2018.6.10(日) ベトナム日記(4日目)
目覚めてしばらくは横になっている。「5時は過ぎただろうか」と、漠然と考える。ようやくその気になってサイドボードに置いたiPhoneを取り上げ見ると、時刻はいまだ2時22分だった。ことほど左様に僕の目覚めは早いから、朝食までに腹が空く。それを幾分かでも和らげるため、旅先にはインスタントのスープを持参する。
そのスープのための湯沸かしポットはあるものの、それが置かれたデスクのちかくにコンセントは無い。部屋の中のコンセントは、ベッドのサイドボード、ベッド足元の床の上、そして洗面所の3個所のみだ。
ポットを洗面所まで運んでコネクタをコンセントにはめ込もうとすると、コンセントの位置が高すぎるのか、はたまたポットのコードが短いのか、とにかくそのままでは湯が沸かせない。よってテレビの脇からティッシュペーパーの箱を持って来て、それをポットの台にする。このような間抜けな仕事ぶりは、どうやらタイだけのものでもないらしい。
と、こういう余計なことを書いているから日記が長くなる。旅行中は何時何分に何をしたというメモを付けている。今回の日記は、そのメモを転記したのみの箇条書きに徹しようとも考えたが、そういう訳にはなかなかいかない。
このホテルには「バーはあっても、バーテンダーも客もいない」とか「マッサージルームはあっても、マッサージ師も客もいない」などちぐはぐなところが多々あるものの、wifiの速度は高い。おとといの日記のための画像はたちまち、ワードプレスのライブラリに追加をされた。
08:13 専用車でホテルを出る。
08:20 富豪のドゥエンさんが山を削り、その土で本土との間をつないだドンチャウ島に入る。ドゥエンさんはこの道路を作った功により、島のかなりの部分の開発権を得たという。
08:23 観光船の切符売り場に入る。
08:50 430艘ある観光船のうちの1艘に乗って出港
ハロン湾はおとといのチャンアンとおなじく、石灰岩による台地が気の遠くなるような時間を経て沈降し、あるいは浸食されてできた、奇景を誇る地域だ。今回のツアーでは、この世界遺産を見物するため、ハノイから4時間もかけて、それも豪雨を突いて来た、というわけである。
09:41 このハロン湾を象徴する「闘鶏岩」に達する。なにもこんなものを「象徴」にしなくても良いではないかと感じるけれど、あるいは「象徴」とは「作っておけば、何かと便利」なものなのかも知れない。
10:06 1993年に鍾乳洞の発見された島に近づく。
10:13 洞窟嫌い、鍾乳洞嫌いとしては気が進まないものの、鍾乳洞”DONG THIEN CUNG”に入る。僕以外に気づいた人がいたかどうか、小さく茶色いネズミがそこここにうごめくため、齧歯目の不得意な人は入らない方が無難と思われる。
10:45 数百人の観光客が牛歩する巨大な鍾乳洞から抜け出す。
10:55 鍾乳洞の島を離れる。
11:05 船上での昼食が始まる。いくら世界遺産の奇景とはいえ、すこし眺めれば珍しくもなくなる。食べ物が出てくれば尚更のこと、窓の外に目を遣る人はいない。
12:00 蝟集する船と船との隙間に舳先を突き込みつつトンチャウ島に着岸。チャンアンの小舟といい、ここの観光船といい、いくら世界遺産とはいえ、いささか供給過剰ではないか。
12:07 専用車でトンチャウ島を離れる。
13:30 ジャコウネココーヒーを売るお土産屋で30分の休憩。
サイゴンが陥落したのは1975年4月30日。ガイドのヅォンさんが生まれたのは同年の9月。1975年から1990年までは配給制で、庶民の生活は苦しかった。1990年にようやく、輸出できるところまで米の生産量が回復をした。インフレーションが最も更新した年は750パーセントの物価高騰。そのハイパーインフレーションは、2度のデノミネーションによりようやく落ち着いた。貸出金利が20パーセントを超えた年には倒産件数が増えた。1993年、1994年あたりからようやく、海外の資本がベトナムにも入ってきた。現在の預金金利は6パーセントで貸出金利は9パーセント。そんな話をヅォンさんに聴きつつ、専用車はようやくハノイの街に入る。
15:34 2年前にできたイオンモールに入店。日曜日とあって、巨大な店内は大変な賑わいようで、特に子供の多さが尋常でない。本の紀伊國屋には大きな机が用意され、売り物の本であっても自由に読むことができる。フードコートで食べられているのはほとんど、鶏の唐揚げである。
「アジアは生きよう、生きようとしている。それに対してヨーロッパは死ぬまい、死ぬまいとしている」と木村治美は「曙のイスラマバード」に書いた。「死ぬまい、死ぬまいとしている」のは、今や日本も同様ではないか。
