2025.2.28(金) タイ日記(4日目)
このホテルにチェックインしたとき、部屋のミニバーにはウーロン茶のティーバッグがふたつあって、1日目と2日目の朝には重宝した。それを使い切ってもメイドは補充をしてくれない。部屋にメモを残そうとしたものの、それを思いとどまって、日中、廊下に留め置かれるハウスキーピングの台車を見ると、コーヒーやミルクや砂糖の包みはあるものの、お茶のティーバッグは無い。「だったらあれは特別なものだったのだろうか」と考えて、催促することは止めた。
そして今朝は朝の散歩の途次に最寄りのセブンイレブンに入り、自分では見つけられなかったから店員に探してもらって紅茶のティーバッグ10包入りを買った。価格は57バーツだった。
いま泊まっているところは洒落たブティックホテルで、こぢんまりとしながら建物には様々な意匠が凝らされている。庭から螺旋階段を昇った上には喫茶室があるらしい。朝食の後に行ってみると、ガラスの壁には”CAFE & WORKSPACE”の文字があった。
部屋でしばらく休んでから、今年の正月に届いた年賀状と、初日に買った絵はがきを手にふたたび庭へ降り、螺旋階段を上がる。喫茶室”common’day”のオネーサンには、冷たいタイティーを注文した。持参した年賀状は7通だったものの、印刷のみのものは脇へ置き、たとえ1行でも手書きの文字のある5通にのみ返信を書く。
ホテルから目抜きのパフォンヨーティン通りに出ようとする右側に郵便局のあることは、初日から気がついていた。ホテル2階の喫茶室から、その郵便局に直行する。オネーサンはハガキが5通あることを確かめて「250バーツ」と告げた。一瞬、頭の中には疑問符がいくつも浮かんだものの、オネーサンは確かに50バーツの切手5枚を僕に差し出した。タイの、ハガキによるエアメールの運賃は長く15バーツで、僕の知る限り2016年まで変わらなかった。それが今は50バーツだという。
タイの物価高騰と円安を呪うタイファンは少なくない。その恨みつらみをウェブ上で目にするたび「むかしが安すぎたんだ。そう高い、高い、嘆くな」と僕は腹の中で言い続けた。しかし今日の50バーツには驚いた。小刻みな変更を繰り返したくないための、一気の値上げだったのだろうか。
そうこうするうち昼も過ぎたため、今回の初日に場所を確かめておいたカオマンガイ屋へ出かける。チェンライは、タイの最北部にあっては大きな街だが、中心部を外れれば、まるで田園のような空き地が広がる。そのような場所にかなりの面積を占めるカオマンガイ屋は、おそらくできたばかりで、とても綺麗だ。屋内にいた人の良さそうなオニーチャンはすぐに出てきてくれたから、煮鶏と揚げ鶏の盛り合わせを頼んだ。そうしたところオニーチャンは僕が日本人であることを確かめて、iPhoneを取りだした。
オニーチャンの差し出したiPhoneには「普通の鶏は50バーツ、去勢鶏は60バーツ」とあった。どちらが美味いかと言葉で問うと、オニーチャンはふたたびiPhoneに向かって何かを話しかけ、ふたたび見せられたiPhoneには「去勢鶏の方」とあったから、そちらにしてもらう。
それにしても、このカオマンガイ屋は、金持ちの道楽としか思えない。というのは、南の国らしく簡素な作りではあるけれど、広く、清潔で、整理整頓が行き届き、店の周りには、将来は水を張るつもりなのか、空堀まで巡らせてある。それでいて、昼どきにもかかわらず、客は僕ひとりなのだ。
オニーチャンは煮鶏用と揚げ鶏用の2種のソースを僕のテーブルに運び、その説明をしてくれた。タイでは揚げ物には、まるでジャムのような見た目の甘いソースを添える。日本人としては受け入れられないから、これまでは味見をするくらいに留めていた。しかし今日ことそのスイートチリソースを試してみると、揚げ鶏との相性は、決して悪くなかった。
太ったオニーチャンは、とにかく人なつこい。僕がカオマンガイを食べ終えたと見るやすぐに近づいて来て「味はどうでしたか」、「改善するところはありますか」、「チェンライにお住まいですか」と、矢継ぎ早にiPhoneの翻訳ソフトで訊いてくる。口で話してしまった方が簡単で速いだろうに、よほど英語が苦手なのだろうか。
「チェンマイは人が多すぎる。その点、チェンライはちょうど良い。だからチェンライには10回以上も来ている」とiPhoneに日本語で話しかけると、翻訳されたタイ語を読んだオニーチャンは、またまたiPhoneに向かって何ごとかを話しかけた。ディスプレイには「次の機会にも、ぜひこの店にお出かけください」とあった。
午後はプールサイドで数時間ほども本を読む。そのページを繰る手の、昨秋ほど捗らないのはなぜだろう。
その昨秋に2度ほど訪ねた食堂については、撮ってきたメニュの画像、またウェブ上にあった更に詳しいメニュを紙に出力するなどして、いろいろと調べておいた。しかし今いるところからその店までは、1.2キロメートルの距離がある。往復2.4キロメートルは歩く気がしない。自転車を使えば酔っての帰路が危ない。しかし往きは自転車、帰りは押して戻れば良いと考えて、16時にフロントで自転車を借り、先ずはマッサージ屋の”PAI”に乗りつける。
僕のかかとに剥がれかかっているバンドエイドに触れて「痛いか」と、今日のオバサンが訊く。「痛くはない」と答えると、オバサンは今度はバンドエイドの剥がれかかっているところを気にし始めた。「切っちゃったらどうかね」と身振りで示すと、オバサンは奥から持ち来た鋏でそれを綺麗に切ってくれた。
カオマンガイ屋のオニーチャンではないけれど、僕もiPhoneを取りだし「日本の冬はとても寒いです。空気も乾いているので、手や足の皮が切れます。でもタイに来てしばらくすると治ります」と翻訳ソフトに打ち込む。オバサンは現れたタイ語を、周囲のオバサンにも聞こえるよう声に出して読んだ。そのオバサンのマッサージは上手かった。料金は1時間で200バーツ。チップは50バーツ。
