2023.4.30(日) パッガパオムーサップ
きのう「汁飯香の店 隠居うわさわ」へ来てくださった自由学園の先輩は、食後に長男が蔵をご案内し、お買い物をお済ませになってからは、僕は東照宮までお送りした。渋滞は皆無。東照宮と輪王寺の駐車場に入ろうとするクルマに1、2分のあいだ前進を阻まれるくらいのところだった。
「さて、黄金週間の入り端にしては、いささか空きすぎているのではないか」といぶかしんで処方から情報を集めたところ、下りのピークは5月3日の水曜日、上りのピークは5月5日の金曜日と出た。週休二日に慣れた国民の大部分は、最後の土日は家で休む心づもりなのだろう。
今日の売上金額は、先週の日曜日のそれに遠く及ばないどころか、きのうの数字をも下まわった。明日と明後日は静かな平日になるかも知れない。とにかく3日の水曜日からは、覚悟を決めて店に立つことにしよう。
終業後、食堂に入ると、まるでタイにいるときは常に感じている香りが充満していて、思わず歓喜の声を上げた。コモトリ君が土産に持たせてくれたガパオのペーストで、家内が豚の挽き肉を炒めていたのだ。パッガパオムーサップである。
夕食時にはそれをごはんに乗せ、更にこれまたコモトリ君がくれたチェンマイ産のプリッキーヌーを刻んで加えた。日本の粘り気があり、柔らかいごはんにこのおかずは不思議な組み合わせではあったものの、充分に楽しめた。酒はラオカーオが一等ではあるけれど、タイから持ち帰ったそれは既にして、冷蔵庫に封印済みである。
朝飯 独活と人参のきんぴら、揚げ湯波と蕪の葉の炒り煮、納豆、めかぶの酢の物、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、ごぼうのたまり漬、メシ、キャベツの味噌汁
昼飯 トースト、ホットミルク
晩飯 鶏とブロッコリーのサラダ、トマトとグリーンアスパラガスのサラダ、じゃがいもの蕗味噌和え、パッガパオムーサップ、ごはん、麦焼酎「こいむぎやわらか」(お湯割り)
2023.4.29(土) 機内食考
タイ航空の深夜便では夜食が出る。大抵はパンとペットボトルの水だ。しかし乗客が眠っていたり、眠っているように見えれば、客室乗務員はテーブルを降ろし、それを置くことはしない。あるいはしないことの方が圧倒的に多かった。今回の往路は、眠っているあいだに置かれた丸パンを食べ、復路は、やはり眠っているあいだに置かれたサンドイッチは膝の前の物入れに移して手を付けなかった。
タイ航空の深夜便は、この夜食を出しながら、数時間後には朝食を出す。その時刻は出発からおおむね4時間30分を経たころで、いまだ未明である。これを日常に当てはめれば、朝の3時とか4時に眠っている脇で物音を立てられ、起こされ、フォアグラのガチョウやアヒルのように「さぁ、食え」と促される、ということだ。
羽田からバンコクまでの飛行時間は6時間。そのあいだに1食は軽食とはいえ2度も食事を供する必要性は、僕は感じない。夜食は丸ごと捨てられることが多いのではないか。そして機内食の食べ残しも少なくないことが想像される。
今回のタイ航空は、往復とも膝の前の物入れにゴミ袋は無かった。朝食前の、顔を拭くための蒸した不織布も配られなかった。経費節減のためと思われる。しかし経費削減は、大きなところから手を着けた方が効く。
2001年3月に使ったサイパン行きのノースウエスト機は、ビジネスクラスだったにもかかわらず、機内食はハンバーガーひとつだった。そして僕はそれを好もしく感じた。タイ国内で乗るタイスマイル航空の機内食は軽食で、これまで経験したのはミートソース入りのパン、ピラフ、ミートパイなどだ。これらもまた程が良くて、僕は好きだ。
日本からタイへ飛ぶ便の機内食は、いっそコンビニエンスストアのおむすびとお茶にしてはどうか。タイから日本へ飛ぶ便の機内食は、いっそカオゲーン風の弁当、それともタイ航空御用達のパン屋”Puff&Pie”のバンとコーヒーにしてはどうか。たかだか6時間ほどの飛行のあいだにパン、バター、ジャム、おかず、果物、ヨーグルト、ジュース、コーヒー、更にフォーク、ナイフ、スプーン、ティースプーンなどをお盆に無理やり載せた機内食は不要と思う。第一、食べづらくて仕方がない。
あるいはレガシーキャリアの機内食も、LCC並の選択制になれば、とても嬉しい。
朝飯 独活と人参のきんぴら、納豆、生玉子、揚げ湯波と蕪の葉の炒り煮、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、ごぼうのたまり漬、メシ、トマトとブロッコリーの味噌汁
昼飯 トースト、ホットミルク
晩飯 トマトとレタスとルッコラのサラダ、2種のパン、鶏とマッシュルームのトマト煮、Chablis Billaud Simon 2018
2023.4.28(金) 帰国
隣の席は窓際にひとつ。そこから僕の後ろを回って手洗いに行こうとしている人が進退窮まって、背もたれを元に戻してくれと言う。その人は僕より随分と年配に見えるから「言ってくれれば前を通ってもらっても良かったのに」と返事をする。このことにより目を覚ます。時刻は1時30分だった。
今度は僕の膝の前を抜けて席に戻ったその人は、目を閉じているもの、ディスプレイの電源は入れたままだ。それが眩しくて、余計に眠れない。僕はひとこと断って横から手を伸ばし、そのディスプレイを暗くする。アイマスクは持参していたが、それについては忘れていた。
02:40 機内の灯りが淡く点く。
02:50 朝食が配られ始める。そのお盆は往路にくらべて小さい。テーブルが手前に傾いているため、不安定に置かれているバターやジャムをお盆からテーブルに移すと、ジャムが手前に滑って床に落ちる。水のペットボトルはテーブルとお盆の関係からテーブルの窪みに収まらず、これも手前に滑る。非常に食べづらい。そしてほとんどのものを残す。
03:05 機は沖縄本島の上空を通過。眼下には雲が多い。
朝食のお盆が片づけられると同時に席を立つ。そして手洗いで歯を磨く。席へ戻ると、自然と隣席の年配者との会話が始まる。現在年齢は80歳。50歳のころ、日系の繊維工場の建設のためアユタヤに長期出張。趣味は山歩きで、今回はチェンライでクルマを雇い、運転手を待たせたまま、日に5時間ほど山を歩いていたという。その壮健さには、大いにあやかりたいところだ。
“TG682″は、定刻より11分はやいタイ時間4時44分、日本時間6時44分に羽田空港に着陸。以降の時間表記は日本時間とする。