17:28 夕陽に浮かぶホーチミン廟に近づく。僕は今回、ホーチミンの家に行きたくて行けなかった。平日の午後なら、そのホーチミンの家は割と楽に見られるらしい。しかし自分がハノイに裏を返すことは、あまり考えられない。続いて近くの一柱寺も見る。
18:18 きのう昼食を摂った”Sen Xanh”とおなじく洒落た雰囲気の店で夕食。雰囲気は洒落ているものの、後から店内の螺旋階段をゾロゾロと昇っていったのは、我々とおなじ日本人観光客である。
22:38 ノイバイ空港着
ビジネスクラスラウンジの隣にマッサージルームを見つける。施術表の価格はドルのみだったが、訊けばドンでも払えるという。
奥に案内されて60分のコースを受けていると、白いズボンに青いアオザイの、つまり空港の職員が近づいて「間もなくボーディングの時間です」と言う。「えっ、ちょっと待って」と慌てる間もなくオネーサンは去った。そしてふたたび来て、同じことを口にする。よってポーチからボーディングパスを取り出し「僕の搭乗時間は23時30分ですよ」とそれを見せると「申し訳ありません、人違いでした」と、オネーサンは頭を下げた。一体全体、誰と僕とを間違えたのか。
僕が受けたコースのドルによる価格は30ドル。ドンなら685,050ドンと言われる。50万ドン札2枚を差し出すと、釣り銭として手渡されたのは30万ドンのみ。残りの14,950ドンは戻ってこない。マッサージのオネーサンにチップとして手渡した10万ドンは、まったく惜しくない。しかしベトナムのこの「端数切り」は、僕には結構なストレスになる。
ドンを持っていなければ、市民の生活に浸透していくことはできない。しかし今回のような団体旅行では、そもそもそのような機会はほとんど無い。そうであれば円からドンへの両替はせず、外国人の来店を想定した施設や店ではドルを、そしてドルを受けつけないスーパーマーケットではキャッシュカードで支払うことが、今のところはベトナムでの、もっとも上手な支払い方法であることが分かった。帰る直前に分かっても遅い。サイフにはいまだ、481,000ドンが残っている。
22:47 マッサージルームを出て、となりのビジネスクラスラウンジのソファに収まる。
23:50 ボーディングが開始をされる。
朝飯 ”Mithrin Hotel”の朝のブッフェのオムレツ、サラダ、パン、コーヒー
昼飯 観光船”BAI THO JUNK 37″の鶏挽き肉と椎茸のスープ、茹で海老、青梗菜のスープ、蟹の甲羅揚げ、揚げ春巻き、白身魚のトマト煮、烏賊と玉葱と人参のソテー、空心菜炒め、ライス、バナナ
晩飯 “INDOCHINE”のフォーガー、生春巻き、焼き飯、その焼き飯を添えた豚のカツレツ、鶏の照り焼き、茄子と挽き肉の炒め煮、海老と玉葱のトマト煮、緑豆のぜんざい、ビール”333″
2018.6.9(土) ベトナム日記(3日目)
目を覚ますと時刻は5時18分だった。洗面を済ませ、二日酔いに抗いつつ、きのうの日記を書く。本日の出発は10時15分と、きのうの夜にヅァンさんから伝えられていた。持ち時間は充分のため、1階の朝食会場にはすこし遅めに降りる。フォーとジュースしか胃には収まらない。
10:10 専用車にてホテルを出発。午前中は、ホーチミン廟のお参りと一柱寺の見学が予定に入っていたものの、ホーチミン廟に入ろうとする人たちの行列があまりに長かったため、今日のところは諦める。ちなみに行列のほとんどは観光客ではなく、建国の父にお参りをしたいベトナム人とのことだった。
10:50 きのうに引き続いて旧市街で解散。
11:20 雷鳴が聞こえてきたため、ホアンキエム湖の噴水を臨む水上人形劇場1階の喫茶店に逃げ込み、アイスコーヒーを注文する。請求の55,000ドンに対して60,000ドンを店員に手渡して、お釣りは無し。
11:50 その喫茶店の前から専用車に乗る。
12:00 昼食場所の”Sen Xanh”に着く。パリの小さな邸宅のたたずまいを持つ洒落た店。きのうの夕食の場所とおなじく、日本人のツアー客が目立つ。
12:55 “Sen Xanh”からハロン湾へ向けて出発。雨期に特有のスコールは小降りになっている。
14:38 ベトナム戦争時にアメリカの撒いた枯れ葉剤の影響は孫の代まで残ることもあり、現在の身体障害者はベトナム全土に100万人。そのうち障害が軽く、且つ運の良い人は仕事に就くことができる。そのような人たちの手による細密な刺繍などを売る国営の施設とヅォンさんに説明された店で30分の休憩。
16:10 行く手に見えていた黒い雲の真下に入る。前を行くクルマのハザードランプを目印に進むしかない豪雨の中を、小一時間ほども走り続ける。
16:54 ハロン湾を訪れる観光客のために急ごしらえされつつある街のホテルに着く。
17:25 「MTVハロン水上人形劇場」に入る。ガイドさんに支払った観劇代は45万ドン。
