2025.3.11(火) 櫛の歯
先月15日、amazonに古書を出品している店に、五百旗頭真による「米国の日本占領政策:戦後日本の設計図」の上下巻を注文した。理由は日本のその時代に興味のあること、もうひとつは昨年6月にサワンカロークで読み始め、同9月にチェンライで読み終えたドナルド・キーン編「昨日の戦地から」の、五百旗頭真による解説がいかにも秀逸だったことによる。ところがこの上下本がいつになっても届かない。流石に不安になって調べてみた。
受注した旨はamazonからメールで届いている。その一部は以下。
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注文番号: 250-1705505-8869440
注文日:2025/02/15
お届け予定日:火曜日,02/18-木曜日,02/20
注文合計:\4,257
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この注文番号をamazonの注文履歴で検索すると「検索結果が見つかりませんでした。 別の検索を行ってください。商品名、注文番号、住所、または受取人で検索できます」と案内が出たため、次は書名で検索するも、結果は変わらなかった。
「まさか、ゼニだけ取られたわけじゃねぇだろうな」と、今度はクレジットカードの使用履歴を調べてみた。当該の日に当該の金額は記録されていなかった。ということは、出品者が在庫切れの商品をamazonから消さないまま放置し、しかし僕による「買い」が発生したため、僕に連絡をしないまま受注を取り消した、ということなのだろうか。「ひとことくらい、説明が欲しいわな」である。
今日は別途、今月5日の日記に書いた、乱丁落丁のあったドナルド・キーン著「続百代の過客」の上巻をウェブ上に探し、メルカリにあった品を注文した。これで欠けた櫛の歯、つまり笹森儀助の「南島探検」と森鴎外の「航西日記」を読むことができる。「めでたし」である。
朝飯 菠薐草とウインナーソーセージのソテーを添えた目玉焼き、納豆、揚げ湯波の甘辛煮、ほぐし塩鮭、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、若布と玉葱の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 「やまだ宴楽」のあれや、これや、それや、他あれこれ、「三岳酒造」の芋焼酎「三岳」(お湯割り)
2025.3.10(月) 畏敬、尊敬
上澤梅太郎商店は毎年3月に健康診断を実施している。今年のその日は3月4日で、僕はタイにいた。そういう次第にて、僕のみ別途、頼みつけの病院にひとりで行く段取りとなっていた。受付は本日10時。きのうGoogleマップで調べたところによれば、その病院までの所要時間は34分と出た。しかし大事を取って、9時2分にホンダフィットで会社を出る。
当該の施設には9時38分に着いた。受付、採尿、体位測定、医師による問診、聴力検査、視力検査、心電図、採血と進んでひととおりが完了した。体位測定で僕の胴回りを測った係が「我が目を疑う」という感じで計り直したわけは、体重が変わらないにもかかわらず、胴回りのみ昨年の80センチメートルから今年は73センチメートルと、信じられないほど細くなっていたことによる。
ことし1月27日に原宿のジーパン屋へ行った。ウエスト32インチから試着をはじめて「まだ大きい」、「まだゆるい」とサイズを落としていき、28インチで落着したと感じた僕に対して「穿いているうちに緩みますので、27インチでもよろしいかと」と店の人は言った。しかしウェスト27インチといえば、僕の16歳のときのサイズである。さすがに「いや、28インチで大丈夫でしょう」と、そのサイズで決めた経緯があった。
体重は変わらず、しかし胴回りが7センチメートルも短くなっかとは、いかなる理由によるものか。脂肪が落ちた、ということはあるかも知れない。それよりも考えられるのは、筋肉の減少である。
ホテルのジムで運動する人を目にするたび「よくできるなー」と、畏敬、尊敬の気持ちが湧く。僕にはとても無理な行いである。買ったばかりのジーンズの、ゆるくならないことを祈るばかりだ。
昼飯 にゅうめん
晩飯 わさび菜のおひたし、厚揚げ豆腐と小松菜と椎茸の炊き合わせ、鰯の梅煮、薩摩芋の蜜煮、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、麦焼酎「こいむぎやわらか」(お湯割り)
2025.3.9(日) 5月の動向
昨秋のタイ行きの際に余らせた現地通貨は2,321バーツ。それに、先月25日にチェンライで邦貨7万円を両替して得た15,519バーツを加えれば17,840バーツ。今回、帰国して数えた残金は、どこかに仕舞い忘れたか、探しても見つからない硬貨数十バーツを除いて6,700バーツ。つまり使ったお金は11,140バーツ。これを全日程の11日で割ると、1日あたりの平均は1,012バーツになる。
タイにいるあいだの小遣い銭を1日あたり1,000バーツに収めるというゲームをしていたわけではないものの、惜しいところだった。しかし今回、買いすぎたラオカーオはコモトリケー君の家に預けてある。5月に控える訪タイ時には、その分が浮く。しかしてまた、5月は北の最果てのチェンライではなく、首都に居続ける。首都の物価は田舎にくらべてかなり高い。1日あたりの出費を1,000バーツ以下に納めることは、100パーセントの確率で無理だろう。
