2024.6.13(木) タイ日記(11日目)
短い夢を途切れ途切れに見ながら、途切れ途切れに眠る。夜はベランダの戸を開け、扇風機はもっとも弱く回しておく。朝方は、扇風機を止めようかと思うほどの涼しさだった。
今日は帰国日にて、6時より荷作りを始める。先週の金曜日に買った3本のラオカーオは徐々に量を減らし、今朝は数本のペットボトルに小分けをした。帰国後は次に備えて冷蔵庫で保存をするのだ。8時を過ぎるころ、急に気温が上がってくる。シャワーを浴び、部屋の扉を半開きにして風を通す。
8時45分、下はパタゴニアのバギーパンツ、上には半袖のポロシャツを身につけロビーヘ降りる。何度も階段を上り下りしたくないから、手提げ袋には財布とiPhoneの他に、本と紫外線を防ぐためのメガネも入れている。朝食はトーストとコーヒーと果物のみ。それでも身動きが取れないほど満腹になる。
食後はプールサイドで本を読む。手が疲れてきたら、本をiPhoneに持ち替えて、朝食の前に公開したばかりのきのうの日記を読む。誤字、脱字、言い回しの気になるところ等々、計18ヶ所を見つけるものの、コンピュータは部屋に置いたままだ。よって修正の必要なところは仰向けのまま手帳に記す。
今回、持参したドナルド・キーン編「昨日の戦地から」は、いまだ20代だったドナルド・キーンやオーティス・ケーリたち日本語将校が第二次世界大戦直後のアジアに来て、観たこと、聞いたこと、また、したことを手紙で知らせあった書簡集だ。これがべらぼうに面白い。今日までかけて293ページまで進んだ。惜しいことに27通目の「青島のドナルド・キーンから東京のテッド・ドバリーへ」では「注1」の注釈が抜けていた。
昼を過ぎたところでプールサイドから引き上げる。フロントにはおとといまでのオバサンがいる。きのう預けた洗濯物が仕上がっているかどうかを、そのオバサンに確かめる。チェックアウトの時間を訊ねられて16時と答えつつ「仕上がっていれば嬉しい」と言葉を添える。オバサンは果たしてきのうとおなじ”LOCKERS”の看板の下の部屋から、洗い上がったシャツやその他を出してくれた。これで荷作りを完了させることができる。多いにありがたい。
部屋に戻ってきのうの日記を修正する。荷作りを終えれば何をすることもないから、風の通る部屋でベッドに仰向けになる。iPhoneでTikTokを開けば「タイに来たらすべき18のこと」という動画が飛び込んでくる。高級ホテル、名所、有名料理店を巡るそれを見ながら「タイに来てすべきことは、すなわち何もしないことでしょう」と、腹の中で呟く。
部屋のドアを開け放ち、スーツケースはそこへ置いたまま、ザックのみ背負ってロビーに降りる。ちなみにこのホテルではロビーを”FOYER”と記している。古風な英語なのだろうか。ベルのコーナーにいたのは先日のオジサンではなく、オニーチャンだった。大きく赤いプラスティック板に”D-7″と白く彫られた部屋のキーホルダーを見せつつ、スーツケースを降ろすよう言う。きのう「そこを押されりゃ、誰だって多少の違和感はあるだろう」と感じた腰の違和感が、今朝からは腰全体に広がっている。枕を持参すべきなのかも知れないけれど、まさかそのような大きなものを持ち歩く気にはならない。オニーチャンには50バーツのチップ。おとといまでのレセプションのオバサンが笑顔で見送ってくれる。このホテルは、ある程度の時間であれば、レイトチェックアウトに追加の料金は取らない。
soi2に出てしばらく往くと、前からタクシーが来てすれ違う。小路の奥で客を降ろせば戻ってくるだろう。そう踏んで歩き続ける。その僕に、いつもタクシーを停め一発を狙っているオジサンが声をかける。無視をしても声をかけ続ける。小路の奥でUターンしたタクシーに、停まるよう合図を送る。それでもオジサンは声をかけ続ける。
タクシーの、助手席側の窓が開く。「トンローの駅まで」と伝える。僕の言葉を聞き取れない運転手が何やら言う。「トンローまでだよ」と、いまだ諦めない一発狙いのオジサンが運転手に教える。「250バーツ」と運転手は言う。「ミーター」と発すると、運転手は断ってきた。「250だってさ」と、僕はオジサンを振り向く。オジサンは「そのくらいは妥当な範囲だわな」という顔つきをする。「200バーツ」と値切ってみる。運転手は頷いて、助手席のドアを開ける仕草をする。一発狙いのオジサンは、人は良さそうだ。僕がスーツケースを助手席に載せることを手伝ってくれた。時刻は15時45分だった。
soi2からスクムヴィット通りに出れば、トンローは右の方向だ。しかし右折はできない。左折をしてすぐの、モーターウェイに沿った寂しい道をタクシーは南下する。「ラマシー」と運転手が呟く。なるほどラマ四世通りまで出て東に進む大回りしか経路は無い、ということなのだ。普段は、メーターで行く運転手のタクシーにしか乗らない。しかし重いスーツケースと腰の痛みを考えれば、今回は致し方が無かった。
「シェシバタ」とか”OKONOMI”などという日本系の飲食店のある裏道はスクムヴィットsoi38だった。そのまま北上をすれば、そこはトンローの駅である。途中、渋滞に阻まれたにもかかわらず、時刻は16時10分。案外はやい行程だった。
とにかく取りあえずは休みたい。スクムヴィット通りの北側に渡り、いくつも並ぶマッサージ屋のうちの一軒に入る。そして2時間のオイルマッサージを頼む。料金は950バーツ。オネーサンには200バーツのチップ。
帰国日の夕刻に、なぜ取りあえずトンローまで来るかといえば、理由はふたつある。ひとつは、できるだけ東、つまり空港に寄ったところからタクシーをつかまえると渋滞に阻まれづらいこと。もうひとつは「55ポーチャナー」の外の席でバンコク最後の食事をするためだ。
マッサージ屋を出てsoi55つまりトンローの通りを渡る。そのまま歩き続けて55ポーチャナーの、店の外に並べられたテーブルのうち最も東の席に着く。すこし離れた食器洗い場から「いや、まだ」という顔を従業員のひとりがする。僕は腕時計を指し「分かってる」と、こちらも頷いてみせる。タイ人の女の子のふたり連れは店員に何ごとか訊き、やはり外の席に着く。そして18時30分の開店を待つ。
そうするうち、東洋人の中年のカップルが向かい側から歩道を歩いてくる。オートバイがその女の人の真後ろに差しかかったあたりで警笛を鳴らす。女の人は驚き、大きな声で悲鳴を上げた。それに対して男の方は更に大きな声で怒鳴り返した。内容は想像がつく。「やだなぁ」と、思わず小さな声を漏らす。彼らの言葉がどこのものかは分からない。そしてタイ人の男は僕が知る限り、女の人を怒鳴りつけるようなことはしない。
外のテーブルで待っていた人たちは、開店と同時に店内に移動をした。歩道を往ったり来たりしながら待っていた人たちもまた、店の中に吸い込まれていく。彼らに先を越されては僕の料理が遅くなる。赤く染めた髪を妙な具合に結んだいつものオネーサンは、今日はいなかった。見慣れない若い女の子を呼び、先ずは春雨と烏賊のサラダを注文する。この料理をタイ語ではヤムプラムックという。その「プラムック」の発音が、これまた難しいのだ。プラの「ラ」は巻き舌にせずごく短く発声するから、ともすれば「パ」に聞こえる。「ム」は上の前歯で下唇を噛むことが肝要だ。それを昨年、タイ人に教わった。そのお陰か、今日はすぐに通じた。
店の中は開店と同時に八分の入り。外のテーブルにいるのは僕ひとり。暑いところが好きだから南の国に来ているのだ。タイでの食事はできるだけ外でしたい。暑いとはいえ別段、死ぬほど暑いわけでもない。20時に差しかかろうとするころ、あたりは急に涼しくなった。食事の代金は420バーツ。チップは置かなかった。
トンローのパクソイから北へ向かって西側の歩道を往く。soi1のちかくなるあたりで車道に立つ。スクムヴィット通りから左折してきたタクシーが、僕が合図をする前から停まる。運転手が助手席のドアを開ける。僕はそのドアを充分に開いてスーツケースを助手席に載せ「スワンナプーム空港まで」と伝える。後席に乗り込むなり「ミーター、ナ」と運転手はルームミラー越しに僕を見た。こういう模範的な運転手もいるのだ。時刻は20時ちょうどだった。
トンローを北上し、センセーブ運河を渡る左側に”SAPHAN”と外壁に大書したカフェができている。建物は古い工場風ではあるものの、新しく作ったようにも見える。突き当たりを右折。そのペップリー通りのどこかで左折。次に右折。高速道路のようなところをタクシーは疾走するものの、有料の道ではない。
うつらうつらするうちふと気がつくと、タクシーは空港の出国階に近づきつつあった。3番のところで停めるよう言う。メーターは255バーツ。100バーツ札を3枚出して釣りは要らないと言葉を添える。運転手は外へ出て左へまわり、助手席からスーツケースを降ろしてくれた。時刻は20時38分だった。
20:51 タイ航空のオネーサンにより自動チェックインを完了。スーツケースの重さは16.5キログラム。いつもの倍である。
21:05 保安検査場を通過。
21:08 出国審査場を通過。
