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清閑 PERSONAL DIARY

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2020.3.11(水) 春

00:02 “BOEING 777-200ER”を機材とする”TG682″は、定刻に17分おくれてスワンナプーム空港を離陸。
03:44 あたりが急に明るく賑やかになった気配で目を覚ます。
03:47 朝食の配膳が始まる。機内食は、最近は真ん中の大きな器にはほとんど手を付けない。
04:00 機は九州南部の東洋上を飛行中
04:45 機が千葉県の最南端をかすめて東京湾の上空に入る。

“TG682″は、定刻より6分はやいタイ時間04:49、日本時間06:49に羽田空港に着陸。以降の時間表記は日本時間とする。それにしても、低い搭乗率の便だった。

07:18 入国審査場を通過
07:27 回転台で荷物が運ばれてくる
07:47 羽田空港国際線ターミナルから京成高砂行きの電車に乗る。
08:51 人形町で乗り換えて北千住着。
09:12 下り特急リバティが北千住を発車。
10:42 下り特急リバティが下今市に着。

下今市駅のプラットフォームから外へ出ると、空気はすっかり春のそれに変わっていた。駅からは歩いて帰宅をして、着替えをしないまま、10時30分から始められていた場長会議に加わる。

14:46 4階の食堂にいて、遠くから渡り来るサイレンの音に気づく。しばし、その場に立ちつくす。


朝飯 “TG682″の機内食「小諸蕎麦」のたぬき蕎麦
昼飯 ラーメン
晩飯 しもつかり、胡瓜のぬか漬け、らっきょうのたまり漬、白菜と豚肉団子と春雨の鍋、麦焼酎「むぎっちょ」(お湯割り)、羊羹、”Old Parr”(生)


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2020.3.10(火) タイ日記(9日目)

「キュウィッ、キュウィッ」と啼く鳥の名前は何だろう。その声は「ホウイッ、ホウイッ」と聞こえるときもある。いずれにしても、おなじ種類の鳥だろう。時刻は3時24分。この鳥は、日の昇る前から啼く。昼も啼くから、夜行性というわけではない。

時刻を確かめるため見るiPhoneの画面には、このところは多く、ダウ平均株価の乱高下を伝えるニュースが現れる。先週までの下げは、長く続いた官製相場の揺り戻しと思われる。しかし今週からのそれは明らかに、新型コロナウイルスが作り出した社会不安によるものだ。

窓の外が明るくなりつつある、6時すぎより荷造りに取りかかる。荷造りは、小一時間ほどで完了した。来たときより減ったところに社員への土産を納め、重さは多分、来たときと同じ10キロ前後。ひとり公共の交通機関を使いながらの旅なら、これくらいの重さが僕には限度だ。

朝食を済ませるとすぐに、プールサイドへ降りる。そしてきのうより読み始めた本を開く。パンツは濡らしたくないから、今日は泳がない。

となりの寝椅子に、孫娘を連れた、白人のオバーサンが来る。オバーサンは、ローレンス・サンダーズの大きく分厚い本をたずさえている。しかし3、4歳の活発な孫を伴っていては、とてもではないけれど、本を読むことはできないだろう。

オバーサンは僕を気にして、静かにするよう、しきりに孫に声をかける。女の子はそのうち、プールの中からオバーサンに水をかけ始めた。親でもなければ、オバーサンも、それほど強くは叱れない。

日除けの傘と、プールサイドに植えられた樹木のあいだに太陽が顔を出す。やがて僕の全身を、直射する光が焦がしはじめる。暑い。そして眩しい。しかしここで寝椅子を離れれば、僕が孫娘を嫌って移動をしたと、オバーサンは考えるだろう。

「マダーム」
「私のことですか」
「太陽の光がきつくなり始めました」
寝椅子を指す僕に「確かに暑いわね」と、オバーサンは同意をする。
「ですから僕は、あちらの日影に移ります。どうぞお楽に」
「どうも有り難う」

プールサイドのバーの時計が11時になりかかるのを認めてから寝椅子を離れる。からだは汗に覆われている。上半身にタオルを巻き、その上にシャツを巻き付ける。こうしておけば、裸でロビーを横切ったことにはならなないだろうという、僕の勝手な解釈である。

シャワーを浴び、水着とゴム草履をスーツケースに収めるなどの、最後の荷造りをする。パスポートや現金の扱いには、特に注意をする。必要な金額のみをサイフに収め、フロントに降りてチェックアウトを済ませる。このホテルのそれが特に高いわけではないけれど、クリーニングの代金は、ウドンタニーの洗濯屋の10倍だった。スーツケースとザックを預けて外へ出る。

現在時刻は12時15分。それに対してタイ航空機の出発時刻は23時45分。

先ずはsoi8まで歩き、エイトトンローの正面、セブンイレブンに向かって右手の、建物と建物の隙間に店を出すガオラオ屋に入る。トンローにいながら、この店に寄らないわけにはいかない。ガオラオは数年前に5バーツだけ上がって40バーツ、大盛りは45バーツになった。

昼食を済ませ、トンローの大通りを、クルマやオートバイを避けつつ横断する。目と鼻の先のセンターポイントグランデのロビーを奥まで歩き、エレベータを5階で降りる。そしてそこにあるLet’s Relax Spaの扉を押す。ここは日本にあるサウナ風呂の高級版だ。入浴料は700バーツ。受付の女の人が体温計を僕の額に向ける。僕は熱いスープを胃に収めたばかりで、しかも炎天下を歩いて汗をかいている。「あー、まずい」と一瞬、心配しかけたものの、体温は36.6度で、無事に入店を許される。

土曜日の現地紙は、バンコク最大の国鉄駅フアランポーンを、防護服に身を固めた職員が消毒する様子を載せていた。金曜日、空港からエアポートレイルリンクに乗る際に、僕は改札口で警備員に体温を測られた。そして今回の検温である。今、日本の駅で、プラットフォームを消毒しているところはあるだろうか、あるいは日本のスーパー銭湯やスポーツジムで、入場前に客の体温を測っているところはあるだろうか。

Let’s Relax Spaの造作は、まるで007の敵スペクターの秘密基地のように立派だった。しかし客は僅々5名。その空き具合もあって、風呂上がりに休む部屋の快適さは最高。本を持ち込んだものの、それを読める明るさではなく、しばし昼寝をする。いや、しばしよりは長かった。

