2016.10.11(火) 新しい方法
店舗の冷蔵ショーケースの品物が少なくなってきたときの予備として、キャッシュレジスターの背後にも冷蔵庫を置いている。きのうの営業中にこの冷蔵が突然、停まった。冷蔵庫の裏、店舗1階、その2階、果ては製造現場にある高圧変電施設のちかくに置いた大元のブレーカーを調べて、いずれにも異常は見つからなかった。よって今朝は8時に冷蔵庫屋に電話を入れ、なるべく早く来るよう頼む。
連休明けの今日は銀行ふたつに用事があり、9時前には会社を出たい。一方、排水処理設備では、その管理者が早くも東京から着く。あるいはまた、屋上と2階スラブの雨漏りを予防するための防水工事の人が来る。それ以外にもすること、決めるべきことはいくつもあり、多いときには3人を相手にそれぞれ別の会話を交わす。「忙しいねぇ」と家内が笑う。
タイの北部国境ちかくにいて、1日に4時間もプールの寝椅子で本を読んでいた先週の日々が、まるで遠い昔のことのように感じられる。
今日はまた、年末の贈答の時期に備えて、ダイレクトメールのお送り先を抽出しなければいけない。そしてそれは午前に行うこととしていたけれど、その時間は失われた。ようよう14時30分から4階の食堂に上がる。この仕事は精密を要するため、人が来たり電話がかかったりする環境では、とてもではないけれど、できないのだ。
特に工夫をしたわけではないけれど、1990年代から何十回もしてきたこの仕事の細部において、今日はこれまでと違った方法を何気なく採った。その結果、昨年は36分かかった作業を25分で完了することができた。次回もおなじ手が使えるよう、即、それをコンピュータに記録する。
朝飯 ひじきと人参の甘辛煮、秋刀魚の梅煮、トマトのスクランブルドエッグ、湯波と小松菜の淡味炊き、納豆、大根のぬか漬け、メシ、椎茸と玉葱と三つ葉の味噌汁
昼飯 きのうのキムチ鍋の残りのぶっかけ飯、大根のぬか漬け
晩飯 “Finbec Naoto”のその1、その2、その3、その4、その5、その6、その7、その8、リストのブルゴーニュの中でもっとも安かった赤ワイン、コーヒー
2016.10.10(月) 秋の空
十月の上旬は、列島にぐずついた天気が続いていたらしい。しかし今朝の空には、その天気が良い方に変わりそうな様子が見える。テレビの気象予報士も今後しばらくは続くだろう好天を、今朝は日光の竜頭の滝から中継で伝えている。その周辺では紅葉がすこしずつ始まり、またそこからすこし標高の低い、いろは坂の紅葉は今月22日ころからが見ごろだという。
朝の予報はそのようなことだったけれど、昼を過ぎても一向に晴れない。紅葉の具合も、気象庁の予測から大きく外れることがあり得るのではないかと僕は考えている。
自宅の食堂にはタイへ行く前の9月から、暖房を入れる早朝があった。そして今朝も、ほんのいっときエアコンディショナーによる暖房のスイッチを入れる。暖房をかけつつ半袖のポロシャツ1枚でいては何やらいけないような気がして、その上から長袖のTシャツを着る。
きのうおとといと、夜はワインを飲んだ。今夜は鍋を肴にして焼酎のお湯割りを飲む。
朝飯 納豆、秋刀魚の梅煮、トマトのスクランブルドエッグ、冷や奴、ひじきと人参の甘辛煮、たまり漬「ホロホロふりかけ」、メシ、若布と里芋と万能葱の味噌汁
昼飯 「ふじや」の野菜麺
晩飯 キムチ鍋、玄米焼酎「つかだ」(お湯割り)
2016.10.9(日) 旅行の反省
旅の最中には「次の旅まで覚えておくべし」ということが発生するたび、部屋にいるときにはコンピュータに、外にいるときにはノートに記録をした。そしてその記録は今回、14を数えた。
・”Dusit Island Resort”のクリ―ニングは朝に出せば当日の夕刻に仕上がる。
→クリーニングの伝票を今回くわしく読んだところ、急ぎは4時間、通常は10時間と、その作業時間が記してあった。しかし朝、専用袋に収めてベッドの上に置いておけば、部屋掃除のメイドが電話で洗濯係を呼ぶ。そしてその洗濯物は夕方には部屋に届くことを知った。それを計算の上でこのホテルに連泊をすれば、持参する服はかなり減らせる。
・”Dusit Island Resort”とナイトバザールを結ぶシャトルバスは17:00の便が廃止された。
→市中心部まで2キロちかく離れたホテルにおいて、これはとても便利なサービスだ。現在の運行は18:00、20:00、21:00、22:00の1日4往復になった。伝票には往路と復路が各々60バーツ、往復は120バーツと記されている。しかしこの伝票をベルボーイに手渡すのは往路のみで、復路についてはなし崩し的な無料である。街まで歩いていき、復路のみ使っても代金は請求されない。
・”Dusit Island Resort”とナイトバザールを結ぶシャトルバスの復路のダイヤは守られない。
→復路のナイトバザール発はホテル発の15分後とダイヤにはある。しかし待っている客がいれば、バスはその客のみを乗せて時間前に発車してしまう。ホテル発の5分後にはナイトバザールの前でバスを待つ必要がある。
・ハジャイとチェンライのあいだにはエアアジアが1日2便を運行している。