21:20 空港の本来の建物と、出島のような建物を繋いでいるシャトルトレインが発車。このシャトルトレインの速度はかなり高い。出島までの所要時間は2分。突き当たりを左へと歩いて行く。
21:38 どん詰まりにちかいS104ゲートに辿り着く。
22:15 搭乗開始
搭乗券に示された55Cの席にザックを置き、歯ブラシを取り出し手洗い所へ行く。そこから出て席へ戻る途中、2020年3月のバンコクMGで一緒だったウチダリョウーイチさんに声をかけられて一驚を喫する。
23:11 “Airbus A350-900″を機材とするTG661は、定刻に26分遅れて離陸をする。
23:16 ポーンという合図の音と共に、椅子の背もたれを最大に倒す。上半身に寒さを感じて鼻と口にマスクをし、アイマスクもし、ウインドブレーカーのフードをかぶる。「まさか風邪じゃねぇだろうな」と、微かな不安を覚える。
朝飯 “THE ATLANTA HOTEL”の食堂”AH!”のトースト、コーヒー、フルーツの盛り合わせ(小)
晩飯 “55 Pochana”のヤムウンセンプラムック、オースワン、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.12(水) タイ日記(10日目)
先ずはトンローのsoi8とsoi9のあいだのガオラオ屋で朝食の動画を撮る。次はトンローのsoi2ちかくにあって、2016年に中国の高台を買った店で、気に入ったものがあれば手に入れる。続いて2時間のオイルマッサージで太腿の筋をほぐしてもらう。大体、そんなところだ。
マッサージ屋の開店が10時とすれば、ホテルは9時30分に出れば良い。いまだ1時間以上も間があれば、プールサイドで本を読もう。もうひとつ、往復で156段の階段を上り下りするなら、用事は一度にまとめた方が良い。おとといフロントに預けて240バーツを支払った洗濯物の回収、およびきのう着た服の洗濯も、朝のうちに頼んでしまおう。
フロントの、きのうまでとは異なったオバサンは、複写式の伝票を受け取ると”LOCKERS”という案内板の下の部屋に消え、出したときとおなじ、おとといまで泊まっていたホテルのランドリーバッグを僕に手渡した。そこまでは良い。オバサンは伝票を手に「代金はまだ払っていませんね」と言う。「この日に払ったけど」と伝票の日付けを指す。オバサンは「それは預かった日の日付です」と聞く耳を持たない。「メガネをかけたオバサンに払ったけど」と言い返すと「それでは調べておきます」と、仏頂面である。伝票は返すよう手を伸ばすと「これを担当に見せて確かめます」と言う。複写式の伝票なら原本がフロントにあるはずだ。しかしオバサンは厳しい表情を崩さない。
そのままプールサイドで本を読む。泳ぐことはせず、小一時間ほどして部屋に戻る。
トンローへ向かうためふたたび階段を降りる。すると先ほどのオバサンは、今度は表情を180度かえて「代金はいただいていたそうです」と笑みを浮かべた。日本なら平身低頭の詫びが必要な場面だ。しかしここは「マイペンライ」の国である。このホテルで手書きの伝票を介して金銭のやり取りをする場合には、そこに必ず”PAID”と書いてもらう必要がある。
ホテルからsoi2の路地に出て北を目指す。声をかけてくるタクシーの運転手はいるものの、駐車して客待ちをしているとうことは、いわゆる一発狙いに決まっている。そのまま歩き続け、スクムヴィットの大通りが見えてきたところで左手のプルンチットセンターに入る。冷房の効いた館内を横切りつつ涼む算段である。空は晴れている。気温はそれほど高くなく、湿度は低い。バンコク最良の天気である。きのうモタサイでこなした1キロメートルを、今日は歩き通した。
プルンチットのプラットフォームから、あたりを眺める。直下に、奥にスイミングプールを備えた「ヴィラ」と呼ぶべき邸宅を見つける。一体全体、どのような人が住んでいるのだろう。ただし今となっては、高層のコンドミニアムの方が過ごしやすい気はする。
東へ4駅のトンローには10時6分に着いた。soi1のちかくに赤バスが駐まっている。乗り込んで、運転手に20バーツ札を差し出す。お釣りは12バーツ。つまり「ひと乗り8バーツ」は、コロナの前から変わっていない。 10時18分に発車したバスから外の景色を注意深く見る。骨董屋はいまだ開いていなかった。外を観察していたつもりが、soi9を過ぎてから天井の停止ボタンを押す。バスはグランドセンターポイントの前で停まった。
セブンイレブンと、向かって右は薬屋らしい建物のあいだに店を出したガオラオ屋は健在だった。数段の階段を上がったところで調理をしているオヤジの背中に「ガオラオは大盛り。ごはんは不要」と伝える。テーブル脇の壁、つまりセブンイレブンの外壁には、ガオラオは45バーツ、その大盛りは50バーツ、ごはんは5バーツ、その大盛りは10バーツの貼り紙があった。味は、コロナの入りばなだった2020年3月と変わっていない。旅をする者に与えられる、小さな幸福である。
トンローのパクソイに戻りながら、今度は通りの左側を往く。骨董屋は幸いシャッターを上げていた。この店の経営者は注意深く、引き戸には常に鍵をかけている。それを解いてもらって中に入る。引き戸のガラスにはマスクをするようシールが貼ってあったが、それはコロナ全盛のころのものを剥がしていないだけ、と解釈をした。第一、僕はマスクを持っていない。すると店の奥から女の人が現れて、なかなか高級そうな使い捨てのマスクをくれた。
マスクをして店の中を見ていく。呼吸により眼鏡が曇って不快である。それほど遠くないところで寝椅子のオバーサンが、マスクをしないまま気味の悪い咳をしている。かなり時間をかけて品物を見たものの、今回は欲しいものがなかった。中国の古い磁器よりも、どうやら名もない陶片の方に、より惹かれてしまう自分がいるらしい。
2020年3月、僕はウドンタニーにいた。オイルマッサージの値段が1時間350バーツと伝えると「それはバンコクの水準にくらべても高い」と、コモトリ君は言った。現在、トンローのオイルマッサージの値段は2時間で950バーツから、上は1,000バーツを軽く超える。BTSでひと駅を移動して、先週の金曜日にかかったマッサージ屋へ行く。そしてオイルマッサージを2時間、足の角質削りを30分、頼む。代金は1,150バーツ、オバサンには250バーツのチップ。
ホテルへ戻り、そのまま食堂の”AH!”に入る。そして西瓜のジュースをグラスではなくジャグで頼む。ジュースは1リットルまではいかないまでも、かなりの量があった。食堂のオネーサンは僕のために、扇風機の回転速度を最大に上げてくれた。本を読むうち、気づくと外には驟雨が降っている。危ないところだった。
“AH!”のメニュには朝食のためのあれこれの他、洋食はサンドイッチとフライドチキンとショートパスタ、タイ料理は多種の焼飯、多種のカレー、サラダは2種類ほどがあった。ビールはシンハ、チャン、リオの3種類を揃えているものの、オネーサンによれば、ワインは置いていないとのことだった。ジャグの西瓜ジュースは120バーツ。オネーサンには20バーツのチップ。
17時52分にふたたび外へ出る。スクムヴィットの大通りを歩道橋で渡りながら、この時間には西から東へ向かう三車線のうち二車線を、逆に東から西へ向かうクルマのために割いていることを知る。
おとといとおなじ店で今日はチムジュムを注文する。2019年のチェンライのチムジュムは、いまだ100バーツだっただろうか。そのころバンコクの屋台のチムジュムは200バーツだった。そして今日のチムジュムは、ひとりでは食べきれないほどの具の多さではあるものの、価格は450バーツになっていた。ソーダとバケツの氷を含めた代金は546バーツ。釣銭のうち4バーツはそのまま残す。
朝飯 トンローのsoi9のすこし南にあるガオラオ屋のガオラオ(大盛り)
晩飯 “Ja Aree Seafood”のチムジュム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.11(火) タイ日記(9日目)
夜中に一度、汗だくになり、パジャマを脱いで裸になった記憶がある。きのうの就寝時に低速に設定した扇風機の風を、心地よく受ける。暑さは感じない。感じるのは暖かさのみだ。時刻は3時36分。「なんだ、冷房のあるホテルより長く寝られたじゃねぇか」と、自慢できることでもないのに、ひとり得意になる。
部屋に冷蔵庫はないから、卓上に置いた1.5リットルのペットボトルから生ぬるい水を飲む。きのうの日記は予想外に長くなり、書く時間もそれだけ長くかかった。暑さを感じてベランダのへの戸を開くと、外の方が気温は低い。よってその戸は開いたまま、廊下へ出るための扉もゴミ箱と革靴で挟んで開いたままにする。すると部屋には風が通り、存外に居心地が良くなった。
