2019.3.11(月) タイ日記(5日目)
いつもと変わらず夜明け前に起床する。顔を洗うため風呂場へ行くと、シャワー室の床は濡れていて、タオルも使ってある。酔って帰っても、どうやらシャワーは浴びたらしい。おとといの日記を書くうち、外はいつの間にか明るくなっていた。チャオプラヤ川を往く、船のエンジン音が聞こえてくる。
9時すぎにプールへ行き、2時間ほども本を読む。スコータイの宿の長方形のプールは、平泳ぎ13掻きで向こう岸に達した。こちらの楕円形のプールは35掻きだった。このプールから間近に望める、建築の途中に資金が途切れたか、何年も放置をされたままの巨大な廃墟ビルには、スコータイのキモトさんによれば、ここを縄張りにしている不良にお金を払えば入れるのだという。確かに大きな落書きがたくさん、最も高いところでは屋上の更に上の、エレベータの機械室にも見られるが、そこまで階段で昇るのは容易ではないだろう。
クロントイのモツ鍋屋「ヘンチュンセン」には何年も前から行ってみたくて仕方がなく、しかし朝から15時までの営業、しかもひとりでは食べきれない量のため、長く行けずにいた。ところが先月だったか、この店をfacebookに上げているタイ在住の日本人がいたため、すかさずメッセンジャーで事情を知らせた。そうしたところすぐに返事があって、本日13時の待ち合わせが決まった。初見の人には特に遅刻は失礼と、ホテルは早めに出る。
サパーンタクシンから乗ったBTSをサラデーンで降り、シーロムからMRTに乗り換えクロントーイに着く。時刻はいまだ12時10分。外へ出て休む場所がなければ暑さに参る。よって冷房の効いたプラットフォームのベンチで12時45分まで本を読む。
現地のSIMカードを持たないため、iPhoneはデータのローミングを停めている。しかしあらかじめgoogleマップをダウンロードしておけば、1ヶ月の期間限定ではあるけれど、オフラインでもGPSが機能する。ヘンチュンセンには12時52分に着いた。
タイの好きな人たちの集まるfacebookページで知り合ったタカハシマサヤさんは、すぐに分かった。席に着くと、次々に計4名が集まった。注文はモツ鍋の大。3名はビールを頼んだが、僕は夜の酒をできるだけ美味く飲むため、テーブル上のポットのお茶を飲む。歓談は2時間以上に及んだ。タカハシさんには大いに感謝をしたい。
ところでここまで来たならオンヌットのテスコロータスへ行きたい。バンコクでラオカーオの品揃えが良いのは、僕の知る限りテスコロータスとピンクラオのパタデパートだけなのだ。MRTとBTSを乗り継いでオンヌットに着き、駅からテスコロータスへの歩道を歩きながら、タイでは酒は、日中は11時から14時のあいだ、夕刻は17時からしか買えなかったことに気づく。現在の時刻は16時を回ったばかりだ。
広い店内に突き止めた酒の売り場には、親切なことに進入禁止の帯が渡してあった。オンヌットは繁華街ではないから、マッサージ屋がそこここに見つかるはずはない。すこし考え、おなじフロアのフードコートへ行く。そしてテンモーパンつまり西瓜のジュースを注文し、それを飲みつつカウンターで本を読む。
ラオカーオの棚には、僕の最も好きな”BANGYIKHAN”は残念ながら無かった。しばらくあれこれのラオカーオを眺め渡し、最も高い”CABALLO”を199バーツで、次に高い”RUANG KHAO”を170バーツで手に入れる。
夜はオースワンを肴に飲もうと、宿のちかくの”Thip Volcanic Fried Mussel & Oyster”へ行くと、ミシュランに載ったせいか行列ができている。即、きのうとおなじ屋台街へ回り、空心菜と海老の炒めを肴にする。今夜は中国から来たオニーチャンと、しばし話をした。オニーチャンは女の人とふたりで13日間の日程でタイに来たが、相手とは興味のおもむくところが異なるため別々に行動をしていて、明日はアユタヤへ行くのだという。
屋台街は、かまぼこ形の巨大な立体駐車場を取り巻くようにして、鉤の手に延びている。その露店と露店のあいだを、来たときとは逆に辿って部屋に戻る。
朝飯 きのう”PG211″の機内で配られたほうれん草のパイ、インスタントスープ
昼飯 「ヘンチュンセン」のモツ鍋(大)
晩飯 シャングリラホテルバンコクサービスアパートメント裏の屋台のパックブンファイデーンサイクンドゥワイ、ラオカーオ”Colt’s Silver”(ソーダ割り)
2019.3.10(日) タイ日記(4日目)
闇の中に目を覚まし、しばらくはそのまま横になっている。ベッドのサイドボードにiPhoneを手探りし、ホームボタンを押すと、時刻は2時44分だった。夜はさしてすることもないから、夕食を摂ってシャワーを浴びればすぐに寝てしまう。そういう次第にて、旅先では早寝早起きの性向が更に強くなる。また、生活の時間配分をこのようにしないと、旅の最中の異常に長い日記は書けない。
「フーイッ、フーイッ」と啼く鳥の声に促されるようにして起床する。この、インドシナに多く棲むらしい鳥は、場所により微妙に啼き方を変える。ナラティワートでは「ホーイッ、ホーイッ」と啼いていた。フアヒンでも啼き方は、また異なっていた。鳥の声にも方言というものがあるらしい。
おとといの日記を書き上げ「公開」ボタンをクリックする。時刻は7時を過ぎている。朝食を摂るため、目の前の食堂棟へ降りていく。食後にフロントへ行き、プールの開く時間を訊く。その9時までは部屋できのうの日記の途中までを書き、また荷造りをする。
静かなプールでは2時間ほども本が読めた。11時15分に部屋に戻ってシャワーを浴び、身支度を調える。そして11時47分にチェックアウトをする。初日に復路の分も予約した”EDDY Airport Transfers”のワゴン車は驚くべきことに、レシートに印刷されている12時30分に、いささかも違わずに来た。乗り込んだのは、僕と東洋人のオニーチャン、白人のオニーチャンの3名。途中の”Blue House”という宿で更にひとりの白人オニーチャンを乗せ、空港には12時46分に着いた。
