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清閑 PERSONAL DIARY

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2024.6.10(月) タイ日記(8日目)

きのうと変わらず0時と1時のあいだに目を覚ます。起きてきのうの日記を書いたり、疲れてベッドに戻ったりを繰り返す。バンコクに入って日記の面白い、というか悪くない推敲、校正の方法を身につけた。机のコンピュータで完成させ、公開した日記をベッドに仰向けになってiPhoneで読むのだ。旅の最中の日記は長くなるから、変換違いや書き直しによる文字の削り忘れも見逃しがちだ。書く道具と読む道具を変えることにより文章への客観性が増す、ということが今回の発見である。

5時を過ぎるころに荷作りを始め、数十分かけてそれを終わらせる。外が明るくなるころ外へ出て、どうしても思い出せない、きのうの夕食の店の名を確かめるため、スラウォン通りを行く。パッポン2の入口にあるマリファナ屋の名が洒落ている。持ち主はレハールのオペラのファンなのかも知れない

部屋に戻ってきのうの夕食の場所の名を日記に入れ「公開」ボタンをクリックする。シャワーを浴びて、上は糊の効いた長袖のシャツ、下は紺色のパンツに黒い靴下。引き出しに温存したコードバンのベルトを締め、革靴を履く。その姿を鏡に映して「正に、馬子にも衣装だ」と感じる。

「しくじったらシャレにならない」ということが、旅の最中には次々と、まるでハードルのように前から近づいてくる。今日の午前に控えるそれは、この10日間でも、もっとも大きなものだ。朝食は、思いがけないことで失敗する確率を限りなく減らすため、別棟の高級ホテル”The Rose Residence”の食堂”RUEN URAI”で摂る

9時23分に外の通りでタクシーをつかまえる。先日とは異なって、今日の運転手は僕の行き先「サパーンタクシン」を一発で聞き取った。しかしその後がいけない。首都のタクシーの運転手は、家族や友人とスマートフォンで雑談を交わしつつ運転をする例が、僕が気づいた限りでは昨年から増えた。運転手のその声が、スマートフォンのマイクへのものなのか、それとも客である僕への話しかけなのかの判断がつきづらいのだ。「右折」ということばが聞こえたので「左折でしょ」と返したところ、それは僕へ向けてのものではなかった。

今日の運転手は先日の運転手よりも早く、チョノンシーの運河にかかるところで左折をした。その先の、BTSの高架が大きく右へ進路を変える真下の、サトーン通りとの交差点で渋滞に巻き込まれる。ここで時刻は9時30分。仕事は本職に任せることの好きな僕も「スラウォン通りをもうすこし先まで直進した方が良かったんじゃねぇか」と恨めしく感じる。

ようやく渋滞から抜け出して道は流れ始め、やがて立体交差が迫る。と、運転手は何を思ったか「タクシン橋は渡るか」と、左手を山なりに動かす身振りをした。

「メチャイ、チャルンクルン、リャオ、クワー」
「チャルンクルン、リャオ、クワー?」
「チャイ」

まったく慌てさせる運転手だ。チャルンクルン通りとの丁字路を右折し、BTSの高架をくぐる瞬間に今度は左折の指示。運転手はあわててハンドルを左に切る。霧雨が降っている。「パイ、ターイ、ソーイ」と僕は、覚えたばかりのタイ語で路地のどん詰まりまで行くよう言う。サトーンの船着き場に着いたのは9時47分。メーターは97バーツだったから100バーツ札を渡しておつりは無し。「遅れるわけには絶対にいかない」という用事のあるときには、首都では鉄道を使うべきだろう。

約3時間後の12時44分に、チェックアウトを済ませてふたつの荷物を預けておいたホテルに戻る。貴重品の入ったポーチをスーツケースからザックに移し、それを背に共用のトイレで手を洗う。

ここで余談ながら。東京は1964年の東京オリンピックを前にして、運河の上に高速道路を架けた。これにより各所で空が失われた。バンコクは大きな通りの上に高架鉄道を作った。そのことにより、やはり同じく各所で空が失われた。スラウォン通りの上には幸い、高架鉄道は敷かれなかった。そのことによりこの通りはいまだ、むかしの面影を留めている

昼のスラウォン通りは西から東への車線が渋滞する。その渋滞の中をタクシーが近づいてくる。タイのバスやタクシーは手を挙げるのではなく、腕を45度ほど下に伸ばして停める。運転手が車内から助手席を示す。スーツケースはトランクルームではなく助手席に載せろ、ということなのだろう。即、それに従い、今度は後席のドアを開けてすばやく乗り込む。

「スクムヴィットソイ2」と行き先を告げる。運転手は「150バーツ」と、取りあえずは自分の希望を述べる。「ミーター、ナ」と答えると「ミーター、オー」と、運転手は逆らわずにメーターのスイッチを入れた。初乗りの料金は35バーツ。

ラマ四世通りに出たタクシーは、MRTのクロントイ駅の直前で左折。高速道路に沿った寂しい道からプルンチットセンターの敷地内へと右折する。「この運転手は道を知っている」と、ここにきて初めて安心をする。soi2のどん詰まりにあるホテルには13時20分に着いた。メーターは89バーツ。100バーツ札を手渡して釣銭は不要と伝える。

1952年、ドイツ人の薬学博士により作られたアトランタホテルは、宿泊客以外の入館を固く拒んでいる。宿泊客以外はロビーにも入れず、食堂で食事をすることもできない。ただし犬また猫は自由に出入りができる。天井で扇風機の回る古風なロビーはとても美しい。チェックインには、大時代的な、長たらしい文字の記入が要求される。フロントの照明は、文字を書くための充分な明るさを提供していないから、近視、乱視、老眼の人は苦労をするだろう。各種の支払いはすべて、その都度、現金により行われる。宿泊料は、これから僕が滞在しようとしている、冷房を備えないもっとも安い部屋で税込900バーツ。3泊分の2,700バーツはもちろん現金で支払った。

僕はこのホテルにベルボーイのいないことを恐れた。エレベータが無いのだ。しかしそれは杞憂だった。ベルボーイはシサッチャーナーライの窯跡から拾って来た陶片、および3本のラオカーオを入れたスーツケースを肩に担ぎ、最上階である5階まで上げてくれた。ちなみにロビーから5階までの階段は78段。ベルボーイには50バーツをチップとして渡した。

部屋は5メートル四方くらいの広さで、ベランダが付いている。シャワー室の壁はタイルが新しく、とても清潔だ。トイレの便器と水タンクは古風な意匠を保っている。貴重品入れは鉄製の机に溶接した鉄の箱で、鍵は客の持参による南京錠で閉める。錠を失くしたらパスポートもお金も取り出すことはできず、帰国もままならなくなるから、錠の隠し場所場所はノートに覚え書きした。

ドアの外側の取っ手に提げる札の”DO NOT DISTURB ME”には”THIS MORNING”と続けられている。恐らくは「午後まで寝ているなどの怠惰なことはしないように」とのことなのだろう廊下の非常口の表示を辿っていくと屋上に出るための木造のハシゴがあった

部屋の中は蒸し暑く、扇風機を3段階の最高速で回しても、からだは汗まみれのままだ。シャワーを浴びると一時は涼しくなるものの、すぐにまた汗が吹き出す。「そんなホテルになぜ泊まる」と問われれば「仕事と勉強を除く挑戦、および痩せ我慢が好きだから」と僕は答えるだろう。

きのうまでの洗濯ものを、このホテルにはランドリーバッグなど備えないから、今朝までのホテルのそれに入れてフロントまで持っていく。先ほどチェックインの手続きをしてくれた感じの良いオバチャンは中味をひとつずつ数えつつ計算をしれくれた。A4の伝票を確かめると、初日からきのうまで首に巻いていたスカーフの代金を入れ忘れている。それを指摘するとオバチャンは”Already”と笑って、その分を伝票に新たに記入することはしなかった。洗濯代の240バーツも現金払い。「いつもニコニコ現金払い」は、むしろ気持ちが良い

部屋とロビーの往復には計156段の階段の上り下りを必要とするから、複数の用事は頭の中で入念に組み立てる必要がある。「あ、忘れた」と、ふたたび部屋まで戻れば、またまた計156段の上り下りが発生するからだ。

その階段を降りて17時07分に外へ出る。soi2を北に歩いてスクムヴィットの大通りまでは8分がかかった。バンコクには。このような極端に細長い袋小路がそれこそ無数にある。袋小路だけに、となりの小路への抜け道は無いことが多い。

