2024.9.28 (土) タイ日記(3日目)
目を覚ましたのは3時台。起きたのも3時台。朝食までには間があるから、早朝には持参のコンソメスープを熱湯に溶かして飲む事が多い。
きのうの日記に片をつけたところで部屋のある3階から階段を昇って屋上に出る。なぜか東ではなく、南の雲が紅い。置かれた複数の洗濯機は、館内のリネン類を洗うためのものだろうか。このホテルの客室部分は3階までにもかかわらず、表の通りからは4階建てに見える。屋上に出てはじめて分かったことだが、4階部分は看板状のハリボテだった。
ハリボテといえば聞こえは悪いけれど、古い本体部分は残したまま外壁をモダンに飾り、庭にスイミングプールと食堂を新造し、客室は徐々に改装していく経営の手法は手堅く、また鮮やかだ。
8時13分よりプールサイドに降りる。10時43分までのあいだに「昨日の戦地から」の359ページから382ページまでを読む。ページが捗らないのは、僕の遅読癖に加えて、文中のあれこれを、脇道へ逸れつつスマートフォンで調べることによる。
きのうの夜は月も星も出ていなかったにもかかわらず、今日は朝からとても天気が良い。早いうちにプールサイドから引き上げたのは、あまりに暑かったからだ。
その炎天下に、帽子と紫外線防止用のメガネを身につけ出て行く。途中、ジェットヨット通りの貸しオートバイ屋に”Bicycle”の文字を認めて眺めていると、店主らしい女の人に声をかけられた。店の外にはオートバイ。自転車は店の奥に3台ばかりがあった。貸料は1日100バーツ。パスポートか1,000バーツを預かるという。とにかく徒歩では機動力が上がらない。営業は8時から18時まで、定休日は無し、ということまで確かめて店を出る。
昼食は、黄金の時計台のちかくに新しくできたガオラオ屋で摂った。チーク材はタイではもはや採れず、近隣諸国からの密輸に頼っているとは、20年も前から言われていることだ。よってチークではないだろうけれど、それ風の木材を多用した広くて清潔な店には従業員もたくさんいた。ガオラオ、特に肉団子は美味くて大いに驚いた。チェンライにはコロナの最中、あるいは直後より作られたと思われる、洒落て清潔そうな店がとても目立つ。
ラオカーオの残りはいまだ800ccはあるものの、明後日には街から見て川向こうのホテルに移る。よってガオラオ屋の帰りに時計塔から北へ歩いた右側の酒屋で愛飲の”BANGYIKHAN”1本を買う。以前はナイトバザールのちかくにあって、お爺さんとお婆さんが店番をしていた酒屋を使っていた。その店を若い人が引き継いで移転したのが今の店と、街の人からは聞いている。酒屋は奥に飲食のための部屋を持つほどに拡大していた。
大汗をかきつつホテルに戻る。昼食のためだけに、2キロメートル以上は歩いている。午後は部屋で静かに過ごし、夕刻より”PAI”に出かけて、今日は足のマッサージを1時間だけ受ける。代金は200バーツ。オバサンには50バーツのチップ。マッサージのチップはコロナ前から、バンコクでは1時間あたり100バーツは渡さないと、良い顔をされないような気がする。しかし田舎の、それも観光客の来ない店では、いまだ1時間あたり50バーツで悪くないような、これまた気がする。
空はいまだ充分に明るかった。よってマッサージの最中に読んでいた「昨日の戦地から」を、ナイトバザール奥のフードコートでも開く。
明治維新という名の革命は、外様大名の、それもそれほど身分の高くなかった若いサムライたちが中心になって成し遂げられた。日本の戦後は、アメリカに押しつけられた、あるいはアメリカに助けられての、いわば外からの革命だった。当時25歳だったオーティス・ケーリは式場龍三郎の協力を得て高松宮夫妻と会談を重ね、天皇のあり方を自分の理想にちかづけようと働きかけている。これなどは、薩摩と長州のあいだで必死の周旋を繰り返した若きサムライを彷彿させる事実ではないか。
ホテルに帰り着いた時間は記録していないものの、20時より前だったことは確かだ。そしてシャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 “Blue Lagoon Hotel”の朝のブッフェ其の一、其の二、其の三
昼飯 “Saharodh Pork Blood Soup,Clock Tower”のガオラオ、ごはん
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのヤムママータレー、カイジャオ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)