そのようなことをするうち、きのうの午後、膝をぶつけて怪我をしたベッドの鉄製の角に、またまた膝をぶつけてしまう。「うっ、またっ」と小さく叫びつつ膝に目を遣る。きのう傷を覆ったバンドエイドの、ちょうど傷の部分が破けて血も見えている。よってその穴の開いたバンドエイドを剥がし、アルコールは持参していなかったからイソジンで消毒し、新しいバンドエイドを貼る。そしてベッドの枠のその部分は「二度あることは三度ある」が起きないよう、スーツケースから取り出したエアキャップをあてがい、布テープで固定した。
腹が減っても食堂は8時30分からしか開かない。5階の部屋から78段の階段を降り、食堂には8時40分に入った。
きのうフロントにいたオバサンが、今朝はお運びをしている。そのオバサンにメニュを持って来てもらう。価格は意外や高く感じたものの、ひととおりのものを注文する。
フォークはオムレツ用とフルーツ用の2種類が置かれた。コーヒーは少ないと悲しいからポットで頼んだ。オムレツは、これまで見たことのない、平たい半月型をしていた。ベーコンはカリカリに焼くスタイル。トーストは1980年代のラッフルズホテルのそれを思い出させる焼き加減。ジャムは自家製。果物は「小」を選んでも、銀座や日本橋のフルーツパーラーの常識からすれば、信じがたいほどの量があった。
朝食の価格は、コーヒーが90バーツ、トーストが50バーツ、オムレツが50バーツ、4枚のベーコンが70バーツ、フルーツが80バーツの、計340バーツだった。チップは釣銭から20バーツをテーブルに残した。
朝の食堂にはフランス語を話すタイ人のオジサン、フランス人らしい女の人、それに白人の男の人の3名のみが客としていた。明日の朝食は、もうすこし軽くしても良いだろう。
11時15分にプールサイドに降りる。人は誰もいない。寝椅子と日除けを備えたプールサイドで本を読む、ということは僕が南の国でもっとも楽しみにしていることだ。それが旅の9日目にしてようやく実現する。ところでこのプールは、ロビーから庭を歩んで右側の水深は、呆気にとられるほど浅い。ところが築山のある逆の側は、恐らく2メートル以上の深さがある。子供を遊ばせるときには要注意である。また、プールサイドにはひどく荒れ果てたところもあるので、足元には注意をしたい。寝椅子では2時間ほども本が読めた。
14時15分に部屋を出る。soi2からスクムヴィットの大通りまでは、きのうの計測によれば徒歩で8分。距離は700メートルほどだろうか。とすれば最寄りのプルンチット駅までは1キロメートル。炎天下、よそ行きのシャツを着て、手にはラオカーオのニューボトルを納めたトートバッグを提げている。歩くにはいささか辛い。しばらく行くとモタサイの運転手が昼寝をしていた。よって声をかけ、プルンチットの駅まで行ってもらう。運転手の言い値は40バーツ。「高けぇな」と思ったけれど、20バーツ札2枚を手渡す。
プルンチットからサパーンタクシンまでは、サイアムで乗り換え。分かったつもりで来た車両に乗り込み、ふた駅先のアソークで、逆に乗ってしまったことに気づく。すぐに降りて向かい側のプラットフォームへ移り、サパーンタクシンには14時59分に着いた、。舟はサトーンの桟橋から15時10分の発。
コモトリケー君の部屋でしばし休んでから、川沿いの料理屋へ行く。河口までは数十キロメートルはあるだろうけれど、潮の香りが運ばれてくる。会食をするうち日はすっかり落ち、対岸のホテル、上がり下りする舟、また料理屋のそれぞれの灯火も、いつの間にか賑やかになった。
食後はコモトリ君の家に戻って小休止の後、同席してくださった方のクルマでホテルまで送っていただく。時刻は21時をこし回ったころと記憶をしている。
朝飯 “THE ATLANTA HOTEL”の食堂”AH!”のトースト、コーヒー、オムレツとベーコン、フルーツの盛り合わせ(小)
晩飯 “YO YOK RESTAURANT”のヤムウンセンプラムック、パットクンピックア、プーパッポンカリー、トードマンクン、プラーガポンヌンマナオ、カオパット、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.10(月) タイ日記(8日目)
きのうと変わらず0時と1時のあいだに目を覚ます。起きてきのうの日記を書いたり、疲れてベッドに戻ったりを繰り返す。バンコクに入って日記の面白い、というか悪くない推敲、校正の方法を身につけた。机のコンピュータで完成させ、公開した日記をベッドに仰向けになってiPhoneで読むのだ。旅の最中の日記は長くなるから、変換違いや書き直しによる文字の削り忘れも見逃しがちだ。書く道具と読む道具を変えることにより文章への客観性が増す、ということが今回の発見である。
5時を過ぎるころに荷作りを始め、数十分かけてそれを終わらせる。外が明るくなるころ外へ出て、どうしても思い出せない、きのうの夕食の店の名を確かめるため、スラウォン通りを行く。パッポン2の入口にあるマリファナ屋の名が洒落ている。持ち主はレハールのオペラのファンなのかも知れない。
部屋に戻ってきのうの夕食の場所の名を日記に入れ「公開」ボタンをクリックする。シャワーを浴びて、上は糊の効いた長袖のシャツ、下は紺色のパンツに黒い靴下。引き出しに温存したコードバンのベルトを締め、革靴を履く。その姿を鏡に映して「正に、馬子にも衣装だ」と感じる。
「しくじったらシャレにならない」ということが、旅の最中には次々と、まるでハードルのように前から近づいてくる。今日の午前に控えるそれは、この10日間でも、もっとも大きなものだ。朝食は、思いがけないことで失敗する確率を限りなく減らすため、別棟の高級ホテル”The Rose Residence”の食堂”RUEN URAI”で摂る。
9時23分に外の通りでタクシーをつかまえる。先日とは異なって、今日の運転手は僕の行き先「サパーンタクシン」を一発で聞き取った。しかしその後がいけない。首都のタクシーの運転手は、家族や友人とスマートフォンで雑談を交わしつつ運転をする例が、僕が気づいた限りでは昨年から増えた。運転手のその声が、スマートフォンのマイクへのものなのか、それとも客である僕への話しかけなのかの判断がつきづらいのだ。「右折」ということばが聞こえたので「左折でしょ」と返したところ、それは僕へ向けてのものではなかった。
今日の運転手は先日の運転手よりも早く、チョノンシーの運河にかかるところで左折をした。その先の、BTSの高架が大きく右へ進路を変える真下の、サトーン通りとの交差点で渋滞に巻き込まれる。ここで時刻は9時30分。仕事は本職に任せることの好きな僕も「スラウォン通りをもうすこし先まで直進した方が良かったんじゃねぇか」と恨めしく感じる。
ようやく渋滞から抜け出して道は流れ始め、やがて立体交差が迫る。と、運転手は何を思ったか「タクシン橋は渡るか」と、左手を山なりに動かす身振りをした。
「メチャイ、チャルンクルン、リャオ、クワー」
「チャルンクルン、リャオ、クワー?」
「チャイ」
まったく慌てさせる運転手だ。チャルンクルン通りとの丁字路を右折し、BTSの高架をくぐる瞬間に今度は左折の指示。運転手はあわててハンドルを左に切る。霧雨が降っている。「パイ、ターイ、ソーイ」と僕は、覚えたばかりのタイ語で路地のどん詰まりまで行くよう言う。サトーンの船着き場に着いたのは9時47分。メーターは97バーツだったから100バーツ札を渡しておつりは無し。「遅れるわけには絶対にいかない」という用事のあるときには、首都では鉄道を使うべきだろう。
約3時間後の12時44分に、チェックアウトを済ませてふたつの荷物を預けておいたホテルに戻る。貴重品の入ったポーチをスーツケースからザックに移し、それを背に共用のトイレで手を洗う。
ここで余談ながら。東京は1964年の東京オリンピックを前にして、運河の上に高速道路を架けた。これにより各所で空が失われた。バンコクは大きな通りの上に高架鉄道を作った。そのことにより、やはり同じく各所で空が失われた。スラウォン通りの上には幸い、高架鉄道は敷かれなかった。そのことによりこの通りはいまだ、むかしの面影を留めている。
昼のスラウォン通りは西から東への車線が渋滞する。その渋滞の中をタクシーが近づいてくる。タイのバスやタクシーは手を挙げるのではなく、腕を45度ほど下に伸ばして停める。運転手が車内から助手席を示す。スーツケースはトランクルームではなく助手席に載せろ、ということなのだろう。即、それに従い、今度は後席のドアを開けてすばやく乗り込む。
「スクムヴィットソイ2」と行き先を告げる。運転手は「150バーツ」と、取りあえずは自分の希望を述べる。「ミーター、ナ」と答えると「ミーター、オー」と、運転手は逆らわずにメーターのスイッチを入れた。初乗りの料金は35バーツ。
ラマ四世通りに出たタクシーは、MRTのクロントイ駅の直前で左折。高速道路に沿った寂しい道からプルンチットセンターの敷地内へと右折する。「この運転手は道を知っている」と、ここにきて初めて安心をする。soi2のどん詰まりにあるホテルには13時20分に着いた。メーターは89バーツ。100バーツ札を手渡して釣銭は不要と伝える。