スクムヴィット通りの北側、soi1ちかくにある、屋根だけの、まるで倉庫のように巨大なメシ屋に入って、先ずはソーダとバケツの氷を注文する。目の前には大通りの喧噪がある。日本の夏の夕刻とおなじほどの気温が心地よい。

日本語なら春雨と海の幸のサラダとでもなる品は、きのうの店のそれの数倍の量があった。浅蜊の香辛料炒めがあるか否かをオニーチャンに問うと、オニーチャンは分厚いメニュ表を開き、作れる旨を示した。今夜の代金は492バーツだった。おつりのうち小銭の8バーツはその場に残した。

先ほどのオニーチャンにセブンイレブンの場所を問うと、何とそれはメシ屋の隣にあった。そこで1.5リットルの水を14バーツで買う。そしてそれを小脇に抱えてホテルまでの道を辿る

78段の階段を上り、部屋には18時43分に戻った。シャワーを浴び、パジャマを着る。それほど酔ってはいないため、ベッドに仰向けになり、iPhoneで調べごとをする。天井の扇風機の回転速度は最低にしておく。就寝した時間については、特に覚えていない。


朝飯 “RUEN URAI”の朝食其の一其の二其の三其の四
晩飯 “Ja Aree Seafood”のヤムウンセンタレーホイラーイパットナムプリックパオラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2024.6.9(日) タイ日記(7日目)

目を覚ましたのは0時と1時のあいだ。二度寝ができて、2時間ほど後に起床する。

朝、ホテルの周辺を1キロメートルほど散策をする。ここ数年の政策に、日曜日ということも重なっているのだろうか、街の屋台は極端に少ない。タイ特有の、発酵したたけのこを炒めている屋台がひとけのないタニヤ通りに出ていた。よってここでごはんにおかず二品を載せてもらい持ち帰る。ドアを閉めた瞬間から、部屋の中にたけのこの発酵臭が満ちる。

「毎日がそうじゃねぇか」と言われればその通りなのだが、今日は更にすべきことはない。南の国への旅でもっとも楽しみにしているプールサイドでの本読みは、おとといの日記に書いたような理由でできない。外へ出てマッサージ屋を探し、結局は外れのない「有馬温泉」で2時間のオイルマッサージ、更に耳掃除もしてもらう。1,750バーツの請求は意外に高いと感じた。双方の施術をしてくれたオネーサンには半端だったが240バーツのチップ。

午後は、このところ延伸が著しい首都の鉄道の中でも、地下鉄のMRTに最寄り駅のサムヤーンから乗る。チャオプラヤ川を渡った先の、車内のアナウンスではターパーと聞こえるタープラーで乗り換え、僕の好きなラオカーオの銘柄とおなじバンギカーンで降りる。駅の位置は、着く前の車窓からの景色で何となくつかめた。

大きな通りを西に歩く。ピンクラオの橋に続く、これまた大きな通りに出たところで左に折れる。何を買うわけでもないものの、パタデパートに入る。そしてフードコート以外は何十年も前から変わっていないのではないか、という雰囲気の店内を巡回する。

橋を目指して更に歩く。夕刻まではいささか間のある時間から、通りに机と椅子を並べる店がある。「こんなところで食べてぇな」と思っても、ここで酔っては帰りが心配だ

チャオプラヤ川の堤防が見えてくる。覚えのある桟橋に降りようとすると、そこは工事中だった。木陰で涼んでいるようにも、またホームレスにもみえる裸足のオジサンが「そっちじゃないよ、向こうだよ」と身振りで教えてくれる。コンクリート製の大きな階段の下でオジサンを振り向くと、僕を目で追っていたオジサンは「もっと向こう」と、また教えてくれた。

新しい桟橋は、これまでの場所から100メートルほども下流にあった。桟橋の脇にはムーガタ屋ができていた。「こんなところで食べてぇな」と思っても、ムーガタはひとりで食べるものではないような気がする

切符売り場にオネーサンがいる。サパーンタクシン直下の船着場サトーンまでの料金は30バーツ。オネーサンは”fifteen”と言うものの、よく聞き取れない。”fifty?”を訊き返すと、今度はオネーサンはOne Five”と言葉を替えてくれたから胸をなでおろす。現在時刻は16時57分。“fifty”では1時間ちかくも待たなくてはならない

17時13分に、上流からオレンジ旗の舟が近づいてくる。それに乗り込もうとして、オネーサンに止められる。17時16分に下流から大型の舟が近づいてくる。横腹には”MINE SMART FERRY”と大きく書かれている。下流から来たため上流へ向かうものとばかり考えていると、オネーサンはそれに乗れという。

大型船は、屋根だけの吹きさらしではなく、窓には偏光グラスが嵌め殺しになっているから、乗っていても、面白くも何ともない。ピンクラオからはワンラン、ワットアルン、マリーンデパートメント前、ラチャウォン、「パタヤーン」と聞こえるサイアムパラゴン前を経由してサトーンには17時45分に着いた

川沿いの高級ホテル”Shangri-La”の裏を歩く。かつては僕もよく飲み食いをした、屋台で賑わっていた場所は”MA! BANGRAK BANGKOK STREET FOOD MARKET”と名づけられてすっかり綺麗になり、しかし人の姿は疎らだった。数年前にかかったことのある床屋も建物の改装に伴って、見違えるほど明るくなっていた

サパーンタクシンからBTSに乗ったときには、チョノンシーで降りて散策をしようとなかば決めていた。しかし明日はホテルを変わる。荷作りは早朝にするつもりでいる。ということは、夜は遅くならない方が良い。そう考えて、チョノンシーでは降りずにサラデーンまで乗る。

「こんなこともあるだろう」と、本とラオカーオの小瓶は、ホテルを出るとき背中のザックに入れておいた。そういう次第にて、目についた店で夕食を摂り、19時30分に部屋に戻る。

腑に落ちなかったのは、夕食代のこと。伝票には520バーツの数字があった。よって500バーツ札1枚と20バーツ札1枚を「ちょうどで悪いね」とオカミに手渡した。ところがオカミは20バーツ4枚を釣りとして持って来た。何やら分からず、その80バーツはチップとして進呈した。ラオカーオは、160ccまでは飲んでいなかったと思う。


朝飯 屋台の弁当
晩飯 “HAPPY BEER GARDEN”のヤムウンセンタレーオースワンラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2024.6.8(土) タイ日記(6日目)

4時26分。ようやくまともな時間に目を覚ます。

今朝の食事は趣向を変えて、ホテルで摂ってみることにする。プールサイドにはランナー様式の木造建築があって、朝食はそこで供されているはずだ。ところが近づくと、中に人はいない。フロントに戻って確認をする。「外へ出て右へおまわりください」と、オネーサンは教えてくれた。

そこにはおなじ系列の、しかし僕のいる棟より遥かに高級なザローズレジデンスがあった。1960年代はじめに造られたらしい建物は、コロニアル調である。その玄関の重い扉を押す。右奥に食堂らしい入口が見える。歩を進めると、とても若くて綺麗なオネーサンが「屋内がよろしいですか、それとも屋外がよろしいですか」と笑顔を向けた。「外がいいですね」と答えて食堂を横切り、戸を引いて庭に出る。そこには名を知らない大木に混じってリラワディが枝を広げていた

寛いで食事をする僕の足元に複数の猫が来る。タイのコンビニエンスストアの前には、客が出入りをするたび外へ流れ出す涼風を求めてか、犬の寝ていることが多い。それを追い払う人はいない。僕は一向に平気だが、犬嫌い、猫嫌いはタイにはいないのだろうか。まるで五代将軍の時代の江戸のようだ

昼から夜にかけてはバンコクに住む同級生コモトリケー君と過ごすべく、9時30分に部屋を出る。スラウォン通りの歩道には、たくさんの屋台が並んでいる。そこからの香草やココナルミルクの香りを胸一杯に吸い込みつつ西へ歩く

時にはタクシーも使おうと、サラデーンの方から近づいて来たタクシーを停める。時刻は9時38分。「サパーンタクシンまで行きたい」という僕の言葉を運転手は聞き取れない。4度、5度と繰り返して「サパーンタクシン」と運転手は確かめる。僕は「そうです」と答えて焦燥から解き放たれる

10年ほど前に「サパーンタクシンのタクシンと、追放された政治家のタクシンの発音は、おなじですか」とタイ人に訊いてみた。「そりゃぁ、全然ちがうでしょう、タークシンとタクシンです」と相手は発音の違いを聞かせてくれたものの、僕にはよく分からなかった。「タイ文字を覚えると発音のしかたも分かる」とコモトリ君は言う。しかし今からタイの文字を覚えることは、僕には荷が重い。