68歳になっても旅先での節約に興味があるとは明らかに、若いころバックパッカーをしていた、その感覚がいまだ残っているためだ。
アメリカは利下げを見送っている。日本の銀行は、日本銀行がことし数回の利上げを目論んでいると予想をしている。5月の円とタイバーツの関係は、どうなっているだろう。
朝飯 焼きおむすび、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、菠薐草の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 2種の茸と水菜と厚揚げ豆腐と豚薄切り肉の鍋、麦焼酎「こいむぎやわらか」(お湯割り)
2025.3.8(土) 帰国
00:08 Boeing777-300ER(77B)を機材とするTG682は、定刻に53分も遅れてスワンナプーム国際空港を離陸。席に着いてからしばらくはうつらうつらしていたものの、離陸と同時に目が冴える。
03:10 眠れたのか眠れなかったのか判然としない状態のまま覚醒していく。機は沖縄本島の上空に差しかかろうとしている。
03:38 朝食の供される旨のアナウンスと同時に機内が明るくなる。
03:40 予定到着時刻は日本時間で7時9分との案内がディスプレイに出る。
04:14 トイレにあったタイ航空の歯磨きセットで歯を磨く。
04:18 「羽田空港まで50分」のアナウンスが流れる。
04:58 TG682は定刻に3分おくれて日本時間06:58に羽田空港に着陸。以降の時間表記は日本時間とする。
07:20 入国審査場を通過。
07:45 回転台から荷物が出てくる。
07:48 税関を通過。
07:56 京浜急行品川方面高砂行きの急行が羽田空港第三ターミナルを発車。
08:41 その車両が都営浅草線の浅草に着。
巷間声高に叫ばれていること、つまり諸外国に比べて日本が貧しくなったとは、僕は思わない。しかし都営浅草線浅草駅の薄ら寒い景色はいったい、どうだ。地上に上がるエレベータは内壁の塗装がすり減って、惨めったらしいこの上ない。浅草という大観光地のひとつの玄関口であれば、もうすこしどうにかならないか、とは思う。
駒形橋の西詰めから吾妻橋の西詰めを目指して江戸通りを北上する。スーツケースを曳く手が寒さにかじかんでくる。東武日光線の特急券を買うための「東武ネット会員サービス」は2月に廃止になったときのう、バンコクで知った。新しいシステムには、そのときは登録が叶わず、特急券は確保できていない。
東武浅草駅で券売機の前に行くと、幸いにも09:08発の特急に空席があった。座席指定券を兼ねる特急券は、僕を最後として売り切れた。
下今市の駅前には客待ちのタクシーがあったため、これを使って11時すぎに帰宅をする。タイのタクシーの運転手は大抵、スーツケースの、トランクルームへの上げ下ろしをしてくれる。日本のタクシー運転手がそれをしないのは、日本にタクシーが導入されたときからの習慣だろうか。
4階に上がってスーツケースを開き、中味を出して仕分けをする。それから事務室へ降りて、通常の仕事に就く。
朝飯 “TG682″の機内食
昼飯 にゅうめん
晩飯 若布と「なめこのたまり炊」の酢の物、厚揚げ豆腐と小松菜の炊き合わせ、鶏つくね団子、鯛の煮付け、麦焼酎「こいむぎやわらか」(お湯割り)
2025.3.7(金) タイ日記(11日目)
目を覚ましたのは2時10分。幸いにも二度寝ができて、次に気づくと5時をまわったところだった。外はいまだ暗い。「ホーイッ、ホーイッ」と、いつもの鳥が啼いている。チェンライの川沿いのホテルで毎朝感じた疲れは幸い、今朝は無い。起きて、きのうチェンライからの機内で秀丸に書いたおとといの日記の下書きをWordPressに写す。
朝食の会場には8時に降りた。部屋に戻っておとといの日記を9時40分まで書き継ぎ、外へ出る。トンローからプロンポンまではBTSでひと駅。駅前のワットポーマッサージは10時に開く。ここで足の角質削りと足マッサージを組み合わせた60分の施術を受けつつ「続百代の過客」の上巻を、落丁部分と森鴎外の「独逸日記」を除いて読み終える。即、タイのセブンイレブンのエコバッグから「続百代の過客」の下巻を取り出し、これを読み始める。施術の代金は460バーツ。オバサンには50バーツのチップ。
マッサージ屋からはプロンポンの駅を使ってスクムヴィット通りを横断し、向かい側の高級ショッピングモール「エンポリアム」で、あれやこれや見る。それからBTSでトンローに引き返し、なじみの食堂にて昼食を摂る。
ホテルは安価だから、1泊しかしないにもかかわらず、午後にゆっくり過ごすべく、予約は2泊にしておいた。部屋に戻って先ずはシャワーを浴び、バスローブを着る。僕には家でも電車の中でも、いつまでもコンピュータにかじりついている悪癖がある。しかし今日は帰国日であり、そのあたりには重々、気をつける必要がある。よって先ずは荷作りをする。
土産の「日光味噌粒みそ」をコモトリ君に手渡し、同時に買いすぎた酒類を預けたため、社員への土産やホテルで飲むためセブンイレブンで買った紅茶のティーバッグなどが増えたにもかかわらず、スーツケースの空間には余裕ができた。その面倒な作業を終えた後にはふたたびコンピュータを開き、今日の日記のここまでを書く。