1952年、ドイツ人の薬学博士により作られたアトランタホテルは、宿泊客以外の入館を固く拒んでいる。宿泊客以外はロビーにも入れず、食堂で食事をすることもできない。ただし犬、また猫は自由に出入りができる。天井で扇風機の回る古風なロビーはとても美しい。チェックインには、大時代的な、長たらしい文字の記入が要求される。フロントの照明は、文字を書くための充分な明るさを提供していないから、近視、乱視、老眼の人は苦労をするだろう。各種の支払いはすべて、その都度、現金により行われる。宿泊料は、これから僕が滞在しようとしている、冷房を備えないもっとも安い部屋で税込900バーツ。3泊分の2,700バーツはもちろん現金で支払った。
僕はこのホテルにベルボーイのいないことを恐れた。エレベータが無いのだ。しかしそれは杞憂だった。ベルボーイはシサッチャーナーライの窯跡から拾って来た陶片、および3本のラオカーオを入れたスーツケースを肩に担ぎ、最上階である5階まで上げてくれた。ちなみにロビーから5階までの階段は78段。ベルボーイには50バーツをチップとして渡した。
部屋は5メートル四方くらいの広さで、ベランダが付いている。シャワー室の壁はタイルが新しく、とても清潔だ。トイレの便器と水タンクは古風な意匠を保っている。貴重品入れは鉄製の机に溶接した鉄の箱で、鍵は客の持参による南京錠で閉める。錠を失くしたらパスポートもお金も取り出すことはできず、帰国もままならなくなるから、錠の隠し場所場所はノートに覚え書きした。
ドアの外側の取っ手に提げる札の”DO NOT DISTURB ME”には”THIS MORNING”と続けられている。恐らくは「午後まで寝ているなどの怠惰なことはしないように」とのことなのだろう。廊下の非常口の表示を辿っていくと、屋上に出るための木造のハシゴがあった。
部屋の中は蒸し暑く、扇風機を3段階の最高速で回しても、からだは汗まみれのままだ。シャワーを浴びると一時は涼しくなるものの、すぐにまた汗が吹き出す。「そんなホテルになぜ泊まる」と問われれば「仕事と勉強を除く挑戦、および痩せ我慢が好きだから」と僕は答えるだろう。
きのうまでの洗濯ものを、このホテルにはランドリーバッグなど備えないから、今朝までのホテルのそれに入れてフロントまで持っていく。先ほどチェックインの手続きをしてくれた感じの良いオバチャンは中味をひとつずつ数えつつ計算をしれくれた。A4の伝票を確かめると、初日からきのうまで首に巻いていたスカーフの代金を入れ忘れている。それを指摘するとオバチャンは”Already”と笑って、その分を伝票に新たに記入することはしなかった。洗濯代の240バーツも現金払い。「いつもニコニコ現金払い」は、むしろ気持ちが良い。
部屋とロビーの往復には計156段の階段の上り下りを必要とするから、複数の用事は頭の中で入念に組み立てる必要がある。「あ、忘れた」と、ふたたび部屋まで戻れば、またまた計156段の上り下りが発生するからだ。
その階段を降りて17時07分に外へ出る。soi2を北に歩いてスクムヴィットの大通りまでは8分がかかった。バンコクには。このような極端に細長い袋小路がそれこそ無数にある。袋小路だけに、となりの小路への抜け道は無いことが多い。
スクムヴィット通りの北側、soi1ちかくにある、屋根だけの、まるで倉庫のように巨大なメシ屋に入って、先ずはソーダとバケツの氷を注文する。目の前には大通りの喧噪がある。日本の夏の夕刻とおなじほどの気温が心地よい。
日本語なら春雨と海の幸のサラダとでもなる品は、きのうの店のそれの数倍の量があった。浅蜊の香辛料炒めがあるか否かをオニーチャンに問うと、オニーチャンは分厚いメニュ表を開き、作れる旨を示した。今夜の代金は492バーツだった。おつりのうち小銭の8バーツはその場に残した。
先ほどのオニーチャンにセブンイレブンの場所を問うと、何とそれはメシ屋の隣にあった。そこで1.5リットルの水を14バーツで買う。そしてそれを小脇に抱えてホテルまでの道を辿る。
78段の階段を上り、部屋には18時43分に戻った。シャワーを浴び、パジャマを着る。それほど酔ってはいないため、ベッドに仰向けになり、iPhoneで調べごとをする。天井の扇風機の回転速度は最低にしておく。就寝した時間については、特に覚えていない。
朝飯 “RUEN URAI”の朝食其の一、其の二、其の三、其の四
晩飯 “Ja Aree Seafood”のヤムウンセンタレー、ホイラーイパットナムプリックパオ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.9(日) タイ日記(7日目)
目を覚ましたのは0時と1時のあいだ。二度寝ができて、2時間ほど後に起床する。
朝、ホテルの周辺を1キロメートルほど散策をする。ここ数年の政策に、日曜日ということも重なっているのだろうか、街の屋台は極端に少ない。タイ特有の、発酵したたけのこを炒めている屋台がひとけのないタニヤ通りに出ていた。よってここでごはんにおかず二品を載せてもらい持ち帰る。ドアを閉めた瞬間から、部屋の中にたけのこの発酵臭が満ちる。
「毎日がそうじゃねぇか」と言われればその通りなのだが、今日は更にすべきことはない。南の国への旅でもっとも楽しみにしているプールサイドでの本読みは、おとといの日記に書いたような理由でできない。外へ出てマッサージ屋を探し、結局は外れのない「有馬温泉」で2時間のオイルマッサージ、更に耳掃除もしてもらう。1,750バーツの請求は意外に高いと感じた。双方の施術をしてくれたオネーサンには半端だったが240バーツのチップ。
午後は、このところ延伸が著しい首都の鉄道の中でも、地下鉄のMRTに最寄り駅のサムヤーンから乗る。チャオプラヤ川を渡った先の、車内のアナウンスではターパーと聞こえるタープラーで乗り換え、僕の好きなラオカーオの銘柄とおなじバンギカーンで降りる。駅の位置は、着く前の車窓からの景色で何となくつかめた。
大きな通りを西に歩く。ピンクラオの橋に続く、これまた大きな通りに出たところで左に折れる。何を買うわけでもないものの、パタデパートに入る。そしてフードコート以外は何十年も前から変わっていないのではないか、という雰囲気の店内を巡回する。
橋を目指して更に歩く。夕刻まではいささか間のある時間から、通りに机と椅子を並べる店がある。「こんなところで食べてぇな」と思っても、ここで酔っては帰りが心配だ。
チャオプラヤ川の堤防が見えてくる。覚えのある桟橋に降りようとすると、そこは工事中だった。木陰で涼んでいるようにも、またホームレスにもみえる裸足のオジサンが「そっちじゃないよ、向こうだよ」と身振りで教えてくれる。コンクリート製の大きな階段の下でオジサンを振り向くと、僕を目で追っていたオジサンは「もっと向こう」と、また教えてくれた。
新しい桟橋は、これまでの場所から100メートルほども下流にあった。桟橋の脇にはムーガタ屋ができていた。「こんなところで食べてぇな」と思っても、ムーガタはひとりで食べるものではないような気がする。
切符売り場にオネーサンがいる。サパーンタクシン直下の船着場サトーンまでの料金は30バーツ。オネーサンは”fifteen”と言うものの、よく聞き取れない。”fifty?”を訊き返すと、今度はオネーサンはOne Five”と言葉を替えてくれたから胸をなでおろす。現在時刻は16時57分。“fifty”では1時間ちかくも待たなくてはならない。
17時13分に、上流からオレンジ旗の舟が近づいてくる。それに乗り込もうとして、オネーサンに止められる。17時16分に下流から大型の舟が近づいてくる。横腹には”MINE SMART FERRY”と大きく書かれている。下流から来たため上流へ向かうものとばかり考えていると、オネーサンはそれに乗れという。
大型船は、屋根だけの吹きさらしではなく、窓には偏光グラスが嵌め殺しになっているから、乗っていても、面白くも何ともない。ピンクラオからはワンラン、ワットアルン、マリーンデパートメント前、ラチャウォン、「パタヤーン」と聞こえるサイアムパラゴン前を経由して、サトーンには17時45分に着いた。
川沿いの高級ホテル”Shangri-La”の裏を歩く。かつては僕もよく飲み食いをした、屋台で賑わっていた場所は”MA! BANGRAK BANGKOK STREET FOOD MARKET”と名づけられてすっかり綺麗になり、しかし人の姿は疎らだった。数年前にかかったことのある床屋も建物の改装に伴って、見違えるほど明るくなっていた。
サパーンタクシンからBTSに乗ったときには、チョノンシーで降りて散策をしようとなかば決めていた。しかし明日はホテルを変わる。荷作りは早朝にするつもりでいる。ということは、夜は遅くならない方が良い。そう考えて、チョノンシーでは降りずにサラデーンまで乗る。
「こんなこともあるだろう」と、本とラオカーオの小瓶は、ホテルを出るとき背中のザックに入れておいた。そういう次第にて、目についた店で夕食を摂り、19時30分に部屋に戻る。
