2018.10.11(木) 山の料理屋
運動会の季節である。僕の運動会の弁当は、おむすびと決まっていた。巻き寿司や稲荷寿司は甘いため、子供のころでさえ好まなかった。おむすびこそ僕の弁当の大本命である。おむすびは、朝に食べるのも、また好きだ。
「今朝はおむすびにしようか」と家内が言ったため、喜んで同意をした。味噌汁はいつも通りに僕が作った。おむすびは鮨とおなじく酒の肴になるから、夜に食べても悪くはないけれど、夜におむすびを食べた経験は、ほとんど無い。
夜は家族5人で小来川の和食屋「炉心庵」へ行く。古い農家を再生させた建物を持つこの料理屋は、夜はひと組の客しか取らない。人柄の良いあるじ夫妻には小さな子供がいる。よって当方は気兼ねなく孫を同伴できる。肝心の味は、とても良い。酒は隨分と安く感じられる。山の中にあるため、ウチからクルマで25分ほどかかる点を除けば良いことずくめだ。
そうして特に僕は「おまかせ」で頼んだ燗酒を相当にきこしめして「熊に注意」などという看板も立てられている山道を帰宅する。
朝飯 5種のおむすび、大根のたまり漬、豆腐と水菜の味噌汁
昼飯 カレーうどん
晩飯 「炉心庵」の其の一、燗酒「い」、其の二、其の三、其の四、燗酒「ろ」、其の五、其の六、燗酒「は」、其の七、其の八
2018.10.10(水) 「ガバナンス」は「統治」と言ってくれ
秋にタイの最北部から戻ると、初秋はおろか仲秋の空気さえ、既にして失われていた。つい数日前には台風25号の置きみやげのようなフェーン現象があり、列島の各所で30℃以上の気温が観測をされた。しかしそれは気温だけのことで、日は確実に短くなっている。
先週土曜日の夕刻、18時の閉店直前に駐車場に出て何気なく視線を上げると、国道121号線沿いの看板がいやに暗い。その瞬間、看板に時限装置着きの…と、その字面を眺めれば何やら物々しい、つまり「タイマー」という外来語を使いたくないからそう書いたわけだけれど、とにかく照明の電力通断機…これまた「スイッチ」という外来語を使いたくないからそう書いたわけだけれど、つまりタイマー付きの照明のスイッチを入れる時期が来ていたことに気づいた。
よって翌日の昼に、その看板の直下にある制御板の扉を開き、タイマーを設定した。今のところは16時から18時までの通電である。そうして夕刻を迎えると、当たり前のことながら看板の「日光味噌のたまり漬」の文字が闇に浮かび上がり、心は落ち着いた。
それはさておき、かつての植民地や多くの旧植民地では、高等教育の現場において、教科書は宗主国のそれをそのまま輸入して使われることが多いと、どこかで読んだ。つまり宗主国の言語の読み書きが自国語並みにこなせなければ、高等教育は受けられない、ということだ。
その仕組みは、外国語をひとつ強制的に身につけさせられる、という点においては優れている。しかし不便といえば不便、情けないといえば情けない。
日本では、明治初期の先輩方が頑張って外来語を日本語にしてくれた。しかし以降はその頑張りが弱まって、外国語をそのままカタカナで表すことが多くなった。何でも漢字にしてしまう中国語の文化圏に暮らす人たちが、なんとなく羨ましい。
朝飯 レタスとトマトのサラダ、鮭の昆布巻き、筑前煮、納豆、穴子の佃煮、大根のたまり漬、メシ、豆腐と万能葱の味噌汁
昼飯 「ふじや」の広東麺
晩飯 ジャガイモとレタスとセロリのサラダ、5種のパテ、パン、3種のソーセージ、“Petit Chablis Billaud Simon 2015”、”TIO PEPE”
2018.10.9(火) 長持ちをさせる方法
お客様から商品の代金をお振り込みいただく銀行と、取引先に買掛金を振り込む銀行は異なっている。よって支払日が近づくと、いわゆる「移し替え」をする必要がある。他の用件にても銀行や郵便局を回る必要があり、そのために午前中の2時間ほどを費消する。「金の入ってくる銀行と、金の出て行く銀行を同じにしてしまえば楽ではないか」と言われれば、銀行にはそれぞれ利便性に異なったところがあるため、それはできないのだ。
