2024.6.17(月) 並べ替えの変更
旅から帰るたび、というかその最中より、その旅で知ったこと、成功だったこと、失敗だったことをコンピュータに入力してきた。ひとつのデータは3列を持つ1行にまとめる。もっとも左の列には今回であれば”2024.06″と日付けを、次の列にはそれが何に関するものか、すなわち交通、宿泊、食、道具、服装、薬品、デジタル等の区分けを、最後のもっとも広い部分には具体的なことを記す。
旅に出る前にはそれを紙に印刷し、熟読し、更にスーツケースに納める。データを一覧、印刷するときには、これまでは2列目の区分けで並べていた。しかし今回は、日付けの新しい順に並べた方が使い勝手は良い、ということに遅ればせながら気づいた。
データのもっとも古い日付けは”2013.07″だから11年前のものになる。そのあたりについては解決済みとか、あるいは既にして頭に刻み込まれていることが多い。逆に日付けの新しいものほど未解決、あるいは身に染みていないことが増えてくる。
この並べ替えの変更は画期的なことと、我ながら感心をした。しかしまぁ、こんなことを書いても「なるほど」と思う人はごく一握りに留まるだろう。
朝飯 菓子パン、牛乳
昼飯 大根おろしのつゆの素麺
晩飯 3種のおむすび
2024.6.16(日) そちらの方面に優れた人
1996年にパソコン通信による会議室の運営を始めた。同年、パソコン通信によるテキストのみのショップを開設した。1998年にウェブーページを試作し、翌1999年にそれをウェブショップに進化させた。2000年9月よりウェブログ、否、そのころはいまだそのような便利なものはなく、ハイパーテキストで書くことにより日記を始めた。2001年、当時は困難と言われていた、サイパンから日本への、電話回線を通じてのパソコン通信に成功した。そんなところから僕は、IT能力に長じていると思われがちだ。しかしそれは見当違いもはなはだしい。そちらの方面に優れた人が身近にいた、というだけのことである。
「壊したっていいんですよ、直せばいいんだから」と初代SEのカトーノマコトさんは言った。しかし取り返しのつかない「うっかり」もある。よって僕は、コンピュータやスマートフォンを新機に替えるときには常に、その一切をSEに任せてきた。
今月1日にディスプレイが反応しなくなったiPhoneは、同日のうちにアップルストアに持ち込んだ。係にはディスプレイの交換で済むと言われて実機を預けた。翌日ふたたび銀座を訪ねると、故障はディスプレイではなく内部の不調によるもので、当初に知らせた修理代より高くなるから直さずそのまま返すと言われた。僕は強く抗議をした。数時間後にはタイへ飛ぶ深夜便に乗るのだ。その結果、実機は交換となって、同型同世代の、まっさらなiPhoneを手渡された。
前述のように、僕はIT能力に優れない。旅の最中、iPhoneには必要最小限のアプリケーションをダウンロードしたのみで、それで写真を撮ったり、長い路地のどん詰まりに建つホテルについてはタクシーの運転手に場所の説明をしたりしていた。
SEのシバタサトシさんとは9時に約束をしていた。これまでは旧機と新機があったから、環境の移し替えは問題なく行えた。しかし今回は新機のみで、しかも僕は旧機のバックアップをコンピュータに残していない。それでもシバタさんは、できるだけの復旧をしてくれた。
オフラインでも使える海外の鉄道路線図および地図は、これから自分で徐々に、元に戻していくことになるだろう。不要なアプリーケーションは、できるだけはやく削除しよう。スマートフォンは、というか道具はすべからく、簡素なものが好きなのだ。
朝飯 菓子パン、牛乳
昼飯 胡麻のつゆの素麺
晩飯 茹でたブロッコリーと生のトマトを添えたカレーライス、らっきょうのたまり漬
2024.6.15(土) なぜか高熱
年に何度かあることだが、今月の1日は腰の調子が悪かった。鈍痛は温めると軽くなるところから、腰のすこし右寄りにカイロを貼った。カイロは翌2日も朝から貼り、タイへ向けて家を出る夕刻には、新しいものに貼り替えた。3日の「タイ日記(1日目)」には、羽田発の深夜便の中で、これまでになくよく眠れたと書いた。快眠は腰を温めたことによるものではないかと、半ば信じている。
腰の違和感は、タイに着くと同時に消え失せた。ぶり返したのは帰国前日の12日のこと。13日には、鈍痛は腰全体に広がった。
それでも帰国したきのうの夕刻までは、事務机に満載になっていた郵便物を仕分けし、道の駅「日光街道ニコニコ本陣」に商品を補充し、店には閉店時間まで立ち続けて翌々日の釣銭の準備までした。問題は今日、である。
朝6時に体温を測ると38.1℃。即、過去に処方された解熱剤を服用する。7時40分から社員を社内に迎え入れ、9時の体温は36.9℃。後のことは社員に托して耳鼻科のセキネクリニックへ行く。受けつけで測った体温は37.2℃。大変な混み用にて、呼び出しベルを手渡される。
走らないクルマのクルマのエンジンをかけっぱなしにしておくことが嫌いだ。だからクーラーを効かせた車内ではなく、外の木陰に立ってベルの鳴るのを待つ。呼び出されたのは1時間ほどが経つころだった。診察の結果、溶連菌などの感染症は無し。ということで処方箋を受け取り、帰る途中のハセガワ薬局にて薬を受け取る。
長男は今日明日と、東京に出張。家内は「汁飯香の店 隠居うわさわ」の営業日にて、店のことは社員に任せ、今日は休むことにする。
14時30分の体温は39.1℃。すかさず解熱剤を飲む。夕刻にかなり汗をかいたため、ここから快方へ向かうと期待したものの、18時の体温は38.3℃にて、またまた解熱剤を飲む。
朝飯 鮭の焼きほぐし、牛蒡と人参のきんぴら、ジャコと山椒の実の炒り煮、大根おろしを薬味にした納豆、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬、ごぼうのたまり漬、メシ、大根と若布の味噌汁
昼飯 胡麻のつゆの素麺
2024.6.14(金) 日本は真夏
03:05 目を覚ます。機は沖縄と九州の間を飛んでいる。
03:17 朝食が配られる。パン、コーヒー、果物、ヨーグルト以外はほとんど残す。