17:35 水上人形劇が始まる。舞台の上手には解説、歌手、擬音の発声を受け持つ7名、下手には楽器を演奏する8名が控える。筋は農村に伝わる伝統的なもの。面白おかしい演技が多い。
18:10 すだれの後ろから8名の人形遣いが挨拶に現れて劇は終了。
18:20 ホテルのロビーの一段高くなっているところにテーブルが並べられている。そこが夕食の場所である。急増する観光客に対して街の開発が追いつかず、レストランの数が極端に少ないことによる一時的な措置だろうか。あるいはできるだけ合理的に客を捌くための工夫だろうか。我々以外の観光客のほとんどは中国人と韓国人。
19:05 夕食を完了。今日の昼食のときとおなじく、客席係は急かすように料理を運び、できるだけ1枚の皿ですべての料理を食べさせようとする。そして空いた食器は、これまた急かすようにして下げていく。2011年に次男とホーチミンシティやフーコック島を訪ねた際には、このようなことは経験しなかった。南部と北部の違いなのか、8年のあいだに時代が変わってしまったのか、あるいは個人で行く店と団体を扱い慣れた場所の違いなのかは不明。
ところで初日に空港で1万円から両替した2,054,000ドンのうち、サイフにはいまだ半分以上の1,456,000ドンも残っている。ガイドのヅォンさんに連れて行かれる店に欲しいものはない。
部屋の机の引き出しからホテルの案内を取り出し、2階にマッサージルームのあることを知る。営業時間は22時まで。よって部屋のある11階から2階に降りると、ジムやビューティサロンの並ぶそのフロアには人気がまったく感じられない。奥にマッサージの受付カウンターを見つけたものの、あたりには誰もいない。ふと後ろを振り向くと、紺色の制服を着たオジサンが椅子に座っていた。英語は通じないものの、どうやらこのフロアには、彼以外、誰もいないらしい。よってふたたびエレベータに乗り、ロビーから外へ出る。
雨はほとんど上がっている。ホテルの周囲を1キロ半ほど歩いた結果、このあたりにはホテルと観光土産物屋とカラオケ、そしてフットサル場と空き地しかないことを確認する。仕方なく部屋に戻り、風呂に入って即、ベッドにもぐり込む。
朝飯 “BAOSON INTERNATIONAL HOTEL”の朝のブッフェのフォーボー、レモンジュース
昼飯 “Sen Xanh”の海老煎餅、ブンチャー、空心菜炒め、厚揚げ豆腐の唐辛子煮、秋刀魚の生姜煮、他あれこれ、アイスクリーム
晩飯 “Mithrin Hotel”の生春巻きとサラダ、白身魚の生姜煮、海鮮鍋、鍋の締めの麺、ウォッカハノイ(生)、西瓜とマンゴー
2018.6.8(金) ベトナム日記(2日目)
半覚半生という沼の中から水面に浮かび上がるようにして目を覚ます。時刻は4時47分だった。起きて、出国前に出だしの部分のみ書いておいたきのうの日記に、その後のことを加える。次に画像を追加しようとすると、エラーが出て、それが叶わない。「wifiでは画像の重さに対して通信の容量が追いつかないのだろうか」と考え、備えつけのLANケーブルを使ってみる。画像は無事に、ワードプレスのライブラリに追加をされた。
08:57 専用車にてホテルを出る。
ホテルは新市街にある。このあたりは、ガイドのヅァンさんが結婚して親に家を建ててもらった1997年には田畑の目立った地域で、そのころの土地の価格は日本円にして1平方メートルあたり2万円、それが今は35万円。やはり新市街のマンションは1平方メートルあたり17万円。ドイモイが実施されたのは1995年、その効果が現れはじめたのは2000年。というような話を聴きつつクルマは渋滞を抜け出すと南へ向けて一気に速度を上げた。
10:53 ベトナムが中国の支配を脱して初めて王朝を打ち立てたホアルー着。
11:05 初代皇帝ディン・ティエンホアンの霊廟を見学。
11:30 ホアルーを出る。
11:50 お土産屋とレストランの複合施設”ANH DZUNG”に着。
13:00 “ANH DZUNG”での昼食を完了。
13:10 石灰岩の山と洞窟が奇怪な景色を作るチャンアン着。
13:20 鉄製の小舟に4名が乗って岸を離れる。
僕は湖沼も鍾乳洞も好きではなく、だからこのような場所は二重苦ながら、コースに含まれている以上は、それに従わなくてはならない。ベトナム特有の三角帽をかぶったオネーサンは、後方で櫂を静かに動かし、たくみに舟を操る。
洞窟をくぐると見上げるばかりの奇岩の山。そしてまた洞窟をくぐることを繰り返す。蝉の声、鳥の声、櫂が水をかく音の他は、何も聞こえない。舟は人が地上を歩くよりもすこし高い速度で水の上を滑っていく。
14:25 舟のツアーを完了。オネーサンは手こぎの舟を、5、6キロは走らせたのではないか。この景勝の地に舟の数は1,500艘。漕ぎ手に仕事が回ってくるのは、繁忙期を除いては1週間に1度程度。それ以外の日は農民をしているとは、後からヅァンさんに教えてもらったことだ。