さて、きのうの朝は迎えのタクシーがホテルに来ず、気を揉んだ。そして、そのようなときの危機管理にはかなり熱心な、取引先の社長のことを思い出した。その社長を見習ってフロントに降り、南部の生まれなのか産毛による髭を鼻の下に伸ばしたままの、しっかりしたオネーサンに空港までのクルマを頼む。高速道路の通行料金を含んで500バーツは安くないものの、ここでも取引先の社長を思い出して、鷹揚に頷く。
午後の時間はいまだ、たっぷりとある。しかしプールサイドに降りれば泳がなくても汗で水着が濡れる。そう考えて、以降は部屋で本を読む。窓の外の、数百坪ほどの空き地には、すこし前までは南国の木々があった。しかし今は整地をされて、土がむき出しになっている。ここに大きな建物が建てば、このホテルには一切、日が差さなくなるだろう。
天気予報は朝から40パーセントの降水確率を伝えていた。その雨が実際に降りはじめたのは、18時もちかくなるころだった。ホテルの、外の通りにもっとも近いところにいる駐車場係に傘を借りて、トンローの大通りを目指す。酔いすぎることを避けるため、エコバッグにラオカーオは持たない。
食事を終えて19時43分にホテルに戻り、部屋の鍵を開けようとして、しかしカードキーをかざしても緑の灯りは点かない。取っ手を動かしてもビクともしない。多分、フロント係がカードキーの有効性を切ってしまったのだろう。
部屋のある4階からエレベータで1階まで降りる。そして雨の中をメイン棟のフロントまで歩き、事情を説明してカードキーを復活させてもらう。そして雨の中を引き返して、ふたたび4階へ上がる。
復活させたはずのカードキーでは、またもや部屋の鍵は解除されなかった。即、ロビーのフロントへきびすを返して「まだ開けられない。急いで欲しい。当方はこれから空港へ行かなくてはならない」と、口調を強くしてみる。フロントのオニーチャンはカードのマスターキーを、ちかくにいた何係か分からない男の人に手渡した。その男の人と共に、またまた部屋の前へ。しかしそのマスターキーを以てしても、なお、部屋の鍵は開かない。男の人はその場を慌てて去った。
5分ほどすると、腰に大量の、しかし今度はカードキーではなく金属製の鍵を提げた施設係が来た。係はドアの、カードをかざす部分の下の、丸いフタを専用の器具でずらした。そして現れた穴に金属製の鍵を差し込んで回した。ドアはようよう、開いた。時刻は19時52分。施設係は詫びることなく無言で去った。まぁ、タイでは良くあることだ。
大急ぎでシャワーを浴び、それまでのTシャツから機内用の、すこし分厚いシャツに着替える。そしてバックパックを背負い、スーツケースを曳いてロビーに降りる。20時15分に予約をしたクルマの運転手は、既にして待っていた。施設係を大急ぎで呼んできた男の人が、僕のスーツケースをトヨタのSUVのトランクルームに入れる。この人には40バーツのチップ。
20:08 安心を象徴するような、いかにも頑丈そうなトヨタ車がホテルを出る。
20:19 センセーブ運河を渡る橋の上で少々の渋滞。
20:35 フワマークから高速道路”Si Rat Expressway”に上がる。
20:57 スワンナプーム国際空港に着。運転手には40バーツのチップ。
21:05 ボーディンバスとバゲージタグの双方が出力される機械でチェックインを完了。
21:12 バゲージタグを乗客みずからがハンドスキャナーで読み込ませて荷物預けを完了。
21:21 保安検査場を通過。
21:24 顔認証システムにて出国審査場を通過。
薬を飲むための水が欲しい。幸い、僕の持つプライオリティカードでも入れるミラクルラウンジがサテライトターミナルにもあったため、エスカレータを上がって受付にそのカードとボーディングパス、およびパスポートを出す。係のオニーチャンは会員資格を示すQRコードを見せてくれという。実は僕は、この会員登録にいつも失敗をして、スマートフォンにQRコードは出せないのだ。即、諦めてエスカレータを下る。
売店で売っているペットボトルの水は70バーツ。街のセブンイレブンなら15バーツで買えるミネラルウォーターに70バーツは出したくない。このあたりの経済観念については自分でも不思議に思いながら、どうにもならない。今回の旅で使ったチップの合計は1,365バーツ。しかし空港の、市中の数倍もする水は、意地でも買いたくないのだ。
22:12 S105番ゲートに達する。
23:05 搭乗開始。
23:15 63Cの席の頭上にバックパックを格納する。
23:17 タイ製の睡眠導入剤”G nite”を、室乗務員にもらったコップの水で飲む。その足でギャレーの脇のトイレに入り、使い捨てカイロを腰に貼る。
朝飯 “La Petite Salil Sukhumvit Thonglor1″の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「東明」のバミーヘン
晩飯 “55 Pochana”のクンオップウンセン、カオパックン、シンハビール
2025.3.6(木) タイ日記(10日目)
最初に目を覚ましたのは、いまだ3月5日の22時48分。以降は短い眠りを幾度も繰り返した感覚があって、遂に6時を迎える。現在の川沿いのホテルに移ってからは、どうも早起きができない。目は覚めても、ベッドから起き上がる気力が湧かない。しかし今日ばかりは、そうも言っていられない。いよいよこの街から去ろうとしているのだ。