腑に落ちなかったのは、夕食代のこと。伝票には520バーツの数字があった。よって500バーツ札1枚と20バーツ札1枚を「ちょうどで悪いね」とオカミに手渡した。ところがオカミは20バーツ4枚を釣りとして持って来た。何やら分からず、その80バーツはチップとして進呈した。ラオカーオは、160ccまでは飲んでいなかったと思う。
朝飯 屋台の弁当
晩飯 “HAPPY BEER GARDEN”のヤムウンセンタレー、オースワン、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.8(土) タイ日記(6日目)
今朝の食事は趣向を変えて、ホテルで摂ってみることにする。プールサイドにはランナー様式の木造建築があって、朝食はそこで供されているはずだ。ところが近づくと、中に人はいない。フロントに戻って確認をする。「外へ出て右へおまわりください」と、オネーサンは教えてくれた。
そこにはおなじ系列の、しかし僕のいる棟より遥かに高級なザローズレジデンスがあった。1960年代はじめに造られたらしい建物は、コロニアル調である。その玄関の重い扉を押す。右奥に食堂らしい入口が見える。歩を進めると、とても若くて綺麗なオネーサンが「屋内がよろしいですか、それとも屋外がよろしいですか」と笑顔を向けた。「外がいいですね」と答えて食堂を横切り、戸を引いて庭に出る。そこには名を知らない大木に混じってリラワディが枝を広げていた。
寛いで食事をする僕の足元に複数の猫が来る。タイのコンビニエンスストアの前には、客が出入りをするたび外へ流れ出す涼風を求めてか、犬の寝ていることが多い。それを追い払う人はいない。僕は一向に平気だが、犬嫌い、猫嫌いはタイにはいないのだろうか。まるで五代将軍の時代の江戸のようだ。
昼から夜にかけてはバンコクに住む同級生コモトリケー君と過ごすべく、9時30分に部屋を出る。スラウォン通りの歩道には、たくさんの屋台が並んでいる。そこからの香草やココナルミルクの香りを胸一杯に吸い込みつつ西へ歩く。
時にはタクシーも使おうと、サラデーンの方から近づいて来たタクシーを停める。時刻は9時38分。「サパーンタクシンまで行きたい」という僕の言葉を運転手は聞き取れない。4度、5度と繰り返して「サパーンタクシン」と運転手は確かめる。僕は「そうです」と答えて焦燥から解き放たれる。
10年ほど前に「サパーンタクシンのタクシンと、追放された政治家のタクシンの発音は、おなじですか」とタイ人に訊いてみた。「そりゃぁ、全然ちがうでしょう、タークシンとタクシンです」と相手は発音の違いを聞かせてくれたものの、僕にはよく分からなかった。「タイ文字を覚えると発音のしかたも分かる」とコモトリ君は言う。しかし今からタイの文字を覚えることは、僕には荷が重い。
タクシーの料金は51バーツだった。硬貨は嵩張るから財布には入れていない。50バーツ札と20バーツ札を出すと、運転手は「これでいいね」という顔をする。チップとしては多すぎると感じたものの、そのままタクシーを降りる。スラウォン通りからは9分の行程だった。
コモトリ君のコンドミニアムの舟は10時10分に来ると、知らされていた。いくつものホテルの舟に混じって10時12分に来た舟は、タイ文字の旗を立てているのみだ。一時、舟を係留するため桟橋に降りたオニーチャンに、コンドミニアムの名を伝えてみる。オニーチャンは2度目に頷いたから「まぁ、大丈夫だろう」と、舟に乗り込む。ただしコンドミニアムが間近になるまでは、少々の不安と共に波に揺られていた。
昼から夜にかけて僕と過ごすはずだったコモトリ君には急用ができたとのことで、昼食の後は右と左に分かれた。僕は街のマッサージ屋で時間をつぶすこととして、どこにでもあるようなマッサージ屋の戸を引く。からだをへし曲げ、関節をやたらと鳴らすタイマッサージは、月にいちどかかる「伊豆痛みの専門整体院」のワタナベ先生に禁じられている。2時間のオイルマッサージを頼むと、真っ黒でしわくちゃのオバーサンは2階へ行くよう促した。
マッサージが終わるころ「どこから来たの」と、担当のオネーサンに訊かれる。「このちかくから」と答えると「ニワトリ?」と、オネーサン不審な表情をする。「ちかく」はタイ語は「カイカイ」。オネーサンはそれを、鶏を意味する「ガイ」と聞き間違えたのだ。まったく難儀なことである。
コモトリ君とは15時45分に部屋で合流をして、夕刻よりタイの家庭料理をご馳走になる。そうしてコンドミニアム19時発の舟でサパーンタクシンに戻る。そこからシーロムまでは高架鉄道BTSを使う。シーロム通りからスラウォン通りまでは盛り場のタニヤを歩く。
部屋に戻ったのは19時45分。冷蔵庫には、きのうのゼロ本から、今日は3本のミネラルウォーターが納められていた。シャワーを浴び、水を飲み、パジャマを着て20時すぎに就寝する。
朝飯 “RUEN URAI”のトーストとコーヒー、サラダ、エッグベネディクト
昼飯 「ミットフォーマーチャイ」のカオソイ(小)
晩飯 市販のシューマイ、コモトリケー君手作りのゲーンチューダオフー、同パットガパオムーサップ、メシ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)、マンクット
2024.6.7(金) タイ日記(5日目)
きのうの夜はおとといの夜と大して変わらず、いまだ日の変わる前の23時38分に目を覚ましてしまった。就寝時間が早すぎるのだろうけれど、夜遊びには興味が無く、早朝に日記を書くことが趣味であれば、どうしても現在のような時間の使い方になるのだ。それでも「前夜」のうちに目が覚めては早すぎる。何とかならないものだろうか。
スラウォン通りから80メートルほど奥に入ったこのホテルまで、表通りを行くクルマの排気音が聞こえてくる。雨が降っている。朝まで降り続けば厄介だ。そう考えてカーテンを引く。目の前の路地は濡れていない。旧いホテルの窓枠は木製で、広く開くことができる。トタン屋根に雨の落ちるような音は、隣のビルの屋上に置かれた室外機によるものだった。
薄い金属板を積んだリヤカーが路地を近づいてくる。しかしこんな夜中にそのような仕事をする人がいるだろうか。ふたたび起きて窓を開ける。その音もまた、隣の建物の室外機から聞こえてきていた。どこかのパネルが外れたままになっているではないか。
シサッチャーナーライでは鳥と爬虫類と虫の声だけが聞こえた。バンコクで聞こえるのはクルマと機械の音ばかりである。そして夜になれば、そこに嬌声が加わる。
6時前にホテルを出て、裏の路地からラマ四世通りに出る。お粥の”JOK SAMYAN”までの距離はGoogleマップによれば1キロメートルと少々。徒歩で往復するつもりでいたものの、路上にはモタサイの運転手が屯していた。即「ソイ・チュラロンコン11」と告げて後席の客になる。モタサイはとても危険な乗り物ではあるけれど、安楽さや手っ取り早さには勝てない。
ジョークサムヤーンでは、豚の内臓とピータンのお粥を注文した。すると日本語のできるオネーサンがメニュを持って来て「ミックスでなくていいですか」と訊く。多分、それが一番の人気なのだろう。僕は「クルアンナイとカイヨーマーのお粥でいいんです」と、当初の注文を通す。朝から臓物が食えるのは、僕のような臓物好きには嬉しい限りだ。
今日の予定は10時までにプロンポンに着いて、足の角質取りと脚のマッサージをしてもらうこと。次はおなじプロンポンにあるベトナム式の床屋で爪切りや顔剃りをしてもらうこと。それが済んだらゲートウェイエカマイの1階にあるマックスバリューでラオカーオ”BANGYIKHAN”を買うこと。その3件のみだ。
いまだ時間があるため、ことし新調したパタゴニアのバギーショーツを身につけプールサイドに降りる。このホテルのプールサイドにはきのうの日記に書いた、寝椅子と日除けが整っている。その寝椅子の背もたれを調整して仰向けになり、本を開く。ところが、である。蠅が多いのだ。払っても払っても常に4、5匹がたかってくる。堪りかねて足全体にバスタオルをかける。すると今度は腕や顔にたかる。「こりゃぁダメだ」と、ものの数分で退散することを決める。スイミングプールについてはバンコク後半の宿に期待するしかない。そこもまた蠅だらけだったらどうしよう。
部屋のベッドでまどろみながら、9時15分に設定したアラームに目を覚まされる。プロンポンまでは30分もあれば行けるだろうと踏んでいたものの、準備に時間がかかって9時40分に部屋を出る。
プロンポンに着いて、むかし家内とかかったことのあるマッサージ屋を目指す。場所はよく知っていたつもりが、スクムヴィット通りを往ったり来たりする。ようよう見つけて「soi39のひとつ西だったか」と、曖昧だった記憶を更新しようと努める。
足の角質けずりと脚マッサージの90分のコースは450バーツ。角質けずりから脚マッサージに移ったところで、それまで読んでいた本を閉じる。オバサンは骨と皮だけの痩身ながら、手の力は異常に強い。土踏まずの筋をこすられてその痛みに顔をしかめると、オバサンは小さく笑った。オバサンには150バーツのチップ。
