2025.2.27 (木) タイ日記(3日目)
きのうのチェンライの空には、ほんのすこしのあいだしか晴れ間は見えなかった。しかし今日は朝から快晴らしい。「らしい」というのは、部屋の窓からは、空のほんの一部しか窺えないからだ。晴れているなら散歩がしたい。
上はユニクロの半袖Tシャツ1枚、下はワークマンのスポーツブランド”FIND OUT”のゴルフ用パンツ、足元は素足にKEENのサンダルで外へ出る。すこし肌寒い。ということは、気温は20℃そこそこだろうか。
ホテルのあるルアムチッタウェイ通りからパフォンヨーティン通りに出ようとする右側に、コインランドリーを見つける。様子を見てみようとしてサンダルを脱いで上がる。するとオバサンが出てきて熱心に説明を始めた。オバサンは英語が話せたので「あした来ます」と答えると、オバサンはニッコリと笑った。しかし落ち着いて考えて、洗濯は明後日の朝にするのがもっとも合理的と気づく。
南の国に来て嬉しいことのひとつは、植物が大きく育つことだ。戸外で見ることのできるそれは元より、ホテルに戻り、部屋のある2階への階段を上がりきったところに置かれた観葉植物も、しばし立ち止まって観察をする。
朝食を終えて10時を過ぎるころ、プールサイドバーにファランの3人組のいることを、部屋の窓から認める。いまだ泳げる気温とも思えないけれど、とにかく彼らは元気だ。滞在しているホテルのプールはこぢんまりとして、置かれているデッキチェアは少ない。部屋着のバスローブを慌てて過ぎ捨てて、Patagoniaのバギーショーツを穿く。そうして午後に到るまで本を読んでからプールサイドを去る。
現在はナイトバザールから900メートルほど南に滞在をしているが、来週からはコック川に面した、つまり街の中心から離れた場所に移る。2017年までは、そのホテルにいても、昼食のため3キロメートルや4キロメートルを歩くのは平気だった。しかし次に泊まった2019年にはそれが億劫になり、朝食をたっぷり摂って昼は抜くこととした。今回は、ちかくで昼食の食べられるところを探しておこう。そう決めて、きのうに引き続いて自転車を借りる。
ルアムチッタウェイ通りからサナムビーン通りに出て東へ進む。自転車はプラスティック製のペダルが割れ落ちて、その部分がただの棒になっている。そのせいか、1キロメートルほども走ると疲れてきた。しかし引き返すわけにはいかない。川沿いのホテルにほどちかい、つまりワットプラケオやオーバーブルック病院にちかいカオソイ屋までは、2キロメートル以上の道のりがあった。この街に来てはじめてかいた汗を、尻のポケットから出した手拭いで拭く。
ふたたび棒状のペダルを踏んでホテルに戻る。平坦な地形だけが助けである。気温は多分、35℃くらにまで上がっているのではないか。気温のメリハリは嫌いでない。額の汗にできるだけ触れないよう注意をしながらTシャツを脱ぎ、シャワーを浴びる。以降はプールサイドには降りず、部屋の安楽椅子で本を読む。
16時になりかかるころにふたたびホテルを出てパフォンヨーティン通りを北上する。今日こそは、通いつけの”PAI”で1時間の足マッサージを受けることができた。料金は200バーツ。オバサンには50バーツのチップ。
ナイトバザールの両側のお土産屋は、17時ころから商品を外へ出し始める。その奧のフードコートで玉子焼きを肴にラオカーオのソーダ割りを飲んでいると、ガードマンが来て何ごとか言う。ワケが分からずにいると、ちかくの店のオニーサンが「ウイスキーも買ってもらわないと」と、ガードマンの代弁をする。
確かにフードコートのそこここには、食べ物や飲み物の持ち込みを禁ずる張り紙がある。ソーダと氷を買えば問題無しと考えていたが、僕の行いは確かに違反である。仕方なく220バーツで買った”Sang Som”の小瓶を免罪符のようにテーブルに立てて、そのままラオカーオを飲む。ちなみにここの飲み物売場にラオカーオは置いていない。数十年ほど前までの日本では、産地を除いては、焼酎は馬鹿にされていた。タイ人のラオカーオへの視線にも、それとおなじものがある。
フードコートには、きのうよりも長くいた。ふと目を上げると空は随分と暗くなっていた。クルマが移動手段の普段からは考えられないことだが、900メートルの道を歩いてホテルへと戻り、シャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 “NAI YA HOTEL”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「カオソーイタオゲーエック」のカノムジーンナムニャオムーサップ
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのカイジャオムーサップ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)