タクシーの料金は51バーツだった。硬貨は嵩張るから財布には入れていない。50バーツ札と20バーツ札を出すと、運転手は「これでいいね」という顔をする。チップとしては多すぎると感じたものの、そのままタクシーを降りる。スラウォン通りからは9分の行程だった。

コモトリ君のコンドミニアムの舟は10時10分に来ると、知らされていた。いくつものホテルの舟に混じって10時12分に来た舟は、タイ文字の旗を立てているのみだ。一時、舟を係留するため桟橋に降りたオニーチャンに、コンドミニアムの名を伝えてみる。オニーチャンは2度目に頷いたから「まぁ、大丈夫だろう」と、舟に乗り込む。ただしコンドミニアムが間近になるまでは、少々の不安と共に波に揺られていた

昼から夜にかけて僕と過ごすはずだったコモトリ君には急用ができたとのことで、昼食の後は右と左に分かれた。僕は街のマッサージ屋で時間をつぶすこととして、どこにでもあるようなマッサージ屋の戸を引く。からだをへし曲げ、関節をやたらと鳴らすタイマッサージは、月にいちどかかる「伊豆痛みの専門整体院」のワタナベ先生に禁じられている。2時間のオイルマッサージを頼むと、真っ黒でしわくちゃのオバーサンは2階へ行くよう促した。

マッサージが終わるころ「どこから来たの」と、担当のオネーサンに訊かれる。「このちかくから」と答えると「ニワトリ?」と、オネーサン不審な表情をする。「ちかく」はタイ語は「カイカイ」。オネーサンはそれを、鶏を意味する「ガイ」と聞き間違えたのだ。まったく難儀なことである。

コモトリ君とは15時45分に部屋で合流をして、夕刻よりタイの家庭料理をご馳走になる。そうしてコンドミニアム19時発の舟でサパーンタクシンに戻る。そこからシーロムまでは高架鉄道BTSを使う。シーロム通りからスラウォン通りまでは盛り場のタニヤを歩く。

部屋に戻ったのは19時45分。冷蔵庫には、きのうのゼロ本から、今日は3本のミネラルウォーターが納められていた。シャワーを浴び、水を飲み、パジャマを着て20時すぎに就寝する。


朝飯 “RUEN URAI”のトーストとコーヒーサラダエッグベネディクト
昼飯 「ミットフォーマーチャイ」のカオソイ(小)
晩飯 市販のシューマイコモトリケー君手作りのゲーンチューダオフー同パットガパオムーサップ、メシ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)マンクット


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2024.6.7(金) タイ日記(5日目)

きのうの夜はおとといの夜と大して変わらず、いまだ日の変わる前の23時38分に目を覚ましてしまった。就寝時間が早すぎるのだろうけれど、夜遊びには興味が無く、早朝に日記を書くことが趣味であれば、どうしても現在のような時間の使い方になるのだ。それでも「前夜」のうちに目が覚めては早すぎる。何とかならないものだろうか。

スラウォン通りから80メートルほど奥に入ったこのホテルまで、表通りを行くクルマの排気音が聞こえてくる。雨が降っている。朝まで降り続けば厄介だ。そう考えてカーテンを引く。目の前の路地は濡れていない。旧いホテルの窓枠は木製で、広く開くことができる。トタン屋根に雨の落ちるような音は、隣のビルの屋上に置かれた室外機によるものだった。

薄い金属板を積んだリヤカーが路地を近づいてくる。しかしこんな夜中にそのような仕事をする人がいるだろうか。ふたたび起きて窓を開ける。その音もまた、隣の建物の室外機から聞こえてきていた。どこかのパネルが外れたままになっているではないか。

シサッチャーナーライでは鳥と爬虫類と虫の声だけが聞こえた。バンコクで聞こえるのはクルマと機械の音ばかりである。そして夜になれば、そこに嬌声が加わる。

6時前にホテルを出て、裏の路地からラマ四世通りに出る。お粥の”JOK SAMYAN”までの距離はGoogleマップによれば1キロメートルと少々。徒歩で往復するつもりでいたものの、路上にはモタサイの運転手が屯していた。即「ソイ・チュラロンコン11」と告げて後席の客になる。モタサイはとても危険な乗り物ではあるけれど、安楽さや手っ取り早さには勝てない。

ジョークサムヤーンでは、豚の内臓とピータンのお粥を注文した。すると日本語のできるオネーサンがメニュを持って来て「ミックスでなくていいですか」と訊く。多分、それが一番の人気なのだろう。僕は「クルアンナイとカイヨーマーのお粥でいいんです」と、当初の注文を通す。朝から臓物が食えるのは、僕のような臓物好きには嬉しい限りだ

今日の予定は10時までにプロンポンに着いて、足の角質取りと脚のマッサージをしてもらうこと。次はおなじプロンポンにあるベトナム式の床屋で爪切りや顔剃りをしてもらうこと。それが済んだらゲートウェイエカマイの1階にあるマックスバリューでラオカーオ”BANGYIKHAN”を買うこと。その3件のみだ。

いまだ時間があるため、ことし新調したパタゴニアのバギーショーツを身につけプールサイドに降りる。このホテルのプールサイドにはきのうの日記に書いた、寝椅子と日除けが整っている。その寝椅子の背もたれを調整して仰向けになり、本を開く。ところが、である。蠅が多いのだ。払っても払っても常に4、5匹がたかってくる。堪りかねて足全体にバスタオルをかける。すると今度は腕や顔にたかる。「こりゃぁダメだ」と、ものの数分で退散することを決める。スイミングプールについてはバンコク後半の宿に期待するしかない。そこもまた蠅だらけだったらどうしよう。

部屋のベッドでまどろみながら、9時15分に設定したアラームに目を覚まされる。プロンポンまでは30分もあれば行けるだろうと踏んでいたものの、準備に時間がかかって9時40分に部屋を出る。

プロンポンに着いて、むかし家内とかかったことのあるマッサージ屋を目指す。場所はよく知っていたつもりが、スクムヴィット通りを往ったり来たりする。ようよう見つけて「soi39のひとつ西だったか」と、曖昧だった記憶を更新しようと努める。

足の角質けずりと脚マッサージの90分のコースは450バーツ。角質けずりから脚マッサージに移ったところで、それまで読んでいた本を閉じる。オバサンは骨と皮だけの痩身ながら、手の力は異常に強い。土踏まずの筋をこすられてその痛みに顔をしかめると、オバサンは小さく笑った。オバサンには150バーツのチップ。

タイは自由放埒な国と思われがちではあるけれど、酒とタバコに対する規制は日本よりよほど厳しい。酒は11時から14時、17時から24時までのあいだにしか買うことはできない。当初の予定では、プロンポンのマッサージ屋に10時に入って90分、そこから徒歩5分のベトナム式床屋で90分を費やしても、BTSでふたつ隣のエカマイで14時までに酒を買うことは可能と目論んでいた。しかしマッサージ屋には入れたのは10時25分だったから、当初の計画には無理が生じた。

移動の合理性は削がれるものの、先ずはエカマイを目指すこととした。そして駅と直結しているゲートウェイエカマイ1階のマックスバリューにて無事に、これまで飲んだラオカーオの中ではもっとも好きな”BANGYIKHAN”3本を手に入れる。僕の知る限り、このお酒はバンコクではBig-C、ピンクラオのパタデパート、そして今日のマックスバリューでしか手に入らない。価格は1本あたり157バーツ。タイバーツの現金は必要以上に持ち合わせているものの、クレジットカードを使えるところでは、それで支払うこととしている。

ふったびポロンポンへ戻ると昼が過ぎていた。朝食の時間が早かったこと、食べたものがお粥だったところから、いささか空腹を覚えている。2017年に初めて入った汁麺の名店「ルンルアン」は目と鼻の先だ。近づいていくと、出前を請け負ったGrabのオートバイが車道に密集している。客はテーブルに鈴なりである。外のテーブルのひとつに近づいて、既に座っている女の子に声をかけると、友だちが来るという。もうひとつのテーブルのオネーサンにおなじく声をかけてみる。オネーサンはニッコリ笑ってくれたから相席をさせてもらう。

7年前にはそれほど混み合わない店で僕の注文を笑顔で受けてくれたオニーサンが、今日は懸命に調理をしている。従業員の数はもちろん増えている。僕の注文は7年前とおなじバミーナムトムヤム。頬に白い粉を付けているから出身は近隣諸国なのか、あるいはタイでも東北の国境ちかくの出なのか、オネーサンはメニュ表を見せて器の大きさを問うた。タイの汁麺の本来のサイズはSのはずと、オネーサンにはそのアイコンを指し示した。

