2024.8.7(水) 伊豆治療紀行(27回目の1日目)
17時30分の閉店後は店の掃除やらキャッシュレジスターの締め作業などがあり、それらを済ませればすぐに自宅へ戻りたいから、メーラーを巡回させることはしない。よって夕刻以降に届いたメールに目が通せるのは翌日の早朝になる。そして今朝もいつものように、新しいメールをコンピュータに取り込んで逐一、確認をしていく。
「汁飯香の店 隠居うわさわ」へのご予約は、今月の10日と11日は既にして飽和をしている。考えてみれば、そのあたりはお盆休みに重なっているのだ。上澤梅太郎商店の本店も、9日の金曜日から18日の日曜日までは繁忙が続くはずだ。その10日間には、特に気を引き締めて望まなければならない。
下今市09:04発の特急「きぬ116号」に乗れば、北千住を経由して東京11:57発の「こだま723号」に間に合う。しかし今日の東京駅の切符売り場にはいつもの数倍の人が並んでいた。それでも人の多さは家族連れによるもので、行列の進みは速かった。混み合っていたのは切符売り場だけ、プラットフォームでは「のぞみ」が発着する番線のみで、こだまの車内は空いていた。その新幹線を熱海で降り、伊豆高原には13:57に着いた。
「伊豆高原痛みの専門整体院」のワタナベ先生は治療台にうつぶせになった僕のアキレス腱、ふくらはぎ、膝の直下を押し、次いで両膝の両脇を両手で掴んで「大丈夫」と言った。次は頭の方へまわり、首の両側を押して「優秀ですよ」と断定した。安心をする瞬間である。自分の身体の状態が良いことに対する安心ではない。「今日の治療は痛むことなく済みそうだ」という安心である。
いつもの焼鳥屋には10日ほど前に電話をした。珍しく留守番電話だったため、今日の日時を吹き込んだ。そうしたところ翌日に店主より折り返しの電話があって、都合により休んでいるという。だったら伊豆の初日の夕食はどうすべきか。伊豆は金目鯛が有名だ。しかしこう言っては何だが魚は海のちかくより東京で食べる方が美味い。
「もうガストでいいじゃん」と、その八幡野店の駐車場に入るとクルマの数はいつになく多く、店のガラス越しには待ち客が何人も見える。すぐに国道135号に出て脇道に入り、このあたりに特有の急坂を降りていく。伊豆高原の駅の海側には駐車場がある。レンタカーをそこに駐めて、徒歩で店を探そう。そう考えつつ伊豆急行の踏切を渡り、当てずっぽうに右に曲がると左側に良さそうなイタリア料理屋が目に付いた。即、1台分だけ残った駐車場に後進でクルマを入れる。
3卓のみの小さな料理屋は目を惹く設計で、天井は高く、しごく居心地が良い。「焼鳥屋さんが再開するまでは、晩ごはんはここにしよう」と、家内は満足そうだ。窓の外は、いまだ充分に明るい。
朝飯 茄子の揚げびたし、納豆、菠薐草のソテー、目玉焼き、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、若布と三つ葉の味噌汁
昼飯 「笹八」の爆弾おむすび、JAVA TEA
晩飯 「ボスコ」のグリーンサラダ、パン、アーリオオーリオペペロンチーノ、仔牛のカツレツ、チョコレートケーキ、Dourthe Beau Mayne 2020
2024.8.6(火) 早く起きさえすれば
目を覚ましたのは2時25分。枕頭のiPhoneを引き寄せると、TikTokの朝食動画に普段より多くのコメントが寄せられている。それらに逐一、返信をする。ごく希に、ではあるけれど、ひと晩に100ほどもコメントの付くことがある。意味不明のものを除いては、それらすべてに返信を付ける。僕の脳と人差し指は、それをまったく苦にしない。そんなことをしながら3時前の起床を果たす。
おといの日記はきのうのうちに書けているものの、最上部の画像が決まらないから「公開」はできない。きのうの日記も書き上げ、更に今日の日記もここまでを書く。
「日本の株も随分と安くなりましたので」と、証券会社の人が営業に来たのは先月26日のことだった。その人の推奨した3社の株価を調べてみると、以降の11日間で1社は25パーセント、2社は30パーセントの下落だった。なかなかどぎつい展開である。
5時からは、きのうの夜より準備をしてきた麺つゆの作成に取りかかる。それと平行して「汁飯香の店 隠居うわさわ」の、先週ご来店くださったお客様の情報をコンピュータに入力する。早く起きさえすれば、いろいろなことができるのだ。