ようよう起きて荷作りに取りかかる。ラオカーオの4本はどうやら買いすぎだったらしく、600ccと250ccのペットボトルに移した各々2本がいまだある。これと、バンコク在住の同級生コモトリケー君から頼まれた「日光みそ粒みそ」の1キログラムの袋がスーツケースの容量を圧迫する。結局のところ、3日の夜に買った社員への土産はザックへ収めることとした。
朝食の会場には7時20分に降りた。そして「臓物全種類と生玉子入り」のお粥2杯を食べて、7時43分に部屋へと引き上げる。チェックアウトは8時3分。Tシャツ2枚の洗濯代は160バーツだった。
さて今朝の迎えは4日の日記に書いたタクシーの運転手に「3月6日、8時30分」のメモを渡して頼んでおいた。そのことは今朝、僕のスーツケースを玄関前に運んだベルボーイにも伝えた。ところが8時35分になってもタクシーは現れない。エーという運転手にもらった電話番号を見せると、ベルボーイは親切にも自前と思われるスマートフォンに、その番号を打ち込んだ。流れたアナウンスは多分「その番号は現在、使われていません」というものではなかったか。彼は念のためもういちどその番号を呼び出して、またもやおなじアナウンスが流れた。
ベルボーイは今度はフロントのカウンターに近づき、おなじ番号を固定電話から呼び出すよう、オネーサンに伝えた。しかし結果は変わらない。「タイではよくあること」とは思うものの、フライトの時間は10時15分であり、気が気ではない。その僕の顔を見てベルボーイは自信たっぷりに「心配には及びません」と確約をした。
十数分が経って、トヨタ製のセダンがポーチに横付けをされる。これまでの経緯をベルボーイから聞かされていたらしいオバチャンの運転手は、クルマの中から僕に視線を送って呵々大笑をしている。「助かった」である。親切にしてくれたベルボーイには50バーツのチップ。
08:58 タイではよく目にするところの、個人のクルマを流用しているらしいタクシーがホテルを出る。渋滞を気にしてか、オバチャンは一旦、空港とは反対側にハンドルを切った。
09:14 タクシーがチェンライ国際空港に着。料金は250バーツ。オバチャンには50バーツのチップ。
09:25 チェックインの列に並ぶ。
09:37 保安検査場を通過して、そのまま隣接の2番ゲートに入る。
09:43 搭乗開始。
10:00 58Kの席に着く。
10:25 Airbus A320-200(320/3201)を機材とするTG131は、定刻に10分おくれてチェンライ国際空港を離陸。いくらも経たないうちに「バンコクまで1時間5分」とのアナウンスがある。
バンコクとチェンライのあいだを結ぶタイ航空機の機内は、前席と後席とのあいだが狭く、ひどく居心地が悪い。そのうえ前席の、中国語が表示されているスマートフォンを見ているオネーサンは、離陸前から背もたれを最大に倒して人の迷惑などお構いなしだ。その背もたれから引き出したテーブルにコンピュータを載せ、身をかがめるようにしてきのうの日記の下書きをする。
「バンコクまで1時間5分」なら着陸は11時30分のはずだ。しかし機は、スワンナプーム空港の北方で行ったり来たりを繰り返している。滑走路が混み合っているに違いない。快晴の日にもよくあることだが大気が不安定らしく、機は小刻みに、あるいは大きく上下する。飛行機は最も安全な移動手段と言われても、どうにも気持ちが悪い。
11:37 TG131は定刻より13分はやくスワンナプーム国際空港に無事着陸。
12:11 回転台から荷物が出てくる。
12:34 エアポートレイルリンクの車両が空港駅を発。
13:24 エアポートレイルリンクをパヤタイで高架鉄道BTSに乗り換えてトンロー着。
13:34 トンロー駅から徒歩にてホテル着。
ホテルは、トンローsoi10にあるビルの一室を会場とするバンコクMGに参加をするうち見つけたところだ。駅からちかく、清潔で、部屋は狭くてもバスタブを備え、お湯の出は良く、価格は安い。先ずはシャワーを浴び、スーツケースから必要なものを取り出す。今回のホテルは1軒目から今日の3軒目まですべてバスローブを備えていたから、持参したパジャマの出番は無かった。
冷房の効いた室内でしばしゆっくりしてからトンローの通りに出て、通り沿いのショッピングモールで少々の買い物をする。炎天下をしばらく歩いてホテルに戻り、ペットボトルに入れ替えたラオカーオ、チェンライのフードコートで不要にもかかわらず買う羽目になった”Sang Som”、そして土産の「日光味噌粒みそ」をIKEAのトートバッグに入れる。
トンローから乗ったBTSのスクムヴィット線をサイアムでシーロム線に乗り換え、サパーンタクシンで降りる。駅にほどちかいロビンソン百貨店の地下にあるスーパーマーケット”Tops”に入ったのは16時45分。
酒売り場の冷蔵庫の前まで来て、フランス産の白ワインに目を付ける。しかしタイでは、酒類は17時を過ぎなければ売買ができない。腕時計とiPhoneにて17時になったことを確かめ、支払いの列に並ぶ。オネーサンは自分の腕時計にチラリと目を遣ってからキャッシュレジスターの機械にあれこれの操作を加え、ボトルのバーコードを読み込んだ。代金は699バーツ。