03:39 “Time to destination 01:00hrs”の表示がディスプレーに出る。
03:45 歯を磨く。
04:36 “Airvbus A350-900″を機材とする”TG661″は、定刻より19分はやく羽田空港に着陸。以降の時間表記は2時間をすすめて日本時間とする。
07:02 入国審査場を通過
07:32 回転台から荷物が出てくる。
07:33 税関申告所を通過。
07:39 京急高砂行き急行が発車。
とにかく腰が痛い。普段であれば、プラットフォームから改札階、改札階から地上へのエスカレータやエレベータについて気にすることはしない。しかし今日ばかりは例外である。プラットフォームにエレベータを備える人形町で日比谷線に乗り換え、北千住には8時42分に着く。
iPhoneは6月2日アップルストアで新機に交換してから元の状態には戻していない。よって東武線の特急券をスマートフォンで買うことができなかった。今日は金曜日。下りの特急は混んでいるのではないか。
東武線の特急乗り場へ行くと案の定「本日は大変に混み合ってます」の大きな立て看板が出ている。しかし幸い、09:43発の下り特急リバティにはすこしばかりの空席があった。即、これを確保してひとつ上の階の喫茶店に入り、きのうの日記の続きを書く。
今日の東京の最高気温は33℃だからバンコクと変わらない。沿線の景色は緑一色の夏そのもの。「いい季節になったなぁ」と、とても嬉しい。下今市駅までは家内に迎えに来てもらう。スーツケースは家内にトランクルームに積んでもらった。自宅での荷物整理の後は通常の業務に復帰する。
夜の酒は美味く飲めたが一方、高熱を発しそうな気配も感じる。入浴をして20時台に就寝する。
朝飯 “TG661″の機内食
昼飯 しその葉のつゆの素麺
晩飯 グリーンアスパラガスのマヨネーズ和え、牛蒡の甘辛煮、鮪の「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」漬け、大根おろしを添えた厚揚げ豆腐の網焼き、麦焼酎「こいむぎやわらか」(ソーダ割り)
2024.6.13(木) タイ日記(11日目)
短い夢を途切れ途切れに見ながら、途切れ途切れに眠る。夜はベランダの戸を開け、扇風機はもっとも弱く回しておく。朝方は、扇風機を止めようかと思うほどの涼しさだった。
今日は帰国日にて、6時より荷作りを始める。先週の金曜日に買った3本のラオカーオは徐々に量を減らし、今朝は数本のペットボトルに小分けをした。帰国後は次に備えて冷蔵庫で保存をするのだ。8時を過ぎるころ、急に気温が上がってくる。シャワーを浴び、部屋の扉を半開きにして風を通す。
8時45分、下はパタゴニアのバギーパンツ、上には半袖のポロシャツを身につけロビーヘ降りる。何度も階段を上り下りしたくないから、手提げ袋には財布とiPhoneの他に、本と紫外線を防ぐためのメガネも入れている。朝食はトーストとコーヒーと果物のみ。それでも身動きが取れないほど満腹になる。
食後はプールサイドで本を読む。手が疲れてきたら、本をiPhoneに持ち替えて、朝食の前に公開したばかりのきのうの日記を読む。誤字、脱字、言い回しの気になるところ等々、計18ヶ所を見つけるものの、コンピュータは部屋に置いたままだ。よって修正の必要なところは仰向けのまま手帳に記す。
今回、持参したドナルド・キーン編「昨日の戦地から」は、いまだ20代だったドナルド・キーンやオーティス・ケーリたち日本語将校が第二次世界大戦直後のアジアに来て、観たこと、聞いたこと、また、したことを手紙で知らせあった書簡集だ。これがべらぼうに面白い。今日までかけて293ページまで進んだ。惜しいことに27通目の「青島のドナルド・キーンから東京のテッド・ドバリーへ」では「注1」の注釈が抜けていた。
昼を過ぎたところでプールサイドから引き上げる。フロントにはおとといまでのオバサンがいる。きのう預けた洗濯物が仕上がっているかどうかを、そのオバサンに確かめる。チェックアウトの時間を訊ねられて16時と答えつつ「仕上がっていれば嬉しい」と言葉を添える。オバサンは果たしてきのうとおなじ”LOCKERS”の看板の下の部屋から、洗い上がったシャツやその他を出してくれた。これで荷作りを完了させることができる。多いにありがたい。
部屋に戻ってきのうの日記を修正する。荷作りを終えれば何をすることもないから、風の通る部屋でベッドに仰向けになる。iPhoneでTikTokを開けば「タイに来たらすべき18のこと」という動画が飛び込んでくる。高級ホテル、名所、有名料理店を巡るそれを見ながら「タイに来てすべきことは、すなわち何もしないことでしょう」と、腹の中で呟く。
部屋のドアを開け放ち、スーツケースはそこへ置いたまま、ザックのみ背負ってロビーに降りる。ちなみにこのホテルではロビーを”FOYER”と記している。古風な英語なのだろうか。ベルのコーナーにいたのは先日のオジサンではなく、オニーチャンだった。大きく赤いプラスティック板に”D-7″と白く彫られた部屋のキーホルダーを見せつつ、スーツケースを降ろすよう言う。きのう「そこを押されりゃ、誰だって多少の違和感はあるだろう」と感じた腰の違和感が、今朝からは腰全体に広がっている。枕を持参すべきなのかも知れないけれど、まさかそのような大きなものを持ち歩く気にはならない。オニーチャンには50バーツのチップ。おとといまでのレセプションのオバサンが笑顔で見送ってくれる。このホテルは、ある程度の時間であれば、レイトチェックアウトに追加の料金は取らない。
soi2に出てしばらく往くと、前からタクシーが来てすれ違う。小路の奥で客を降ろせば戻ってくるだろう。そう踏んで歩き続ける。その僕に、いつもタクシーを停め一発を狙っているオジサンが声をかける。無視をしても声をかけ続ける。小路の奥でUターンしたタクシーに、停まるよう合図を送る。それでもオジサンは声をかけ続ける。
