2025.3.5(水) タイ日記(9日目)
目は覚めているものの、起きて日記を書く気にはならない。そろそろ旅の疲れが出てきた、ということでもないだろう。ほとんどプールサイドで本を読むしかしていないのだ。
きのう8時ころの朝食会場は、とても混み合っていた。よって今日は8時30分にロビーからレストランへの階段を降りる。南の国で飲み食いをするとき、屋内と屋外に席があれば、僕は必ず屋外で摂る。いま自分は南の国にいる、ということをできるだけ感じたいのだ。
朝食から戻って先ずは会社の、お金の入ってくる銀行口座からお金の出ていく銀行口座に資金を移す。それからおもむろに、既にして完成しているおとといの日記を公開し、きのうの日記に取りかかる。すべてをし終えると11時が過ぎていた。
プールサイドの寝椅子に仰向けになれば、頭上からは鳥の声、脇を流れるコック川からは、上り下りのモーターボートの音が聞こえてくる。「続百代の過客」の上編を読むうち、気温はますます上がる。目映いコンクリートの上をプールサイドバーまで歩き、冷たいものを注文して寝椅子に戻る。レッドチェリーを口にするのは何年ぶりのことだろう。よほどの超弩級でない限り、名所旧跡景勝地の見物は時間がもったいなくてできない。僕にとってもっとも有効な時間の使い方は、なにもしないことに他ならない。
寝椅子のパラソルでは遮れないところまで太陽が動いてきたら、ランナー風のあずまやに移動をして、ここでまた本を読み続ける。笹森儀助による「南島探検」の石垣島の部分を良い調子で読みながら「あれっ」と感じて確かめると、現在の218ページの次のページは既にして読んだ203ページだった。「乱丁か」と忌々しく感じつつ先へとページを繰ってみれば、204ページから218ページまで進んだ次はいきなり235ページで、乱丁に加えて219ページから234ページまでが落丁している。その失われている部分は森鴎外の「航西日記」で、だから続くおなじ鴎外による「独逸日記」は、後先を考えれば、これをいま読むわけにはいかない。仕方なくその先の、夏目漱石による「漱石日記」へと進む。そして15時にあずまやを去る。
ホテルからマッサージ屋”PAI”までの道のりは、およそ2.4キロメートル。30分あればたどり着けるだろうと、15時30分に部屋を出る。例のごとくロビーから数百メートルほども庭を歩いて外へ出る。崖下の大きく曲がった道を歩きつつ、ときおり後ろを振り返る。すると遠くからトゥクトゥクの近づいてくるのが見えた。どうやら客は乗せていないらしい。
僕の脇で駐まったトゥクトゥクは、かなりの古さ、かなりの傷み具合だった。「ナイトバザールのちかくまで」と伝えて返ってきた運転手の返事は60バーツで、これは2013年ころの相場である。車体の古さを気にしての、弱気な言い値なのかも知れない。
“PAI”のガラス扉にはタイ語の張り紙があった。僕はタイ語は読めない。しかしそこに”6″の数字があるところからすれば「本日の営業は18時から」ということなのだろうか。仕方なく僕の感覚からすれば二線級の”CHAMONPOND”まで引き返し、1時間のフットマッサージを受ける。料金は200バーツ、オバサンには50バーツのチップ。
きのうに引き続いて、ツバメの群れ飛ぶ下を歩いてジェットヨット通りに出る。そして小体な洋食屋の外の席に着く。料理は英語では”Chiken Parmidiana”、中国語では「芝士炸鸡排」とメニュにあるもの、またワインは白と赤とがそれぞれ1種類ずつしか無かったから、オーストラリア産のシャルドネをボトルで注文する。
やがて届いたそれは、鶏のフライの上にトマトソースとチーズを載せ、オーブンで焼いた典型的な洋食で、僕の舌を悦ばせた。次にこの街に来るときには、この店にもかならず足を運ぶことにしよう。
ふたたび目抜きのパフォンヨーティン通りに戻り、客待ちのトゥクトゥクに声をかける。ホテルまでの料金は100バーツ。部屋に戻ってシャワーを浴び、多分、19時台に就寝する。
朝飯 “THE RIVERIE BY KATATHANI”の朝のブッフェ其の一、其の二
晩飯 “surf & turf”のチキンパルミジャーナ、JACOB’S CREEK CHARDONNEY 1984
2025.3.4(火) タイ日記(8日目)
「夜が明けると共に鳥の啼き始めるのは、日本でもタイでも変わらない」と、先週土曜日の日記に書いた。しかし今朝は4時30分に「ホーイッ、ホーイッ」という例の声を聞いた。いつか地元の人と一緒にいるときにこの声に気づいたら、鳥の名を訊いてみることにしよう。
それにしても今朝は疲れていて、これまでのように起きて日記を書く気がしない。空が明るくなり始めるころにようやくベッドを降りて、先ずは水、次は持参したインスタントのコンソメスープを飲む。
このホテルの庭で朝食を摂るのは2019年以来、6年ぶりのことだ。コック川の下流側には朝日が見え、鳥は啼き、8時から集中する客の数に対して人員が不足している以外は、言うことはない。部屋に戻ってしばしベッドで休憩。以降は部屋からの眺望を楽しみつつきのうの日記を書く。
プールサイドには11時すぎに降りた。そして寝椅子で本を読む。その上に広がるパラソルで太陽の直射を防げなくなってからは木造のあずまやに移動をして、ふたたび15時まで本を読む。対岸の一部が荒れ、倒木が水に浸かっているのは、昨秋の洪水によるものだろうか。
2017年までは街までの2キロメートル弱を苦にしなかった。それ以前は、往復の4キロメートル以上を平気でこなした。しかしこれが加齢というものだろうか、炎天下の歩行は、いまやまったくしたくない。しかし18時のシャトルバスを待つつもりもない。
意を決して帽子をかぶり、首には麻のタオルをマフラーのようにして外へ出る。ホテルの敷地から出て崖下の道を歩いているときに、向かい側からタクシーが来た。手を斜め下に差し出す合図をすると、窓を開けた運転手はUターンをしてくる旨を腕で示す。この街に流しのタクシーやトゥクトゥクはほとんど見ない。上手い具合に拾えたものだ。
この街にメータータクシーはいない。いや、いないかどうかは不明ながら、僕は遭遇したことがない。1980年代のバンコクのタクシーと同じく、料金はすべて相場、あるいは交渉によって決まる。マッサージ屋”PAI”までの料金は100バーツ。ふと思いついて、あさっての朝8時30分にホテルへ迎えに来るよう頼む。ちなみに運転手の名前はエー。電話番号も受け取った。
さてその”PAI”は今日は満員。よって2日目に訪ねた”CHAMONPOND”の扉を押す。足マッサージ1時間200バーツの料金は”PAI”と同じながら、タライのぬるま湯で足を洗ってくれる古風さ、また客質の点からも、できれば”PAI”を使いたい。今日、僕の右で足マッサージを受けていた男は終始、スマートフォンから中国語の音声を消さずに動画を見ていた。
“CHAMONPOND”からワンカムホテルの手前まで来て賑やかな声に空を見上げると、そこには大変な数のツバメが飛び交っていた。正に夏、そのものである。
サナムビーン通りでの飲酒喫飯を終えて、ふたたび盛り場に戻る。そしてきのうとおなじく、そこからすこし外れたところで客待ちをしていたトゥトゥクに声をかける。料金は100バーツ。
ホテルに戻ったのは19時ごろ。ロビーのエレベータ前にはドゥシット時代からのオジサンがいた。このオジサンは、お土産屋で売っているような少数民族の服を着て、ただエレベータの「開」スイッチを押すだけのためにここにいる。しかし僕はこのオジサンの姿を認めるとなぜか嬉しくなって、日に一度はチップとして20バーツを手渡す。AI時代に淘汰されないのは正に、このオジサンのような人ではないか。