いささか寝過ごして外へ出る。昨年トンローに滞在した6月にくらべて、どうも赤バスの本数の減った気がする。しかも渋滞が始まっている。ここからトンローの駅までは1キロ弱。汗はかきたくない。小さな接触事故でも死の可能性のあるモタサイはできるだけ避けたいものの、便利は便利だ。これを使ってsoi1のちかくまで、ほんの1、2分で移動する。そしてホテルに預けておいたふたつの荷物を引き上げ、駅のちかくで2時間のマッサージを受ける。

トンローから空港へ向かうときにはいつも、スクムビット通りに面した55ポーチャナーで、オースワンを肴に飲酒活動をする。今日も外の席に着き、オースワン、ソーダ、バケツの氷、そしてプリックナムプラーを頼む。

「弱くなったんだから、もう、あんまり飲まない方がいいよ」とは、このところ家内にたびたび言われることだ。それが頭にあって、ホテルの部屋を出るときには、ラオカーオは小さな空のペットボトルの半分ほどまでしか入れなかった。そのラオカーオが見る間に減っていく。

帰国便の時刻は先週の水曜日に、23:15発が23:45発に変更されている。「ラオカーオの残りは少ないけれど、あとひと品、頼むか」と、何年も前から外を担当している、金色に染めた髪を妙な具合に束ねたオバチャンに、メニュを持って来てもらう。そして昨年だったか、店内にいる現地の客が食べていて羨ましかった、豚の内臓の煮込みらしい写真を見つける。メニュのタイ語を読んでもらうと「サイフォロー」とオバチャンは言った。その発音はまた「サイパロー」と聞こえないこともない。とにかく”Crispy pork’s stomach”と英語の添えられたそれを注文する。

席に届けられたそれは豚の胃袋ではなく、小腸の煮込みだった。いずれにしても、この手は大好物である。残り少なくなったラオカーオは、2本目のソーダで薄く割った。

21:01 BTSスクムビット線とエアポートレイルリンクを乗り継いでスワンナプーム空港に着く。
21:39 ちょっとした列に並んで搭乗手続きを完了

混んでいたのはタイ航空の一部のカウンターのみで、空港内は、これまで見たこともないような、人の少なさである

21:54 保安検査場を通過
22:02 出国審査場を通過

旅の初日、僕の、マツモトキヨシの破れたプラスティックバッグを見かねて、マッサージのオバチャンがセブンイレブンのエコバッグをくれた。搭乗ゲートへ向かう途中の”DEAN & DELUCA”が売るトートバッグには、セブンイレブンのそれの、60数倍の値札が付いている。「バカ、あたりめぇじゃねぇか」と嗤う人もいるだろう。しかし僕の趣味からすれば、セブンイレブンのそれの方が、いかにも格好良く感じられてならない

22:20 E1Aの搭乗口に達する。途中、僕でも入れるラウンジはあった。しかしそこで眠り込んでしまうことが怖いから、使うことはしない。
23:08 周囲に人の動く気配で目を覚ます。どうやら搭乗が始まったようだ、そしてバスに運ばれた先で飛行機に乗り込む


朝飯 “SALIL HOTEL”の朝のブッフェ其の一其の二
昼飯 エイトトンロー正面のセブンイレブン右手のガオラオ屋のガオラオ(大盛り)
晩飯 “55 Pochana”のオースワン豚の小腸の煮込みラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2020.3.9(月) タイ日記(8日目)

2日間のバンコクMGを終え、先週の木曜日までとおなじ「何もしなくてもよい日」が戻ってきた。朝食も、いつもより時間をかけて摂る。バンコクに来て以来、天気はずっと晴れ。日影にいれば、汗はかかない。プールサイドへ降りようとしながら、部屋であれこれするうち10時を回る。時間がここまでくれば、先ずは買い物を済ませたい。タイでは法律により、酒類は、昼間は11時から14時までの3時間にしか買えないのだ。

ホテルからトンローの駅までは、徒歩で5分ほどエカマイまではBTSでひと駅。運賃は16バーツ。

僕の最も好きなラオカーオ”BANGYIKHAN”は、バンコクではパタデパートでしか目にしたことがない。しかしこの店のあるピンクラオは、市の中心からは、いささか遠い。タイ料理の好きな人の集まるSNSでそのことを伝えたところ「トンローに滞在するなら、ゲートウェイエカマイ1階のマックスバリューで手に入る」と教えてくれた人がいる。

初めて足を踏み入れるゲートウェイエカマイの2階には、日本の食べ物屋ばかりが軒を連ねていた。エスカレータを降りてスーパーマーケットらしい一角を探す。いまだ11時前にて、酒類の棚には鎖が巡らされていた。よって時間までは、他の売場を見てまわる。ちなみにタイでは、スーパーマーケットでも市中でも、マスクは売り切れていない。

“BANGYIKHAN”は、首尾良く手に入れることができた。トンローの駅からホテルへ帰るあいだに昼食を摂り、社員への土産を買う。部屋に戻ってシャワーを浴びると時刻は12時25分。冷房を回してしばし休む

午後はプールサイドに降りて本を読む。泳げば水温は高く、とても気持ちが良い。ホテルのオネーサンが注文をとりに来る。メニュを頼んでざっと眺め、西瓜のジュースを注文する。そしてこの旅で2冊目の本を百数十ページほどもこなしたところで寝椅子を離れる。

夕刻はBTSに乗ってサラデーンへ行く。腹はそれほど空いていない。しかしそれでは夕食が美味くない。”FOOT 150″と大書したマッサージ屋でフットマッサージを1時間だけ受ける。それにしても”FOOT 150″とは、どういう意味だろう。マッサージの料金は250バーツ。「サバイディーマイ、シャチョー」と、キャッシャーのオバチャンに声をかけられる。このあたり、つまり日本の企業戦士の慰安のために発達した盛り場では、若い男は「オニーサン」、一定以上の年齢の男は「シャチョー」と呼ばれる。いまだ昭和が生き残っているのだ。揉んでくれたオニーチャンには100バーツのチップを手渡す。

さて今夜の食事場所は珍平酒楼。入口に立つ案内のオジイサンや客席の様子は、古き良き時代の香港を僕に思い出させた。それにしても、そしてすべての店で可能なわけではないけれど、香港以南の、飲物を持ち込める料理屋は有り難い。いまだ外の明るいうちから夕食を摂るということも、何やら日本の夏のようで気分が良い

ホテルに何時に戻ったかは、記録していない。もちろん、そう遅い時間ではなかったと思う。


朝飯 “SALIL HOTEL”の朝のブッフェ其の一其の二
昼飯 「東明」のバミーヘン
晩飯 「珍平酒楼」のガイヤーンスッキーヘンラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2020.3.8(日) タイ日記(7日目)