14:43 専用車がチャンアンを出発。汗にまみれたシャツは1時間を経ても乾かない。
16:30 ハノイの旧市街でクルマを降りる。
しばらくはヅァンさんと共に、活気にあふれる旧市街を散策する。このあたりの土地の価格は1平方メートルあたり400万円。商売がしやすく、またベトナムでは固定資産税も相続税も安いことにより、ここに住む人たちは、ほとんど他所には移らないという。
17:05 スーパーマーケットでウォッカハノイ2本を買う。300cc入りの価格は42,900ドンだから、邦貨にすれば1本あたり209円。2011年に次男とフーコック島へ行った際にも、僕はこればかりを飲んでいた。
18:50 お土産屋を経由してベトナム風フランス料理の店に案内をされる。客のほとんどは日本人。旅行社が便利に使っている店と思われる。
20:55 ホテルに戻る。汗をたっぷり吸い込んだシャツを脱ぎ、熱い風呂に入る。
22:30 隣の部屋のジンボタカシさん、続いて理事長のアオキナオキさんから電話が入り、理事長の部屋での飲酒に誘われる。
23:35 理事長の部屋のバランタイン、続いて僕のウォッカハノイを飲むうち、いつの間にか眠ってしまう。何度目かに目を覚ますと「無理せずお帰りください」とアオキさんに言われたため、部屋に戻る。通りを往くクルマのクラクションも、8階の部屋で聞く限りは、それほどうるさいものでもない。
朝飯 “BAOSON INTERNATIONAL HOTEL”の朝のブッフェのオムレツとサラダ、2種のパン、コーヒー、フォーガー
昼飯 “ANH DZUNG”の其の一、其の二、其の三、其の四、其の五、其の六、其の七
晩飯 “Maison Vie”のパン、サラダ、ブロッコリーのポタージュ、白身魚のポワレ、バナナのクレープ、ダラットの白ワイン、同赤ワイン
2018.6.7(木) ベトナム日記(1日目)
目を覚まして枕の下からiPhoneを取り出す。時刻は2時25分だった。そのまま起きて服を着る。クローゼットの扉を開き、チェストの左手からスーツケースを引き出す。整頓が為されていれば、真っ暗闇の中でも行動は円滑である。
旅行中の着替えはきのうの夜のうちに応接間に出しておいた。必要な持ち物も、おなじくきのうのうちに紙に印刷をして応接間のテーブルの上に置いておいた。そして3時10分より、その紙の一覧表に従って荷造りを始める。栃木県味噌工業協同組合が隔年で開催する親睦旅行の、今日は出発日である。
12:00 ジンボタカシさんのクルマに乗せていただき会社を出る。
12:40 柳田車庫着
13:12 マロニエ号で柳田車庫発
15:17 成田空港第2ターミナル着
15:55 チェックインを完了。スーツケースの重さは6.8キロ。
16:00 保安検査場を抜ける。
16:18 サクララウンジに入る。幾枚もの皿に山盛りの食べ物を取り分け「ここぞ」とばかりに頬張る人がいる。当方の胃袋には昼のおむすびが居座って、水しか飲めない。
17:05 そのサクララウンジで席を移し、きのうの日記をサーバに上げる。
18:10 ボーディング開始
初めて経験するプレミアムエコノミーの席は、予想した以上に幅が広かった。足元の余裕も充分である。リクライニングの構造もよく考えられていて、後席の乗客にはほとんど迷惑のかからないよう工夫がされている。
18:48 “BOEING 787-9″を機材とする”JAL751″は、定刻に23分おくれて離陸。
19:15 飲物を勧められてトマトジュースを飲む。
19:30 機内食の配膳が始まる。
21:42 目を覚ますと機内の明かりが落とされている。機は景徳鎮のちかくを飛んでいる。
23:00 ふたたび目を覚ます。機内の照明が点けられている。南寧のちかくを飛んでいる。
定刻より28分はやい日本時間23:42、ベトナム時間21:42にノイバイ空港に着陸。以降の時間の表記はベトナム時間とする。
21:59 「ノーヴィザ」と訊かれたので「ノーヴィザ」と答えてパスポートコントロールを抜ける。入国カードは不要。
22:10 ターンテーブルからスーツケースを引き上げる。
可及的速やかにタバコを吸いたい同行者3名には先に外へ出ていただき、ロビーの両替所を素早く見ていく。声をかけてきたオネーサンにレートを訊くと1万円あたり201万ドンというので、先ほど”205″の数字が目に付いたブースに戻り、1万円のみ両替をする。レシートには2,054,500の数字があるものの、手渡された紙幣は2,054,000ドンのみ。500ドンつまり邦貨2.43円ははした金、ということか。
22:25 外で出迎えてくれたのは40代くらいの女の人で、名前はヅォンさん。漢字で書けば「江」。この旅で唯一、行きたかったのはホーチミンの家。しかしヅォンさんによれば、ホーチミン廟は訪ねるものの、ホーチミンの家は予定に入っていないという。ホーチミンの家が開いている間の自由時間は、ほぼ皆無。このあたりが団体旅行の限界である。