→”Dusit Island Resort”のロビーにチェンライ空港の発着情報を知らせる電子掲示板があった。羽田→バンコク(スワンナプーム)→バンコク(ドンムアン)→ハジャイ→チェンライ→バンコク(スワンナプーム)→羽田という旅も面白いのではないか。忙しさを避けるには、まとまった日程が必要である。
・ラオカ―オとカップを持ち歩く時には”ISUKA”のギヤバッグか”KARIMMOR”のショルダ―バッグが必須。
→今回、持参した”GREGORY”のクイックポケットには、自分にとって最小限のものしか入らない。ラオカーオとカップは今回、ビニールの手提げ袋に入れたため、街へ出るときの荷物が2つになってしまった。旅先での利便性と荷物の軽量化という相反する矛盾は、旅人にとって永遠の問題である。
・ラオカ―オを持ち歩くための350ccのペットボトルがあるととても便利。
→度数35から40のラオカーオは、1度にせいぜい1合ほどしか飲めない。部屋から720cc瓶のまま持ち出すのは無駄である。またペットボトルに入れて持ち歩けば周囲の人はそれを水と思ってくれる。
・カメラは街中用として”RICOH GRD”を持つか。
→普段持ちの”RICOH CX6″は、咄嗟の撮影ではピントが合わない。一方スナップ用の”GRD”なら食べ物のための接写にも併用できる。
・アロハは3着を用意して結局は1着で間に合った。
→これは前述の、”Dusit Island Resort”のクリ―ニングが早く仕上がることによる。
・”TIO PEPE”はバンコク最終日の海鮮料理に必須。2日分なら1リットルは持つこと。
→ラオカーオも悪くはないけれど、魚貝類にはやはりワインが合う。しかしワインは常温での運搬に向かないゆえのドライシェリーである。
・屋台では濡れティッシュが必須
→汁や脂で汚れた手ではカメラを操作しづらい。
・屋台ではバッグハンガ―が必須
→手提げ袋やショルダーバッグの置き場に困るから。
・チェンライのサタデ―マ―ケットには早く行くこと。
→17時からタナライ通りに入り、18時には広場に行かないと席は取りづらい。今回は同席を許してくれるカップルのお陰でテーブルが使えた。しかしそういう幸運は毎回は望めない。
・チェンライのサタデ―マ―ケットには箸と濡れティッシュが必須。
→今回、鹵味屋で箸を求めたら「無い」という。仕方なしにちかくの店で不要の焼きそばを買って、しかしその店にも箸は無く、プラスティック製の小さなフォークしかもらえなかった。
・帰国日が金曜の場合、空港には必ず電車で行くこと。
→木曜日の昼には空港からチャルンクルン通りのホテルまでタクシーを使って42分で着いた。金曜日の夜には、おなじホテルから空港までタクシーを使って1時間49分もかかった。あの渋滞は二度と経験したくない。
というわけで次の旅行を目指して仕事に励むべし、である。
朝飯 納豆、生のトマト、秋刀魚の梅煮、厚焼き玉子、大根のぬか漬け、メシ、豆腐と三つ葉の味噌汁、キウィ
昼飯 カレーライス、たまり漬「ホロホロふりかけ」
晩飯 スパゲティサラダ、茹でトウモロコシ、鶏もも肉のソテーきのこソース、アップルパイ、プリン、“Chablis Billaud Simon 2014”
2016.10.8(土) 今日から日常
目を覚ますと3時35分だった。往路とおなじく朝食を運ぶワゴンが目の前まで来ている。その朝食は、オムレツの固さに我慢をしつつ、全体の9割ほどを平らげる。機は四国の上空を東北東に向かっている。窓の外は既にして明るい。羽田空港への着陸は、定刻より18分はやいタイ時間04:37、日本時間06:37だった。ここからの時間表記は日本時間とする。
荷物が出てきたのは7時31分と遅かった。7時34分に税関検査を抜ける。7時36分に浅草行きの京浜急行に乗る。都営浅草線の浅草には8時19分に着く。東武日光線の浅草まで歩き、09:00発の特急スペーシアの切符を買う。その切符売り場から階段を降りた右側の喫茶店で、タバコの煙にまみれてコーヒーを飲む。「タバコの煙にまみれて」とは、喫煙に厳しいタイではなかなか経験のできないことである。
下今市には10:39に着いた。東京には降っていなかった雨が降っている。家内の運転するホンダフィットに乗り、帰社して仕事に復帰する。
行った先の諸々が美味ければ、いくら海外に滞在しても日本食が恋しくなることはない。帰国して「それっ」とばかりに和食を求めることもない。夜はスパゲティを肴にして赤ワインを飲む。
朝飯 “TG682″の機内食
昼飯 ラーメン
晩飯 ミートソースのスパゲティ、プリン、“Cadette Rouge LUMIERE”
2016.10.7(金) バンコク日記(2日目)
バンコクの宿は今回”Centre Point Silom”の、リバービューの部屋にした。窓に近づくと、しかし所詮は川沿いに建っていない悲しさで、目の前にはシェラトンのコンドミニアムをはじめ大きな建物があり、チャオプラヤ川はその一部しか望めない。「だったら3年前の、シティビューの部屋の方が眺めは良かったわな」と後悔しても遅い。ただしベランダに出れば、サトーンの船着き場から下流の、大きく湾曲した川面を見晴らすことはできる。