「空港はどこですか」と、スーツケースを曳きつつ日に焼けた、朝、一緒にワゴン車に乗り込んだ白人のオニーチャンが訊く。「あそこだよ、可愛い空港でしょ」と目の前の建物を指す。「まるでスーベニールショップみたいですね」と、オニーチャンは感嘆と呆れと嬉しさの入り交じった笑顔を浮かべた。タイエアウェイズが所有する空港のカウンターに係はふたり。オニーチャンはチェックインを済ませると即、搭乗待合室へと向かった。
2月14日に発症した「腹減らない病」は、この旅の初日あたりに快癒した感触があった。つまりは腹が減っている。空港の、木造の建物の軒下に”FOOD & BEVERAGE”という札が提げられている。しかしその矢印が示す方へ行っても食堂らしいものは見あたらない。戻って警備員に訊くと、英語は解さないらしい。タイ語で言い直すと、200メートルほど先の、屋根だけの建物を指す。よって散水車が水を撒いたばかりの濡れたアスファルトを踏んで、そちらの方へ歩いて行く。
そこはなかり大きなフードコートで、お菓子ばかりを売る店や、飲物ばかりを売る店など、複数の棟から成っていた。スコータイで食べたバミーは2回とも外れだったから、今日はセンヤイを頼んでみた。ところで「センヤイナム」の発音は中々に難しく、外国人のタイ語に慣れていないタイ人には通じにくい。今回も二人目のオネーサンがようやく理解してくれて、何とか注文を通す。
25バーツという、地方ということを勘案してもかなり安い、そして悪くない味のセンヤイナムを食べ終えたころ、ワゴン車に同乗していた東洋人のオニーチャンも昼食を摂りに来て「日本人ですか」と僕に話しかけた。「あ、日本の方でしたか、あの宿、良かったですね」と答えたら「実は日本語は話せないのです」とオニーチャンは言葉を英語に切り替えた。
オニーチャンは、北京出身で現在は香港の会社に勤めている。バンコクには仕事で来たが、週末の休みを利用して遺跡を観光した。日本には二度、行った。一度目は東京と京都と富士山という有名どころを訪ね、二度目は九州を周遊した。ナガカキは日本にとってとても残念なことだったが原爆資料館にも行ったなどと語った。僕のスコータイに来た目的は宋胡録の窯跡を見るためと話したけれど、オニーチャンはスコータイの焼き物については知らなかった。宋胡録は中国の技術によるものだけに、中国には輸出はされなかったのかも知れない。流暢な英語を話し、非常に紳士的、非常に控え目なオニーチャンだった。
14:05 保安検査場を抜けて搭乗待合室へ行く。
14:42 ボーディング開始
14:47 遊園地の遊覧バスのような乗り物で飛行機まで運ばれる。
15:06 ATR72-600″を機材とする“PG210″は、定時に6分おくれて離陸。
極端に細長く区画された農地が機窓から見えてくると、バンコクは近い。その農地には最近、大変な速度で建て売り住宅のような建物が増えているような気がする。
16:13 “PG211″は定刻より7分はやくスワンナプーム空港に着陸。
16:43 回転台からスーツケースが出てくる。
16:55 エアポートレイルリンクが空港駅を発車。
17:52 パヤタイ、サイアムで乗り換えたBTSがサパーンタクシンに到着。
17:57 徒歩で定宿の”Centre Point Silom”に到着。
コーランが聞こえる。時刻は18時30分。運動会が始まると同時に騒音に対する苦情の電話が学校にかかるような、日本は苦情大国になってしまった。日本のイスラム寺は無事だろうか。本とラオカーオとステンレス製のコップをスーパーマーケットの袋に入れて外へ出る。そしてセブンイレブンで350ccのソーダ2本を買い、シャングリラホテルバンコクサービスアパートメント裏の屋台街まで行く。
目の前に豚のチムジュムが運ばれると「写真映えしそうな料理ですね、撮らせてもらっても良いですか」と、ひとつ置いてとなりの椅子に着き、トムヤムクンとごはんを肴にビールを飲んでいた白人の爺様が話しかけてくる。ドイツ人で完全に引退した77歳。現在は7週間の旅程の最終週で、カンボジアとラオスを回ってきた。現役時代の仕事は海洋の調査に関係することで、掘削船ではニューカレドニアにも行った。日本には船で横浜に入り、東京だけは観光できた。スコータイは4年前に自転車で巡った。医者に言われて自転車には毎日、乗っているなどと語った。
それにしても7週間とは羨ましい。タイは、観光ビザを取ることにより3ヶ月の滞在が許される。僕もできるだけ早く、ドイツ爺のような身分になりたいものだ。
すぐ近くのフードコートを覗き、日の暮れるころコーランの聞こえてきたイスラム寺院の脇を抜けて、ホテルには脇の柴折り戸から入る。以降の記憶は、無い。
朝飯 “Thai Thai Skhothai Guest House”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 スコータイ空港のフードコートのセンヤイナム
晩飯 シャングリラホテルバンコクサービスアパートメント裏の屋台のチムジュムムー、ラオカーオ”Colt’s Silver”(ソーダ割り)
2019.3.9(土) タイ日記(3日目)
目的には義務が生じる。義務は、たとえそれが自分の興味のおもむくところのためではあっても、ある種の気の重さを生む。今回の旅の目的は、宋胡録の窯跡を訪ねることだった。その目的を旅の2日目に果たして気分は一気に楽になった。今日は、初日に辿り着けなかった遺跡へ行く。本日すべきことは、それがすべてだ。
07:05 朝食。
08:45 おとといの日記を完成させてサーバに上げる。
08:50 これまでの洗濯物をロビーに預け、部屋に戻ってきのうの日記に取りかかる。
09:49 自転車で宿を出る。