昼食は素麺。本職の作る蕎麦つゆに比べると、僕の作る麺つゆは甘味が落ち着いていない。つゆ全体が堅固に構築をされていない。その原因は何だろう。かえしの段階から見直す必要があるかも知れない。
朝飯 カレーライス、胡瓜のぬか漬け、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、豆腐と万能葱の味噌汁
昼飯 素麺
晩飯 茄子の揚げびたし、鮭の天ぷら、万願寺唐辛子の網焼き、鶏肉のつくね、2種のなすのたまり漬、麦焼酎「こいむぎやわらか」(ソーダ割り)、メロン
2024.8.5(月) 次のおすすめ
週末はお客様の数が多くなり、売上げも高くなる、という点において嬉しい。月曜日は、またあたらしい週が始まる、という点において嬉しい。
釣り銭用として銀行で両替をする、5千円札の並券の質が急に落ちた。新紙幣の発行に伴う現象と思われる。よって先週の両替では、千円札も5千円札も新券にしてもらった。新券は複数枚が張りついて数え間違いの恐れがあるから、僕のように指の脂肪分の少ない者は、より気をつけて取り扱う必要がある。
「スタインベック、良かったよー」と日中、お客様にお声がけをいただく。スタインベックの「朝めし」は不朽の名作と考えるから「スタインベック短編集」は書籍部の棚に常備している。数週間前、お客様はそれをご自分で手に取られてお買い上げくださっていた。
「あと、お勧め、あるかな」と、お客様はおっしゃった。棚の中で一番の愉快痛快はアンソニー・ボーデインの「キッチン・コンフィデンシャル」と確信をしている。しかしスタインベックとは雰囲気が異なりすぎる。開高健の「ロマネ・コンティ・一九三五年」を引き出しお渡しすると、お客様は素直にそれをレジ場へお持ち下さった。正に”God Almighty, it’s good.”である。
初更、日光街道の、瀧尾神社から追分地蔵尊までの日光街道800メートルに3軒しかない飲食店のうちの町中華へ出かける。そのカウンターで、日本の株式相場が歴史的な大暴落を遂げたことを家内より知らされる。植田和男の読み違え、だろうか。あるいは確信的荒療治、だろうか。
朝飯 揚げだし茄子の胡麻和え、若布と茗荷の酢の物、ジーマミー豆腐の冷や奴、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、オクラの味噌汁
昼飯 茗荷のつゆの素麺
晩飯 「食堂ニジコ」のキュウリの辛子和え、ピータン、エビ玉、チャーシュー、冷やし中華、麦焼酎「二階堂」(ソーダ割り)
2024.8.4(日) 助かった
バックパックからショルダーバッグ、ポーチに至るまで、袋物が好きで、どうしようもない。「もう買うことねぇじゃねぇか」と自らを戒めても、新しい技術により新しいものが出てくれば、すぐに目が引き寄せられる。更には「大は小を兼ねる」ということに我慢がならないため、様々な容量のものを揃えて更に数が増える。4階から屋上へ上がる階段には、そのような袋物が積み上がっている。メルカリに出品して処分をするなどは、面倒でできない。
バックパックは現在、小さい順に”Eddie Bauer”の名作”3WAY PACK”、”GREGORY”の”HALF DAY”、そして同社の”DAY”の3種を使い分けている。不満は特に無い。
2ヶ月ほど前のことだっただろうか、北千住の東急ハンズで”WEXLEY”の”STEM ULTRA-LIGHT DAYPACK”を知った。そして実物を手に取ってみた。容量は上記グレゴリーの「ハーフデイ」よりすこし小さい17リットル。何よりその軽さに驚いた。
以降、ウェブ上でためつすがめつしつつ、今朝はその紹介動画をyoutubeで見た。その結果、欲しい気持ちは急速に萎んだ。理由は収納部分の多さにある。内側が細かく仕切られたバックパックは、いかにも親切そうに思われて、しかし僕には使いづらい。どこに何を入れたかを忘れてしまうことに加えて、使われない部分が必ず出てくるからだ。
グレゴリーの、特に「デイ」は使い込まれて生地も腰を失いつつあるけれど、もうすこし使い続けてみることにしよう。「助かった」である。