部屋に戻ってシャワーを浴び、19時台に就寝する。
朝飯 “THE RIVERIE BY KATATHANI”の朝のブッフェ其の一、其の二、其の三
晩飯 「ジャルーンチャイ」のパッマクーワ、ムーグローブ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.3.3(月) タイ日記(7日目)
目を覚ましたのは1時30分のころ。いつも通りである。しかし今日ばかりはそのまま寝転がってTikTokを眺めたりしているわけにはいかない。早々と荷作りを始める。
ラオカーオはいまだ3本が残っている。その体積と重さを減ずるための空のペットボトルは家から500ccのもの1本、別途、往路のタイ航空機の中で支給されたミネラルウォーターの350ccのもの2本を、後生大事にクローゼットの上の、天井にちかい棚に置いておいた。それがなんと、きのう、部屋掃除のメイドに捨てられてしまった。
そういう次第にて、3本のラオカーオのうち2本は、きのうの夜から頑張って飲んだ部屋のミネラルウォーターの空きボトルに移した。しかし1本は、瓶のままスーツケースに収める。
04:38 IKEAのトートバッグにこの2日間の洗濯物を入れて部屋を出る。
04:45 ホテルから徒歩2分の”Neko wash & dry”で洗濯機の設定を完了。冷水による30分間の洗濯は、深夜料金にて30バーツ。きのうおとといより気温は明らかに高い。
05:14 ふたたびコインランドリーへ行く。洗濯機には「あと1分30秒」の表示が出ていた。それが止まるのを待って、洗濯物を備えつけのカゴで乾燥機まで運ぶ。乾燥機の料金は昼とおなじ50バーツ。
05:52 みたびコインランドリーへ行き、既にして止まっている乾燥機から洗濯物を取り出して、ホテルに戻る。
06:25 とりあえずの荷作りを完了する。洗い上がったばかりのTシャツ2枚は生乾きながら、仕方がない。
07:30 朝食会場に降りる。プールサイドの景色を楽しむため、ロビーや食堂のある1階と部屋のある2階との行き来は、エレベータではなしに、かならず階段を使う。
気温の上がる10時にプールサイドに降りて「続百体の過客」の上巻を読む。時代は江戸の最後期から明治の初期に入り、きのうまでとは異なって、ページの捗ること疾風の如くだ。理由は、ドナルド・キーンの採り上げるいにしえの人の紀行文が、国内から国外へと場所を移したことによる。
活字を追えば時を忘れるから、iPhoneのアラームを11時30分に設定しておいた。それが鳴ると同時に寝椅子から降り、バスタオルを指定のカゴに入れて、部屋に戻る。シャワーを浴びて服を着て、サンダルはスーツケースに納めたから靴下と革靴を履く。11時50分にチェックアウト。正午に予約したタクシーは11時59分に、ロビーの玄関に横付けをされた。
2009年からたびたび使っている、以前はドゥシットアイランドリゾート、現在はザリバリーバイカタタニと名を変えた川沿いのホテルには十数分後に着いた。タクシーの料金は200バーツ。運転手には40バーツのチップ。
僕がここに直近に泊まったのは、コロナ前の2019年9月。ホテルの名は既にしてザリバリーバイカタタニになっていた。その内装の近代的になったこと、またプールサイドの充実振りには特に目を見張った。しかし人はとかく変化を嫌う。「良くなくなった」という声も聞かないではないけれど、僕はその意見には与しない。
部屋までスーツケースを運んでくれるベルボーイがあれこれと説明をしてくれるので「ここには何度も泊まっています」と伝える。「いちばん最初は2009年」と続けると「それではドゥシットの時代から」と問われたので「はい」と答える。ベルボーイには50バーツのチップ。
移動用のズボンを普段のものに穿き替え、革靴をサンダルに履き替える。そうしてこの街に入って3日目に調べておいたちかくの食堂を目指す。「ちかくの」とはいえ、ホテルの敷地を出るには、広大な庭を数百メートルほども歩く必要がある。食堂から戻ったらシャワー。朝は肌寒くても、日中の暑さは日本の盛夏と変わらない。
午後はプールサイドに降りて本を読む。そのうち日除けのパラソルだけでは太陽の直射を避けられなくなって、ランナー風のあずまやに逃げ込む。木製の椅子の座り心地は悪くなかった。なにより川風が心地よい。まったく極楽ではあるものの、旅の中日はとうに過ぎているのだ。
ところでこのホテルとナイトバザールのあいだ2キロメートル強を往復しているシャトルバスの時間は、ホテル発が17:00、18:00、20:00、21:00、22:00。ナイトバザール発は、各々の15分後だった。しかしチェックインのときに求めた現在の時刻表では、合理化なのだろう、17時の便が消えていた。仕方なく18:00発のそれに乗って街へ出る。片道の料金は60バーツ。
先ずは200メートルほどを歩いてマッサージの”PAI”へ。本を持参し忘れたのは痛かった。フットマッサージを1時間。オバサンには50バーツのチップ。車道から50センチメートルほども高い、ウィアンインホテル前の歩道を歩いてナイトバザールの入口まで戻る。時刻は19時20分。
これまでより2時間30分ほども遅い到着により、黄色い椅子とテーブルのフードコートは満席に近かった。ステージにも人がいて、僕が席に着いたときには、歌手がひとりギターを弾きつつフォークソングを歌っていた。彼が去った後は、聞き慣れているいつもの曲に合わせての、民族衣装を着た5名の女の人による踊りが始まる。ちかごろこの踊りを見ていなかったのは、僕の夕方の時間が以前にくらべて早くなったから、ということにようやく気づく。
食後はナイトバザールで社員へのお土産を買う。買い物は得意でないものの、布製品を売る店のオジサンは、2割ちかく安くしてくれた。おなじ品物が、首都の空港の制限区域内では”SPECIAL PRICE”などと札を付けられて、数倍の価格で売られているのだ。
盛り場を外れたところで客待ちをしていたトゥクトゥクのオジサンに声をかける。どれだけ吹きかけてくるだろうかと身構えていたものの、オジサンの言い値は2017年の秋とおなじ100バーツだった。勿論、地元の人は、それよりずっと安く使っているだろう。
部屋へ戻ってシャワーを浴び、以降のことはよく覚えていない。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「カオソーイタオゲーエック」のパッガパオムーカイダーオ
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのチムジュム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.3.2(日) タイ日記(6日目)
鳥の声に気づく。時刻は6時21分。「うかうかしている場合ではない」という気持ちになる。目を覚ましてから何杯目かの、しかし淹れたばかりの紅茶を慌ただしく飲む。半袖のTシャツ1枚では寒かろうと、木綿のセーターを首に巻く。そうして2階の廊下からプールサイドに続く階段を降りて外へ出る。
道のあちらこちらでは、人々の朝食のための屋台や露店が開店の準備に取りかかり、あるいは既にして商売を始めている。チェンライ病院をはじめとする病院群をひとまわりして戻ると30分が経っていた。