タイは自由放埒な国と思われがちではあるけれど、酒とタバコに対する規制は日本よりよほど厳しい。酒は11時から14時、17時から24時までのあいだにしか買うことはできない。当初の予定では、プロンポンのマッサージ屋に10時に入って90分、そこから徒歩5分のベトナム式床屋で90分を費やしても、BTSでふたつ隣のエカマイで14時までに酒を買うことは可能と目論んでいた。しかしマッサージ屋には入れたのは10時25分だったから、当初の計画には無理が生じた。
移動の合理性は削がれるものの、先ずはエカマイを目指すこととした。そして駅と直結しているゲートウェイエカマイ1階のマックスバリューにて無事に、これまで飲んだラオカーオの中ではもっとも好きな”BANGYIKHAN”3本を手に入れる。僕の知る限り、このお酒はバンコクではBig-C、ピンクラオのパタデパート、そして今日のマックスバリューでしか手に入らない。価格は1本あたり157バーツ。タイバーツの現金は必要以上に持ち合わせているものの、クレジットカードを使えるところでは、それで支払うこととしている。
ふったびポロンポンへ戻ると昼が過ぎていた。朝食の時間が早かったこと、食べたものがお粥だったところから、いささか空腹を覚えている。2017年に初めて入った汁麺の名店「ルンルアン」は目と鼻の先だ。近づいていくと、出前を請け負ったGrabのオートバイが車道に密集している。客はテーブルに鈴なりである。外のテーブルのひとつに近づいて、既に座っている女の子に声をかけると、友だちが来るという。もうひとつのテーブルのオネーサンにおなじく声をかけてみる。オネーサンはニッコリ笑ってくれたから相席をさせてもらう。
7年前にはそれほど混み合わない店で僕の注文を笑顔で受けてくれたオニーサンが、今日は懸命に調理をしている。従業員の数はもちろん増えている。僕の注文は7年前とおなじバミーナムトムヤム。頬に白い粉を付けているから出身は近隣諸国なのか、あるいはタイでも東北の国境ちかくの出なのか、オネーサンはメニュ表を見せて器の大きさを問うた。タイの汁麺の本来のサイズはSのはずと、オネーサンにはそのアイコンを指し示した。
日本のラーメンの丼が大きくなったのは、1970年代に南下してきた札幌ラーメンの影響と、僕は考えている。バンコクの汁麺において、店によっては以前のピセーットつまり大盛りより大きな器が選べるようになったのは、ひとえに外国人観光客の要望によるものと思う。
今朝のお粥にしても、昼の麺にしても、名店と普通の店の味に極端な差は無いと、僕の舌は感じる。ただし名店と呼ばれる店が運を味方につけ、更に努力を続けていることは疑いようもない。ルンルアンの柱と壁には2018年以来のピブグルマンの表示が並べられていた。
ベトナム式床屋の90分で800バーツの価格は安いと感じた。店の設備は「こんなに金をかけては回収が大変だろう」と感じるほど充実していた。オネーサンには釣銭の200バーツをチップとして渡した。
プロンポンからアソークまではBTS、アソークで乗り換えたスクムヴィットからサムヤーンまではMRTで帰ってくる。BTSではこれまでその都度、1回限りのカードを現金で買っていた。しかしいささか面倒になってきて、今日は往路のアソークでRabbitカードを作った。その際、窓口のオネーサンには500バーツのトップアップを頼んだ。デフォールトで付いてくる100バーツでは、いくらも保たないからだ。カードのデポジットは100バーツ。有効期限は7年。改札口でのタッチ感度は、日本の交通系電子カードより鈍く、革製のカードホルダーに入れた状態では感知してくれなかった。
MRTは、このところクレジットカードを交通系電子カードとして使えるようになったとどこかで読んだため、それを試してみた。改札口でのタッチ感度はBTSとおなじく、革製のカードホルダーに入れた状態では感知してくれない。クレジットカードを駅の改札でむき出しにすることにも不安を覚える。しかし人は、結局は便利さに転ぶのだ。日本のSUICAやPASMOのような、BTSとLRTの共通カードが出てくれるのを待つばかりである。
15時40分に部屋に戻る。掃除を終えた部屋には、きのうとは逆に、3枚のバスタオルがあった。しかし冷蔵庫の水は補充されていなかった。このホテルのサービスにはアラが目立つ。フロントに降りてその旨を伝えると、間もなくオジサンがガラス瓶2本を持って来てくれた。ホテル側の不備にてチップは渡さなかった。
ラオカーオの在庫は充分になったものの、今日は趣向を変えてビストロへ出かけることにした。気温は日本の真夏の夕刻と変わらず、スラウォン通りまでの路地を気持ち良く歩く。
盛り場の、まるで貨車のような作りの店ではハウスワインの白を、メニュにはなかった500ccのカラフでもらう。「今日のお勧め」のポークシチューには心惹かれたものの、アンドゥイエットを注文しながら量を問うと、オニーサンは僕の腹具合を確認しつつ「大丈夫」と請け負った。
「楽だなー」と毎日、心がほぐれる。500ccのワインで「マオレオ」つまり既にして充分に酔ったものの、最後にリカールのパスティスを頼む。生で注文したそれは、オンザロックスに水を添えて運ばれた。まぁ、それがこの店のスタイルなのだろう。伝票の数字は1,040バーツだったため、1,100バーツを置いて店を出る。
部屋には18時40分に帰着。シャワーはもちろん浴びただろう。覚えていることは、何も無い。
朝飯 “JOK SAMYAN”の豚の内臓と皮蛋のお粥(画像は食べはじめた後のもの)
昼飯 “Lan Luang”のバミーナムトムヤム
晩飯 ”French Kiss”のアンドゥイエット、カラフの白ワイン、リカールのパスティス(オンザロックス)
2024.6.6(木) タイ日記(4日目)
19時に就寝をすれば、目覚めも早い。「もう3時ごろになるだろうか」と枕頭のiPhoneを引き寄せたところ、いまだ日の変わる前の23時23分で、大いに焦った。昼夜逆転にも程がある。明かりを落として掛け布団を胸元まで引き上げ静かにするうち、いくらかは眠れたものの、いくらも眠れていないとも言える、それは短い時間だった。
夜が明ける前から荷作りを始め、すぐにでも部屋を出られる体制を作る。その上で水を飲んだり、あるいは持参した粉末スープを湯に溶かして飲んだりする。
スーツケースを曳きザックを背負って6時19分に外へ出る。食堂へ行くと「アハーン」と訊きつつ調理係のオバサンがものを食べる仕草をする。6時20分を指す腕時計をオバサンに見せる。「あー」と、オバサンは当方の時間の無さを理解したようだった。それでも「食べられるなら」と、トースト2枚を焼きつつ粉末のコーヒーと砂糖をカップに入れ、湯を注ぐ。オバサンは別途、ミネラルウォーターと出来合いのデザートを持って来てくれたものの、それには手は付けなかった。
「6時30分にタクシーが迎えに来るから、それより前にチェックアウトしたい」ときのう伝えたオネーサンが、やがてきのうとおなじTシャツを着て現れる。「ランドリー」とタイ風のイントネーションで確かめると、オネーサンは何かを思い出そうし、ややあって「そう言われてみれば」という感じで「あーあ」と声を出した。
オネーサンは、今朝は自動翻訳のためのスマートフォンを持ち合わせていない。よって「いくら」とタイ語で訊ねる。オネーサンはすこし考えて「20バーツ」と計算をした。
洗濯ものは、おとといに5点、きのうは3点を出した。その際に洗濯代を訊ねたところ、オネーサンはスマートフォンにタイ語を呟き、ディスプレーには「1点あたり20バーツ」と英文が浮かんだ。20バーツが8点なら160バーツだろうけれど、僕はオネーサンに言われるまま20バーツを支払った。このホテルには組織も伝票も何も無い。大丈夫なのだろうか。
6時30分にホテルの前に立つ。初日、6時30分の迎えを予約し、お金も払ったタクシーが来なかったらどうするか。しかし東の方から右にウインカーを出しつつそれらしいクルマが近づいて来たから胸をなでおろす。時刻は6時31分だった。
運転手は来たときとおなじ太ったオネーサンだった。しかしクルマはスズキからホンダに変わっていた。安全ベルトにドラえもんのカバーが付いていたり、ルームミラーに前方視界を遮るほどの数珠が提げてあるところからすれば、このクルマはオネーサンの私用車なのかも知れない。広い道に出るとホンダ車は時速80キロメートルを保って走り続け、空港には7時ちょうどに着いた。オネーサンには初日の分も含めて100バーツのチップを手渡した。
7時03分にチェックインを完了。すぐ脇の保安検査場では、スーツケースからザックに移したアロエジェルを「容量過剰」として没収されてしまった。それは昨年、ハジャイでひどく日焼けをした皮膚を鎮めるため、バンコクの薬局で買ったものだった。
08:25 ボーディング開始
08:29 屋根だけの電動バスで飛行機の際まで運ばれる。
08:30 飛行機のタラップを上がる。
08:41 “ATR72-600″を機材とするバンコクエアラインPG212は定刻より14分も早く離陸する。
