も訪ねている人たちのウェブ上の情報に「カオソーイポーチャイ」の名は無い。それは、この店のそれに丸い板状の納豆トナオヘンやニャオの花の芯が入っていない、つまり本格派ではないからではないか。それでも僕は、この店のナムニャオが好きだ。辛さに汗が噴き出す。価格は40バーツ。田舎の物価はまだまだ低い。
部屋を出る前に、チェンライに入ってからきのうまでに使ったお金を合計し、それを日数で割ったら700バーツ強だった。初日の両替で得た15,519バーツは、最終日まで保つだろう。そう考えたものの、汁麺屋の帰りに初日とおなじ両替屋”SUPER MONEY EXCHANGE”に寄る。換金率は初日より良い1万円あたり2,252バーツになっていた。部屋に戻ってバンコクの換金率を調べると、もっとも条件の良い店で1万円あたり2,265バーツだった。これくらいの差であれば「取りあえず使う分はチェンライで。首都で使う分はバンコクで」と、両替を二度に分ける必要は無いだろう。
午後は部屋で「百代の過客」の下巻に続く「続百代の過客」の上編を読み始め、16時がちかくなったところでロビーに降りる。そして自転車を借りてパフォンヨーティン通りを東へ進む。マッサージ屋の”PAI”ではいつものように足マッサージを1時間。オバサンには50バーツのチップ。
さてサナムビーン通りの食堂も、今日で3日連続となった。ウェブ上に見つけたメニュに「パッシーユー」つまり焼きそばがあったため、それを注文すると「ペッシーユー」とオニーチャンは訊き返した。「タイ人の発音だと、そうなるのか」と、首を縦に振った。ところが席に届いたそれは、アヒルの醤油煮をオーブンで炙ったものだった。「なるほどペッとはアヒルのことだったか」と得心をする。
それを平らげて次は烏賊の塩玉子炒め「プラムックパッカイケム」を注文する。烏賊はカタカナでは「プラームック」と表記をされるけれど、これを棒読みしても絶対に通じない。「プラ」の後は長音にせず「プラムック」。「ム」は上の前歯で下唇を噛みながら素早く発声する。タイ語の発音は容易ではないのだ。
帰りはきのうとおなじくナイトバザールの中を、自転車を押して通る。ホテルに帰り着いても、空はいまだ夕刻の色を残している。その空には旧暦2月3日の月があった。そして今日も20時より前に寝に就く。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「カオソーイポーチャイ」のバミーナムニャオ
晩飯 「ジャルーンチャイ」のペッシーユー、プラムックパッカイケム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.3.1(土) タイ日記(5日目)
夜が明けると共に鳥の啼き始めるのは、日本でもタイでも変わらない。聞こえるのは「ホーイッ、ホーイッ」という、こちらではおなじみのもの。それに他の鳥の声も混じる。空は晴れている。その空を見て「そうだ、今日は洗濯の日だった」と思い出す。
きのうまでに溜まった洗濯物をIKEAのトートバッグに詰めて、おとといの日記に書いた、招き猫の看板のコインランドリー”Neko wash & dry”へ行く。係のオバサンは、おとといとは異なる人だった。
洗濯機は20キログラムと15キログラムの2種があったため「こちらで充分」と、15キログラムの方を僕は指す。オバサンは僕からトートバッグを受け取り、その中味を洗濯機の中に入れていく。日本から持参の粉石鹸をその洗濯機に入れようとして「ノー」と言われる。よって昨秋にチェンライのコインランドリー”otteri”で買って余らせた液体洗剤を差し出すと、オバサンはそれを受け取り、洗濯機の上の口から絞り入れた。
タイ語が読めるわけではないけれど、15キログラム用の洗濯機の奧の壁には「7時から23時59分まで冷水洗い50バーツ、ぬるま湯洗い60バーツ、温水洗い70バーツ、0時から7時までは、それぞれ30バーツ、40バーツ、50バーツ」の表示がある。「50バーツだね」とオバサンに確かめると、オバサンは洗濯機の、硬貨の差し込み口を指で示す。そこに、これまで溜めておいた10バーツ硬貨5枚を投入する。電光掲示板に出た数字は30分。それをオバサンはまた指で差す。