22:52 “BAOSON INTERNATIONAL HOTEL”着。
ホテルは中級。チェックインはヅォンさんが代行してくれた。パスポートの提示は不要。部屋に入って荷物を整理し、貴重品はセイフティボックスに収める。
革靴をゴム草履に履き替えて外へ出る。ホテルのちかくの様子は、ホテルに着く前にクルマの中から観察をしておいた。”Nguyen Chi Thanh“という、どう発音して良いのか分からない通りを東へ歩く。時刻は0時がちかい。
プラスティックの椅子を歩道に並べた食堂では、地元の人がお粥を食べている。冷蔵庫の中には鉈で形を整えた椰子の実が並んでいる。椰子のジュースは要らない、アルコールが欲しい。
3件目の店は、ジュースのほかにビールも置いていそうな雰囲気があった。店に居着いているらしい、2頭の大きな犬の脇を通ってテーブルに着く。すると地元のオニーチャンが「こちらに来たら…」という感じで手招きをする。よって3名が酒盛りをするソファに僕も座り、ビールを注文する。
オニーチャンのうちのひとりが何ごとか僕にベトナム語で話しかける。僕はベトナム語を解さない。オニーチャンはベトナム語しか話さない。意思の疎通の無いままニコニコと笑って過ごす。
ややあって、椰子の実を並べた冷蔵庫の影から10代から20代はじめと思われる女の子が出てくる。「これで足りるかなー」と考えつつ5万ドン札を手渡す。女の子はその場を一旦離れ、奥へ行く。「お釣りはあるだろうか」と待っていると、ややあって、女の子は先ほどの札をそのまま僕に返して寄こした。どうやら3名いたオニーチャンのうち、僕に盛んに話しかけてきたひとりがご馳走をしてくれるらしい。誠に申し訳なし。万国共通の、手を合わせる仕草で礼を述べて店を出る。
「旅に出れば、何かしらのカードを必ず切らされる」、そんなことを感じながら、南の国によくある、敷石の割れた歩道を辿ってホテルに戻る。
朝飯 納豆、トマトとマカロニのサラダ、ベーコンエッグ、芥子菜のおひたし、ごぼうのたまり漬、らっきょうのたまり漬、メシ、揚げ湯波と芥子菜の味噌汁
昼飯 3種のおむすび
晩飯 “JAL751″プレミアムエコノミー席の機内食
2018.6.6(水) 収穫の前
明日はあまり時間がない。よって9時から銀行まわりを始める。これが思いのほか手間取って、10時がちかくなる。10時には来客の予定がある。会社に電話をすると都合の良いことに、30分おくれる旨の連絡が先方からあったという。遅刻も場合によっては大歓迎である。
きのうは中国地方と近畿地方が梅雨入りをした。先週末の智頭町は、やはり梅雨の前の最後の晴天だったのだ。その鳥取県で、ことしの梅雨は空梅雨と聞いた。本当だろうか。
ここ数年のあいだ、九州は毎年のように、梅雨時に豪雨に見舞われている。この雨が、収穫直前のらっきょう畑を直撃するのだ。少ない雨量のまま6月が過ぎてくれれば、今年のらっきょうは豊作のはずだ。しかし「豊作のはずだ」と関係者と会話を交わした直後から大雨が降り続く、ということを我々は何度も経験をしている。
一方、生姜は雨を好む。もちろん豪雨になっては元も子もないけれど、生姜は空梅雨を嫌う。すべての作物に、そこそこ都合の良い天候が続いてくれれば有り難い。
朝飯 炒り豆腐、トマトと玉葱とマカロニのサラダ、鯛のあら煮、ごぼうのたまり漬、らっきょうのたまり漬、メシ、豆腐と茗荷の味噌汁
昼飯 「ふじや」の雷ラーメン
晩飯 胡瓜の浅漬け、空豆のおひたし、冷や奴、ニラと炒り卵のソテー、茹で牛、素麺、芋焼酎「愛子」(ソーダ割り)、バナナとマンゴーの杏仁豆腐
2018.6.5(火) 着の身着のまま
朝、目を覚ますと、ほとんど着の身着のままで寝ていた。きのうの就寝は多分、22時すぎ。現在時刻は5時48分。7時間ちかく眠り続けた計算になる。先週末の深夜バスによる寝不足を、からだが一気に取り戻そうとしているのだろうか。
「あした、どこに行くんだっけ」と新婚旅行の前夜に訊いて、新妻に叱られた男の話は前にも書いた。そして団体旅行に臨んでは、僕もその男のことを嗤えない。
事務机の左手に提げたカレンダーによれば、ハノイへ向けて発つのは明後日だ。空港は成田と知っている。しかしどのターミナルへ行くべきかは知らない。飛行機の時間も知らない。知らないづくしはとても危ない。よって旅行社から送られてきた日程表を確かめる。
持ち物の準備はいつしようか。昼は仕事をしている。夜は酒に酔っている。残りは早朝ということになる。だったら木曜日の当日でもかまわないだろうか。
現地ガイドの手間を省くため、団体旅行の夕食は大抵、昼の観光の後、ホテルに帰る前に設定をされている。汗をかいた服のままメシを食べるについては気が進まないものの、着替えは最低限で済むだろう。
