2018.3.31(土) あと4回は
午後、ひと息をついてメーラーを回す。すると「カード利用のお知らせ」という表題のメールが届いていた。主な内容は以下の通りだ。
■利用日:2018/03/26
■利用先:CENTARA GRAND HUA HIN
■支払方法:1回
■利用金額:52,071円
■支払月:2018/04
■カード利用獲得ポイント:520 ポイント
フアヒンのホテルで精算をするとき、家内は手持ちの現金が少なくなっていた。僕の方は、元より大して持ち合わせていない。よってこのときの支払いには、僕のクレジットカードを使った。
翌3月27日、家内はバンコクのタニヤで日本円をタイバーツに替えた。そのときのレートは1万円あたり2,945タイバーツ。翌日ヤワラーの両替所には、1万円あたり2,950タイバーツの表示があった。
ホテルの請求書を取り出し見ると、請求は18,097.09タイバーツ。それに対する円換算は52,071円だから1万円あたり2,899タイバーツとなり、損をした気分になる。しかしここにカードのポイントが加わると、今回に限ったことかも知れないが、カードで払ったことは、結果としてわずかに得だったようだ。
ところで現在の、僕の手持ちの現金は32,109タイバーツ。ひとり旅なら両替なしに、あと4回はこなせそうな気がする。
朝飯 納豆、切り昆布の炒り煮、揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、温泉卵、ひじきと梅干と白胡麻のふりかけ、しその実のたまり漬、メシ、浅蜊と万能葱の味噌汁
昼飯 「食堂ニジコ」のサンラーメン
晩飯 トマトとレタスと玉葱のサラダ、人参のグラッセ、ほうれん草とエリンギのソテー、マッシュポテトを添えたビーフステーキ、たまり漬「青森県田子町産のにんにくです。」、同「おにおろしにんにく」、“CHARMES CHAMBERTIN DOMAINE DUJAC 1985”、ケーキ、“Old Parr”(生)
2018.3.30(金) 覚えていない行動
0時を過ぎると、飛行機の中のアナウンスは”Good morning”で始まることを初めて知った。しかしいつも使う羽田空港00:20発の機内では、”Good morning”は聞いた覚えが無い。何とも不思議な気分だ。
ペットボトルの水を買い忘れていたため、客室乗務員に頼んで水をもらう。そのコップは、いつまで手に持っているわけにはいかない。デパスとハルシオンはベルト着用のサインが消えてから服用するのが理想ではあるけれど、今夜ばかりは早々に飲んでしまう。
“BOEING 707-400″を機材とする”TG682″は00:23に離陸をした。間もなくベルト着用のサインが消える。「待ってました」とばかりに椅子の背を後ろに倒す。
03:20 人の気配で目を覚まし、通路が空いているうちに洗面所へ行く。
03:37 「酢豚かクレープのどちらよいか」と訊かれてクレープによる機内食を選ぶ。
タイ時間05:27、日本時間07:27に羽田空港に着陸。以降の時間表記は日本時間とする。
07:47 荷物のターンテーブルが回り始める。
08:18 荷物が出てくる。31分間も待たされるなら、次回の荷物は機内持込だけにしようかと考える。
08:34 羽田空港国際線ターミナルから上りの列車に乗る。
09:33 人形町を経由して北千住に着く。
11:39 東武日光線の特急スペーシアで下今市に着く。駅には長男に迎えに来てもらう。
夕食は嫁のモモ君が用意をしてくれた。その春雨サラダと水餃子を肴に白酒を飲む。以降の記憶は無かったものの、この日記を書くため画像をコンピュータに取り込むと、オリエンタルホテルのバトラーが毎日、届け続けてくれたうちの、チョコレートを肴にウィスキーを飲んだらしいことを知って大いに驚く。
朝飯 “TG682″の機内食
昼飯 「大貫屋」のチャーハン
晩飯 トマトと春雨のサラダ、水餃子、「紅星」の「二鍋頭酒」(生)、イチゴと杏仁豆腐
2018.3.29(木) タイ日記(7日目)
目を覚ましてベッドから降り、洗面所の灯りを点すと同時に、寝室と洗面所とのあいだのドアを素早く閉める。灯りのスイッチが洗面所の中にあれば、寝ている者に気を遣うこともない。洗面所の灯りのスイッチが洗面所のドアの外にある、というところが問題である。
きのうの修理のお陰で冷房は快調に動き続けている。しかし今朝はそれが効き過ぎて寒い。よってスイッチを切ろうとすると、きのうは入れても入らなかったスイッチが、今朝は切ろうとしても切れない。殿様でもあるまいし、夜が明ける前にバトラーを呼ぶなどは、申し訳なくてできない。そのまま部屋の片隅の灯りを点け、きのうの日記を書き始める。
プールにはこれまで、下はPatagoniaのバギーショーツ、上はポロシャツという、外で着る服と変わらない恰好で行っていた。しかし今日は帰宅日のため、シャツはできるだけ汗で汚したくない。よってタイに来て初めて、ショーツの上にガウンを羽織った恰好で廊下に出る。
僕の泊まっているガーデンウィングの部屋からプールまでは、ロビーを避ければどうしても、アフタヌーンティーで有名なオーサーズラウンジを横切らなければならない。おとといこのラウンジのオネーサンに訊ねたところ「ガウンでもかまいません」とのことだった。そこで「しかし真ん中を突っ切るのは、さすがにまずいでしょう」と更に訊くと、オネーサンはしばし考えてから「ご案内します」と、アーケードちかくの手洗いからプールサイドに最短距離で出られる順路を教えてくれた。今朝は9時すぎに、その抜け道を辿ってプールへ行く。
きのうにくらべて今日は、朝食の客が急に減っていた。プールサイドの寝椅子も、ほとんどが空いている。選び放題のその中の、傘の影に隠れれば太陽には絶対に直射されない場所を選んで横になる。
いつもかどうかは不明ながら、今回は、その寝椅子に着くとすぐに、係が大きなグラスに満たした氷水を持って来てくれた。今日は更に、スナックとジュースのセット、次はアイスクリームとジュースのセットまでサービスをされた。
このホテルの、客に接触する可能性のある社員のほとんどは、無線の端末を身につけている。その端末に部屋番号を入力すれば、そこにはたちどころに客の情報があらわれる。今日のふたつのセットが、その情報を受けてのものかどうかは分からない。
名所に案内されて「へー」くらいの感想で、次の名所に連れて行かれて「へー」の繰り返し。そういう日本式の観光には、僕は一切の興味を持たない。プールサイドには、13時30分までいた。チェックアウトの時間を15時にしてもらって本当に良かった。月曜日から読み始めた500ページの本は、おかげで256ページまで捗った。
なお「チェックアウトは無料で午後3時まで延ばせると、日本人のウェブログで読んだぞ」とこのホテルの人に言っても、その希望が叶えられるか否かは知らない。すべてはその客の宿泊者としての履歴、そのときのホテルの規則、そしてそのときの係の判断次第だろう。
部屋にはバトラーを呼ぶボタンがあるものの、それを押すことはどうにも機械的、あるいは偉そうに僕には感じられる。部屋から短い階段を伝って廊下に降り、突き当たりにある係の控え室に近づくと、僕の姿を認めてバトラーが出てくる。これから帰るのでポーターを呼んで欲しいとの僕の頼みに、彼はみずからスーツケース2個を部屋から運び出した。「だったらあなたに」と、チップ100バーツを手渡す。
チェックアウトを済ませ、ロビーのソファでしばし休む。コモトリ君は約束の15時よりすこし前に、迎えに来てくれた。コモトリ君の会社のクルマにはポーターでなく、ヘルメットをかぶったガードマンが荷物を積んでくれた。よって彼にも100バーツを手渡す。