宿泊は食事を含まないプランにて、朝はチャルンクルン通りを北に歩く。ことし2月、「洽記珠宝行」の向かって右側にクイティオの名店を発見した。ちかくまで行くと幸い店は開いていた。よって席に着いて「センヤイナム」と店員に注文すると、別のオバチャンが入口の調理場から僕を手招きする。そばに立った僕に「ルークチンはないの。代わりにこれでいいかしら」と、オバチャンは油揚げの煮びたしを指す。望むところである。
席に戻り、ほどなくして運ばれたドンブリを見ると麺はセンヤイではなく太めのセンミーで、椎茸がやたらに浮いている。汁をひとさじ飲んで「2月と全然、違うじゃねぇか」と驚く。そしてここでようやく店先の黄色い旗に気づき「なるほどギンジェーか」と腑に落ちる。というか残念さを感じる。ギンジェーの期間中は、ダシから具に至るまで動物性のものは一切、使わないのだろう。路上のおかず屋台にも「齋」の旗が目立つ。
今日はタイの最終日だ。時間は無駄にしたくない。無駄にしたくないとはいえ、あくせくと歩きまわるわけではない。上は白いポロシャツ、下は”Patagonia”のバギーショーツを身につけプールへ行く。そして寝椅子の上にパラソルを広げ、11時30分まで本を読む。
チェンライにいるときとは打って変わって朝食は軽い。腹を空かせて外へ出る。チャルンクルン通りを、BTSの高架をくぐって南に歩く。1960年代の東京ならそこここで見ることのできた、異臭を放つ黒い水の川を渡る。しばらく行くとソイ57が左手に伸びている。これを過ぎると間もなく左手に、タイ語と共に”YAN NAWA FIRE & RESCUE STATION”と書かれた消防署が見えてくる。この消防署に向かって右側にあるのがカオマンガイの”Meng Pochana”だ。鶏肉も炊き込みごはんも美味い。というか、ごはんの脂のコクがただものではない。レモングラスの香るスープは辛く酸っぱく爽やかだ。
「来年はラオカーオを持って、また来てぇなぁ」と思わないでもない。しかし夜のバンコクにいながらカオマンガイのみを肴に酒を飲むのも味気ない。だったらどうするか。来年までの宿題である。
午後はサトーンからフェリーボートで対岸に渡り、知ったマッサージ屋で足マッサージ1時間を受ける。本当はタイマッサージ2時間にしたかったけれど、夕方が忙しくなることは避けたかったのだ。
18時までのレイトチェックアウトには1,500バーツの追加料金がかかる。しかし外から帰るたび何度でもシャワーの浴びられることを考えれば、僕にはそう高くは感じられない。落ち着いて荷造りをすると、きのうはスーツケースからはみ出した草履も何とか収まった。フロントに降りてチェックアウトをする。荷物はベルボーイに預ける。そして先ほど船着き場から戻る途中でバンラックのフードセンター裏に見つけ「5時に来る」と約した海鮮屋台へ行く。
「あ、本当に来た」とばかりに、料理担当のオニーチャンは僕に握手の手を差し伸べた。「プラーヌンマナーオ」と声を大にして言う。オニーチャンはすかさず写真入りのメニュを僕に見せた。プラーニンには200バーツ、鱸には250バーツの値が付いている。ここはやはり鱸だろう。その鱸の柑橘蒸しも、また海老のニンニク揚げも美味かった。とどめのガイヤーンは胸に染みた。タイとも今夜でお別れである。イスラム寺からコーランの詠唱が流れはじめる。時刻は18時05分だった。
ホテルに戻り、ベルボーイに50バーツを渡してタクシーを呼ぶよう頼む。間もなく来た朱色のタクシーに荷物を積んでくれた別のベルボーイには40バーツを渡す。時刻は18時18分。タクシーはポーチの奥で回頭すると、チャルンクルン通りに出て高速道路の入口を目指す。
右手数百メートルの距離にある大きな駅を指し「ノーンアライ」と訊くと「マッカサン」と運転手は答えた。時刻は19時41分。普段なら1時間もかからず空港に着くところ、金曜日の今夜はホテルを出て1時間23分も経って、いまだダウンタウンの真ん中にいる。自分の持つ多くの悪癖のひとつに「危機に及んで何もせず平然としている」というものがある。赤く光る数千個のテールランプを眺めつつ「間に合わなかったらそれまでだ」くらいの気持ちでいるとは、明らかに人間失格である。間もなくふたつ目の料金所を過ぎる。
渋滞とは不思議なもので、あたかもこの料金所が狭い水門ででもあったかのように、車間はまたたく間に広がり、スピードメーターは遂に100キロを超えた。やがて空港の青い明かりが見えてくる。その明かりが見る間に近くなる。運転手は停まっている車列のあいだに朱色の鼻先を突き入れた。時刻は20時07分。メーターは389バーツ。祝儀を兼ねて500バーツを手渡すと、そこで運転手ははじめて笑った。
20時15分にタイ航空のカウンターでチェックインを完了する。20時25分に手荷物の検査場を抜ける。20時43分にパスポートコントロールから出国をする。C3ゲートへ向かう途中の免税店では、僕がチェンライで買ったとおなじ品に4.6倍の価格を付け、そこに「特価」の札を添えている。