朝飯 筑前煮、湯波焼売、空心菜の豆味噌炒め、炒り豆腐、生のトマト、油揚げと小松菜の炊き合わせ、らっきょうのたまり漬、メシ、揚げ湯波とナメコと三つ葉の味噌汁
昼飯 梅干し、ごぼうのたまり漬、なめこのたまりだき、たまり漬「おばあちゃんのホロホロふりかけ」、じゃこによるお茶漬け
晩飯 トマトと玉葱のサラダ、鯛のサラダ、チーズパンとバゲット、鶏モツのオリーブオイル焼きバルサミコかけ、田舎パン、“Petit Chablis Billaud Simon 2015”
2018.6.4(月) マサヒデさんの黄色い本を学ぶ会
鳥取へ行っているあいだに「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうリュビドオル」が売り切れていた。包装係のシバタミツエさんとは先週、月曜日の午後に次のロットを瓶詰めしようと決めていた。よって昼すぎに倉庫へ行き、ビンとフタを台車に積んで、瓶詰めのための場所へと運ぶ。僕の仕事はそこまでで、後はシバタさんにお任せである。
近隣の有志を集め、稀代のデータベースソフト「マイツール」の教則本「逆引きマイツール基本コマンド編」を紐解きつつ「マイツール」への理解をより深めようとする「マサヒデさんの黄色い本を学ぶ会」は、今回で何度目になるだろう。夕刻、その会場の二宮尊徳記念館に、長男の運転するホンダフィットで行く。
今日は20時までに84ページの「61.ずれた入力データを直したい」から86ページの「63.数値と文字を分けたい」までをさらった。いつもに変わることなく今夜も「急がず休まず」の進捗である。そして7月の下旬には、この会で学んだヌマオケンタ君が、自身の活用事例を東京の学会で発表する。その日が今から楽しみでならない。
勉強のあとは、都合のつく参加者のみ街の食堂に再集合をする。そして1時間と少々の交流会を持つ。
朝飯 筑前煮、油揚げと小松菜の炊き合わせ、巻湯波の淡味炊き、炒り豆腐、納豆、らっきょうのたまり漬、芹のおひたし、メシ、揚げ湯波とズッキーニの味噌汁
昼飯 「ふじや」の冷やし味噌ラーメン
晩飯 「食堂ニジコ」の春雨サラダ、胡瓜の辛子和え、海老マヨ、皮蛋、鶏の唐揚げ、サンラーメン、麦焼酎「二階堂」(お湯割り)
2018.6.3(日) 杉の精霊
ヒロオカヨシヒロ君の歯ぎしりで目を覚ます。床の間のコンセントに繋いだiPhoneをたぐり寄せると時刻は5時13分だった。しばらくうつらうつらし、またまた歯ぎしりの音を聞くことを繰り返して6時すぎに起床する。
「林新館」を、僕はリンシンカンと読んでいた。しかし正しくは「ハヤシシンカン」だという。今回の同窓会では、参加者がこの旅館の宿泊可能者数を超えたため、一部はヨネイ君の自宅に泊まらせてもらった。その一行も加えて8時より朝食を摂る。
「林新館」は鄙には希な、良い旅館だった。建物は、林業の盛んな土地柄を映してか、華美ではないものの、質実的な木材がふんだんに用いられていた。「これだけの旅館を、これだけの人口の町を維持していくのは大変でしょう」と訊くと「元々は料理屋ですので」と、我々と同年代のあるじは教えてくれた。道理で朝食が美味かったはずだ。
その「林新館」を9時に出て、先ずは「杉神社」を訪ねる。山から滝の落ちる渓谷にあり、杉の精霊をご神体としたこの神社は、ヨネイ君の祖父である米井信次郎氏が昭和30年に建立をしたものだ。湿気に耐えるためか、杉の木をかたどったらしい鳥居も祭のための建物も、また本殿代わりのオブジェもすべて鉄筋コンクリート製で、当時、名のあった人によるデザインのモダンさには、驚くべきものがある。
それにしても、会社の利益に繋がらないこのようなものを日本がいまだ貧しかった時代に建てた熱量には、感嘆を禁じ得ない。焦土と化した都市への木材の搬出により、終戦からの10年間でかなりの財を蓄えたのだろうか。しかし鳥居の左手にある「智頭の緑化は伊達では無いぞ、千萬植えて、生き抜こう」の碑文には、いささかの浮ついたところもなく、窺えるのは未来への決意のみである。
その「杉神社」から山を下って向かったのは、千葉県から岡山県に移ってきたところで、更に智頭町の移住をヨネイ君が勧めたワタナベイタルさんのパン屋「タルマーリー」だ。ワタナベさんは忙しい中、工房の奥まで我々を案内しつつ、天然菌の採取と検査について説明をしてくれた。僕が大きめのザックを背負って家を出たのは実に、この店のパンを買って帰るためだった。しかし窯から出したてであれば、しばらくは手に提げて運ぶこととしよう。
12月の上旬から3月の末までは雪のため閉めてしまう山の料理屋「みたき園」には、10時45分に着いてしまった。我々の腹の中には、いまだ朝食が残っている。よって斜面を下りて芦津の渓谷を逍遥したり、あるいは来た道を戻ってゆっくりしたりする。移築された古民家と古民家のあいだの小径を、放し飼いの鶏が歩きまわっている。僕は混ぜごはんを2杯も食べてしまった。