「クロントイ・シーカーアジア財団」は、スラムや辺境の子供たちが苦境から脱するための教養を身につけるべく、タイや周辺国に読書を広げる活動をしている。コモトリ君も影ながら応援するこの財団の場所はクロントイにあって、普通のタクシーでは、行き先を告げた途端に断られることもある。
図書室や遊戯室を備えるここでは、またスラムのお母さんたちによる手芸品も売っている。それを購って幾分かの寄付に充てたいとの考えが、家内にはあった。家内が品物を選ぶあいだに僕は瀬戸正人の写真による絵はがきを見つけ、これを30枚だけ買う。
コモトリ君が夕食の予約を入れてくれた料理屋には、約束の18時より1時間もはやく着いてしまった。「早い分には」と、開いたばかりのそこで席に着く。窓の鎧戸からは差し込む光は、いまだ昼さがりのそれである。
今夜の便は22:45発だから、空港にはその2時間前まで行けば良い。コモトリ君の今夜の集まりがあるプロンポンまで移動し、時間調整として足マッサージを30分だけ受ける。
クルマはプロンポンを19時08分に出て、空港には20時に着いた。「何番ゲートに着けましょうか」とコモトリ君の運転手が訊く。タイ航空のカウンターがどのあたりにあったか、僕は覚えていない。「任せます」と答えると「多分、2番」と、運転手はタイ語で呟いた。
荷物を降ろしてくれた運転手には100バーツを進呈する。空港に入っていくと、タイ航空のカウンターは目の前にあった。なかなか優秀な運転手である。
20時10分にチェックインを完了する。手荷物検査場へ向かう途中の掲示板には、僕の乗るTG682に”DELAY”の表示が出ていた。何気なくボーディングパスに目を落とすと、23:10の搭乗時間が印刷されている。既にしてカウンターを離れていたため、遅れの理由を訊くことはしなかった。
20:40 保安検査場を抜ける。
20:50 パスポートコントロールを抜ける。
21:20 ひとり旅では決して入らない喫茶店で西瓜ジュースを家内におごってもらう。
22:50 搭乗口D6へ降りる扉がようやく開く。
朝飯 “Mandarin Oriental Hotel”の朝のブッフェのコーヒー、オムレツと生野菜、トースト、焼き野菜とベーコン、2種のチーズ、マンゴー、西瓜
晩飯 “Kua Kling+Pak Sod”(PRASARNMIT店)のクアクリンムーサップ、パッサトーガピクン、パッウンセンムー、バイリアンパッカイ、パッタイクン、“MAISON DU SUD CHARDONNAY PAYS D’OC 2016”
2018.3.28(水) タイ日記(6日目)
きのうの夜が遅かったため、今朝の目覚めはさすがに5時台だった。朝食会場は7時から開く。きのうはその直後に会場に降りた。今日はすこし遅らせて8時に川沿いに出る。
今朝のテーブルには卵料理の小さなメニュが載せられていた。よってそこから家内はエッグベネディクト、僕はエッグフロレンティーンを注文する。
南の国では、植物は大抵、巨大になる。しかし鳥類は、おしなべて小さい。インドのカラスは日本のカラスとオナガの中間くらいの大きさだ。我々の足元でパンくずを探す鳥は、雉鳩に見える。しかしいくら南国とはいえ、その鳥は雉鳩にしてはいかにも小さい。博覧強記の人と共に旅をしたら、このような時に何でも教えてくれて楽しいだろうか。あるいは教えられすぎて、却って煩わしくなるかも知れない。
朝食から戻ると、部屋の温度は隨分と上がっていた。冷房はきのうの夜から効いていない。今朝、部屋のドアを開けると、部屋から廊下に降りる短い階段の下にたまたま部屋係がいた。よって冷房について伝えると、彼は部屋に入ってそのスイッチを触り、自分の力ではどうにもならないことを悟って「技術者を呼びます」と、深刻そうな顔をした。
家内は暑さに耐えかねてアーケードに降りた。部屋にはふたりの修理係が来る。係はこのホテルのガーデンウイングに特有の、高い床の鎧戸を解放する。そこにはこの部屋のあれこれを制御する機械が入っていた。次は脚立を立て、天井付近の冷風の吹き出し口を調べながら「ホントに暑いですね」と、紺色の作業着を身につけたオニーチャンは笑った。
「女房は堪らずアーケードに逃げたよ」と答えると、オニーチャンはしきりに謝るので「気にすることはない」と慰める。冷風は間もなく元のとおりに流れ始めた。「ご親切に感謝します。どうぞ奥様をアーケードから呼んで差し上げてください」と、オニーチャンは笑顔で去った。ホテル側の不備に対する修理のため、オニーチャンふたりにチップは渡さない。
旅行中に最も嬉しいのは「予定が無い」ということではないか。何もしないことこそ旅行の醍醐味と、僕は感じている。旅行中にすることといえば「してもしなくても構わないこと」がほとんどだ。
きのうの日記を完成させ、しかし公開ボタンはクリックしないまま、昼をすこし過ぎたあたりでプールサイドに降りる。そして15時過ぎまで本を読む。今日のプールは割と空いている。運良く木の下に無人の長椅子があった。日影は本を読みやすくする。
ところでこのホテルにチェックインをしたとき、部屋まで案内をしてくれたコンシェルジュは、チェックアウトの時間を正午と我々に伝えた。しかし前回のそれは15時だった。念のため、その日の日付2016年6月28日をノートに書いてロビーに降りる。そして初めて見る顔のフロント係に「今回のチェックアウトも15時まで遅らせることは可能か」と訊いてみる。フロント係の叩くキーボードは、我々の過去の履歴を検索しているのだろう。そしてそれほど待たせることなく「今回も15時にさせていただけます」と、確約をした。その旨をコンピュータに残すよう、僕は彼に頼む。
そのまま家内と外へ出る。16時を回っている。そしてホテルに隣接する、こちらは公共のための桟橋オーリエンテンで、オレンジ旗の舟を待つ。オレンジ旗は快速で、昼はほとんどこれのみがチャオプラヤ川を上り下りしている。
その舟に乗り込み、料金係のオネーサンにサパーンブットまで二人と告げる。料金はひとり15バーツだった。舟がサパーンブットに着く。舟は混み合って、立っている人もいる。家内を急がせると「メモリアルブリッジって書いてあるよ」と、桟橋の標識に目を遣って不審がる。グズグズしているヒマはない。「現地語の名前はサパーンブットなんだよ」と答えつつ人をかき分け、舟を下りる。
その桟橋から外の通りに出て北へ歩くと間もなく”YODPIMAN RIVER WALK”と大きく書いた門が見えてきた。「何だろう、行ってみよう」と進むと、そこには花市場の川沿いのみを小ぎれいにした、ケンタッキーフライドチキンやスターバックスコーヒーなどが入る建物があった。それを脇目にしつつ、花市場の中に入って行く。狭い通路を手押し車が何台も我々を追い越していく。築地の外国人のように、地元の人の邪魔をしてはいけない。前ばかりか右も左も後ろも気にしつつながら、その市場を足早に出る。
家内が行きたいと言ったショッピングモール「オールドサイアム」は、地図によれば、サパーンブットから歩けなくはないものの、炎天にその距離をこなすのはすこしつらいと思われる位置にあった。しかし「オールドサイアム」という英語の名を、トゥクトゥクやタクシーの運転手に理解できる発音で伝える自信は僕にはなかった。何しろこちらでは”central”が「センタン」、”oriental”は「オリエンテン」なのだ。よって「オールドサイアム」については、その場所のタイ語による地図を、iPhoneに予めスクリーンショットしておいた。
先ずは1台のトゥクトゥクに声をかけ、地図を見せる。しかしその爺様は、地図をちらりと眺めて「分からない」という顔をした。それを見ていた、すこし若い別の運転手が我々を呼ぶ。またまたiPhoneの地図を差し出すと、彼はそれをしばらく見つめて「分かった」という風に頷いた。料金は100バーツ。