“BOEING 747-400″を機材とする”TG682″は定刻に25分おくれて23:10に離陸をした。海の上に出て右に旋回すると、ほどなくしてベルト着用のサインが消える。デパスとハルシオン各1錠ずつを、空港の自動販売機で買ったミネラルウォーターで飲む。椅子の背もたれを後ろに倒す。ウインドブレーカーの胸ポケットから取り出したアイマスクで目を覆う。来たときとは異なって、すぐには眠れない。
朝飯 チャルンクルン通りのクイティオ屋のセンミーナム
昼飯 “Meng Pochana”のカオマンガイ
晩飯 バンラックフードセンター裏の海鮮屋台のプラーガポンヌンマナーオ、海老のニンニク揚げ、ガイヤーン、ラーカーオ”Black Cook”(生)
2016.10.6(木) チェンライからバンコクへ
相撲で言えば「時間いっぱい」までコンピュータにかじりついている悪癖がある。朝食のブッフェ会場に降りたのは7時20分のころだった。その30分後に部屋に戻り、荷造りを始めるものの、きのう酔った勢いで買った土産がかさばり、苦労をする。”KEEN”のサンダルはスーツケースに収まらず、仕方なしにザックに入れる。
8時30分に頼んだ迎えのクルマはいつものように、その数分前にはドライバーがロビーに現れた。きのうホテルの出口まで電動カートに乗せてくれたベルボーイには40バーツを渡す。
日本への郵便物は、チェンライ市内ならエジソンデパート1階にある、郵便局の出張所から出せば、先ずは間違いなく着く。しかし今回は、これまでその存在に気づかなかったことが不思議でならないけれど、空港内の郵便局から投函をする。1通あたり15バーツの切手代は、今回も変わらなかった。
“AIRBUS A320-200″を機材とする”TG2150″は、定刻に10分遅れて10:10に離陸をした。チェンライの緑が徐々に遠くなる。そして雲の上を30分ほども飛べば、機は早くも降下を始める。11時03分、バンコク近郷に特有の、極端に細長い長方形の農地が見え始める。バンコクには定刻に8分はやい11:12に着陸をした。
バックパッカーだった時代の価値観から離れられない僕も、徐々に贅沢になってきている。昨秋は微熱があったため、空港からホテルまではリムジンを頼んだ。今年2月こそ空港からフアランポーンまですべて鉄道で移動をしたものの、6月の早朝にはホテルまでタクシーを使った。今回は迷った挙げ句、やはりタクシーに決める。空港からのエアポートレイルリンクをパヤタイでBTSスクンビット線に乗り換える際の、スーツケースを提げたまま階段を降りることに気が進まないのだ。
バゲージクレームでは11時41分に荷物が出てきた。エスカレータで1階に降り、自動発券機からのチケットを手にタクシーの座席に収まったのが11時46分。サトーンの船着き場やサパーンタクシンの駅にほどちかいホテルには、12時28分に着いた。メーターは283バーツを示していた。それに空港手数料の50バーツ、更に色をつけた340バーツを手渡された運転手は、しばし暗算ののち、大して面白くもなさそうな顔で去った。
タイスマイル航空の機内スナックは、昼食としては少ない。しかし今からクイティオなどを食べれば夜まで腹の減らない気がする。“trippen”の革靴を”KEEN”の草履に履き替えチャルンクルン通りに出る。そしてシーウィアン通りとの角にある繁盛店で少々の点心を買う。
午後はプールサイドで2時間ほども本を読む。空は晴れていても、僕の寝椅子はビルの陰になって日は当たらない。涼しい風が吹き抜ける。チェンライのプールには、鳥のさえずりが絶えなかった。バンコクのプールに絶えないのは、クルマや雑踏による騒音である。それはそれで、悪いものでもない。
サトーンの船着き場に行くと、通常は舟の中で買うはずの切符を売るオバチャンがいた。これはすこぶる便利だ。ターチャーンまでの運賃は14バーツだった。来たオレンジ船では左舷最後尾の船べり側に座った。移動に舟を多用するバンコクに、新橋と柳橋が「新柳二橋」と呼ばれたころの東京を感じるのは、僕くらいのものだろうか。
「ここだ」と確信して降りた右手の桟橋は、しかし目的のターチャーンではなく、ひとつ手前のターティアンだった。左舷の端にいたため、舟の庇が邪魔になって桟橋の名がよく見えなかったのだ。桟橋に取り残されてそのことを係に告げると「ここでも大丈夫」と答える。「ここでも大丈夫」とは「隣の桟橋くらい歩いて行ける」ということなのだろうか。しかしそれを言っているのは、歩くことを極端に嫌うタイ人である。
王宮が近いせいか、あるいはカオサンが遠くないせいか、とにかく白人の観光客ばかりとすれ違いつつ外へ出る。そして道を探すも一瞬で「馬鹿くせぇ」と、きびすを返す。
先ほどのいい加減な係員は無視して、下流から近づいて来た新たなオレンジ船に乗る。船尾に立ったままでいると「どこまで」と、切符係らしいオネーチャンが訊く。先ほどの切符を見せつつ「ターチャーン」と答えると、彼女は何も言わず、船内への階段に立つ白人たちに「早くキャビンへ降りろ」と、なかなか威勢の良い英語で命令をした。