外の席に着いた食堂の、英語と中国語のメニュに「鸡蛋炒木耳」とあるのはムースーローに違いない。タイ語による料理名をオニーチャンに訊いたものの、そのフワフワした発音は、僕には聞き取れなかった。目の前に届けられたそれは日本のムースーローとは異なって、赤と緑の唐辛子が共に炒め込まれ、とてもタイらしい。味は勿論、良かった。明日はまた、別のものを頼んでみることにしよう。
そうして結局は帰り道も、交通量の少ないところを選んだとはいえ、自転車でホテルまで戻る。空はいまだ、明るい。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「ミーカオマンガイ」のカオマンガイ(トムトーパッソム)
晩飯 「ジャルーンチャイ」のガイサップルートロット、鸡蛋炒木耳、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.2.27(木) タイ日記(3日目)
きのうのチェンライの空には、ほんのすこしのあいだしか晴れ間は見えなかった。しかし今日は朝から快晴らしい。「らしい」というのは、部屋の窓からは、空のほんの一部しか窺えないからだ。晴れているなら散歩がしたい。
上はユニクロの半袖Tシャツ1枚、下はワークマンのスポーツブランド”FIND OUT”のゴルフ用パンツ、足元は素足にKEENのサンダルで外へ出る。すこし肌寒い。ということは、気温は20℃そこそこだろうか。
ホテルのあるルアムチッタウェイ通りからパフォンヨーティン通りに出ようとする右側に、コインランドリーを見つける。様子を見てみようとしてサンダルを脱いで上がる。するとオバサンが出てきて熱心に説明を始めた。オバサンは英語が話せたので「あした来ます」と答えると、オバサンはニッコリと笑った。しかし落ち着いて考えて、洗濯は明後日の朝にするのがもっとも合理的と気づく。
南の国に来て嬉しいことのひとつは、植物が大きく育つことだ。戸外で見ることのできるそれは元より、ホテルに戻り、部屋のある2階への階段を上がりきったところに置かれた観葉植物も、しばし立ち止まって観察をする。
朝食を終えて10時を過ぎるころ、プールサイドバーにファランの3人組のいることを、部屋の窓から認める。いまだ泳げる気温とも思えないけれど、とにかく彼らは元気だ。滞在しているホテルのプールはこぢんまりとして、置かれているデッキチェアは少ない。部屋着のバスローブを慌てて過ぎ捨てて、Patagoniaのバギーショーツを穿く。そうして午後に到るまで本を読んでからプールサイドを去る。
現在はナイトバザールから900メートルほど南に滞在をしているが、来週からはコック川に面した、つまり街の中心から離れた場所に移る。2017年までは、そのホテルにいても、昼食のため3キロメートルや4キロメートルを歩くのは平気だった。しかし次に泊まった2019年にはそれが億劫になり、朝食をたっぷり摂って昼は抜くこととした。今回は、ちかくで昼食の食べられるところを探しておこう。そう決めて、きのうに引き続いて自転車を借りる。
ルアムチッタウェイ通りからサナムビーン通りに出て東へ進む。自転車はプラスティック製のペダルが割れ落ちて、その部分がただの棒になっている。そのせいか、1キロメートルほども走ると疲れてきた。しかし引き返すわけにはいかない。川沿いのホテルにほどちかい、つまりワットプラケオやオーバーブルック病院にちかいカオソイ屋までは、2キロメートル以上の道のりがあった。この街に来てはじめてかいた汗を、尻のポケットから出した手拭いで拭く。
ふたたび棒状のペダルを踏んでホテルに戻る。平坦な地形だけが助けである。気温は多分、35℃くらにまで上がっているのではないか。気温のメリハリは嫌いでない。額の汗にできるだけ触れないよう注意をしながらTシャツを脱ぎ、シャワーを浴びる。以降はプールサイドには降りず、部屋の安楽椅子で本を読む。
16時になりかかるころにふたたびホテルを出てパフォンヨーティン通りを北上する。今日こそは、通いつけの”PAI”で1時間の足マッサージを受けることができた。料金は200バーツ。オバサンには50バーツのチップ。
ナイトバザールの両側のお土産屋は、17時ころから商品を外へ出し始める。その奧のフードコートで玉子焼きを肴にラオカーオのソーダ割りを飲んでいると、ガードマンが来て何ごとか言う。ワケが分からずにいると、ちかくの店のオニーサンが「ウイスキーも買ってもらわないと」と、ガードマンの代弁をする。
確かにフードコートのそこここには、食べ物や飲み物の持ち込みを禁ずる張り紙がある。ソーダと氷を買えば問題無しと考えていたが、僕の行いは確かに違反である。仕方なく220バーツで買った”Sang Som”の小瓶を免罪符のようにテーブルに立てて、そのままラオカーオを飲む。ちなみにここの飲み物売場にラオカーオは置いていない。数十年ほど前までの日本では、産地を除いては、焼酎は馬鹿にされていた。タイ人のラオカーオへの視線にも、それとおなじものがある。
フードコートには、きのうよりも長くいた。ふと目を上げると空は随分と暗くなっていた。クルマが移動手段の普段からは考えられないことだが、900メートルの道を歩いてホテルへと戻り、シャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「カオソーイタオゲーエック」のカノムジーンナムニャオムーサップ
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのカイジャオムーサップ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.2.26(水) タイ日記(2日目)
目を覚ましたのは0時37分。昼寝をしなくても、結局は昼夜逆転になってしまった。
その必要はないから冷房は働かせていない。それでも喉がすこし痛い。しかしその痛みはうがい薬を使うほどでもないと判断をして、水でうがいをする。次いで冷蔵庫のミネラルウォーターを電気ポットで湧かし、日本から持参した粉末のコンソメスープを飲む。