コモトリケー君の住むコンドミニアムの舟は、17時10分にサトーンの桟橋に来る。現在の時間は17時5分。目と鼻の先とはいえ気が急く。僕の重い荷物のほとんどは酒、である。「バカみたい」である。
今は乾季だから、チャオプラヤ川の面は低い。よって浮き桟橋への通路は急な坂になっている。それを、足を滑らせないよう慎重に下る。目指す舟は上流から来てタクシン橋をくぐり、いくつかのホテルの送迎船が去ってから桟橋に着けられた。
前述のラオカーオと”Sang Som”は、次の訪タイ時までコモトリ君の家に預かってもらうこととする。そして買ったばかりのシャルドネ、およびコモトリ君のサントリーだかどこかの酒をIKEAのトートバッグに入れて外へ出る。
コモトリ君お勧めの食堂までは徒歩で20分ほどもかかった。タイ人なら決して歩かない距離である。料理はどれにもひと工夫が加えてあって美味かった。シャルドネのほとんどは、僕がひとりで飲んだ。
帰りは歩く気にも、また公共の交通機関を使う気にもならない。コモトリ君にGrabで呼んでもらったタクシーの運転手は小さなオバチャンだった。時刻は19時43分。目指すはトンローsoi1。
オバチャンは渋滞を避けるためだろう、チャオプラヤ川の西岸を南下し、やがて橋を渡った。いつの間にか眠りに落ちる。しばらくして目を覚ますとタクシーはナナの、スクムビットsoi13を南下している。なぜこんなところにいるのか。僕はオバチャンにiPhoneでGoogleマップを見せつつ「行きたいところはトンローのsoi1ですよ」と言う。タイ人らしく言い訳をするかと思われたオバチャンは笑って、スクムヴィット通りに出るとハンドルを左に切った。
ひどい渋滞は、アソークを過ぎると幾分か収まった。トンローつまりsoi55の手前のsoi53に差しかかったところで左に折れるよう言う。次の丁字路が近づいたところで右に折れるよう言う。ホテルに着いたのは20時45分。スマートフォンに示された255バーツをオバチャンは僕に見せる。僕は100バーツ札3枚をオバチャンに渡して「おつりは要りません」と言葉を添える。
部屋は夕刻の熱気を溜めて暑かった。よって冷房を最大の風量で回し、シャワーを浴び、今度は冷房の設定温度を26℃、風量は最小に落として就寝する。
朝飯 “THE RIVERIE BY KATATHANI”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 “TG131″の機内スナック
晩飯 “ROD TIEW”の蒸し鶏、ピータン豆腐、オースワン、麻婆豆腐、クンオップバミー、Pour Le Vin Avoir la Pêche Chardonnay
2025.3.5(水) タイ日記(9日目)
目は覚めているものの、起きて日記を書く気にはならない。そろそろ旅の疲れが出てきた、ということでもないだろう。ほとんどプールサイドで本を読むしかしていないのだ。
きのう8時ころの朝食会場は、とても混み合っていた。よって今日は8時30分にロビーからレストランへの階段を降りる。南の国で飲み食いをするとき、屋内と屋外に席があれば、僕は必ず屋外で摂る。いま自分は南の国にいる、ということをできるだけ感じたいのだ。
朝食から戻って先ずは会社の、お金の入ってくる銀行口座からお金の出ていく銀行口座に資金を移す。それからおもむろに、既にして完成しているおとといの日記を公開し、きのうの日記に取りかかる。すべてをし終えると11時が過ぎていた。
プールサイドの寝椅子に仰向けになれば、頭上からは鳥の声、脇を流れるコック川からは、上り下りのモーターボートの音が聞こえてくる。「続百代の過客」の上編を読むうち、気温はますます上がる。目映いコンクリートの上をプールサイドバーまで歩き、冷たいものを注文して寝椅子に戻る。レッドチェリーを口にするのは何年ぶりのことだろう。よほどの超弩級でない限り、名所旧跡景勝地の見物は時間がもったいなくてできない。僕にとってもっとも有効な時間の使い方は、なにもしないことに他ならない。
寝椅子のパラソルでは遮れないところまで太陽が動いてきたら、ランナー風のあずまやに移動をして、ここでまた本を読み続ける。笹森儀助による「南島探検」の石垣島の部分を良い調子で読みながら「あれっ」と感じて確かめると、現在の218ページの次のページは既にして読んだ203ページだった。「乱丁か」と忌々しく感じつつ先へとページを繰ってみれば、204ページから218ページまで進んだ次はいきなり235ページで、乱丁に加えて219ページから234ページまでが落丁している。その失われている部分は森鴎外の「航西日記」で、だから続くおなじ鴎外による「独逸日記」は、後先を考えれば、これをいま読むわけにはいかない。仕方なくその先の、夏目漱石による「漱石日記」へと進む。そして15時にあずまやを去る。
ホテルからマッサージ屋”PAI”までの道のりは、およそ2.4キロメートル。30分あればたどり着けるだろうと、15時30分に部屋を出る。例のごとくロビーから数百メートルほども庭を歩いて外へ出る。崖下の大きく曲がった道を歩きつつ、ときおり後ろを振り返る。すると遠くからトゥクトゥクの近づいてくるのが見えた。どうやら客は乗せていないらしい。
僕の脇で駐まったトゥクトゥクは、かなりの古さ、かなりの傷み具合だった。「ナイトバザールのちかくまで」と伝えて返ってきた運転手の返事は60バーツで、これは2013年ころの相場である。車体の古さを気にしての、弱気な言い値だったのだろうか。