タクシーの、助手席側の窓が開く。「トンローの駅まで」と伝える。僕の言葉を聞き取れない運転手が何やら言う。「トンローまでだよ」と、いまだ諦めない一発狙いのオジサンが運転手に教える。「250バーツ」と運転手は言う。「ミーター」と発すると、運転手は断ってきた。「250だってさ」と、僕はオジサンを振り向く。オジサンは「そのくらいは妥当な範囲だわな」という顔つきをする。「200バーツ」と値切ってみる。運転手は頷いて、助手席のドアを開ける仕草をする。一発狙いのオジサンは、人は良さそうだ。僕がスーツケースを助手席に載せることを手伝ってくれた。時刻は15時45分だった。
soi2からスクムヴィット通りに出れば、トンローは右の方向だ。しかし右折はできない。左折をしてすぐの、モーターウェイに沿った寂しい道をタクシーは南下する。「ラマシー」と運転手が呟く。なるほどラマ四世通りまで出て東に進む大回りしか経路は無い、ということなのだ。普段は、メーターで行く運転手のタクシーにしか乗らない。しかし重いスーツケースと腰の痛みを考えれば、今回は致し方が無かった。
「シェシバタ」とか”OKONOMI”などという日本系の飲食店のある裏道はスクムヴィットsoi38だった。そのまま北上をすれば、そこはトンローの駅である。途中、渋滞に阻まれたにもかかわらず、時刻は16時10分。案外はやい行程だった。
とにかく取りあえずは休みたい。スクムヴィット通りの北側に渡り、いくつも並ぶマッサージ屋のうちの一軒に入る。そして2時間のオイルマッサージを頼む。料金は950バーツ。オネーサンには200バーツのチップ。
帰国日の夕刻に、なぜ取りあえずトンローまで来るかといえば、理由はふたつある。ひとつは、できるだけ東、つまり空港に寄ったところからタクシーをつかまえると渋滞に阻まれづらいこと。もうひとつは「55ポーチャナー」の外の席でバンコク最後の食事をするためだ。
マッサージ屋を出てsoi55つまりトンローの通りを渡る。そのまま歩き続けて55ポーチャナーの、店の外に並べられたテーブルのうち最も東の席に着く。すこし離れた食器洗い場から「いや、まだ」という顔を従業員のひとりがする。僕は腕時計を指し「分かってる」と、こちらも頷いてみせる。タイ人の女の子のふたり連れは店員に何ごとか訊き、やはり外の席に着く。そして18時30分の開店を待つ。
そうするうち、東洋人の中年のカップルが向かい側から歩道を歩いてくる。オートバイがその女の人の真後ろに差しかかったあたりで警笛を鳴らす。女の人は驚き、大きな声で悲鳴を上げた。それに対して男の方は更に大きな声で怒鳴り返した。内容は想像がつく。「やだなぁ」と、思わず小さな声を漏らす。彼らの言葉がどこのものかは分からない。そしてタイ人の男は僕が知る限り、女の人を怒鳴りつけるようなことはしない。
外のテーブルで待っていた人たちは、開店と同時に店内に移動をした。歩道を往ったり来たりしながら待っていた人たちもまた、店の中に吸い込まれていく。彼らに先を越されては僕の料理が遅くなる。赤く染めた髪を妙な具合に結んだいつものオネーサンは、今日はいなかった。見慣れない若い女の子を呼び、先ずは春雨と烏賊のサラダを注文する。この料理をタイ語ではヤムプラムックという。その「プラムック」の発音が、これまた難しいのだ。プラの「ラ」は巻き舌にせずごく短く発声するから、ともすれば「パ」に聞こえる。「ム」は上の前歯で下唇を噛むことが肝要だ。それを昨年、タイ人に教わった。そのお陰か、今日はすぐに通じた。
店の中は開店と同時に八分の入り。外のテーブルにいるのは僕ひとり。暑いところが好きだから南の国に来ているのだ。タイでの食事はできるだけ外でしたい。暑いとはいえ別段、死ぬほど暑いわけでもない。20時に差しかかろうとするころ、あたりは急に涼しくなった。食事の代金は420バーツ。チップは置かなかった。
トンローのパクソイから北へ向かって西側の歩道を往く。soi1のちかくなるあたりで車道に立つ。スクムヴィット通りから左折してきたタクシーが、僕が合図をする前から停まる。運転手が助手席のドアを開ける。僕はそのドアを充分に開いてスーツケースを助手席に載せ「スワンナプーム空港まで」と伝える。後席に乗り込むなり「ミーター、ナ」と運転手はルームミラー越しに僕を見た。こういう模範的な運転手もいるのだ。時刻は20時ちょうどだった。
トンローを北上し、センセーブ運河を渡る左側に”SAPHAN”と外壁に大書したカフェができている。建物は古い工場風ではあるものの、新しく作ったようにも見える。突き当たりを右折。そのペップリー通りのどこかで左折。次に右折。高速道路のようなところをタクシーは疾走するものの、有料の道ではない。
うつらうつらするうちふと気がつくと、タクシーは空港の出国階に近づきつつあった。3番のところで停めるよう言う。メーターは255バーツ。100バーツ札を3枚出して釣りは要らないと言葉を添える。運転手は外へ出て左へまわり、助手席からスーツケースを降ろしてくれた。時刻は20時38分だった。
20:51 タイ航空のオネーサンにより自動チェックインを完了。スーツケースの重さは16.5キログラム。いつもの倍である。
21:05 保安検査場を通過。
21:08 出国審査場を通過。
21:20 空港の本来の建物と、出島のような建物を繋いでいるシャトルトレインが発車。このシャトルトレインの速度はかなり高い。出島までの所要時間は2分。突き当たりを左へと歩いて行く。
21:38 どん詰まりにちかいS104ゲートに辿り着く。
22:15 搭乗開始
搭乗券に示された55Cの席にザックを置き、歯ブラシを取り出し手洗い所へ行く。そこから出て席へ戻る途中、2020年3月のバンコクMGで一緒だったウチダリョウーイチさんに声をかけられて一驚を喫する。
23:11 “Airbus A350-900″を機材とするTG661は、定刻に26分遅れて離陸をする。
23:16 ポーンという合図の音と共に、椅子の背もたれを最大に倒す。上半身に寒さを感じて鼻と口にマスクをし、アイマスクもし、ウインドブレーカーのフードをかぶる。「まさか風邪じゃねぇだろうな」と、微かな不安を覚える。
朝飯 “THE ATLANTA HOTEL”の食堂”AH!”のトースト、コーヒー、フルーツの盛り合わせ(小)
晩飯 “55 Pochana”のヤムウンセンプラムック、オースワン、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.12(水) タイ日記(10日目)