動く歩道にも乗りながら、長い通路を延々と歩く。入国審査場の手前右側には体調に優れない人用の体温測定器が置いてあるものの、そこで立ち止まる人はいない。
07:08 往きとおなじく、パスポートの顔写真のあるページを機械に読み込ませて入国審査場を通過。
07:24 回転台からスーツケースが出てくる。
今回の航空券を昨年末に注文した際、その旅行代理店「トチギ旅行開発」からは検疫手続、入国審査、税関申告を電子的に行うための”Visit Japan Web”に自分のアカウントを作成し、個人情報を登録しておくよう言われた。とはいえ僕はその手続きを、ずっとせずにいた。
eチケットはファクシミリでも郵送も構わないと伝えてあったものの、律儀な担当者は今月9日にそれを届けに来た。紙の税関申告書も添えられていたため問うと、電子申告の方が混んでいることもあるとのことだった。それを聞いて僕は、”Visit Japan Web”については無視することを決めた。
ザックを背負い、スーツケースを曳いて税関検査場に近づくと、なるほど電子申告のゲートには長い列がある。一方、紙の申告書を持つ人の列は7人のみ。その最後尾に着いた僕は、間もなくカンターを通過。デジタルよりアナログの方が速いとは、バカバカしい限りだ。
07:39 羽田空港第三ターミナルより高砂行き急行が発車。
08:28 都営浅草線浅草に着。
09:00 浅草より日光行き特急が発車。
10:42 下今市着。
駅からは徒歩。会社には11時前に着。裏玄関でスーツケースを濡れ布巾で拭く。4階で荷物整理の後、早めの昼食を摂る。以降は閉店後まで通常の業務に復帰する。
朝飯 “TG682″の機内食
昼飯 担々麺
晩飯 カレー南蛮鍋、麦焼酎「こいむぎやわらか」(お湯割り)
2023.4.27(木) タイ日記(10日目)
目覚めたのは1時台だっただろうか。「さすがに早すぎる」とは思った。しかし眠れそうもないため起きて、おとといの日記の修正やらきのうの日記を書きつつ朝を迎える。本日、しなくてはならないことは多分、洗濯屋に洗濯物を受け取りに行くこと、荷作り、それと20時45分までに空港へ行くこと、それのみだ。だったら何をするかと考えても、大したことは思いつかない。
7時にホテルを出て、クイティオ屋を探して1キロほど歩きまわる。街はいまだ暑くなっていない。未知の場所の店はおしなべて開店準備中だ。よってラマ4世通りのあちら側からこちら側に歩道橋を渡り、毎日、何回ともなくその前を通った、鍋の近くに舟の模型を飾った店に入る。ここで僕が犯した過ちは、舟の模型があればクイティアオルアを頼むべきところ、普通のバミーナムを注文してしまったところだ。スープに豚の血を溶かし込んだ「ルア」なら、動画を見る人の興味も一層、募っただろう。
部屋へ戻って即、シャワーを浴びる。歩行で汗をかいたのではない、汁麺を食べたことによる、とんでもない量の汗である。枕元に40バーツのチップを置く。そして部屋の扉には「レイトチェックアウトにより掃除は不要」のメモを貼る。
以降は屋上のプールへ上がり、しばし本を読む。そして9時を過ぎたところで部屋へ戻り、Tシャツを着て外へ出る。この外出はできあがっている洗濯物を取りに行くものだったが、ふと思いついて表通りのカオゲーン屋で弁当を作ってもらう。弁当は、昼食の時間を節約するためだ。節約した時間を何に充てるかといえば、それはプールサイドでの本読みである。
16時をまわったところでザックを背負い、スーツケースを曳いて部屋を出る。きのう700バーツを支払った領収書と部屋の鍵をフロントのカウンターに出すと「えっ、レイトチェックアウトでは」と、オネーサンが驚いた顔をする。レイトチェックアウトの刻限は18時でも、それまでいるつもりはない。「問題ありません」と答えて地上への階段を降りる。
ルンピニーからスクムヴィット、このスクムヴィットの発音がなかなか難しい。アソークからはBTSに乗ってプロンポンで降りる。そしてワットポーマッサージにて足の角質取り30分、脚マッサージ60分を受ける。価格は450バーツ。オバチャンへのチップは150バーツ。ちなみにマッサージ屋のあるソイ33には、洒落たマリファナ屋が店を出していた。今やマリファナは、首都の至るところで吸える。一方、電子タバコは禁じらたままで、その理由については知らない。
BTSで隣のトンロー、このトンローの発音も難しくて、券売係にしばしば訊き返される。とにかくトンローへ移動をして、ソイ55の交差点を渡る。スクムビット通りは渋滞はしているものの、まったく動かないわけでもない。18時25分に55ポーチャナーの外の席に着くと、店の中には既にして、結構な数の客がいた。18時30分の開店前でも客を入れて、店内で涼んでもらっているのだろう。従業員の一部はいまだ、外の席でまかないを食べている。
いつものオバチャン、金髪を風変わりに結っている人が、今日も近づいてくる。最初の注文は浅蜊を唐辛子で炒めたホイラーイ。ごはんは必要かと訊かれて、それは断る。そのホイラーイが席に届いてみれば、なるほどそのソースはいかにもタイ米にかけて食べたら美味そうなものだった。
冷房の効いた店内は、またたく間に満席になる。外なら座れるとオネーサンに言われて去る人がいる。「生温かい空気、通りの喧噪、街の匂いなどを感じつつ食べた方が、よほど楽しいじゃんか」と思っても、人の好みはそれぞれである。次の注文はサイパロー。ここの売りものであるオースワンは、月曜日に海のちかくで上出来なものを口にしていたから、今夜は頼まなかった。そして「この外の席で毎晩のように飲み食いをするためだけに、トンローにホテルを予約してもいいな」などと考える。
さて、現在の、ラオカーオに酔った状態で、空港へはどのような方法で移動をするか。2016年10月にサパーンタクシンでタクシーをつかまえたところ、高速道路上で大渋滞に巻き込まれて、空港まで1時間49分を要したことがある。飛行機への乗り遅れを覚悟したこのとき以来、空港までタクシーを利用したことは、家内を同伴した2016年6月の訪タイ時以外は皆無だ。しかしトンローは、サパーンタクシンよりよほど空港寄りにある。高速道路上で大渋滞に閉じ込められたマッカサンより、更に空港寄りにある。
タクシーは、最短距離に見えるスクムヴィット通りではなく、敢えてトンロー通りの北へ向かう車線でつかまえた。僕の姿を認めて停止した黄色と緑のタクシーのドアを、近づいて来たファランのオニーチャンがいち早く開いて何ごとか運転手に言いかける。僕は急ぎ足で駆け寄って「オレ、オレ、オレ」と自分の顔を指す。オニーチャンは紳士的な笑顔で僕に謝り、タクシーから離れた。
