2025.2.21 (金) 伊豆治療紀行(33回目の2日目)
人間の、三大欲求を除く欲望は、すべて情報によって喚起される。2009年から探し続けた理想のブーツを見つけたのは今年のはじめ。インターネット上で、だった。以降は機会あるごとにそのブーツについて調べ、そしていよいよ今日、それを買うところまで来た。
きのうの就寝は21時前。日付が変わってしばらくすれば目が覚める。枕元に読書灯はなく、洒落た間接照明のあるばかりだ。よって本は開かずに、コンセントに繋いだままのiPhoneを引き寄せる。
真っ先に開くのはTikTokだ。先ずは「梅太郎」のアカウントの直近の動画の閲覧数をざっと眺め、付けていただいたコメントすべてに返信をする。以降は上から流れてくる「おすすめ」の動画を見ていく。しばらくすると「モノを欲しがる人と欲しがらない人とでは、幸福度においては後者の方が圧倒的に高い、という調査結果が出ている」と、一部では有名らしい人が述べていた。
ウェブ上の「調査結果」がどれほど信用に足るかは不明ながら、そう言われてみれば、そんな気もする。そして、前述のブーツを欲しいと思い始めてからきのうの夜までに幾度となく浮かんだ「別段、そんなものがなくても、一向に困りはしないだろう」との考えが、ふたたび脳に現れてきた。
そのブーツは、新品のときにはいかにも野暮ったく、少なくとも100日ほどは履く必要がある。「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンから「現金に手を出すな」のジャン・ギャバンほどの渋さに育てるには、更に900日ほどは慣らす必要がある。今の僕に、それほどの時間が残されているだろうか。
「伊豆高原痛みの専門整体院」の、今日の治療は背中と腰と膝の後ろ側。きのうの診察により問題なしとされた膝の表側には一切、触れられなかった。この整体院では、電子ペンによる施術が終わると別室の寝台にて患部に低周波が流される。今日はうつぶせになった腰と膝の裏側に電極を貼りつけられた。そしていざ電源が入れられると、右膝の後ろ側に我慢できないほどの衝撃が走った。その旨を伝えると「大丈夫」と、先生は次の患者の待つ施術室に入ってしまった。
それにしても痛い。一度は大声で先生を呼ぼうとしたけれど、それも気が引ける。そうして1、2分のあいだ耐えていると、痛みはやがて我慢できるほどに落ち着き、しまいにはそのまま眠ってしまった。
整体院を去ったのは10時20分。城ヶ崎海岸までの急坂を下る、先ほどまで膝の裏側に低周波を流されていた右のふくらはぎが、好転反応なのか何なのか、引きつったように痛い。今朝、というか午前2時ごろに見た動画の印象に、そのふくらはぎの特殊な感じが加わって「ブーツを買うことは、今日のところは止めておこう」と決める。欲望をかき立てる元が情報なら、欲望を霧消させるのもまた情報、ということだ。
熱海から乗った新幹線を品川で山手線に乗り換えて新橋に到る。床屋はこのところ、予約をしてから訪ねることにしている。雑居ビルの中の大衆床屋には7人の待ち客がいた。予約料の500円は、いわば特急券である。新橋から神田までは銀座線で移動。かかりつけの皮膚科の午後の診察は15時からにて、それまでは遅い昼食を摂りつつ本を読む。
医療関係ばかりが集合したビルの上階にある皮膚科には何と「臨時休診」の札がかかっていた。湿疹のための軟膏は在庫があるものの、服用するための抗アレルギー薬は底を突きつつある。だったら明日、日光の皮膚科にかかってみようか。しかしおなじ薬を処方してくれるかどうかは分からない。
そのまま街を歩いていると、しもた屋風の家の壁に未知の皮膚科のポスターが貼られていた。そのQRコードをiPhoneで読んでみれば、場所はそれほど遠くない。よって電話を入れるとその病院はインターネットや電話で予約のできる仕組みになっていて、初見の患者は長く待つことになるという。それでも面倒なことは、明日より今日のうちに済ませておきたい。
その皮膚科のドアを押してから僕の名前が呼ばれるまでには、1時間30分ほども待つ必要があっただろうか。先生は意外にも若い女の人だった。「薬さえもらえれば他に用は無い」とばかりにズボンの裾をめくると、服を脱ぐよう言われる。冬の服をすべて脱ぐのは面倒だ。ズボンのベルトを緩め、シャツをめくり上げて背中を見せると「あらー、こんなに」と先生は悲鳴と歓声の入り交じったような声を漏らした。いささか大げさではないか。
促されて入った別室では、これまた小柄で若い、とてもではないけれど看護婦さんには見えない女の人がゴム手袋の上にヘラで大量の軟膏を盛り上げた。「えっ、そんなに塗るんですか」と出かかった言葉を思わず飲み込む。仕事を厭わないその看護婦さんにより、僕の両脚は軟膏でベタベタになった。
外は既にして暗い。できるだけ早く、日光への下り特急の出る駅に移動すべきだ。そう考えて北千住へ直行し、次の特急まではそれほどの間もなかったから、立ったままで飲み食いのできる店の暖簾をくぐる。
朝飯 「ホテル亀の井伊豆高原」の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「ドトール」のトースト、コーヒー
晩飯 「天七」の串カツあれこれ、日本酒「大関」(燗)、チューハイ