10時を過ぎたところでプールサイドに降りる。「百代の過客」が昨秋ほど捗らないのは、上巻にくらべて下巻が面白くない、ということではない。20時に寝れば夜中のうちに目を覚ます。以降はこの日記を書いたりして朝まで起きている。だからプールサイドでは本を腹の上に伏せたまま眠ってしまうことが度々あるのだ。
今日もそうして小一時間ほども眠る。子供の声が聞こえてくる。目を開けると隣の寝椅子には8歳と3歳ほどの白人の姉弟がいた。母親は「静かに話せ」といういうようなことを子供たちに言い続けている。僕は「気にすることはありません」と、その母親に顔と身振りで示す。
室町期から江戸後期までの日記や紀行文を集めた「百代の過客」の下巻は13時1分に読み終えた。それをしおにプールサイドから上がり、部屋に戻って外出の用意をととのえる。
自転車を借りて、先ずはきのうのフードコートへ行ってみる。南の国らしくその場所は開け放たれていたものの、日曜日だからだろう、すべての店は閉まっていた。そこできびすを返してパフォンヨーティン通りを北へ進み、途中で左に折れてジェットヨット通りに入る。そして行きつけの汁麺屋の脇に自転車を駐める。
タイ北部の麺料理「ナムニャオ」について、チェンライを幾度も訪ねている人たちのウェブ上の情報に「カオソーイポーチャイ」の名は無い。それは、この店のそれに丸い板状の納豆トナオヘンやニャオの花の芯が入っていない、つまり本格派ではないからではないか。それでも僕は、この店のナムニャオが好きだ。辛さに汗が噴き出す。価格は40バーツ。田舎の物価はまだまだ低い。
部屋を出る前に、チェンライに入ってからきのうまでに使ったお金を合計し、それを日数で割ったら700バーツ強だった。初日の両替で得た15,519バーツは、最終日まで保つだろう。そう考えたものの、汁麺屋の帰りに初日とおなじ両替屋”SUPER MONEY EXCHANGE”に寄る。換金率は初日より良い1万円あたり2,252バーツになっていた。部屋に戻ってバンコクの換金率を調べると、もっとも条件の良い店で1万円あたり2,265バーツだった。これくらいの差であれば「取りあえず使う分はチェンライで。首都で使う分はバンコクで」と、両替を二度に分ける必要は無いだろう。
午後は部屋で「百代の過客」の下巻に続く「続百代の過客」の上編を読み始め、16時がちかくなったところでロビーに降りる。そして自転車を借りてパフォンヨーティン通りを東へ進む。マッサージ屋の”PAI”ではいつものように足マッサージを1時間。オバサンには50バーツのチップ。
さてサナムビーン通りの食堂も、今日で3日連続となった。ウェブ上に見つけたメニュに「パッシーユー」つまり焼きそばがあったため、それを注文すると「ペッシーユー」とオニーチャンは訊き返した。「タイ人の発音だと、そうなるのか」と、首を縦に振った。ところが席に届いたそれは、アヒルの醤油煮をオーブンで炙ったものだった。「なるほどペッとはアヒルのことだったか」と得心をする。
それを平らげて次は烏賊の塩玉子炒め「プラムックパッカイケム」を注文する。烏賊はカタカナでは「プラームック」と表記をされるけれど、これを棒読みしても絶対に通じない。「プラ」の後は長音にせず「プラムック」。「ム」は上の前歯で下唇を噛みながら素早く発声する。タイ語の発音は容易ではないのだ。
帰りはきのうとおなじくナイトバザールの中を、自転車を押して通る。ホテルに帰り着いても、空はいまだ夕刻の色を残している。その空には旧暦2月3日の月があった。そして今日も20時より前に寝に就く。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「カオソーイポーチャイ」のバミーナムニャオ
晩飯 「ジャルーンチャイ」のペッシーユー、プラムックパッカイケム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.3.1(土) タイ日記(5日目)
夜が明けると共に鳥の啼き始めるのは、日本でもタイでも変わらない。聞こえるのは「ホーイッ、ホーイッ」という、こちらではおなじみのもの。それに他の鳥の声も混じる。空は晴れている。その空を見て「そうだ、今日は洗濯の日だった」と思い出す。
きのうまでに溜まった洗濯物をIKEAのトートバッグに詰めて、おとといの日記に書いた、招き猫の看板のコインランドリー”Neko wash & dry”へ行く。係のオバサンは、おとといとは異なる人だった。
洗濯機は20キログラムと15キログラムの2種があったため「こちらで充分」と、15キログラムの方を僕は指す。オバサンは僕からトートバッグを受け取り、その中味を洗濯機の中に入れていく。日本から持参の粉石鹸をその洗濯機に入れようとして「ノー」と言われる。よって昨秋にチェンライのコインランドリー”otteri”で買って余らせた液体洗剤を差し出すと、オバサンはそれを受け取り、洗濯機の上の口から絞り入れた。
タイ語が読めるわけではないけれど、15キログラム用の洗濯機の奧の壁には「7時から23時59分まで冷水洗い50バーツ、ぬるま湯洗い60バーツ、温水洗い70バーツ、0時から7時までは、それぞれ30バーツ、40バーツ、50バーツ」の表示がある。「50バーツだね」とオバサンに確かめると、オバサンは洗濯機の、硬貨の差し込み口を指で示す。そこに、これまで溜めておいた10バーツ硬貨5枚を投入する。電光掲示板に出た数字は30分。それをオバサンはまた指で差す。
外の通り、建物、樹木、人、みな朝日を浴びている。「あー、気持ちいいなぁ」と思わず声が出る。それに我ながら驚いて「自分の口からそのような言葉が漏れるときとは、自分がどのような状況にあるときだろう」と考えてみる。そしてそれが「暖かさと薄着」のふたつによることを、改めて知る。
コインランドリーのテーブルで本を読むうち洗濯機が止まる。オバサンは洗濯機の中に残したものが無いか入念に調べつつ、洗い上がった衣類をカゴに入れた。そして今度は20キログラム用の洗濯機と接している乾燥機にカゴの中味を投げ入れた。乾燥時間は25分間で、選べる温度帯は”HIGH”、”MED”、”LOW”、”DELICATE”、の4種。デフォールトは”MED”らしく、ここでもまた10バーツ硬貨5枚を機械に投入する。
おとといの日記に書いたように、月曜日からは川沿いの、つまり中心部からは離れたホテルに移る。その日の早朝には、洗濯物は2日分しか溜まっていないだろうけれど、またここに来ることにしよう。それも、いまだ料金の安い7時前に、だ。
ここ数日を過ごしてみて分かったことだが、いささか肌寒い朝の気温は、10時ころから上がり始め、昼には35℃に達する。よって今日は10時を過ぎたところでプールサイドに降りる。そうして13時30分に到ったところで腹の具合を確かめ「昼飯は抜いても大丈夫ではないか」と考える。しかし10分後には「いや、しかしそれでは夕刻まで保つまい」と、プールサイドから引き上げる。
チェンライに入って2日目の昼は、看護婦さんであふれるフードコートでカオカームーを食べた。その、ローカルの小さなフードコートにカオゲーン、つまりぶっかけメシ屋のあることは、その前をたびたび通りかかって確かめてあった。
ホテルから歩いて3分ほどのフードコートは、今日が土曜日だからだろうか、開いている店は少なかった。また既にして14時がちかいせいか、僕以外の客はひとりきりだった。僕はカオゲーン屋のオネーサンに、ごはんにのせるべきおかず2種を指で伝えた。