「スワンナプーム空港まで」と告げると運転手は素直に頷いた。時刻は19時44分だった。運転手はソイ10で右折し、エカマイの通りを左折した。大きな交差点で小さな渋滞に巻き込まれると、僕を振り向いて何ごとか訊く。「ハイウェイ」と問うと運転手は首を横に振る。タイ語で経路の相談をされても、当方は戸惑うばかりだ。「任せます」と答えると、運転手は進路を右に取った。やがてフワマークで高速道路らしいところに上がる。しかし料金は発生しなかった。
運転手に声をかけられて目を覚ます。いつの間にか空港に着いていた。メーターは253バーツ。「この運転手になら100バーツくらい心付けを払っても良い」と考えていたものの、酔った頭は機敏には動かない。300バーツを手渡し、ドアを開ける。時刻は8時25分。所要時間は41分。これは記録として残しておこう。
20:50 チェックインを完了。海外で通用する「新型コロナウイルス感染症予防接種証明書 “Vaccination Certificate of COVID-19″」は必須。
20:59 「国際線出発」の列に並ぶ。
21:09 保安検査場を通過。靴を脱がされるのは面倒だが、サンダルで飛行機に乗る気もしない。
21:20 アルコールで何度か濡らした指紋がようやく認証されて、出国審査場を通過。
21:36 D2の搭乗口に達する。
自動販売機の40バーツの水は、硬貨が足りずに買えなかった。僕でも入れるラウンジが途中にあって、そこに寄ればペットボトルの水くらいはもらえるだろう。しかしソファで眠り込んでしまうことが怖いから、敢えて通り過ぎた。
ザックから木綿のセーターとウインドブレーカーを出して着る。財布の中身をタイバーツから日本円に替える。
22:32 搭乗開始
22:42 機体右側最後尾の通路側61Jの席に着く。
しばらくすると、タイ航空のベストを着た作業員3人が乗り込んできて、ちかくの席で何かを始めた。酸素マスクを収納した場所のフタが開いてしまう、という故障らしい。プラスティックは成形が楽で軽いところが長所だが、耐久性には欠ける。多分、留め具の調子が悪いのだろう。当該の個所は、作業員があれこれしても治らない。
「マイペンライで飛んじゃえよ」と内心、思う。作業員は遂に仕事を諦めて、応急処置を施した。「非常時には、手でフタを開けてください」とCAが乗客に説明をする。これ以上遅れるよりは、あるいは飛ばないよりはマシだから、乗客はただ、黙って頷く。
気づくと”BOEING787-9″を機材とした”TG682″は既に水平飛行に移って、ベルト着用の表示は消えていた。今朝の目覚めが1時台だったこともあり、眠れそうではあるけれど、また眠れそうにない気もする。
朝飯 名前を知らないボートヌードル屋のバミーナム
昼飯 名前を知らないカオゲーン屋の弁当、オレンジジュース
晩飯 “55 Pochana”のホイラーイ、サイパロー、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2023.4.26(水) タイ日記(9日目)
目を覚ましたのは5時15分。机の上には「4/26(水) 8:00 ズーム会ギ」のメモがある。絶対に忘れてはいけないため、きのうの夜に書いて載せておいたのだ。
7時すぎに外へ出て、今朝もまた、ラマ4世通りの食べ物屋の前を歩いて行く。そしてきのうとは異なったカーオゲーン屋で朝食を摂り、その動画を撮り、静止画も撮る。タイでは、これだけのことをしただけで汗をかく。部屋へ戻ってシャワーを浴び、Tシャツを着る。
タイ時間8時、日本時間10時より始まったズーム会議は予想より早く、9時15分に完了した。早朝のうちにまとめておいた洗濯物を持って、いつもの洗濯屋を訪ねる。帰りにホテルのフロントに寄って、明日のレイトチェックアウトを申し込む。18時までの延長で700バーツは悪くない。
「きのう行こうとしていたステーキ屋は休みだった」
とコモトリ君にLINEを送る。しばらくすると、イタリア料理屋”LIDO”の情報が返されてきた。それで初めて腑に落ちた。2020年3月、コロナの入りばなにコモトリ君と行ったイタリア料理屋は、そのステーキ屋の真向かいの路地にあって、今回は毎日のように、そのオレンジ色の看板を目にしていたのだ。
「LIDOならつき合ってもいいけどね」と追っつけ返信が届く。僕は同意をして、17時30分の待ち合わせを決めた。
今日しなければいけないことは、朝のズーム会議と、洗濯物を洗濯屋へ持っていくこと。それ以外はなにも無い。よって昼はステーキ屋をはじめ複数の飲食店が集まるSoi Si Bamphenまで歩き、汁麺を食べる。そして数軒を隔てたマッサージ屋で2時間のマッサージを受ける。昼前に降って止んだ雨により、気温はそれほど高くない。
雨は上がったものの、天気は相変わらず良くない。よって屋上のプールへは行かず、夕刻までは部屋できのうの日記、また今日の日記のここまでを書く。
コモトリ君は意外や早く、17時13分にホテルに着いた。電話を受けてすぐに外へ出る。黒い専用車は狭いSoi Si Bamphenから更に細い路地へと浸透した。そして11日ぶりのワインを飲む。
朝飯 名前を知らないカオゲーン屋のカオゲーン
昼飯 “Bouncing Pork Noodles”のセンミーナムトムヤム
晩飯 “LIDO”のトマトとモッツァレラチーズのサラダ、焼き茄子、ハムの盛り合わせ、パン、アーリオオーリオペペロンチーノ、羊の香草焼き、Chianti Astrale 2021、エスプレッソ
2023.4.25(火) タイ日記(8日目)
額の左側の皮は3日前から、鼻の左側の皮はきのうから、そして今日からは左肩、左腕、左胸の皮がむけ始めた。すべて、ハジャイでの1日目と2日目の日焼けが原因である。「オレもいよいよ、プールサイドでは紫外線を防ぐ服が必要だろうか」と考える。しかしてまた「服を着て泳ぐほど悲しいこともない」とも思う。
きのうの朝に続いて今朝も、動画の撮影にかまけて日記用の静止画を撮り忘れた。明日からは注意をしよう。午前中はプールサイドで本を読む。そしていつもより早めに部屋へ戻る。今日はすべきことがいくつもあるのだ。
持参した米ドルすべて、手持ちのタイバーツのうちすべての1,000バーツ札、パスポート、そしてiPhoneを”WANDERLUST”のカンパラパックミニに入れる。カメラを持たなくなった今、海外での外出用小物入れはこの小さなショルダーポーチで充分だ。財布はズボンのポケットに、手拭いは買い物袋に入れて外へ出る。