コンピュータを起動して部屋のwifiに繋ぐ。そしてきのうは疲れて書く気力の起きなかった、きのうの日記に取りかかる。「羽田空港から深夜便に乗り、チェンライには翌日の午前に着きました」というような、途中経過を欠いた旅日記は好きでない。僕にとって移動は、旅の楽しさうちのかなりの部分を占める。だから初日の日記はどうしても長くなるのだ。
コンソメスープの後は、部屋のミニバーにあったティーバッグで、ウーロン茶を何杯もお代わりする。そうしてミネラルウォーターの600ccのボトル2本を空にする。キーボードを打ちながら疲れればベッドに横になる。それを繰り返しつつ8時30分に日記を書き終える。エディタに示された文字数は4,757。実に原稿用紙11枚分である。
きのうのバンコクの早朝の気温は25℃だった。タイの最北部に位置するチェンライの朝は、それよりも涼しい。9時を過ぎてから入った朝食の会場には冷房が効いていて、いささか寒い。南の国に来ながら寒いとは、どうにも辻褄の合わないことだ。窓の外は緑の庭で、複数の白人がタバコを吸っている。「南の国に来たら、やっぱり外が気持ちいいよな」と思う。
部屋に戻って雑用をするうち、昼がちかくなってくる。いつまでのんびりしているわけにはいかない。タイは酒にもタバコにも、日本よりはよほど厳しい決まりを設けている。8時から11時、14時から17時までの時間帯には酒類の販売が止められる。そういう次第にてロビーに降り、フロントのオネーサンに自転車を借りたい旨を申し出る。オネーサンは引き出しから鍵を取り出し、僕に手渡してくれた。料金のことは、特に言われなかった。
パフォンヨーティン通りのナイトバザール近くにあった酒屋はオジイサンとオバアサンが引退をして、金色の時計塔からむかしの時計塔のあいだの道に移った。ホテルからは歩く気のしない距離にて、自転車で街を東へ進む。
きのうチェンライから乗ったTG130の機内で配られたミネラルウォーターは250ccだった。日本から持参した昨秋のラオカーオの残りをその空きボトルに詰めて、昨夜はそのほとんどを飲んでしまった。「1日あたり250cc。今日から帰国するまでの日数は10日。とすれば必要な量は…」とペダルを漕ぎつつ計算し、酒屋では”BANGYIKHAN”を4本まとめて買った。これだけあれば、次にタイに来るときのための次期繰越も残せるだろう。
帰りはサナムビーンロードを西に走り、ナムニャオが美味いとネット上にあった店を確かめる。更にサナムビーンロードを進み、適当と思われる道を左に折れる。その曲がり具合から「もしや」と感じたが、それは上手いことに、ホテルのある通りだった。途中、賑わっているフードコートを右手に見たものの、腹も限界までは減っていず、また4本の酒を部屋まで無事に持ち帰ることに専念をして、途中でどこかに寄ることはしなかった。
ホテルから徒歩で戻ったフードコートでは、ちかくのチェンライ病院の看護婦さんが大勢で昼食を摂っていた。注文したカオカームーはご飯の量が多かった。よってその一部はスープに沈めててカオトム状にして平らげた。
南の国に来て一番したいことは、プールサイドでの本読みである。その寝椅子に着いたのは13時7分。ドナルド・キーン著「百代の過客」の下巻を15時30分まで読む。
16時から1時間のフットマッサージ、17時から飲酒喫飯、そして早々に就寝、というのが、僕の決めたチェンライでの夕方の過ごし方だ。パフォンヨーティン通りを東へ歩き、きのうは仕事中のオバサンが一人しかいなかったマッサージ屋”PAI”の扉を押す。するときのうとは異なってたくさんのオバサンがいたものの、今日は臨時で早じまいだという。「またあした」とちかくにいたオバサンに言われて外へ出る。
入口に装飾を施し、マッサージ師はみな民族衣装風の制服を着ている、そういうマッサージ屋は高い。そうでないマッサージ屋の外の料金表を確かめ、中に入る。今日のマッサージ屋”CHAMONPOND”のフットマッサージ1時間の料金は”PAI”とおなじ200バーツだった。オバサンには50バーツのチップ。
ナイトバザール奥の、鉄製の黄色いテーブルと椅子を置いたフードコートで食べるものは、特に美味くもない。しかし僕は、この場所がなぜか好きなのだ。飲み物屋で買うソーダとバケツの氷は締めて35バーツ。そこからすこし離れた注文料理屋、これは材料さえあれば何でも作ってくれる店だが、そこで幅広麺の炒めを注文する。料金は予想より安い50バーツだった。
僕の席にその炒麺を運んできた女の人は、小学校低学年くらいの男の子を同伴しながら「お客様には『有り難うございます』と言うんだよ」と教育をしてる。この家の未来は明るいと思う。すこし食べたりなかったため、おなじ広場の何年も前から知っている店のモツ焼きも取り寄せる。
ホテルに帰る道すがらの空は、いまだ夕刻の色を留めていた。そうして部屋へ戻ってシャワーを浴び、20時よりかなり前に寝に就く。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 Ruamchittawai Road南側のフードコートのカオカームー
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのセンヤイパッキーマオ、モツ焼き、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.2.25(火) タイ日記(1日目)
00:01 「ギャレーとトイレからできるだけ離れた左列の通路側」と指定して割り当てられた51Cの席に着き、頭上の荷物入れにザックを納める。また、トイレで使い捨てカイロを腰に貼る。備えつけの枕は腰の後ろに当て、毛布で脚を覆う。
00:50 Airbus A350-900(359)を機材とするTG661は、定刻に30分おくれて羽田空港を離陸。
03:00 眠りから覚める。いかにも早すぎるため、頑張って二度寝に入る。
04:00 ふたたび目を覚ます。現在の場所をディスプレイで確かめたいものの、ちかくの席の人たちへの遠慮から、そのまままんじりともしないでいる。
04:50 トイレで歯を磨く。タイ航空の深夜便では、離陸のときには無かった歯磨きセットがいつの間にかトイレに置かれる。その数は僅少。勿論それを使わせていただき、使い捨てとは思えない容量のチューブ入りのペーストも、勿論いただく。