外の通り、建物、樹木、人、みな朝日を浴びている。「あー、気持ちいいなぁ」と思わず声が出る。それに我ながら驚いて「自分の口からそのような言葉が漏れるときとは、自分がどのような状況にあるときだろう」と考えてみる。そしてそれが「暖かさと薄着」のふたつによることを、改めて知る。
コインランドリーのテーブルで本を読むうち洗濯機が止まる。オバサンは洗濯機の中に残したものが無いか入念に調べつつ、洗い上がった衣類をカゴに入れた。そして今度は20キログラム用の洗濯機と接している乾燥機にカゴの中味を投げ入れた。乾燥時間は25分間で、選べる温度帯は”HIGH”、”MED”、”LOW”、”DELICATE”、の4種。デフォールトは”MED”らしく、ここでもまた10バーツ硬貨5枚を機械に投入する。
おとといの日記に書いたように、月曜日からは川沿いの、つまり中心部からは離れたホテルに移る。その日の早朝には、洗濯物は2日分しか溜まっていないだろうけれど、またここに来ることにしよう。それも、いまだ料金の安い7時前に、だ。
ここ数日を過ごしてみて分かったことだが、いささか肌寒い朝の気温は、10時ころから上がり始め、昼には35℃に達する。よって今日は10時を過ぎたところでプールサイドに降りる。そうして13時30分に到ったところで腹の具合を確かめ「昼飯は抜いても大丈夫ではないか」と考える。しかし10分後には「いや、しかしそれでは夕刻まで保つまい」と、プールサイドから引き上げる。
チェンライに入って2日目の昼は、看護婦さんであふれるフードコートでカオカームーを食べた。その、ローカルの小さなフードコートにカオゲーン、つまりぶっかけメシ屋のあることは、その前をたびたび通りかかって確かめてあった。
ホテルから歩いて3分ほどのフードコートは、今日が土曜日だからだろうか、開いている店は少なかった。また既にして14時がちかいせいか、僕以外の客はひとりきりだった。僕はカオゲーン屋のオネーサンに、ごはんにのせるべきおかず2種を指で伝えた。
ごはんの盛りは良い。ごはんの左には茄子と豚の挽き肉をたっぷりの油で炒めた、タイではよく目にするもの。右には豚肉団子と葱と香り野菜の炒めものが載せられている。その右側のおかずを先ずは口にして「アッ」と、声にならない声を出す。容赦の無い辛さである。「いいじゃないですかー」である。ガイジンに忖度したタイ料理は好きでないのだ。
食べ終えてオネーサンに100バーツ札を渡し、釣銭は数えないままポケットに入れた。そして席に戻って確かめると20バーツ札が2枚、10バーツ硬貨が1枚、5バーツ硬貨が1枚の、計55バーツがあった。ということは、おかずをふたつ載せたぶっかけ飯は45バーツ。「安い」と感じても口に出さないよう努めている僕でさえ、思わず「ヤッスッ」と声が出てしまった。それにしても、この店のおかずは美味い。日曜日の明日も、取りあえずは覗いてみることにしよう。
朝に洗った洗濯物を、午後は日の当たる窓際に並べて、より一層、乾かそうとする。そしてベッドで本を読みつついつの間にか眠ってしまい、目が覚めると16時が過ぎていた。カーテンは引いていなかったため、部屋の中はとても暑くなっている。
マッサージ屋の”PAI”には毎日16時に出かけることとしていたものの、小一時間ほど遅れてしまった。今日のオバサンは足の角質をすこしばかり削ってくれた。また脛のかさぶたを指でなぞって「痛いか」と訊くので「痛くない」と答え、iPhoneの翻訳ソフトに「アレルギー性の湿疹」と入れて、そのタイ語をオバサンに読ませる。フットマッサージ1時間の料金は200バーツ。オバサンには50バーツのチップ。
きのうとおなじ食堂の外の席で「百代の過客」の下巻を読みつつ、その220ページに思わず膝を打つ個所を発見する。芭蕉の五十年忌に思い立って江戸から松島を目指した山崎北華の旅行記「蝶之遊」の章の一部分。
……
不時の用意に従者を伴うよう友は勧めるが、北華は一人旅を選ぶ。急ぐ理由はなにもないのだから、格別難儀はあるまいと考えたのだ。それに、もし従者が彼の荷物を運んでくれ、己一人大手を振って歩くのならば、まことに「風雅なかるべし」と思ったのである。