09:59 遺跡の入口で人間100バーツ、自転車10バーツの入場券を買う。
「遺跡を観るために必要な教養に欠けているから遺跡にはそれほど興味は無い」と、おとといの日記には書いた。よって今日の行いは、正に見物、物見遊山、あるいは散歩である。それにしても、きのうのシーサッチャナーライの遺跡とおなじく、このスコータイの遺跡も、維持管理は素晴らしい。密林を切り拓き、数百年も眠っていた寺院を今日の姿にするまでには、どれほどの手間がかかったことだろう。
先ずは、東西に1,800メートル、南北に1,600メートルの、三重の土塁に囲まれた城内のほぼ中央に位置するワットマハータートの前に自転車を駐める。日干しレンガの参道に歩を進めつつ、かつての大伽藍を想像しようにも、その手がかりが僕にはまったく無い。増築と修復が繰り返されたという境内は複雑に入り組んでいる。その迷路のような赤土を踏むうち、柱と柱のあいだに仏の大きな立像に行き当たる。
取りあえずは、この仏像の手前にある基壇の影でひと休みする。と、タイ人なのだろうか、靴を脱ぎ、その像の足下にぬかずいて、ひとりのオジサンが礼拝を始めた。なるほど僕は遺跡を観るために必要な教養には欠けている、しかし仏像を拝むことはできる。そう気づいてオジサンが去った後は僕もその場所に入って、しかしオジサンとは異なって、日本式に手を合わせる。立像は寺院の左右に2基があったから、左側に続いて右側の方にもお参りをしておく。
きのうのシーサッチャナーライの疎林とは異なって、こちらの遺跡は圧倒的な緑に支配をされている。その木陰の道に自転車を走らせ、ところどころで停まり、あたりを見まわし、そしてこの”Sukhothai Historical Park”の中心部を出る。時刻は11時05分。宿までは自転車で10分。シャワーを浴びてひと休みだ。
僕が泊まっている”Thai Thai Skhothai Guest House”の居心地は、しごく良い。しかし食堂のある遺跡の入口までは、歩くて行くにはちと遠い。宿に帰ったばかりではあるけれど、自転車を借りて、先ほど走ったばかりの遺跡の入口ちかくまで引き返す。そして初日に目をつけておいた店で汁そばを食べる。
きのうの食堂のバミーも、また今日の食堂のバミーも、鹹水が強い割に茹でが甘い。茹でが甘いとは、麺を茹でるお湯が沸騰していないか、お湯の量が少ないか、という感じで麺がベタついている。バンコクでは美味い麺を食べようと思う。
タイでは、外へ出ると、部屋へ戻るたびにシャワーを浴びる。汗だらけになるからだ。そしてクーラーを効かせてベッドに横になる。その、横になったままの角度からガラス戸の外を見る。午後の日が真上から差して、床のタイルは火傷をするくらい熱くなっているはずだ、「こんなことをしている場合ではない」と跳ね起き、プールへ行く。そして日が陰るまでの2時間ほどを、本読みと水泳にあてる。
夜はまた、昼食を摂った付近まで自転車を走らせる。途中に市が立っていたのは、今日が土曜日の夜だからだろう。おととい、きのうに続いて同じ店の同じ席で本を読み、ラオカーオのソーダ割りを飲む。
朝飯 “Thai Thai Skhothai Guest House”の朝のブッフェ
昼飯 遺跡の東門に背を向けて参道の左側にある食堂のバミーナム(大盛り)
晩飯 “SUREERAT RESTAURANT”のパッガパオヌア、ラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)
2019.3.8(金) タイ日記(2日目)
僕の旅の目的は、ほぼ常に「何もしないということをする」だ。しかしすべきことを持つ場合もたまにはある。宋胡録の名物を持つつもりはない。しかし小堀遠州の時代にはるばる海を越えて渡来した、その器の源流を辿ることには隨分と前から興味があった。宋胡録の窯跡には、どのようにして行けば良いのか。
宋胡録の窯跡は、サワンカロークの街から数十キロほど山の中に入ったところにある。バンコクからサワンカロークまでは鉄道が通じているものの、移動の効率は良くない。よって着いたばかりのスワンナプーム空港からいきなりスコータイに飛んだ。スコータイの旧市街からサワンカロークまでは50キロの距離がある。先ずはこれをどう詰めるか、だ。
2016年6月の第1回バンコクMGで知り合ったキモトタカヨシさんが、サワンカロークに住んでいることは知っていた。あるとき検索エンジンに当たっていると、そのキモトさんが現地のタクシーやサムローの紹介業務をしていることが分かった。渡りに舟とはこのことだ。即、キモトさんに連絡を入れたことは言うまでもない。
朝食を済ませて7時25分にロビーへ行くと、キモトさんは既に来ていてコーヒーを飲んでいた。駐車場にはキモトさんの叔母さんの、トヨタの真新しいピックアップが駐められている。
07:45 宿を出発。
08:30 サワンカローク着。
08:55 レームさんの操縦するサムローに乗り換え、サワンカロークを出発。
09:12 「シーサッチャーナーライ国立公園まで10キロ」の標識が出る。
09:25 脇道に逸れて城門のような”TAO MOR GATE”からタマリンドの林に入る。
レームさんが道ばたにサムローを停める。エンジンの音が止むと、木々の風に揺れる音と鳥の啼き声だけが聞こえてきた。レームさんの指さす、小径から30メートルほど離れたところに2基の窯跡が見える。サムローの椅子から降りて、落ち葉の軟らかく積もった斜面を降りていく。
写真では分からなかったことだが、瓢箪型の窯は、人為的に作られた斜面に築かれていた。窯を瓢箪にたとえれば、面積の広い方に焼成前の土器を入れ、その手前から薪を焚く。火は窯の中を駆け上がってくびれた部分を通り、その先の丸いところを煙突として上に抜けるのだろう。一目瞭然、百聞は一見に如かずとはこのことだ。