メイドへのチップ40バーツを枕元に確認して部屋を出る。

このホテルに入ったおとといは、部屋の、冷蔵庫の頭上の明かりの消し方が、どうにも分からなかった。しかたなく隣の部屋を掃除中のメイドを呼び、スイッチの場所を訊いた。果たしてそれは、冷蔵庫の上の電子レンジを横にどけた奥にあった。僕は用意しておいた20バーツ札を、その黒く小さく乾ききったオバチャンに差し出した。「こんなささいなことで、チップなどは、とてももらえない」と身振りで断るオバチャンの手に「まぁまぁ」と、その20バーツ札を押しつけた。オバチャンは「コップンカー」と、手を合わせて元の仕事に戻った。

コーヒーは、高いスターバックスを避けて屋台で買う。そういうところはケチなくせに、チップについては、これを払わないことには何とも気が済まない。きのうの全支出165バーツのうち、140バーツはチップである。

今日こそは赤バスに乗って、soi10のMG会場を目指す。外資系や「意識高い系」の喫茶店のそれとは異なって、タイの飲物屋台のコーヒーは、はじめから強烈に甘い。海外へ出ると、先ずは朝食のコーヒーに砂糖を入れる。そこに屋台のコーヒーを加えれば、摂取する砂糖は大変なものになる。今朝もsoi10の会場へは早めに着いたが、きのうの屋台でコーヒーを買うことはしなかった。

ところで僕は、MGはほとんど、ニシジュンイチロー先生によるものしか受けない。それは自分の、源流至上主義による。バンコクMGの講師タナカタカシさんは、自らが講師になっても、ニシ先生の下での勉強を欠かさない。タナカさんの講義は、いつも明快である

さて、盤上に2日間で5期分の経営を展開するMGに「勝者こそ尊い」という考えは無い。しかし勝負であれば、表彰のあった方が、参加者の励みには、なる。表彰は、来期への備えを充分にした上で、到達自己資本の高かった順にされる。今回の最優秀経営者賞は、長崎県から参加したヤマモトジョージさんが588円で優秀経営者賞は静岡県から参加のオガワヨーコさんが493円でまたおなじく静岡県から参加のウチヤマリョーイチさんが461円で、それぞれ得た。

夜に極端に弱いことによりバンコクMG1日目の交流会には出ないと、きのうの日記に書いた。しかし2日目の、早く始まり早くにお開きになる交流会には参加をする。場所はいつも、トンローsoi10を東へ歩けばすぐのイサーン料理屋だ。

今回のバンコクMGは、折からのコロナ騒ぎのあおりを受けて、現地法人から申し込んでいた方々は、ほどんどすべて参加を自粛した。日本からも、飛行機の減便を受けて、泣く泣く参加を諦めた人もいる。そのような中で開催にこぎつけてくれた主催者、事務局には、厚く御礼を申し上げたい

ラグビー日本代表の田村優にそっくりで、きびきびと動き、しかも接客の好きなことがありありと見て取れるオニーチャンには100バーツ、「そのお客さんは濃い目だよ」と、僕の酒の好みを覚えて、お代わりを作ろうとした女の子に指示を飛ばしたオバチャンには50バーツのチップ。交流会は、19時30分に中締めをされた。

僕はひとり集団を離れ、エカマイの通りを北へ歩く。そしてsoi10からトンローの通りに出て、今度は南を目指す。ときおり後ろを振り向くも、赤バスはいつまでも来ない。とうとうsoi1まで歩き通す。そして部屋へ戻って、先ずは湯船に湯を溜める。


朝飯 “SALIL HOTEL”の朝のブッフェ其の一其の二其の三
昼飯 バンコクMGで支給の弁当
晩飯 “Sabai Jai Kai Yang”のソムタムタイパークペットードパックブンファイデーンプーパッポンカリーサイクロークイサーンカオパックン、他あれこれ、“Sang Som”(ソーダ割り)


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2020.3.7(土) タイ日記(6日目)

その初回にお邪魔をし、以降、その6月の部に参加をしてきたバンコクMGは、今回で丸4年、第16回目を迎える。トンローsoi10のメジャータワーにある会場には、朝9時に入れると記憶をしていた。遅れてはいけないと、8時20分にホテルを出る。

トンローの大通りの範囲内なら、どこから乗ってどこで降りても8バーツの便利な乗り物が赤バスだ。これが来たら飛び乗ろうと、後ろを振り返りつつ歩くうち、遂にトンローsoi10まで来てしまう。時刻は8時30分。関係者の姿はいまだ見えない。

トンローは、バンコクでは洒落た通りと言われている。ちかくにスターバックスコーヒーのあることは知っている。しかしタイに来ながら星鹿印もないだろう。値段も高かろうと思う。すこし先の小路に店を出す、何年か前にも来たことのある飲物屋台で冷たいコーヒーを買う。価格は25バーツ。ふたたびメジャータワーに戻り、外でこれを飲みつつ誰かが来るのを待つ。

マネジメントゲームの初日の夜には交流会が催される。しかし僕は、夜には極端に弱い。おととしから、僕はその交流会には出ないようになった。会場へ向かいつつある一行とは、soi10のドンキホーテの前で別れた。そこに間もなく、バンコク在住の同級生コモトリケー君が到着をする。そして彼の会社のクルマでルンピニーまで移動をする。

コモトリ君はタイの国柄やタイ人の人柄は愛するものの、タイの料理はそれほど好まない。今夜はイタリア料理屋でご馳走になってしまった

ホテルには、来たときのクルマで送ってもらった。そのあいだコモトリ君は、イタリア料理屋の隣のマッサージ屋でひと休みである。

トンローsoi1に近づいたところで速度を落とす運転手に「左に曲がってください」と案内をする。運転手は薄暗いsoi1にゆっくりと黒いワゴン車を走らせる。「真っ直ぐ、真っ直ぐ」と指示し、ホテルの前まで来たところで停まるよう言う。運転手には100バーツのチップ。

湯船に溜めた湯の中でくつろぎ、涼しい部屋で明日の準備をする。そのときやおら、隣の部屋が騒がしくなる。複数が声高に話し、部屋の戸を強く開け閉めし、更には壁に体をぶつけたりする。白人の騒がしさには、独特のものがある。