飛行機の時間を計算してか、シゲマツアキラ君は、食後すぐにレンタカーで去った。ヤハタジュンイチ君は座敷で昼寝をするという。そのふたり以外はすこし離れた東屋に集まり、ここで食後のコーヒーを飲む。会計係の僕が支払いを済ませると、封筒には3万円と少々が残った。きのうヨネイ君が手当した酒類、また僕が手配したワインの金額の合計に、その3万円はほぼ等しい。絶妙の残高である。
今日は朝からセキグチヒロシ君のクルマに便乗をさせてもらった。そして取りあえずは皆で智頭駅に戻った。セキグチ君は間もなく鉄道で着く奥さんと、来週末まで旅をするという。マルヤマタロー君と奥さんは、名古屋までふたりで戻る。鳥取空港へ向かう者もいれば、2012年に亡くなった同級生クロダヒロユキ君の、お母さんを加古川に見舞う一団もいる。
僕はアリカワケンタロー君、イリヤノブオ君、カゲヤマカズノリ君と共に、13:23発の「スーパーはくと8号」に乗った。姫路からは揃って14:49発の「のぞみ132号」で東を目指すものの、席は各車両に散らばっている。よって駅構内の喫茶店での小休止を経て改札口を抜け、プラットフォームに上がったところで別れの挨拶を交わす。
700系の車両は窓の狭いところが好きだ。僕は閉所に閉じ込められた状態で、本を読みつつ移動することを好む。新幹線は、17時53分に東京駅に着いた。
朝飯 「新林館」の朝のお膳
昼飯 「みたき園」の定食其の一、其の二、其の三
晩飯 「ささや」のあれや、これや、チューハイ
2018.6.3(日) 日本でも海外でも
01:20 遠州森町P.A.で10分の休憩。外へ出て背を伸ばす。
03:50 目を覚ます。きのうの日記にも書いたように、外の様子は窺えない。iPhoneのgoogleマップによれば、バスは新名神高速道路の草津田上I.C.あたりを走っているらしい。
03:56 モテナス草津P.A.で10分間の休憩。
05:18 カーテンの隙間をすこし開く。素晴らしい天気だ。バスは神戸港を左に巻きつつゆっくりと進む。船の白い連なりの向こうに神戸タワーが見えている。
05:24 定刻より16分はやく三宮に着く。「お客様、走り出してからで結構ですので、カーテンは元にお戻しください」と、運転手が腰を低くして僕に頼む。降車する以外の乗客は、眠っているのか動かない。
06:01 定刻より14分はやく明石に着く。
06:35 定刻より15分はやく加古川に着く。
07:04 定刻より26分はやく終点の姫路に着く。
今回のバスは「3列独立のびのびシート」とのことで、ほとんど眠ったまま目的地まで運んでくれると考えていた。しかし案に相違して、バスは意外と揺れる。途中、横浜駅東口で客を拾う。高速道路では何回か休憩のために停まる。「のびのびシート」とはいえ、足は大して伸ばせない。寝るなら飛行機のエコノミー席の方がよほど楽と、今回はじめて知った。
蕎麦とかごはんとか、朝は何か日本のものが食べたい。姫路の駅前をしばらく徘徊して、しかし店を開けているのはチェーン系のドーナツ屋やハンバーガー屋ばかりだ。仕方なく駅に戻り、姫路08:36発、智頭09:42着のスーパーはくと1号の切符を買う。僕の趣味からすれば鈍行で行きたいところだが、智頭線の歴史的経緯もあって、それはできないダイヤ組みになっている。
山あいにある智頭駅のプラットフォームに降りると予想外に、暑さが押し寄せてきた。即、きのうのバスの中で着たウィンドブレーカーを脱ぎ、半袖シャツ1枚になる。
改札口を抜けて駅舎を出る。駅前左手に木造の観光協会が見える。そこで、この街随一の見ものと思われる石谷家住宅への道を含む地図をもらう。外へ出て、そこに貸し自転車のあることに気づく。中に戻って3時間分の500円を支払う。
駅に背を向けて先ずは土師川、次いで千代川を渡る。空は青く、山と田は緑、そして川の水はどこまでも澄んでいる。海外でも日本でも、首都から遠く離れた小さな町を、自転車で流して歩くことが僕は好きだ。
同級生ヨネイテツロー君の家の系図を辿ればそこに行き着くという石谷家の豪壮な屋敷に、僕は1時間ちかくもいただろうか。石谷家住宅の門前には木造の消防屯所がある。その風情に惹かれて近づくと、出入り自由の表示が出ている。僕は喜んでその戸を引き、2階に上がってむかしの地図や写真を観覧する。
昭和16年だから77年前に建てられた、木造の貴重な建物に出入り自由とは、隨分と気前が良い。「火の不始末で燃えてしまったらどうするか」とか「浮浪者が住み着いたらどうするか」と普通なら考えそうなものだが、人口1万数千人規模の町であれば、そのような心配も薄いのかも知れない。