日本のラーメンの丼が大きくなったのは、1970年代に南下してきた札幌ラーメンの影響と、僕は考えている。バンコクの汁麺において、店によっては以前のピセーットつまり大盛りより大きな器が選べるようになったのは、ひとえに外国人観光客の要望によるものと思う。

今朝のお粥にしても、昼の麺にしても、名店と普通の店の味に極端な差は無いと、僕の舌は感じる。ただし名店と呼ばれる店が運を味方につけ、更に努力を続けていることは疑いようもない。ルンルアンの柱と壁には2018年以来のピブグルマンの表示が並べられていた

ベトナム式床屋の90分で800バーツの価格は安いと感じた。店の設備は「こんなに金をかけては回収が大変だろう」と感じるほど充実していた。オネーサンには釣銭の200バーツをチップとして渡した。

プロンポンからアソークまではBTS、アソークで乗り換えたスクムヴィットからサムヤーンまではMRTで帰ってくる。BTSではこれまでその都度、1回限りのカードを現金で買っていた。しかしいささか面倒になってきて、今日は往路のアソークでRabbitカードを作った。その際、窓口のオネーサンには500バーツのトップアップを頼んだ。デフォールトで付いてくる100バーツでは、いくらも保たないからだ。カードのデポジットは100バーツ。有効期限は7年。改札口でのタッチ感度は、日本の交通系電子カードより鈍く、革製のカードホルダーに入れた状態では感知してくれなかった。

MRTは、このところクレジットカードを交通系電子カードとして使えるようになったとどこかで読んだため、それを試してみた。改札口でのタッチ感度はBTSとおなじく、革製のカードホルダーに入れた状態では感知してくれない。クレジットカードを駅の改札でむき出しにすることにも不安を覚える。しかし人は、結局は便利さに転ぶのだ。日本のSUICAやPASMOのような、BTSとLRTの共通カードが出てくれるのを待つばかりである。

15時40分に部屋に戻る。掃除を終えた部屋には、きのうとは逆に、3枚のバスタオルがあった。しかし冷蔵庫の水は補充されていなかった。このホテルのサービスにはアラが目立つ。フロントに降りてその旨を伝えると、間もなくオジサンがガラス瓶2本を持って来てくれた。ホテル側の不備にてチップは渡さなかった。

ラオカーオの在庫は充分になったものの、今日は趣向を変えてビストロへ出かけることにした。気温は日本の真夏の夕刻と変わらず、スラウォン通りまでの路地を気持ち良く歩く。

盛り場の、まるで貨車のような作りの店ではハウスワインの白を、メニュにはなかった500ccのカラフでもらう。「今日のお勧め」のポークシチューには心惹かれたものの、アンドゥイエットを注文しながら量を問うと、オニーサンは僕の腹具合を確認しつつ「大丈夫」と請け負った。

「楽だなー」と毎日、心がほぐれる。500ccのワインで「マオレオ」つまり既にして充分に酔ったものの、最後にリカールのパスティスを頼む。生で注文したそれは、オンザロックスに水を添えて運ばれた。まぁ、それがこの店のスタイルなのだろう。伝票の数字は1,040バーツだったため、1,100バーツを置いて店を出る。

部屋には18時40分に帰着。シャワーはもちろん浴びただろう。覚えていることは、何も無い。


朝飯 “JOK SAMYAN”の豚の内臓と皮蛋のお粥(画像は食べはじめた後のもの)
昼飯 “Lan Luang”のバミーナムトムヤム
晩飯 ”French Kiss”のアンドゥイエットカラフの白ワインリカールのパスティス(オンザロックス)


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2024.6.6(木) タイ日記(4日目)

19時に就寝をすれば、目覚めも早い。「もう3時ごろになるだろうか」と枕頭のiPhoneを引き寄せたところ、いまだ日の変わる前の23時23分で、大いに焦った。昼夜逆転にも程がある。明かりを落として掛け布団を胸元まで引き上げ静かにするうち、いくらかは眠れたものの、いくらも眠れていないとも言える、それは短い時間だった。

夜が明ける前から荷作りを始め、すぐにでも部屋を出られる体制を作る。その上で水を飲んだり、あるいは持参した粉末スープを湯に溶かして飲んだりする。

スーツケースを曳きザックを背負って6時19分に外へ出る。食堂へ行くと「アハーン」と訊きつつ調理係のオバサンがものを食べる仕草をする。6時20分を指す腕時計をオバサンに見せる。「あー」と、オバサンは当方の時間の無さを理解したようだった。それでも「食べられるなら」と、トースト2枚を焼きつつ粉末のコーヒーと砂糖をカップに入れ、湯を注ぐ。オバサンは別途、ミネラルウォーターと出来合いのデザートを持って来てくれたものの、それには手は付けなかった。

「6時30分にタクシーが迎えに来るから、それより前にチェックアウトしたい」ときのう伝えたオネーサンが、やがてきのうとおなじTシャツを着て現れる。「ランドリー」とタイ風のイントネーションで確かめると、オネーサンは何かを思い出そうし、ややあって「そう言われてみれば」という感じで「あーあ」と声を出した。

オネーサンは、今朝は自動翻訳のためのスマートフォンを持ち合わせていない。よって「いくら」とタイ語で訊ねる。オネーサンはすこし考えて「20バーツ」と計算をした。

洗濯ものは、おとといに5点、きのうは3点を出した。その際に洗濯代を訊ねたところ、オネーサンはスマートフォンにタイ語を呟き、ディスプレーには「1点あたり20バーツ」と英文が浮かんだ。20バーツが8点なら160バーツだろうけれど、僕はオネーサンに言われるまま20バーツを支払った。このホテルには組織も伝票も何も無い。大丈夫なのだろうか

6時30分にホテルの前に立つ。初日、6時30分の迎えを予約し、お金も払ったタクシーが来なかったらどうするか。しかし東の方から右にウインカーを出しつつそれらしいクルマが近づいて来たから胸をなでおろす。時刻は6時31分だった。

運転手は来たときとおなじ太ったオネーサンだった。しかしクルマはスズキからホンダに変わっていた。安全ベルトにドラえもんのカバーが付いていたり、ルームミラーに前方視界を遮るほどの数珠が提げてあるところからすれば、このクルマはオネーサンの私用車なのかも知れない。広い道に出るとホンダ車は時速80キロメートルを保って走り続け、空港には7時ちょうどに着いた。オネーサンには初日の分も含めて100バーツのチップを手渡した。

7時03分にチェックインを完了。すぐ脇の保安検査場では、スーツケースからザックに移したアロエジェルを「容量過剰」として没収されてしまった。それは昨年、ハジャイでひどく日焼けをした皮膚を鎮めるため、バンコクの薬局で買ったものだった。

08:25 ボーディング開始
08:29 屋根だけの電動バスで飛行機の際まで運ばれる
08:30 飛行機のタラップを上がる
08:41 “ATR72-600″を機材とするバンコクエアラインPG212は定刻より14分も早く離陸する。
09:14 これから30分でスワンナプーム空港に着く旨のアナウンスがある。

バンコクの近郊には極端に細長い矩形の農地が目立つ。その区画に工場や住宅の建てられたところも見える。機は徐々に高度を下げていく

09:46 PG212は定刻より24分も早くスワンナプーム空港に着陸。全62席に対して、乗客は来たときより少ない22名だった。
10:30 回転台からスーツケースが出てくる。
10:40 タクシー乗り場のある1階へ降りる。

タクシーの発券機まで歩く通路には大型車、近距離、普通と、3本のレーンがあったので、真ん中の”REGULAR TAXI”の線の内側を歩いて行く。発券機の前に立つオネーサンは僕の姿を認めるなり発券機のボタンを押し「どちらまで」と訊ねた。「スラウォン通り」と答えると、オネーサンは頷いて51番の紙を手渡してくれた。

51番の駐車スペースに近づくと、小柄な運転手が近づいてきた。トランクルームのドアは開いたままになっている。そこへ納めるべくスーツケースを持ち上げた運転手は、その重さにうめき声を上げた。

「スラウォン通り、メリディアンホテルのちかく」と運転手に告げる。運転手は振り向きざま「500バーツ」と値付けをした。昨年の4月とおなじである。「ミーター」と僕は返事をする。「ミーターならそれに50バーツを追加」と運転手はたたみかける。空港使用料の50バーツは常識で、そんなことは僕も分かっている。