……
「なぜ旅行に出てまで安楽を遠ざけ、苦を求めるのか」と家内は言い、僕に同行することをしない。僕の答え「楽な旅行なんてカッコ悪いじゃん」はまさに「風雅なかるべし」だったのだ。
今夜はナイトバザールの中を、自転車を押して過ぎる。そうしてホテルに戻ってシャワーを浴び、20時より前に寝に就く。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 Ruamchittawai Road南側のフードコートのカオゲーン
晩飯 「ジャルーンチャイ」のヤムカイヨーマー、カームーパロールアムサイルアット、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.2.28(金) タイ日記(4日目)
このホテルにチェックインしたとき、部屋のミニバーにはウーロン茶のティーバッグがふたつあって、1日目と2日目の朝には重宝した。それを使い切ってもメイドは補充をしてくれない。部屋にメモを残そうとしたものの、それを思いとどまって、日中、廊下に留め置かれるハウスキーピングの台車を見ると、コーヒーやミルクや砂糖の包みはあるものの、お茶のティーバッグは無い。「だったらあれは特別なものだったのだろうか」と考えて、催促することは止めた。
そして今朝は朝の散歩の途次に最寄りのセブンイレブンに入り、自分では見つけられなかったから店員に探してもらって紅茶のティーバッグ10包入りを買った。価格は57バーツだった。
いま泊まっているところは洒落たブティックホテルで、こぢんまりとしながら建物には様々な意匠が凝らされている。庭から螺旋階段を昇った上には喫茶室があるらしい。朝食の後に行ってみると、ガラスの壁には”CAFE & WORKSPACE”の文字があった。
部屋でしばらく休んでから、今年の正月に届いた年賀状と、初日に買った絵はがきを手にふたたび庭へ降り、螺旋階段を上がる。喫茶室”common’day”のオネーサンには、冷たいタイティーを注文した。持参した年賀状は7通だったものの、印刷のみのものは脇へ置き、たとえ1行でも手書きの文字のある5通にのみ返信を書く。
ホテルから目抜きのパフォンヨーティン通りに出ようとする右側に郵便局のあることは、初日から気がついていた。ホテル2階の喫茶室から、その郵便局に直行する。オネーサンはハガキが5通あることを確かめて「250バーツ」と告げた。一瞬、頭の中には疑問符がいくつも浮かんだものの、オネーサンは確かに50バーツの切手5枚を僕に差し出した。タイの、ハガキによるエアメールの運賃は長く15バーツで、僕の知る限り2016年まで変わらなかった。それが今は50バーツだという。
タイの物価高騰と円安を呪うタイファンは少なくない。その恨みつらみをウェブ上で目にするたび「むかしが安すぎたんだ。そう高い、高い、嘆くな」と僕は腹の中で言い続けた。しかし今日の50バーツには驚いた。小刻みな変更を繰り返したくないための、一気の値上げだったのだろうか。
そうこうするうち昼も過ぎたため、今回の初日に場所を確かめておいたカオマンガイ屋へ出かける。チェンライは、タイの最北部にあっては大きな街だが、中心部を外れれば、まるで田園のような空き地が広がる。そのような場所にかなりの面積を占めるカオマンガイ屋は、おそらくできたばかりで、とても綺麗だ。屋内にいた人の良さそうなオニーチャンはすぐに出てきてくれたから、煮鶏と揚げ鶏の盛り合わせを頼んだ。そうしたところオニーチャンは僕が日本人であることを確かめて、iPhoneを取りだした。
オニーチャンの差し出したiPhoneには「普通の鶏は50バーツ、去勢鶏は60バーツ」とあった。どちらが美味いかと言葉で問うと、オニーチャンはふたたびiPhoneに向かって何かを話しかけ、ふたたび見せられたiPhoneには「去勢鶏の方」とあったから、そちらにしてもらう。
それにしても、このカオマンガイ屋は、金持ちの道楽としか思えない。というのは、南の国らしく簡素な作りではあるけれど、広く、清潔で、整理整頓が行き届き、店の周りには、将来は水を張るつもりなのか、空堀まで巡らせてある。それでいて、昼どきにもかかわらず、客は僕ひとりなのだ。