1階は鶏卵素麺などお菓子の実演販売、2階は生地屋の並ぶ、その古いショッピングモールから通りに出る。本日の僕の失敗は、こんなこともあるだろうと、ガイドブックから引きちぎってきたこのあたりの地図を、ホテルの部屋に置き忘れてしまったことだ。
走ってきたトゥクトゥクを呼び止め、ヤワラーのソイテキサスへ行くよう言う。このあたりには一方通行が多く、よってトゥクトゥクに乗るにも、そのことをよく考える必要がある。
先ずは広い床を持つ鍋屋「テキサス」のもっとも奥まで進み、18時30分に予約を入れる。次はこの通りにあって、もっともまともそうなマッサージ屋を選んで足のマッサージを1時間だけ受ける。タイに来て手入れを怠っていたため切れたカカトのアカギレも、数度のマッサージにより油を塗り立てられるうち、治ってしまったようだ。
客が入っていない時間には蛍光灯の明かりも寒々しい「テキサススッキー」だが、時間が経つにつれ満席に近づき賑やかになってきた。我々は日本式に、煮えづらい具やダシのでる具から先に鍋に入れていく。しかしタイ人は概ね、何でもかんでも一度に投入をする。だから周りのテーブルのそれにくらべれば、我々の鍋の中身は景気の良さには欠ける。この店の甘めのナムチムに対して、僕は醤油とナムプラーを混ぜ、更にニンニクと唐辛子とマナオの絞り汁を調合し、自分ごのみのものを作った。
1982年の僕の定宿「楽宮大旅社」は、この中華街にありながら、あのころは、構内に両替所のあったファランポーンと宿を往復するばかりで、今夜のような賑やかなところには、ほとんど出ることがなかった。それが今としては、とても不思議に感じられる。
路上の屋台に観光客の群がるヤワラーの一方通行は、宿に戻るには不利だ。よってすこし北に歩いてチャルンクルン通りでタクシーを拾う。ホテルまでのメーターは47バーツ。これに対して運転手には70バーツを手渡す。
部屋に戻ると花と手書きのカードが届いていた。部屋の果物は、当方が食べるに従って、1日のあいだに何度でも補給をされる。そしてシャワーを浴びてガウンに着替え、即、就寝する。
朝飯 “Mandarin Oriental Hotel”の朝のブッフェのコーヒー、サラダその1、エッグフロレンティーン、サラダ2皿目、ドーナツとチーズ、ソムオージュース
晩飯 「テキサススキ」のタイスキ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2018.3.27(火) タイ日記(5日目)
きのうとそれほど変わらない時間に目を覚ます。日記を書きながら5時を過ぎると、外にときおりストロボのような光が走る。それほど気に留めていなかったものの、その光はそのうち音も伴うようになった。雷である、雨も強く降ってくる。
7時をすぎて朝食会場の”The Verandah”へ行き、なかなか良い席に案内をされる。しかし客席とチャオプラヤ川のあいだには、雨を避けるための透明の幕が降ろされている。雨は既にして上がっている。家内が頼んで係にその幕を巻き上げてもらう。すると、途中まで巻き上げられた幕のすぐ下、ホテルと川とを隔てる手すりに白人の子供が近寄って、ホテルの人から手渡されたパンの耳を川に投げ始めた。
そのパンを、水の中から上がってきた鯉か鱸のような姿の大魚がすかさず呑み込んでいく。「水に魚あり、田に米あり」と謳われたのはいにしえのスコータイではあるけれど、温帯や寒帯に住む者からすれば、インドシナの自然は信じがたいほど豊かだ。
午前にホテルを出て、チャルンクルン通りからシーロム通りに出たところで15番のバスに乗る。そしてサラデーンへ行く。運賃はひとり9バーツだった。ここから昼すぎにかけて、有馬温泉で足マッサージと耳掃除、ジムトンプソンでお土産の購入、そしてBTSでサイアムへ移動してマンゴータンゴーで三種盛りをおやつにするという、ベタというか王道というか、とにかく観光らしいことをする。
サイアムからサパーンタクシンまでは”BTS”を使う。ここからホテルの専用船に乗ると、助手はチーク製の椅子にしか見えない、しかし実は冷蔵庫から冷たいミネラルウォーター2本を取りだして我々に手渡してくれた。大したサービスぶりである。
ホテルの桟橋から部屋へ向かう家内と別れて外へ出る。そうして舟から川沿いに見えた、庶民的な、あるいはすこしばかり粗末な、つまり僕ごのみの食堂の場所を探しに行く。その食堂”Jack’s Bar”は、ボソテルホテルやシャングリラホテルのあるチャルンクルン通りソイ42/1のどん詰まりに位置していた。今秋には、この食堂で飲み食いをする機会があるやも知れない。
ソイ42/1からチャルンクルン通りへ出て、すこし歩いてスーパーマーケットのトップスに入る。そして唐辛子入りの醤油1本を買う。地下1階のトップスから上りのエスカレータに乗りつつ「あぁ、ここまで来るなら溜まった洗濯物を持ってくれば良かった」と後悔しても遅い。こんなことを言ってはけち臭いが、マンダリンオリエンタルのクリーニング代は隨分と高いのだ。
部屋に戻ると15時が近かった。先ずはシャワーで汗を流す。それからプールへ行く。寝椅子で本を読むうち、対岸のペニンスラホテル右側にあった夕陽がプールサイドの木々の下に見えなくなる。それでも本を読み続け、18時前に引き上げる。
今夜の食事はビールの醸造施設を備え、レビューを見せるビヤホール「タワンデーン」で摂ると決めていた。先ずはホテルの舟でサトーンの桟橋まで行く。そこからチャルンクルン通りに出て南にすこし歩く。停まっていたトゥクトゥクの運転台からオニーチャンが顔を出す。「タワンデーンまでいくら」と訊くとオニーチャンは左腕の時計に目を遣ってからすこし考え「サームローイバー」と答えた。
メーターを備えたタクシーの方が安いことは明白だ。しかし300バーツは正に僕が予想した通りの価格で、しかも遊びと考えれば高いことはない。僕と家内を乗せたトゥクトゥクは時に渋滞に閉じ込められ、あるいはまるで首都高速道路のような高架道路を飛ばしに飛ばし、25分かかってタワンデーンに着いた。
案内された席でメニュを渡される。僕はビールはほとんど飲まない。しかしビヤホールであれば、まったく飲まないというのも憚られる。僕はラガーの0.5リットル、家内は0.3リットルを選ぶ。続いて7年前の秋に来たとき美味かった野菜炒め、それからそのときには頼まなかった豚足揚げを注文する。
タワンデーンの席は時間が経つにつれて埋まり、タイの古典楽器を使ったロック、豪華な衣裳による歌謡ショー、ルークトゥン、ラップ、曲芸と、テンポ良く運ぶ出しもの共に、客の気分も盛り上がってくる。タイでは20時前後に就寝することを続けて来た。しかしタワンデーンでは、早々と帰っては損なのだ。
ビールをチリ産のソービニョンブランに変えて飲んでいると、聞き覚えのある前奏が聞こえてきた。舞台の奥では次のショーに備えて模様替えが行われているのだろう、臙脂色の幕の前に若い女の歌手が出てきて歌い始めたのは「北酒場」だった。
海外で、こちらを日本人と認めるやいなや、日本の曲を歌ったり演奏したりする歌手やバンドを僕は好まない。しかしこのとき、僕は客席の暗がりにいたから、舞台の上から僕の姿は見えない筈だ。それになにより僕は周囲のタイ人たちに紛れている。そんなこともあって僕はその勢いのある「北酒場」に感動し、舞台の下から歌手のオネーサンに1,000バーツを進呈した。オネーサンは「北酒場」を歌いきると、僕の席まで挨拶をしに来てくれた。
そうこうするうち、今度は三線による前奏が聞こえてくる。「なだそうそう」である。繰り返して言えば、周りの客はほとんどタイ人ばかりだ。良い曲は、スタンダードとして他の国にも根付くのだろう。しっとりと歌い始めたのは網タイツに短髪のオバチャンだった。このオバチャンの達者な歌いぶりには先ほどから感心をしていた。よってこのオバチャンにも1,000バーツを進呈する。