午後、今年の4月から半年のあいだ履き続けた、メレルのジャングルモックをクリーニングに出す。そして昨年の9月から今年の4月まで履き続けてクリーニングに出し、仕舞っておいた、おなじくジャングルモックを下駄箱から出す。そして保革兼防水のスプレーを吹きつけた上で履く。こうして使えば靴は長持ちをする。しかし底は減る。ジャングルモックは底の張り替えが利かない。
紐を必要とせず、靴べらも使わず済む靴で、底の張り替えられるものがどこかにないか。あれば即、2足を買って、死ぬまでその2足を履き続けるだろう。
朝飯 細切り昆布の佃煮、梅干し、揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、穴子の佃煮、塩鮭、大根のたまり漬によるお茶漬け
昼飯 「大貫屋」の塩チャンポン
晩飯 トマトエッグドロップスープ、洋風のおかずあれこれ、パン、チーズ、“Petit Chablis Billaud Simon 2015”、2種のケーキ、”Old Parr”(生)
2018.10.8(月) 一日一食
きのうは22時を過ぎてビーフステーキを食べた。そのせいか、今朝はまったく空腹を覚えない。よって朝食には家内ひとりで行ってもらった。普段ならまったく考えられないことながら、9時45分までベッドにいて本を読む。
長男の結婚式のとき、驚いたのは、嫁の父親の時間管理の真面目さだった。「会場には〇時までにお集まりください」と係から言われれば、その30分前には服装を整え、待機をしていた。しかし僕はいつになっても、そのような余裕のある行動はできない。
今回は、ホテル内の写真館に10時30分までに来るよう言われていた。その時間に合わせて10時がちかくなってからシャツを着る。シャツは着られたものの、蝶ネクタイが締められない。仕舞いには「ホテルの中の写真館なら、美容師くらい、いるだろう」と高を括る始末である。
8階の部屋を出て3階の写真館には10時25分に着いた。こうしてどうにか間に合ってしまうから、いつまでも同じ行動を繰り返すのだ。
従姉妹の結婚式は、祝福のうちに、無事、完了した。披露宴では、”Louis Jadot”の”Meursault”をいささか飲み過ぎた。今日は一日一食で充分だろう。
部屋へ戻り、モヘアのタキシードから伸び縮みする短めのパンツと自転車用のポロシャツに着替えると、一気に身軽になった。家内は所用によりもう1泊をする。ひとりエレベータに乗ってロビーに降り、日比谷公園に面した車寄せから外へ出て、日比谷の駅へと向かう。
昼飯 帝国ホテルのバンケットルームの其の一、其の二、其の三、其の四、其の五、其の六、其の七、其の八、”Lanson Black Label Brut”、”Meursault Louis Jadot”(醸造年までは確認せず)、赤ワイン(銘柄、製造年ともに確認せず)
2018.10.7(日) そろそろ紅葉狩り
日光の秋の繁忙は、体育の日が絡む、この週末から始まる。夏の猛暑から急に気温を落とした年の紅葉は美しいという。今年の秋は「急に気温を落とした」とは、いまだなっていない。関東南部を含む列島の各所は、きのうも今日も30℃を超えているのだ。
忙しく仕事をして18時に店が閉まる。キャッシュレジスターを締め、売り上げ金を金庫に仕舞う。iPhoneで調べたところ、東武日光線の上り特急はすべて満席になっている。19時と時間を指定してタクシー呼び、JR今市駅へ行く。そして19:10発の列車で宇都宮に出る。
東北新幹線「やまびこ156号」は、フェーン現象に伴う強風により、少し遅れてプラットフォームに入ってきた。その座席に落ち着き、東京駅にはやはり少し遅れて21時前に着く。僕ひとりなら山手線で有楽町まで行き、そこから歩くところ、今日は家内がいるためタクシーで帝国ホテルへと向かう。
銀座に出ても、飲食店は休みのところが多いだろう。時間も時間である。よってホテルの中の気楽な食堂にて、それほど高くないビーフステーキを肴にそれほど高くない赤ワインを飲む。