何度か廊下を覗ううち、遂に彼らの姿を捉える。「静かにしろ、眠れねぇ」と、強く抗議をする。時刻は21時20分。彼らはすぐに、静かになった。


朝飯 “SALIL HOTEL”の朝のブッフェ其の一其の二
昼飯 バンコクMGで支給の弁当
晩飯 “Lido”のカプレーゼポルチーニのリゾット槍烏賊のフリットカラフの白ワインコモトリ君が持ち込んだ”Tanqueray”(生)


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2020.3.6(金) タイ日記(5日目)

「人生も、半分が過ぎたと思うと寂しい」と、僕が2歳のときに入社をして、44年のあいだ勤めてくれたヒラノショーイチさんは言った。人生の半分が過ぎても、寂しいという気持ちは、僕には起きない。旅の日程の残りが半分を切ったときにこそ、僕は寂しさを覚える。本日は、今回の旅の中日にあたる。

5時45分にロビーに降りる。「いまチェックアウトをすると、6時からの朝食は食べられませんか」と、フロントのオニーチャンに訊く。「大丈夫です」と彼の答えるのを待ってからチェックアウトを頼み、また空港までの、6時15分発のシャトルバスを予約する。時刻は5時55分。「もう入れます」と、オニーチャンは食堂の入口を指し示してくれた。

フロントのオニーチャンには、気を利かせてもらって助かった。6時14分に食堂を出る。ベルボーイが僕のスーツケースを、ポーチに駐められたワゴン車まで運ぶ。チップは20バーツ。オニーチャンはそのまま運転席に着いた。雨が弱く降っている。ワゴン車は来たときのバスとは異なって、裏道を抜け、空港には僅々10分で着いた。スーツケースを降ろしたオニーチャンに、更に20バーツのチップを手渡す。

「シャトルバスの本数が少なすぎる。よって自分は150バーツをかけて、トゥクトゥクで空港へ向かった。バス代がただになるからこそ決めた宿だっただけに、納得がいかない」と、ホテルの予約サイトのレビューに書いた人がいる。

人にはそれぞれ行き先がある。空港からは何本もの便が飛ぶ。各々の都合に合わせて都度、ワゴン車を出していたら、無料は維持できなくなる。ホテルの客は、あなただけではないのだ。ほんのすこし頭を巡らせれば分かることを分からない人が、世の中にはたくさん、いる。

06:30 係員のいるカウンターはノックエアのそれのみ。よって空港ビルの中を、増設された新しいターミナルBまで移動をして、より座り心地の良い椅子で本を読む。
07:05 タイスマイル航空の搭乗手続きを完了。搭乗口は1番、搭乗時刻は8時25分。
08:41 搭乗開始
09:00 “AIRBUS A320-200″を機材とする”WE003″は、定時にウドンタニ国際空港を離陸

09:42 バンコクが近づいたことを示す、細長い農地が見え始める
09:53 “WE003″は、定刻より12分はやくスワンナプーム空港に着陸。
10:22 回転台から荷物が出てくる

僕の考えるところ、それは新型コロナウイルス禍によるものではない、これまでが高すぎたゆえに、アメリカや日本の株価は暴落、その後は低い位置での乱高下を繰り返している。その相場を上げるため、また諸々による景気の悪化を避けるため、アメリカは利下げをした。それにより、米ドルに対して円が高くなっている。

空港ビル地下1階に集まる両替所では、各店、月曜日の1万円あたり2,880バーツから、今朝は1万円あたり2,960バーツになっていた。それを見て、日本円の入った封筒から紙幣のすべてを取り出し、空いている”VALUE PLUS”でタイバーツを買う。日本円の残金は589円。PASMOを紛失したら、家には帰れない。

エアポートレイルリンクの改札口で、警備の兵士に体温計を額に近づけられる。体温は36.3度。ちかくに置かれたプッシュポンプ式のアルコールを、手の平と甲に擦り込む。

10:47 エアポートレイルリンクの車両が空港駅を発車。間もなく日本から電話が入り、次のラックラバンで下車する。ウドンタニーは雨がちで肌寒かった。一方、バンコクは晴れて、素晴らしい暖かさだ。
11:02 電話を終えて、2本後の車両に乗車する。「マイペンライ」の国民性を持つタイ人にもかかわらず、およそ8割が、車内ではマスクを着用している

終点のパヤタイで、BTSのスクムビット線に乗り換える。車内では、車両やプラットフォームを消毒する動画が流されている。僕も今回は、現地の人に不安感、不快感を与えないよう、公共交通機関の中では、マスクを付けるよう心がけている。

トンローの駅から徒歩5分のホテルには、昼前に着いた。ロビーに置かれた外気温度計は、33度を示している。トンローには、いまだ緑が多い。部屋の窓からも、それが望めて気分が良い

このところ、個人による旅先では昼食を摂らない。しかし今日は早朝から移動をしたせいか、腹が空いている。部屋を出て裏道を辿り、スクムビット通りまで出る。そしてsoi49のパクソイからプロンポン方面に30メートルほどいったメシ屋で汁麺を食べる。いつ来ても、上出来の汁麺だ

15時より17時までは、ホテルのプールサイドに降りる。そして旅の初日から読み始めた、石川文洋の「ベトナムロード」を読み終える。

それはさておき、ウドンタニーで3日つづけて受けたオイルマッサージの、油が肌に合わなかったか、強く擦られ揉まれた太股とふくらはぎに湿疹ができた。日本から持参した薬はまったく効かない。検索エンジンで調べたところ、それは帯状疱疹の薬だった。よってトンローの駅からBTSでふた駅を移動し、アソークのブレズ薬局で塗り薬を買う。価格は45バーツ。

トンローに戻ると時刻は18時10分。駅の歩道橋からスクムビットsoi38を見おろす。ここに屋台のひしめいていた時代を、僕は知らない。歩道橋を降りて、目と鼻の先のフカヒレ屋の2階に上がる。バンコクMGの主催者および参加者の一部は、既にして前夜祭を始めていた。その中に僕も混じり、2時間ほども歓談をする。

前夜祭を終えた面々は、三々五々、それぞれの目的に応じて移動をしようとしている。「講師を務める朝は、3時に起きて準備をする」というタナカタカシさんと、夜にからきし弱い僕は、ホテルに直帰である。soi15のホテルまで赤バスを使うタナカさんを見送ってから僕は、ひとり歩きの女の人なら恐がりそうな、薄暗いsoi1に入る。