古い商家の庭先に足を踏み入れる。奥にこぢんまりとした洋館が建っている。その「西河克己映画記念館」には、後に智頭町と合併する土師村に生まれ、大衆娯楽映画の監督として大成した西河克己の軌跡が残されている。フロントに掲示してある携帯電話を呼び出せば管理人が来るようだ。しかし折角の空間であれば、僕は一人で楽しみたい。
住む人は「何も無い」と謙遜をするけれど、この智頭町には、実はたくさんの資源がある。それを活かすも殺すも地元の人次第、地元の行政次第なのだろう。
昼時に邪魔をしてはいけないと考え、駅ちかくの喫茶店で昼食を済ます。そして観光協会に自転車を返す。借りたときから、ちょうど3時間が経とうとしている。
iPhoneのgoogleマップはヨネイ君の家を正しく示さない。よって電話を入れ、僕が歩いている道筋までクルマで迎えに来てもらう。そのクルマには、きのうから来て準備を手伝っているウエキコータ君も乗っていた。今夜はヨネイ君の家で、自由学園男子部35回生の同窓会が開かれるのだ。
ヨネイ君の自宅に着くなり僕は居間へ上がり、安楽椅子に足を延ばした。そしてヨネイ君の奥さんに冷たいお茶をもらい、それから2時間ほどは新聞を読んで過ごす。ヨネイ君とウエキ君は、午後のきつい日差しの中で、ピザ窯に火を熾している。僕は大したナマケ者である。
やがて日本のあちらこちらから鉄道で、飛行機とレンタカーで、あるいは自家用車で、同級生たちが続々と集まってくる。僕は持参した一覧表とつき合わせつつ、各自より参加費を徴収する。その金額は酒を飲むか飲まないか、またヨネイ君宅泊か旅館泊かにより異なるため、集金作業はなかなかにややこしい。
同窓会は最後のふたり、つまりアケミツシ君とヤハタジュンイチ君が到着した17時から始まった。ヨネイ君はこの日のために、20人が着けるテーブルを作り、頭上にはストリングライトを吊ってくれた。料理は、今月の23日に「ローカルダイニング・山のブラン」を開業する若い夫婦がヨネイ君の家まで出張をして、整えてくれている。ワインは僕が手配した赤と白、ビールは「タルマーリー」の生である。
夕食は、有志の弾く楽器の音と共に和やかに進む。庭は牛臥山を背にして濃い緑の中にある。しかし中国地方の日は長く、19時30分を過ぎても暗くはならない。
気づくと時刻は22時30分。僕は首を後ろにがっくりと折って眠っていた。無理せず旅館に引き上げるよう誰かが言う。それもそうだと立ち上がり、居間に上がってザックを背負う。そしてふたたび靴を履き、今夜の宿「新林館」を徒歩で目指す。
朝飯 「えきそば姫路駅店」の天ぷら蕎麦とおむすびのセット
昼飯 「樹里」のパチパチナポリタン
晩飯 「ローカルダイニング・山のブラン」のあるじによる其の一、其の二、其の三、其の四、其の五、他あれこれ。ヨネイ君の奥さんによるピザマルゲリータ、チリ産のスパークリングワイン、同2種の赤ワイン、「タルマーリー」の生ビール、ヨネイ君の家のシングルモルトウィスキー(生)
2018.6.1(金) 持つべきか持たざるべきか
今夜は東京駅の近くからバスに乗る。帰ってくるのは明後日だ。荷物はできるだけ減らしたい。最も重いのはコンピュータ。それを今回は持参しないことを決める。
コンピュータを持たなければ日記は書けない。しかし日記の更新が滞ることはできるだけ避けたい。この日記は、ここしばらくは一昨日のものをサーバに上げている。今朝は3時30分に目の覚めたことを奇貨として、先ずは途中まで書けていた水曜日の日記を完成させてサーバに上げる。続いてきのうの日記も完成させ、しかしこれはそのまま保存をしておく。
その、きのうの日記は15時20分にサーバに上げた。今日、明日、あさっての日記については、行く先々で付ける覚え書き、撮る画像、そして記憶に頼って週明けから書き始めることになるだろう。
下今市16:05発の上り特急スペーシアに乗る。浅草から新橋までは銀座線で移動をし、すこしの用を足す。機関車広場には人が溢れている。その人の群れをかき分けつつ知った店へと急ぐ。最初の一杯を飲み終える前に店は満席になった。
1時間きざみの料金を設定しているサウナ風呂で体を洗い、歯を磨く。安楽椅子で休むうち、1時間はまたたく間に過ぎる。新橋から有楽町に移動をし、東京駅へ向かってガード下の左側を歩く。丸ノ内鍛冶橋駐車場はすぐに見つかった。
姫路行きの”JX201″は、定刻に2分おくれて21時32分に発車した。僕の席は左側の最前列。窓はすべてカーテンで覆われ、また運転席の背後にもカーテンが降りているため、外の様子はまったく窺えない。天井の蛍光灯は21時45分に予備灯、つまり深夜用のそれへと切り替わった。
朝飯 切り昆布の炒り煮、油揚げと小松菜の炊き合わせ、巻湯波の淡味炊き、筑前煮、納豆、芹のおひたし、トマトの甘露漬け、メシ、揚げ湯波とブロッコリーの味噌汁
昼飯 ラーメン
晩飯 「三政」のあれや、これや、チューハイ