インドシナにはカフェーという遊び場がある。屋根だけで壁のない、駐車場のような広い場所にテーブルと椅子が並べられている。客は飲食をしながら歌を聴く。お気に入りの歌手があらわれれば、その値段の一部が歌手へのチップになる花の首飾りをフロア係に金を渡して歌手に贈る。贈られた歌手は歌を終えると舞台を降りて客に礼を言い、あるいはその席にしばし侍る。
カフェーは、その国が後進国から中進国、そして先進国を追撃するところまで力を伸ばし始めると、なぜか廃れていく。カンボジアではいまだ健在なカフェーは、しかしタイでは今や、田舎にしか残っていない。僕はオバチャンの「なだそうそう」を聴きつつ「そうか、タイのカフェー文化は、タワンデーンに生き続けていたんだな」と納得をした。
出しものの最後は、ここの従業員も多く舞台に上がってのダンス大会だ。その大フィナーレの最中に勘定を済ます。2,100と少々の請求書を持って来た、色の浅黒い、タイ人特有の細身のウェイトレスに、家内は2,200バーツを渡した。
さて、混み合う前にタクシーを拾わなくてはならない。係へのチップとして100バーツ札1枚を胸のポケットに用意して駐車場へ出て行くと、空車の赤いランプを点したタクシーが1台、路上に停まっていた。駐車場係の水色ではない、白いシャツを着た男が「タクシー?」と訊く。「チャーイ、ミータータクシー」と答えると、その男は頷いてタクシーを指す。帰りの足は難なく確保することができた。
色の黒い、痩せた、大人しそうな運転手にタイ語で行き先を伝える。運転手はクルマを静かに発進させた。往きとは異なって、10分ほどでホテルに着く。71バーツのメーターに対して運転手には100バーツを払い、釣りは要らないと言葉を添える。
部屋のエアコンディショナーが、なぜか効かない。しかしシャワーを浴びればそれほど寝苦しい夜でもない。そして部屋に備えつけの絹のガウンを着て0時前に就寝する。
朝飯 “Mandarin Oriental Hotel”の朝のブッフェの1皿目、2皿目、コーヒーとマンゴージュース、ペストリーとチーズ、ヨーグルト、センミーナム、マンゴー
晩飯 “Tawandang German Brewery”の野菜炒め、豚足の関節揚げ、ラガービール、チリのソーヴィニョンブラン
2018.3.26(月) タイ日記(4日目)
目を覚ましてしばらくしてからベッドを降り、すぐちかくにあるデスクの灯りを点けると、きのう外してそこに置いてあった腕時計は2時40分を指していた。可もなく不可もない時間である。
朝食は7時からにて、その前に大部分の荷造りは済ませておく。きのう買った2本のラオカーオの片方は、2本の空のペットボトルに移して荷物を軽くする。
8時20分にベルボーイを呼ぼうとして、しかし部屋に備えつけの電話機は、その使い方がまったく分からない。説明書も見あたらない。よってふたつのスーツケースは部屋に残し、ロビーに降りる。そして愛想良く笑いかけてきたベルのオジサンに、部屋から荷物を運ぶよう頼む。
「あー、もう帰るのかぁ」と、家内は未練がましい。日程はいまだ、ちょうど真ん中にさしかかったばかりだ。しかしこの、フアヒンでもっとも古いホテルの別世界ぶりを振り返ってみれば、その慨嘆も分からなくはない。
フロントからベルの場所を振り返ると、オジサンは黄緑色の陽光を背負いつつ、クルマは既に来ていることを教えてくれた。早い分には有り難い。即、そのクルマをロビーの真下まで呼んでもらい、荷物を載せてもらう。
08:47 ホテルの正門を去る。
09:13 運転手がコーヒーを買うため小休止をする。「眠気を抑えるため」という弁明が僕を不安にさせる。
09:30 ペチャブリーを通過
10:00 パクトーを通過
タイの幹線道路は僕が知る限り、片側三車線の広いもので、山間部でもない限り、どこまでも真っ直ぐに続いている。その広くて真っ直ぐな道を、クルマは時速120キロほどで走る。
このようなタイの道路は、ドミノ的に共産化するインドシナの現状を恐れたアメリカの援助によるとの文章を読んだことがある。しかしそれを、複数の資料により確かめたことはない。
10:08 サムットソンクラー県でメークローン川を渡る。
10:15 出発してはじめての渋滞に遭う。「ポリー」と運転手が苦笑いをする。左手に台貫所が見える。警察の検問らしい。
10:27 サムットサコーン県の、多分タージーン川を渡る。当方は詳細な地図を持たないため「多分」としか書けない。
11:00 バンコク県に入って高速道路に上がる。
11:05 チャオプラヤ川を渡る橋の上からバンコクのビル群が見えてくる。
11:08 BTSの高架とブアアットステイトタワーが間近になる。
11:10 いつも賑わっているチャルンクルン通りに入る。
11:15 マンダリンオリエンタルホテルに到着する。運転手はここに来る2時間30分のあいだ、シートベルトは締めず、あくびを繰り返していた。よってチップは300バーツに留める。
チェックインは素早く終わる。
このホテルではむかしから、客を部屋に案内するのはコンシェルジュだ。彼女の説明が終わる前にベルボーイが荷物を運んでくる。ベルボーイが去ると、客室係が冷たいお茶を持って来る。そのたび100バーツのチップを手渡す。「オリエンタルホテルでも、他のホテルとおなじくチップは20バーツで構わない」とウェブログに書いた人がいた。しかしそれは、僕の流儀ではない。
チャルンクルン通りとオリエンタルホテルのあいだにある、初めて訪ねた1991年から数年前までは、籐の大きなカゴなどが埃をかぶったまま積み上げられていたから「乱雑屋」と密かに呼んでいる店で少々の買い物をする。それから部屋に戻り、ズボンを”Patagonia”のバギーショーツに履き替える。プールまでガウン姿で公共の場所を歩きたくない人は、プールサイドの地下にある部屋を使うことができる。
午後のほとんどは、そのプールサイドで本を読む。そして部屋に戻り、シャワーを浴びて服を着る最中にドアをノックされる。客室係が届けに来たものは、綺麗な色をしていたため菓子のたぐいとばかり考え口に入れると、それは小さな海老を使った洒落た酒肴だった。一瞬、家から持参したシェリー酒で口を漱ごうとして、しかしそれは止めておく。
ロビーから朝食の会場へと続く、つまりバンブーバーなどのある廊下を抜けて舟の乗り場へと向かう。ホテルの舟は具合の良いことに接岸をしたばかりで、我々が乗り込むとすぐに岸を離れた。その舟でサトーンの桟橋までチャオプラヤ川を下り、ここですこし待って、今度は同級生コモトリケー君の住むコンドミニアムの舟で川をさかのぼる。
そのコンドミニアム「バーンチャオプラヤ」に着いて知った道を歩いて行くと、我々の到着を待ちかねたコモトリ君が夕陽を背に近づいて来た。そして3人で、いつもの料理屋の席に着く。
数ヶ月前に、シンガポールからのお客様で店の賑わったことがある。その団体さんが大量に買ってくださったのが「日光味噌ひしお」だった。伺ったところ、これを魚の清蒸に添えることを教えてくださった。そのときから、今回の旅先には「ひしお」を持ち込むことを僕は決めた。
真っ先に注文したのは、鱸の柑橘蒸しである。テーブルに届いたそれに「ひしお」を添えて食べてみれば、なるほど美味い。しかし「ひしお」は、タイの香辛料や香草の効いた蒸し魚より、やはり広東式の清蒸にこそ、より似合うだろう。
オリエンタルホテル横の公共の桟橋には、バーンチャオプラヤ19:30発の舟で戻った。そしてシャワーを浴びてガウンに着替え、枕元に本とメガネを用意して、しかしその本は開かないまま眠りに落ちる。
朝飯 “Centara Grand Beach Resort & Villas Hua Hin”の朝のブッフェの1皿目、2皿目、コーヒー、パン
