2019.6.30(日) 朝食の会
朝から雨が降っている。バンコクで見ていた日本の天気予報も、先週末は雨ではなかったか。週末は特に、日光に遊びにいらっしゃるお客様が多い。まさに「あいにくの天気」である。その雨の中で「伝統家屋でいただく、なんでもない日の食卓」の6月の部が今日は開かれる。普段は家内と長男がその任に当たっているものの、今回は長男が消防団の仕事で不在になる。よって今朝は僕が、植村直己がエベレストに日本人初、否、「初」は頂上の直下で先輩の松浦輝夫に譲ったから正確には「日本人で2番目」になる、とにかくその登頂のとき植村が着ていたような旧式のヤッケで雨を避けつつ隠居の門を開けたり、あるいは必要なものを母屋から運んだりする。
「伝統家屋でいただく、なんでもない日の食卓」の6月の部は、9時30分に始まって、11時すぎに無事に完了した。今朝のお客様は東京からのリピータで、6名様で土鍋炊きのお米を7合も召し上がっていただいた。僕の課題の随一は、美味しいお茶をお淹れできるようになることだ。なお、この食事会のお申込みは、うちのウェブページから承っています。
食器や土釜を母屋に戻して以降は、混み合う店舗で販売の仕事に従う。15時を過ぎて「あっ」と声を上げる。日光市今市旧市街の各町内自治会長、神社総代を集めての「当番町を考える会」に、僕は瀧尾神社の責任役員として参加をすることになっていた。事務机の左手のカレンダーに駆け寄ってみれば、そこには始まりの時間として「16:00」の数字が示してあったから胸をなでおろす。そしてその小一時間ほどの会議に出るため、ホンダフィットで大谷川を渡り、大谷向町の公民館にお邪魔をする。
夜はすっかり落ち着いて、嫁の料理にて白ワインを飲む。
朝飯 胡瓜の「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」漬け、納豆、巻き湯葉と人参の炊合せ、上げ湯波と小松菜の炊合せ、たまり漬「七種刻み合わせ・だんらん」、メシ、おとといの夜に蕎麦屋から持ち帰った天ぷらに茗荷を加えた味噌汁
昼飯 「ふじや」の冷やし味噌ラーメン
晩飯 トマトと水菜とモッツァレラチーズのサラダ、キャベツととうもろこしのスープ、マカロニグラタン、Petit Chablis Billaud Simon 2016、マンゴーアイスクリーム
2019.6.29(土) 新しいレッツノート
6月のいつだったか、この日記には書かなかったし、普通のウェブショップならすぐに送ってくる受注確認メールも届かなかったから、いつ注文したかは、今となっては思い出せない。とにかくタイへ行く前にパナソニックストアで購入した新しいレッツノートが、きのう神戸法人営業支店から届いた。よって即、外注SEのシバタサトシさんに連絡をした。それを受けてシバタさんは、今日の10時に来てくれた。これまでのコンピュータの中身を新しいそれに移し替えるようなことは、僕には怖くてできない。すべて本職任せである。
僕のような素人には分かりかねるが、コンピュータの中身の移行についても仕事の出来不出来、きれい汚いがあって、むかし第三者の本職が僕のコンピュータを通して見たシバタさんの仕事については「きれい」と賛嘆していたから、まぁ、安心だろう。作業は昼食を挟んで14時に完了した。
しかしコンピュータを新しくした当初というのは、オペレーティングシステムや諸アプリケーションのバージョンが上がっていることにより、これまでとすべておなじ使い勝手が約束されるわけではない。だから僕も、今日からの新しい環境に慣れていかなくてはならない。そして、自分ではどうしようもないことが起きたときには、その都度、まわりにいる本職を頼れば良い。
今日までのレッツノートは、2011年8月4日から8年弱を働いた。とすれば今日からのレッツノートは、僕が齢70を超えるまでの愛機となるだろう。
朝飯 揚げ湯波と小松菜の炊合せ、納豆、大根おろしを添えた鮎揚げ豆腐の網焼き、山芋のすりおろし、たまり漬「刻みザクザクしょうが」、トマトと茹でたグリーンアスパラガスのサラダ、メシ、きのうの夜に持ち帰った天ぷらに三つ葉を加えた味噌汁
昼飯 「ふじや」の味噌ラーメン
晩飯 冷奴、春雨サラダ、ピーマンの肉詰め、”GILBEY’S VODKA”(ソーダ割り)、マンゴー
2019.6.28(金) 神戸から
ハシモトさんとフクモトさんに送られて戻ったホテルでシャワーを浴び終えると、時刻は0時にちかかった。そして今朝は3時に目を覚ました。以降はうつらうつらして、4時に設定した目覚ましが鳴ったところで起床した。大まかな荷造りを済ませてから、おとといの日記を整えて「公開」ボタンをクリックする。