05:15 機内が徐々に明るくなる。
05:18 機はいまだ海南島の手前を飛行中。そのディスプレイには「バンコクまで1,430キロメートル」の表示が見える。
06:04 バンコクまでの距離が829キロメートルに縮まる。
06:10 朝食が席に運ばれる。「玉子か鶏か」と訊かれて選んだ「鶏」は正解。タイ航空のオムレツとハッシュドポテトの機内食は食べ飽きていて、このところは残すことが多かった。
06:46 「バンコクまで35分。バンコクの気温は25℃、天気は曇り」とのアナウンスがある。
07:15 バンコクの灯りが近づいてくる。
07:17 定刻に27分おくれてタイ時間05:17にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。
05:35 機外に出る。昨秋のTG661は沖のサテライトターミナルに着いたが、今朝はメインターミナルに直づけをされた。
海外からスワンナプーム空港に着き、そのままチェンマイ、チェンライ、プーケット、クラビ、サムイ、ハジャイ、タラートへ飛行機を乗り継ぐときには、慌てず騒がず先ずは”Connecting Flights”と”Transfer Desk”の看板の案内する先へ、次は”To Chiangmai,Chiangrai,Phuket,Krabi,Samui,HatYay,Trat”の看板の示す方へ進めば良い。ふたつの看板は大抵、隣りあっている。
乗り換えの時間は3時間もあるから大余裕。というより退屈することが心配だ。それにしても今回は運が良い。見慣れた”Domestic Connecting Flights”のカウンターには、機を降りてから僅々3分で辿り着いてしまった。
05:38 “Domestic Connecting Flights”の列に並び、羽田からスワンナプーム、スワンナプームからチェンライまでの、2枚のボーディングパスを係に見せてカウンターを通過。
05:46 目と鼻の先の入国審査場に進む。
TG661の機内で左手の人差し指のバンドエイドは剥がしたものの、いまだ左の親指、右の親指と人差し指と中指の、計4本はバンドエイドで覆われている。それを入国審査官に見せつつ”My fingers are Chapped.”と言ってみる。男の係官は黙って頷く。先ずは左手の親指を除く4本、次に右手の親指を除く4本の指紋をガラス板に押しつけて読み取らせる。次は両親指を押しつけるよう指示が出る。バンドエイドが巻かれたままの両親指をガラス板に押しつけると、読み込みは問題なく完了した。「バカみたい」である。
入国審査場を出ると真正面に、食べものや飲み物を売るキヨスクがある。その左手の案内板に僕の乗るTG130を探すも見あたらない。「いまだ時間が早くて搭乗ゲートが決まらないのだろうか」と、ちかくのベンチで休む。するとほどなくして「TG130の搭乗ゲートはB2B」のアナウンスが聞こえた。先ほどの案内板の前に戻ると、果たしてアナウンス通りの表示が出ていた。離陸の時間は8時10分でも、僕はボーディングパスに印刷された”BOADING TIME 07:40″を見て7時台のフライトばかりを探していたから見つからなかったのだ。粗忽、といえば粗忽である。これからは気をつけることにしよう。
05:58 保安検査場を通過。
06:02 B2Bゲートに達する。
この搭乗ゲートからは、先ずチェンマイ行きが出るらしい。周囲がイタリア人ばかりなのは、なぜだろう。とにかくとても賑やかだ。やがてチェンマイ行きの便の搭乗が始まる。その列に次のチェンライ行きの一部乗客が混じり込み、係に追い返されたりもしている。
07:11 “TG130 CHIANG RAI”の案内板が、ボーディングパスの読み取りカウンターに出される。
07:35 搭乗開始。沖駐めの機材にはバスで運ばれる。B2Bゲートは薄ら寒かった。バスの車内には更に強く冷房が効いている。そのバスから降りてようやく人心地がつく。
08:36 Airbus A320-200(320/3202)を機材とするTG130は、定刻に26分おくれてスワンナプーム空港を離陸。雲の上に出ての飛行はおしなべて穏やか。空はやはり、晴れているに限る。
09:25 地上が見えてくる。
09:30 馬の背のような山をひとつ越えると、それまでは赤茶けていた農地が一気に鮮やかな緑に変わる。
09:36 旧チェンライ空港の上空を通過。
09:37 TG130は定刻より3分はやくメイファールンチェンライ国際空港に着陸。
09:52 ボーディングブリッジを伝って空港屋内に入る。海外からの乗り継ぎ客は突き当たりを左へ進む。
09:57 回転台から荷物が出てくる。
X線による荷物の検査を終えたら空港のロビーに出て、先ずはちかくのベンチにザックを降ろす。そして貴重品入れからタイバーツ用の封筒を取り出し、昨秋に残した現金のうちの100バーツ札5枚と20バーツ札5枚を財布に移す。
目と鼻の先の出口から外へ出ると、右側にタクシーの手配所がある。ところが今日は左側から声をかけられ、そちら側にも手配所のあったことに気づく。オネーサンにホテルの名を告げると一発で通じた。料金は180バーツ。これまでは200バーツを請求されていた。これからは左側の業者ばかりを使うことにしよう。
10:08 タクシーが空港の駐車場から動き出す。タイによくある三車線の道に出ると、運転手は時速を80キロメートルに上げた。そこで安全ベルトを締める。
タイの運転手はクルマを走らせつつ携帯電話で話し続けることを好む。今日の運転手は会話ではなく、LINEに手打ちで返信を送っている。街に入ると、その返信が頻繁になる。前を行く4WDの車両が渋滞で止まる。僕の乗るタクシーは速度を落とさない。「あわや」というところで僕は大声を上げる。運転手は反射的にブレーキを踏んで、追突は免れた。”Sorry”と運転手は笑顔で僕を振り向く。笑っている場合ではない。
10:25 ホテルに着く。運転手に心付けは渡さなかった。