ごはんの盛りは良い。ごはんの左には茄子と豚の挽き肉をたっぷりの油で炒めた、タイではよく目にするもの。右には豚肉団子と葱と香り野菜の炒めものが載せられている。その右側のおかずを先ずは口にして「アッ」と、声にならない声を出す。容赦の無い辛さである。「いいじゃないですかー」である。ガイジンに忖度したタイ料理は好きでないのだ。
食べ終えてオネーサンに100バーツ札を渡し、釣銭は数えないままポケットに入れた。そして席に戻ってその釣銭を確かめると20バーツ札が2枚、10バーツ硬貨が1枚、5バーツ硬貨が1枚の、計55バーツがあった。ということは、おかずをふたつ載せたぶっかけ飯は45バーツ。「安い」と感じても口に出さないよう努めている僕でさえ、思わず「ヤッスッ」と声が出てしまった。それにしても、この店のおかずは美味い。日曜日の明日も、取りあえずは覗いてみることにしよう。
朝に洗った洗濯物を、午後は日の当たる窓際に並べて、より一層、乾かそうとする。そしてベッドで本を読みつついつの間にか眠ってしまい、目が覚めると16時が過ぎていた。カーテンは引いていなかったため、部屋の中はとても暑くなっている。
マッサージ屋の”PAI”には毎日16時に出かけることとしていたものの、小一時間ほど遅れてしまった。今日のオバサンは足の角質をすこしばかり削ってくれた。また脛のかさぶたを指でなぞって「痛いか」と訊くので「痛くない」と答え、iPhoneの翻訳ソフトに「アレルギー性の湿疹」と入れて、そのタイ語をオバサンに読ませる。フットマッサージ1時間の料金は200バーツ。オバサンには50バーツのチップ。
きのうとおなじ食堂の外の席で「百代の過客」の下巻を読みつつ、その220ページに思わず膝を打つ個所を発見する。芭蕉の五十年忌に思い立って江戸から松島を目指した山崎北華の旅行記「蝶之遊」の章の一部分。
……
不時の用意に従者を伴うよう友は勧めるが、北華は一人旅を選ぶ。急ぐ理由はなにもないのだから、格別難儀はあるまいと考えたのだ。それに、もし従者が彼の荷物を運んでくれ、己一人大手を振って歩くのならば、まことに「風雅なかるべし」と思ったのである。
……
「なぜ旅行に出てまで安楽を遠ざけ、苦を求めるのか」と家内は言い、僕に同行することをしない。僕の答え「楽な旅行なんてカッコ悪いじゃん」はまさに「風雅なかるべし」だったのだ。
今夜はナイトバザールの中を、自転車を押して過ぎる。そうしてホテルに戻ってシャワーを浴び、20時より前に寝に就く。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 Ruamchittawai Road南側のフードコートのカオゲーン
晩飯 「ジャルーンチャイ」のヤムカイヨーマー、カームーパロールアムサイルアット、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.2.28(金) タイ日記(4日目)
このホテルにチェックインしたとき、部屋のミニバーにはウーロン茶のティーバッグがふたつあって、1日目と2日目の朝には重宝した。それを使い切ってもメイドは補充をしてくれない。部屋にメモを残そうとしたものの、それを思いとどまって、日中、廊下に留め置かれるハウスキーピングの台車を見ると、コーヒーやミルクや砂糖の包みはあるものの、お茶のティーバッグは無い。「だったらあれは特別なものだったのだろうか」と考えて、催促することは止めた。
そして今朝は朝の散歩の途次に最寄りのセブンイレブンに入り、自分では見つけられなかったから店員に探してもらって紅茶のティーバッグ10包入りを買った。価格は57バーツだった。
いま泊まっているところは洒落たブティックホテルで、こぢんまりとしながら建物には様々な意匠が凝らされている。庭から螺旋階段を昇った上には喫茶室があるらしい。朝食の後に行ってみると、ガラスの壁には”CAFE & WORKSPACE”の文字があった。
部屋でしばらく休んでから、今年の正月に届いた年賀状と、初日に買った絵はがきを手にふたたび庭へ降り、螺旋階段を上がる。喫茶室”common’day”のオネーサンには、冷たいタイティーを注文した。持参した年賀状は7通だったものの、印刷のみのものは脇へ置き、たとえ1行でも手書きの文字のある5通にのみ返信を書く。
ホテルから目抜きのパフォンヨーティン通りに出ようとする右側に郵便局のあることは、初日から気がついていた。ホテル2階の喫茶室から、その郵便局に直行する。オネーサンはハガキが5通あることを確かめて「250バーツ」と告げた。一瞬、頭の中には疑問符がいくつも浮かんだものの、オネーサンは確かに50バーツの切手5枚を僕に差し出した。タイの、ハガキによるエアメールの運賃は長く15バーツで、僕の知る限り2016年まで変わらなかった。それが今は50バーツだという。
タイの物価高騰と円安を呪うタイファンは少なくない。その恨みつらみをウェブ上で目にするたび「むかしが安すぎたんだ。そう高い、高い、嘆くな」と僕は腹の中で言い続けた。しかし今日の50バーツには驚いた。小刻みな変更を繰り返したくないための、一気の値上げだったのだろうか。
そうこうするうち昼も過ぎたため、今回の初日に場所を確かめておいたカオマンガイ屋へ出かける。チェンライは、タイの最北部にあっては大きな街だが、中心部を外れれば、まるで田園のような空き地が広がる。そのような場所にかなりの面積を占めるカオマンガイ屋は、おそらくできたばかりで、とても綺麗だ。屋内にいた人の良さそうなオニーチャンはすぐに出てきてくれたから、煮鶏と揚げ鶏の盛り合わせを頼んだ。そうしたところオニーチャンは僕が日本人であることを確かめて、iPhoneを取りだした。
オニーチャンの差し出したiPhoneには「普通の鶏は50バーツ、去勢鶏は60バーツ」とあった。どちらが美味いかと言葉で問うと、オニーチャンはふたたびiPhoneに向かって何かを話しかけ、ふたたび見せられたiPhoneには「去勢鶏の方」とあったから、そちらにしてもらう。
それにしても、このカオマンガイ屋は、金持ちの道楽としか思えない。というのは、南の国らしく簡素な作りではあるけれど、広く、清潔で、整理整頓が行き届き、店の周りには、将来は水を張るつもりなのか、空堀まで巡らせてある。それでいて、昼どきにもかかわらず、客は僕ひとりなのだ。
オニーチャンは煮鶏用と揚げ鶏用の2種のソースを僕のテーブルに運び、その説明をしてくれた。タイでは揚げ物には、まるでジャムのような見た目の甘いソースを添える。日本人としては受け入れられないから、これまでは味見をするくらいに留めていた。しかし今日ことそのスイートチリソースを試してみると、揚げ鶏との相性は、決して悪くなかった。
太ったオニーチャンは、とにかく人なつこい。僕がカオマンガイを食べ終えたと見るやすぐに近づいて来て「味はどうでしたか」、「改善するところはありますか」、「チェンライにお住まいですか」と、矢継ぎ早にiPhoneの翻訳ソフトで訊いてくる。口で話してしまった方が簡単で速いだろうに、よほど英語が苦手なのだろうか。
「チェンマイは人が多すぎる。その点、チェンライはちょうど良い。だからチェンライには10回以上も来ている」とiPhoneに日本語で話しかけると、翻訳されたタイ語を読んだオニーチャンは、またまたiPhoneに向かって何ごとかを話しかけた。ディスプレイには「次の機会にも、ぜひこの店にお出かけください」とあった。