いつまでコンピュータにかじりついていて、その直後より大慌てをする癖がある。それが分かっているから、5時すぎにコンピュータの電源を切る。そしてザックを背負ってロビーに降り、iPhoneのgoogleマップを親指と人差し指で広げながら「新神戸までの地下鉄は、三ノ宮の駅まで歩かないと乗れませんか」と訊くと「いえ、すぐそこの、東急ハンズのところから地下鉄の駅に降りられます」とフロントのオネーサンは教えてくれた。
地下鉄への入り口は、ホテルから1分ほどのところにあった。それが分かっていれば、きのう傘を差して雨の中を数百メートルも歩くことはなかったのだ。始発の車両が来るまでの10数分を、プラットフォームのベンチで待つ。
新神戸の駅で商売を始めている店は、5時50分開店の弁当屋のみだった。そこでおむすびとお茶を確保してから新幹線のプラットフォームに上がる。そして06:19発の、のぞみ102号に乗る。それで11時すこし過ぎには日光市の会社に戻れてしまうのだから、便利な世の中になったものだ。
夜は、僕が書記を務める日本酒に特化した飲み会にて、大谷川を渡った先の蕎麦屋へとおもむく。
朝飯 「淡路屋」の2種のおむすび
昼飯 「食堂ニジコ」の冷やし中華(1.5玉)
晩飯 「玄蕎麦河童」の酒肴あれや、これや、ほかあれこれ、ひやしぶっかけ蕎麦、4種の日本酒(冷や)
2019.6.27(木) 神戸まで
小一時間ほど前からの雨は、のぞみ133号が京都へ近づくに連れて止んだ。しかし大阪でまた降り始め、外へ出た三ノ宮では、歩道に溜まった水の浸入を防ごうとする商店もあった。当方は地理不案内にて、iPhoneのgoogleマップを頼りに予約したホテルを探す。太平洋上から東北東へと進みつつある台風3号の影響か、湿度の高さは、おとといまでいたバンコクの比ではない。
ことし1月の日光MGに遠路神戸から参加をしてくださったウエガキトモヒロさんが、突然の心不全に襲われて5月の末に亡くなった。ウエガキさんは2日間のMGの前夜から、それが完了した翌日まで、のべ4日間を日光で過ごされた。そのあいだに受けた恩義を僕は忘れない。そのウエガキさんを偲ぶ会が、今夜は神戸で開かれる。
雨は止みそうで止まない。ホテルから会場までは、地図によれば1.6キロとのことで、三ノ宮の繁華街でタクシーを拾う。そしてそのタクシーの運転手の、客に対する気づかいに一驚を喫する。
「ウエガキトモヒロさんをしのぶ会」の最後の5分間は、僕のスピーチに充てられていた。この会を催してくださったハシモトマサトさん、フクモトタカコさん、会場を提供してくださったシゲミムツキさんには厚く御礼を申し上げたい。
極端な早寝早起き、且つ独行を好む僕は、なにかの集まりで二次会につき合うことはほとんど無い。しかし今夜ばかりは参加の可否を問われて真っ先に手を挙げた。そうして戻った三ノ宮のスナックで、いまいちど、ウエガキトモヒロさんを偲ぶ。夕刻の蒸し暑さはいつの間にか消えて、涼しい夜のあるばかりだった。
朝飯 きのうの残りの塩おむすびと「しいたけのたまり炊」のおむすび、胡瓜の「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」漬け、ほうれん草の味噌汁
昼飯 「函太郎」のあれや、これや、それや。
晩飯 「ウエガキトモヒロさんをしのぶ会」の会場に仕出しの鮨、オードブル、ビール
2019.6.26(水) 大忙し
オフクロは、馬が食うほどの量のデパスとハルシオンを遺した。この2種類の薬は僕に3時間の熟睡をもたらして、目覚めはいつも爽快だ。しかし「人が処方された薬なんて、よく嚥めるわね」と家内に言われたことも、頭には残っている。前夜、深夜便の席に落ちついたときには、少々ではあるけれど、眠気を覚えていた。それもあって、いつもはベルト着用のサインが消えると同時に口に入れるその2種の薬を、今回は服用しなかった。
機が揺れたり、あるいは気流の関係なのか、小刻みに上下する、その動きを脳とからだが意識して、半覚半睡のまま眠りに落ちることがない。限界まで倒した背もたれに背中を預けても、まるまる空いた3席を占領して横になっても眠れない。そうするうち、通路を人が行ったり来たりする気配で完全に目を覚ます。
03:00 客室乗務員がおしぼりを配り始める。
03:05 朝食の配膳が始まる。パンとジュースとコーヒー以外はほとんど喉を通らず。