晩飯 “YOK YO MARINA & RESTAURANT”のプラーガッポンヌンマナーオ「ひしお」添え、クンオップウンセン、トードマンクン、緑貝のミント炒め、”TIO PEPE”
2018.3.25(日) タイ日記(3日目)
目を覚まし、小一時間ほどと思われる時を闇の中で、横になって休む。それから床のゴム草履を足で探り、履き、デスクの灯りを点ける。時刻は1時35分だった。きのうの日記は一昨日ほどの長文にはならないから、書くに際しての苦労はそれほど無い。
部屋のベランダからは、木々を透かしてシャム湾が望まれる。その、東の空が紅く染まるころ2階から1階への階段を降り、更に階段を下って庭に出る。園丁により早朝から動かされているスプリンクラーの水を避けつつ小径を辿り、海辺に出る。今朝は雲が多く、朝日は望めない。砂浜からホテルの敷地に上がったところに係が用意してくれた冷たい胡瓜水を飲み、部屋に戻る。
きのうよりもすこし早く、7時すこし過ぎに朝食の場所へと向かう。日の出の時間には多かった雲はあらかた去って、広大な庭の緑を日の光が鮮やかにしている。その庭を、きのうとおなじくガウンで散歩してる白人の老人がいる。「まるで温泉場の浴衣じゃねぇか」と呆れるけれど、リゾート地であれば、ホテルもあまりうるさいことは言わないのかも知れない。
8時30分にプールサイドに降りる。係に寝椅子を整えてもらい、そこで昼すぎまで本を読む。僕の旅の愉しみのほとんどは、プールサイドでの本読みにあるかも知れない。天動説で言えば太陽が動き、顔を直射するようになるたび、車輪付きの寝椅子を動かして、ふたたび影を作ることを繰り返す。日曜日だからだろうか、浜辺では多くの人たちが思い思いに寛いでいる。
シャワーはプールサイドで浴びた。しかし部屋に戻れば戻ったで、またまたシャワーを浴びる。ガウンに着替えて天井の扇風機をゆっくりと回す。そうしてベッドに横になり、しばらくのあいだ涼む。
落ち着いたところでフロントに行く。そして街の、僕の手持ちのものより広いところまで載せた地図をもらい、同時に、自転車を借りたい旨を申し出る。
ここの貸し自転車は、これまであちらこちらのホテルで借りた、整備不良のものとは明らかに違う。係は3台ある”SPECIALIZED”の自転車のうち1台を選び、ブレーキの具合を確かめた。自転車が良ければ無料というわけにはいかない。貸出時間のうち最短の「1時間」を係に告げ、100バーツの料金に対して署名をする。そして先ほどの地図を取り出し、テスコロータスの場所を訊く。
係は「500メートルか1キロ」と僕に答えた。「そんなに近いのか」と僕は喜び、しかし本気にはしなかった。12時55分にホテルを出て、教えられた近道を通ってしばらく行くと間もなく、巨大な複合施設”Hua Hin Market Village”が右手に見えてきた。ホテルからの所要時間は6分ほどだったから、まさか500メートルということはないものの、やはり遠くはなかった。
きのうの日記に書いた、ホテルちかくのスーパーマーケットには大量のワインがあったけれど、ラオカーオは1種類しか置いていなかった。買って不味ければ後悔をする。それゆえのテスコロータスである。酒の売り場をひとまわりすると、果たして僕の一番好きな”BANGYIKHAN”が充分に在庫されていたから喜び勇み、2本をキャッシャーに持ち込む。
ホテルに戻る幹線道路は大渋滞をしていた。すこし遠回りをしてフアヒンの駅へ行き、その日影で小休止をする。ふたたび走り出して、今度はホテルのちかくから”NARESDAMRI ROAD”に入る。この狭い道を、不法駐車のクルマや、それを避けようとして道をふさぐクルマのあいだをすり抜け、1階に魚屋を併設する料理屋を見つける。2階への階段を上がると、昼食を摂る地元の人たちの向こうは砂浜である。
ここの店員らしいオニーチャンに予約を頼もうとすると、専用の窓口を教えてくれた。よってその、駅の切符売り場のようなところまで歩き、18時に席ふたつを確保するよう係のオバチャンに伝える。来た道を戻り、ホテルの正門から、アンセリウムが寄生する大木の脇を走って自転車を戻す。時刻は13時50分。上出来の時間配分である。
部屋に入れば即、シャワーを浴びる。汗に濡れたポロシャツはベランダに干した。そしてコンピュータを起動し、今日ここまでの日記を書く。庭の、初日とおなじスパにかかろうとした家内は、しかし今日は18時30分まで満員とのことにて、部屋で休んでいた。
今日こそは、しなくてはならないことがある。明日の、バンコクまでの足を確保することだ。長い回廊を歩いてロビーに降り、フロントのオネーサンに、スワンナプーム空港までのバスについて訊く。オネーサンは、バスステーションまでのトゥクトゥク代は300バーツ、バスの予約は自分でして欲しいと、ベルトラベルサービスのURLを教えてくれた。
部屋に戻り、教えてもらったばかりのサイトであれこれ調べる。バスの行き先はスワンナプーム空港しか選べない。運賃はひとり269バーツに予約手数料が50バーツが加わって319バーツ。空港からホテルまでのタクシー代は、概ね400バーツくらいか。とすればふたりで1,300バーツ強。そのことを家内に伝えると「ここからバンコクまでタクシーで行けるの」と、もっとも楽な方法を探りはじめた。「そりゃぁ、金さえ出せば、何でもできるよ」と答えて、今度はふたりでフロントへ行く。
「ここからバンコクまでタクシーってのは、どうでしょう」と、先ほどのオネーサンに訊く。「それならホテルのリムジンがございます」と、今度は先ほどとは異なって、誰にも確かめることなくオネーサンは即答をした。しかし「リムジン」という言葉の響きが僕をひるませる。
「5,000バーツだって」と、ソファで休む家内に振り向いて告げる。「いいじゃない」と、家内は涼しい顔である。街のそこここにブースを設けている観光タクシーに交渉をすれば、バンコクまでの価格は多分、2,000バーツくらいのものだろう。しかしリムジンであれば、整備されたクルマと優秀な運転手が約束されている。リムジンとは畢竟、金で安全を買う仕組みである。
「イヤだよー、トゥクトゥクでバス停まで行って荷物を降ろして、今度はバスに荷物を載せて。それで行き先は空港でしょ。空港からホテルまで、また1時間くらいかかるでしょ」と、もはや家内はバスなど眼中にない。僕はふたたびオネーサンに向き直り、明朝9時のリムジンを予約した。代金はいずれ、家内が払うのだ。
午後の強い日差しがいくらか弱くなる。16時20分にホテルを出る。夜が明ける前からホウイッ、ホウイッと啼く鳥はいつも、濃い樹影の中に潜んで観察することが能わなかった。その鳥を遂に、路上から家内が見つける。葉の疎らな木の高いところで啼くその鳥は、尾長よりすこし大きく、真っ黒な体に細い嘴だけが黄色かった。
きのうのマッサージ屋は大繁盛で、マッサージ師は、きのう見知ったオニーチャンしか空いていない。「10分だけ待って」と、そのオニーチャンは我々を店内に招き入れた。もうひとりのマッサージ師はすぐに現れた。そして足のマッサージを1時間だけ受ける。ここでも家内は料金払い係、僕はチップ渡し係である。
巨大なヒルトンホテルの客をあてにしてるのかどうかは不明ながら、多くの飲食店やインド系の仕立屋が軒を連ねる”NARESDAMRI ROAD”を北へ歩く。そして昼に予約をした料理屋の階段を上がり、ちかくにいた客席係のオニーチャンに名を告げる。
オニーチャンは、砂浜に張り出すようにして伸びる、まるで桟橋のような客席に我々を先導し、奥に立つ、別のオニーチャンに僕の名を大声で伝えた。用意されていた席は、もっとも海側の南の角だった。予約係のオバチャンは、愛想こそ悪かったものの、良い仕事をしてくれたものだ。