ホテルに戻ったのは、20時30分のころと記憶する。シャワーを浴び、冷房の電源と部屋の明かりを落として即、就寝する。


朝飯 “The Pannarai Hotel”の朝のブッフェ其の一其の二其の三“WE003″の機内食そのコーヒー
昼飯 「東明」のバミーナム
晩飯 「スクンビットシャークフィン」の焼売クンオップウンセンナマコの牡蠣油炒めフカヒレの玉子炒めフカヒレスープカオパップー、ビール、「サントリー角瓶」によるハイボール


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2020.3.5(木) タイ日記(4日目)

きのうと同じく、いまだ日の改まっていないうちに目を覚まし、長い夜を過ごし、眠れたのか眠れなかったの判然としないまま早朝に起き出す。今朝もまた雨が降っている。気温も、プールサイドに降りる気などまったく起こさせない低さである。

「蚊が入るから常に閉めておけ」との注意書きを無視して、部屋からベランダに出るガラス戸を開け放つ。僕の知るタイの雨は、降ってもすぐに止む。しかし今日のそれに限っては、いつまでも上がらない。旅の荷物の一覧表には「傘」と入力してあるものの、それを持参したことは一度も無い。今日は部屋で本を読むしか、過ごしようはないのだろうか

午前、コンピュータのメーラーを巡回させながら、宇都宮の旅行社からメールの入っていることに気づく。「バンコクからの帰国便に、フライトスケジュールの変更が生じた」というのが、その内容だった。往路は機材の変更、そして復路は時間の変更である。新型コロナウイルスによる世界規模の混乱は、いつ収まるのだろう。

明朝、バンコクへ飛ぶ飛行機の出発時刻は9時。空港へは、この街に入ったときと同じ”UDON CITY BUS”を使おうと考えていた。しかしきのうも今日も、朝は雨だ。もし明日も雨とすれば、センターンちかくの停留所まで、スーツケースを曳いて歩くわけにはいかない。フロントに降りて、カウンターに置かれた時刻表を見る。朝の便は6時15分。食堂が開くのは6時だから、朝食を摂るひまも無い。あるいは、トーストとコーヒーくらいなら、食べられるだろうか。

フロントから戻る途中、4階の廊下にメイドを呼び止め、部屋の掃除を頼む。彼女がリネン類を取りかえ床を掃き、またモップをかけるあいだは、邪魔にならないよう、安楽椅子で本を読んでいた。チップは汁麺1杯分の40バーツ。

雨は正午を過ぎてようやく上がった。どこかに喫茶店はないか。本を手に外へ出る。しかし思うような店は見つからない。”Pho Si Road”をかなり遠くまで歩いてから、商売は朝のうちに終えてしまったのだろう、ひとけのないタイイサーン市場の中を抜けてホテルに戻る

薄日が差してきたのをしおに、プールサイドに降りてみる。しかしやはり、上半身はだかでいられる気温ではない。キリの良いところまで読んでしまおうと考え、しばらくは本を開き活字を目で追い続けたものの、やはり寒い。1時間ほどで引き上げ、きのう出した洗濯物を洗濯屋へ取りに行く。そして以降の時間は荷造りに充てる。

18時が近づくころに外へ出る。駅前の、目抜き通りを隔てて北側にあるのが、初日と2日目に夕食を摂った”NIGHT PLAZA”、そして南側にあるのが”UD TOWN”だ。その奥まで入ってみれば、こちらの方が圧倒的に賑やかだ

おとといの仇を討つつもりで、カオカームーの店に近づく。鍋には火が入っているから、冷たいことはないだろう。ごはん抜きのカームーを注文する。オネーサンは、いかにもコラーゲンの多そうなところを薄く刻み、皿に綺麗に並べた上、澄んだ煮汁をかけてくれた。価格は、おとといの不味かったそれより安い50バーツ。

席を探しながら、小ぶりな鍋をつついている若い人たちに気づく。「それ、どこで」と訊くと、笑いながらすぐ脇を示す。店の名前は”Star Seafood”。「モーファイ…」と呟くと「トムヤムクン?」と、店のオニーチャンは勢いよく返してきた。反射的に「ナムサイ」と答える。僕はトムヤムクンは、ココナツミルクを加えた「ナムコン」よりも、澄んだスープの「ナムサイ」を好む。オニーチャンは笑顔で頷いた。こちらの価格は150バーツ。

トムヤムクンもカームーも、今夜のそれは大当たりだった。ウドンタニー最後の夜に当たりくじを引くことができて、とても気分が良い。

「チェンマイに、美味いドイツ料理屋があるんですよー」とか、バンコクで「カオソイ、カオソイ」と騒ぐ人を、僕は鼻で嗤う。しかしその僕も、気がついてみれば、シャム湾から600キロも北上したウドンタニーで、海のものを食べているのだ。

ホテルに戻ってシャワーを浴びると時刻は19時40分。即、明かりを落として寝台に横になる。


朝飯 “The Pannarai Hotel”の朝のブッフェ其の一其の二其の三
晩飯 “UD TOWN”の”Star Seafood”のトムヤムクン(ナムサイ)カームーラオカーオ”RUANG KHAO”(ソーダ割り)


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2020.3.4(水) タイ日記(3日目)

暗闇に目を覚まし「きのうとおなじ2時を過ぎたころだろうか、あるいは3時は回っただろうか」と考えながら、目はつぶったままでいる。

部屋の窓から大きな駐車場を隔てて250メートルほど先には、タイ特有のライブハウスであるタワンデーンが位置している。ベランダの直下には、きのうの日記にも書いたバービヤの集合体”Day & Night”がある。ホテルの建つサンパンタミット通りは、これまたバービア街だ。スピーカーの重低音は、それらのいずれかから発せられているものだろう。大柄な白人による野太い声も聞こえる。更にはトタン屋根を叩く雨もかまびすしい。

それらの音を数十分ほども聞き続けてから、サイドボードのiPhoneに手を伸ばす。時刻はいまだ、日の改まっていない22時26分だった。睡眠時間が2時間では話にならない。しかしどうにも気になる外の騒音である。

いくらかは眠れたかも知れないけれど、熟睡はしてない。とにかく4時に起床する。既にして書けていたおとといの日記に修正を加えつつ公開する。きのうの日記も完成させる。その勢いを保ったまま、今日の日記のここまでも書く。

朝食を済ませ、8時30分を過ぎるのを待って、ここ数日の洗濯物を提げて外へ出る。そしてきのう開店時間を確かめておいた、ホテルとおなじ通りにある洗濯屋に出かける。ポロシャツ2着、下着2着、靴下1足の洗濯代は31バーツ。「明日の午後1時か2時」と告げながら、なかなか上品な顔つきの女主人は僕に伝票を手渡した