04:31 地上がちかくなる。
04:34 定刻より21分はやく羽田空港に着陸。日本時間は6時34分。以降の時間表記は日本時間とする。
06:48 “TG682″と時をおなじく着陸した他の機からの旅客により混み合う通路を進む。
06:54 パスポートコントロールを抜ける。
07:12 回転台からスーツケースが出てくるまでに20分を要する。
07:15 税関検査場を抜ける。
07:31 京浜急行の車両が羽田空港国際線ターミナルを発車。
08:17 都営浅草線の浅草着。
朝食を済ませて浅草09:00発の下り特急に乗る。下今市駅には家内に迎えに着てもらった。途中、道の駅「日光街道ニコニコ本陣」に立ち寄って検品。帰社して着替える前に、これから道の駅へ入れるべき商品とその数を製造現場に伝える。そして仕事着に着替えて、できてきた商品を道の駅に納める。以降は繁忙にて昼食を抜く。
終業後は、夏のギフトの繁忙を目前にしての「がんばろう会」を4階の応接間で開く。「がんばろう会」とはいえ、社員に檄を飛ばすわけではない。今日のその集まりは、今月限りで定年延長の切れる包装係サイトーヨシコさんの、送別会のような色も帯びた。
社員を通用口から送り出して4階に戻り、入浴をして、即、就寝する。
朝飯 “TG682″の機内食
朝飯 「松屋」の得朝ミニ牛めしお新香豚汁セット、生玉子
晩飯 長芋の「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」漬け、厚焼き玉子、グリーンアスパラガスの豚バラ肉巻き「みょうがのたまり漬」風味、胡瓜のナムル風、鶏もも肉のオーブン焼き「日光味噌ひしお」和え、トマトとレタスのサラダ、茄子と3色のピーマンの「日光味噌梅太郎赤味噌」炒め、鮪の刺身と「にんにくのたまり漬」のユッケ風、たまり漬「刻みザクザク生姜」と同「おにおろしにんにく」を薬味にした鰹のたたき、塩おむすび、ごぼうのたまり漬、牛肉の「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」漬け焼き、「しいたけのたまり炊」のおむすび、芋焼酎「白金乃露」(ソーダ割り)、メロン、西瓜とオレンジ、どら焼き、「さかえ屋」の揚げゆばまんじゅう
2019.6.25(火) タイ日記(6日目)
早朝に目を覚ましてから朝食までの、日記を書く以外の時間はほとんど荷造りに費やす。スーツケースは機内持込可能の大きさのため、よほど几帳面に詰めていかないことには、すべてのものが収まらない。「だったらスーツケースを大きすればいいではないか」と言われれば、スーツケースは冷蔵庫と同じく、大きくすると、不要の中身も増える。本当に必要なものは、実際にはそれほど多くないのだ。
プールサイドには8時59分に降りた。まさかバンコクのことだから寒くはないものの、今日は珍しく暑くもない。本は1冊目を終えて2冊目に入った。日傘の下でそれを読んでいると「失礼ですが、これはあなたがお使いになりますか」と丁寧な英語で訊ねられた。相手は30代くらいの東洋人で、視線は前の客が放りだしていったキックボードを指している。「いえ、どうぞお使いください」と返事をする。
ふたたび顔の上に本をかざして続きを読む。遠くから聞こえてくる、その東洋人の娘らしいふたりの子供のはしゃぐ声は、日本語によるものだった。行儀の良さは、他者への心地よさをもたらす。まぁ、当たり前のことだ。
昼前にサパーンタクシンへ行く。アイコンサイアムへの渡し舟は、これまでの、この桟橋のもっとも下流側ではなく、もっとも上流側、つまり対岸に渡るフェリーボートとおなじところに発着の場所を変えていた。しかも混み合ったときの雨除けとして、テントまで用意されている。
アイコンサイアムで先ずは、3月にも来た6階の”FaLLabeLLa”でひと休みをする。最初に案内されたソファから眺めの良い手すり沿いの席に移ると「そこは日が差して暑いでしょ」と、お運びのオネーサンは笑った。南の国の人と、そうでない人は、日差しについての感覚に異なるところがある。あるいは「南の国の人と観光客とでは」と言い換えるべきだろうか。
眺めの良い席でマンゴージュースを干してから、5階、4階、3階と、エスカレータを使ってグランドフロアに降りる。アイコンサイアムで混み合っているのはグランドフロアの、それも古き良きバンコクの運河や屋台、ランナー朝の建物を模した売り場のある”sook SIAM”のみだ。「タイには富裕層がいるから」とはいえ、高級店はおしなべて、ショールームとしてしか機能していないように思われる。しかも賑わう”sook SIAM”の中にも、3月にはあった店が早くも消えていたり、あるいはテナント待ちのようにして空いている売り場もあった。昼食はそのグランドフロアの、3月にも来た繁盛屋台で摂る。