先ずはトンローのsoi8とsoi9のあいだのガオラオ屋で朝食の動画を撮る。次はトンローのsoi2ちかくにあって、2016年に中国の高台を買った店で、気に入ったものがあれば手に入れる。続いて2時間のオイルマッサージで太腿の筋をほぐしてもらう。大体、そんなところだ。
マッサージ屋の開店が10時とすれば、ホテルは9時30分に出れば良い。いまだ1時間以上も間があれば、プールサイドで本を読もう。もうひとつ、往復で156段の階段を上り下りするなら、用事は一度にまとめた方が良い。おとといフロントに預けて240バーツを支払った洗濯物の回収、およびきのう着た服の洗濯も、朝のうちに頼んでしまおう。
フロントの、きのうまでとは異なったオバサンは、複写式の伝票を受け取ると”LOCKERS”という案内板の下の部屋に消え、出したときとおなじ、おとといまで泊まっていたホテルのランドリーバッグを僕に手渡した。そこまでは良い。オバサンは伝票を手に「代金はまだ払っていませんね」と言う。「この日に払ったけど」と伝票の日付けを指す。オバサンは「それは預かった日の日付です」と聞く耳を持たない。「メガネをかけたオバサンに払ったけど」と言い返すと「それでは調べておきます」と、仏頂面である。伝票は返すよう手を伸ばすと「これを担当に見せて確かめます」と言う。複写式の伝票なら原本がフロントにあるはずだ。しかしオバサンは厳しい表情を崩さない。
そのままプールサイドで本を読む。泳ぐことはせず、小一時間ほどして部屋に戻る。
トンローへ向かうためふたたび階段を降りる。すると先ほどのオバサンは、今度は表情を180度かえて「代金はいただいていたそうです」と笑みを浮かべた。日本なら平身低頭の詫びが必要な場面だ。しかしここは「マイペンライ」の国である。このホテルで手書きの伝票を介して金銭のやり取りをする場合には、そこに必ず”PAID”と書いてもらう必要がある。
ホテルからsoi2の路地に出て北を目指す。声をかけてくるタクシーの運転手はいるものの、駐車して客待ちをしているとうことは、いわゆる一発狙いに決まっている。そのまま歩き続け、スクムヴィットの大通りが見えてきたところで左手のプルンチットセンターに入る。冷房の効いた館内を横切りつつ涼む算段である。空は晴れている。気温はそれほど高くなく、湿度は低い。バンコク最良の天気である。きのうモタサイでこなした1キロメートルを、今日は歩き通した。
プルンチットのプラットフォームから、あたりを眺める。直下に、奥にスイミングプールを備えた「ヴィラ」と呼ぶべき邸宅を見つける。一体全体、どのような人が住んでいるのだろう。ただし今となっては、高層のコンドミニアムの方が過ごしやすい気はする。
東へ4駅のトンローには10時6分に着いた。soi1のちかくに赤バスが駐まっている。乗り込んで、運転手に20バーツ札を差し出す。お釣りは12バーツ。つまり「ひと乗り8バーツ」は、コロナの前から変わっていない。 10時18分に発車したバスから外の景色を注意深く見る。骨董屋はいまだ開いていなかった。外を観察していたつもりが、soi9を過ぎてから天井の停止ボタンを押す。バスはグランドセンターポイントの前で停まった。
セブンイレブンと、向かって右は薬屋らしい建物のあいだに店を出したガオラオ屋は健在だった。数段の階段を上がったところで調理をしているオヤジの背中に「ガオラオは大盛り。ごはんは不要」と伝える。テーブル脇の壁、つまりセブンイレブンの外壁には、ガオラオは45バーツ、その大盛りは50バーツ、ごはんは5バーツ、その大盛りは10バーツの貼り紙があった。味は、コロナの入りばなだった2020年3月と変わっていない。旅をする者に与えられる、小さな幸福である。
トンローのパクソイに戻りながら、今度は通りの左側を往く。骨董屋は幸いシャッターを上げていた。この店の経営者は注意深く、引き戸には常に鍵をかけている。それを解いてもらって中に入る。引き戸のガラスにはマスクをするようシールが貼ってあったが、それはコロナ全盛のころのものを剥がしていないだけ、と解釈をした。第一、僕はマスクを持っていない。すると店の奥から女の人が現れて、なかなか高級そうな使い捨てのマスクをくれた。
マスクをして店の中を見ていく。呼吸により眼鏡が曇って不快である。それほど遠くないところで寝椅子のオバーサンが、マスクをしないまま気味の悪い咳をしている。かなり時間をかけて品物を見たものの、今回は欲しいものがなかった。中国の古い磁器よりも、どうやら名もない陶片の方に、より惹かれてしまう自分がいるらしい。
2020年3月、僕はウドンタニーにいた。オイルマッサージの値段が1時間350バーツと伝えると「それはバンコクの水準にくらべても高い」と、コモトリ君は言った。現在、トンローのオイルマッサージの値段は2時間で950バーツから、上は1,000バーツを軽く超える。BTSでひと駅を移動して、先週の金曜日にかかったマッサージ屋へ行く。そしてオイルマッサージを2時間、足の角質削りを30分、頼む。代金は1,150バーツ、オバサンには250バーツのチップ。
ホテルへ戻り、そのまま食堂の”AH!”に入る。そして西瓜のジュースをグラスではなくジャグで頼む。ジュースは1リットルまではいかないまでも、かなりの量があった。食堂のオネーサンは僕のために、扇風機の回転速度を最大に上げてくれた。本を読むうち、気づくと外には驟雨が降っている。危ないところだった。
“AH!”のメニュには朝食のためのあれこれの他、洋食はサンドイッチとフライドチキンとショートパスタ、タイ料理は多種の焼飯、多種のカレー、サラダは2種類ほどがあった。ビールはシンハ、チャン、リオの3種類を揃えているものの、オネーサンによれば、ワインは置いていないとのことだった。ジャグの西瓜ジュースは120バーツ。オネーサンには20バーツのチップ。
17時52分にふたたび外へ出る。スクムヴィットの大通りを歩道橋で渡りながら、この時間には西から東へ向かう三車線のうち二車線を、逆に東から西へ向かうクルマのために割いていることを知る。