それにしても、雨上がりの街は、僕のインドシナに対する感覚からすれば異様に涼しい。部屋のベッドに横になって本を読む。そして薄日の差してきたことを確認してから水着に着替え、プールサイドに降りる。寝椅子はほとんど乾いていた。時刻は10時30分。そこでまた石川文洋の「ベトナムロード」を開く。

ときおりポトリ、ポトリと音を立てて、頭上の木から花が落ちる。昨年のいまごろ訪ねたスコータイのホテルにも、この花が咲いていた。通りかかったホテルの人に花の名前を訊く。オニーサンとオジサンのあいだくらいの歳の人は「チャ(ツァ)ンパー」と教えてくれた。プールサイドには、白と赤のそれがある。白い方が圧倒的に、その甘い香りは高い。

「今日の昼は200ページまで」と決めて読み始めた本の176ページに「スアンロクは、一九七九年四月、猛烈なスピードで進撃をするベトナム人民軍とそれを阻止する最後の砦としてサイゴン政府軍との激戦が交わされたが」の一節がある。サイゴン陥落は1975年4月30日。だからこの「一九七九年四月」は明らかにおかしい。

区切りの良い201ページまで読んで部屋へ戻り、シャワーを浴びてからベッドに横になる。そしてiPhoneにgoogleを開いて「ベトナム戦争 スアンロク」と入れてみる。スアンロクの戦闘は果たして、1975年4月9日から同21日にかけての出来事だった。編集者は何をしていたのだろう。

「ペンが袋から落ちかけている」と初日に声をかけてくれたオバチャンのいるマッサージ屋に、今日も出かける。それは「タイマッサージは、3日つづけて受けるべし」という、チェンライのマッサージ師プックさんの言いつけを守ってのことだ。そして2時間のマッサージで、特に脛とふくらはぎを責められる。

きのうのカームーには、少なからず落胆をさせられた。失敗は繰り返したくない。初日の朝、空港からのバスを降りたあたりにホイトードの有名な店があることは、日本を出る前から知っていた。「こんなに海から遠いところでホイトードかよ」という思いはあったものの、夜はラオカーオのペットボトルを提げて、雨上がりの街を往く。

店の前の大鍋で炒りつけられる、生まれて初めて口にするホイトードは、評判の通り美味かった。英語のメニュの”Fried Oyster”に添えられたタイ語を店員に読んでもらうと「ホイトードゴンラー」と聞こえた。「ゴンラー」とは、ことによると潮州料理の「蠔烙」の音を、そのまま用いているのかも知れない。

2009年、27年ぶりに叶った訪タイのとき、着いたばかりのスワンナプーム空港で、心躍らせながら食べたパッタイには、そのあまりに甘い味付けに幻滅をさせられられた。以降はとても食指を延ばす気にならなかったそれを、ホイトードだけでは足りないから、今夜は賭けるつもりで注文してみた。果たしてこのパッタイも、またとても美味かった。さて、明日の夜はどこへ出かけよう。

ホテルに戻ってシャワーを浴びる。時刻は19時20分。盛り場の真ん真ん中にいながら、この時間から寝る馬鹿が僕である。


朝飯 “The Pannarai Hotel”の朝のブッフェ其の一其の二其の三
晩飯 “Hoi Tod Je Huay”のホイトードゴンラーパッタイクンラオカーオ”RUANG KHAO”(ソーダ割り)


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2020.3.3(火) タイ日記(2日目)

目を覚まして数秒を経てようやく、いま自分はウドンタニーにいる、ということに気づく。サイドボードにiPhoneを手探りする。時刻は2時ちょうど。就寝が20時であれば、この目覚めの時間も「むべなるかな」である。

海外へ出たときの、特に1日目の日記は長くなる。その日記を書くうち、ひどく腹が空いてくる。旅先にはいつも持参する粉末のコンソメスープを飲んで、その空腹を紛らわす。

明け方がちかくなるころ、妙な音に気づく。風がどこからか吹き出しているような音だ。しかし部屋の冷房は止めてある。風呂場の換気扇も止まっている。しばらくするうち、またその音が高くなる。部屋とベランダを隔てている二重のガラス戸を開いてみる。音は果たして、目と鼻の先にあるバービヤ街”Day & Night”の巨大なトタン屋根を、雨が激しく打つものだった。それにしても、ウドンタニーの天気はめまぐるしく変わる。雨期は、いまだ始まっていない筈ではなかったか。

長い日記を完成させてから食堂に降りる。プールサイドには卵料理を注文できる屋台が出ているものの、宿泊客が少ないせいか、そこに調理人の姿は見えない。

今朝は髪に寝癖ができていた。よってきのう、目抜き通りを駅へ向かう北側の歩道に見つけておいた床屋”LONDON”へ行く。2種のバリカンによる調髪と顔剃りで料金は200バーツ。僕はタイではいつも、バリカンには2番の下駄を履かせてもらう。しかしこれではすぐに長くなってしまいそうだ。次は1番で頼んでみよう

散歩をしながらホテルに戻り、以降は午後までプールサイドで本を読む。

きのう予約をしておいたマッサージ屋には15時前に入った。タイのマッサージは、古式であれオイルであれ、持ち時間の8割は足と脚への施術に費やされるような気がする。今日はふくらはぎの内側、脛の骨に沿ったところを長々と責められた。オバチャンの指は、コリを見つけると、そこに長く留まって、強く揉み続ける。その痛みに思わず、背筋に緊張が走る。脚のコリをほぐすために背中のコリがひどくなる、というようなことはないのだろうか。

マッサージの途中から、雨が激しくトタンの軒先を叩き始める。日に2度は雨が降る。その雨は日本の夕立とおなじく、いきなり落ちてきて、しかしすぐに止む。雨の弱くなったところで外へ出る。雨は、セントラルプラザの中を徘徊するうち、ふたたび強まった。しばらく雨宿りしてから、ようやくホテルへの道を辿る。

夜は、きのうに引き続いて、目抜き通りの駅ちかく北側のナイトプラザへ出かける。きのうとは異なるカオカームー屋で、そのごはん抜きを注文する。結果は失敗。味は悪くないものの、作り置きのため冷たい。おまけに粘度の高いソースが大量にかけてあって、味が濃すぎる。仕方なくそれを肴にラオカーオのソーダ割りを飲む。しかし今夜の食事がこれだけでは気が済まない。