サパーンタクシンに戻る舟から望むマンダリンオリエンタルホテルは、大規模に改装中だった。このホテルは進化を怠らない。そしてますます高嶺の花になっていくのだろう。サパーンタクシンからホテルに戻り、地下1階に入るトップスマーケットで最後の買い物を済ます。レジ袋は廃止をされて、キャッシュレジスターのかたわらには大口の客のための段ボール箱が積み上げてあった。
アイコンサイアムとトップスマーケットで買った社員への土産をスーツケースに納めて荷造りを完了する。チェックアウトをしてロビーを横切っていくと「タクシーはお呼びしますか」とかならずベル係に訊かれるが、答えはいつも”No thank you”だ。外へ出て、しかしここで魔が差す。チャルンクルン通りを渡り、サトーン通りでタクシーを拾う。そして100メートルもいかないうちに渋滞に巻き込まれる。
乗ってから40分が経ったところで、しかしタクシーはいまだクロントイで渋滞の中にいる。「トンローまで、あと10分じゃ無理かな」と、年老いた運転手に身振り手振りで訊く。「とてもとても。あと45分はかかるかな」と、運転手は自分の腕時計を示しつつ苦笑いを浮かべる。ふと気づいてザックからiPhoneを取り出しgoogleマップを開く。そして最寄りのMRTの駅を親指と人差し指で拡大し、そのタイ語の表記を運転手に見せる。「オー、シリキッ」と運転手は「そうか」という顔で頷く。僕は「チャーイ、シリキッ」と答える。
シリキットコンベンションセンターから乗った地下鉄をスクムビットで降り、アソークでBTSに乗り換える。そして日曜日までいたトンローで降りる。最初からBTSを使っていれば30分もかからず、かつタクシー代も不要だった。今後、バンコクで平日の夕方にタクシーに乗ることは控えよう。
「九段下寿司政のしんこを食べないと、私の夏が終わらない」と山口瞳は言った。僕の場合「トンロー55ポーチャナーのオースワンを食べないと、僕のバンコクMGは終わらない」のだ。これが食べたくても、トンローにいるあいだは会食があって、それが果たせなかった。その55ポーチャナーの、外の席に着く。近づいて来たお運びのオネーサンに開口一番「オースワン」と告げると、オネーサンはにっこりと笑った。
その牡蠣の卵とじを待つあいだに、持ち込んだラオカーオをソーダで割る。今日から読み始めた、1986年の小さな活字による分厚い文庫本を開く。気持ちが一気にほどけていく。スクムビット通りの排気ガスさえ香しい。そして「オレがタイでしたかったことはこれなんだ」と、深々と息を吸う。
20:31 エアポートレイルリンクの車両がスワンナプーム空港に着く。
20:48 チェックインを完了。
21:10 保安検査場を抜ける。
21:45 指紋認証を採用して一気に能率の落ちたパスポートコントロールを抜ける。
21:59 C2Aゲートに達する。
22:20 空港ビルからバスで運ばれて搭乗。席は2割ほどしか埋まっていない。
23:02 “BOEING 740-400″機材とする”TG682″は定刻に17分おくれて離陸。
朝飯 チャルンクルン通りソイ46を西に入って右側のクイティオ屋台のセンヤイナム(トッピングのルアットムーは特注)
昼飯 “sook SIAM”のカノムチーン屋のカノムチーンゲーンキヨワーン
晩飯 「55ポーチャナー」のオースワン、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2019.6.24(月) タイ日記(5日目)
目を覚ますと明かりは点いたままで、クーラーも動いている。初日と違うところは、素っ裸でも、しっかり布団に入っていたところだ。ゆっくりと、きのうの晩のことを思い出そうとする。蓮の花をかたどった皿の上に、丸い石鹸が乗っていた。ということは、とにかくシャワーは浴びたに違いない。いつまでぼんやりしていても仕方がない。起きて不必要な明かりを消し、クーラーも止める。
ベッドの下に、日本から持参したパジャマが落ちている。水を飲もうとして冷蔵庫の扉を開くと、コモトリ君がくれた、ひとつ数百バーツはしそうな巨大なマンゴーふたつが収まっている。パスポートや現金やコンピュータは、僕がいつも使う暗証番号で金庫に収まっていた。酔ってはいても、すべきことは済ませていたらしい。時刻は4時になろうとしている。