午後はプールサイドで数時間ほども本を読む。そのページを繰る手が、昨秋ほど捗らないのはなぜだろう。
その昨秋に2度ほど訪ねた食堂については、撮ってきたメニュの画像、またウェブ上にあった更に詳しいメニュを紙に出力するなどして、いろいろと調べておいた。しかし今いるところからその店までは、1.2キロメートルの距離がある。往復2.4キロメートルは歩く気がしない。自転車を使えば酔っての帰路が危ない。しかし往きは自転車、帰りは押して戻れば良いと考えて、16時にフロントで自転車を借り、先ずはマッサージ屋の”PAI”に乗りつける。
僕のかかとに剥がれかかっているバンドエイドに触れて「痛いか」と、今日のオバサンが訊く。「痛くはない」と答えると、オバサンは今度はバンドエイドの剥がれかかっているところを気にし始めた。「切っちゃったらどうかね」と身振りで示すと、オバサンは奥から持ち来た鋏でそれを綺麗に切ってくれた。
カオマンガイ屋のオニーチャンではないけれど、僕もiPhoneを取りだし「日本の冬はとても寒いです。空気も乾いているので、手や足の皮が切れます。でもタイに来てしばらくすると治ります」と翻訳ソフトに打ち込む。オバサンは現れたタイ語を、周囲のオバサンにも聞こえるよう声に出して読んだ。そのオバサンのマッサージは上手かった。料金は1時間で200バーツ。チップは50バーツ。
外の席に着いた食堂の、英語と中国語のメニュに「鸡蛋炒木耳」とあるのはムースーローに違いない。タイ語による料理名をオニーチャンに訊いたものの、そのフワフワした発音は、僕には聞き取れなかった。目の前に届けられたそれは日本のムースーローとは異なって、赤と緑の唐辛子が共に炒め込まれ、とてもタイらしい。味は勿論、良かった。明日はまた、別のものを頼んでみることにしよう。
そうして結局は帰り道も、交通量の少ないところを選んだとはいえ、自転車でホテルまで戻る。空はいまだ、明るい。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「ミーカオマンガイ」のカオマンガイ(トムトーパッソム)
晩飯 「ジャルーンチャイ」のガイサップルートロット、鸡蛋炒木耳、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.2.27(木) タイ日記(3日目)
きのうのチェンライの空には、ほんのすこしのあいだしか晴れ間は見えなかった。しかし今日は朝から快晴らしい。「らしい」というのは、部屋の窓からは、空のほんの一部しか窺えないからだ。晴れているなら散歩がしたい。
上はユニクロの半袖Tシャツ1枚、下はワークマンのスポーツブランド”FIND OUT”のゴルフ用パンツ、足元は素足にKEENのサンダルで外へ出る。すこし肌寒い。ということは、気温は20℃そこそこだろうか。
ホテルのあるルアムチッタウェイ通りからパフォンヨーティン通りに出ようとする右側に、コインランドリーを見つける。様子を見てみようとしてサンダルを脱いで上がる。するとオバサンが出てきて熱心に説明を始めた。オバサンは英語が話せたので「あした来ます」と答えると、オバサンはニッコリと笑った。しかし落ち着いて考えて、洗濯は明後日の朝にするのがもっとも合理的と気づく。
南の国に来て嬉しいことのひとつは、植物が大きく育つことだ。戸外で見ることのできるそれは元より、ホテルに戻り、部屋のある2階への階段を上がりきったところに置かれた観葉植物も、しばし立ち止まって観察をする。
朝食を終えて10時を過ぎるころ、プールサイドバーにファランの3人組のいることを、部屋の窓から認める。いまだ泳げる気温とも思えないけれど、とにかく彼らは元気だ。滞在しているホテルのプールはこぢんまりとして、置かれているデッキチェアは少ない。部屋着のバスローブを慌てて過ぎ捨てて、Patagoniaのバギーショーツを穿く。そうして午後に到るまで本を読んでからプールサイドを去る。
現在はナイトバザールから900メートルほど南に滞在をしているが、来週からはコック川に面した、つまり街の中心から離れた場所に移る。2017年までは、そのホテルにいても、昼食のため3キロメートルや4キロメートルを歩くのは平気だった。しかし次に泊まった2019年にはそれが億劫になり、朝食をたっぷり摂って昼は抜くこととした。今回は、ちかくで昼食の食べられるところを探しておこう。そう決めて、きのうに引き続いて自転車を借りる。
ルアムチッタウェイ通りからサナムビーン通りに出て東へ進む。自転車はプラスティック製のペダルが割れ落ちて、その部分がただの棒になっている。そのせいか、1キロメートルほども走ると疲れてきた。しかし引き返すわけにはいかない。川沿いのホテルにほどちかい、つまりワットプラケオやオーバーブルック病院にちかいカオソイ屋までは、2キロメートル以上の道のりがあった。この街に来てはじめてかいた汗を、尻のポケットから出した手拭いで拭く。
ふたたび棒状のペダルを踏んでホテルに戻る。平坦な地形だけが助けである。気温は多分、35℃くらにまで上がっているのではないか。気温のメリハリは嫌いでない。額の汗にできるだけ触れないよう注意をしながらTシャツを脱ぎ、シャワーを浴びる。以降はプールサイドには降りず、部屋の安楽椅子で本を読む。
16時になりかかるころにふたたびホテルを出てパフォンヨーティン通りを北上する。今日こそは、通いつけの”PAI”で1時間の足マッサージを受けることができた。料金は200バーツ。オバサンには50バーツのチップ。
ナイトバザールの両側のお土産屋は、17時ころから商品を外へ出し始める。その奧のフードコートで玉子焼きを肴にラオカーオのソーダ割りを飲んでいると、ガードマンが来て何ごとか言う。ワケが分からずにいると、ちかくの店のオニーサンが「ウイスキーも買ってもらわないと」と、ガードマンの代弁をする。
確かにフードコートのそこここには、食べ物や飲み物の持ち込みを禁ずる張り紙がある。ソーダと氷を買えば問題無しと考えていたが、僕の行いは確かに違反である。仕方なく220バーツで買った”Sang Som”の小瓶を免罪符のようにテーブルに立てて、そのままラオカーオを飲む。ちなみにここの飲み物売場にラオカーオは置いていない。数十年ほど前までの日本では、産地を除いては、焼酎は馬鹿にされていた。タイ人のラオカーオへの視線にも、それとおなじものがある。
フードコートには、きのうよりも長くいた。ふと目を上げると空は随分と暗くなっていた。クルマが移動手段の普段からは考えられないことだが、900メートルの道を歩いてホテルへと戻り、シャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「カオソーイタオゲーエック」のカノムジーンナムニャオムーサップ
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのカイジャオムーサップ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.2.26(水) タイ日記(2日目)
目を覚ましたのは0時37分。昼寝をしなくても、結局は昼夜逆転になってしまった。
その必要はないから冷房は働かせていない。それでも喉がすこし痛い。しかしその痛みはうがい薬を使うほどでもないと判断をして、水でうがいをする。次いで冷蔵庫のミネラルウォーターを電気ポットで湧かし、日本から持参した粉末のコンソメスープを飲む。