朝飯 牛蒡と人参のきんぴら、納豆、温泉卵、揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、塩鮭、大根のたまり漬、メシ、豆腐と長葱の味噌汁
昼飯 チェンライのセブンイレブンで買ったインスタントラーメン「ママー」
晩飯 「帝国ホテルパークサイドダイナー」のアメリカ産牛肉によるステーキ、パン、“Wente Southern Hills Cabernet Sauvignon 2015”
2018.10.6(土) 帰国
足元の寒さに目を覚ます。時刻は2時30分だった。6月に、ハノイのノイバイ空港から乗った全日本空輸のビジネス席は暑かった。タイ航空の飛行機も、ビジネス席のある前の方は暑いのだろうか。眠りに就いてから3時間も経たないうちに目を覚ますことは避けたい。次からは必ず、脚に毛布を巻くことにしよう。
03:30 眠れないまま、朝食の配膳が始まる。その朝食はほとんど残した。きのうの離陸直後に配られた夜食には手を付けないまま、丸ごと返した。
04:55 定刻ちょうどに羽田空港に着陸。日本時間は6時55分。以降の時間表記は日本時間とする。
07:15 パスポートを自分で機械に読み取らせる式のパスポートコントロールを通過。
07:45 回転台からようやくスーツケースが出てくる。
07:47 羽田空港国際線ターミナル駅のプラットフォームに立つ。
07:57 京成高砂行きの車両が発車をする。
08:45 都営浅草線の浅草駅に到着。
9:00発の下り特急リバティけごん11号は満席だった。仕方なく9:08発のスペーシアけごん63号の切符を買う。タイ航空の、夜食はもとより朝食もほとんど口にしていない。しかし空腹は覚えない。地下鉄銀座線の乗り場に向かうところのドトールコーヒーでコーヒーのみ飲む。
下今市駅までは家内に迎えに来てもらった。そして午後より通常の仕事に復帰する。
朝飯 “TG682″の機内食
昼飯 チェンライで麺のみ食べた「ママー」のスープによるうどん
晩飯 キャベツと人参とウィンナーソーセージのスープ、鶏とマカロニのグラタン、食パンその1、食パンその2、“TIO PEPE”、“Petit Chablis Billaud Simon 2015”、3種の葡萄
2018.10.5(金) タイ日記(11日目)
チェンライからバンコクに南下して、空気の蒸し暑さに驚いた。チェンライの気温は常時、23℃から高くてもせいぜい28℃あたりを維持していたように思う。それがいきなりの30℃超えである。それでも夜は、ホテルの廊下や他の部屋が冷えているせいか、自室に冷房を回す必要はなかった。
8時を前にしてタイパンツにゴム草履を引っかけ、外へ出る。そしてチャルンクルン通りを北に歩く。シーロム通りとの交差点手前左側にあるいつもの店で、汁麺を朝食にする。
北欧に住む人のように太陽に飢えているわけではない。しかし朝の雲は大きく裂け目を開き、地上には日が差している。にもかかわらず、部屋のベランダから遙か下に見おろすプールに人影は見えない。即、着替えてプールサイドへ行く。そしてここの寝椅子で2時間ほども本を読む。
昼は一旦、着替えて外に出る。チャルンクルン通りを朝とは反対の南へ歩き、左手にsoi57のパクソイを過ぎると、大きめの消防署が見えてくる。これを過ぎてすぐの左側に、好きなカオマンガイ屋がある。頼むのはいつも、茹で鶏と揚げ鶏を半分ずつごはんの載せたものだ。この店はスープも美味い。そのスープの、まるで鈴虫の鳴き声を思わせるような涼やかな香りのもとは何だろう。
午後は荷造りを早々に済ませ、ふたたびプールサイドに降りる。外に裸で寝転がって本を読むなどの贅沢は、今日を過ぎれば、すくなくともこの先半年は望めないのだ。
ホテルは16時まで居残れるレイトチェックアウトにしておいた。ベル係に荷物を預け、先ずは朝の汁麺屋ちかくのマッサージ屋で脚と肩のマッサージを1時間だけ受ける。これはまぁ、夕食までの、時間調整のようなものだ。