おとといとおなじ店で今日はチムジュムを注文する。2019年のチェンライのチムジュムは、いまだ100バーツだっただろうか。そのころバンコクの屋台のチムジュムは200バーツだった。そして今日のチムジュムは、ひとりでは食べきれないほどの具の多さではあるものの、価格は450バーツになっていた。ソーダとバケツの氷を含めた代金は546バーツ。釣銭のうち4バーツはそのまま残す。
朝飯 トンローのsoi9のすこし南にあるガオラオ屋のガオラオ(大盛り)
晩飯 “Ja Aree Seafood”のチムジュム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.11(火) タイ日記(9日目)
夜中に一度、汗だくになり、パジャマを脱いで裸になった記憶がある。きのうの就寝時に低速に設定した扇風機の風を、心地よく受ける。暑さは感じない。感じるのは暖かさのみだ。時刻は3時36分。「なんだ、冷房のあるホテルより長く寝られたじゃねぇか」と、自慢できることでもないのに、ひとり得意になる。
部屋に冷蔵庫はないから、卓上に置いた1.5リットルのペットボトルから生ぬるい水を飲む。きのうの日記は予想外に長くなり、書く時間もそれだけ長くかかった。暑さを感じてベランダのへの戸を開くと、外の方が気温は低い。よってその戸は開いたまま、廊下へ出るための扉もゴミ箱と革靴で挟んで開いたままにする。すると部屋には風が通り、存外に居心地が良くなった。
そのようなことをするうち、きのうの午後、膝をぶつけて怪我をしたベッドの鉄製の角に、またまた膝をぶつけてしまう。「うっ、またっ」と小さく叫びつつ膝に目を遣る。きのう傷を覆ったバンドエイドの、ちょうど傷の部分が破けて血も見えている。よってその穴の開いたバンドエイドを剥がし、アルコールは持参していなかったからイソジンで消毒し、新しいバンドエイドを貼る。そしてベッドの枠のその部分は「二度あることは三度ある」が起きないよう、スーツケースから取り出したエアキャップをあてがい、布テープで固定した。
腹が減っても食堂は8時30分からしか開かない。5階の部屋から78段の階段を降り、食堂には8時40分に入った。
きのうフロントにいたオバサンが、今朝はお運びをしている。そのオバサンにメニュを持って来てもらう。価格は意外や高く感じたものの、ひととおりのものを注文する。
フォークはオムレツ用とフルーツ用の2種類が置かれた。コーヒーは少ないと悲しいからポットで頼んだ。オムレツは、これまで見たことのない、平たい半月型をしていた。ベーコンはカリカリに焼くスタイル。トーストは1980年代のラッフルズホテルのそれを思い出させる焼き加減。ジャムは自家製。果物は「小」を選んでも、銀座や日本橋のフルーツパーラーの常識からすれば、信じがたいほどの量があった。
朝食の価格は、コーヒーが90バーツ、トーストが50バーツ、オムレツが50バーツ、4枚のベーコンが70バーツ、フルーツが80バーツの、計340バーツだった。チップは釣銭から20バーツをテーブルに残した。
朝の食堂にはフランス語を話すタイ人のオジサン、フランス人らしい女の人、それに白人の男の人の3名のみが客としていた。明日の朝食は、もうすこし軽くしても良いだろう。
11時15分にプールサイドに降りる。人は誰もいない。寝椅子と日除けを備えたプールサイドで本を読む、ということは僕が南の国でもっとも楽しみにしていることだ。それが旅の9日目にしてようやく実現する。ところでこのプールは、ロビーから庭を歩んで右側の水深は、呆気にとられるほど浅い。ところが築山のある逆の側は、恐らく2メートル以上の深さがある。子供を遊ばせるときには要注意である。また、プールサイドにはひどく荒れ果てたところもあるので、足元には注意をしたい。寝椅子では2時間ほども本が読めた。
14時15分に部屋を出る。soi2からスクムヴィットの大通りまでは、きのうの計測によれば徒歩で8分。距離は700メートルほどだろうか。とすれば最寄りのプルンチット駅までは1キロメートル。炎天下、よそ行きのシャツを着て、手にはラオカーオのニューボトルを納めたトートバッグを提げている。歩くにはいささか辛い。しばらく行くとモタサイの運転手が昼寝をしていた。よって声をかけ、プルンチットの駅まで行ってもらう。運転手の言い値は40バーツ。「高けぇな」と思ったけれど、20バーツ札2枚を手渡す。
プルンチットからサパーンタクシンまでは、サイアムで乗り換え。分かったつもりで来た車両に乗り込み、ふた駅先のアソークで、逆に乗ってしまったことに気づく。すぐに降りて向かい側のプラットフォームへ移り、サパーンタクシンには14時59分に着いた、。舟はサトーンの桟橋から15時10分の発。
コモトリケー君の部屋でしばし休んでから、川沿いの料理屋へ行く。河口までは数十キロメートルはあるだろうけれど、潮の香りが運ばれてくる。会食をするうち日はすっかり落ち、対岸のホテル、上がり下りする舟、また料理屋のそれぞれの灯火も、いつの間にか賑やかになった。
食後はコモトリ君の家に戻って小休止の後、同席してくださった方のクルマでホテルまで送っていただく。時刻は21時をこし回ったころと記憶をしている。
朝飯 “THE ATLANTA HOTEL”の食堂”AH!”のトースト、コーヒー、オムレツとベーコン、フルーツの盛り合わせ(小)
晩飯 “YO YOK RESTAURANT”のヤムウンセンプラムック、パットクンピックア、プーパッポンカリー、トードマンクン、プラーガポンヌンマナオ、カオパット、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.10(月) タイ日記(8日目)
きのうと変わらず0時と1時のあいだに目を覚ます。起きてきのうの日記を書いたり、疲れてベッドに戻ったりを繰り返す。バンコクに入って日記の面白い、というか悪くない推敲、校正の方法を身につけた。机のコンピュータで完成させ、公開した日記をベッドに仰向けになってiPhoneで読むのだ。旅の最中の日記は長くなるから、変換違いや書き直しによる文字の削り忘れも見逃しがちだ。書く道具と読む道具を変えることにより文章への客観性が増す、ということが今回の発見である。