僕が差し出したagodaの予約表を一瞥したフロントのオネーサンは「あぁ」と何かに気づいた様子で「もう1、2時間、お待ちください」と答えてからスーツケースを奧へと運んだ。しばらくはロビーの椅子で新聞を読んでいたものの「1、2時間」はつぶせそうもない。タイバーツの残りは2,000と少々。千バーツ札は皆無。というわけでオネーサンにはザックも預け、iPhoneと貴重品入れのみを持って外へ出る。
前回はこのホテルより600メートルほどもナイトバザールに近い”Blue Lagoon Hotel”を使った。便利な場所にあり、価格は安く、プールサイドの寝椅子は最高だった。しかし部屋の椅子は背もたれの無いスツールで、日に数時間ほどもコンピュータを使う僕にはいささか辛かった。「椅子はホテルに借りればいいや」と、今回も予約はしたものの、先月、新たに良さそうなところを見つけてキャンセルした経緯があった。その「新たに見つけた良さそうなところ」が今日のホテルである。その「600メートル」を確かめつつ、ナイトバザールや旧バスターミナルに向かって目抜きのパフォンヨーティン通りを往く。
旧バスターミナルちかくの両替屋”SUPER MONEY EXCHANGE”は、僕が調べたところによれば、この街でもっとも交換率が良い。今日のレートは1万円あたり2,217タイバーツ。邦貨7万円は15,519バーツになった。僕がはじめてチェンライに来たのは2009年8月。そのときは1万円が4,000バーツを超えていた。しかし当時の日経平均株価は1万500円台だった。何が良くて何が悪いかは、いちがいには決められないのだ。
旧バスターミナル前の本屋の店先に絵はがきがあったため、6枚を選んで声をかけるも、誰も出てこない。ハガキは仕方なく、また元の場所に戻した。
ふたたびホテルのロビーで日本から持参した新聞を読む。やがてフロントの無線機に「オーケーカー」と、メイドさんのものらしい声が入る。フロントのオネーサンは部屋が整った旨を僕に告げる。今回の宿泊料は現地払い。6泊分の14759.94タイバーツはクレジットカードで支払った。予約時の「眺めの良い部屋」という頼みは忠実に守られて、窓の外にはスイミングプールとプールサイドバーが見下ろせた。
それにしても疲れている。しかし腹も空いている。よって両替屋の帰りに目をつけておいた、半屋台状の食堂に出かける。調理中の女の人にナムニャオの有無を確かめると、それは無いという。バミーナムのスープは、タイの汁麺にしてはとても熱かった。そして甘味も強かった。
疲れていても、寝てしまっては昼夜が完全に逆転する。シャワーを浴びて後はスーツケースから衣類を取りだして、セーフティボックスの隣に置く。本や文房具は机の右端にまとめる。ベッドの枕は具合の良いものをひとつ選び、残りは邪魔にならないところに移す。このような整頓は結構、楽しい。
そうして16時を過ぎたところで外へ出る。2014年から通いつけの、そして”Blue Lagoon Hotel”には至近だったマッサージ屋”PAI”までは、今日のホテルからは徒歩で8分かかった。そのガラスの扉を開けるとオバサンがひとりフットマッサージの客の相手をしながら、今日は自分ひとりしかいないようなことを言う。僕は「だったらまた明日」と告げて引き下がる。
ナイトバザールの奥にあるフードコートの飲み物屋が店を開くのは17時だろう。いまだ16時40分であれば、午前に人のいなかった本屋を訪ねる。僕が元に戻した6枚の絵はがきは、そのままあった。それを引き抜き、本屋の店先を借りて甘味屋を営んでいるオバサンに勘定を頼む。絵はがきは1枚が20バーツ。オバサンはとても愛想が良かった。
タイ北部の土鍋料理チムジュムは、チェンライのフードコートにおいては中国人観光客用に豪華化の一途を辿り、ひとり用のそれを売る店は、今や1軒だけになってしまった。昨秋にも使ったその店に注文を通してから席へ戻り、おなじ広場の飲み物屋で買ったソーダと氷で持参のラオカーオを割る。その酒がべらぼうに美味いのはなぜだろう。
いまだ明るいうちに土産物屋が軒を連ねる路地を抜け、目抜き通りに出る。以降の記憶は、無い。
朝飯 “TG661″の機内食、”TG130″の機内スナック
昼飯 パフォンヨーティン通りの名前を知らない食堂のバミーナムモー
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのチムジュム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.2.24(月) 「オレとしたことが」
手指と足のアカギレに貼ったバンドエイドはすべて、先週の金曜日に伊豆の温泉ホテルの風呂場で剥がした。しかし手の両親指には次の日から早速、またアカギレの兆候が現れた。アカギレは、切れる前にバンドエイドで覆う必要がある。仕事の最中に切れて血が出れば、業務に支障を来すからだ。
今朝は新たに、右手の人差し指にもバンドエイドを巻いた。これにて左の親指と人差し指、右の親指と人差し指と中指の、計5本がバンドエイドで覆われた。タイでは入国時に、両手の指紋を登録させられる。さて、明日のスワンナプーム空港では、どのようなことが起きるだろう。
きのうの日記を書いたり「汁飯香の店 隠居うわさわ」へのインターネット経由のご予約を承ったりしているうち時はまたたく間に過ぎる。東の空が紅く染まりつつある。時刻は5時35分になっていた。
道の駅「日光街道ニコニコ本陣」には、朝のうちに充分以上の納品をしておく。本日の人員は、販売係、事務係ともに極端に少ないということはないから、特に販売においては、11時30分から13時30分のあいだのみ手伝いに入った。別途、蔵見学のご案内もさせていただいた。
16時に小休止のため4階の食堂へ上がり、ついでに今日の下今市18:49発の上り特急の予約をしようとして、スマートフォンから東武鉄道のサイトにアクセスをする。そうしたところ、当該の便は満席。次の19:21発も満席。最終の19:54発には空席があったものの、00:20発のタイ航空661便に対して羽田空港第三ターミナルに着くのが22時24分では、流石にまずかろう。