おとといの日記を整えるべく、コンピュータをデスクに置く。壁に作り付けのデスクにコンセントは無い。床ちかくのそこから電線を通すための穴が、後付けでデスクに設けられている。このホテルを設計したのは、コンピュータを使わない人だったに違いない。そういえば木曜日から2泊をした部屋は、壁に12ヶ所もコンセントを持ちながら、使える位置にあるものは皆無だった。タイにそのような「トマソン」は珍しくないから、いちいち気にしてはいられない。
とはいえデスクの位置は高く、しかし置かれているのは椅子ではなく低いソファだ。よってそのソファの上に大きな枕をふたつ重ね、どうにか日記を書き始める。
朝方に降り出した雨がほとんど上がったところで外へ出る。そしてホテルとバンラック市場を隔てるチャルンクルンsoi46にある屋台の汁そばを朝食とする。この店のスープの美味さに驚いたのは、ことし3月のことだ。
チャルンクルン通りの、ごく短い散歩を切り上げ部屋に戻る。そして金曜日からきのうまでの衣類を洗濯機に入れて回す。このホテルは楽天トラベルから予約をすると、16時や、ときには18時までのレイトチェックアウトが追加料金なしで付く。しかしあてがわれる部屋は、サービスアパートメントとしても使えるこのホテルとしては狭いものだ。3月に泊まったときには洗濯機もなく、外の洗濯屋の世話になった。今回は洗濯機があって助かった。
11時から13時30分まではプールサイドで本を読む。3月の訪タイ時から読み始めた全633ページの本は、いよいよ最後に近い。
14時にホテルを出て、BTSでサラデーンに移動をする。そしてコモトリケー君が社長を務める会社とは目と鼻の先のマッサージ屋に入り、2時間のマッサージを受ける。「タイでマッサージを受けると靴がぶかぶかになる」という、同級生ヤマモトタカアキ君のことばを今日ほど実感したことはない。太ももの外側と内側、ふくらはぎと脛を「これでもか」といじめられた結果、trippenの革靴は、紐をきつく締めても脱げそうなほど緩くなっていた。
コモトリ君とは17時に待ち合わせて、ラマ4世通りを西へと向かう。月曜日にもかかわらず、渋滞はほとんどない。ファランポーン駅を右手に見ながら進入したヤワラーの通りは、クルマの流れがあまりになめらかで拍子抜けをした。駐車違反への強烈な規制を警察が行った結果のこととコモトリ君は言うけれど、それだけのことで、これほど道が空くだろうか。しかしあたりを見まわしてみれば、歩道はおろか車道にさえ遠慮なく店を出していた屋台がひとつも見あたらない。クルマを走らせる側からすれば、とても便利だ。しかしその便利さと引き替えに、南の国の風情は消えていく。どちらを選ぶかは、その国の人しだいだ。
何年か前にコモトリ君と散歩をしながら目に留め、以来、気になっていた店の階段を上がる。料理が目の前に運ばれてみれば、そしてひとくち食べてみれば、調理の技術はとても高い。しかし店の内装は古色蒼然を通り越して、むしろうらぶれている。客のためのテーブルのうちの2客には様々なものが置かれ、家族と従業員のものとして使われている。また客席の一角は飲物などのための物置になっている。「惜しいなぁ」とは思うが、人の好みは色々だ。「ラオス出身の20歳、旦那は40歳の運転手」というお運びのオネーサンにコモトリ君が訊ねたところ「混んでくるのは19時から」とのことだった。
黒塗りのワゴン車は、早くも19時すぎにホテルへ送り届けてくれた。シャワーを浴び、冷房のスイッチを入れて、大きなバスタオルを広げたベッドの上で仰向けに休む。これもまた、南の国を旅するときの、愉楽のひとつである。
と、いきなり外に爆発音が轟いて、いつまでも収まらない。外を覗うと、チャオプラヤ川を隔ててシャングリラホテルの対岸、ペニンシュラホテルのすこし下流側から花火が盛大に打ち上げられていた。その上げ方は、日本のそれのように、余韻を楽しむための静けさをところどころに挟むことなく、連続して5分くらいは続いただろうか。金持ちの、私的なお祝いだったかも知れない。
朝飯 チャルンクルン通りソイ46を西に入って右側のクイティオ屋台のバミーナム
晩飯 「笑笑酒楼」のプラーディップ、オースワン、揚州麺、麦焼酎「いいちこ」(ソーダ割り)、工夫茶
2019.6.23(日) タイ日記(4日目)