そしてようやく当初の目的だったターチャーンで舟を下りる。そのまま真っ直ぐ歩き、通りに出たら右に折れる。右側には”NAVY CLUB”の堅固な壁が続いている。しばらく行くとその壁が途切れて門衛が立っている。海兵クラブの建物に入り、従業員らしい人にレストランの場所を訊く。「禁煙。半ズボン、ミニスカート、サンダルお断り」の絵看板の脇のドアから奥へと進む。左手ではバンドをバックに歌手が歌っている。更に進んで外の席に着く。そして川風に吹かれつつチアビアに付き合いシンハビール1本を飲む。以降は手持ちのラオカーオをすこしずつ味わう。
さきほど料理を注文したウェイトレスに、舟の最終の時間を訊くと、どうも英語は得意でないらしい。ちかくの黒服に彼女が振る。おなじ質問をすると彼は腕の時計を見て「20時」と教えてくれた。
改修の始まった2013年9月には3年と工期の伝えられていたワットアルンは相変わらず足場に覆われ、今夕の往路では、その表面は灰色一色に見えた。完成にはいまだほど遠いのだろうか。しかしライトアップだけはされていて、ときおり色を変えては闇に浮く。その姿を船上右手に眺めつつ20時すぎにサトーンに着く。
部屋に戻ってシャワーを浴び、21時前に就寝する。
朝飯 “Dusit Island Resort”の朝のブッフェのサラダとオムレツ、トースト、中華粥、コーヒー
昼飯 “TG2131″の機内食、チャルンクルン通りとシーウィアン通りの角にある食堂の肉まん、海老蒸し焼売
晩飯 “Khun Kung Kitchen”のヤムウンセンタレー、トードマンクン、シンハビール、ラーカーオ”Black Cook”(オンザロックス)
2016.10.5(水) チェンライ日記(7日目)
朝から日が差している。雨でも降らないかぎり、午前中の数時間をコンピュータに向かうなどは勿体ないと、きのうつくづく感じた。よって今日は、朝食の食休みもそこそこにプールに降りる。そして2時間ほども本を読む。
このホテルは、ロビーを出て車寄せの坂を下り、庭を抜けて外の道へ達するまでに、銀座でいえば晴海通りを築地に向かって数寄屋橋の交差点から歩き始め、歌舞伎座を通り越して昭和通りまで出るほどの距離がある。今日はその道のりを、ベルボーイが電動カートに乗せていってくれた。そのまま街まで行ければこんなに楽なことはないけれど、そういうわけにはいかない。
「カオソーイポーチャイ」で汁麺を食べる。そのまま店の前の、白人向けのバービヤが並ぶチェットヨット通りを南に歩く。ワットチェットヨートの門前で左に折れれば、マッサージ屋”PAI”のある交差点に出る。昨日おとといと休んだせいか”PAI”は昼から混み合っていた。運良く先日のジェップさんに当たり、タイマッサージ2時間を受ける。
僕は、年賀状や暑中見舞いなど、時候の挨拶ハガキは出さない。いただいたそれに対しては旅先から返信を送る。ことし2月はバンコクの「グランドサトーンホテル」で年賀状への返信12通を書いた。1通あたりの文字数は200から300。書き終えるまでに2時間がかかった。この投函をホテルに頼み、しかしそのうちの1通も日本には届かなかった。僕の労作は遂に、郵便局へは持ち込まれなかったのだ。
今日は帰りに「ドイチャーンコーヒー」でエスプレッソをふたくちみくちで飲み干してから、暑中見舞いや残暑見舞いへの返信7通を書く。この店はケーキも美味い。しかしとても甘いそれを胃に収めれば多分、夕刻になっても食欲は訪れないだろうと踏んで、注文はしなかった。
午後もプールへ行き、iPhoneに設定した17:15のアラームが鳴るまで本を読む。あるいは泳ぐ。今日のプールサイドバーの担当者は商売熱心でなく、音楽もかけなければ飲み物の注文も取りに来なかった。そのお陰で居心地はとても良かった。対岸の森では鳩がずっと啼いていた。
18時のシャトルバスで街に出る。いつものように、ナイトバザールの黄色いペコペコ椅子の広場へ行く。たらいに大量の豚の臓物を用意した店のオバチャンに「ガオラオか」と訊くと「バミーも入れられるよ」と、オバチャンは黄色い麺を指した。「バミーは要らない。スープも少なめで」と、そのモツ煮を買う。流石の僕もチムジュムには飽きた。いつものオバチャンの店ではソムタムを頼んだ。
広場のステージに踊り子が現れるのは、今回の旅では今夜が初めてではなかったか。そしてその伴奏は、いまや鼻で歌えるほど僕の耳には馴染んでしまった。
ところでこの広場では毎晩、小さな子供が落花生を売り歩いている。そして大抵のテーブルで断られている。おかっぱ頭の色の黒い子が来たので「いくら」と訊くと「イーシップバー」と、その女の子は僕の目を遠慮がちに見ながら答えた。彼女の手には2袋が提げられていた。日本への土産にしてもいいやと、ふたつとも買う。そうして中を見たら、それは茹で落花生だった。これでは土産にならない。テーブル片づけ係の赤いTシャツのオニーチャンを呼び「これ、食べて」と、苦笑いをしながら頭を下げる。
この広場とも、今年は今夜でお別れである。ナイトバザール前20:15発のシャトルバスに拾われ、部屋に戻って21時前に就寝する。
朝飯 “Dusit Island Resort”の朝のブッフェのサラダとベーコンとオムレツ、トースト、中華粥、コーヒー
昼飯 「カオソーイポーチャイ」のバミーナム
晩飯 ナイトバザールのフードコートのソムタム、ガオラオ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(オンザロックス)