5時を過ぎるころに荷作りを始め、数十分かけてそれを終わらせる。外が明るくなるころ外へ出て、どうしても思い出せない、きのうの夕食の店の名を確かめるため、スラウォン通りを行く。パッポン2の入口にあるマリファナ屋の名が洒落ている。持ち主はレハールのオペラのファンなのかも知れない。
部屋に戻ってきのうの夕食の場所の名を日記に入れ「公開」ボタンをクリックする。シャワーを浴びて、上は糊の効いた長袖のシャツ、下は紺色のパンツに黒い靴下。引き出しに温存したコードバンのベルトを締め、革靴を履く。その姿を鏡に映して「正に、馬子にも衣装だ」と感じる。
「しくじったらシャレにならない」ということが、旅の最中には次々と、まるでハードルのように前から近づいてくる。今日の午前に控えるそれは、この10日間でも、もっとも大きなものだ。朝食は、思いがけないことで失敗する確率を限りなく減らすため、別棟の高級ホテル”The Rose Residence”の食堂”RUEN URAI”で摂る。
9時23分に外の通りでタクシーをつかまえる。先日とは異なって、今日の運転手は僕の行き先「サパーンタクシン」を一発で聞き取った。しかしその後がいけない。首都のタクシーの運転手は、家族や友人とスマートフォンで雑談を交わしつつ運転をする例が、僕が気づいた限りでは昨年から増えた。運転手のその声が、スマートフォンのマイクへのものなのか、それとも客である僕への話しかけなのかの判断がつきづらいのだ。「右折」ということばが聞こえたので「左折でしょ」と返したところ、それは僕へ向けてのものではなかった。
今日の運転手は先日の運転手よりも早く、チョノンシーの運河にかかるところで左折をした。その先の、BTSの高架が大きく右へ進路を変える真下の、サトーン通りとの交差点で渋滞に巻き込まれる。ここで時刻は9時30分。仕事は本職に任せることの好きな僕も「スラウォン通りをもうすこし先まで直進した方が良かったんじゃねぇか」と恨めしく感じる。
ようやく渋滞から抜け出して道は流れ始め、やがて立体交差が迫る。と、運転手は何を思ったか「タクシン橋は渡るか」と、左手を山なりに動かす身振りをした。
「メチャイ、チャルンクルン、リャオ、クワー」
「チャルンクルン、リャオ、クワー?」
「チャイ」
まったく慌てさせる運転手だ。チャルンクルン通りとの丁字路を右折し、BTSの高架をくぐる瞬間に今度は左折の指示。運転手はあわててハンドルを左に切る。霧雨が降っている。「パイ、ターイ、ソーイ」と僕は、覚えたばかりのタイ語で路地のどん詰まりまで行くよう言う。サトーンの船着き場に着いたのは9時47分。メーターは97バーツだったから100バーツ札を渡しておつりは無し。「遅れるわけには絶対にいかない」という用事のあるときには、首都では鉄道を使うべきだろう。
約3時間後の12時44分に、チェックアウトを済ませてふたつの荷物を預けておいたホテルに戻る。貴重品の入ったポーチをスーツケースからザックに移し、それを背に共用のトイレで手を洗う。
ここで余談ながら。東京は1964年の東京オリンピックを前にして、運河の上に高速道路を架けた。これにより各所で空が失われた。バンコクは大きな通りの上に高架鉄道を作った。そのことにより、やはり同じく各所で空が失われた。スラウォン通りの上には幸い、高架鉄道は敷かれなかった。そのことによりこの通りはいまだ、むかしの面影を留めている。
昼のスラウォン通りは西から東への車線が渋滞する。その渋滞の中をタクシーが近づいてくる。タイのバスやタクシーは手を挙げるのではなく、腕を45度ほど下に伸ばして停める。運転手が車内から助手席を示す。スーツケースはトランクルームではなく助手席に載せろ、ということなのだろう。即、それに従い、今度は後席のドアを開けてすばやく乗り込む。
「スクムヴィットソイ2」と行き先を告げる。運転手は「150バーツ」と、取りあえずは自分の希望を述べる。「ミーター、ナ」と答えると「ミーター、オー」と、運転手は逆らわずにメーターのスイッチを入れた。初乗りの料金は35バーツ。
ラマ四世通りに出たタクシーは、MRTのクロントイ駅の直前で左折。高速道路に沿った寂しい道からプルンチットセンターの敷地内へと右折する。「この運転手は道を知っている」と、ここにきて初めて安心をする。soi2のどん詰まりにあるホテルには13時20分に着いた。メーターは89バーツ。100バーツ札を手渡して釣銭は不要と伝える。
1952年、ドイツ人の薬学博士により作られたアトランタホテルは、宿泊客以外の入館を固く拒んでいる。宿泊客以外はロビーにも入れず、食堂で食事をすることもできない。ただし犬、また猫は自由に出入りができる。天井で扇風機の回る古風なロビーはとても美しい。チェックインには、大時代的な、長たらしい文字の記入が要求される。フロントの照明は、文字を書くための充分な明るさを提供していないから、近視、乱視、老眼の人は苦労をするだろう。各種の支払いはすべて、その都度、現金により行われる。宿泊料は、これから僕が滞在しようとしている、冷房を備えないもっとも安い部屋で税込900バーツ。3泊分の2,700バーツはもちろん現金で支払った。
僕はこのホテルにベルボーイのいないことを恐れた。エレベータが無いのだ。しかしそれは杞憂だった。ベルボーイはシサッチャーナーライの窯跡から拾って来た陶片、および3本のラオカーオを入れたスーツケースを肩に担ぎ、最上階である5階まで上げてくれた。ちなみにロビーから5階までの階段は78段。ベルボーイには50バーツをチップとして渡した。
部屋は5メートル四方くらいの広さで、ベランダが付いている。シャワー室の壁はタイルが新しく、とても清潔だ。トイレの便器と水タンクは古風な意匠を保っている。貴重品入れは鉄製の机に溶接した鉄の箱で、鍵は客の持参による南京錠で閉める。錠を失くしたらパスポートもお金も取り出すことはできず、帰国もままならなくなるから、錠の隠し場所場所はノートに覚え書きした。
ドアの外側の取っ手に提げる札の”DO NOT DISTURB ME”には”THIS MORNING”と続けられている。恐らくは「午後まで寝ているなどの怠惰なことはしないように」とのことなのだろう。廊下の非常口の表示を辿っていくと、屋上に出るための木造のハシゴがあった。