朝飯 茄子の揚げびたし、生玉子、刻みオクラを薬味にした納豆、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、茗荷と若布の味噌汁
昼飯 春日町1丁目の納涼祭でいただいた焼きそば
晩飯 トマトのサラダ、カツ煮、ごぼうのたまり漬、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、麦焼酎「こいむぎやわらか」(ソーダ割り)
2024.8.3(土) 盆カレー
3時台の起床にもかかわらず、ウェブ上を逍遥するうち時刻は4時30分になってしまった。上澤梅太郎商店が運営する朝食の専門店「汁飯香の店 隠居うわさわ」の営業日には、家内は5時に食堂に来る。おとといの日記は既にして「公開」をしたものの、きのうの日記にはいまだ手を付けていない。家内が来れば、何をさておいてもテレビの電源を入れるだろう。うかうかしている場合ではない。
ところで今早朝にウェブ上で行き当たったコンテンツのひとつに「ASEAN美食ランキング」というものがあった。ASEAN諸国に駐在員として長く滞在し、あるいは周辺諸国への出張を頻繁に繰り返した作成者によるベスト10の10位はミャンマー、1位はタイだった。2位のベトナムからは反論が頻出しそうである。3位の「伏兵」ラオスは僕には未経験の国で、行ってみたい気持ちは多いにある。羽田からルアンパバーンまでの所要時間は、チェンライへのそれとほとんど変わらない。ちと考えてみることにしよう。
前述の「汁飯香の店 隠居うわさわ」に話を戻せば、定番のおかずに今日からカレーが加わる。昨日、家内はその仕込みのため18時すぎまで厨房にいた。盆カレーとはいえ8月末まで提供するという。この土日月の三営業日に残りが出れば、僕も食べてみたいと強く思う。
朝飯 納豆、ジーマミー豆腐の冷や奴、刻みオクラの鰹節かけ、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、茗荷と若布の味噌汁
昼飯 「ふじや」の冷やし味噌ラーメン
晩飯 トマトと玉葱のサラダ、“Domino’s Pizza”のドミノ・デラックス、Chablis Billaud Simon 2018、チョコモナカジャンボ、Old Parr(生)
2024.8.2(金) おしなべて
実務の役に立たない活字は読めない、という人がいる。教科書、教則本、取扱説明書は読めても小説のたぐいは読めないのだという。僕は逆に、役に立つ本は読めない。正確に言えば、実務の役に立てることを目的として活字に向かうと、脳が「理解の扉」を閉じてしまうのだ。特に読めないのは取扱説明書で、だから家の空気調整器にはタイマーの機能があるものの、そしてそれはかなり便利なものと分かっていても、いまだに使ったことはない。
オートバイは通常、右手でスロットルと前ブレーキ、左手でクラッチ、右足で後ブレーキ、左足で変速機を操作する。だからその操縦はドラムの演奏に似て複雑な仕事になる。しかし僕はそれを取扱説明書により、ではなく、中学生時代にからだで、それも一瞬で会得したから苦労は無かった。
オートバイはホンダのTLR200を30年ほど前に手に入れた。最後に乗ったのは20年ほども前のことで、以降はほとんど手を触れないまま税金のみを払い続けている。廃車にしてしまえば良さそうなものの、面倒が先に立って、いまだ行動を起こせずにいる。
店の前の国道119号線や121号線を行き来するオートバイには、50年も前のものが珍しくない。50年前のクルマと今のクルマを乗りくらべてみれば、その差は歴然としている。オートバイもまた、おなじなのだろうか。それを訊きたい気持ちはやまやまながら、周囲のオートバイ乗りはおしなべて50年ほど前に開発されたオートバイに乗っているから、訊いても仕方が無いかも知れない。
朝飯 スペイン風目玉焼き、大根おろしを添えた納豆、刻みオクラの鰹節かけ、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、若布と大根の味噌汁
昼飯 納豆と胡麻のつゆの素麺
晩飯 ベビーリーフのサラダ、隠元豆のソテーとたまり漬によるソースを添えたビーフステーキ、チーズ、CHATEAU LAGRANGE 2005