その”Ban Pa Yang Kiln Site”から更に4キロほど奥へ進んで”Ban Koh Noi Kiln Site”に足を踏み入れる。眼下にヨム川がゆるやかに流れるこの丘には、先のパーヤン村よりもたくさんの、それも時代の異なる窯跡が集まっている。先ずは東屋のオバサンに100バーツを支払って、目と鼻の先の博物館に近づく。入口には「靴を脱いでください」、「発掘部分に降りないでください」、「発掘部分の陶片を拾わないでください」という注意書きがあった。そして42番、続いて123番の窯跡を見る。管理人はひとりのみ、客は僕のみ、である。
博物館のまわりにも、いくつもの窯跡がある。”Ban Pa Yang Kiln Site”にくらべてかなり多くの窯が、この”Ban Koh Noi Kiln Site”には集まっているようだ。時間は充分に取ってある。「レームさんは…」と見ると、巨木の陰の東屋で、先ほどのオバサンと世間話をしていた。僕は枯れ草を踏んで斜面を登り、できるだけ多くの窯跡を回る。
来た道を戻りながら、今度は右手にある博物館”Centre for Study & Preservation of Sangkhalok Kilns”も訪ねる。レームさんが僕の見たいところを外さず案内してくれるのは、キモトさんの奥さんのポップさんに、かなり言い含められているからに違いない。その”Centre for Study &…”では、178番窯、そして61番窯を観る。手渡されたパンフレットの、窯に関する部分の英文を僕なりに訳せば以下になる。
—–
最も初期のタイプの窯は、11~12世紀ころコーノーイ村に現れた。それらは地下に掘られた塚のようなもので、陶器の焼成室と焚き口を分けるための壁はいまだ無かった。14~15世紀になると、窯は地上にレンガによって築かれ、陶器作りに関わる人たちの工夫により、様々な形を持つに至る。そしてここで焼かれた陶器はサワンカローク焼きとして、日本、インドネシア、フィリピンに輸出をされた。
—–
さて、ここまで来たら残るはシーサッチャナーライ遺跡だ。駐車場には、お土産屋や食堂が鉤の手に並んでいた。レームさんは英語を解さないため、僕の2歳児にも劣るタイ語で「ごはん、一緒に食べましょう」と提案すると「食事は済んだ」とレームさんは言う。確かにレームさんは、サワンカロークで僕を乗せる前にメシ屋に寄っていた。よってひと気の無い食堂の椅子にひとり腰かけ、汁なしラーメンを食べた後は、ここで買ったペットボトルの水500ccを飲みつつ、しばし休む。
食堂とおなじ一角にある自転車屋で真新しい自転車を借りる。30バーツは妥当な値段だ。入場料は人間ひとりが100バーツ、自転車1台が10バーツ。環濠に渡された橋を渡り、正門と思われる南東の城門から中に入る。
ワットチャーンロムの基壇を囲む多くの象は、漆喰による写実的な目を残しているものから、漆喰の内側のレンガを残すのみになっているものまであるから、その構造は手に取るように分かる。中心に位置すること、規模が最大なことからして、城内に点在する寺院の白眉は間違いなくここだろう。しかし僕がもっとも興味を惹かれていたのは、山の上にあるという2つの寺院だ。
南西から北東にかけての短辺は1km、南東から北西にかけての長辺は1.5kmほどのこの遺跡の最奥部には、小高い山がある。疎林の小径に自転車を走らせると、やがて紅く、幅広く、天空の祭壇に昇っていこうとするような階段が見えてきた。天気予報によるスコータイの最高気温は、きのうとおなじ38℃。「酔狂」ということばを頭に浮かべつつ、草の上に自転車を駐める。
枯れた苔のこびりついた、日干しレンガによる階段は115段あった。ワットカオパノムプレーンの「パノム」とは、クメール語で丘を指す言葉ではなかったか。僕に背を向け北東側を向く仏像の正面に回り込んでみる。供物は新しい。朝、ここに登って祈る信者がいる、ということだ。太陽は中天にさしかかり、その日を遮るものはほとんど無い。
すこし考えて、尾根を南西に緩やかに下る。しばらく行くと、ここでもまた日干しレンガの階段が見えた。その階段を49段こなすとワットスワンキーリーの基壇の下に出る。昇ることを許されている三段目まで上がってみる。階段の総数は29段だった。眼下の寺院群は木々に覆われて、残念ながら望むことはできない。しかしここまで来れば満足だ。計78段の階段を下りきると、右手に緩やかな坂が見えた。よって帰りはそれを下って自転車に戻る。
ふたたび疎林の中に自転車を乗り入れ、土塁の内側に沿って南東へ、更に北東へ進む。日干しレンガによる基壇と途中で折れた柱のみ残る小さな寺院の名前はワットサヤカ。シーサッチャナーライの遺跡をスコータイの遺跡のミニ版と考える向きがあれば、それは大いなる誤りと僕は思う。
自転車を返却し、レームさんの姿を探す。駐車場には数台のクルマがあるのみだ。お土産屋のオバチャンが何やら言いつつ100メートルほど先を指す。レームさんは林の木陰にサムローを駐めて休んでいた。レームさんは僕の姿を認めると、サムローにエンジンをかけて近づき「暑い?」と訊いた。「暑い、暑い、暑い」と僕は3度、繰り返した。いつものポロシャツではなく、今日ばかりは裾の開いたシャツを選んで正解だった。
遺跡を出発したのは13時17分。リヤカーを曳くのではなく逆に前からオートバイで押す形のサムローは、何かと衝突をすれば客が真っ先に死ぬ構造ではあるけれど、風の当たりは素晴らしく、ゴーグルが欲しい。キモトさんの家には13時46分に着いた。
タイでは、日中の酒の販売時間を12時から14時までに限っている。よってキモトさんには小走りで酒屋に案内をしてもらい、”Colt’s Silver”という未知のラオカーオを買う。その米焼酎1本を提げて、今度は以前、キモトさんがfacebookに上げていた、高床式の大きな家の1階部分に床机を並べたマッサージ屋に連れて行ってもらう。