実は昨年、サパーンタクシンから舟でチャオプラヤ川を遡る途中、右手に掘っ立て小屋のようなバーのあることに気づいた。舟に乗るたび観察をする限り、バーはいつも白人で鈴なりだった。興味を惹かれ、ことしの3月、泊まっていたオリエンタルホテルから歩いてこのバーを探してみた。バーはチャルンクルン通りsoi42/1の突き当たり、シャングリラホテルの宿泊棟とペニンシュラホテルの専用船着場のあいだに見つかった。
マッサージ屋からチャルンクルン通りを西へと渡り、すこし南に下ってsoi42/1に入る。店はチャオプラヤ川の護岸を跨いで越えたところを板張りの床にしていた。その、川に突き出すようにして渡されたカウンターに着き、ハウスワインの白を頼む。日暮れ時の川風は爽やかだ。
ワインは1杯に留めてビールに換えるころ、いきなり、無数の雨滴が空から斜めに線を引いて、此岸と彼岸とのあいだに紗の幕を張った。更に、その幕はまたたく間に川面を渡り、僕のビールと空心菜炒めに襲いかかろうとしている。
肩を叩かれて振り向くと、店のオネーサンは早くも奥まったところに僕の席を作っていた。「カウンターの方が良かったのに…」などと逆らうことはできない。ビールと空心菜には早くも、細かい雨の粒が風を伴って盛んに降りかかっているのだ。「驟雨沛然とはこのことか」と、小さな浮き桟橋の向こうに煙るチャオプラヤ川を、新しい席からしばし眺める。
雨は、シンハビールの大瓶を飲みきるころには幸い上がった。そこここに水たまりのできたsoi42/1からチャルンクルン通りに出てホテルに戻る。そして預けた荷物を受け取り、BTSの駅サパーンタクシンへのエスカレータを上がる。
19:05 ナショナルスタジアム行きの車両が発車する。
19:30 パヤタイ駅では今日も、プラットフォームに上がる人数を制限している。
19:40 スワンナプーム空港行きの車両が発車する。
車窓から見える高速道路は、空港から街へ向かう路線も、また街から空港へ向かう路線も大渋滞をしている。金曜日の夜に、街と空港との間をクルマで移動することは避けるべし。これは、おととしの10月に得た教訓である。
20:10 スワンナプーム空港着。
20:30 チェックインを完了。
20:38 保安検査場を抜ける。
20:45 パスポートコントロールを抜ける。係官と旅客を隔てるアクリル板に”NO TIPS PLEASE”の張り紙をはじめて目にする。
21:29 指定された搭乗口D1Aに達する。外では強い雨が降っている。
22:46 空港ビルからバスで運ばれた先でタイ航空機に搭乗。
“AIRBUS A350-900(359)”を機材とする”TG682″は、定刻に32分おくれて23時17分に滑走路を離れた。
朝飯 チャルンクルン通りの通い慣れた汁麺屋のバミーナム
昼飯 チャルンクルン通りの通い慣れたカオマンガイ屋のトムトーパッソム
晩飯 “Jack’s Bar”のヤムウンセンムーサップ、パックブンファイデーン、ハウスワインの白、シンハビール
2018.10.4(木) タイ日記(10日目)
泊まっているホテルは、朝、掃除の際に500ccのミネラルウォーター2本を置いていく。しかしここにきた初日は暑く、計1リットルの水はたちまち飲み干された。よって正門前のセブンイレブンを訪ね「どうぜ8泊もするんだ」と、最も大きな1.5リットル入りのミネラルウォーターを買って戻った。
しかしその後は雨がち、曇りがちの涼しい日々が続き、また毎朝、僕からチップを受け取るメイドは、そのうち日に4本、計2リットルの水を置くようになった。
というわけで、初日に買った1.5リットルのミネラルウォーターには、ほとんど手を付けないままチェンライを去る。「格安だから」と大きな単位で物を買い、しかし遂に使い切れないという悪癖は、僕の宿痾である。
08:25 迎えのクルマがホテルに来る。
08:45 メイファールン国際空港に着く。
08:50 チェックインを完了。