2016.10.4(火) チェンライ日記(6日目)
夜が明ける前は雨の音がしていた。夜が明けても雨は依然として降っていた。それが止んだのは8時ごろ。薄雲の間から日が差すと、西の空には虹が出て、しばらく消えなかった。今朝もロビーに降り、しかし今日はそこからの階段ではなく、外の菜園の小径を歩いてブッフェの会場に行く。
午前中はほとんど部屋で本を読むか、コンピュータに向かっている。今日もその最中にメイドが部屋掃除に来る。洗濯はこれまで、翌日午後の仕上がりと思ってきた。しかしクリーニングの伝票をよく読んでみると、急ぎは4時間、通常は10時間で当日中の完成と書いてある。即、旅のデータベースに加える。
炎天下、2キロ弱の道を歩いて街に出る。昼食は軽めに、今日は「カオソーイポーチャイ」のガオラオにして、ライスは頼まない。このガオラオ、通常はメシのおかずにするためのものだから塩味は濃い目ではあるけれど、特に豚の血の煮こごりが美味い。朝は豚の臓物入り中華粥。昼はおなじく豚の臓物入りスープで、臓物好きの僕は大満足である。
行きつけのマッサージの”PAI”の入口には、きのうから”3-4″という数字と共に短いタイ語を書いた紙が貼ってあり、中は無人である。左手のソイに回ってみると、2階で工事が行われていた。”3-4″は「10月3日と4日はお休み」ということなのかも知れない。
マッサージは諦め「ドイチャンコーヒー」で冷たいコーヒーを飲んでひと息を着く。そしてまた、人が歩くようにはできていない、今どき誰も使わない公衆電話2台が並んで道をふさいでいるタイの典型的な歩道を歩いて、否、歩道から降りたり、また上がったりしながらホテルに戻る。毎日4キロも5キロも歩いて昼食を摂りに行くなどは、日本では絶対にできないことである。
午後はプールで2時間ほども本を読む。プールには昨年までとは異なり、バーに置かれた装置から西洋のポップスが流れている。そのポップスが、きのうはプールサイドに中国人があらわれるなり中国の曲に変わった。海外まで来て自国の音楽を聴かされて嬉しがる人間がいるのだろうか。しかし2013年7月、ネパールの古都バクタプールには、中国人観光客におもねるため中国の音楽を流す店がたくさんあった。僕は海外においては、その国の音楽だけを聴きたい。また、プールサイドの音楽は僕には迷惑だ。せっかくの鳥の声が台無しではないか。
毎日のことながら、今日も18時のシャトルバスに乗ってナイトバザールへ行く。バスから降りた際に、一緒に乗り合わせたふた組のファラン夫婦が、バスの運転手に街についてあれこれ訊いている。運転手は大まかなことしか答えない。よってその4人組には「ナイトバザールの食事場所は大きく分けて2個所。ここを進んで左手はデラックス、その先に市民用のフードコート」と僕が教える。空港からいきなりホテルに運ばれれば、街についてはなにも分からなくて当然である。
僕はといえばやはり、チーク材をふんだんに使ったデラックスなところは素通りをして、奥の「黄色いペコペコ椅子」の広場へ行く。空は夕刻の明るさを残している。客席はいまだ閑散としている。広場の両側に並ぶ店の中にイカ焼きを見つけ、ここで烏賊の足ひと串を炙るよう頼む。それから31番ブースの前の席に着き、きのうとおなじオバサンにチムジュムを注文する。
烏賊の足の炭火焼きにはパクチーがたっぷりとのせられていた。きのう買ったラオカーオ”BANGYIKHAN”が美味い。すっかり酩酊し、ステージの前まで歩いて振り向くと、空は既にして夜のそれになっていた。広場はいつの間にか満員の盛況である。
目抜き通りまで歩くと警察が検問を敷いていた。ホテルを20時に出たシャトルバスが停まる。乗客すべてが降りたところで乗り込もうとすると「今はポリスがいる。20時50分にまた来る」と、僕にはそう聞こえることを運転手が発した。警察官がいて何の問題があるのかは不明だったけれど僕は頷き、道を隔ててはす向かいのマッサージ屋に入る。そして足マッサージを30分のみ受ける。
20時50分にシャトルバスの停車場所に行くと、しかしバスはいつまで待っても来ない。21時17分、ようやくその白い車体が見える。運転手は、先ほどは慌てていて”nine fifteen”を”eight fifty”と言い間違えたのだろうか。ふたりの小さな子供を連れたファラン夫婦の夫の方は、無事バスに乗れたことがよほど嬉しかったらしく、車内で小さくガッツポーズをした。
ホテルには21時30分に戻った。即、シャワーを浴びて22時に就寝する。
朝飯 “Dusit Island Resort”の朝のブッフェのサラダとベーコンとオムレツ、トースト、中華粥、コーヒー
昼飯 「カオソーイポーチャイ」のガオラオ
晩飯 ナイトバザールのフードコートのチムジュム、烏賊の足の炭火焼き、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(オンザロックス)
2016.10.3(月) チェンライ日記(5日目)