“PAI”のガラス扉にはタイ語の張り紙があった。僕はタイ語は読めない。しかしそこに”6″の数字があるところからすれば「本日の営業は18時から」ということなのだろうか。仕方なく僕の感覚からすれば二線級の”CHAMONPOND”まで引き返し、1時間のフットマッサージを受ける。料金は200バーツ、オバサンには50バーツのチップ。
きのうに引き続いて、ツバメの群れ飛ぶ下を歩いてジェットヨット通りに出る。そして小体な洋食屋の外の席に着く。料理は英語では”Chiken Parmidiana”、中国語では「芝士炸鸡排」とメニュにあるもの、またワインは白と赤とがそれぞれ1種類ずつしか無かったから、オーストラリア産のシャルドネをボトルで注文する。
やがて届いたそれは、鶏のフライの上にトマトソースとチーズを載せ、オーブンで焼いた典型的な洋食で、僕の舌を悦ばせた。次にこの街に来るときには、この店にもかならず足を運ぶことにしよう。
ふたたび目抜きのパフォンヨーティン通りに戻り、客待ちのトゥクトゥクに声をかける。ホテルまでの料金は100バーツ。部屋に戻ってシャワーを浴び、多分、19時台に就寝する。
朝飯 “THE RIVERIE BY KATATHANI”の朝のブッフェ其の一、其の二
晩飯 “surf & turf”のチキンパルミジャーナ、JACOB’S CREEK CHARDONNEY 1984
2025.3.4(火) タイ日記(8日目)
「夜が明けると共に鳥の啼き始めるのは、日本でもタイでも変わらない」と、先週土曜日の日記に書いた。しかし今朝は4時30分に「ホーイッ、ホーイッ」という例の声を聞いた。いつか地元の人と一緒にいるときにこの声に気づいたら、鳥の名を訊いてみることにしよう。
それにしても今朝は疲れていて、これまでのように起きて日記を書く気がしない。空が明るくなり始めるころにようやくベッドを降りて、先ずは水、次は持参したインスタントのコンソメスープを飲む。
このホテルの庭で朝食を摂るのは2019年以来、6年ぶりのことだ。コック川の下流側には朝日が見え、鳥は啼き、8時から集中する客の数に対して人員が不足している以外は、言うことはない。部屋に戻ってしばしベッドで休憩。以降は部屋からの眺望を楽しみつつきのうの日記を書く。
プールサイドには11時すぎに降りた。そして寝椅子で本を読む。その上に広がるパラソルで太陽の直射を防げなくなってからは木造のあずまやに移動をして、ふたたび15時まで本を読む。対岸の一部が荒れ、倒木が水に浸かっているのは、昨秋の洪水によるものだろうか。
2017年までは街までの2キロメートル弱を苦にしなかった。それ以前は、往復の4キロメートル以上を平気でこなした。しかしこれが加齢というものだろうか、炎天下の歩行は、いまやまったくしたくない。しかし18時のシャトルバスを待つつもりもない。
意を決して帽子をかぶり、首には麻のタオルをマフラーのようにして外へ出る。ホテルの敷地から出て崖下の道を歩いているときに、向かい側からタクシーが来た。手を斜め下に差し出す合図をすると、窓を開けた運転手はUターンをしてくる旨を腕で示す。この街に流しのタクシーやトゥクトゥクはほとんど見ない。上手い具合に拾えたものだ。
この街にメータータクシーはいない。いや、いないかどうかは不明ながら、僕は遭遇したことがない。1980年代のバンコクのタクシーと同じく、料金はすべて相場、あるいは交渉によって決まる。マッサージ屋”PAI”までの料金は100バーツ。ふと思いついて、あさっての朝8時30分にホテルへ迎えに来るよう頼む。ちなみに運転手の名前はエー。電話番号も受け取った。
さてその”PAI”は今日は満員。よって2日目に訪ねた”CHAMONPOND”の扉を押す。足マッサージ1時間200バーツの料金は”PAI”と同じながら、タライのぬるま湯で足を洗ってくれる古風さ、また客質の点からも、できれば”PAI”を使いたい。今日、僕の右で足マッサージを受けていた男は終始、スマートフォンから中国語の音声を消さずに動画を見ていた。
“CHAMONPOND”からワンカムホテルの手前まで来て賑やかな声に空を見上げると、そこには大変な数のツバメが飛び交っていた。正に夏、そのものである。
サナムビーン通りでの飲酒喫飯を終えて、ふたたび盛り場に戻る。そしてきのうとおなじく、そこからすこし外れたところで客待ちをしていたトゥトゥクに声をかける。料金は100バーツ。
ホテルに戻ったのは19時ごろ。ロビーのエレベータ前にはドゥシット時代からのオジサンがいた。このオジサンは、お土産屋で売っているような少数民族の服を着て、ただエレベータの「開」スイッチを押すだけのためにここにいる。しかし僕はこのオジサンの姿を認めるとなぜか嬉しくなって、日に一度はチップとして20バーツを手渡す。AI時代に淘汰されないのは正に、このオジサンのような人ではないか。
部屋に戻ってシャワーを浴び、19時台に就寝する。
朝飯 “THE RIVERIE BY KATATHANI”の朝のブッフェ其の一、其の二、其の三
晩飯 「ジャルーンチャイ」のパッマクーワ、ムーグローブ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.3.3(月) タイ日記(7日目)