08:55 空港内の郵便局から、きのう書いた13通の葉書を投函する。
09:05 空港内のドイチャンコーヒーでタイ北部最後のコーヒーを飲む。
09:10 保安検査場を抜けて搭乗口のある部屋に入る。
09:32 搭乗。
09:58 “AIRBUS A320″を機材とする”PG232″は定刻に13分遅れて離陸。
11:07 “PG232″は定刻より13分早くスワンナプーム空港に着陸。
11:34 回転台からスーツケースが出てくる。
11時40分に1階に降り、整理券を発行する機械から55番の紙を受け取る。55番レーンにタクシーを停めていた運転手に整理券を見せる。運転手は僕のスーツケースを丁寧にトランクに入れてくれた。
後席に乗り込み行き先を告げると、運転手はその場所をスマートフォンで確かめ「500」と英語で言いつつ振り向いた。「正規の乗り場から乗っても、こんなにトッポい運転手がいるのか」と、いささか呆れながら「メーター」と指示する。「メーターだと高速代がかかるけど」と、今度は前を向いたまま運転手が訊く。「いいよ」と僕は返事をする。
走り出して分かったことだが、整理券にある運転手の名前と、車内にある営業許可証の名前が違っている。運転手はせいぜい40歳代だろう。営業許可証の写真は、どう見ても年寄りだ。
12:00 最初の料金所で25バーツを運転手に渡す。メーターは161バーツ。
12:14 次の料金所で50バーツを運転手に渡す。メーターは203バーツ。
12:28 バンラックのホテルに着く。メーターは289バーツ。空港使用料の50バーツも含めて360バーツを手渡す。運転手は「コップンカッ」と礼を述べ、ホテルのベルボーイに指示されるまま、クルマをチャルンクルン通りへと向けた。
25バーツ+50バーツ+360バーツ=435バーツ。運転手の言い値で来るより昼食1回分ほどは得をした勘定である。
センターポイントシーロムのフロントでチェックインをしながら「部屋の用意ができますまで、15分ほどお待ちください」と言われて了承した。しかし実際の待ち時間は45分に及んだ。はじめ提示された18階の部屋は、いつのまにか4部屋しかない最上階のそれに格上げをされていた。館内の自動販売機で使えるクーポンも、カードキーに付けてくれていた。「どうせここはタイだ」と、大人しく待っていた僕への御褒美である。
その部屋に備えつけの洗濯機で、溜まった衣類を洗う。このホテルの洗濯機を使おうとするたび「オレは実は、かなり頭が悪いのではなかろうか」と自信を無くす。洗濯機の側に置かれた使用説明書が全然、理解できないのだ。たとえばその2番目に”Turn program select to Cotton Eco”と書いてあるにもかかわらず、洗濯機のダイヤルのどこを探しても”Cotton Eco”の表示は見あたらない。他の宿泊客がこの「トリセツ」を理解しているというなら、やはり僕の頭が悪いのだろう。
夕刻、帰宅途中の同級生コモトリケー君と、サパーンタクシンの船着場で落ち合う。そして彼の住むコンドミニアムの舟に乗る。11月9日に営業が開始されるというアイコンサイアムは左手に、いまだ建設の途上である。あるいはここもまた、はじめはタイ得意の「ソフトオープン」という形で開業をされるのかも知れない。
これまで何度となく訪れた、コモトリ君の家から目と鼻の先の”YOK YO MARINA & RESTAURANT”は、なぜか跡形もなく消え去っていた。今夜は、それよりすこし下流にある、もう1軒の”YOK YO MARINA & RESTAURANT”まで行き、いくつかの海鮮料理にて飲酒活動を行う。
朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼き、クロワッサン風のパン、エスプレッソ
昼飯 “PG232″の機内食
晩飯 “YOK YO MARINA & RESTAURANT”のオースワン、パックンガティアム、プラームックパッポンカリー、ラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)