部屋の中は蒸し暑く、扇風機を3段階の最高速で回しても、からだは汗まみれのままだ。シャワーを浴びると一時は涼しくなるものの、すぐにまた汗が吹き出す。「そんなホテルになぜ泊まる」と問われれば「仕事と勉強を除く挑戦、および痩せ我慢が好きだから」と僕は答えるだろう。
きのうまでの洗濯ものを、このホテルにはランドリーバッグなど備えないから、今朝までのホテルのそれに入れてフロントまで持っていく。先ほどチェックインの手続きをしてくれた感じの良いオバチャンは中味をひとつずつ数えつつ計算をしれくれた。A4の伝票を確かめると、初日からきのうまで首に巻いていたスカーフの代金を入れ忘れている。それを指摘するとオバチャンは”Already”と笑って、その分を伝票に新たに記入することはしなかった。洗濯代の240バーツも現金払い。「いつもニコニコ現金払い」は、むしろ気持ちが良い。
部屋とロビーの往復には計156段の階段の上り下りを必要とするから、複数の用事は頭の中で入念に組み立てる必要がある。「あ、忘れた」と、ふたたび部屋まで戻れば、またまた計156段の上り下りが発生するからだ。
その階段を降りて17時07分に外へ出る。soi2を北に歩いてスクムヴィットの大通りまでは8分がかかった。バンコクには。このような極端に細長い袋小路がそれこそ無数にある。袋小路だけに、となりの小路への抜け道は無いことが多い。
スクムヴィット通りの北側、soi1ちかくにある、屋根だけの、まるで倉庫のように巨大なメシ屋に入って、先ずはソーダとバケツの氷を注文する。目の前には大通りの喧噪がある。日本の夏の夕刻とおなじほどの気温が心地よい。
日本語なら春雨と海の幸のサラダとでもなる品は、きのうの店のそれの数倍の量があった。浅蜊の香辛料炒めがあるか否かをオニーチャンに問うと、オニーチャンは分厚いメニュ表を開き、作れる旨を示した。今夜の代金は492バーツだった。おつりのうち小銭の8バーツはその場に残した。
先ほどのオニーチャンにセブンイレブンの場所を問うと、何とそれはメシ屋の隣にあった。そこで1.5リットルの水を14バーツで買う。そしてそれを小脇に抱えてホテルまでの道を辿る。
78段の階段を上り、部屋には18時43分に戻った。シャワーを浴び、パジャマを着る。それほど酔ってはいないため、ベッドに仰向けになり、iPhoneで調べごとをする。天井の扇風機の回転速度は最低にしておく。就寝した時間については、特に覚えていない。
朝飯 “RUEN URAI”の朝食其の一、其の二、其の三、其の四
晩飯 “Ja Aree Seafood”のヤムウンセンタレー、ホイラーイパットナムプリックパオ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.9(日) タイ日記(7日目)
目を覚ましたのは0時と1時のあいだ。二度寝ができて、2時間ほど後に起床する。
朝、ホテルの周辺を1キロメートルほど散策をする。ここ数年の政策に、日曜日ということも重なっているのだろうか、街の屋台は極端に少ない。タイ特有の、発酵したたけのこを炒めている屋台がひとけのないタニヤ通りに出ていた。よってここでごはんにおかず二品を載せてもらい持ち帰る。ドアを閉めた瞬間から、部屋の中にたけのこの発酵臭が満ちる。
「毎日がそうじゃねぇか」と言われればその通りなのだが、今日は更にすべきことはない。南の国への旅でもっとも楽しみにしているプールサイドでの本読みは、おとといの日記に書いたような理由でできない。外へ出てマッサージ屋を探し、結局は外れのない「有馬温泉」で2時間のオイルマッサージ、更に耳掃除もしてもらう。1,750バーツの請求は意外に高いと感じた。双方の施術をしてくれたオネーサンには半端だったが240バーツのチップ。
午後は、このところ延伸が著しい首都の鉄道の中でも、地下鉄のMRTに最寄り駅のサムヤーンから乗る。チャオプラヤ川を渡った先の、車内のアナウンスではターパーと聞こえるタープラーで乗り換え、僕の好きなラオカーオの銘柄とおなじバンギカーンで降りる。駅の位置は、着く前の車窓からの景色で何となくつかめた。
大きな通りを西に歩く。ピンクラオの橋に続く、これまた大きな通りに出たところで左に折れる。何を買うわけでもないものの、パタデパートに入る。そしてフードコート以外は何十年も前から変わっていないのではないか、という雰囲気の店内を巡回する。
橋を目指して更に歩く。夕刻まではいささか間のある時間から、通りに机と椅子を並べる店がある。「こんなところで食べてぇな」と思っても、ここで酔っては帰りが心配だ。
チャオプラヤ川の堤防が見えてくる。覚えのある桟橋に降りようとすると、そこは工事中だった。木陰で涼んでいるようにも、またホームレスにもみえる裸足のオジサンが「そっちじゃないよ、向こうだよ」と身振りで教えてくれる。コンクリート製の大きな階段の下でオジサンを振り向くと、僕を目で追っていたオジサンは「もっと向こう」と、また教えてくれた。
新しい桟橋は、これまでの場所から100メートルほども下流にあった。桟橋の脇にはムーガタ屋ができていた。「こんなところで食べてぇな」と思っても、ムーガタはひとりで食べるものではないような気がする。
切符売り場にオネーサンがいる。サパーンタクシン直下の船着場サトーンまでの料金は30バーツ。オネーサンは”fifteen”と言うものの、よく聞き取れない。”fifty?”を訊き返すと、今度はオネーサンはOne Five”と言葉を替えてくれたから胸をなでおろす。現在時刻は16時57分。“fifty”では1時間ちかくも待たなくてはならない。
17時13分に、上流からオレンジ旗の舟が近づいてくる。それに乗り込もうとして、オネーサンに止められる。17時16分に下流から大型の舟が近づいてくる。横腹には”MINE SMART FERRY”と大きく書かれている。下流から来たため上流へ向かうものとばかり考えていると、オネーサンはそれに乗れという。
大型船は、屋根だけの吹きさらしではなく、窓には偏光グラスが嵌め殺しになっているから、乗っていても、面白くも何ともない。ピンクラオからはワンラン、ワットアルン、マリーンデパートメント前、ラチャウォン、「パタヤーン」と聞こえるサイアムパラゴン前を経由して、サトーンには17時45分に着いた。