目を覚ましたのは1時30分のころ。いつも通りである。しかし今日ばかりはそのまま寝転がってTikTokを眺めたりしているわけにはいかない。早々と荷作りを始める。
ラオカーオはいまだ3本が残っている。その体積と重さを減ずるための空のペットボトルは家から500ccのもの1本、別途、往路のタイ航空機の中で支給されたミネラルウォーターの350ccのもの2本を、後生大事にクローゼットの上の、天井にちかい棚に置いておいた。それがなんと、きのう、部屋掃除のメイドに捨てられてしまった。
そういう次第にて、3本のラオカーオのうち2本は、きのうの夜から頑張って飲んだ部屋のミネラルウォーターの空きボトルに移した。しかし1本は、瓶のままスーツケースに収める。
04:38 IKEAのトートバッグにこの2日間の洗濯物を入れて部屋を出る。
04:45 ホテルから徒歩2分の”Neko wash & dry”で洗濯機の設定を完了。冷水による30分間の洗濯は、深夜料金にて30バーツ。きのうおとといより気温は明らかに高い。
05:14 ふたたびコインランドリーへ行く。洗濯機には「あと1分30秒」の表示が出ていた。それが止まるのを待って、洗濯物を備えつけのカゴで乾燥機まで運ぶ。乾燥機の料金は昼とおなじ50バーツ。
05:52 みたびコインランドリーへ行き、既にして止まっている乾燥機から洗濯物を取り出して、ホテルに戻る。
06:25 とりあえずの荷作りを完了する。洗い上がったばかりのTシャツ2枚は生乾きながら、仕方がない。
07:30 朝食会場に降りる。プールサイドの景色を楽しむため、ロビーや食堂のある1階と部屋のある2階との行き来は、エレベータではなしに、かならず階段を使う。
気温の上がる10時にプールサイドに降りて「続百体の過客」の上巻を読む。時代は江戸の最後期から明治の初期に入り、きのうまでとは異なって、ページの捗ること疾風の如くだ。理由は、ドナルド・キーンの採り上げるいにしえの人の紀行文が、国内から国外へと場所を移したことによる。
活字を追えば時を忘れるから、iPhoneのアラームを11時30分に設定しておいた。それが鳴ると同時に寝椅子から降り、バスタオルを指定のカゴに入れて、部屋に戻る。シャワーを浴びて服を着て、サンダルはスーツケースに納めたから靴下と革靴を履く。11時50分にチェックアウト。正午に予約したタクシーは11時59分に、ロビーの玄関に横付けをされた。
2009年からたびたび使っている、以前はドゥシットアイランドリゾート、現在はザリバリーバイカタタニと名を変えた川沿いのホテルには十数分後に着いた。タクシーの料金は200バーツ。運転手には40バーツのチップ。
僕がここに直近に泊まったのは、コロナ前の2019年9月。ホテルの名は既にしてザリバリーバイカタタニになっていた。その内装の近代的になったこと、またプールサイドの充実振りには特に目を見張った。しかし人はとかく変化を嫌う。「良くなくなった」という声も聞かないではないけれど、僕はその意見には与しない。
部屋までスーツケースを運んでくれるベルボーイがあれこれと説明をしてくれるので「ここには何度も泊まっています」と伝える。「いちばん最初は2009年」と続けると「それではドゥシットの時代から」と問われたので「はい」と答える。ベルボーイには50バーツのチップ。
移動用のズボンを普段のものに穿き替え、革靴をサンダルに履き替える。そうしてこの街に入って3日目に調べておいたちかくの食堂を目指す。「ちかくの」とはいえ、ホテルの敷地を出るには、広大な庭を数百メートルほども歩く必要がある。食堂から戻ったらシャワー。朝は肌寒くても、日中の暑さは日本の盛夏と変わらない。
午後はプールサイドに降りて本を読む。そのうち日除けのパラソルだけでは太陽の直射を避けられなくなって、ランナー風のあずまやに逃げ込む。木製の椅子の座り心地は悪くなかった。なにより川風が心地よい。まったく極楽ではあるものの、旅の中日はとうに過ぎているのだ。
ところでこのホテルとナイトバザールのあいだ2キロメートル強を往復しているシャトルバスの時間は、ホテル発が17:00、18:00、20:00、21:00、22:00。ナイトバザール発は、各々の15分後だった。しかしチェックインのときに求めた現在の時刻表では、合理化なのだろう、17時の便が消えていた。仕方なく18:00発のそれに乗って街へ出る。片道の料金は60バーツ。
先ずは200メートルほどを歩いてマッサージの”PAI”へ。本を持参し忘れたのは痛かった。フットマッサージを1時間。オバサンには50バーツのチップ。車道から50センチメートルほども高い、ウィアンインホテル前の歩道を歩いてナイトバザールの入口まで戻る。時刻は19時20分。
これまでより2時間30分ほども遅い到着により、黄色い椅子とテーブルのフードコートは満席に近かった。ステージにも人がいて、僕が席に着いたときには、歌手がひとりギターを弾きつつフォークソングを歌っていた。彼が去った後は、聞き慣れているいつもの曲に合わせての、民族衣装を着た5名の女の人による踊りが始まる。ちかごろこの踊りを見ていなかったのは、僕の夕方の時間が以前にくらべて早くなったから、ということにようやく気づく。
食後はナイトバザールで社員へのお土産を買う。買い物は得意でないものの、布製品を売る店のオジサンは、2割ちかく安くしてくれた。おなじ品物が、首都の空港の制限区域内では”SPECIAL PRICE”などと札を付けられて、数倍の価格で売られているのだ。