09:14 これから30分でスワンナプーム空港に着く旨のアナウンスがある。
バンコクの近郊には極端に細長い矩形の農地が目立つ。その区画に工場や住宅の建てられたところも見える。機は徐々に高度を下げていく。
09:46 PG212は定刻より24分も早くスワンナプーム空港に着陸。全62席に対して、乗客は来たときより少ない22名だった。
10:30 回転台からスーツケースが出てくる。
10:40 タクシー乗り場のある1階へ降りる。
タクシーの発券機まで歩く通路には大型車、近距離、普通と、3本のレーンがあったので、真ん中の”REGULAR TAXI”の線の内側を歩いて行く。発券機の前に立つオネーサンは僕の姿を認めるなり発券機のボタンを押し「どちらまで」と訊ねた。「スラウォン通り」と答えると、オネーサンは頷いて51番の紙を手渡してくれた。
51番の駐車スペースに近づくと、小柄な運転手が近づいてきた。トランクルームのドアは開いたままになっている。そこへ納めるべくスーツケースを持ち上げた運転手は、その重さにうめき声を上げた。
「スラウォン通り、メリディアンホテルのちかく」と運転手に告げる。運転手は振り向きざま「500バーツ」と値付けをした。昨年の4月とおなじである。「ミーター」と僕は返事をする。「ミーターならそれに50バーツを追加」と運転手はたたみかける。空港使用料の50バーツは常識で、そんなことは僕も分かっている。
10:50 高速道路上で渋滞に巻き込まれる。
11:02 作業車を追い越して渋滞が終わる。
11:05 最初の料金所で25バーツを運転手に手渡す。
11:15 2番目の料金所で50バーツを運転手に手渡す。
11:20 ラマ4世通りに降りるランプで、またまた渋滞をする。
スラウォン通りに入ったところで僕は頭の位置を低くし、フロントガラスから周囲の建物に注意を払う。メリディアンホテルの前に達したところで運転手はトヨタカローラを停め「ティニー、ナ」とルームミラー越しに僕を見る。「チャイ」と僕は返事をする。
335バーツのメーターに対して、釣りは受け取らないつもりで400バーツを差し出す。運転手は律儀にも15バーツを返してよこした。時刻は11時44分だった。
タクシーを降りたところはメリディアンホテルの前でも、僕が泊まるのはそこではない。スラウォン通りを渡り、すこしサラデーン側に戻ってラマ4世通りへの抜け道に入る。これから4日間を過ごす宿は、そこにある安いところである。
南国のホテルに滞在するとき、僕がもっとも重視するのは、寝椅子と日除けを備えたスイミングプールがあること。それが首都であれば、2番目には鉄道の駅にちかいことが挙げられる。タクシーはできるだけ使いたくないのだ。3番目の条件は価格の安さ、ということになる。
東京に出張するときはドヤに泊まる、という勉強仲間がいる。落ち着くのだという。僕はドヤには興味は持たないけれど、街の真ん中にある古びたホテルは好きだ。やはり、気分が落ち着くのだ。今日の宿の、グラスのためのコースターは使い捨ての紙製ではなく、律儀にアイロンを掛けられた白いクロスだった。
風呂場を見ると、バスタオルは2枚あるものの、普通のタオルが無い。よってちかくの部屋を掃除していたオバサンを呼び、普通のタオル2枚を持って来てもらう。ホテル側の不備により、チップは渡さない。
セキュリティボックスの扉が開かない。よってフロントに降りて、小さなオバチャマにその旨を伝える。やがて設備担当のおじさんが来る。オジサンはマスターキーを使って扉を開こうとするも、蝶つがいが狂っているのか、なかなか開かない。オジサンはそれをようよう開いて「扉を上に持ち上げるようにすれば開く」というようなことを僕に説明した。こちらもホテル側の不備により、チップは渡さなかった。
シャワーを浴びてひと息をつき、何がしたいかといえば散髪である。本来であれば、床屋には出発直前の今月1日にかかる予定だった。しかしiPhoneの修理に時間を取られて叶わなかった。その散髪を、この午後にはしようと考えた。
先ずは検索エンジンで見つけた、タニヤの床屋を目指す。ホテルからの距離は400メートル。しかし当該のビルのエレベータは反応せず、仕方なく階段を昇った4階のフロアには空き店舗がいくつかあるのみだった。どこかに移転してしまったのだろうか。
ホテルに戻る頃には顔に汗が吹きだしていた。しかしそのまま今度は、今夜の食事の場所を探るべく、ホテルのある路地”Soi Na Wat Hua Lamphong”に戻って奥を目指すと驚くなかれ、ホテルのすぐ裏に椅子ひとつを置いた床屋があった。その椅子には散髪中の客がいたこと、また汗だらけでは床屋に申し訳ないところから、取りあえずは部屋に戻ってシャワーを浴び直す。
改めて床屋に出直すと、客の姿は消えていて主もいず、人の良さそうなオジサンが椅子に座っていた。オジサンは待ち客に見えたものの、そうでもないらしい。オジサンは親切にも奥に声をかけつつ僕には鏡の前の椅子に座って待つよう言った。オジサンの声には「ファラン」という言葉も混じったが、僕はガイジンではない。
「どちらから」と英語で訊くオジサンに「日本から」と答えるとオジサンは「ワタシノガクセイジダイノセンコウハニホンゴデシタ。シカシツカワナイウチニズイブントワスレマシタ」と、とても端正な日本語を発した。正に、野に遺賢あり、である。
やがて現れた主は色の黒い、余計なことは話さず、しかし親切心は持ち合わせている人だった。タイで床屋にかかるときにはいつも「ナンバー2のバリカンで髪も髭も刈ってください」と頼む。今日もそうしたところ、どうも最初の「ゲタ」ではさっぱり刈れない。主はゲタを徐々に短くし、最後は仕上げ用の短いバリカンにこれまた短いゲタを取り付けた。僕は、床屋にはうるさい注文をつけない。主の腕は悪くなかった。仕上がりは満足のいくものだった。代金は400バーツとのことだった。
いまだ待ち客用の椅子にいるオジサンに「アリガトウゴザイマシタ。アナタハマダニホンゴヲワスレテイマセン」と礼を述べると、オジサンはいかにも嬉しそうにニッコリと笑った。
夕刻、バンコクエアの機内でもらったミネラルウォーターの、空にしたペットボトルにラオカーオを小分けする。そしてそれと本をセブンイレブンのエコバッグに入れて外へ出る。午後、ホテルの裏手に見つけたフットサル場のようなフードコートには、僕の気の向く店は無かった。よって表のスラウォン通りからパッポン2を抜けてシーロム通り、そこから道を渡ってコンベント通りに至る。僕の求める店の条件は、ソーダとバケツ入りの氷が頼めて、更に本が開けることだ。
いまだ17時40分であれば、緑のソムタム屋は空いていた。よって外の見える席に着き、はじめに一品、次にショーケースまで歩いてふた品目を頼み、それを肴にラオカーオのソーダ割りを飲む。
帰りは酔っているため慎重に、地元の人と一緒にシーロム通りを渡る。そして部屋に戻ってシャワーを浴び、きのうと大して変わらない19時すぎに就寝する。
朝飯 “Sisatchanalai Heritage Resort”のトーストとコーヒー
昼飯 “PG211″の機内食
晩飯 “Hai”のソムタムカイケム、ガイヤーン、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.5(水) タイ日記(3日目)
一度、寒さを覚えて目を覚ました気がする。1時間後に切れるよう設定したはずのクーラーが動き続けていたのだ。そのせいか、二度目に目を覚ましたときには喉に違和感があった。きのうの疲れが残っている、というわけではないものの、しばらくは横になったままでいる。数分後に時刻を確かめると1時23分だった。立って明かりを点け、専用の器にイソジンを水で薄めてうがいをする。
きのうパジャマ姿だったオネーサンは、今朝は上はキース・ヘリングの絵のあるTシャツ、下はジャージーのパンツを身につけていた。このホテルのランドリーは、洗いものをその日のうちに仕上げてくれることをきのう知った。よって今日も洗濯物をオネーサンに手渡す。また、明日は6時30分にタクシーが迎えに来る。だからそれよりも前にチェックアウトしたい旨を伝える。
このホテルには、フロントというものが無い。僕とホテル側の意思の疎通は、初日に迎えてくれたオネーサンと、朝、食堂にいるオネーサンのふたりのみ。残りの従業員は掃除のオバサン、食堂のオバサン、洗濯のオバサン、庭師のオジサンなどで、特に問題もなく運営をされているらしい。というか、とかくあれこれを問題視することの多い批判精神の旺盛な人は、ここには泊まれないだろう。
朝食の後は、きのうの日記を完成させて公開し、それをベッドに寝転んでiPhoneで読む。すると結構、いまだ校正が必要だったり、推敲の余地のある部分が見つかる。そのたび起きて化粧台ほどの小さな机に置いたコンピュータに向かい、文章の手直しをする。
朝食の皿には常に、5、6匹の蠅がたかっていた。日本にいれば気になることも、ここではそれほど気にならない。コンピュータを使えば、日本では見たこともない小さな蟻がディスプレーの上を横切っていく。そのたび持参した刷毛で、その蟻を払う。これだけ虫が多くても、蚊に刺されないのは不思議なことだ。