オニーチャンは煮鶏用と揚げ鶏用の2種のソースを僕のテーブルに運び、その説明をしてくれた。タイでは揚げ物には、まるでジャムのような見た目の甘いソースを添える。日本人としては受け入れられないから、これまでは味見をするくらいに留めていた。しかし今日ことそのスイートチリソースを試してみると、揚げ鶏との相性は、決して悪くなかった。
太ったオニーチャンは、とにかく人なつこい。僕がカオマンガイを食べ終えたと見るやすぐに近づいて来て「味はどうでしたか」、「改善するところはありますか」、「チェンライにお住まいですか」と、矢継ぎ早にiPhoneの翻訳ソフトで訊いてくる。口で話してしまった方が簡単で速いだろうに、よほど英語が苦手なのだろうか。
「チェンマイは人が多すぎる。その点、チェンライはちょうど良い。だからチェンライには10回以上も来ている」とiPhoneに日本語で話しかけると、翻訳されたタイ語を読んだオニーチャンは、またまたiPhoneに向かって何ごとかを話しかけた。ディスプレイには「次の機会にも、ぜひこの店にお出かけください」とあった。
午後はプールサイドで数時間ほども本を読む。そのページを繰る手が、昨秋ほど捗らないのはなぜだろう。
その昨秋に2度ほど訪ねた食堂については、撮ってきたメニュの画像、またウェブ上にあった更に詳しいメニュを紙に出力するなどして、いろいろと調べておいた。しかし今いるところからその店までは、1.2キロメートルの距離がある。往復2.4キロメートルは歩く気がしない。自転車を使えば酔っての帰路が危ない。しかし往きは自転車、帰りは押して戻れば良いと考えて、16時にフロントで自転車を借り、先ずはマッサージ屋の”PAI”に乗りつける。
僕のかかとに剥がれかかっているバンドエイドに触れて「痛いか」と、今日のオバサンが訊く。「痛くはない」と答えると、オバサンは今度はバンドエイドの剥がれかかっているところを気にし始めた。「切っちゃったらどうかね」と身振りで示すと、オバサンは奥から持ち来た鋏でそれを綺麗に切ってくれた。
カオマンガイ屋のオニーチャンではないけれど、僕もiPhoneを取りだし「日本の冬はとても寒いです。空気も乾いているので、手や足の皮が切れます。でもタイに来てしばらくすると治ります」と翻訳ソフトに打ち込む。オバサンは現れたタイ語を、周囲のオバサンにも聞こえるよう声に出して読んだ。そのオバサンのマッサージは上手かった。料金は1時間で200バーツ。チップは50バーツ。
外の席に着いた食堂の、英語と中国語のメニュに「鸡蛋炒木耳」とあるのはムースーローに違いない。タイ語による料理名をオニーチャンに訊いたものの、そのフワフワした発音は、僕には聞き取れなかった。目の前に届けられたそれは日本のムースーローとは異なって、赤と緑の唐辛子が共に炒め込まれ、とてもタイらしい。味は勿論、良かった。明日はまた、別のものを頼んでみることにしよう。
そうして結局は帰り道も、交通量の少ないところを選んだとはいえ、自転車でホテルまで戻る。空はいまだ、明るい。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「ミーカオマンガイ」のカオマンガイ(トムトーパッソム)
晩飯 「ジャルーンチャイ」のガイサップルートロット、鸡蛋炒木耳、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.2.27(木) タイ日記(3日目)
きのうのチェンライの空には、ほんのすこしのあいだしか晴れ間は見えなかった。しかし今日は朝から快晴らしい。「らしい」というのは、部屋の窓からは、空のほんの一部しか窺えないからだ。晴れているなら散歩がしたい。
上はユニクロの半袖Tシャツ1枚、下はワークマンのスポーツブランド”FIND OUT”のゴルフ用パンツ、足元は素足にKEENのサンダルで外へ出る。すこし肌寒い。ということは、気温は20℃そこそこだろうか。