逆に、18:49発より早い便を遡って行くと、17:34発は満席、17:02発には空席がある。しかし今から1時間後では、いかにも忙しい。17時過ぎにしようとしていた長男への引継ぎもある。JR今市から宇都宮で新幹線に乗り換え東京に出る手もあるものの、こちらは多分、宇都宮からの新幹線は立ちっぱなしになるだろう。スーツケースを曳きながら、そのようなことはしたくない。いまだ冬とはいえ三連休を甘く見ていた。「オレとしたことが」である。
そうして未練がましくもういちど東武鉄道のサイトにアクセスをする。そうしたところ、先ほど空席のあった下今市17:02発は満席になり、しかし満席だった17:34発に空席が出た。間髪を入れず、人差し指を忙しなく動かす。1号車は満席、2号車も満席。最後の3号車を画面に出すと、そこにひとつだけ空席があった。即、その小さな矩形をタップして席を確保する。下今市駅までは家内にホンダフィットで送ってもらった。
17:34 特急リバティけごん46号が下今市を発車。
海外に行けるとは、僕にとっては盆と正月が一緒に来るようなものだから、その日は飲酒をしない。しかし今日は飲みさしのワインや市販の総菜が冷蔵庫にあったため、それらをいわば弁当にした。
19:02 特急リバティけごん46号が北千住に着。
19:08 地下鉄日比谷線の車両が北千住を発。
19:24 その車両が人形町に着。
19:26 奇跡の素早い乗り換えにて、都営浅草線の急行が人形町を発車。
20:03 その車両が羽田空港第三ターミナルに着。
出発階の3階にエレベータで上がり、タイ航空のカウンターを探すも、その表示はどこにも見えない。「確か、このあたりではなかったか」とうろ覚えのKカウンターには係員の姿も、また乗客の姿も見えない。しかたなく自動チェックイン機の「タイ航空」の部分をタップし、パスポートの僕の顔写真のあるページをガラス板に伏せて読み込ませる。すると羽田からスワンナプーム空港までのTG661便、またスワンナプーム空港からチェンライまでのTG130便の、2枚のボーディングパスが魔法のようにして出てきた。時刻は20時25分だった。
ふと目を上げるといつの間にかKカウンターにタイ航空の紫色のディスプレイが点き、これまたいつの間にか大勢の人が密集している。時刻は20時30分になっていた。ちかくにいた係のオネーサンによれば、現在のチェックインは、個々の乗客が自動チェックイン機を操作して発行させ、荷物の預け入れのみ有人のカウンターで行う形がスタンダードになっているのだという。「三日見ぬ間の歌舞伎町」ということばがむかしあった。羽田空港も「またしかり」である。
21:27 タイ人が95パーセント、日本人は3パーセント、白人は2パーセントという感じの蛇行した列に1時間ちかくも並んだ末にスーツケースを預ける。荷物はチェンライまで運んでもらう旨を確認する。
21:47 保安検査場を通過。
21:52 出国審査場を顔認証にて通過。
22:06 108番ゲートちかくの、プライオリティカードで入れるラウンジ”Sky Lounge South”に落ち着く。そうしてティーバッグの緑茶を飲みつつ諸方への連絡、またきのうの日記の更新を行う。更には昨秋、チェンライのセブンイレブンで買った、効くか効かないかは不明の睡眠導入剤”G nite”を2錠だけ飲む。
23:29 “Sky Lounge South”を出る。
23:40 141番ゲートに達する。
23:51 搭乗開始。
朝飯 たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、なめこのたまり炊、メシ、サイコロ切りのハムを加えた豚汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 ”RF1″のマカロニサラダ、金谷ホテルベーカリーのバターロール、農民ロッソ COCO FIRM & WINERY 2023
2025.2.23(日) サラニヨシ
早朝、きのうの日記に書いた、項目数は12で総数は142、という一覧表に従って、タイ行きの荷物を作っていく。「旅にそれほどたくさんのものを持つとすれば、それらを納めるスーツケースはどれほど巨大になるのか、そしてどれほど重くなるのか」と問われれば、スーツケースは機内持込用の小さなもので、ケースを含めた総重量は8キログラム台を目指している。
12の項目を小計してみると、その数字のもっとも大きくなるのは「薬」の26だった。ビタミンB2とB6の複合で1、ビタミンCで1、目薬で1、リップクリームで1と数えていけば、すぐに26くらいにはなる。次に多いのは「その他」で、これは輪ゴムや粘着テープなどの用度品が主になる。次は「服装」の18で、ここにはシャツから靴までが含まれる。
「必需品」の15は、パスポートや現金やカードのたぐい。「容れ物」の14は、スーツケースやポーチやプラスティック袋。「衛生」の13は、ティッシュペーパーから爪切りまで色々。「文房具」の11は、ノートやボールペンから対紫外線用のメガネまで。
「デジタル」の9はコンピュータやiPhone、またそれらの電源コード等々。「活字関係」の5は、出発直前の日本経済新聞の書評欄など往きの飛行機の中で読むものから、行った先のプールサイドで読む本まで。「MG」の4は、今回はその研修を受けに行くわけではないから持たない。
「嗜好品」の2は、前回に余らせたラーカーオと早朝に飲むための粉末スープ。最後は「土産」の2で、これは現地に住む人のための「上澤梅太郎商店」の商品で、締めて計142、になる。
荷作りは朝のうちに完了した。店も道の駅「日光街道ニコニコ本陣」の売場も、きのうとは打って変わって忙しくなった。その合間を縫って閉店後の「汁飯香の店 隠居うわさわ」へ行く。そして床の間から野村素軒の「筑後途上五絶」を降ろし、堂本印象の「更佳」に掛けかえる。