10:50 高速道路上で渋滞に巻き込まれる。
11:02 作業車を追い越して渋滞が終わる。
11:05 最初の料金所で25バーツを運転手に手渡す。
11:15 2番目の料金所で50バーツを運転手に手渡す。
11:20 ラマ4世通りに降りるランプで、またまた渋滞をする。

スラウォン通りに入ったところで僕は頭の位置を低くし、フロントガラスから周囲の建物に注意を払う。メリディアンホテルの前に達したところで運転手はトヨタカローラを停め「ティニー、ナ」とルームミラー越しに僕を見る。「チャイ」と僕は返事をする。

335バーツのメーターに対して、釣りは受け取らないつもりで400バーツを差し出す。運転手は律儀にも15バーツを返してよこした。時刻は11時44分だった。

タクシーを降りたところはメリディアンホテルの前でも、僕が泊まるのはそこではない。スラウォン通りを渡り、すこしサラデーン側に戻ってラマ4世通りへの抜け道に入る。これから4日間を過ごす宿は、そこにある安いところである。

南国のホテルに滞在するとき、僕がもっとも重視するのは、寝椅子と日除けを備えたスイミングプールがあること。それが首都であれば、2番目には鉄道の駅にちかいことが挙げられる。タクシーはできるだけ使いたくないのだ。3番目の条件は価格の安さ、ということになる。

東京に出張するときはドヤに泊まる、という勉強仲間がいる。落ち着くのだという。僕はドヤには興味は持たないけれど、街の真ん中にある古びたホテルは好きだ。やはり、気分が落ち着くのだ。今日の宿の、グラスのためのコースターは使い捨ての紙製ではなく、律儀にアイロンを掛けられた白いクロスだった。

風呂場を見ると、バスタオルは2枚あるものの、普通のタオルが無い。よってちかくの部屋を掃除していたオバサンを呼び、普通のタオル2枚を持って来てもらう。ホテル側の不備により、チップは渡さない。

セキュリティボックスの扉が開かない。よってフロントに降りて、小さなオバチャマにその旨を伝える。やがて設備担当のおじさんが来る。オジサンはマスターキーを使って扉を開こうとするも、蝶つがいが狂っているのか、なかなか開かない。オジサンはそれをようよう開いて「扉を上に持ち上げるようにすれば開く」というようなことを僕に説明した。こちらもホテル側の不備により、チップは渡さなかった。

シャワーを浴びてひと息をつき、何がしたいかといえば散髪である。本来であれば、床屋には出発直前の今月1日にかかる予定だった。しかしiPhoneの修理に時間を取られて叶わなかった。その散髪を、この午後にはしようと考えた。

先ずは検索エンジンで見つけた、タニヤの床屋を目指す。ホテルからの距離は400メートル。しかし当該のビルのエレベータは反応せず、仕方なく階段を昇った4階のフロアには空き店舗がいくつかあるのみだった。どこかに移転してしまったのだろうか。

ホテルに戻る頃には顔に汗が吹きだしていた。しかしそのまま今度は、今夜の食事の場所を探るべく、ホテルのある路地”Soi Na Wat Hua Lamphong”に戻って奥を目指すと驚くなかれ、ホテルのすぐ裏に椅子ひとつを置いた床屋があった。その椅子には散髪中の客がいたこと、また汗だらけでは床屋に申し訳ないところから、取りあえずは部屋に戻ってシャワーを浴び直す。

改めて床屋に出直すと、客の姿は消えていて主もいず、人の良さそうなオジサンが椅子に座っていた。オジサンは待ち客に見えたものの、そうでもないらしい。オジサンは親切にも奥に声をかけつつ僕には鏡の前の椅子に座って待つよう言った。オジサンの声には「ファラン」という言葉も混じったが、僕はガイジンではない。

「どちらから」と英語で訊くオジサンに「日本から」と答えるとオジサンは「ワタシノガクセイジダイノセンコウハニホンゴデシタ。シカシツカワナイウチニズイブントワスレマシタ」と、とても端正な日本語を発した。正に、野に遺賢あり、である。

やがて現れた主は色の黒い、余計なことは話さず、しかし親切心は持ち合わせている人だった。タイで床屋にかかるときにはいつも「ナンバー2のバリカンで髪も髭も刈ってください」と頼む。今日もそうしたところ、どうも最初の「ゲタ」ではさっぱり刈れない。主はゲタを徐々に短くし、最後は仕上げ用の短いバリカンにこれまた短いゲタを取り付けた。僕は、床屋にはうるさい注文をつけない。主の腕は悪くなかった。仕上がりは満足のいくものだった。代金は400バーツとのことだった。

いまだ待ち客用の椅子にいるオジサンに「アリガトウゴザイマシタ。アナタハマダニホンゴヲワスレテイマセン」と礼を述べると、オジサンはいかにも嬉しそうにニッコリと笑った。

夕刻、バンコクエアの機内でもらったミネラルウォーターの、空にしたペットボトルにラオカーオを小分けする。そしてそれと本をセブンイレブンのエコバッグに入れて外へ出る。午後、ホテルの裏手に見つけたフットサル場のようなフードコートには、僕の気の向く店は無かった。よって表のスラウォン通りからパッポン2を抜けてシーロム通り、そこから道を渡ってコンベント通りに至る。僕の求める店の条件は、ソーダとバケツ入りの氷が頼めて、更に本が開けることだ。

いまだ17時40分であれば、緑のソムタム屋は空いていた。よって外の見える席に着き、はじめに一品、次にショーケースまで歩いてふた品目を頼み、それを肴にラオカーオのソーダ割りを飲む。

帰りは酔っているため慎重に、地元の人と一緒にシーロム通りを渡る。そして部屋に戻ってシャワーを浴び、きのうと大して変わらない19時すぎに就寝する。


朝飯 “Sisatchanalai Heritage Resort”のトーストとコーヒー
昼飯 “PG211″の機内食
晩飯 “Hai”のソムタムカイケムガイヤーンラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2024.6.5(水) タイ日記(3日目)

一度、寒さを覚えて目を覚ました気がする。1時間後に切れるよう設定したはずのクーラーが動き続けていたのだ。そのせいか、二度目に目を覚ましたときには喉に違和感があった。きのうの疲れが残っている、というわけではないものの、しばらくは横になったままでいる。数分後に時刻を確かめると1時23分だった。立って明かりを点け、専用の器にイソジンを水で薄めてうがいをする。

きのうパジャマ姿だったオネーサンは、今朝は上はキース・ヘリングの絵のあるTシャツ、下はジャージーのパンツを身につけていた。このホテルのランドリーは、洗いものをその日のうちに仕上げてくれることをきのう知った。よって今日も洗濯物をオネーサンに手渡す。また、明日は6時30分にタクシーが迎えに来る。だからそれよりも前にチェックアウトしたい旨を伝える。

このホテルには、フロントというものが無い。僕とホテル側の意思の疎通は、初日に迎えてくれたオネーサンと、朝、食堂にいるオネーサンのふたりのみ。残りの従業員は掃除のオバサン、食堂のオバサン、洗濯のオバサン、庭師のオジサンなどで、特に問題もなく運営をされているらしい。というか、とかくあれこれを問題視することの多い批判精神の旺盛な人は、ここには泊まれないだろう。

朝食の後は、きのうの日記を完成させて公開し、それをベッドに寝転んでiPhoneで読む。すると結構、いまだ校正が必要だったり、推敲の余地のある部分が見つかる。そのたび起きて化粧台ほどの小さな机に置いたコンピュータに向かい、文章の手直しをする。

朝食の皿には常に、5、6匹の蠅がたかっていた。日本にいれば気になることも、ここではそれほど気にならない。コンピュータを使えば、日本では見たこともない小さな蟻がディスプレーの上を横切っていく。そのたび持参した刷毛で、その蟻を払う。これだけ虫が多くても、蚊に刺されないのは不思議なことだ。

ベランダに出て目の前のヨム川と、その向こうに広がるジャングルを眺めるうち、バンコクエアラインから明日のフライトを知らせるショートメールが届く。日本を出る直前に新機に交換したiPhoneは、いまだバックアップから復元をしていない。だからこのSMSにはいささか驚いた。ウェブチェックインのためのURLも添えられていたため、即、それを済ませる。

旅の初日には18キログラムのスーツケースに辟易した。移動日である明日は、そのスーツケースをすこしでも軽くするため、衣類だけでもデイパックに移せないかと試してみる。また、いずれ起きてはいるだろうけれど、とりあえず明朝の5時ちょうどにiPhoneのアラームを設定しておく。

午後、部屋の扉がノックされる。開くと今朝のオネーサンが今朝の洗濯物を、オートバイで届けに来てくれていた。オネーサンには20バーツのチップ。とにかくタイでは、折に触れ心付けを手渡さないことには気が済まないのはなぜだろう。