2018.10.3(水) タイ日記(9日目)
この街の目抜きパホンヨーティン通りが金色の時計塔のある通りと交わる北西の角に、感じの良い喫茶店があった。そこで出すより美味いコーヒーを僕は知らない。その店が、昨年秋にチェンライに来てみると、忽然と消えていた。赤い土がむき出しになった跡地には、ビジネスコンドミニアムが建設される旨の立て札があった。
今回、街で情報を集めたところ、店は名を”THE WANDERER”と改め、コック川の対岸に移ったことが分かった。よってクルマを頼み、行ってみることにした。一度道を知れば、次からは自力で訪ねることができるだろう。
国道一号線からひとつ西にある橋を南から北へと渡り、間もなく左折、そしてまた左折、突き当たったら右折。しばらく行った左手の駐車場でクルマを降りると、鬱蒼とした森の中に小径があった。雨は上がりつつあり、薄日が差しはじめている。小径は予想したよりも長かった。その先には記憶のある喫茶店よりはるかに規模を大きくした、しかし「なるほど雰囲気は確かに、こんな感じだった」という空間が広がっていた。
注文は、入口を入ったところのメニュを見て決める方式に変わっていた。今日はこの店のケーキを昼食としても構わないと考えていたところ、メニュには新たに、ランチの数々が加わっていた。よってその中から一品を選び、席に着く。
ほどなくすると停電になったため、窓際の明るい場所に移る。そして食事を済ませた後は、ことし届いた年賀状や暑中見舞いに返事を書く。
敵が送ってくる季節のハガキは、機械で印刷をされたものに、ほんのひと言が手書きで添えてあるのみ。それに対して当方は、すべて手書きで応戦をするのだ。敵の物量には敵うわけもなく、13枚を書いたところで右手がこわばり、続行は不可能になった。
「あとは明日だ」とボールペンを置き、席を立つ。この店に入ってから2時間ちかくが過ぎていた。
午後はホテルのプールサイドに降り、本を読む。上半身はパラソルの影に隠れているものの、脚は日の光に曝され、耐えがたいほど暑くなる。そのたびプールに入って泳ぐことを繰り返す。
17時ちかくにホテルの裏口を出て西へと歩く。その道がパホンヨーティン通りと交わる南東の角のマッサージ屋”PAI”で、脚と肩のマッサージを1時間だけ受ける。そのマッサージが終わろうとするころ、テレビからは国王賛歌が流れ始めた。
雨がまた降り始めている。ことしのチェンライには雨が多い。お茶屋やイタリア料理屋やマッサージ屋の軒先を伝って北へと歩く。ナイトバザール奥のフードコートには、きのうより多くの雨除けテントが置かれていた。今夜はチェンライ最後の夜だ。ラオカーオのソーダ割りは、きのうに増してゆっくりと飲んだ。
ホテルには20時前に戻った。そしてシャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼き、エスプレッソ
昼飯 “THE WANDERER”のグリルドチーズサンドイッチ、ダブルエスプレッソ
晩飯 ナイトバザールのフードコート32番ブースのチムジュム、パッシーユームーサップ、ラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)
2018.10.2(火) タイ日記(8日目)
夜半から降り始めたと思われる強い雨は、明け方になっても一向に止む気配を見せなかった。ベランダへの戸を開いたまま、きのうの日記を書く。小一時間ほどが経つと、やおら、鳩が鳴き交わし始めた。雨はほとんど上がったらしい。
食堂棟は、僕のいる本館とは目と鼻の先にあるとはいえ、濡れながら走る気はしない。その食堂棟から出て大型バスに乗り込もうとしている団体客は、傘を差していない。それを確認してから40段の階段を降りて、食堂棟へと向かう。