朝飯 なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、豆腐と人参と長葱と豚肉の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 ポテトグラタン、ブロッコリーのソテーを添えたハムステーキ、パン、2種のチーズ、農民ロッソ COCO FIRM & WINERY 2023
2025.2.22(土) 旅における楽しい時間
夜が明ける前に、花と水とお茶と線香を仏壇に供える。仏壇の置かれている応接間に灯りは点けない。隣の食堂から漏れる明かりの薄暗さの中でも、仏壇のそこかしこに灰の散っているのが見える。多分、僕が伊豆に行っているあいだに3人の孫が押し合いへし合いしつつ線香を上げたのだろう。
店の床に砂や泥が持ち込まれるのは、お客様がいらっしゃってくださるからだ。仏壇に灰が散るのは、孫がいてくれるからだ。とすれば、いずれも有り難いことではないか。
三連休の初日でもいまだ冬であれば、また天気予報が「寒波のピーク」などと声高に伝え続けていることもあってか、店はそれほど忙しくない。「汁飯香の店 隠居うわさわ」の直近のお客様が記入してくださった感想カードの内容を、コンピュータに打ち込む。タイ行きが間近に迫っていれば、地道な作業は尚のこと、溜めるわけにはいかない。
夕刻、海外へ出かけるときの持ち物を紙に出力する。その項目数は12で総数は142。そのうち今回に限っては必要の無いもの、また減らそうと思えば減らせるものを、青いフェルトペンで消していく。谷口正彦の「冒険準備学入門」をひもとくまでもなく、このような時間が旅においてはとても楽しいのだ。荷作りは、明日の早朝から始めようと思う。
朝飯 納豆、生玉子、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、豚肉と長葱の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 ベビーリーフのサラダ、パン、3種のチーズ、グリーンアスパラガスのソテーを添えた鶏のトマト煮、Chablis Billaud Simon 2018、Old Parr(生)
2025.2.21(金) 伊豆治療紀行(33回目の2日目)
人間の、三大欲求を除く欲望は、すべて情報によって喚起される。2009年から探し続けた理想のブーツを見つけたのは今年のはじめ。インターネット上で、だった。以降は機会あるごとにそのブーツについて調べ、そしていよいよ今日、それを買うところまで来た。
きのうの就寝は21時前。日付が変わってしばらくすれば目が覚める。枕元に読書灯はなく、洒落た間接照明のあるばかりだ。よって本は開かずに、コンセントに繋いだままのiPhoneを引き寄せる。
真っ先に開くのはTikTokだ。先ずは「梅太郎」のアカウントの直近の動画の閲覧数をざっと眺め、付けていただいたコメントすべてに返信をする。以降は上から流れてくる「おすすめ」の動画を見ていく。しばらくすると「モノを欲しがる人と欲しがらない人とでは、幸福度においては後者の方が圧倒的に高い、という調査結果が出ている」と、一部では有名らしい人が述べていた。
ウェブ上の「調査結果」がどれほど信用に足るかは不明ながら、そう言われてみれば、そんな気もする。そして、前述のブーツを欲しいと思い始めてからきのうの夜までに幾度となく浮かんだ「別段、そんなものがなくても、一向に困りはしないだろう」との考えが、ふたたび脳に現れてきた。
そのブーツは、新品のときにはいかにも野暮ったく、少なくとも100日ほどは履く必要がある。「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンから「現金に手を出すな」のジャン・ギャバンほどの渋さに育てるには、更に900日ほどは慣らす必要がある。今の僕に、それほどの時間が残されているだろうか。
「伊豆高原痛みの専門整体院」の、今日の治療は背中と腰と膝の後ろ側。きのうの診察により問題なしとされた膝の表側には一切、触れられなかった。この整体院では、電子ペンによる施術が終わると別室の寝台にて患部に低周波が流される。今日はうつぶせになった腰と膝の裏側に電極を貼りつけられた。そしていざ電源が入れられると、右膝の後ろ側に我慢できないほどの衝撃が走った。その旨を伝えると「大丈夫」と、先生は次の患者の待つ施術室に入ってしまった。
それにしても痛い。一度は大声で先生を呼ぼうとしたけれど、それも気が引ける。そうして1、2分のあいだ耐えていると、痛みはやがて我慢できるほどに落ち着き、しまいにはそのまま眠ってしまった。
整体院を去ったのは10時20分。城ヶ崎海岸までの急坂を下る、先ほどまで膝の裏側に低周波を流されていた右のふくらはぎが、好転反応なのか何なのか、引きつったように痛い。今朝、というか午前2時ごろに見た動画の印象に、そのふくらはぎの特殊な感じが加わって「ブーツを買うことは、今日のところは止めておこう」と決める。欲望をかき立てる元が情報なら、欲望を霧消させるのもまた情報、ということだ。
熱海から乗った新幹線を品川で山手線に乗り換えて新橋に到る。床屋はこのところ、予約をしてから訪ねることにしている。雑居ビルの中の大衆床屋には7人の待ち客がいた。予約料の500円は、いわば特急券である。新橋から神田までは銀座線で移動。かかりつけの皮膚科の午後の診察は15時からにて、それまでは遅い昼食を摂りつつ本を読む。
医療関係ばかりが集合したビルの上階にある皮膚科には何と「臨時休診」の札がかかっていた。湿疹のための軟膏は在庫があるものの、服用するための抗アレルギー薬は底を突きつつある。だったら明日、日光の皮膚科にかかってみようか。しかしおなじ薬を処方してくれるかどうかは分からない。
そのまま街を歩いていると、しもた屋風の家の壁に未知の皮膚科のポスターが貼られていた。そのQRコードをiPhoneで読んでみれば、場所はそれほど遠くない。よって電話を入れるとその病院はインターネットや電話で予約のできる仕組みになっていて、初見の患者は長く待つことになるという。それでも面倒なことは、明日より今日のうちに済ませておきたい。