酔って騒ぐ男の声がする。「またファランか」と耳を澄ます。酔っ払いは白人ではなくタイ人らしい。時刻は1時30分。今度は窓のすぐ外で、発情した複数の猫が声を上げ始める。更にはこれも猫なのか何なのか、軟らかいものが庇の上に墜落したような音がする。ふたたびiPhoneを見る。時刻は3時。しかたなく起きてきのうの日記を書く。安宿でもwifiは速い。
バンコクMGに参加をする、タイ人やロシア人も含む初心者の、頭脳の運動能力の高さには本当に驚かされる。きのうMGを始めた人が、早い人はきのうのうちから、ゲーム運びの上手さで僕を追い抜いているのだ。その優秀さは何に因るものだろう。第5期の決算は16時30分までに全員が終わり、17時には表彰式、講師であるタナカタカシさん、主催者のひとりスズキタカノリさんの挨拶も完了してしまった。
今日の交流会は、エカマイのガイヤーン屋で開かれる。こちらには僕も加わることとして、夕刻の激しい雨が上がったばかりの、いまだ乾いていないトンローsoi10にスーツケースを曳く。
MG仲間と交流会で交わす会話には感じ入るものが多い。今日は、島根県で老人介護施設を営むウダヒデノリさんの「タイには、家族や老人を、日本人よりはるかに大切にする文化がある。そのようなところに日本の介護のしかたを持ち込むべきではない。タイにはタイの文化に沿った、介護のあるべき姿がある」とのことばがもっとも印象に残った。
さて僕は今夜からサパーンタクシンに移る。雨はとうに上がったというのに「200バーツ」と判で押したようにおなじ価格を提示する運転手ふたりをいなし、主催者のひとりタイラマサキさんは「もちろんメーターで行くよ」と運転手の答えた3台目のタクシーを僕のために拾ってくれた。
声をかけられ目を覚ますと、運転手はホテル1階に入るロビンソン百貨店を指していた。朝が極端に早いため、夜になると居眠りばかりだ。111バーツを示すメーターに対して運転手には120バーツを払う。ほとんど定宿のようなセンターポイントシーロムに着いたのは、何時ごろのことだっただろう。フロント係にもベル係にも顔見知りがいて、愛想はしごく良い。部屋までスーツケースを運んでくれたベルボーには、50バーツのチップを手渡した。以降の記憶は、蓮の葉をかたどった皿の上の石鹸、それだけである。
朝飯 “Nantra de Comfort”のトースト、アイスミルク、日本から持ち込んだコンソメスープ
昼飯 バンコクMGのお弁当
晩飯 “Sabaijai Restaurant”のソムタム、サイクロークイサーン、鶏卵と青菜の炒め物、ガイヤーン、ラープムー、カオニャオ、カオスアイ、トムヤムクン、ゲーンキヨワーン、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2019.6.22(土) タイ日記(3日目)
女の妙な声で目を覚ます。時刻は3時50分。即、起きて服を着て荷物の整理に取りかかる。
30分ほどして隣の部屋のドアの開く音がする。僕も部屋から廊下に出る。エレベータの前には、髪を銀色に染めた韓国人のオニーチャンと、中々すっきりした姿の、”a gogo”で働いていると思われる女の子がいた。エレベータに乗ると、オニーチャンはグランドフロアのボタンを押した。僕はロビー階のボタンを押す。韓国人はおしなべて日本人より英語が上手い。朝鮮語は英語を身につけやすい言語なのだろうか。あるいは韓国の英会話教育が、日本のそれより優れているのだろうか。
ロビーのカウンターには不寝番のオネーサンと警備のオジサンがいた。彼らと朝の挨拶を交わして部屋に戻り、コンピュータとカメラと手帳を持って、ふたたびロビーに降りる。既にして明かりが点されていれば、ロビーに続く朝食の会場で日記が書ける。先の日記にも書いたように、僕のいる406号室には机が無い。また部屋のwifiは遅くて話にならないのだ。
今日と明日はバンコクMGにて、日中はホテルにいない。ということは、快適なホテルに泊まり続ける意味は無い。7時にチェックアウトをして外へ出る。現在のsoi25の中級ホテルからsoi5ちかくの安ホテルに移動をすべく、路上で赤バスを待つ。この赤バスは日中は5分きざみで、朝と夜は10分きざみで運行をしている。ほとんど10分を立ち尽くしてようやく北から近づいてきた赤バスは、昇降口の外まで乗客が鈴なりで、僕の目の前を、速度を落としただけで停まらずに通過した。そしてその10分後に来た赤バスも、またおなじだった。しかたなくタクシーを停め、1.5キロほどを乗ってsoi5に達する。料金は初乗りの35バーツで済んだ。