その店の、注文したものはすべては美味かった。すっかり日の落ちた盛り場を抜け、駅から伸びる目抜き通り”DAMNOENKASEM ROAD”まで戻る。それを渡ればホテルの正門はちかい。ロビーに達するまでの巨木のどこかでは、またまたホウイッ、ホウイッと鳥が啼いている。
家内に乞われてロビー脇のエレファントバーの席に着く。バーテンダーは、細身でショートカットのオネーサンだった。家内はモヒート、そして僕は、昼に買ったラオカーオ2本分にほぼ等しい価格の、しかし量はグラスの底にほんの少しのグラッパを飲む。
勘定を頼み、カードキーを納めた厚紙の部屋番号を見せる。伝票の署名欄のすぐ上に”TIP”の文字が見える。「どうしようかなぁ」と一瞬、考え、そこには何も記さず、財布から取り出した100バーツ紙幣1枚を伝票に添えてオネーサンに渡す。
部屋を出入りするのは、朝から何度目になるだろう。服を脱いでガウンに着替え、すこしだけ休むつもりでベッドの布団に潜り込む。そして結局は、シャワーも浴びないまま眠りに落ちる。時刻は多分、20時にも達していなかった筈だ。
朝飯 “Centara Grand Beach Resort & Villas Hua Hin”の朝のブッフェの1皿目、2皿目、コーヒー、パン、パイナップルジュースとオレンジジュースの混ぜ合わせ
晩飯 “CHAOLAY SEAFOOD”のヤムウンセンタレー、ハマグリのミント蒸し、ホタテ貝のにんにくバター焼き、海老焼きそば、“TIO PEPE”(ソーダ割り)
2018.3.24(土) タイ日記(2日目)
目を覚まし、ゴム草履を履いてデスクに近づく。そして電気スタンドのスイッチを入れて、コンピュータを起動する。時刻は3時だった。先ずはデジタルカメラからコンピュータに画像を移す。その中から昨日の日記に必要な画像26枚を選ぶ。26枚とは、aからzまでのアルファベット26文字を画像のファイル名にするからだ。それ以上の枚数が使いたくても、どうにかして26枚に抑えるのが、ここ数年の僕の決まりである。
3時30分を過ぎたところでホウイッ、ホウイッという、この国の主に南部で耳にする鳥の声がベランダの向こうから聞こえてくる。きのうの日記は長すぎて、なかなか書き終えない。疲れてベッドに横になり、またデスクに戻って書くことを明け方まで繰り返す。
7時を過ぎたところで朝食の会場へとおもむこうとする。このホテルは藩王の屋敷というより宮殿と表現をすべきだ。きのうの日記にも書いたことだが、ロビーへ出るには、庭に面した回廊を数百メートルほども歩く必要がある。その途中に見つけた図書室には、国別に区切られた書棚が整えられ、過去の宿泊者が置いていったものだろう、日本の本も数十冊はあった。
部屋のカードキーは、チェックインの際に厚紙に挟まれた状態で手渡される。その厚紙を開くとホテルの見取り図になっている。その図の”Railway Restaurant”が朝食の場所とは、今朝はじめて知ったことだ。
朝食の豊かなホテルに泊まり、その朝食を時間をかけて摂る。そして昼食は食べない。というか、腹が減らないので食べられない。家内と旅に出たときには、その1日2食が常態となる。
コテイジのそれを含めれば、一体全体どれほどの数があるか分からないプールのうち、部屋に最もちかい”Railway Pool”で昼の数時間を本読みに充てる。寝椅子の脇には、料理や飲物を注文するためのボタンが用意されている。近づいて来た係から、トマトとチーズの串にジェノベーゼソースをかけたピンチョス1本をもらう。
14時すぎにタイパンツを履き、帽子をかぶって家内と部屋を後にする。きのう駅から歩いたときには気づかなかった正門を目指す。部屋からここまでのあいだに、既にして4、500メートルは歩いている気分だ。
先ずは”DAMNOENKASEM ROAD”と”NARESDAMURI ROAD”との交差点の南西角にあるスーパーマーケットをひやかす。元は酒屋だったのだろうか、酒の点数が異常に多い。ラオカーオは残念なことに1種類しか置いていなかったが、バンコクに移動する際には買っていこうかと思う。
そのスーパーマーケットから駅に向かっていくらも離れていないマッサージ屋にて、肩と背中と足のマッサージを1時間だけ受ける。金を払いながら痛みに耐え、最後はチップまで渡すタイのマッサージについては、僕は「安い店でなら暇つぶしに受けても良い」くらいのところだ。今日のマッサージは家内のおごりにて、チップのみ僕が二人分を払う。
フアヒンの日中の気温は30℃ほどだろうか。しかし日差しがきついため、街では日影を選んで歩く。飲食店やバーの多い”POONSUK ROAD”から”DECHANUCHIT ROAD”に出て、夕食を摂るべき繁盛鍋屋を探す。そして迷った挙げ句、ようようその店を見つける。
荷物を減らすため、ガイドブックは必要なページのみ引きちぎって持参する。よって何年号かは不明ながら「地球の歩き方」の地図は、この鍋屋ソンムージョームの位置を間違えている。正しい場所は、街の真ん中を南北に走る”NAEBKEHARDT ROAD”と東西に伸びる”DECHANUCHIT ROAD”が交わる南東の角、である。
そこから目抜き通りの”DAMNOENKASEM ROAD”まで戻るPHETCHKASEM ROAD”には、タイでは珍しくない、その真ん中に木が植えられ、電話ボックスがあり、あるいはがれきだらけの「歩けない歩道」が続いている。
部屋に戻って即、汗に濡れたポロシャツを脱いでベランダの物干しにかける。そしてシャワーを浴びる。タイにあっては、帳面にでも付けておかない限り覚えていられないほど、日に何度も沐浴をする。
兎に角、部屋から門まで4、500メートルはあろうかというホテルだから、本日2度目の外出では、もう歩く気はしない。目抜き通りに出たところでトゥクトゥクに声をかける。鍋屋の交差点まで100バーツという値を確かめて席に着く。僕の知るトゥクトゥクは多く3人乗りだ。しかしこの街のそれは席が向かい合って、6名は乗れる仕様になっている。
ソンムージョームの夜の部は17時30分からと、店先には札が出ていた。しかし我々が着いた17時20分には、既にして幾組もの客が入っていた。幸いにして空いていた外の席に着き、肉と魚貝類のチムジュム、クンオップウンセン、レモンティー、ソーダ、そして氷を注文する。
繁盛店らしく、料理が席に運ばれるまでに15分ほどは待っただろうか。家内はチムジュムのスープにいたく感心をしてたが、僕はむしろ、クンオップウンセンの美味さに心を奪われた。大きな海老が3尾も入っているのは、シャム湾に面した土地柄だろうか。
店は暗くなる前から、既にして満席である。代金は415バーツだった。そこから目と鼻の先のナイトマーケットをそぞろ歩く。正面には、駅の北側にある山が見えている。明日はこのあたりで夕食を摂っても良いかも知れない。
帰りはふたたびトゥクトゥクを拾う。ホテルの正門までとばかり考えていたトゥクトゥクは、しかし門柱と車止めのあいだをすり抜け、ロビーの前に横付けをしてくれた。これこそサバイ、サヌック、サドゥアックの三拍子である。そのロビーには、これから街へ出ようとしていた白人の団体がいた。トゥクトゥクの運転手が効率よく稼げて何よりである。
名状しがたい風情の明かりが点された回廊を辿って部屋に戻る。そしてシャワーを浴び、ベッドで本を読むうち、メガネをかけたまま眠ってしまう。時刻はいまだ、19時台だったと思われる。
朝飯 “Centara Grand Beach Resort & Villas Hua Hin”の朝のブッフェの1皿目、2皿目、コーヒー、パン、テンモーパン