その皮膚科のドアを押してから僕の名前が呼ばれるまでには、1時間30分ほども待つ必要があっただろうか。先生は意外にも若い女の人だった。「薬さえもらえれば他に用は無い」とばかりにズボンの裾をめくると、服を脱ぐよう言われる。冬の服をすべて脱ぐのは面倒だ。ズボンのベルトを緩め、シャツをめくり上げて背中を見せると「あらー、こんなに」と先生は悲鳴と歓声の入り交じったような声を漏らした。いささか大げさではないか。
促されて入った別室では、これまた小柄で若い、とてもではないけれど看護婦さんには見えない女の人がゴム手袋の上にヘラで大量の軟膏を盛り上げた。「えっ、そんなに塗るんですか」と出かかった言葉を思わず飲み込む。仕事を厭わないその看護婦さんにより、僕の両脚は軟膏でベタベタになった。
外は既にして暗い。できるだけ早く、日光への下り特急の出る駅に移動すべきだ。そう考えて北千住へ直行し、次の特急まではそれほどの間もなかったから、立ったままで飲み食いのできる店の暖簾をくぐる。
朝飯 「ホテル亀の井伊豆高原」の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「ドトール」のトースト、コーヒー
晩飯 「天七」の串カツあれこれ、日本酒「大関」(燗)、チューハイ
2025.2.20(木) 伊豆治療紀行(33回目の1日目)
月に1度の伊豆での治療にはほとんど家内と二人で通っていた。しかし昨月29日の日記に書いたように、家内はその直前に膝を痛めた。以降、家内には2週間に1度の治療が必要となり、以降は単独での行動となった。
1日目の治療は夕方からにて、その前に温泉に入りたい家内に合わせて、東武日光線の下今市からは09:34発の上り特急に乗っていた。しかし僕は、温泉は夜のみで充分だ。だから今日の出発は10時以降の特急にしようと考えていた。そして今早朝に乗り換え案内を調べてみると、10時以降のそれでは熱海での接続が良くない。よっていつも通りに、下今市09:34発の特急券をiPhoneから確保する。
100キロメートルを越える移動は東武線による日光と東京の往復くらいしかしないため、それ以外の鉄道、特に新幹線はどうも苦手だ。普段は家内の後を着いていくから問題はないものの、今日はひとりである。北千住の常磐線のプラットフォームでは、どのあたりに立てば、東京駅でのあれこれが円滑に運ぶか。東京駅の東海道新幹線のプラットフォームでは、どのあたりから車両に乗り込めば熱海での乗り換えが楽か。それらのひとつひとつを、過去の記憶を辿りつつこなしていく。
「伊豆高原痛みの専門整体院」での、5,000ボルトを発する電子ペンによる治療は、患部の状態が悪ければ悪いほど痛く、状態が良ければ「ただ触れているだけ」くらいにしか感じない。今日の背中と腰へのそれは痛くなく、小さなお灸ほどの熱さしか感じなかった。膝のツボのすべては「ただ触れているだけ」の安楽さだった。
18時から、次は19時30分からの二部制の夕食は、治療が長引いたときのことを考えて、いつも後半のそれを選ぶ。今夕はそのテーブルに本を持ち込んだ。部屋に戻ると21時がちかかった。即、口をゆすいで就寝する。
朝飯 生のトマト、ウインナーソーセージのソテーを添えた目玉焼き、納豆、切り昆布の炒り煮、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、豆腐と若布と長葱の味噌汁
昼飯 「やまや」の「うまだしおにぎりせっと」、JAVA TEA
晩飯 「亀の井ホテル伊豆高原」の其の一、其の二、其の三、其の四、其の五、其の六、「澤乃井」の特別純米(冷や)
2025.2.19(水) 見学会
上澤梅太郎商店は毎月、その中ごろの水曜日にお休みをいただいている。外から見える店は休みでも、その内側ではほぼすべての社員が出勤し、整理整頓や大掃除、什器の移動、また研究や話し合いなどをしている。2月の店休日である今日はいつもの例には従わず、他社の見学をさせていただくこととしていた。
道の駅「日光街道ニコニコ本陣」に納品を済ませて戻ってくると、きのうの日記に書いた旅行社の手配したバスが、店の駐車場に入っていこうとしているところだった。そのバスに本日出勤の社員たちと乗り込み、8時55分に会社を出発する。
先ず目指したのは館林。正田醤油館林東工場には10時17分に着いた。教室で動画に従って種々の説明をしてくださったのは工場長のモトムラトシアキさん。続いて2階の通路に上がる。75,000平方メートル、つまり22,727坪の敷地にある製造棟は東西に500メートルの長さがあり、まるで軍艦である。その500メートルを往復しながら見たり聞いたりして驚き、感心したことは多々あるものの、日記が長くなるから、また勿体ないからここには記さない。正田さんの工場を出たのは12時8分。たっぷりの見学だった。
足利のココ・ファーム・ワイナリーには予約した時間に40分ほど遅れて13時ちかくに着いた。テント張りの明るい食堂は心地が良く、酒肴を兼ねたランチのセットは品が良かった。代表のイケガミシュンさんによる案内は詳細を究め、歩く先々では異なるワインを勧められて、昼から充分に酔った。ワインの醸造所を備えた農場を出たのは15時15分。午前に続いてこちらでもまた、充実した時を過ごすことができた。
午前の正田さん、午後のココファームさんを見させていただいて特に感じたのは、日々の向上およびその継続、ということだ。ローマは一日にして成らず。これからは折に触れて、今日のことを思い出すだろう。そして来年も、社員たちと良い見学をしたい。
朝飯 切り昆布の炒り煮、納豆、焼き葱、目玉焼き、なめこのたまり炊、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、豆腐と若布と長葱の味噌汁
昼飯 「ココ・ファーム・ワイナリー」のデッキランチ、赤ワイン「農民ロッソ」、白ワイン「農民ドライ」、コーヒー
晩飯 豚肉と白菜と厚揚げ豆腐と椎茸の鍋、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、麦焼酎「こいむぎやわらか」(お湯割り)