路地裏にある安宿の戸を押すと、しかしカウンターに人はいなかった。ベルを鳴らしても、誰も出てこない。警備と雑用を兼ねているらしいオジサンに勧められるまま、狭いロビーの一角にある朝食会場でコーヒーを飲む。
日本から持参した新聞を読むうち、コンビニエンスストアで調達したような軽食を持って、ようやくオネーサンが来た。パスポートと予約票を出して予約してある旨を伝えると「チェックインは14時から。スーツケースはそこに置いてください」と、目の前の一角を指して姿を消した。カウンターの上には、僕のパスポートと予約票が置かれたままだ。しばらくしてロビーの奥をのぞき込む。オネーサンは厨房で、個人的な料理に取りかかっていた。日中にスーツケースが消えても「私は知りません」でお終いだろう。
いつものガオラオ屋で朝食を済ませて安宿に戻る。そしてザックのみ背負って、これまた目と鼻の先の、センターポイントトンローのロビーに入る。ソファには、おとといバンコクMGへの参加を決め、僕とおなじTG661で今早朝にバンコクに着いたタダジュンさんの姿が見えた。タダさんは明日の深夜便で帰国をするという。僕のようなナマケ者には、とても真似のできない行動である。
タナカタカシさんを講師とするバンコクMGは、1996年6月に始められ、今日と明日は、その16回目になる。今回の参加者は30名。メジャータワー10階の研修室に収まる卓は5客。つまり「5卓フル」の満席で、冷房も心なし強めに設定されているようだ。
各自が自分の会社をもち、2日間で5期分の経営を盤上に展開するMGは、30名中の10名が初心者ということもあって、時間の延びる心配があった。しかしタイで起業をしたり、あるいは日本の本社から大きな責任を背負って赴任してきた初心者たちは、年齢が低いこともあり、想像を絶する優秀さにて、第3期の決算は19時前に全員か完了した。
交流会のためエカマイの北海道料理屋へ向かう一行と別れ、19時06分に「パイ、トンロー、パクソイ」と、停めたバイタクの運転手に告げる。バイタクは渋滞をくぐり抜けて、soi10からスクムビット通りの際まで僅々3分で達した。BTSトンロー駅の自動販売機は札が使えない。窓口の列に並んでようようサラデーンまでの切符を44バーツで買う。BTSの車両は19時18分に発車。サイアムで乗り換え、サラデーンには19時38分に着いた。きのうまでのルンピニーからサラデーンに、待ち合わせの場所が変更されたのだ。
コモトリケー君に土産の「おばあちゃんのホロホロふりかけ」と「辛ひしお」と「しその実のたまり漬」を渡す。コモトリ君からは、現地での仕立てを頼んであったタイパンツを受け取る。これで所有するタイパンツは6本になった。多分、一生のあいだ保つ数だと思う。
サラデーンからトンローまでは、すこし距離がある。コモトリ君の会社の運転手は、混み合うラマ4世通りから、まるでサイゴンの並木道のように美しいスクムビットsoi26に入った。そしてこれまた混み合うスクムビット通りに出ると、すぐにまた裏道へとハンドルを切り、トンローsoi10を奥から抜けてトンローの大通りに達した。「良い仕事」とタイ語で褒めると運転手は後席の僕を振り向き笑った。チップは100バーツ。
安宿のカウンターには朝のオネーサンに替わって、いかにも仕事のできそうなオバチャンがいた。チェックインを済ませ、エレベータで2階に上がる。明かりを点すと大きなゴキブリが壁から床に逃げようとしている。それを鼻紙で捕まえて便器に流す。数千円を節約するためのホテルの移動ではあったけれど、それにかかる労力を計算に入れれば、次回は控えるだろう、多分。
朝飯 トンローsoi8ちかくのガオラオ屋のガオラオ(大盛り)、日本から持ち込んだ百德食品公司の豆板醤に卓上の酢とナムプラーを加えたナムチム
昼飯 バンコクMGのお弁当
晩飯 “Banana House”のホーイラーイ、当方の注文がうまく通らなかったために届いた不明のひと皿、トードマンクン、麦焼酎「いいちこ」(ソーダ割り)
2019.6.21(金) タイ日記(2日目)
泊まっている”The Residence on Thonglor”は、どうも壁が薄いらしい。ファランの騒ぐ声で目を覚ます。時刻は3時10分。僕は素っ裸で、しかもベッドの中ではなく、シーツでくるまれた掛け布団の上で寝ていた。このような、風邪の元になるようなことは、厳に慎まなくてはならない。
朝の散歩は、ホテルのあるsoi25付近から北へ進み、センセーブ運河に架かる橋を渡ってトンローの通りの北端まで行く。突き当たったところはペッブリーの大通りだった。そこできびすを返し、トンローの桟橋からふたたび橋の上に昇って南へ戻る。その途中、先ほどまで行列のできていた路上のぶっかけメシ屋で朝食を摂る。