今日は部屋掃除のオバサンは来ず、日に2本を約束されているミネラルウィーターも入らなかった。よって食堂へ行き、客席の冷蔵庫からその500ccのビン1本を取り出す。そしてちかくにいたオバサンに「今日の分」と身振りで示しつつ部屋に戻る。日本ではほとんど飲まない水も、南の国では必須である。

17時30分をまわったところで街道に出て、すぐ左手の食堂に今日も入る。風が吹いてくる。嫌な予感がする。店の若い人がふたりして、街道に面したシャッターを降ろす。空は晴れているにもかかわらず、雨が降ってくる。

ふた品を肴にしてラオカーオのソーダ割りを飲みつつ数十分が過ぎる。若い人は手慣れた様子で、今度はシャッターを上げる。降っていた雨は、やがて上がった。彼らは毎日、そのようにして店で売る雑貨を守っているのだろう。今日の勘定は160バーツ、心付けは20バーツを置く。

19時前に部屋へ戻り、シャワーを浴びて即、就寝する。


朝飯 “Sisatchanalai Heritage Resort”の朝の定食其の一其の二
晩飯 「プリィアオ」の卵豆腐の素揚げともやしの炒めパットママームーサップラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2024.6.4(火) タイ日記(2日目)

素っ裸で目を覚ます。部屋の灯りは点いたままだったものの、クーラーは幸い切ってあった。時刻は1時。きのうの夜のことは、食堂でお金を払ったまでのことしか覚えていない。部屋へ戻り、シャワーを浴びるなり、ベッドカバーの上で眠ってしまったのだろう。

取りあえずは起きて、きのうの日記の続きを書く。旅の初日の日記はどうしても長くなる。「こんなものを誰が読むか」とは思うものの、これを書き上げないことには先へ進めないのだ。

4時15分に至って明かりを落とし、布団に潜ってみる。外からは鳥、ヤモリ、トッケー、また虫か爬虫類か鳥類かは分かりかねる、様々な声が聞こえてくる。そして眠れないまま6時にふたたび起床する。

きのうの日記を「公開」して、8時に食堂へ行く。きのう洗濯について訊ねたオネーサンが、タイシルクなのか化学繊維なのかは分かりかねるパジャマ姿で僕を待ち受ける。「パジャマで接客っ」などと驚いているようでは、タイを旅することはできない。そのオネーサンにきのう着たものを入れたプラスティック袋を手渡す。

オネーサンはスマートフォンにタイ語で何ごとかを呟く。ディスプレイには洗濯物の数を問う英文があった。「シャツとアンダーパンツと靴下の3点」と英語で答える僕の口元にオネーサンはスマートフォンを近づける。オネーサンはそのスマートフォンのディスプレイを見て頷いた。部屋の掃除についてもオネーサンは同様にスマートフォンを近づけた。僕は「ミネラルウォーターを2本とロールペーパーが欲しい」と英語で答える。オネーサンはディスプレイのタイ語を読んで、またまた頷いた。

「りざべーしょんふぉーかとーぷりーず」と、日本のビジネスマンがアメリカのホテルマンに話しかける、アメリカン・エクスプレスのテレビコマーシャルがむかしあった。「オー、ミスタカロー」と答えたアメリカ人は、テキサスの人だったのだろうか。テキサス人の英語だろうが日本人の英語だろうが、それを瞬時にタイ語に翻訳してしまう人工知能の優秀さには、舌を巻くばかりである。

今回、シサッチャナーライに来た目的は、ヨム川に沿った中世からの街道を自転車で遡り、42番窯と123番窯による博物館の周辺を散策することだった。ホテルからの距離は8キロメートル。今朝の天気予報によれば、最低気温と最高気温はそれぞれ27℃と33℃。降水確率は6パーセント。僕は目的を果たすことができるだろうか。

08:50 きのうの自転車でホテルを出発。街道はほぼ平坦。
09:00 “Tao-Mor Gate”を通過。疎林の作る日陰が心地よい。
09:05 “Ban Pa Yang Kiln Site”を通過。右手には日干し煉瓦による防塁、左手には環濠の跡が続く。
09:10 林を抜けて広い道に出る。右手の低いところにヨム川が望める。
09:23 大木の陰でひと休みをする。

09:29 博物館”Center for Study & Preservation of Sancalok Kilns”前を通過。
09:30 ふたたび疎林の中に入る。
09:35 “Ban Koh Noi Kiln Site”に入る
09:37 本日の目的地である、42番窯と123番窯を屋根で覆った博物館に到着。

ところで自転車による往復16キロメートルの走行を前にして、気になったのは水と手洗いについてだった。ホテルが部屋に置くミネラルウォーターはガラス瓶によるもので、フタの形状からして持ち歩きはできない。ナムパオ、つまりペットボトル入りの水を持参べきだろうけれど「欲しくなったら途中で買えば良い」と、高を括った。手洗いについては出たとこ勝負とした。

訪れる客は日に数名と思われる博物館の観覧料は100バーツ。入場券を手渡してくれたオバチャンは僕に屋内に入るよう促したが、その前にホンナム、つまり便所へ行きたい。その場所を訊くとオバチャンは数十メートルほども離れた、あずまやのような建物を指した。即、早足で近づいて用を足し、そのついでに顔を洗って汗を流す。その国へ行くとき、もっとも必要な言葉は挨拶などではなく「トイレはどこですか」だと、僕は確信をしている。

すっかりさっぱりして博物館に戻り、地中のかなり深いところから発掘をされた、ふたつの窯跡を見ていく。2019年の3月にも来たところではあるけれど、裏を返せば、また違った発見もあるものだ

と、そのとき少し離れたところから掃除のオバチャンが僕に声をかけつつ右の人差し指1本を立てた。「ひとりか」と訊かれているものと理解をして、僕も返事をしつつ右の人差し指1本を立てる。オバチャンは僕に近づきメガネを見せる。それは先ほど、便所で顔を洗う際に脇に置いた僕のものだった。メガネはデンマークの”LINDBERG”に紫外線防止用のレンズを取り付けた、安くないものだ。いと有り難し。僕は固辞するオバチャンの手に50バーツ紙幣を握らせた。

帰り道は、10時08分に現地を出発し、途中、巨大な菩提樹の下で涼みたい気持ちは起きたものの、結局は休むことなくペダルを漕ぎつつけて10時42分にホテルに帰り着いた。これで僕の「街道をゆく」は完了した。今日の午後と明日は休養に充てよう

昼食は抜く。僕は旅に出ると、空腹はそれほど覚えない。体内で最もエネルギーを必要とする器官は脳だという。腹が減らないのは、脳が雑事に煩わされないことによるのではないか。

南の国では、シャワーの後、素っ裸でベッドに大の字になり外を眺める、という日本にいてはできない贅沢ができる。汗は、シャワーを浴びてから40分ほどしてようやく引いた。

15時をすこし過ぎるころ、雨粒の、コテイジの屋根に落ちる音がした。やがて数分もしないうちに、雨は恐ろしいほどの勢いになった。風も強く、間近に見える椰子の葉は薙ぎ倒されんばかりに揺れる。いつまでも続くと思われたその雨は、小一時間ほども暴れると、いきなり、上がった。

17時30分に部屋を出て、きのうの夜とおなじ食堂へ行く。きのうは見なかった女の子が、何も言わないうちにグラスとバケツの氷を持って来る。料理はチャーハンと空心菜炒めを注文した。そしてそれを肴にして、持参したラオカーオのソーダ割りを飲む。

部屋には19時に戻った。シャワーを浴び、パジャマを着る。クーラーには1時間後に電源の切れる設定をし、今日こそはすべての明かりを落として就寝する。


朝飯 “Sisatchanalai Heritage Resort”の朝の定食
晩飯 「プリィアオ」のカオパットクンパットパックブンファイデーン豚挽き肉とパクチーのスープラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2024.6.3(月) タイ日記(1日目)

周囲が騒がしい。スチュワードが僕の前にテーブルを引き出し、朝食のお膳を載せようとしている。時刻は4時30分。これまでは3時ごろ、羽田を発った深夜便が台湾と海南島のあいだを飛んでいるときに目を覚ましていた。今回は随分とまぁ、よく眠れたものだ。

05:10 洗面所で歯を磨く。
05:42 「スワンナプーム空港まで25分」のアナウンスが流れる。
06:00 地上の灯りが近づいてくる
06:12 “Airbus A350-900″を機材とする”TG661″は定刻より38分はやい日本時間06:12、タイ時間04:12にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。