今回のオバサンは強揉みの人にて、すこし弱くするよう頼む。暑さへの対策なのだろう、頭上に這わせたホースから、水が霧のように放たれている。その霧をときおり顔に受けつつ至福のときを過ごす。この至福とは、マッサージが気持ち良かったというよりも、いかにもタイらしい時間を過ごせた、という満足感によるものだ。田舎のマッサージは安くて2時間で240バーツ。オバサンには300バーツを手渡した。
迎えに来てくれたキモトさんと、叔母さんの経営する仕立屋に戻る。叔母さんは朝とおなじく、氷の入った水をくれた。水はタイ語でナム、心はジャイ。このふたつを合わせたナムジャイは「思いやり」という意味だ。叔母さんは17時に店を閉めると裏手に回り、トヨタのピックアップを運転して戻ってきた。
宿までは、キモトさんとポップさんも同乗をしてくれた。今回の旅の目的が易々と達成されたのは、まったくもってキモト夫妻のお陰である。
夜は自転車を漕いで、きのうとおなじ店へ行く。そして鶏肉のチャーハンに目玉焼きを載せてもらい、それを肴にラオカーオを飲む。テーブルの下では森山大道の「犬の記憶」の表紙にそっくりな黒犬が「何かくれ」と、濡れた鼻先で僕のすねを叩いている。その犬は無視をして、ラオカーオのグラスをゆっくりと口に運ぶ。
朝飯 “Thai Thai Skhothai Guest House”の朝のブッフェ
昼飯 シーサッチャナーライ遺跡入口の食堂のバミーヘン
晩飯 “SUREERAT RESTAURANT”のカオパッガイカイダーオ、ラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)
2019.3.7(木) タイ日記(1日目)
01:18 “BOEING 747-900″を機材とする”TG661″は、定刻に58分おくれて離陸。
00:34 ベルト着用のサインが消えるまで時間がかかったのは、雨による揺れのためと思われる。機体の設計が古いせいか、椅子の背もたれはそれほど倒れない。デパスのみで眠れるだろうかと試してみるが、いつまでも眠気が訪れないため、ハルシオンを追加する。
05:00 オフクロの遺したデパスとハルシオンによる睡眠は、常に3時間の熟睡を僕にもたらす。目覚めの気分はいつも爽快だ。
05:35 機はいまだ海南島のはるか手前を飛んでいる。
05:49 熱いおしぼりが配られるのは有り難いが、不織布のため、顔の拭き心地はいまひとつ。
06:01 朝食の配膳が始まる。
06:24 ダナンの海岸線を東から西へ横切る。ここを過ぎればバンコクまでは1時間で着く。
目の前のディスプレイで、タイ国内線の状況を調べる。スコータイへ飛ぶ07:00発の”PG211″に、期待した”DELAY”の表示は出ていない。
“TG661″は、出発時の58分の遅れを取り戻し、定刻ちょうどの日本時間07:25、タイ時間05:25にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。
05:52 パスポートコントロールの行列を整理する係のオネーサンに、バンコクエアウェイズのeチケットを見せつつ「スコータイへ行く」とタイ語で伝える。「4階ね」とオネーサンは教えてくれる。
05:57 パスポートコントロールを抜ける。
06:00 回転台からスーツケースが出てくる。奇跡的な速さに感謝する。
06:14 到着階の3階から出発階の4階へ上がり、バンコクエアウェイズのカウンターでチェックインを完了。
06:24 “Domestic Departures”の保安検査場を抜ける。
06:35 バンコクエアウェイズの搭乗券を持っていれば誰でも入れるラウンジのカウンターに着き、コンピュータを開いてwifiを探していると、いきなり僕の名前がアナウンスされる。
ラウンジはす向かいの”A2A”ゲートの前に立っていたオネーサンに名を告げる。タイ人らしいひっつめの髪を後ろに丸くまとめた、薄紫色のパンツスーツ姿のオネーサンは、黒いパンプスのかかとを鳴らしつつ、人っ子ひとりいない搭乗待合室を突っ切っていく。おなじ色のスーツを着たオバチャンが、僕の搭乗券を読み取り機に差し込んで僕に戻す。
オネーサンに従って外へ出ると、銀色のワゴン車が待っていた。「隨分とまぁ、忙しいね」と声をかけると、オネーサンは歯を見せず作り笑いを浮かべる。僕がワゴン車に乗り込むなり、オネーサンは「211」と、僕の乗るべき飛行機の便名をタイ語でワゴン車の運転手にを伝えた。
“PG211″のタラップを駆け上がる、僕は最後の客だった。席に着いて、ようやく事態が飲み込めた。タイに着いて2時間を遅らせたつもりの腕時計は、実際には3時間も遅らせてしまってあった。昨年の9月とおなじ過ちを、またも僕は犯していたのだ。次回は「しっかり確認」と書いたポストイットを腕時計に貼っておく必要があるだろうか。
06:55 “PG211″は滑走路へ向けてタキシングを開始。
07:10 “ATR72-600″を機材とする “PG211″は、定時に10分おくれて離陸。
「水に魚あり、田に米あり」と、その豊穣さを第3代ラムカムヘン王が謳った緑の大地を機窓から眺めるうち、“PG211″は定刻より4分はやい08:16にスコータイ空港に着陸をした。滑走路から遊園地にあるような壁の無いバスで運ばれた空港の建物は、喩えようもないほどの愛らしさだ。機内に預けた荷物は即、その建物にトラックで運ばれる。磨き抜かれたトイレの洗面鉢は、サワンカローク焼きによるものだった。
出口へ向かって数メートル進んだ右側に”SHUTTLE BUS”の看板が見えたため、側に立つオニーチャンに「旧市街まで」と、声をかけてみる。「ホテルはどちら」と訊かれて答えると「そこ、コースに入ってます」と、たくさんのホテルの書かれた板から、その名を指してくれた。片道300バーツは妥当なところだ。「往復ご利用いただくと、復路は20パーセント引きです」と、発券係のオバチャンがすかさず別の板を見せる。僕は貴重品入れからバンコクエアウェイズのeチケットを取り出し、それをオバチャンに渡す。オバチャンはコンピュータに何やらを入力し、3月10日の12時30分にホテルに迎えに来る復路のレシートを出してくれた。