タイの米焼酎ラオカーオの、僕の最も好きな銘柄は”BANGYIKHAN”だ。バンコクでこれを売っているのは、僕の知る限りピンクラオのパタデパート、ビッグC、そしてゲートウェイエカマイ1階のマックスバリューである。このうち公共交通機関を使ってもっとも早く行けるのはマックスバリュー。よってルンピニーからスクンビット、アソークを経由してエカマイでBTSを降りる。
タイは日本よりよほど酒やタバコに厳しい。酒類は8時から11時、14時から17時までの時間帯で販売が禁止をされている。明るいうちなら昼時を狙わないと、それを買うことはできない。以前は11時前にここへ来て、11時がくるまで他の店でマンゴージュースを飲みながら待ったことがある。今回の購入は1本で充分。そして他にも少々の買い物をする。”BANGYIKHAN”の価格は157バーツだった。
ところでタイは「微笑みの国」などと賞賛される一方、悲しいほどの、あるいは滑稽なほどの階級社会だ。人は地位、職業、財産により、ピラミッド状に階層を作る。クルマなら、大金持ちはロールスロイスやランボルギーニに乗り、金持ちはメルセデスやアウディに乗り、中金持ちはトヨタのハリアーに乗り、小金持ちはトヨタのカムリに乗る。夕食を食べに行く店、身につける服や靴や持ち物、利用する公共交通機関もすべて、ピラミッドの序列に従って意図的に、あるいは仕方なく選択をする。
飲む酒にもそれがあてはめられて、ラオカーオは現在、その最低のところに置かれている。有り体に言えば「車夫馬丁の酒」である。「酒席にこれを飲む者がいれば、その席の全員の沽券に関わる」とまで言う人もいる。東京で百年、数十年の歴史を持つ飲食店は、21世紀になっても焼酎を置かない例が目立った。タイ人も現在の日本人とおなじく、そのうちラオカーオの価値を認める日が来るだろう。あるいは前述の階級意識や見栄により、いつまで経っても同じだろうか。
エカマイからトンローにひと駅を戻る。そして何年も前から気に入っている店で汁麺を食べる。そこから駅へ戻る途中で散髪をする。記憶に残る床屋は姿を消していたため、別の、ヘアサロンと呼んだ方が似合いそうな店を使った。そのせいか料金は600バーツと、いささか高かった。
ほとんどすべての現金を部屋の金庫から持ち出した理由は焼き物である。トンローには気に入った骨董屋があるのだ。炎天下、額に汗を浮かべつつその店の前まで来ると、上の方だけ透けたシャッターから店内の灯りは見えるものの、シャッターの手前の鎧戸には大きな南京錠が掛けられていた。次は電話で営業日、営業時間を確かめてから来ることにしよう。
夕刻に至ってホテルちかくのマッサージ屋を訪ね、2時間のマッサージを受ける。そこから、かねてより行きたいと考えていたステーキ屋の前まで来ると、ここ何日も見ている看板には”OPEN DAILY”と書いてあるものの休みだった。仕方なく来た道を戻り、ホテルから表通りに出る途中の中華料理屋で食事を済ます。しかしどうも、気分が収まらない。
ラマ4世通りに出て横断歩道橋を渡る。クロントイ方面が渋滞を起こしている。僕もクロントイ方面へ歩き、きのうの日記に書いた、バンコク商業銀行の脇の道に入ってみる。陋屋といっても差し支えのない店で、ファランが女の人と食事をしている。僕の感想は「いいなー、こんなところでメシが食えて」だ。明日は捲土重来といくだろうか。
朝飯 名前を知らないカオゲーン屋のカオゲーン
昼飯 「東明」のバミーナム
晩飯 「日月楼」の炒土豆絲、溜肚片、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(水割り)
2023.4.24(月) タイ日記(7日目)
目を覚ましたのは2時28分。部屋は、湿度は感じないものの、暑い。冷房の電源を入れ、シャワーを浴び、以降は腰にバスタオルを巻いた姿できのうの日記に取りかかる。
「旅は準備をしているときが一番、楽しい。いざ始まったら、もう終わりだ」と家内は言う。「旅は、始まったときには、もう終わり」とは僕は考えない。しかしその半分も過ぎてみれば、旅に出る前に考えていたすべきことの「いつするか」を、そろそろ決めるべきだろう。
7時すぎに外の通りへ出て朝食を物色する。きのうは賑やかに見えた食べ物屋や屋台が、今日はより人を集めて行列ができている。そんな中に美味そうなオムレツを焼く小さな弁当屋を見つける。注文をすると、具は何にするかと身振りで訊かれ、豚の挽き肉とエノキダケとバジルを指定する。焼き上がりにはケチャップの要不要を訊かれてそれを断り、器に用意されたプリックナムプラーを自分でかける。ちかくの屋台で生搾りのオレンジジュースも手に入れ、部屋に戻る。オムレツ弁当は25バーツ、ジュースは20バーツだった。
今朝の朝食動画をSEはうまく編集することができるだろうか。僕は動画を撮ることにかまけて、日記用の静止画を撮ることを忘れた。
8時30分、「そろそろどうだろうか」と考え、溜まった洗濯物をプラスティック袋に入れる。そしておととい仕事を頼み、きのう引き取ってきた洗濯屋へ行ってみる。おとといとは異なるオバーサンは、鎧戸の奥から僕の姿を認めるとマスクをかけた。タイ人の、コロナに対する怖がりようには、いまだ強いものがある。
今日のオバーサンは、おとといより多い衣類に、おとといの半額の60バーツを示した。このオバーサンは英語を理解する。それで分かったことがある。アイロンをかけないなら1キロあたり60バーツで、できあがりは今日。アイロンを必要とするなら同120バーツで、できあがりは明朝。僕はアイロンありを選び、120バーツを払った。おとといのオバーサンが、できあがりの時間として僕の腕時計の9時のあたりを指したのは、21時ではなく9時、というわけだったのだ。
ホテルに戻って部屋経由で屋上のプールへ行く。田舎の、鳥の声の聞こえるプールも好きだが、都会の、建設現場のハンマーやドリルの音の聞こえる環境も、また嫌いではない。施設は古びてはいるけれど、ひっそりとした屋上のプール、朝食の便利さ、バス停の近さ、そして宿泊料の安さを考えれば、悪くないホテルだと思う。
雲行きの怪しくなってきた10時45分に階下の部屋へ戻る。11時に雷鳴が聞こえ、11時20分に雨が降ってくる。予報によれば、バンコクの今日の天気は以下らしい。
A morning thunderstorm; otherwise, very warm with some sun, then clouds.