04:33 昨秋に開業した、新しいターミナルビルとこれまでのターミナルビルを結ぶシャトルトレインが発車する。
04:46 入国審査場を通過。
05:05 回転台からスーツケースを引き上げる際に転び、ちかくの男の人に助けられる。筋力が落ちているのだろうか。
05:20 到着階の3階から出発階の4階へ上がってバンコクエアラインのチェックインを完了

荷物がグレゴリーのデイパックひとつになったところで地下1階へ降りる。エアポートレイルリンクの乗り場ちかくに並ぶ両替屋のレートはどこもかしこも変わらないようだが、米ドルの小額紙幣に他店より良い数字を出していたスーパーリッチの列に並ぶ。今回は日本円ではなく、2010年に1ドルあたり91円で買った米ドルの、いまだ残っていた1,034ドルを両替する。結果は以下の通り。

USD100(RATE36.55)×6=21.930THB
USD50(RATE36.55)×2=3,655THB
USD20(RATE36.45)×3=2,187THB
USD10(RATE36.45)×25=9112.5THB
USD1(RATE36.20)×24=868.8THB
TOTAL 37,753THB

これに手持ちのタイバーツ6,057バーツを加えれば総額は43,810タイバーツ。田舎で細々と過ごせば、ひと月くらいは保つ金額である。空港内では薬屋の”BOOTS”でビタミンCの錠剤を84バーツで買った。

さてスコータイ行きのバンコクエアライン”PG211″の搭乗口はA8。延々と歩いて保安検査を受け、更に行くと、そこはA6が行き止まりだった。係に搭乗券を見せて、保安検査場の脇から通路に戻る。そして来た道を延々と戻ってひとつ下の階に降りる。いまいちど保安検査を受けてA6のベンチに着く。時刻は6時35分。

そのまま座っていると、僕の名が呼ばれる。「搭乗券に記されたボーディングタイムは6時30分だが、さて…」と思案しつつちかくの係に声をかける。その女の人は即、外に停車中のワゴン車に僕を案内した。車内には運転手のほかに数人の女の人が乗っていた。これすなわち遅れ組、なのだろうか。最後の乗客として6時45分に機のタラップを上がる

搭乗券に示された席は窓際の6Aだったものの、通路側6Bの乗客が窓際に移っていたため、スチュワーデスはその前の5Aに僕を座らせてくれた。振り向いて数えたところ、全62席に乗客は27名しか乗っていない。”ATR72-660″を機材とする”PG211″は、定刻より1分はやい6時59分に離陸をした。

やがてサンドイッチとクッキー、それにコーヒーが運ばれる。タイの国内線で供される軽食が好きだ。それらはおしなべて程が良い。「美味いものが食べたければ、地上に降りてから食べれば良いではないか」と僕などは考えるけれど、どうだろう。

離陸して数十分が経つと「水に魚あり、田に米あり、王は民に税を課すことなく…」とかつて謳われたスコータイが眼下に見えてくる。機は定刻より21分も早い7時39分にスコータイ空港に着陸。沖に駐められた機から、乗客はまるで遊園地の遊覧車のようなもので空港の建物まで運ばれる。荷物は別途、ピックアップのトラックにて同時に届いた

さて僕が今回の旅でもっとも懸念したのは、スコータイの空港とホテルとのあいだの交通についてだった。ホテルは人里はなれた遺跡のちかくにあり、空港のシャトルバスのコースには入っていないことが予想されたからだ。しかし案ずるより産むが易し。シャトルバスのオネーサンに声をかけると、オネーサンは上役に、その上役はおなじ会社のタクシー係に声をかけ、話はすぐにまとまった。料金は片道1,000バーツ。いささか高いとは感じたものの、空港からホテルまでは22キロメートルもあり、四の五の言ってはいられない。

太った女性の運転手は、18キログラムのスーツケースを難なくトランクルームに納めてくれた。また運転席に乗り込むや後席の僕に振り向き、よく冷えたペプシコーラの缶を手渡してくれた。タクシーが空港の駐車場から走り出した時刻は8時22分。雨が上がったばかりなのか、道路はほどよく湿り、車載の室外気温計は27℃を示している。

僕が読んだ本によれば、インドシナのドミノ倒し的な共産化を懸念したアメリカが、タイには1960年代に徹底的な宣撫工作をした、そのひとつの結果が全国に張り巡らされた広い道路だという。嘘か誠かは知らないけれど、その道路を飛ばしてタクシーは8時50分にホテルの門をくぐった。驚くべき早さである。

林の中にコテージの点在する道を「アゴダー」と確かめつつ黄色いポロシャツのオネーサンが近づいてくる。「アゴダー」と僕はオウム返しに答えてホテルの予約票を出す。母屋の脇の守衛小屋のようなところでオネーサンはその紙を確認する。このホテルがコテージの形式であることは”agoda”のサイトで確認をしていた。中央棟にはタイシルクなどを売る設備もあったようだが、実際には機能していないらしい。

庭内には細く舗装した道が整備されているものの、それ以外のところは砂利または草のため、スーツケースの車輪が傷みはしないかと心配になる。案内されたNO.2のコテージは幅50メートルほどのヨム川に面して、居心地はなかなか良さそうだ

シャワーは南の国ではおなじみの、電気湯沸かし式だが、温度も水量も申し分ない。荷物を整理し、きのうの日記を完成させる。

11時30分、小径を伝って河床のような食堂へ行く。オネーサンやオバチャンなど3人が端の席で何やらしている。このホテルの社員は、基本的にはいつも、ここにいるらしい。スイカのジュースを注文し、オネーサンにはコンピュータをwifiに繋げてもらう。そして1時間とすこしを、今日の日記を書きつつ過ごす。ジュースは街の茶店で飲むより高い100バーツ。別途、チップの20バーツを置いた。

このホテルの客は、どうやら僕ひとりらしい。ひとつひとつのコテージに車止めが付いているところからして、モーテルのように使われることが多いのかも知れない。南の国ではよくあることだが、何をしているのか分からない男たちも数人ほどはいる。管理についてはそれほどうるさくないらしく、はじめに受付をした場所の脇にある自転車は、自由に乗ってかまわないらしい。

午後、6、7台ほども並ぶ自転車の中から1台を引き出して街道に出てみる。ペダルが馬鹿に重い。すれ違った地元の人が後輪を指さしている。パンクではないものの、タイヤの潰れ具合は限りなくパンクに近い。即、ホテルに戻って他の自転車に乗り換える。あたりは世界遺産の遺跡ではあるけれど、人の姿はまったく見えない

夕刻、昨年の4月にタイから持ち帰って冷蔵しておいたラオカーオのペットボトルと本、財布、iPhoneをセブンイレブンのエコバッグに入れて外へ出る。そして15世紀に建てられた仏教寺院のひとつ”Wat Khok Singkharam”の前の食堂に入る。オジサンの差し出したメニュを入念に眺めつつ、鶏肉のガパオ炒めにごはんと目玉焼きを付けてもらう。ソーダとバケツの氷も追加する。鮨を肴に日本酒を飲む。マカロニグラタンを肴に白ワインを飲む。それと変わらずタイのメシを肴にラオカーオを飲むことも、また静かに楽しい。

食堂の客は僕ひとり。街道にはたまに、荷物のための台を脇に作り付けたオートバイが通るのみ。気温は日本の夏の夕方とおなじくらい。テーブルに開いているのはドナルド・キーンの若いころの書簡集「昨日の戦地から」。何もかもが、僕にとっては素晴らしい。


朝飯 “TG661″の機内食
昼飯 “PG211″の機内食
晩飯 「プリィアオ」のパッガパオガイカイダーオ、豚挽き肉とパクチーのスープ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2024.6.2(日) リンゴの国

お湯で湿らせた頭にシャンプーを垂らす。そして指で髪の毛をかき回す。しかし一向に泡立たない。シャンプーを追加しても、髪の毛が泡立たないことは先ほどと変わらない。「おかしいな」といぶかしみつつ夢から覚める。

外はいまだ明るみを帯びていない。iPhoneは銀座のアップルストアに預けたままだから起きて洗面所へ行き、低い棚の時計に目を遣る。時刻は3時23分だった。

仏壇のことを済ませてから荷作りの仕上げにかかる。細かい説明は省くが、今回は持ち物が多い。割れ物を持ち帰るためのエアキャップ、通称プチプチの、60センチメートル角のものを2枚入れると、いつもの機内持込用リモアより6リットルだけ容量の大きなPROTEX FP-32Nは酒蒸しにされたハマグリのように口を開けたまま閉まらなくなった。仕方なく、エアキャップはグレゴリーのデイパックに移す。