旅の最中にはコクヨのA5のノートを持ち歩き、何時に何をしたかを書き記す。しかし目的地に着いたときばかりは安心して気が抜けるのか、それをし忘れる。南国に特有の、屋根だけのロビーにワゴン車が横付けされたのは、9時30分ころだったと思う。ワゴン車に乗っていたのは、僕のほかにはファランのカップルがひと組。この街にホテルがどれほどあるかは知らないけれど、彼らもまた、ここで降りた。
チェックインをする僕の横ではこれからどこかへ向かうらしいファランの女の人がベンチに腰かけ、特に隠す様子もなく赤ん坊に乳をくれている。フロントにはとても感じの良い女の人がふたりいて、そのうちのひとりは僕に「チェックインは14時です。それまでプールにいらっしゃいますか」と、バスタオルを手渡してくれた。即、スーツケースから水着とゴム草履と本を取りだし、教えられた先のプールへ行く。そしていくつも並べられた寝台に仰向けになり、14時まで本を読む。
14時すぎにフロントへ行くと、朝の女の人が鍵を持って、点在するコテイジのあいだを案内してくれる。僕が予約をした部屋は、10部屋ほどが収まっているらしい建物の2階にあった。僕はコテイジは、寂しい感じがしてそれほど好きでないのだ。チェックインの際にフロントに預けたスーツケースとザックと革靴は、それぞれに部屋の番号を書いた紙が付けられ、既にして運び込まれたいた。
「チークの小函」といった感じの部屋を早速、自分ごのみにする。自分ごのみにするとはつまり、4つある枕のうち3つを部屋の隅に片づけ、枕元のライトスタンドを書き物机に移す。そしてそのコンセントを、テレビのコンセントを抜いたジャックに差し込む。机の4分の1ほどを占領していたお茶のセットはお盆ごとベッドのサイドボードに移し、ドライヤーの載っていたお盆は乱れ籠代わりにする、というようなことだ。
スコータイは世界遺産に指定をされた遺跡の街だ。宿はその遺跡に近い旧市街にある。しかし僕は、その遺跡にはそれほど興味は無い。遺跡を観るために必要な教養に欠けているのだ。とはいえここまで来たら、たとえ物見遊山だとしても、遺跡には入っておくべきだろう。そう考えてチェックインの際にもらった絵地図1枚を持ち、ホテルの自転車を50バーツで借りて外へ出る。時刻は15時50分だった。
フロントの女の人は、遺跡までの距離を1.5キロと教えてくれた。ホテルから遺跡までの道は頭に入っている。スコータイの、このところの日中の最高気温は38℃。二毛作か三毛作の狭間にあるのか、耕されたまま乾ききった畑を両側に見ながら自転車は軽快に走る。しかし何かおかしい。地図によれば東西約1,800m、南北約1,600mの、三重の城壁に囲まれているはずの中心部分に、いつまでも辿り着かないのだ。
そのうち道が二股に分かれる。左は明らかに方角が違う。だったが右か。しかし標識には”Sukhothai Historical Park 3.7km”の文字がある。遺跡はホテルから1.5キロのところにあるのではなかったか。とにかく右の道を選んで進む。途中、遺跡は、まぁ、あるにはある。しかしいずれも小さく、本やインターネット上でよく目にするところのものではない。
炎天下、ときおりオートバイが通り過ぎるだけの田舎道にペダルを踏み続ける。行きつ戻りつするうち、今度は”Sukhothai Historical Park 2km”の標識が現れる。2キロ進んで何も見つからず、引き返すことになれば往復で4キロだ。しかし行ってみるしかない。するとやがて環濠の跡らしいところに行き着いた。これは土塁の一部だろう。なおもペダルを踏み続けると、城門が見えてきた。前後の状況から、どうやら南側の門らしい。ようやく自分の現在位置を特定できて、東の正門ちかくの入場券売り場まで辿り着く。迷走の原因は、宿と遺跡との位置関係を、ハナから間違えていたことによる。途中のお土産屋で1枚10バーツの絵はがき10枚を買いながら、ようよう宿に戻る。時刻は17時53分。全身、汗まみれである。
宿のちかくに食堂は無い。スコータイ旧市街にひとつだけある繁華街は、面白いことに、遺跡の城壁の中にある。宿から自転車を1キロほど走らせ、その城壁内に市場を見つける。外国人で鈴なりの食堂に興味は無い。市場なら地元の人のための食事場所があるだろうか。そう考えて自転車を駐めようとすると、宿から預かった鍵の、鎖の部分はあるが、南京錠が無い。どこかで落としたに違いない。
宿へきびすを返しつつ「ことによると」と、ふたたび引き返す。そして夕刻に絵はがきを買ったお土産屋まで戻り、そこから宿までの薄暗い道に目を凝らしつつ自転車を走らせる。南京錠は、どこにも落ちていない。最後の希望であった、部屋の中にも南京錠は見あたらなかった。
「失くした南京錠は弁償して、新しいチェーンキーを借りよう」と、ビニールのチューブで覆われた鎖のみを手にフロントへ行く。すると僕の姿を認めた女の人が、どこかで拾ったらしい南京錠を僕の目の前に差し出した。今回の旅は初日からあれこれあるけれど、結局のところ、僕は運に恵まれているらしい。
ふたたび遺跡へ向けて自転車を漕ぐ。そして現地の客しかいない食堂の、外の電柱に自転車を繋ぐ。時刻は19時03分。オジサンが勧めてくれた外の席には光がふんだんにあって、本を読むにはまったく差し支えがない。注文はソーダと氷、メニュに無いラーメンサラダ。そしてそのサラダを肴にして、持ち込んだ焼酎によるチューハイを、ゆっくりと飲む。
19時48分に宿に戻る。本日、自転車を漕いだ距離は20キロほどになるだろうか。シャワーを浴び、コンピュータを起動して今日の日記を書き始めると、間もなくwifiの電波が切れた。しばらくすれば復旧するだろうかと考えつつ、取りあえずはベッドに横になる。