南の国の夜は一気に明ける。6時を迎えようとするころから急に明るくなる。地軸の傾きや緯度が関係しているのだろうか。プールで泳ぐ人がいる。南の国とはいえ気温は20℃をすこし超えるくらいのところだろう。この時間から、その気温にも拘わらず水に浸かるなどは、ファランにしかできないことである。
クリストファー・ロビンではないけれど、チェンライには「なにもしないでいること」をするために来ている。もっともその僕も、日にいくつかのことはする。毎日することはメシ食い、歩行、日記書き、本読み、酒飲みである。そこに毎日ではないけれど、あれこれのよしなしごとが加わる。
今日も未明は日記書きである。そうして朝を迎え、しばらくしてから朝食会場へと降りていく。外の席には、大きなテーブルにしかナプキンと食器が置いてなかったため、小さなテーブルにもそれを用意するよう、ウェイターに言う。朝食の内容は、ここに来て以来、変わらないものだ。朝日はいまだ、低いところにある。
きのうと打って変わった好天にて、強い日差しの下を2キロほど歩いて街に出る。髪も髭も伸びている。目抜き通りの、昨年かかった床屋の扉を引く。「髪と髭と耳掃除」と伝えると、店主らしい男に奥から2番目の席を示される。言われるままそこに座る。僕の後ろには若い人が立った。バリカンは1番か2番かと訊かれても意味が分からない。「5ミリ」と伝えると「だったら2番」と、店主らしい男は若い職人に伝えた。
料金は昨年とおなじ180バーツだった。髪が70バーツ、髭が60バーツ、耳掃除が50バーツといったところだろう。入国をする前からタイの物価は身についている。だからシャンプーは頼まない。若い人は僕の頭と頬とあごにドライヤーの風を当て、それに相当する日本語はないからどう書いて良いか分からない、とにかく髪や髭のカスを吹き払った。
チェンライで僕がいちばん好きなメシ屋「シートラン」が、いつになく繁盛している。店先の硝子ケースを指さし、おかず2種と冬瓜のスープ、そしてライスを注文して店に入る。先ほどまでは食器の準備に使っていたらしい、本来は客用のテーブルを店主は店員に命じて片づけさせ、そこに僕を案内した。
今年のギンジェーつまり菜食旬間は10月1日から9日までと聞いた。この町には9月29日に着いたのだから、ここにはギンジェーの始まる前に来ておけば良かった。僕はこの店の、キャベツと豚三枚肉の煮込みが好きなのだ。店に「齋」、これは斎戒沐浴のひと文字と思われるけれど、この黄色い旗の派手にひるがえる下で、肉の代わりに豆腐や湯波を使ったおかずを昼食とする。
朝に続いて昼も満腹である。その腹を鎮めるため「日本にこんな美味いコーヒー、あるかね」と飲むたび感動する「ドイチャンコーヒー」にてエスプレッソ1杯を飲み、おとといともきのうとも違う道を歩いてホテルに戻る。
床屋の帰りに買ったラオカーオを部屋のテーブルに置く。窓の外には陽光が満ちている。着替えてプールに降り、そこで2時間ほども本を読む。
夜はきのうに引き続きホテルのシャトルバスで街に出る。そしてきのうに引き続きナイトバザールの、きのうのオバチャンにチムジュムを注文する。
昨年のオバチャンの画像をオバチャンにiPhoneで見せる。するとオバチャンはみずから親指と人差し指で画像を拡大して、しかし老眼のため判別が付かず、それを隣の店の若い人に見せに行った。若い人はディスプレイを凝視して「オバチャン本人だよ」と教えたらしい。このオバチャンが、なぜ極端に若返ったかは不明である。オバチャンはソムタムを小皿でサービスしてくれた。
となりの席では家族が日本と同じハッピーバースデーの歌を歌いながら、子供の誕生日を祝っている。洒落た祝いの席ではないか。子供たちは多分、今夜はケーキしか口にしないだろう。
昨年はなかった猫カフェの角をまわって通りに出る。ホテルのシャトルバスが帰りの客を迎えに来るまでにはいまだ45分もある。おとといのトゥクトゥク代100バーツは「外人プラス雨」の特別価格だった。いまトゥクトゥクを頼めば今度は「外人プラス夜」でやはり100バーツだ。前述のとおり、タイの物価はタイに来る前から身に染みついている。
トゥクトゥクのたまり場を過ぎて歩いて行くと、シーローの運転手が徐行をしながら僕の顔を覗き込んだ。「ドゥシットまでいくら」とすかさず訊く。「40バーツ」と運転手は答えた。即、その荷台に乗り込みホテルを目指す。
今日の就寝はきのうよりも早い19時台だった。極端な早寝早起きによる、これも昼夜逆転である。
朝飯 “Dusit Island Resort”の朝のブッフェのサラダとオムレツ、トースト、中華粥、コーヒー
昼飯 「シートラン」の厚揚げ豆腐ともやしの炒め煮、グリーンカレー、ライス、冬瓜のスープ
晩飯 ナイトバザールのフードコートのチムジュム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(オンザロックス)
2016.10.2(日) チェンライ日記(4日目)
今回の日記では1日の画像数が26点を超えないことを目標にしている。26点とは画像のファイル名に使うアルファベットの文字数である。きのうはその枠に収まりきれず何点も削除した。今日は余裕である。