ベランダに出て目の前のヨム川と、その向こうに広がるジャングルを眺めるうち、バンコクエアラインから明日のフライトを知らせるショートメールが届く。日本を出る直前に新機に交換したiPhoneは、いまだバックアップから復元をしていない。だからこのSMSにはいささか驚いた。ウェブチェックインのためのURLも添えられていたため、即、それを済ませる。
旅の初日には18キログラムのスーツケースに辟易した。移動日である明日は、そのスーツケースをすこしでも軽くするため、衣類だけでもデイパックに移せないかと試してみる。また、いずれ起きてはいるだろうけれど、とりあえず明朝の5時ちょうどにiPhoneのアラームを設定しておく。
午後、部屋の扉がノックされる。開くと今朝のオネーサンが今朝の洗濯物を、オートバイで届けに来てくれていた。オネーサンには20バーツのチップ。とにかくタイでは、折に触れ心付けを手渡さないことには気が済まないのはなぜだろう。
今日は部屋掃除のオバサンは来ず、日に2本を約束されているミネラルウォーターも入らなかった。よって食堂へ行き、客席の冷蔵庫からその500ccのビン1本を取り出す。そしてちかくにいたオバサンに「今日の分」と身振りで示しつつ部屋に戻る。日本ではほとんど飲まない水も、南の国では必須である。
17時30分をまわったところで街道に出て、すぐ左手の食堂に今日も入る。風が吹いてくる。嫌な予感がする。店の若い人がふたりして、街道に面したシャッターを降ろす。空は晴れているにもかかわらず、雨が降ってくる。
ふた品を肴にしてラオカーオのソーダ割りを飲みつつ数十分が過ぎる。若い人は手慣れた様子で、今度はシャッターを上げる。降っていた雨は、やがて上がった。彼らは毎日、そのようにして店で売る雑貨を守っているのだろう。今日の勘定は160バーツ、心付けは20バーツを置く。
19時前に部屋へ戻り、シャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 “Sisatchanalai Heritage Resort”の朝の定食其の一、其の二
晩飯 「プリィアオ」の卵豆腐の素揚げともやしの炒め、パットママームーサップ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.4(火) タイ日記(2日目)
素っ裸で目を覚ます。部屋の灯りは点いたままだったものの、クーラーは幸い切ってあった。時刻は1時。きのうの夜のことは、食堂でお金を払ったまでのことしか覚えていない。部屋へ戻り、シャワーを浴びるなり、ベッドカバーの上で眠ってしまったのだろう。
取りあえずは起きて、きのうの日記の続きを書く。旅の初日の日記はどうしても長くなる。「こんなものを誰が読むか」とは思うものの、これを書き上げないことには先へ進めないのだ。
4時15分に至って明かりを落とし、布団に潜ってみる。外からは鳥、ヤモリ、トッケー、また虫か爬虫類か鳥類かは分かりかねる、様々な声が聞こえてくる。そして眠れないまま6時にふたたび起床する。
きのうの日記を「公開」して、8時に食堂へ行く。きのう洗濯について訊ねたオネーサンが、タイシルクなのか化学繊維なのかは分かりかねるパジャマ姿で僕を待ち受ける。「パジャマで接客っ」などと驚いているようでは、タイを旅することはできない。そのオネーサンにきのう着たものを入れたプラスティック袋を手渡す。
オネーサンはスマートフォンにタイ語で何ごとかを呟く。ディスプレイには洗濯物の数を問う英文があった。「シャツとアンダーパンツと靴下の3点」と英語で答える僕の口元にオネーサンはスマートフォンを近づける。オネーサンはそのスマートフォンのディスプレイを見て頷いた。部屋の掃除についてもオネーサンは同様にスマートフォンを近づけた。僕は「ミネラルウォーターを2本とロールペーパーが欲しい」と英語で答える。オネーサンはディスプレイのタイ語を読んで、またまた頷いた。
「りざべーしょんふぉーかとーぷりーず」と、日本のビジネスマンがアメリカのホテルマンに話しかける、アメリカン・エクスプレスのテレビコマーシャルがむかしあった。「オー、ミスタカロー」と答えたアメリカ人は、テキサスの人だったのだろうか。テキサス人の英語だろうが日本人の英語だろうが、それを瞬時にタイ語に翻訳してしまう人工知能の優秀さには、舌を巻くばかりである。
今回、シサッチャナーライに来た目的は、ヨム川に沿った中世からの街道を自転車で遡り、42番窯と123番窯による博物館の周辺を散策することだった。ホテルからの距離は8キロメートル。今朝の天気予報によれば、最低気温と最高気温はそれぞれ27℃と33℃。降水確率は6パーセント。僕は目的を果たすことができるだろうか。
08:50 きのうの自転車でホテルを出発。街道はほぼ平坦。
09:00 “Tao-Mor Gate”を通過。疎林の作る日陰が心地よい。
09:05 “Ban Pa Yang Kiln Site”を通過。右手には日干し煉瓦による防塁、左手には環濠の跡が続く。
09:10 林を抜けて広い道に出る。右手の低いところにヨム川が望める。
09:23 大木の陰でひと休みをする。
09:29 博物館”Center for Study & Preservation of Sancalok Kilns”前を通過。
09:30 ふたたび疎林の中に入る。
09:35 “Ban Koh Noi Kiln Site”に入る。
09:37 本日の目的地である、42番窯と123番窯を屋根で覆った博物館に到着。
ところで自転車による往復16キロメートルの走行を前にして、気になったのは水と手洗いについてだった。ホテルが部屋に置くミネラルウォーターはガラス瓶によるもので、フタの形状からして持ち歩きはできない。ナムパオ、つまりペットボトル入りの水を持参べきだろうけれど「欲しくなったら途中で買えば良い」と、高を括った。手洗いについては出たとこ勝負とした。
訪れる客は日に数名と思われる博物館の観覧料は100バーツ。入場券を手渡してくれたオバチャンは僕に屋内に入るよう促したが、その前にホンナム、つまり便所へ行きたい。その場所を訊くとオバチャンは数十メートルほども離れた、あずまやのような建物を指した。即、早足で近づいて用を足し、そのついでに顔を洗って汗を流す。その国へ行くとき、もっとも必要な言葉は挨拶などではなく「トイレはどこですか」だと、僕は確信をしている。
すっかりさっぱりして博物館に戻り、地中のかなり深いところから発掘をされた、ふたつの窯跡を見ていく。2019年の3月にも来たところではあるけれど、裏を返せば、また違った発見もあるものだ。
と、そのとき少し離れたところから掃除のオバチャンが僕に声をかけつつ右の人差し指1本を立てた。「ひとりか」と訊かれているものと理解をして、僕も返事をしつつ右の人差し指1本を立てる。オバチャンは僕に近づきメガネを見せる。それは先ほど、便所で顔を洗う際に脇に置いた僕のものだった。メガネはデンマークの”LINDBERG”に紫外線防止用のレンズを取り付けた、安くないものだ。いと有り難し。僕は固辞するオバチャンの手に50バーツ紙幣を握らせた。
帰り道は、10時08分に現地を出発し、途中、巨大な菩提樹の下で涼みたい気持ちは起きたものの、結局は休むことなくペダルを漕ぎつつけて10時42分にホテルに帰り着いた。これで僕の「街道をゆく」は完了した。今日の午後と明日は休養に充てよう。
昼食は抜く。僕は旅に出ると、空腹はそれほど覚えない。体内で最もエネルギーを必要とする器官は脳だという。腹が減らないのは、脳が雑事に煩わされないことによるのではないか。
南の国では、シャワーの後、素っ裸でベッドに大の字になり外を眺める、という日本にいてはできない贅沢ができる。汗は、シャワーを浴びてから40分ほどしてようやく引いた。
15時をすこし過ぎるころ、雨粒の、コテイジの屋根に落ちる音がした。やがて数分もしないうちに、雨は恐ろしいほどの勢いになった。風も強く、間近に見える椰子の葉は薙ぎ倒されんばかりに揺れる。いつまでも続くと思われたその雨は、小一時間ほども暴れると、いきなり、上がった。
17時30分に部屋を出て、きのうの夜とおなじ食堂へ行く。きのうは見なかった女の子が、何も言わないうちにグラスとバケツの氷を持って来る。料理はチャーハンと空心菜炒めを注文した。そしてそれを肴にして、持参したラオカーオのソーダ割りを飲む。
部屋には19時に戻った。シャワーを浴び、パジャマを着る。クーラーには1時間後に電源の切れる設定をし、今日こそはすべての明かりを落として就寝する。
朝飯 “Sisatchanalai Heritage Resort”の朝の定食
晩飯 「プリィアオ」のカオパットクン、パットパックブンファイデーン、豚挽き肉とパクチーのスープ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)