外へ出る時機を逸して、金庫に仕舞ったばかりのコンピュータを出す。そして今日の日記を書き始める。ふと気づくと、青空に巨大な入道雲が立ちのぼっている。地上を見ると、人はもう傘を差していない。時刻は11時50分。意外や短い…気の乱れだった。
昼食は、朝とおなじ通り沿いのカオゲーン屋で摂ることにした。選んだおかずはパッガパオムーサップ。これをごはんにのせて目玉焼きを添えれば一瞬で、ガパオライスの完成である。
気楽なバンコク。とはいえ海外は海外だから、時間の余裕は充分にみる。そして11時30分にきのうとおなじバス停に立つ。今日は月曜日で、道の混み様はきのうの比ではない。サパーンタクシンまで直行する115番のバスは、30分だけ待ってみようと考える。先の天気予報によれば今日のバンコクの気温は38℃とのことだったが、雨上がりの街は、辛くなるほどは暑くない。
待ち始めて28分が経ったとき、遂に115番のバスが渋滞の向こうに見えた。ベンチから立ち上がり、車道に近づく。しかしなぜかそのバスは片側三車線の中央分離帯側にいて、歩道に近づく気配はない。そしてそのまま目の前を通り過ぎた。仕方なくMRTとBTSを乗り継いでサパーンタクシンへ移動する。
今日は14時10分の専用船でコモトリ君の家へ行く。気温はいまやとても高い。冷たい水で一服の後、駐車場へ降りてコモトリ君の専用車に乗る。運転手はハンドルを、一路南へ向けた。そして数十キロほども走ったところは、もうバンコクを抜けてサムットプラカーンに入っていただろうか。周囲には沼沢なのか入江なのか水が多く見え、その水の上に東屋を設けた料理屋の前でクルマはようやく駐まった。店の前には客を迎えるようにして大きなニワトリの像。一歩を踏み入れれば、生け簀には海老や蟹や魚が豊富だ。
今回の旅の大きな目的のひとつは土曜日の夕刻に果たした。もうひとつは、日光味噌のたまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」を具にしてタイ風炒飯カオパッを本職に作っててもらい、それを動画に撮る、ということだ。それがこれから始まろうとしている。
本職が英語を理解するかどうかは分からない。そして僕のタイ語では、僕の意図は伝えられない。というわけで、今回のこの目的を成就させるべく、コモトリ君は会社から、この手のことの得意そうなパンさんを連れてきてくれた。
動画は、先ずは僕が店の説明、次いで僕と通訳のパンさんが厨房に入り、パンさんが料理人に概要の説明、続いて僕が調理中の説明、更にそのカオパッを僕とパンさんが食べる、という大まかな段取りを決めた。その調理場の風景をどうにか撮り終え、東屋に席を占める。
カオパッが席に運ばれたところでふたたびiPhoneのスイッチを入れ、それをひとくち、ふたくち、みくち。とても美味い。思わず「アロイ マーク」である。iPhoneを床に置いて以降は海の幸を食べて、食べて、食べて、という至福のひとときを過ごした。なお動画の撮影ばかりに気を取られ、店の静止画を撮ることは忘れた。
ひと仕事はいまだ明るいうちに済み、数十キロを北上しても、ホテルには19時に着いてしまった。首都の夜はこれから、という時刻だが、運転手には100バーツのチップを手渡し、部屋へ戻り、すぐに寝る支度に入る。
朝飯 名前を知らない屋台のオムレツ弁当
昼飯 名前を知らないカオゲーン屋のカオガパオムーサップカイダーオドゥワイ
晩飯 「クルアトゥカターシーフード」の魚のスープ、蒸した渡り蟹、ソムタムプー、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」のカオパッ、プラムックパッポンカリー、オースワン、「片山酒造」の酒粕焼酎「粕華」(ソーダ割り)
2023.4.23(日) タイ日記(6日目)
目を覚ましたのは3時38分。部屋が暑い。即、起床して冷房を入れる。洗面所へ行くと、殊勝にも歯を磨いた跡がある。シャワーを浴びたか否かについては不明。よってシャワーを浴び、そこから出て冷房を消す。以降の数時間は、腰にタオルを巻き、上半身は裸のままでコンピュータに向かう。部屋はすぐに暑くなる。「いいねー、これでこそタイだ」と嬉しくなる。
きのう日記のあらかた書けたところでTシャツとタイパンツを身につけサンダルを履く。「メシ屋が少なかったら困るな」とホテルのある小路からラマ4世通りに出ると、そこはに屋台も含めて食べ物屋が10軒以上も並んでいたから安心をした。
その10軒ほどのうちの汁麺屋らしい店で「今朝はバミーナムだ」と注文しながら調理台の脇を抜けようとすると「バミーは無いです」とお運びのオニーチャンが言う。確かに麺は見あたらない。大きな豚肉の煮える鍋を横目に「ガオラオ」と訊くと、そうだという。すかさずガオラオとごはんを注文する。肉の種類を訊かれれば、僕は豚と答えることが多く、今朝もその通りにした。そしてガオラオは上出来だった。更に、米の美味さに驚いた。TikTokに上げる動画は、今朝もしっかり撮った。代金は55バーツ。ガオラオが50バーツでごはんが5バーツだろうか。首都の食べものの値段はハジャイのそれに比べても、むしろ安く感じる。
9時から正午までは屋上のプールで本を読む。ホテルは、屋外に寝椅子とパラソルまたは日陰のあるプールさえ備えていれば、他のことはほとんど気にしない。シャワーの温度を上げると水圧の極端に落ちる現在のホテルにも、特に不満は無い。
昼食はラマ4世通りを歩道橋で渡り、それを降りたところの豚足屋で摂った。価格は60バーツ。その豚足屋から東へ散策すると、バンコク商業銀行の脇から北に小路が延びている。その両側は、小路の入口パクソイから食堂ばかりが続いている。ソイの名前は”Pluk Chit 1″。炎天ではあるものの、興味を引かれて奥へと歩いてみる。周囲の雰囲気は、失礼ながら、まぁ、スラムだ。機会があれば、夕刻にまた来てみようと思う。
部屋へ戻り、本日、何度目かのシャワーを浴びて服を着る。移動日を除いては、服はずっと、上は白のTシャツ、下はタイパンツだ。タイパンツとはいえ屋台で100バーツで売っている、象の絵柄の入ったそれではない。プレー産の藍染めである。そして履くのは”KEEN”のゴム草履。地下鉄MRTはきのう使って、その本数の少なさに辟易した。よって今日は、ホテルからは目と鼻の先のバス停に立つ。
サラデーンへは115番のバスと、先ほど部屋で調べておいた。しかし表示によれば、おなじ方へ向かうバスは他にもたくさんある。そして間を置かずに来た46番のバスに乗る。車両は冷房を備えない古いもので、振動も大きい。
「サムヤーン」
「サムヤーンには行かない。ファランポーン行き」
「いくら」
「10バーツ」