コンピュータを起動して部屋のwifiに繋ぐ。そしてきのうは疲れて書く気力の起きなかった、きのうの日記に取りかかる。「羽田空港から深夜便に乗り、チェンライには翌日の午前に着きました」というような、途中経過を欠いた旅日記は好きでない。僕にとって移動は、旅の楽しさうちのかなりの部分を占める。だから初日の日記はどうしても長くなるのだ。
コンソメスープの後は、部屋のミニバーにあったティーバッグで、ウーロン茶を何杯もお代わりする。そうしてミネラルウォーターの600ccのボトル2本を空にする。キーボードを打ちながら疲れればベッドに横になる。それを繰り返しつつ8時30分に日記を書き終える。エディタに示された文字数は4,757。実に原稿用紙11枚分である。
きのうのバンコクの早朝の気温は25℃だった。タイの最北部に位置するチェンライの朝は、それよりも涼しい。9時を過ぎてから入った朝食の会場には冷房が効いていて、いささか寒い。南の国に来ながら寒いとは、どうにも辻褄の合わないことだ。窓の外は緑の庭で、複数の白人がタバコを吸っている。「南の国に来たら、やっぱり外が気持ちいいよな」と思う。
部屋に戻って雑用をするうち、昼がちかくなってくる。いつまでのんびりしているわけにはいかない。タイは酒にもタバコにも、日本よりはよほど厳しい決まりを設けている。8時から11時、14時から17時までの時間帯には酒類の販売が止められる。そういう次第にてロビーに降り、フロントのオネーサンに自転車を借りたい旨を申し出る。オネーサンは引き出しから鍵を取り出し、僕に手渡してくれた。料金のことは、特に言われなかった。
パフォンヨーティン通りのナイトバザール近くにあった酒屋はオジイサンとオバアサンが引退をして、金色の時計塔からむかしの時計塔のあいだの道に移った。ホテルからは歩く気のしない距離にて、自転車で街を東へ進む。
きのうチェンライから乗ったTG130の機内で配られたミネラルウォーターは250ccだった。日本から持参した昨秋のラオカーオの残りをその空きボトルに詰めて、昨夜はそのほとんどを飲んでしまった。「1日あたり250cc。今日から帰国するまでの日数は10日。とすれば必要な量は…」とペダルを漕ぎつつ計算し、酒屋では”BANGYIKHAN”を4本まとめて買った。これだけあれば、次にタイに来るときのための次期繰越も残せるだろう。
帰りはサナムビーンロードを西に走り、ナムニャオが美味いとネット上にあった店を確かめる。更にサナムビーンロードを進み、適当と思われる道を左に折れる。その曲がり具合から「もしや」と感じたが、それは上手いことに、ホテルのある通りだった。途中、賑わっているフードコートを右手に見たものの、腹も限界までは減っていず、また4本の酒を部屋まで無事に持ち帰ることに専念をして、途中でどこかに寄ることはしなかった。
ホテルから徒歩で戻ったフードコートでは、ちかくのチェンライ病院の看護婦さんが大勢で昼食を摂っていた。注文したカオカームーはご飯の量が多かった。よってその一部はスープに沈めててカオトム状にして平らげた。
南の国に来て一番したいことは、プールサイドでの本読みである。その寝椅子に着いたのは13時7分。ドナルド・キーン著「百代の過客」の下巻を15時30分まで読む。
16時から1時間のフットマッサージ、17時から飲酒喫飯、そして早々に就寝、というのが、僕の決めたチェンライでの夕方の過ごし方だ。パフォンヨーティン通りを東へ歩き、きのうは仕事中のオバサンが一人しかいなかったマッサージ屋”PAI”の扉を押す。するときのうとは異なってたくさんのオバサンがいたものの、今日は臨時で早じまいだという。「またあした」とちかくにいたオバサンに言われて外へ出る。
入口に装飾を施し、マッサージ師はみな民族衣装風の制服を着ている、そういうマッサージ屋は高い。そうでないマッサージ屋の外の料金表を確かめ、中に入る。今日のマッサージ屋”CHAMONPOND”のフットマッサージ1時間の料金は”PAI”とおなじ200バーツだった。オバサンには50バーツのチップ。
ナイトバザール奥の、鉄製の黄色いテーブルと椅子を置いたフードコートで食べるものは、特に美味くもない。しかし僕は、この場所がなぜか好きなのだ。飲み物屋で買うソーダとバケツの氷は締めて35バーツ。そこからすこし離れた注文料理屋、これは材料さえあれば何でも作ってくれる店だが、そこで幅広麺の炒めを注文する。料金は予想より安い50バーツだった。
僕の席にその炒麺を運んできた女の人は、小学校低学年くらいの男の子を同伴しながら「お客様には『有り難うございます』と言うんだよ」と教育をしてる。この家の未来は明るいと思う。すこし食べたりなかったため、おなじ広場の何年も前から知っている店のモツ焼きも取り寄せる。
ホテルに帰る道すがらの空は、いまだ夕刻の色を留めていた。そうして部屋へ戻ってシャワーを浴び、20時よりかなり前に寝に就く。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 Ruamchittawai Road南側のフードコートのカオカームー
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのセンヤイパッキーマオ、モツ焼き、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.2.25(火) タイ日記(1日目)
00:01 「ギャレーとトイレからできるだけ離れた左列の通路側」と指定して割り当てられた51Cの席に着き、頭上の荷物入れにザックを納める。また、トイレで使い捨てカイロを腰に貼る。備えつけの枕は腰の後ろに当て、毛布で脚を覆う。
00:50 Airbus A350-900(359)を機材とするTG661は、定刻に30分おくれて羽田空港を離陸。
03:00 眠りから覚める。いかにも早すぎるため、頑張って二度寝に入る。
04:00 ふたたび目を覚ます。現在の場所をディスプレイで確かめたいものの、ちかくの席の人たちへの遠慮から、そのまままんじりともしないでいる。
04:50 トイレで歯を磨く。タイ航空の深夜便では、離陸のときには無かった歯磨きセットがいつの間にかトイレに置かれる。その数は僅少。勿論それを使わせていただき、使い捨てとは思えない容量のチューブ入りのペーストも、勿論いただく。
05:15 機内が徐々に明るくなる。
05:18 機はいまだ海南島の手前を飛行中。そのディスプレイには「バンコクまで1,430キロメートル」の表示が見える。
06:04 バンコクまでの距離が829キロメートルに縮まる。
06:10 朝食が席に運ばれる。「玉子か鶏か」と訊かれて選んだ「鶏」は正解。タイ航空のオムレツとハッシュドポテトの機内食は食べ飽きていて、このところは残すことが多かった。
06:46 「バンコクまで35分。バンコクの気温は25℃、天気は曇り」とのアナウンスがある。
07:15 バンコクの灯りが近づいてくる。
07:17 TG661は定刻に27分おくれてタイ時間05:17にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。
05:35 機外に出る。昨秋のTG661は沖のサテライトターミナルに着いたが、今朝はメインターミナルに直づけをされた。