盛り場を外れたところで客待ちをしていたトゥクトゥクのオジサンに声をかける。どれだけ吹きかけてくるだろうかと身構えていたものの、オジサンの言い値は2017年の秋とおなじ100バーツだった。勿論、地元の人は、それよりずっと安く使っているだろう。
部屋へ戻ってシャワーを浴び、以降のことはよく覚えていない。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「カオソーイタオゲーエック」のパッガパオムーカイダーオ
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのチムジュム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2025.3.2(日) タイ日記(6日目)
鳥の声に気づく。時刻は6時21分。「うかうかしている場合ではない」という気持ちになる。目を覚ましてから何杯目かの、しかし淹れたばかりの紅茶を慌ただしく飲む。半袖のTシャツ1枚では寒かろうと、木綿のセーターを首に巻く。そうして2階の廊下からプールサイドに続く階段を降りて外へ出る。
道のあちらこちらでは、人々の朝食のための屋台や露店が開店の準備に取りかかり、あるいは既にして商売を始めている。チェンライ病院をはじめとする病院群をひとまわりして戻ると30分が経っていた。
10時を過ぎたところでプールサイドに降りる。「百代の過客」が昨秋ほど捗らないのは、上巻にくらべて下巻が面白くない、ということではない。20時に寝れば夜中のうちに目を覚ます。以降はこの日記を書いたりして朝まで起きている。だからプールサイドでは本を腹の上に伏せたまま眠ってしまうことが度々あるのだ。
今日もそうして小一時間ほども眠る。子供の声が聞こえてくる。目を開けると隣の寝椅子には8歳と3歳ほどの白人の姉弟がいた。母親は「静かに話せ」といういうようなことを子供たちに言い続けている。僕は「気にすることはありません」と、その母親に顔と身振りで示す。
室町期から江戸後期までの日記や紀行文を集めた「百代の過客」の下巻は13時1分に読み終えた。それをしおにプールサイドから上がり、部屋に戻って外出の用意をととのえる。
自転車を借りて、先ずはきのうのフードコートへ行ってみる。南の国らしくその場所は開け放たれていたものの、日曜日だからだろう、すべての店は閉まっていた。そこできびすを返してパフォンヨーティン通りを北へ進み、途中で左に折れてジェットヨット通りに入る。そして行きつけの汁麺屋の脇に自転車を駐める。
タイ北部の麺料理「ナムニャオ」について、チェンライを幾度も訪ねている人たちのウェブ上の情報に「カオソーイポーチャイ」の名は無い。それは、この店のそれに丸い板状の納豆トナオヘンやニャオの花の芯が入っていない、つまり本格派ではないからではないか。それでも僕は、この店のナムニャオが好きだ。辛さに汗が噴き出す。価格は40バーツ。田舎の物価はまだまだ低い。
部屋を出る前に、チェンライに入ってからきのうまでに使ったお金を合計し、それを日数で割ったら700バーツ強だった。初日の両替で得た15,519バーツは、最終日まで保つだろう。そう考えたものの、汁麺屋の帰りに初日とおなじ両替屋”SUPER MONEY EXCHANGE”に寄る。換金率は初日より良い1万円あたり2,252バーツになっていた。部屋に戻ってバンコクの換金率を調べると、もっとも条件の良い店で1万円あたり2,265バーツだった。これくらいの差であれば「取りあえず使う分はチェンライで。首都で使う分はバンコクで」と、両替を二度に分ける必要は無いだろう。
午後は部屋で「百代の過客」の下巻に続く「続百代の過客」の上編を読み始め、16時がちかくなったところでロビーに降りる。そして自転車を借りてパフォンヨーティン通りを東へ進む。マッサージ屋の”PAI”ではいつものように足マッサージを1時間。オバサンには50バーツのチップ。
さてサナムビーン通りの食堂も、今日で3日連続となった。ウェブ上に見つけたメニュに「パッシーユー」つまり焼きそばがあったため、それを注文すると「ペッシーユー」とオニーチャンは訊き返した。「タイ人の発音だと、そうなるのか」と、首を縦に振った。ところが席に届いたそれは、アヒルの醤油煮をオーブンで炙ったものだった。「なるほどペッとはアヒルのことだったか」と得心をする。
それを平らげて次は烏賊の塩玉子炒め「プラムックパッカイケム」を注文する。烏賊はカタカナでは「プラームック」と表記をされるけれど、これを棒読みしても絶対に通じない。「プラ」の後は長音にせず「プラムック」。「ム」は上の前歯で下唇を噛みながら素早く発声する。タイ語の発音は容易ではないのだ。
帰りはきのうとおなじくナイトバザールの中を、自転車を押して通る。ホテルに帰り着いても、空はいまだ夕刻の色を残している。その空には旧暦2月3日の月があった。そして今日も20時より前に寝に就く。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「カオソーイポーチャイ」のバミーナムニャオ
晩飯 「ジャルーンチャイ」のペッシーユー、プラムックパッカイケム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)