川沿いの高級ホテル”Shangri-La”の裏を歩く。かつては僕もよく飲み食いをした、屋台で賑わっていた場所は”MA! BANGRAK BANGKOK STREET FOOD MARKET”と名づけられてすっかり綺麗になり、しかし人の姿は疎らだった。数年前にかかったことのある床屋も建物の改装に伴って、見違えるほど明るくなっていた。
サパーンタクシンからBTSに乗ったときには、チョノンシーで降りて散策をしようとなかば決めていた。しかし明日はホテルを変わる。荷作りは早朝にするつもりでいる。ということは、夜は遅くならない方が良い。そう考えて、チョノンシーでは降りずにサラデーンまで乗る。
「こんなこともあるだろう」と、本とラオカーオの小瓶は、ホテルを出るとき背中のザックに入れておいた。そういう次第にて、目についた店で夕食を摂り、19時30分に部屋に戻る。
腑に落ちなかったのは、夕食代のこと。伝票には520バーツの数字があった。よって500バーツ札1枚と20バーツ札1枚を「ちょうどで悪いね」とオカミに手渡した。ところがオカミは20バーツ4枚を釣りとして持って来た。何やら分からず、その80バーツはチップとして進呈した。ラオカーオは、160ccまでは飲んでいなかったと思う。
朝飯 屋台の弁当
晩飯 “HAPPY BEER GARDEN”のヤムウンセンタレー、オースワン、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.8(土) タイ日記(6日目)
今朝の食事は趣向を変えて、ホテルで摂ってみることにする。プールサイドにはランナー様式の木造建築があって、朝食はそこで供されているはずだ。ところが近づくと、中に人はいない。フロントに戻って確認をする。「外へ出て右へおまわりください」と、オネーサンは教えてくれた。
そこにはおなじ系列の、しかし僕のいる棟より遥かに高級なザローズレジデンスがあった。1960年代はじめに造られたらしい建物は、コロニアル調である。その玄関の重い扉を押す。右奥に食堂らしい入口が見える。歩を進めると、とても若くて綺麗なオネーサンが「屋内がよろしいですか、それとも屋外がよろしいですか」と笑顔を向けた。「外がいいですね」と答えて食堂を横切り、戸を引いて庭に出る。そこには名を知らない大木に混じってリラワディが枝を広げていた。
寛いで食事をする僕の足元に複数の猫が来る。タイのコンビニエンスストアの前には、客が出入りをするたび外へ流れ出す涼風を求めてか、犬の寝ていることが多い。それを追い払う人はいない。僕は一向に平気だが、犬嫌い、猫嫌いはタイにはいないのだろうか。まるで五代将軍の時代の江戸のようだ。
昼から夜にかけてはバンコクに住む同級生コモトリケー君と過ごすべく、9時30分に部屋を出る。スラウォン通りの歩道には、たくさんの屋台が並んでいる。そこからの香草やココナルミルクの香りを胸一杯に吸い込みつつ西へ歩く。
時にはタクシーも使おうと、サラデーンの方から近づいて来たタクシーを停める。時刻は9時38分。「サパーンタクシンまで行きたい」という僕の言葉を運転手は聞き取れない。4度、5度と繰り返して「サパーンタクシン」と運転手は確かめる。僕は「そうです」と答えて焦燥から解き放たれる。
10年ほど前に「サパーンタクシンのタクシンと、追放された政治家のタクシンの発音は、おなじですか」とタイ人に訊いてみた。「そりゃぁ、全然ちがうでしょう、タークシンとタクシンです」と相手は発音の違いを聞かせてくれたものの、僕にはよく分からなかった。「タイ文字を覚えると発音のしかたも分かる」とコモトリ君は言う。しかし今からタイの文字を覚えることは、僕には荷が重い。
タクシーの料金は51バーツだった。硬貨は嵩張るから財布には入れていない。50バーツ札と20バーツ札を出すと、運転手は「これでいいね」という顔をする。チップとしては多すぎると感じたものの、そのままタクシーを降りる。スラウォン通りからは9分の行程だった。
コモトリ君のコンドミニアムの舟は10時10分に来ると、知らされていた。いくつものホテルの舟に混じって10時12分に来た舟は、タイ文字の旗を立てているのみだ。一時、舟を係留するため桟橋に降りたオニーチャンに、コンドミニアムの名を伝えてみる。オニーチャンは2度目に頷いたから「まぁ、大丈夫だろう」と、舟に乗り込む。ただしコンドミニアムが間近になるまでは、少々の不安と共に波に揺られていた。
昼から夜にかけて僕と過ごすはずだったコモトリ君には急用ができたとのことで、昼食の後は右と左に分かれた。僕は街のマッサージ屋で時間をつぶすこととして、どこにでもあるようなマッサージ屋の戸を引く。からだをへし曲げ、関節をやたらと鳴らすタイマッサージは、月にいちどかかる「伊豆痛みの専門整体院」のワタナベ先生に禁じられている。2時間のオイルマッサージを頼むと、真っ黒でしわくちゃのオバーサンは2階へ行くよう促した。
マッサージが終わるころ「どこから来たの」と、担当のオネーサンに訊かれる。「このちかくから」と答えると「ニワトリ?」と、オネーサン不審な表情をする。「ちかく」はタイ語は「カイカイ」。オネーサンはそれを、鶏を意味する「ガイ」と聞き間違えたのだ。まったく難儀なことである。
コモトリ君とは15時45分に部屋で合流をして、夕刻よりタイの家庭料理をご馳走になる。そうしてコンドミニアム19時発の舟でサパーンタクシンに戻る。そこからシーロムまでは高架鉄道BTSを使う。シーロム通りからスラウォン通りまでは盛り場のタニヤを歩く。
部屋に戻ったのは19時45分。冷蔵庫には、きのうのゼロ本から、今日は3本のミネラルウォーターが納められていた。シャワーを浴び、水を飲み、パジャマを着て20時すぎに就寝する。
朝飯 “RUEN URAI”のトーストとコーヒー、サラダ、エッグベネディクト
昼飯 「ミットフォーマーチャイ」のカオソイ(小)
晩飯 市販のシューマイ、コモトリケー君手作りのゲーンチューダオフー、同パットガパオムーサップ、メシ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)、マンクット