きのうセンヤイパッキーマオを注文した店で、きのうの女の子にカオパックンを頼む。それで仕上げて、今夜の飲酒活動を完了する。

ホテルの建つサンパンタミット通りは、ウドンタニーにふたつみっつあるバービア街のひとつだ。客のほとんどは、からだに刺青を施した白人である。まるで浦島太郎だが、ここで遊ぶうち、いつのまにか年を経てしまったように見受けられる老人も少なくない。この街にはかつて、アメリカ軍の基地があった。しかしそれは、遠いむかしのこと。この街に白人の多い理由は何だろう。

部屋に戻り、シャワーを浴びると時刻は19時50分。夕刻に降った雨は気温をいちじるしく下げて、冷房の必要はない。即、明かりを落として就寝の体制に入る。


朝飯 “The Pannarai Hotel”の朝のブッフェ其の一其の二
晩飯 駅からの目抜き通り北側のナイトプラザのカームーカオパックンラオカーオ”RUANG KHAO”(ソーダ割り)


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2020.3.2(月) タイ日記(1日目)

うつらうつらするうち、機は滑走路まで移動をして、やがてエンジンが轟音を発する。”AIRBUS A330-300″を機材とする”TG661″は、定刻に10分おくれの00:30に羽田空港を離陸。数分後に「ポーン」という音は聞こえたものの、シートベルトの着用義務が解除された旨の電光は掲示されない。やがて前の人が椅子の背もたれを倒す。それに倣って僕も背もたれを倒し、同時に胸のポケットに、飲みやすいようあらかじめ小さな袋に分けておいたデパスとハルシオン各1錠を服用する。

「あんた、両方のまないと効かないよ」とオフクロの遺したこの2種の薬は、効くときにはまこと、一瞬で効く。しかし今日に限っては、いつまでも効かない。後席の女の二人連れは、ようやく会話を止めた。ちかくの席にいるらしい小さな子供も、いちど叫んだきり静かになった。僕の席より後ろには、ラオスとミャンマーの若いサッカー選手たちが、静かに寛いでいる。それにしても眠れない。特に下半身が、毛布を巻きつけているにもかかわらず寒い。

03:55 ディスプレイに現在位置を探ると、機はいまだ台湾本島の最南端、つまり鵝鑾鼻のあたりを飛行中だった。いつもであれば、目覚めたときには、機は既にして海南島の東海上に達していることが多い。
05:35 いつの間にか機内が明るくなり、客室乗務員は熱いおしぼりを配り始めている。
05:50 朝食の配膳が始まる。
06:10 ダナンの海岸線からベトナムの上空に入る。ディスプレイには”BKK→1H5M”の文字。
06:11 洗面所で口をゆすぎ、歯を磨く。

06:15 客室乗務員がプラスティックの手袋をはめた手で、タイの入国カードを配り始める。別の客室乗務員は、これまた手袋をして、洗面所の扉の取っ手をアルコールで拭いている。

07:04 地上の明かりが見え始める。バンコクの上空には、ところどころに低い雲がある。
07:07 機体から車輪が降ろされる

“TG661″は、定刻より15分はやい日本時間07:10、タイ時間05:10にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。

05:29 新型コロナウイルスへの水際対策により、数日前に新設された体温測定装置の前を通過。ちかくに立つ複数の係員は「はいはい、どんどん進んでー」というような手振りで旅客を先へと急がせる。その脇を我々は重なり合って通過する。そんなことで、個々の体温など計れるものだろうか

05:35 入国審査場を通過。
05:38 5番の回転台の前まで行くと、僕のスーツケースは既にしてその上を運ばれていくところだった
05:48 到着階の3階から出発階の4階へ上がって”TG2002″への搭乗手続きを完了

手持ちの現地通貨は8337.5バーツ。僕はお金は大して使わない。普段であれば、これでしばらくは不自由しない。しかし今週末に参加をするバンコクMGの参加費用は、今回からバーツ払いになる。よって大事を取って、今日のうちに両替を済ませておくことにする。

06:06 エスカレータとエレベータを使って地下1階に降りる。そしてエアポートレイルリンクの券売機ちかくに並ぶ両替所の、各々の為替レートを見ていく。その結果、すべての店で1万円は2,880バーツ。即、ひとりの客も集めていない”Value Plus”で3万円のみを両替。消毒用のアルコール綿をオマケにもらう

今度はエレベータで一気に4階へ戻る。スワンナプーム空港に人の少ないことは羽田空港とおなじ。いつもはそこここに溢れかえっている中国人の姿は皆無。認められた団体は、インド人によるそれひと組のみ

06:28 保安検査場を抜けてB4ゲートに達する
06:48 搭乗開始
07:25 “AIRBUS A330-200″を機材とする”WE002″は、定刻に5分おくれてスワンナプーム空港を離陸。
07:40 客室乗務員により機内食が配られる。タイスマイル航空の質素な機内食が、僕は好きだ。

「新幹線の食堂車でステーキを食べる人が嫌いだ」と、山口瞳は書いた。一方、ある食味評論家は、女性客室乗務員と自分のあいだで交わされた、そのとき機内に用意されていた”Chateau Lascombes”を巡る、機知に富んでいるらしい、あるいは洒落ているらしい会話をどこかに披瀝していた。山口瞳とその食味評論家のどちらを心情的に支持するかは、人それぞれだ。

機窓から見おろすイサーンの大地は、畦で四角く区切られていることにより、それが農地ということは分かる。しかしその色はどこまでも乾いて赤い。色だけを見れば、それは農地というよりも、まるで土漠である

いまだ機内にいるうちに、タイバーツを納めた封筒を貴重品入れから取り出す。そしてそこから1,000バーツ札1枚、100バーツ札5枚、50バーツ札1枚、20バーツ札5枚を引き抜いて財布に移す。1,000バーツ札は、これを使う機会があれば、細かく崩すためのもの。100バーツ札は、もっとも使いでのあるお札。50バーツ札と20バーツ札はチップ用。これでもいろいろと考えているのだ。

08:00 “WE002″は定刻より25分はやくウドンタニー国際空港に着陸。
08:24 回転台に荷物が出てくる
08:28 空港の建物から外へ出る。

右手に目を遣ると、数十メートル先にバスが駐まっている。近づくに連れ、そのバスの正面に”UDON CITY BUS”の文字が見えてくる。開け放ったままの乗降口ごしに、サングラスをかけた運転手が僕に声をかける。分かったのは、男言葉で「はい」や「ですます」を表す「クラップ」のみ。「パイ、センターン?」とひどいタイ語を発すると、運転手はふたたび「クラップ」と答えつつ頷いた。料金の20バーツは運転席脇のプラスティックの箱に入れる方式だった。iPhoneのgoogleマップに仕込んだ、オフラインでも現在位置を特定できる仕組みは正常に働いている