2024.8.1(木) 素足に雪駄
僕の使っているデータベースソフトは仕事が速い。その代わり、ひとつ間違えると、大量のデータも一瞬で消してしまう。ソフト側は、僕が打ち込んだコマンドを受けて、これから何をしようとしているかを文字で知らせる。しかし当方は慣れもあって、それには目もくれず、あらぬ方向へ注意を向けたままエンターキーを叩いてしまう。それで今朝も3枚ほどのファイルを飛ばした。
今年の3月、アメリカの大きな金融機関が、これから1年間のドル円相場を四半期ごとに予想した。そのメモも、飛ばしたファイルの中にあった。あやふやな記憶をたぐり寄せてみれば、6月が155円、9月が150円、12月が145円で来春3月が140円だっただろうか。失ったデータは他にも数十件はあったものの、いずれも単純な興味として記録をしたものだから、雲散霧消しても大して痛痒は無い。
「日本の株も随分と安くなりましたので」と、証券会社の人が営業に来たのは先月26日のことだっただろうか。「随分と安く」なったとはいえ、どこまで下げるかは神のみぞ知るところだ。時代の転換点にもっとも強いのは、素足に雪駄を履き、耳に百円玉を入れて「どうでもいいから飲もー」と微笑んでいる人かも知れない。
朝飯 鮭の焼きほぐし、小松菜のおひたし、トマトサラダ、納豆、胡瓜と蕪のぬか漬け、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、大根と若布の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 トマトサラダ、枝豆、トウモロコシのソテー、ブロッコリーのソテー、和風ハンバーグステーキ、麦焼酎「こいむぎやわらか」(ソーダ割り)、西瓜
2024.7.31(水) すべての子供は
早朝に天気が良ければ、しばしば屋上に上がる。そして微風に吹かれる。夏の朝の空は、ことに美しい。しかし「東京物語」で笠智衆の歎賞したような夜明けには、ひと夏で何度も出会えないような気がする。尾道の高台から海と街を眺めつつ「今日も暑うなるぞ」と、笠智衆はつぶやく。そのころの暑さにくらべて、今の暑さは気温にして10℃は高いのではないか。きのう県南の佐野市では41℃を記録したという。
日中、両親と3人のお子さんがお客様として店に入っていらっしゃる。長男は活発らしく、外へ出て犬走りを右へ左へと走っている。一方、次男は書籍部の棚から児童書を取り出し、しゃがんでそれを読み始める。その姿勢に疲れると、本を持ったままお客様がお茶をお飲みになるベンチに移動し、ふたたび本を開いた。本は売りものである。一方、子供のページを繰る手は丁寧でない。内心おだやかではないものの、本の好きな子供にそれを中断させることも気の毒に思われ、しばらくは黙っている。「買って差し上げたらいかがですか」とご両親に進言するのも、なにやら押しつけがましく感じられる。しかし遂にご両親にはその本が売りものであることをお伝えし、子供さんには注意を促していただく。
夕刻ちかくに、これまた両親と3人のお子さんが、お客様として店に入っていらっしゃる。らっきょうのたまり漬の試食をお勧めすると、お父さんのみがそれをお取りになった。長女と弟はお母さんと一緒に店の中を歩きはじめる。次女のみがお父さんを追って、休憩場所の方へと歩いて行く。
その、小学4年生くらいの次女にも、らっきょうの試食を勧める。女の子はすこし躊躇った後、それを受け取った。「チャレンジだね」と、僕は声をかけた。
会計をされようとしているお母さんの側に、先ほどらっきょうのたまり漬を試食した女の子が立っている。女の子の視線はどうも、僕に向いている気がする。しかし僕は、キャッシュレジスターのディスプレイを人差し指でタップすることに神経を注いでいる。女の子は家族と共に店を出ようとしながら僕を振り向いて手を振った。即、僕も手を振り返す。
すべての子供は幸せになるべき。そしてできるだけ長生きをして欲しい。
朝飯 揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、納豆、茄子の揚げびたし、トマトサラダ、鮭の親子漬け、水茄子のぬか漬け、メシ、若布と小松菜の味噌汁
昼飯 生玉子と胡麻のつゆの素麺