ホテルのあるルアムチッタウェイ通りからパフォンヨーティン通りに出ようとする右側に、コインランドリーを見つける。様子を見てみようとしてサンダルを脱いで上がる。するとオバサンが出てきて熱心に説明を始めた。オバサンは英語が話せたので「あした来ます」と答えると、オバサンはニッコリと笑った。しかし落ち着いて考えて、洗濯は明後日の朝にするのがもっとも合理的と気づく。
南の国に来て嬉しいことのひとつは、植物が大きく育つことだ。戸外で見ることのできるそれは元より、ホテルに戻り、部屋のある2階への階段を上がりきったところに置かれた観葉植物も、しばし立ち止まって観察をする。
朝食を終えて10時を過ぎるころ、プールサイドバーにファランの3人組のいることを、部屋の窓から認める。いまだ泳げる気温とも思えないけれど、とにかく彼らは元気だ。滞在しているホテルのプールはこぢんまりとして、置かれているデッキチェアは少ない。部屋着のバスローブを慌てて過ぎ捨てて、Patagoniaのバギーショーツを穿く。そうして午後に到るまで本を読んでからプールサイドを去る。
現在はナイトバザールから900メートルほど南に滞在をしているが、来週からはコック川に面した、つまり街の中心から離れた場所に移る。2017年までは、そのホテルにいても、昼食のため3キロメートルや4キロメートルを歩くのは平気だった。しかし次に泊まった2019年にはそれが億劫になり、朝食をたっぷり摂って昼は抜くこととした。今回は、ちかくで昼食の食べられるところを探しておこう。そう決めて、きのうに引き続いて自転車を借りる。
ルアムチッタウェイ通りからサナムビーン通りに出て東へ進む。自転車はプラスティック製のペダルが割れ落ちて、その部分がただの棒になっている。そのせいか、1キロメートルほども走ると疲れてきた。しかし引き返すわけにはいかない。川沿いのホテルにほどちかい、つまりワットプラケオやオーバーブルック病院にちかいカオソイ屋までは、2キロメートル以上の道のりがあった。この街に来てはじめてかいた汗を、尻のポケットから出した手拭いで拭く。
ふたたび棒状のペダルを踏んでホテルに戻る。平坦な地形だけが助けである。気温は多分、35℃くらにまで上がっているのではないか。気温のメリハリは嫌いでない。額の汗にできるだけ触れないよう注意をしながらTシャツを脱ぎ、シャワーを浴びる。以降はプールサイドには降りず、部屋の安楽椅子で本を読む。
16時になりかかるころにふたたびホテルを出てパフォンヨーティン通りを北上する。今日こそは、通いつけの”PAI”で1時間の足マッサージを受けることができた。料金は200バーツ。オバサンには50バーツのチップ。
ナイトバザールの両側のお土産屋は、17時ころから商品を外へ出し始める。その奧のフードコートで玉子焼きを肴にラオカーオのソーダ割りを飲んでいると、ガードマンが来て何ごとか言う。ワケが分からずにいると、ちかくの店のオニーサンが「ウイスキーも買ってもらわないと」と、ガードマンの代弁をする。
確かにフードコートのそこここには、食べ物や飲み物の持ち込みを禁ずる張り紙がある。ソーダと氷を買えば問題無しと考えていたが、僕の行いは確かに違反である。仕方なく220バーツで買った”Sang Som”の小瓶を免罪符のようにテーブルに立てて、そのままラオカーオを飲む。ちなみにここの飲み物売場にラオカーオは置いていない。数十年ほど前までの日本では、産地を除いては、焼酎は馬鹿にされていた。タイ人のラオカーオへの視線にも、それとおなじものがある。
フードコートには、きのうよりも長くいた。ふと目を上げると空は随分と暗くなっていた。クルマが移動手段の普段からは考えられないことだが、900メートルの道を歩いてホテルへと戻り、シャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「カオソーイタオゲーエック」のカノムジーンナムニャオムーサップ
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのカイジャオムーサップ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)