晩飯 「ソンムージョーム」のクンオップウンセン、チムジュム(ミックス)、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2018.3.23(金) タイ日記(1日目)
「成田から早朝バンコクに着きました。ウボンラチャタニーでの夕食は…」というような、途中経過を欠く日記は読む気がしない。当方が知りたいのは、その人のバンコクからウボンラチャタニーまでの経路や、バンコクからウボンラチャタニーへ至るまでに必ずあっただろう、諸々の階調の変化なのだ。しかしてまた、僕が旅の初日に記すような長い文章はハナから読まない人も、いてしかるべきとは思う。
“BOEING747-400″を機材とする”TG661″は、定刻に15分遅れて0時35分に羽田空港を離陸した。馬が喰うほどオフクロの遺したデパスとハルシオンのうちの各1錠ずつは、ベルト着用のサインの消えた0時45分に飲んだ。効くときには一瞬にして眠りに落ちるこの組み合わせだが、今回はなかなか寝付かれない。
人の気配がすることには数分前から気がついていた。それが徐々に近づいてきたため、アイマスクを外す。客室乗務員が熱いおしぼりを配っている。それを僕ももらって目頭を拭く。おしぼりとはいえ不織布のため、熱さがすぐに失われるのは味気ない。機は海南島の東方洋上を南西へと向かっている。
05:35 朝食が配られる。
05:55 ダナン上空を通過。ここからバンコクまでは1時間の行程である。
06:30 客室乗務員のアナウンスを受けて、記入済みの古い入国カードを棄て、受け取った新しい入国カードに情報を書き直す。
“TG661″は、定刻より24分はやい日本時間07:01、タイ時間05:01にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。
05:22 パスポートコントロールの列に並ぶ。
05:49 パスポートコントロールを抜ける。
06:16 エアポートレイルリンクの車両が空港駅を発車。マッカサンまでの運賃は35バーツ。
06:40 マッカサン着
06:45 ラチャダーピセーク通りの歩道橋を渡ってMRTペチャブリー駅に向かう。
06:49 MRTペチャブリー駅を発車。ファランポーンまでの運賃は30バーツ。
07:06 MRTファランポーン駅着
07:14 地下道を歩いてファランポーン駅の構内に入る。
今回の目的地であるフアヒンへの最も合理的な経路は、スワンナプーム空港からバスに乗る手だ。しかし合理的な経路と面白い経路が等号で結ばれることは少ない。タイでの長距離移動は、線路が通じてさえいれば鉄道が一番、というのが僕の感想である。
タイの鉄道は夜は二等寝台、昼は三等車に限る。その三等車の切符を、どのような理由によるものか、国鉄職員は外国人にはあまり売りたがらないという情報をウェブ上で目にした。フアヒン行きは、”Special Express”が08:05発のフアヒン11:26着。それに対して三等車の”Ordinary”は09:20発のフアヒン13:30着である。朝の7時台に駅に着きながら、発車の遅い、しかも三等車に乗るのはいかにも不合理、不自然だ。
よって当方は「冷房車は窓に遮光のための色が付いているから景色が綺麗に見えない」だの「タイの冷房は寒すぎるから風邪をひく」だのと理論武装をして窓口に進む。しかし案に相違してオニーチャンはにこやかに、僕の頼んだ切符を二つ返事で発券してくれた。バンコクからフアヒンまでの距離229Kmに対して三等車の運賃は44バーツ。実に汁そば1杯分の料金である。
7時30分に来ると言っていた同級生コモトリケー君は8時がちかくなってからファランポーン駅に姿を現した。日光味噌梅太郎の白味噌を1kg、朝露を1本、それに家内の買った酒肴を手渡すと、僕のスーツケースは一気に軽くなった。そのできた隙間に背中のザックから出したコンピュータを納める。
08:00 駅の構内に国王賛歌が流れたため、周囲のタイ人と共に起立をする。
08:05 仕事に行くコモトリ君と別れ、プラットフォームの7番線でベンチに座る。
08:10 ラチャブリー発バンコク行きの9両編成が7番線に入線
09:00 その9両編成が7番線からどこかに消える。
09:07 我々の乗る3両編成の261番列車が7番線に入線してくる。
タイ国鉄の駅は日本のそれのように、乗車位置をプラットフォームに示すような親切なことはしていない。乗客は、ちょうど昇降口が自分の前に来るだろう場所を想像してプラットフォームのあちらこちらに個人あるいは小さな列を作って列車を待つ。
僕の脇に立っていたオジサンはその賭けに負け、しかし何とか席を確保しなくてはならない。そして焦ってプラットフォーム上に転倒した。そのオジサンの立ち上がるのを確認して僕もタラップを駆け上がる。そうして進行方向左側の2席を死守する。それからようやく、家内が車両の下まで転がしてきたスーツケースを車内に持ち上げる。僕の小さなスーツケースは網棚に、家内の大きなそれは他の乗客に倣って通路に置いた。
09:20 フアヒン行き261番列車は驚くことに定時にファランポーン駅を発車。
09:33 サムセン停車
09:40 バンスージャンクション停車
チャオプラヤ川を渡ると列車はようやく速度を上げた。ディーゼルエンジンはときおり航空機用レシプロエンジンのような排気音を発して快調に回る。線路の継ぎ目を越える音がいきなり高くなる。ファランポーンのプラットフォームで20バーツで買った鶏のガパオと目玉焼きの弁当を食べようとして、プリックナムプラーをズボンに散らす。
09:49 バンバルム停車。
10:00 タリンチャンジャンクション停車
10:16 サラヤー停車
10:22 ワットスワン停車
10:25 クロンバンタン停車
バナナと椰子の木、そして疎らな民家ばかりが見える。天候は曇り。気温は26度くらいだろうか。窓はファランポーン駅を出る前から全開にしている。
10時30分、ワットニューライで白人の中年男女ふたり組が降車しようとして降りられない。脇のボタンを押さなければ扉の開かないことを知らなかったらしい。地元の乗客がそのボタンを押してくれたため開いたドアから降りようとして、しかしそのことに気づかなかった車掌がドアを閉めるスイッチを入れたのだろう、女の人は閉まりつつあるドアに頬を叩かれ、車両はそのまま何ごとも無かったように発車をしてしまう。
10時05分、駅に着くたび席から中腰になり、外の駅名看板を確かめる僕に、いま停車中の駅はナコンチャイシーであることを、おなじボックスに座るオニーチャンが自分のiPhoneで教えてくれる。
10:44 トンサムロン停車
10:48 ナコンパトム停車
10:51 サナムチャンドラパレス停車
10:57 プロンマドゥア停車
11時01分、クロンバンタンを過ぎたあたりから雲行きが怪しく、風も涼しくなってくる。
11:06 ノンプラドゥックジャンクション停車
11時10分、左手に大きな役所、間もなく大きなキリスト教会が見えてくる。やがて停まった駅はバンポンだった。
11:17 ナコンチュム停車
11:20 クロンターコット停車
11:25 パックナーラン停車
用を足すため席を立って隣の車両へ行く。こちらの席はアルミニウムをプレスしただけのもので、クッションは付いていない。自転車を持ち込んでいる白人もいれば、床にあぐらをかくオバチャンもいて、僕の乗る車両よりも景色は賑やかだ。
11:31 チェットサミアン停車
11時41分、幅の広い川を渡ると間もなく駅に停まる。確認はできなかったが多分、チュラロンコーンブリッジと思われる。
11:44 ラチャブリー停車
雨が降ってきたため、目の前に座ったオニーチャンとの共同作業にて窓を閉める。途端に車内が蒸し暑くなる。有り難いことに間もなく雨が止む。即、窓をふたたび全開にする。
11:59 パクトー停車