行き先はどちらにしても、外の景色を見ていれば、降りるべきところは分かる。バスは高架を越え、シーロム通りとの交差点、次にスラウォン通りとの交差点を過ぎて直進する。「なんだ、だったらサムヤーンの脇を通るではないか」と考えつつ、その手前で停車ボタンを押す。ラマ4世通りからは、モンティエンホテルの構内を横切ってスラウォン通りに出る。簡単すぎて、呆気ないほどだ。
15時15分にマッサージの有馬温泉へ行く。入口にマスクをせよとの表示があったため、ポケットからそれを取り出しかける。すると外にいた、白いワイシャツを着たオジサンは社員なのだろうか「もー、もー、もー」と顔をしかめて見せた。「表示は表示として、もうそんなものは必要ありませんから」という意味なのだろう。
脚マッサージ1時間と耳掃除を頼んで施術室への戸を引く。広い室内は、ほぼ満員の盛況。よくもまぁ、コロナを乗り切ったものだと思う。脚マッサージは250バーツ、耳掃除は350バーツ。チップはそれぞれに100バーツと50バーツ。
そこからサラデーンまではタニヤの小路を伝っていく。日本から持参したシーブリーズは使い果たしていたから、シーロム通りに出たところの薬局Bootsでアロエのクールジェルを買う。ついでに家内に頼まれた酔い止めも買う。その薬は日本製でも、日本では売られていないものだった。もうひとつ、タイで売られている薬は日本製のものであっても日本で買うより安い。
高架鉄道BTSを使ってサトーンの桟橋には16時50分に着いた。この時間になっても日差しは衰えない。17時10分の専用線に乗って、今日もコモトリ君の家へ行く。途中、アイコンサイアムの前庭に、草間彌生の巨大な南瓜を見る。夕食は、コモトリ君の手料理と焼酎のソーダ割り。
帰りのタクシーの運転手は、きのうに続いて優秀だった。95バーツのメーターに対して100バーツ札を手渡し降りようとすると「5、5、5」の連呼。「少しばかりのお布施」と答えると、彼は愉快そうに笑った。時刻は20時52分。部屋へ戻って歯を磨き、シャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 ラマ4世通りとSoi Saphan Khoの角のガオラオ屋のガオラオとゴハン
昼飯 “KAMOO BONKAI”のカオカームー
晩飯 コモトリケー君の家のたぬき奴と里芋の煮ころがし、獅子唐炒め、なめたけ奴、肉味噌の焼きそば、キンミヤ焼酎(ソーダ割り)
2023.4.22(土) タイ日記(5日目)
1時30分に目を覚まし、以降はずっと起きている。きのうの就寝が20時すぎだったことを考えれば、これで睡眠は充分なのかも知れない。
既にできているおとといの日記の「公開」ボタンをクリックする。続いてきのうの日記を完成させる。それでも時間は充分ある。首都で使う予定のたまり漬、また片山酒造の日本酒は、できるだけ長く冷蔵庫へ入れておきたいところだが、それも含めて荷作りを完了させる。
片山酒造の2本は、今日の夕刻に飲むことにしている。そうすれば、スーツケースには大分、余裕ができるはずだ。その空間を満たすのは社員への土産だろうか。しかしこの土産というのが僕にとっては厄介だ。買い物は苦手なのである。
6時45分にロビーへ降り、チェックアウトをする。1,000バーツのデポジットは、シャツや下着や靴下など計7点の洗濯代を引かれて200バーツが戻ってきた。団体客のものらしい沢山のスーツケースを載せたワゴンの脇に立つベルボーイに「7時にリムジンが来ます」と声をかけてスーツケースを托す。
やがて7時が過ぎる。先ほどのオネーサンにリムジンの予約票を見せ、どうなっているかを訊く。オネーサンがどこかに電話をしはじめる。そのうち団体客を送り出したベルボーイが外から戻ってきて、リムジンが待機している旨を僕に伝える。僕はリモアのスーツケースを曳くベルボーイに、グレゴリーのデイパックも預ける。リムジンはトヨタのカムリだっただろうか。ベルボーイには20バーツのチップ。
07:05 リムジンがホテルを出発。リムジンとはいえ運転手は下はジーンズ、上はチェックの半袖シャツ。両手首には数珠やらブレスレットがいくつも巻かれている。
07:28 警官による車体検査を経てハジャイ空港着。
07:30 持ち物をエックス線装置に通し、自分は金属探知の枠を抜けて空港内に入る。
07:35 チェックインを完了。
この空港では、機内預けの荷物をチェックインカウンターちかくのエックス線のコンベアまで自分で運び、自分でそこに載せる仕組みになっている。それをタイ航空の職員に教えられ、言われた通りにする。タイ南部ではときおりイスラム教徒によるテロ行為が起きる。それゆえの、警備の厳しさだろう。
マスクの着用率は、空港の職員は全員。それ以外の人たちも、ほぼ100パーセント。よって自分もザックからマスクを取り出し、それをかける。僕はノンポリだから、頑なにマスクを着けないなどの「思想の誇示」はしない。コロナ禍におけるマスクを、僕はドレスコードと考えている。であれば、まわりに合わせるだけのことだ。
保安検査場を抜けて2階の出発ロビーへ出る。しばらくすると、あれこれの宣伝を映し出していた大きなディスプレイが、これまでとはまったく異なる音を発し始めた。時刻は8時。とすれば流れている音楽は国王賛歌だろう。それが終わるまで起立をしていたのは、僕も含めて全体の5パーセントくらいだっただろうか。
ふと右手を見ると、壁に”Coral”と書かれたラウンジがある。ひょっとして僕の持つ”PRIORITY PASS”でも入れるところではないかと考え、そこまで歩いて受付のオネーサンにカードを差し出す。そして中級ホテルの朝食、といった程度のそれを食べる。これでリムジンの800バーツのいくらかは取り返した気分になる。
08:51 搭乗開始。
09:23 “AIRBUS A320-200″を機材とする”WE260(TG2260)”は定刻に18分おくれて離陸。
今日の首都の雲は低い。というか、初日の朝にも見た霞のようなものが大気に満ちている。
10:39 定刻に4分おくれてスワンナプーム空港に着陸。沖駐めのため空港ビルにはバスで運ばれる。空港の建物に露出配管によるかなり太いパイプが吊り下げられているのは、設計時には想定していなかった雨水対策だろうか。
11:40 着陸から1時間を経てようやく荷物が回転台から出てくる。
スーツケースを曳いて1階へ降りる。表示に従って外へ出てタクシー券を発券機から排出させる。その券の番号59に従って、タクシーの列の前を歩いて行く。やがて59番の枠に駐まったタクシーを見つけ、運転手に声をかけ、その後席に乗り込む。運転手は僕のスーツケースが機内持込サイズであることから、それをトランクではなく僕の座関の脇へ置いた。
「ラマ4世通り。ルンピニー」
「500」
「メーター」
「メーターならメータープラス100。OK?」