きのうの部屋掃除は、僕が部屋から出るのを待ちかね、待ちきれない様子で正午に部屋の呼び鈴を押した。今日もそれくらいの時間とたかをくくっていたら11時に呼び鈴が鳴った。よってそれをしおにコンピュータから離れ、着替えて外に出る。
マッサージの”PAI”の扉を開くと、客のためのソファでオネーサンが洗い髪を扇風機で乾かしていた。僕も座るとそれに気づいたオネーサンが振り向いた。オネーサンはおとといマッサージをしてくれたジェップさんだった。僕を見て「あぁ」と声を出して笑う。僕も「あぁ」と言って笑う。髪が乾くとジェップさんは扇風機のスイッチを切って奥の階段を上がっていった。扇風機の冷風には僕も当たりたいのだ。即、スイッチを入れ直す。
この店のマッサージは誰に当たっても揉みがきつい。「タイマッサージは寝ながら他人まかせでできる運動」と言った人がいる。揉まれたあとのからだの痛みはまさに、運動の後の筋肉痛を思わせる。今日のオバサンも大変な強揉みだった。治療と思って我慢をしているけれど、これは癒やしなどではない、なかば修業のようなものである。
今日の雨は首尾良く、僕がマッサージを受けている2時間のあいだに強烈に降り、そして止んだ。その雨上がりの街を歩きながら、傘を持ったファランとすれ違う。そのファランはすこし考えて引き返したのだろう、後ろから僕に話しかけてきた。
「失礼ですが、そのサンダルは爪先を守るアイディアが素晴らしいですね、どちらの…」
「キーンです。K、E、E、N」
「タイ製ですか」
「いえ、アメリカ製です。南の国の歩道はしばしば壊れていて危ないでしょ」
「おっしゃる通り。有り難うございました」
僕よりすこし年下と思われる男はそのまま、僕が歩いてきた方へと去った。タイの歩道は人が歩くようにはできていない。タイの歩道にはしばしば「オマエなぁー」となじってやりたい気持ちを抱く。敷石は割れ、あるいは踏んだ途端にぐらついて溜まり水を飛び散らす。途中で切断された電信柱が切り株のように立ち上がり、あるいはその真ん中に街路樹や道路標識がズラリと並んで行く手をふさぐ。歩行者は、まるで山のガレ場を往くように、足元には気をつける必要があるのだ。
ふと気になってシリコーン市場の、昨年、そのとなりに大きな屋根のかけられつつあったガイヤーン屋を訪ねてみる。するとその店は新しい屋根の下にちんまりと収まっていたから安心をした。コンクリートパネル製のテーブルに着き、昼食中の太った娘にトムセーップを注文する。米袋を持って途中からあらわれたオカミを見て「やっぱりおなじ店だ」と再確認をする。そのオカミに「カオニャオはどうする」と訊かれる。朝食をたっぷり摂っているため空腹ではない。よって餅米は断ってスープのみを飲む。
これまで使ったことのない道を辿ってホテルに戻る。すると間もなく、右手にきのうの広場が見えた。きのうあれだけの露店が立ち並び、あれだけの人が集まったにもかかわらず、広場にも道にも塵ひとつ落ちていない。大した管理である。
夕刻がちかくなるころ、ようやく日が差しはじめる。「この時間から行ってもなぁ」と思わないではなかったけれど、きのうの日中はほとんど雨に閉ざされていた。明日も晴れる保証はない。”Patagonia”の水着兼用の半ズボンを穿き、プールへと降りていく。
空の様子はめまぐるしく変わる。つい先ほどまでは真っ青だった空の全面を薄雲が覆う。と思えばまた晴れて、遠くに入道雲が立ちのぼる。僕に声をかければ断られないと知っているプールサイドバーのオニーチャンが注文を取りに来る。3日前はミックススムージーだったから今日はテンモーパンを頼む。それで喉を潤しつつ90分ほども本を読む。
18時10分前にフロントでシャトルバスの切符を買う。そこには片道60バーツ、往復120バーツの数字があるけれど、実際には60バーツで往復できる。復路のみならタダで乗れる。しかしそれがいつでも誰にでも通用するかどうかは知らない。
雨が続いたせいか、それとも明日からまた1週間がはじまるせいか、ナイトバザールのフードコートは閑散としていた。席を決め、先ずはラオカーオをオンザロックスにするための氷を10バーツで買う。氷のバケットを手に席へ戻ると、初日木曜日の夜には見つけられなかった、昨年は何度もチムジュムを頼んだ店の、優しそうなオバチャンが目の前にいた。即、昨年とおなじくチムジュムを注文する。
「しかし待てよ」と、日本から持参したステンレスのコップに氷を入れつつ考える。オバチャンは昨年のオバチャンにそっくりだ。しかし今年は隨分と若く見える。昨年のオバチャンは訥々としていた。しかし今年のオバチャンは綺麗な英語を話す。昨年のオバチャンの画像をiPhoneに送り、明日は「この人の妹さんですか」とでも訊いてみよう。
ホテルにはナイトバザール前20:15発のシャトルバスで戻った。そしてシャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 “Dusit Island Resort”の朝のブッフェのサラダとオムレツ、トースト、中華粥、コーヒー
昼飯 シリコーン市場のガイヤーン屋のトムセーップ
晩飯 ナイトバザールのフードコートのチムジュム、ラオカーオ”YEOWNGERN”(オンザロックス)