ようよう閉めたスーツケースを持ち上げると、その重さは僕の旅行史上、かつてないほど重くなった。重量はスコータイで更に増すかも知れない。とにかくバンコクまでは我慢の一途だ。

それにしても、荷作りにこれほどの日数がかかるとは予想しなかった。繁忙により昼は働きづめだった。自由になる時間は早朝に限られた。それが荷作りの遅れたもっとも大きな理由である。

町内を掃除する勤労奉仕「クリーン大作戦」のため、7時に町内の公民館前に集まる。僕は店の前、国道121号線の真ん中の、クルマから投げ捨てたらしい空き缶その他の食べかすを公民館へ運び、分別をする。街の中心部には、ゴミは大して見あたらない。奉仕の作業はすぐに終わった。

17:30 数時間前に17時35分の迎えを予約したタクシーが事務室の前に停まる。普段なら後部座席に置くスーツケースを、今回はトランクルームに入れる。弱くない雨の降る中、運転手は外に出てトランクルームのドアを開けてくれた。

17:33 下今市駅着。運転手には50バーツ、もとい釣銭の200円を心付けとする。
17:38 「東急線内で発生したホームドア点検の影響により、東武スカイツリー線は押上と曳舟のあいだで不通」とのアナウンスがプラットフォームに流れる。

17:52 スペーシアX12号が下今市駅を発車。先代のスペーシアでは遅くて使い物にならなかったwifiだが、スペーシアXでは随分と早くなっていた。よってそれを使って今日の日記のここまでを書く。
19:35 スペーシアX12号が無事、浅草に定刻に着く。スーツケースが重いため、浅草では松屋のエレベータを使って地下に降りる。

19:48 地下鉄銀座線の車両が浅草を発車。
20:02 新橋に到着
20:15 傘を必要としないほどの雨の中を歩いてアップルストアに入る。

「きのうお見積もりをしたディスプレイの交換では、今回の不調は治らないことが分かりました。本体まで手を入れますと修理代は見積もり高くなりますため、今回はこのままお返しします」と、今日の緑のシャツの人は信じがたいことを口にしたから「いや、それは困る」と強く抗議をする。僕は今夜のうちに海外へ行こうとしているのだ。

ガラケーという言葉がある。iPhoneも実は「リンゴの国」というガラパゴスの中に存在しているのではないか。我々は、顧客と連絡を取ろうとすれば、携帯電話、固定電話、メール、手紙など、様々な通信手段を確保している。アップルストアの場合、iPhoneで連絡がつかなければ肩をすくめて両手を広げ、それでお終い、というところがありはしないか。

「お客様、そうなりますと、本体を交換するしか方法は無くなりますが」と言う相手に「そうしてください」と、間髪を入れず答える。いくらお金がかかろうが、iPhoneを欠いてはいかにも旅はしづらい。僕のようにコンピュータとiPhoneの二本立ならともかく、iPhone一丁の人ならその場で「頓死」だろう。

真新しいiPhoneは機種がSEの第二世代ということもあり、意外や安い37,400円。ガラスの強固な液晶カバーは6,800円だったから、双方を合わせても44,200円で済んだ。「やれやれ」である。

20:49 アップルストアを出る。雨が強くなっている。
21:04 快特羽田空港行きの車両が新橋を発車。車内にてとりあえず、使い慣れたカメラのアプリケーションをiPhoneにダウンロードする。
21:28 羽田空港第三ターミナルに到着。

21:33 タイ航空のチェックインの列に並ぶ。
21:45 チェックインを完了。スーツケースの重さは18.0キログラムだった。
21:52 保安検査場を通過。
21:55 出国審査場を通過。

今回の搭乗場所は、いつもとは反対側の105番ゲートだった。しかしそちらの方に飲食店は少ない。よって逆の、出国審査場を出て左側へ向かう。昨年の4月はいまだ「コロナ」の余波が残っていたから22時で閉店してしまった鮨の「魚がし日本一」に近づく。そして握り鮨を注文すると、いまの時間にそれは作れず、すべて丼になると言われた。それでは食べる気がしない。目と鼻の先のバーへ移動し、ホットドッグを今夜の食事とする。

来た道を戻って、とはいえ羽田空港も結構、広い。もうすぐ105番ゲートというところの右側にプライオリティパスのラウンジを見つけて大いに驚く。自分のカードと搭乗券を示して中に入り、料理や飲物を検分する。「だったら先ほどのホットドッグ代は使わずに済んだわな」と、損をした気になる。なおシャワーは1時間以上の待ちとのことだった

その更に先の、ビタミンCを買うため当てにしていたコンビニエンスストア”BOOKS & DRUGS”には残念ながらシャッターが降りていた。張り紙には「新型コロナウイルス蔓延防止のため」などと数年前の決まり文句があったから、長く閉まったままなのかも知れない。

22:55 105番ゲートに達する。乗客の数は意外や少ない。昨年の4月に目立った、タイから日本に遊びに来た人たちが帰る姿も見えない。彼らの旅は、桜の季節に集中するのかも知れない。
23:30 「間もなく搭乗」のアナウンスが肉声で伝えられる。
23:35 搭乗開始
23:41 窓際3列の通路側55Cの席に着く。窓際に人はいるものの、真ん中は空席らしい。すこし嬉しい。


朝飯 2 種5個のおむすび、らっきょうのたまり漬、サラダ菜と長葱とズッキーニの味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 “BAR RAGE”のチェダーチーズペッパーソーセージドッグ、コカコーラ(カロリーゼロ)


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2024.6.1(土) 銀座、新橋、秋葉原

きょう、ママンが死んだ。否、オフクロは2014年10月15日に亡くなっている。死んだのはiPhoneのディスプレイである。朝一番からGUI、つまりGraphical User Interface、簡単にいえば指によるタッチに画面がまったく反応しなくなった。

4階にはwifiの電波が飛んでいない。普段はiPhoneを介してインターネットに繋いでいる。今朝はそれができないため、コンピュータを手に事務室へ降りる。そして日記の更新、「汁飯香の店 隠居うわさわ」の予約の対応、その他を行う。

6時を過ぎたところで次男に声をかけ、助けを求める。iPhoneのディスプレイが死んだ状態で、一体全体、どのようにしてアップルストアに修理の予約ができようか。次男は試行錯誤の末に自分の名前で12時45分の予約を入れ、QRコードの入った予約票をプリンターから出力してくれた。「助かった」である。

今日は元々、東京へ行く用事があった。銀座8丁目のアップルストアの入口で、ちかくにいた緑のTシャツの店員、否、スペシャリストに予約票を見せると、3階へ行くよう教えてくれた。

「いま何時ですか」と、3階でやはり緑のTシャツの人に訊く。iPhoneは使えず、腕時計の電池は切れている。「12時27分です」の返事に「予約は12時45分ですが」と伝えると「大丈夫です」と、その大きくいかつい人は優しく頭を下げた。

窓際の椅子で待つ僕に別の係が近づいて、手際よく問題を処理していく。ディスプレイを交換すべきiPhoneは15時30分に仕上がるとのことだったが、手渡しには顔写真の入った身分証明書が必要とのことだった。僕の悪い癖にて、そのようなものは携帯していない。明日にまた来ることを約して外へ出る。

新橋で腕時計の電池を入れ替え、自由学園男子部35回生の同窓会が開かれる秋葉原へ移動する。秋葉原とはいえJRの駅の中を上がり下りはしたくないので、新橋からは銀座線を使う。

15時からの同窓会は、今年の3月に亡くなった同級生イトーイクオ君を偲ぶためのものだった。人数は15名が集まった。会場の予約はセキグチヒロシ君が骨を折ってくれた。皆から集められたイトー君の在りし日の画像はアカギシンジ君がまとめ、次から次へと会場のディスプレイに大写しにしてくれた。会はしめやかに、また賑やかに続いて18時にお開きになった。

後は尻に帆かけて、ではあるけれど、末広町から乗った銀座線を次の上野広小路で降りて、数十分ほどのひとり飲みをする。そして浅草19時19分発の下り特急に乗り、21時すぎに雨の中を帰宅する。


朝飯 ジャコと山椒の実の炒り煮、コールスロー、ジーマミー豆腐、納豆、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬、ごぼうのたまり漬、メシ、サラダ菜と揚げ玉の味噌汁
昼飯 「小諸蕎麦」のたぬき蕎麦、ライス
晩飯 「もつ焼でんアメ横店」の牛煮込みお新香シロのたれ焼き、梅割り焼酎


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上澤卓哉

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