前回がいつだったかは覚えていないけれど、そのときも、運転手には初っぱなに「500」と言われた。最近、この手の運転手が少なくない。その場で降りて発券機のところまで戻る手もあるけれど、それも面倒なため同意をする。
僕は、人に心付けを手渡すことをむしろ好む。今回、タイに入ってから使ったチップは今朝までに1,010バーツ。しかし要求されて出すそれは、あまり気持ちの良いものではない。
ホテルのある通りの名は、Googleマップでは”Ngam Duphli”と表示をされている。これを棒読みしても、タイ人には通じないだろう。よって親指と人差し指で地図を拡大し、タイ語で表記されているピナクルールンピニーホテルにフラッグを立てる。しかしそれは分かりづらいらしく、運転手は自分のスマートフォンを取り出し、こちらでフラッグを立てるよう言う。しかしその地図は航空写真に設定され、しかもすべての説明はタイ語だから、とても分かりづらい。それでも何とかホテルを探してフラッグを立て、運転手に返す。
「1時間かかるね」
「ホント?」
「そう」
11:50 タクシーがスワンナプーム空港の駐車場から空の下に出る。運転手はGoogleマップを出したスマートフォンの他にもう1台を左手に持ち、誰かと会話を始めた。視線はそのスマートフォンに落としがちで、クルマは三車線の真ん中の、しかし右に寄りすぎて疾走する。僕はあらためて、シートベルトを締め直す。
最初の料金所が迫ったところで運転手に料金を求められ、25バーツを手渡す。しばらく行くと左手にランプが見えてきて、運転手はここで降りようかと身振りで示す。僕は「分からない」と答える。場所はフワマークのちかくだった。
12:11 バンカピのランプからラマ9世通りに降りる。渋滞がひどい。
12:21 マッカサンの交差点を左折。
12:30 アソークの交差点を南へ通過。ここで道が一気に空く。
12:35 クロントイでふたたび渋滞。
12:37 ラマ4世通りに入る。
ホテルへの小路の入口が見えてくる。運転手は「どんなもんだ」と笑顔で僕を振り向く。Googleマップがあるのだから、辿り着くのは当たり前である。ホテルへの入口を過ぎたところでクルマを駐めるよう、慌てて言う。メーターは345。運転手は「450」と叫び、外へ出て右側の扉を開け、僕のスーツケースを持ち上げた。こういうところだけは、タイの運転手は感心である。僕は財布から445バーツちょうどを取り出し「445」と運転手に叫び返す。運転手はおおらかに笑い声を上げた。時刻は12時42分。空港からは52分の行程だった。
チェックインをしつつ、できるだけ高い階をフロントのオバチャンに要求する。オバチャンは屋上プール直下の13階の一室をあてがってくれた。どうやらこのホテルにベルボーイはいないらしい。エレベータで13階に上がると、廊下の窓の一部が開いている。つまり廊下の気温は外気温とおなじだ。部屋は中級ホテルのそれ、いや、中の下、といったところだろうか。しかし僕は、この手のホテルが嫌いではない。落ち着くのだ。「使わないものは要らない」のである。
部屋からは、初代がガイヤーンの屋台から身を起こしたいう珍平酒楼が真正面に見下ろせた。その右手にはラマ4世通りが走っている。部屋の冷房はなかなか効かない。ここでもまた、部屋を自分の好みに作りかえる。
そんなことをしながらランドリーバッグと洗濯物の記入表を探すも、どこにも見あたらない。フロントに降りて訊くと、このホテルはランドリーサービスをしていないと、先ほどのオバチャンは言う。更に訊ねたところによれば、ホテルを出て右手の中華料理屋の隣に洗濯屋があるという。それならそれで好都合だ。
部屋へ戻り、きのうから今現在まで身につけていたシャツや下着、靴下をプラスティック袋に入れて外へ出る。洗濯屋はすぐに見つかった。洗濯屋は洗濯機1台で商売をする小規模なもので、留守番のオバーサンはタイ語しか話さない。オバーサンは洗濯物を計りに載せる。重さは500グラムと少々。オバーサンの指す、引き戸に貼られた「1kg 120B」の紙に従い、120バーツを払う。120バーツとは実に、今朝まで泊まっていたハジャイのホテルのTシャツ1枚の洗濯代よりも安い。左腕の時計を差し示しつつできあがりの時間を訊くと、オバーサンは21時のあたりを指した。僕は時計の文字盤をクルクルと丸くなぞり、理解はされないだろうけれど「明日の朝に来ます」と伝えた。
洗濯屋を出ると、その洗濯屋やホテルの前の道を奥へ進んでみる。1982年1月にバンコクからコロンボを経由してマドラスに飛ぶ航空券を買った”J TRAVEL & TRADING”が健在で、大驚きをする。1980年の1月だか2月に泊まったマレーシアホテルは、化粧直しがほどこされていたものの、建物は当時と変わっていなかった。何もかもが懐かしい。そしてすこし先まで足を延ばし、部屋に戻ってシャワーを浴びる。
さて同級生のコモトリケー君とは事前の打ち合わせにより、16時10分発の舟に乗ることとしていた。船着場までは大した距離ではないものの、渋滞が怖いからタクシーではなく、公共交通機関を使うこととして15時10分に部屋を出る。気温は昼のハジャイに劣らず高い。地下鉄MRTと高架鉄道BTSを乗り継いで15時51分にサパーンタクシン着。そこから徒歩で15時55分にサトーンの桟橋に着く。バンコクも、ここまで来れば川風が涼しい。コモトリ君の住むコンドミニアムの舟は、16時14分に桟橋を出て、16時23分にコンドミニアムに横付けをされた。
今回の旅のもっとも大きな目的は、2020年4月30日に急逝したカタヤマタカユキさんの蔵のお酒をバンコクへ持参し、カタヤマさんの高等学校の同級生で、パタヤに住むカトリアキナリさんとそれを飲む、というものだった。世の中は狭いもので、コモトリ君はカトリさんの大学の先輩に当たる。そしてまた偶然にも、カトリさんが指定してきた店は、コモトリ君の家とはチャオプラヤ川を挟んだ目と鼻の先だった。
17時すぎの舟で対岸に渡る。バンコクの典型的な下町、いや、それ以上に込み入った細い道を、オートバイやクルマを避けつつ歩く。そして”RIVER VIEW RESIDENCE”という小さなホテルの8階へ上がる。そこは”RIVER VIBE”というレストランで、見晴らしは最高に良い。間もなくここに泊まっているカトリさんが姿を現す。先ずは4合瓶を、コモトリ君が頼んだアイスバケットで冷やす。そして日本に帰ったらパウチをしてカタヤマさんのお母さんに手渡すべく、夕陽を背に写真を撮る。冷えた「初代久太郎」は僕よりも、カトリさんの心に、より沁みただろう。
舟が迎えに来るシープラヤの桟橋に立つと、サトーンの方角に花火が上がり、それはしばらく続いた。カトリさんもコモトリ君の家に同行し、ここではおなじ片山酒造の焼酎「粕華」をソーダで割って飲む。応接間の大きなテレビからは、マイルス・デイヴィスの”Jack Johnson”が流れている。バンコクの夜が更けていく。