海外からスワンナプーム空港に着き、そのままチェンマイ、チェンライ、プーケット、クラビ、サムイ、ハジャイ、タラートへ飛行機を乗り継ぐときには、慌てず騒がず先ずは”Connecting Flights”と”Transfer Desk”の看板の案内する先へ、次は”To Chiangmai,Chiangrai,Phuket,Krabi,Samui,HatYay,Trat”の看板の示す方へ進めば良い。ふたつの看板は大抵、隣りあっている。
乗り換えの時間は3時間もあるから大余裕。というより退屈することが心配だ。それにしても今回は運が良い。見慣れた”Domestic Connecting Flights”のカウンターには、機を降りてから僅々3分で辿り着いてしまった。
05:38 “Domestic Connecting Flights”の列に並び、羽田からスワンナプーム、スワンナプームからチェンライまでの、2枚のボーディングパスを係に見せてカウンターを通過。
05:46 目と鼻の先の入国審査場に進む。
TG661の機内で左手の人差し指のバンドエイドは剥がしたものの、いまだ左の親指、右の親指と人差し指と中指の、計4本はバンドエイドで覆われている。それを入国審査官に見せつつ”My fingers are Chapped.”と言ってみる。男の係官は黙って頷く。先ずは左手の親指を除く4本、次に右手の親指を除く4本の指紋をガラス板に押しつけて読み取らせる。次は両親指を押しつけるよう指示が出る。バンドエイドが巻かれたままの両親指をガラス板に押しつけると、読み込みは問題なく完了した。「バカみたい」である。
入国審査場を出ると真正面に、食べものや飲み物を売るキヨスクがある。その左手の案内板に僕の乗るTG130を探すも見あたらない。「いまだ時間が早くて搭乗ゲートが決まらないのだろうか」と、ちかくのベンチで休む。するとほどなくして「TG130の搭乗ゲートはB2B」のアナウンスが聞こえた。先ほどの案内板の前に戻ると、果たしてアナウンス通りの表示が出ていた。離陸の時間は8時10分でも、僕はボーディングパスに印刷された”BOADING TIME 07:40″を見て7時台のフライトばかりを探していたから見つからなかったのだ。粗忽、といえば粗忽である。これからは気をつけることにしよう。
05:58 保安検査場を通過。
06:02 B2Bゲートに達する。
この搭乗ゲートからは、先ずチェンマイ行きが出るらしい。周囲がイタリア人ばかりなのは、なぜだろう。とにかくとても賑やかだ。やがてチェンマイ行きの便の搭乗が始まる。その列に次のチェンライ行きの一部乗客が混じり込み、係に追い返されたりもしている。
07:11 “TG130 CHIANG RAI”の案内板が、ボーディングパスの読み取りカウンターに出される。
07:35 搭乗開始。沖駐めの機材にはバスで運ばれる。B2Bゲートは薄ら寒かった。バスの車内には更に強く冷房が効いている。そのバスから降りてようやく人心地がつく。
08:36 Airbus A320-200(320/3202)を機材とするTG130は、定刻に26分おくれてスワンナプーム空港を離陸。雲の上に出ての飛行はおしなべて穏やか。空はやはり、晴れているに限る。
09:25 地上が見えてくる。
09:30 馬の背のような山をひとつ越えると、それまでは赤茶けていた農地が一気に鮮やかな緑に変わる。
09:36 旧チェンライ空港の上空を通過。
09:37 TG130は定刻より3分はやくメイファールンチェンライ国際空港に着陸。
09:52 ボーディングブリッジを伝って空港屋内に入る。海外からの乗り継ぎ客は突き当たりを左へ進む。
09:57 回転台から荷物が出てくる。
X線による荷物の検査を終えたら空港のロビーに出て、先ずはちかくのベンチにザックを降ろす。そして貴重品入れからタイバーツ用の封筒を取り出し、昨秋に残した現金のうちの100バーツ札5枚と20バーツ札5枚を財布に移す。
目と鼻の先の出口から外へ出ると、右側にタクシーの手配所がある。ところが今日は左側から声をかけられ、そちら側にも手配所のあったことに気づく。オネーサンにホテルの名を告げると一発で通じた。料金は180バーツ。これまでは200バーツを請求されていた。これからは左側の業者ばかりを使うことにしよう。
10:08 タクシーが空港の駐車場から動き出す。タイによくある三車線の道に出ると、運転手は時速を80キロメートルに上げた。そこで安全ベルトを締める。
タイの運転手はクルマを走らせつつ携帯電話で話し続けることを好む。今日の運転手は会話ではなく、LINEに手打ちで返信を送っている。街に入ると、その返信が頻繁になる。前を行く4WDの車両が渋滞で止まる。僕の乗るタクシーは速度を落とさない。「あわや」というところで僕は大声を上げる。運転手は反射的にブレーキを踏んで、追突は免れた。”Sorry”と運転手は笑顔で僕を振り向く。笑っている場合ではない。
10:25 ホテルに着く。運転手に心付けは渡さなかった。
僕が差し出したagodaの予約表を一瞥したフロントのオネーサンは「あぁ」と何かに気づいた様子で「もう1、2時間、お待ちください」と答えてからスーツケースを奧へと運んだ。しばらくはロビーの椅子で新聞を読んでいたものの「1、2時間」はつぶせそうもない。タイバーツの残りは2,000と少々。千バーツ札は皆無。というわけでオネーサンにはザックも預け、iPhoneと貴重品入れのみを持って外へ出る。
前回はこのホテルより600メートルほどもナイトバザールに近い”Blue Lagoon Hotel”を使った。便利な場所にあり、価格は安く、プールサイドの寝椅子は最高だった。しかし部屋の椅子は背もたれの無いスツールで、日に数時間ほどもコンピュータを使う僕にはいささか辛かった。「椅子はホテルに借りればいいや」と、今回も予約はしたものの、先月、新たに良さそうなところを見つけてキャンセルした経緯があった。その「新たに見つけた良さそうなところ」が今日のホテルである。その「600メートル」を確かめつつ、ナイトバザールや旧バスターミナルに向かって目抜きのパフォンヨーティン通りを往く。
旧バスターミナルちかくの両替屋”SUPER MONEY EXCHANGE”は、僕が調べたところによれば、この街でもっとも交換率が良い。今日のレートは1万円あたり2,217タイバーツ。邦貨7万円は15,519バーツになった。僕がはじめてチェンライに来たのは2009年8月。そのときは1万円が4,000バーツを超えていた。しかし当時の日経平均株価は1万500円台だった。何が良くて何が悪いかは、いちがいには決められないのだ。
旧バスターミナル前の本屋の店先に絵はがきがあったため、6枚を選んで声をかけるも、誰も出てこない。ハガキは仕方なく、また元の場所に戻した。
ふたたびホテルのロビーで日本から持参した新聞を読む。やがてフロントの無線機に「オーケーカー」と、メイドさんのものらしい声が入る。フロントのオネーサンは部屋が整った旨を僕に告げる。今回の宿泊料は現地払い。6泊分の14759.94タイバーツはクレジットカードで支払った。予約時の「眺めの良い部屋」という頼みは忠実に守られて、窓の外にはスイミングプールとプールサイドバーが見下ろせた。
それにしても疲れている。しかし腹も空いている。よって両替屋の帰りに目をつけておいた、半屋台状の食堂に出かける。調理中の女の人にナムニャオの有無を確かめると、それは無いという。バミーナムのスープは、タイの汁麺にしてはとても熱かった。そして甘味も強かった。