08:35 バスが空港を離れる。
09:09 タイ人の発音では「センターン」となる”Central Plaza”が間近に見えてきたところで下車する。”Central Plaza”はちなみに、日本人の発音では「せんとらるぷらざ」となる。

わざわざ道を渡ってきたトゥクトゥクの運転手が、ホテルまで送るという。「歩いて行くよ」と僕は身振りで示す。オジサンは「オーッ」と笑いつつ去る。

予約を入れておいたホテルは「センターン」の前から歩いて3分ほどのところにあった。盛り場の真ん真ん中である。フロントのオバチャンは「4階のデラックスルームです」と、僕に419号室のカードキーを手渡した。スーツケースを部屋まで運んでくれたベルボーイには50バーツのチップ。時刻は9時27分。山田長政の時代を思わないわけにはいかない

水を飲む、スーツケースから衣類その他を引き出しに移す、シャワーを浴びる、日本から穿いてきたズボンをタイパンツに穿き替える、既にして完成していた一昨日の日記を更に整えて「公開ボタン」をクリックするなどのことをするうち正午に至る。

日本から履いてきた革靴をゴム草履に履き替えて外へ出る。暑いことは暑いものの、汗はかかない。ホテルのある通りから目抜き通りに出て、北側の歩道を歩きつつウドンタニーの駅を目指す。駅ではプラットフォームに入り、ロビーに戻って時刻表を確かめ、駅から西へ向かって延びる目抜き通りの写真を撮る。「そんなことをして面白いか」と問われれば、別段、面白くはない。面白くもなく、またつまらなくもないのが、僕の旅行である。

駅前から、今度は南側の歩道を伝って来た道を戻る。

「ペンッ」と、いきなり左手から声がかかる。声の主は、マッサージ屋の前に座ったオバチャンだった。タイのマッサージ師は、外で食事やおしゃべりをしながら客を待つことが多い。

タイパンツを褒めでもしたのかと、腰のあたりに手をやってみる。オバチャンは首を横に振って、僕が手に提げた、きのう北千住のマツモトキヨシで商品を入れてくれたプラスティック袋を指した。ボールペンの先端が袋を突き破って顔を出している。「なるほど、このことか」と、オバチャンに礼を言い、それまで提げていた袋を、そこからは抱えるようにして歩き出す。

そのまま100メートルほど進んだ左手に、屋台がふたつ軒を並べている。客の入りはそこそこだ。タイ航空の機内食は半分ほどを残していた。タイスマイル航空の機内食は、いつも「軽食程度」より少ない。即、店の女の人に「バミーヘン」と告げる。「肉は豚か」と訊かれて了承する。

やがて運ばれたバミーヘンは、これまで見たこともないものだった。麺はまるで日本のソース焼きそばのように色が濃く、またスープの色は、まるで番茶だ。そのスープをひとすすりすると、すごく甘い。その甘い汁に、麺に載せられた、湯がいた豚肉のすべてを沈める。麺に味付けは、ほとんどされていない。よって卓上の調味料を適当にかけて自分の味を作る。不味くもないが、美味くもない。価格は40バーツだった

親切を受けたお礼に、先ほどのマッサージ屋へ戻る。そしてオバチャンに「オイルマッサージ、2時間ね」と告げる。人生史上、最高に効く宇都宮の整体院の先生には「タイへ行ってもボキボキ系は避けてくださいね」と釘を刺されている。以来、僕はタイに来ても、関節技のようなものをいくつも繰り出す古式マッサージは受けない。オバチャンには、このところ宇都宮の整体院で責められ続けている、太股に走る4本の筋肉を、特に強くほぐしてもらった。そして明日の15時に予約を入れる。

ホテルのプールサイドには、午後の日差しがあった。フロントの人に教わって、目と鼻の先のフィットネスセンターからタオルを持ち出す。そしてそれを寝椅子に敷き、仰向けになって石川文洋の「ベトナムロード」を開く。頭上に咲く花は、あたりを甘い香りで包んでいる。僕の旅における、最上の時間である。

夕刻、部屋の机できのうの日記を完成させる。やがて日は落ちて、腹も減ってくる。昨年9月に余らせて持ち帰ったラオカーオは、ペットボトルに入れ替えて今回の荷物に含めておいた。そのラオカーオを、マッサージ屋のオバチャンがくれた、セブンイレブンのエコ袋に納めて外へ出る。

駅ちかくの夜市のうち、今日は北側のそれに足を踏み入れる。縦に長いフードコートの店を眺めつつ、もっとも奥に達する。右手の注文屋台が目に付く。立ち止まると、肌の黒い、メガネをかけた、髪の毛はチリチリに縮れた好もしい雰囲気の女の子が僕に声をかけつつメニュを差し出した。メニュはタイ語と英語で書かれていた。その”FRIED NOODLE”のところを指しながら「パッキーマオ」と言ってみる。女の子は嬉しそうに「チャイ、チャイ」と答え、肉は何にするかと訊いた。僕の答えは大抵、豚である。その注文屋台の対面にある飲物屋台でソーダとバケツの氷を調達する。

席に届いた皿に、麺は見えない。しかし目を凝らすと、野菜の影にセンヤイが認められた。「センヤイパッキーマオ?」と訊く。「チャイ」と女の子は、ふたたび嬉しそうに笑った。

名勝や奇景に興味は無い。星付きのレストランも世界遺産も要らない。アトラクションやアクティビティは面倒だ。地元の人の集まる夜市で、地元の人の食べるものを肴にラオカーオのソーダ割りが飲めれば、それで僕は満足だ。そしてそれこそが、僕の「観光」である

部屋に戻ってシャワーを浴びる。時刻は20時。三菱製の冷房に室温24度と1時間のタイマーを設定して就寝する。


朝飯 “TG661″の機内食“WE002″の機内食そのコーヒー
昼飯 駅からの目抜き通り南側センタンちかくの屋台のバミーヘン
晩飯 駅からの目抜き通り北側のナイトプラザのセンヤイパッキーマオ、カオカームー、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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上澤卓哉

上澤梅太郎商店・上澤卓哉

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