晩飯 手巻き鮨、「小林酒造」の「鳳凰美田剱」(冷や)
2024.7.30(火) 夏であれば
早朝、4階の南東に面した窓と、北西に面した窓を開け放っても、食堂に風は通らない。しかし冷房をかけるほどの蒸し暑さでもない。試みにシャツを脱ぎ、上半身はだかの状態でコンピュータに向かってみる。とても気持ちが良い。
6時30分に家内が来て、なぜ裸でいるのかと訊く。シャツを着て冷房を入れれば良いではないかという。僕としては、夏の朝の空気を楽しみたかったのだ。9月も彼岸を過ぎれば秋風が吹く。それまであと2ヶ月。貴重な夏、である。
と、ここまで書いて「空気ということばにもいろいろな意味があるな」と考える。上記の「空気」は肌に感じる物理的なものだ。動植物が呼吸をするためのそれも物理的なものだろう。山本七平の「空気の研究」の「空気」は、また別のものだ。それとはまた別の「空気」を感じたのは、インドのヴァラナシで、だった。夜、郊外のひとけの無い道を歩きながら感じた空気は、まるでゼライスの海を泳いでいるような濃さだった。「なぜタイばかりへ行くのですか」と訊かれると「あの国の空気はユルいんですよ」と答える。この場合の「空気」は、またまた別のものだ。
日記の文章部分は書けていても、最上部に置く画像を用意できないために更新ができない、ということがしばしばある。このところは空のそれが続いている。夏の空、夏の雲が好きなのだ。「夏であれば、すべてよし」というところが、僕には、ある。
朝飯 鮭の昆布巻、納豆、小松菜の胡麻和え、牛蒡と人参のきんぴら、らっきょうのたまり漬、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、蕪と胡瓜のぬか漬け、メシ、オクラと若布の味噌汁
昼飯 揚げだし茄子と胡麻ののつゆの素麺
晩飯 トマトと玉葱のサラダ、パン、スパゲティミートソース、チーズ、Chablis Billaud Simon 2018
2024.7.29(月) ところのもの
「しばしばするところのもの」という、これは文節なのか、それより長い単位なのかは分かりかねるが、とにかく一昨日の日記には、その文字の連なりがある。僕が中学生のころ、関係代名詞を含む英文の和訳には上記の「ところの」という、聞き覚えのない表現がかならず用いられた。今はどうなのだろう。
試みに”the pen which I use everyday.”とGoogle翻訳に入れてみる。「私が毎日使っているペン。」と、たちどころにその和訳が現れる。「私が毎日使っているところのペン」とはならない。ということは、英語の教師が使っていた「ところの」とは、そのころの教育に限られたものだったのだろうか。
自分の旅の最中の英語を思い出してみれば、関係代名詞は見事に使わない。本来であればそれを入れるべきところでも、面倒だから飛ばして話す。それで通じてしまうのだから、仕方が無い。
神保町の岩波ビルの上階にあった英会話学校に通っていた20歳のころのこと。エレベータに乗ると、英国人の講師ふたりが”eny”を使うべきところに”some”を用いていて、いささか驚いた。驚いたとはいえ僕は楽な道へとは進まず、その後も”some”と”any”は使い分けている。あるいは上記のふたりは英語を母語とする人にのみ共通する感覚で、自然と”some”を選んだのかも知れない。
数年前までは、英語やタイ語の教則本を買うこともあった。しかしいずれも8、9ページから先へは進めないまま本棚の肥やしになっている。
脳の中に、英語の単語や表現は、もはや増えない。タイ語はいまだ、すこしは入る。入れないことには、特に田舎においては、行きたいところへ行けない、食べたいものを食べられない、ということが起きるのだ。
朝飯 茄子の揚げびたし、隠元豆の鰹節かけ、納豆、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、大根と若布の味噌汁
昼飯 揚げだし茄子のつゆの素麺
晩飯 隠元豆の胡麻和え、南瓜の甘煮、茄子の揚げびたし、牛蒡と人参のきんぴら、ミートローフとピーマンのソテー、メシ、梅干、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん}、「小林酒造」の「鳳凰美田剱」(冷や)