疲れていても、寝てしまっては昼夜が完全に逆転する。シャワーを浴びて後はスーツケースから衣類を取りだして、セーフティボックスの隣に置く。本や文房具は机の右端にまとめる。ベッドの枕は具合の良いものをひとつ選び、残りは邪魔にならないところに移す。このような整頓は結構、楽しい。
そうして16時を過ぎたところで外へ出る。2014年から通いつけの、そして”Blue Lagoon Hotel”には至近だったマッサージ屋”PAI”までは、今日のホテルからは徒歩で8分かかった。そのガラスの扉を開けるとオバサンがひとりフットマッサージの客の相手をしながら、今日は自分ひとりしかいないようなことを言う。僕は「だったらまた明日」と告げて引き下がる。
ナイトバザールの奥にあるフードコートの飲み物屋が店を開くのは17時だろう。いまだ16時40分であれば、午前に人のいなかった本屋を訪ねる。僕が元に戻した6枚の絵はがきは、そのままあった。それを引き抜き、本屋の店先を借りて甘味屋を営んでいるオバサンに勘定を頼む。絵はがきは1枚が20バーツ。オバサンはとても愛想が良かった。
タイ北部の土鍋料理チムジュムは、チェンライのフードコートにおいては中国人観光客用に豪華化の一途を辿り、ひとり用のそれを売る店は、今や1軒だけになってしまった。昨秋にも使ったその店に注文を通してから席へ戻り、おなじ広場の飲み物屋で買ったソーダと氷で持参のラオカーオを割る。その酒がべらぼうに美味いのはなぜだろう。
いまだ明るいうちに土産物屋が軒を連ねる路地を抜け、目抜き通りに出る。以降の記憶は、無い。
朝飯 “TG661″の機内食、”TG130″の機内スナック
昼飯 パフォンヨーティン通りの名前を知らない食堂のバミーナムモー
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのチムジュム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.2.24(月) 「オレとしたことが」
手指と足のアカギレに貼ったバンドエイドはすべて、先週の金曜日に伊豆の温泉ホテルの風呂場で剥がした。しかし手の両親指には次の日から早速、またアカギレの兆候が現れた。アカギレは、切れる前にバンドエイドで覆う必要がある。仕事の最中に切れて血が出れば、業務に支障を来すからだ。
今朝は新たに、右手の人差し指にもバンドエイドを巻いた。これにて左の親指と人差し指、右の親指と人差し指と中指の、計5本がバンドエイドで覆われた。タイでは入国時に、両手の指紋を登録させられる。さて、明日のスワンナプーム空港では、どのようなことが起きるだろう。
きのうの日記を書いたり「汁飯香の店 隠居うわさわ」へのインターネット経由のご予約を承ったりしているうち時はまたたく間に過ぎる。東の空が紅く染まりつつある。時刻は5時35分になっていた。
道の駅「日光街道ニコニコ本陣」には、朝のうちに充分以上の納品をしておく。本日の人員は、販売係、事務係ともに極端に少ないということはないから、特に販売においては、11時30分から13時30分のあいだのみ手伝いに入った。別途、蔵見学のご案内もさせていただいた。
16時に小休止のため4階の食堂へ上がり、ついでに今日の下今市18:49発の上り特急の予約をしようとして、スマートフォンから東武鉄道のサイトにアクセスをすると、既にして満席になっていた。次の19:21発も満席。最終の19:54発には空席があったものの、00:20発のタイ航空661便に対して羽田空港第三ターミナルに着くのが22時24分では、流石にまずかろう。
逆に、18:49発より早い便を遡って行くと、17:34発は満席、17:02発には空席がある。しかし今から1時間後では、いかにも忙しい。17時過ぎにしようとしていた長男への引継ぎもある。JR今市から宇都宮で新幹線に乗り換え東京に出る手もあるものの、こちらは多分、宇都宮からの新幹線は立ちっぱなしになるだろう。スーツケースを曳きつつ、そのようなことはしたくない。いまだ冬とはいえ三連休を甘く見ていた。「オレとしたことが」である。
そうして未練がましくもういちど東武鉄道のサイトにアクセスをする。そうしたところ、先ほど空席のあった下今市17:02発は満席になり、しかし満席だった17:34発に空席が出た。間髪を入れず、人差し指を忙しなく動かす。1号車は満席、2号車も満席。最後の3号車を画面に出すと、そこにひとつだけ空席があった。即、その小さな矩形をタップして席を確保する。下今市駅までは家内にホンダフィットで送ってもらった。
17:34 特急リバティけごん46号が下今市を発車。
海外に行けるとは、僕にとっては盆と正月が一緒に来るようなものだから、その日は飲酒をしない。しかし今日は飲みさしのワインや市販の総菜が冷蔵庫にあったため、それらをいわば弁当にした。
19:02 特急リバティけごん46号が北千住に着。
19:08 地下鉄日比谷線の車両が北千住を発車。
19:24 その車両が人形町に着。
19:26 奇跡の素早い乗り換えにて、都営浅草線の急行が人形町を発車。
20:03 その車両が羽田空港第三ターミナルに着。
出発階の3階にエレベータで上がり、タイ航空のカウンターを探すも、その表示はどこにも見えない。「確か、このあたりではなかったか」とうろ覚えのKカウンターには係員の姿も、また乗客の姿も見えない。しかたなく自動チェックイン機の「タイ航空」の部分をタップし、パスポートの僕の顔写真のあるページをガラス板に伏せて読み込ませる。すると羽田からスワンナプーム空港までのTG661便、またスワンナプーム空港からチェンライまでのTG130便の、2枚のボーディングパスが魔法のようにして出てきた。時刻は20時25分だった。
ふと目を上げるといつの間にかKカウンターにタイ航空の紫色のディスプレイが点き、これまたいつの間にか大勢の人が密集している。時刻は20時30分になっていた。ちかくにいた係のオネーサンによれば、現在のチェックインは、個々の乗客が自動チェックイン機を操作して発行させ、荷物の預け入れのみ有人のカウンターで行う形がスタンダードになっているのだという。「三日見ぬ間の歌舞伎町」ということばがむかしあった。羽田空港も「またしかり」である。
21:27 タイ人が95パーセント、日本人は3パーセント、白人は2パーセントという感じの蛇行した列に1時間ちかくも並んだ末にスーツケースを預ける。荷物はチェンライまで運んでもらう旨を確認する。
21:47 保安検査場を通過。
21:52 出国審査場を顔認証にて通過。
22:06 108番ゲートちかくの、プライオリティカードで入れるラウンジ”Sky Lounge South”に落ち着く。そうしてティーバッグの緑茶を飲みつつ諸方への連絡、またきのうの日記の更新を行う。更には昨秋、チェンライのセブンイレブンで買った、効くか効かないかは不明の睡眠導入剤”G nite”を2錠だけ飲む。
23:29 “Sky Lounge South”を出る。
23:40 141番ゲートに達する。
23:51 搭乗開始。
朝飯 たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、なめこのたまり炊、メシ、サイコロ切りのハムを加えた豚汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 ”RF1″のマカロニサラダ、金谷ホテルベーカリーのバターロール、農民ロッソ COCO FIRM & WINERY 2023