「こちら岸」のタクシーも「あちら岸」のタクシーも、チャオプラヤ川をまたいでクルマを走らせることを嫌う。コモトリ君とカトリさんは「300バーツ」などという運転手をジャルンナコン通りで幾人かやり過ごした後、ようやくまともな1台を見つけてくれた。ホテルに着くとメーターは105バーツ。120バーツを出すと若い運転手は「ノーノーノー、100」」と驚くべきことを口にした。仕方なく100バーツ札は手渡し、20バーツ札は彼のシャツの胸ポケットに無理やりねじ込んだ。中にはこういう運転手もいるのだ。
部屋へ戻ったのは22時26分。その記憶はiPhoneに残した画像による。以降については何も覚えていない。
朝飯 ハジャイ空港コーラルラウンジのあれこれ、コーヒー
昼飯 “WE260(TG2260)”の機内軽食
晩飯 “RIVER VIBE”の燻製鴨のサラダ、ソムタムパラー、マッサマンカレー、ローティ、「片山酒造」の「初代久太郎純米大吟醸」
2023.4.21(金) タイ日記(4日目)
隣の部屋が宴会をしている。マレーシア人だろうか、あるいは中国人だろうか。時刻を確かめる気力はない。壁越しの声は、しかしふと気づくと止んでいた。各々、自分の部屋へ戻ったのだろう。
眠れたのか、眠れなかったのか、上半身を起こして枕頭のデジタル時計を確かめる。時刻は3時6分だった。きのうやおとといのように、即、寝台を降りる気にはならない。5時をまわってようやく起床する。
あしたバンコクへ飛ぶ便は、航空券を手配した昨年末から二転三転して、9時5分発のタイスマイル航空が確定した。国内線とはいえフライトの1時間前には空港に着いている必要がある。ということは、ホテルを出発すべきは7時、あるいは7時30分。ということで、今朝は6時に外へ出てみる。
シーローの勤勉な運転手は、朝の薄暗い光の中で車体を磨いていた。しかしシーローが空港まで行ってくれるものだろうか。バスステーションには空港行きのソンテウが駐まっているとのことだが、ザックを背負い、スーツケースを曳いてバスステーションまで歩く気はしない。ホテルからバスステーションまではシーロー、バスステーションから空港まではソンテウ、そんな二度手間も面倒だ。ここはやはり、高くついてもホテルでタクシーを手配してもらった方が安全ではないのか。そう考えつつ部屋へ戻る。
朝食はカオマンガイ。お運びのオニーチャンに100バーツ札を差し出す。オニーチャンは調理台のオバサンにそれを手渡す。オバサンがオニーチャンに釣銭を返すと、オニーチャンは「えっ」という顔をする。オバサンは「いいんだよ」と目でオニーチャンに伝える。多分、正規の料金は60バーツなのだ。しかし注文時に僕は血豆腐を特盛りにするよう頼んだ。15バーツは多分、その増量分なのだろう。
今日はきのうより早くプールへ行ける。しかし首、胸、腹、太腿の日焼けは今日も真っ赤なままだ。日陰にいつづけてこの有様なら、一体全体、どうすれば良いというのか。
プールの受付には、きのう二言三言を交わしたオネーサンがいた。そのオネーサンに大型のタオル2枚をもらう。デッキチェアの1台を庇の下の日陰に引き込む。1枚のタオルはそこに敷き、1枚は掛け布団のようにしてからだを覆う。日陰にいながら手ひどく日焼けをするとは、肌がよほど衰えたということだろうか。プールサイドには9時59分から13時33分までいて「輝ける嘘」は182ページまで進んだ。
部屋に戻り、シャワーを浴び、Tシャツとタイパンツを身につけ外へ出る。通りを東へ歩きつつ、数日前に調べておいた、昼を過ぎても鍋の火を落とさない豚足屋でカオカームーを注文する。この街の軽食堂は、首都にくらべてひと皿、ひと椀の量がすこし多いような気がする。価格は60バーツだった。
部屋に戻ったら、またシャワー。タイにいると、1日に何度シャワーを浴びたか、紙に記録でもしない限り、分からなくなる。しばらくは寝台で本を読む。それから明日の出発に備えて、すこしばかり荷作りをする。明日の朝は日記を書く時間などはないだろう。よって今日のうちに、少しずつ書き足していく。
16:40 きのうに続いて雷が聞こえ始める。
16:49 空は青いまま、原色の街に驟雨が落ちてくる。
16:59 テレビがいきなり点き、wifiは切れる。
17:05 wifiが復旧する。日記は書いたところまで保存されていて助かった。
17:22 部屋の灯りに、点くものと点かないもののあることに気づく。一部の回線は切れたままなのだろうか。ドアを開くと廊下も薄暗い。
17:29 部屋の全電源が復旧する。廊下も明るさを取り戻している。
17:37 雨が上がる。
ロビーへ降り、初日にチェックインをしたときのオネーサンにタクシーの手配を頼む。スーツのオネーサンは自分より上級職なのだろうか、民族衣装に似せた制服を着た女の子を連れてきた。フライトは9時5分と伝えると、フロントの二人は話し合って、出発は7時が望ましい、ということになった。クルマはホテルのリムジン、料金は800バーツと伝えられて「ゲッ、高けぇ」と驚く。
800バーツは、タクシーなら首都の空港と市中心部を往復できる金額だ。おなじく首都の空港から南下をすれば、シラチャまで行ける金額だ。「もうすこし安いのないの」と訊くと女の子は当惑しながら微笑んだ。「金で買える安心、安全は買っておけ」と言う人は少なくない。腹を決めて1,000バーツ札を財布から取り出す。
さて、これからハジャイへ行こうとして、検索エンジンからこの日記に辿り着く人もあるだろう。センタラホテル周辺の繁華街には、小さな旅行代理店がいくつもある。そこで予約をすれば、タクシーはもうすこし安く手配できるかも知れない。朝、クルマを磨いているシーローやソンテウの運転手に声をかければ、まさか空港まで800バーツとは言わないだろう。ただし乗る場所は荷台のベンチである。
夕食は初日の晩とおなじ店へ行く。今日は時間が遅かったためか、また金曜日の夜ということもあるのか、店は大繁盛だった。一人にもかかわらず10人でも座れる丸テーブルに案内されたため「単独の客が来たら、ここで相席にしても構わないから」と、お運びの女の子に伝える。ソーダと氷と料理ふた品の代金は240バーツ。釣りの60バーツは男の店員に渡した。
きのうかおとといも書いたことだが、この街は本当に、夜は涼しくなる。インドシナの最暑期は4月、ということを忘れさせる心地よさだ。
部屋へ戻り、明朝5時30分の目覚ましをiPhoneに設定して、20時すぎに就寝する。
朝飯 「楽龍福」のカオマンガイ(血豆腐はたくさん入れてね特注)
昼飯 Tanon Saneha NusornとTanon Chi Uthitの交差点南西角の店のカオカームー
晩飯 「勿洞大人饭店 」のベトン風蒸し鶏、ヤムタレー、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)