この列車は鈍行ではなさそうだ。しかし数分おきに停車を繰り返す。かと思えば長い距離を一気に駆け抜けることもある。左手には遠くの森まで水田が広がっている。右手は水田の先に、地面からいきなり盛り上がったような、タイ特有の山々が連なっている。
12:29 ペチャブリー停車
12:35 ペチャブリー発車
いきなり涼しくなったのは、シャム湾が近づいたためだろうか。
12:44 カオターモン停車
12:48 ノイマイルアン停車
12:53 ノンチョック停車
未明の機内食と小さな駅弁しか口にしていないため小腹が空く。よって日本から持参した干し柿を食べる。右手はるかにあった山々が、ずいぶんと近いところまで迫ってくる。
12:59 ノンサラー停車
13時10分にチャアムに着く。ここまで来ればフアヒンは指呼の先である。旅行者を含めて結構な数の乗客がここで降りる。オレンジ色のベストを着た、これまた結構な数のモータサイの運転手が、プラットフォームで客に声かけている。軽井沢に対する北軽井沢のように、ここもリゾート地として人を集めているのかも知れない。
チャームを出ると、3両編成の三等車は鞭を当てられた競走馬のように一気に速度を上げた。
13:23 フアヒンの直前にあると聞いていたトンネルを過ぎる。
13:24 左手に飛行場の管制塔らしいものが見える。
12:29 タイ国鉄の仕事としては奇跡的と思われる、定時の6分前にフアヒン着。
フアヒンの駅前はこぢんまりとして美しい。先ずは人力車のオヤジが声をかけてくる。「ふたりじゃ無理だよ」と答えると、別の一台を指して「分乗すれば」と言っているのだろう。料金は訊く気もしない。次は観光用の写真パネルを持ったオヤジが「タクシー?」と近づいてくる。ホテルの名を告げると「150バーツ」と英語で答えたので「高い」とタイ語で返す。客引きはそのままどこかに消えた。まける気はさらさらないらしい。
数百メートル先の高いところにヒルトンホテルの”H”の印が見えている。予約をしてあるセンタラグランドビーチリゾート&ヴィラズフアヒンという長い名のホテルは、そのヒルトンホテルの向かい側にある。よって嫌がる家内を説得するまでもなく、家内の大きなトランクを曳き、タイ特有の、車道から高さのある、しかも敷石の平坦でない歩道を歩き始める。
駅からホテルまでは、やはり数分の距離だった。ホテルの守衛に予約してある旨を伝える。芝や樹木のよく手入れされた庭の道を往くと、守衛から連絡を受けたベルボーイが満面に笑みを湛えて近づいてくる。これでひと安心である。
地元の人には「センタラ」と略して呼ばれるここは、1923年に建てられた、フアヒンでもっとも古いホテルだ。ロビーで冷たい飲物を受け取り、チェックインを済ます。そのフロントの女の人と会話を交わしつつチーク作りの湾曲した階段を上がる。庭の緑を眺め降ろす廊下は200メートルほども続いていただろうか。
案内をされた部屋に入って右側はウォーキングクローゼットと化粧のための部屋、左手は床に大理石を奢ったバスルーム、その奥の寝室の床はもちろん、磨き込まれたチークだ。間もなくふたつのスーツケースが部屋に届く。ベルボーイに100バーツを渡す。数百メートルの移動に150バーツを要求するタクシーには「冗談じゃねぇよ」ではあるけれど、祝儀については、僕は割と鷹揚である。
汗まみれの体をシャワーで洗う。ガウンを羽織ってベランダに出る。そして寝椅子にバスタオルを敷き、目の前に迫った木々の葉、プールに集う人々、その向こうのシャム湾を眺めれば、もう何をする気も起こらない。
「アフタヌンティーに行こう」と家内が言う。15時からそんなものを腹に入れては夕食が不味くなる。しかしひとり旅でなければ、多少は人に合わせる必要もある。アフタヌーンティーも出す”The Museum Coffee & Tea Corner”へ降り、そこで家内は甘いものと甘い飲物、僕は冷たい茉莉花茶を飲む。
その足で階段を降りて庭に出る。このホテルの敷地は広大すぎて、その全容はなかなか掴めない。部屋のベランダから間近に見えていた赤い屋根は、一戸建てのスパだった。そのスパで家内は90分のマッサージを頼んだ。僕は目と鼻の先の”COAST Beach Club & Bistro”へ寄り、夕食の予約をする。「今夜はブッフェのみになります」と係のペペ君は言った。望むところである。
ふたたび長い廊下を辿って部屋に戻る。楕円形のテーブルには3個の柑橘が届けられていた。家内のいない90分間は、日記を書くことに充てる。途中でメイドが部屋を整えに来る。彼女はすべてのタオルを新しいものに換え、アイスバケットを氷で満たし、ベッドの掛け布団を斜めに折り返した。よって50バーツを手渡す。
予約をした19時すこし前に庭に降りる。白服のペペ君は我々を認め、午後に指定した席に案内をしてくれた。すぐそばには7つか8つのブースがしつらえられ、それぞれに生野菜やサラダ、貝類、握り鮨、ローストビーフ、巨大な鱸のオーブン焼き、炭火を熾したグリル、デザートなどが置かれている。
僕はそれらをすこしずつ皿に盛り、白ワインの肴にする。ステージでは、ギターの男二人組と女性の歌手がスタンダードの曲を静かに演奏し始めた。しごく気分の良い夕べである。料理を皿に取って戻るたびに椅子を引いてくれ、またグラスにワインを注ぎ足し続けてくれたオジサンには「少しね」とタイ語で伝えつつ100バーツを手渡す。
以降のことは何も覚えていない。
朝飯 “TG661″の機内食
昼飯 ファランポーン駅7番線プラットフォームで買った弁当
晩飯 “COAST Beach Club & Bistro”の生牡蠣と茹で烏賊と蒸しムール貝、サラダ、マカロニグラタン、蒸した蛤、鱸のオーブン焼き、羊の網焼き、ニュージーランドのソーヴィニヨン・ブラン、アイスクリーム、ティラミス、バナナの飴煮、”JOHNNIE WALKER BLACK LABEL”(生)
2018.3.22(木) きのうの雪
きのうの雪により、店の犬走りが著しく汚れた。モップで拭えるたぐいのものではない。よって、こういうときのために充分な長さの採ってあるホースを奥から伸ばし、乾いてこびりついた泥を水とデッキブラシにより洗う。その仕事を途中から長男と事務係のカワタユキさんに任せる。店の床は別途、販売係のタカハシリツコさんが綺麗に水拭きをしてくれた。
冬に北国に旅して雪が無いと気落ちをする。しかし雪は、旅先だけでたくさんである。
18時の終業から15分だけはレジの精算に当たる。以降はその仕事を長男と嫁に任せる。18時40分に長男の運転するホンダフィットで駅まで送ってもらい、下今市18:57発の上り特急スペーシアに乗る。僕なら終点の浅草で降りて都営浅草線に乗り換え、羽田空港国際線ターミナルを目指す。しかし今回は家内とふたりで、その家内は、都営線浅草駅の階段の上り下りは避けたいという。
よって初めての、東武日光線を北千住で降りて日比谷線で人形町、そこから都営浅草線で羽田空港国際線ターミナル、という乗り換えを試してみた。浅草で夕食を摂らないなら、この経路もなかなか悪くない。
21:37 羽田空港国際線ターミナル着
21:44 チェックイン完了
22:10 飛行機に乗る直前の食事は、酒に合わないものを最上とする。
22:41 保安検査場を抜ける。
22:44 パスポートコントロールを抜ける。
23:01 105番ゲートに達する。
23:43 搭乗開始
朝飯 生のトマト、ひじきと梅干のふりかけ、納豆、鰯の梅煮、五目白和え、揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、筍の土佐煮、しその実のたまり漬、メシ、油揚げと万能葱の味噌汁
昼飯 ラーメン
晩飯 「つるとんたん羽田空港店」の「カレーのおうどん」