団体客は、明るいうちは、いわゆる「首長族」の村や黄金の三角地帯、にわか作りでも観光名所になりうることを証明したこの街のドル箱「白い寺」などを回れるだけ回り、大きなレストランで夕食の後、ホテルに来るものと思われる。そして夜が明ければ6時30分から朝食を摂り、7時30分に出発をしていく。このことにより、日中のホテルはとても静かだ。
その静かなホテルで本を読む場合、僕にはプールサイドが最高の場所となる。しかし今日の空はいつまでも晴れず、気温は低い。だったら本は部屋で読むかといえば、それもつまらない。もうひとつ、持参した服の数は最小限で、今日はまた洗濯屋へ行かなくてはならない。
先週の金曜日に使った洗濯屋へ行くと、オカミは留守らしく、亭主はどうも「3日間は休み」と言っているらしい。すこし離れた洗濯屋へ向かう。こちらは料金こそすこし安いものの、できあがるのは明朝だという。そう言われても、預ける以外に方法はないだろう、現在、僕はきのうとおなじシャツを着て、下着はもはや着けていない状態なのだ。
洗濯屋から大きな通りに出て、そこからシリコーン市場へと入って行く。先週の水曜日にトムセーップを飲んだイサーン料理屋では、鉄の炉に炭火を熾し、鶏や魚や豚肉を焼いていた。その、豚のロース肉の照り焼きで白ワインや軽めの赤ワインを飲んだらどれほど美味かろう。しかし旅先では、それが中々ままならないのだ。
その真ん中に標識が立てられ、あるいは木の植えられた、だから本来の機能を果たすことは永遠にあり得ないタイに特徴的な歩道を辿って街を往く。途中、観光客を集めるお寺の前を通るも、お寺の名前は分からない。
この街に来た火曜日に休みだったおかずメシ屋「シートラン」は、今日も休みだった。そこから金色の時計塔に向かって1軒目か2軒目のやはりおかずメシ屋で、僕としては多めの昼食を摂る。今日は午前中にすこしばかり頭を使うことをしたため、腹が減っていたのだ。ホテルに帰る道すがら、いつもの酒屋でラオカーオ2本を買う。
午後はマッサージ屋”ARISARA”に電話を入れ、先週の木曜日に強烈な施術を施してくれたプックさんを予約する。カタカナで書けば「プック」なのだろうけれど、その発音は難しい。「ピーオーオーケイ」と、ローマ字による表記も併せて太ったオカミには伝える。
ふたたび降り始めた雨の中、傘を差して”ARISARA”へと向かう。今日はオイルではなく2時間のタイマッサージを頼んだ。プックさんは、僕の尻の上の方や膝の裏にある、1円玉か10円玉ほどのコリをたちまち探し出し、それを鍛え抜かれた親指や肱で責めていく。その痛みに思わず体を震わせると「ここはツボなのだ」というようなことをプックさんは言う。そんなことは分かっている。当方はただ、耐えるばかりである。
“ARISARA”を去るころには、雨は止んでいた。昨年の秋に使った、チェンライとチェンコンを往復するバスとすれ違いつつホテルに戻る。
ナイトバザールの奥のフードコートの椅子は、雨の溜まらないよう、すべて傾けて置かれていた。その野天のテーブルは避けて、屋根の下の席に着く。そして初日の晩以降は食べていなかったチムジュムを肴にラオカーオのソーダ割りを飲む。
いつもとは異なった道を選ぶと、大きめの器に満杯のパイナップルを10バーツで売る屋台があった。チェンライで収穫されるパイナップルの美味さは、タイ人の中でも有名らしい。しかし悲しいかな、たとえ美味くて安くても、それだけ沢山のパイナップルを僕は食べられない。
部屋に戻ってシャワーを浴びる。そして即、寝台に上がって明かりを落とす。時刻は20時を回ったばかりだ。
朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼き、エスプレッソ
昼飯 イスラム寺のあるsoiとバンパプラカン通りの角から金色の時計塔に向かって2軒目か3軒目のおかずメシ屋の2種のおかず、豚のあばら肉とニガウリのスープ、ライス
晩飯 ナイトバザールのフードコート32番ブースのチムジュム、ラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)