朝飯 “TG661″の機内食
昼飯 “PG211″の機内食
晩飯 “SUREERAT RESTAURANT”のヤムママー、ラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)
2019.3.6(水) これほど忙しい旅の出発日
9時に銀行へ行き、10時30分から場長会議。会計事務所が用意した書類に昼すぎに署名捺印し、ふたたび銀行へ。13時に3月の仕入れの打合せ。原材料の供給を頼んでいる会社に連絡をし、時間の関係から昼食は簡単に済ます。
午後は14時30分から商談。16時30分からは、月末に控えた団体旅行の下見にいらっしゃった旅行社の2名様を隠居と工場にご案内。17時に閉店。キャッシュレジスターを締めて4階に上がり、荷造りの最後のところ、たとえば夕方まで使っていたiPhoneやコンピュータなどをザックに詰める。着替えを済ませると18時10分。東武日光線の下今市駅までは家内に送ってもらう。
19:00 定刻に3分おくれて「きぬ146号」が下今市を発車。
20:33 北千住着。
20:36 日比谷線の車両が北千住を発車。
21:35 人形町から都営浅草線に乗り換えて羽田空港国際線ターミナル着。
21:57 タイ航空のカンターでチェックインを完了。預け荷物はスコータイまで届けられない旨を知らされる。
22:06 保安検査場を通過。
22:10 パスポートコントロールを通過。
22:36 夕食を完了。
22:59 107番ゲート付近の仕事机からきのうの日記を公開する。
23:27 105番ゲートに達する。
チェンマイやチェンライへ行こうとするときには、日本から着いたスワンナプーム空港で”Transfer to Chiangmai,Chiangrai,Phuket,Krabi,Samui,Hatyai”と案内される方へ歩いていけば、パスポートコントロールがあり、保安検査場があって、そのまま国内線に乗り継ぐことができた。しかし先ほどのタイ航空の職員によれば、スコータイへ行くときには、先ずタイに入国をし、回転台で機内預けの荷物を受け取って、バンコクエアウェイズのカウンターでふたたびチェックインをする必要があると教えられた。
「スワンナプーム空港 スコータイ 乗り換え」と検索エンジンに入れてみると、時間切れでこれに失敗をした人のウェブログが見つかった。僕の乗る”TG661″がスワンナプーム空港に着く予定時刻は05:25、それに対してバンコクエアウェイズ”PG211″の出発時刻は07:00。中々の、時間の余裕の無さである。
23:37 よりによって”TG661″に、機体点検による遅れが生じている旨のアナウンスがある。
23:56 きのうの朝食を会社のfacebookページに上げる。
23:57 搭乗開始。
朝飯 「しいたけのたまり炊」と里芋と鶏肉のすき焼き風、納豆、たぐり湯波と人参の炊き合わせ、鯖と烏賊の西京焼き、蓮根のきんぴら、椎茸と三つ葉と刺身湯波のおひたし、ふきのとうのたまり漬、メシ、蜆の味噌汁
昼飯 小豆と桜花のパウンドケーキ、コーヒー
晩飯 「魚がし日本一」の梅しそ巻き、トロタク巻き、ネギトロ巻き
2019.3.5(火) ようやく新年会
「1週間に2回の割で通院して、計8回で快方へ向かう可能性が高い。それで駄目なら、そこから更に8回」と言われたカイロプラクティックでの、本日は15回目の施術日である。
先々週、12回目の施術の際に「もっとも痛かったときを10とすると、今の痛みはどれくらいですか」と先生に訊かれた。
背骨と右の肩胛骨のあいだは昨年の10月から痛み始め、鍼や気功や低周波による治療を計7回うけてまったく効かず、遂に、12月25日に整形外科を訪ねてブロック注射を打たれるに至った。年末年始の休みの明けるのを待ちかねたように1月4日に2度目のブロック注射を受け、しかしそれらの注射の効果は、半日か一日で霧消した。
1月15日には、より大きな病院でMRIによる頸部から背部にかけての断層写真を撮り、それをその病院と地元の整形外科とで解析してもらったが、痛みに対する明確な原因は特定できなかった。そんなときに、facebookに上がったお客様の書き込みにより現在の治療院を知った。治療院の先生は僕が持ち込んだMRIによる写真を見て「まったくフツーですよ」と一笑に付した。先生は過去に長いあいだ、レントゲン技師として働いていたのだ。
とにかく「もっとも痛かったときを10とすると、今の痛みはどれくらいですか」と訊かれて僕は少し考え「2… くらいですかね」と答えた。すると先生は「『まだ痛みが2、残っている』と考える人は、いくら治療を施されても1の痛みが残ります。それに対して『8割も痛みが無くなった』と考える人は必ず全快します」と、僕に向けた目を大きく見開いた。
「なるほど人の体を治そうとする人は、時に宗教家のようなことも口にするんだな」と僕はそのときに思った。そして現在、僕の背中の痛みはもっとも痛かった年末年始のそれを10とすれば0.5、朝から午前にかけては0.3くらいのところまで回復をしてきている。
「これからは週イチで良いでしょう」という先生の声に送られて治療院を去る。明後日の朝はスコータイにいる。現地では1日のほとんどをプールサイドの寝椅子に仰向けになって過ごす。背中の痛みは更に減ずるだろう。
夜は地元の勉強仲間に集まってもらい、遅い新年会を催す。
朝飯 「なめこのたまり炊」の雑炊、キクラゲと鱈子の佃煮、じゃこ、ふきのとうのたまり漬、大根と胡瓜と生姜としその実の醤油漬け、すぐき
昼飯 「あさひや食堂」のハムエッグ定食