3月の訪タイ時に持ち帰ったバーツは4,666.5バーツ。僕は旅先では、日本にいるときよりもお金は使わない。行き先が田舎であれば、これで1週間は充分に持ちこたえられるだろう。しかし冷静に考えてみれば、今回は、これだけではとても足りない。午前のうちに舟でプラトゥーナムへ行き、カオマンガイの繁盛店が並ぶ界隈を歩いて運河の太鼓橋を渡る。その先にかたまってある3軒の両替屋スーパーリッチのレートを調べると、2軒が1万円あたり2,860バーツ、1軒が2,855バーツ。よってレートの良い2軒のうちの1軒で10万円をタイバーツに替える。帰りの舟は大型の急行で、これには初めて乗った。
さて、明日はバンコク在住の同級生コモトリケー君と夕食を共にすべく待ち合わせをしている。場所はルンピニーのQハウスにあるホーキッチンの前。僕にとっては未知の場所にて、土壇場で齟齬を来してはいけない。日が中天にさしかかるころに赤バス、BTS、MRTを乗り継いで、ルンピニーまで行ってみる。しかし当該のホーキッチンは見あたらない。馬蹄形のカウンターの案内で訊ねても、オネーサンは知らないと言う。取りあえずは撤収である。
MRTでスクムビットまで戻ったところで空腹に耐えられなくなる。時刻は13時40分。すこし歩いて昨年の6月に来た中華料理屋に行ってみる。オジサンは入口の常温の席ではなく、冷房の効いた奥へのガラスの戸を引いて僕に手招きをした。メニュで選んだ香港炒麺はできないとのことで「こちらならある」とオジサンが勧めた福建炒麺で胃を満たす。
トンローに滞在をすると、この、南北に延びる総延長2.5キロの通りのどこからでも乗れてどこででも降りられる赤バスには、数え切れないほど世話になる。始発から乗った赤バスの右はす向かいに「歩くバンコク」のところどころに付箋を貼った中年の女の人が座って、不安そうに窓から左右を見ている。声をかけると、グランドセンターポイントで人と待ち合わせをしているという。そこはsoi9の真ん前だ。ちょうどそこに差しかかったところで僕は昇降口の上のボタンを押し、女の人には右手を指さし、黒と金色の、そのホテルを教えて上げる。女の人は僕と車掌に礼を述べて降りていった。
午後はほとんどプールサイドで本を読む。きのうの日記にも書いたことだが、ここのプールには日傘が無い。仰向けで本を読んでいると、顔も胸も腹も、ごく短い時間で焼けるように熱くなる。そのたび水に入ってからだを冷ます。
日が西に傾くころに、ようやくシャワーを浴びて部屋へ戻る。充電中のiPhoneを取り上げ見ると、バンコクMGの前夜祭は19時からの予定だったものの、18時ころから三々五々、集まりはじめる旨の知らせがタナカタカシさんから届いていた。急がなくてはならない。
家族が使おうとすれば間違いなく「止めろ」と反対をするだろうバイタクを捉まえて「トンロー、パクソイ」と告げる。バイタクの運転手はヘルメットをかぶり、手袋までしている。それに対して客は丸腰というかなんというか、身を守るものは何も無い。バイタクは混み合うバスやクルマの間をすり抜け、最後は反対車線を時速50キロで飛ばして、またたく間にスクムヴィットの大通りに達した。
バンコクMGの前夜祭には実に15名が集まった。会話を交わしながらの飲み食いは楽しいものの、僕は夜には極端に弱い。21時がちかくなると、席に着いたまま幾度も眠りに落ちた。
横断歩道の見あたらないスクムヴィットの大通りは、BTSの駅を歩道橋のようにして南側から北側に渡る。そして始発で客を待っていた赤バスに乗る。その赤バスの中でも眠って、車掌に起こされる。2度目は隣の乗客と車掌に起こされる。最初に起こされたときに「自分の行き先はsoi25」とでも告げていたのだろう、赤バスはホテルの前にぴたりと着けられていた。盗人がいれば身ぐるみを剥がれていても不思議でない状況である。親切なタイ人には大いに感謝をしたい。
朝飯 トンローsoi25をすこし北に上がった路上のぶっかけメシ屋のパックブンファイデーンとカイダーオをのせたごはん
昼飯 「堂記酒楼」の福建炒麺
晩飯 「スクンビットシャークフィン」のヤムウンセンプラムーク、クンオップウンセン、プーパッポンカリー、カオパップー、フカヒレスープ、他あれこれ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)