晩飯 椎茸と三つ葉と刺身湯波のおひたし、たぐり湯波と菜花と人参の炊き合わせ、大根おろしを添えた厚焼き玉子、「しいたけのたまり炊」と里芋と鶏肉のすき焼き風、鯛の刺身、鯖と烏賊の西京焼き、チーズの「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」漬け、トマトと胡瓜とレタスと若布のサラダ、牛肉の「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」漬け焼き、たまり漬「刻みザクザクしょうが」と「しその実のたまり漬」のおむすび、イチゴのババロア、小豆と桜花のパウンドケーキ、”Cono Sur”のスパークリングワイン、「片山酒造」の2種の日本酒(冷や)
2019.3.4(月) 葬式スーツ
先般、商談におもむく際に、長男がスーツを着ていないことを見とがめて質すと、自分は葬式用のスーツしか持っていない。葬式用のスーツで商談をするわけにはいかない。だからスーツは着ていかないのだと答えた。そのとき僕の着ていたスーツは正しく、葬式用のスーツだった。否、僕はその黒いスーツを葬式は勿論、結婚式にも仕事にも着ていく。黒いスーツは万能の筈ではなかったか。
「リクルートスーツといえば、黒の上下だろう。あの恰好で学生は企業訪問をするんだぞ」と返すと「そもそもリクルート用のスーツが黒、というのがおかしい」と長男は決めつけた。
そのような議論はさておき、数年前に決行した断捨離の結果、僕はスーツは冬用と三季用の、それぞれ黒の2着を持つのみだ。よくよく考えれば、62歳の男としては異常な少なさである。よってここに濃紺の1着を加えるべく、馴染みの仕立屋を椎名町に訪ねる。採寸は45分で完了した。こまごま書けば日記が長くなるから遠慮をするが、最近のスーツは傾向として、裾幅がいささか狭すぎやしないか。
夜は次男と湯島で待ち合わせ、夕食を共にする。
朝飯 グリーンピースの炒り豆腐、納豆、ハムエッグ、生のトマト、ほうれん草のソテー、大根と胡瓜と生姜としその実の醤油漬け、ふきのとうのたまり漬、メシ、揚げ湯波と万能葱の味噌汁
昼飯 「須田町食堂」のトマトとチーズのハンバーグステーキ、パン
晩飯 「玉響」のお通しの鰯大根、チーズの味噌漬け、空豆の炭火焼き、長須鯨の炭火焼き、太刀魚のへしこ、ポテトサラダ、肉豆腐、野生肉の炭火焼き三種盛り、冷やしトマト、「雪の茅舎」(燗)、「高千代」(燗)
2019.3.3(日) 岡山といえば
数日前にちらし鮨のことを書いた。内田百閒が食べたのは、あるいは好んだのは当然、岡山のばら鮨だろう。
岡山といえば後楽園より桃太郎より「けんかえれじい」を思い出す。それにしてもあの痛快な娯楽作は、なぜ終盤に北一輝の名の出たところで尻切れトンボで終わるのか。鈴木清順の映画を観てから40年は経つ。もともと飲み込みの悪いところに年月の陶太を受けて、記憶は曖昧になるばかりだ。
嫁のモモ君が作ったちらし鮨は鮭と小鯛のささ漬けを用いた不思議なものだったが、とても美味かった。蛤の吸い物とちらし鮨は娘のリコのために用意をされたものだが、本人は昼の来客にはしゃぎすぎて、夕食の時間には眠っていた。母親が起こそうとしてもぐずるばかりで目を覚まさない。結局のところ、彼女は桃の節句のご馳走を口にすることなく翌朝まで十数時間も眠り続けたという。
リコは女ではあるけれど、「けんかえれじい」の南部麒六のような、元気な人間に育ってほしい。まぁ、喧嘩に明け暮れられては困るけれど。
朝飯 生のトマト、グリーンピースの炒り豆腐、「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」をかけた煮奴、揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、ふきのとうのたまり漬、キクラゲの鱈子和え、メシ、豆腐と若布と長葱の味噌汁
昼飯 「カルフールキッチン」の海老フライのサンドイッチ、ホットミルク
晩飯 菜花のおひたし、筑前煮、蛤の吸い物、ちらし鮨、「三笑楽酒造」の「山廃純米」(燗)、「久埜」の草餅、”TIO PEPE”
2019.3.2(土) 必須の行い
深夜でも早朝でもない3時前に目の覚めたことを奇貨として、来週の水曜日から出かける旅の準備に取りかかる。総点数126に及ぶ持ち物の一覧は、既にしてきのうのうちに紙に出力をしておいた。
先ずは”Eagle Creek”の衣類用の袋にあれやこれやを入れて行く。昨年の9月には、シャツや下着の数を限界まで絞った。そうしたところ、宿にはランドリーのサービスがなかった。よって外の洗濯屋に頼り、しかし2度目に訪ねたときにはそこが休みで別の洗濯屋に回り、そんなことをしているあいだにシャツと下着が尽きた。その経験から、今回はその数に余裕を持った。
紙に印刷された126行のうち、もっとも多くの行数を占めるのが薬品だ。持参した薬はいつも、ほぼ使われないまま持ち帰る。それは分かっているけれど、無ければいざというときに大いに困る。薬の袋はスーツケースのかなりの空間を占めてしまう。しかし仕方がないのだ。
持ち物を印刷した紙と並べて確認をするのは、過去における失敗の箇条書きだ。たとえばあるとき、マスクは現地の、舗装されていない山道をバスで移動するときに使うものとして、手荷物ではなくスーツケースに収めた。そうしたところ、往きの飛行機の中にひどく咳をする人がいた。マスクは貨物室のスーツケースの中だから、当然、手は届かない。あのときは焦燥すること甚だしかった。
「喉元すぎれば熱さ忘れる」で、これらのことについては、日が経つにつれ軽く考えるようになる。過去の失敗の振り返りは、旅の前には必須の行いなのだ。
朝飯 鮭の麹漬け、納豆、揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、グリーンピースの炒り豆腐、大根と胡瓜と生姜としその実の醤油漬け、メシ、空豆の天ぷらと長葱の味噌汁
昼飯 「金谷ホテルベーカリー」のカレーのパイとピロシキのパイ、紅茶
晩飯 南瓜のスープ、トマトとモッツァレラチーズのサラダ、トマトと神頭烏賊のスパゲティ、”Petit Chablis Billaud Simon 2015″、”TIO PEPE”